第六章
1
ようやく。
ようやっと、最大級に張り詰めていた死の緊張が緩んでいくのが分かった。
「アユミ……」
「大丈夫、心臓はギリで外してあるから。ただし、銀は不浄を退ける。傷の所だけ体組織は普通に戻ってるけど、周りの筋肉は人間の何十倍でしょ、下手に力込めると自分で自分を引き裂くよ。別の姿への変身も命取りになるんで、そこんとこ忘れないように。後で闇医者にでも頼って患部を切除してもらうんだね」
途中からは僕じゃなくて、うずくまって顔をしかめているメスレエートの方に言ったみたいだった。
「そう、じゃない。殺さずに済ませてくれたのはありがたいけど。でも、最初に約束したはずだろ。僕も姉さんも、この場の全員を平等にぶん殴ってダウンさせろ……。そうすれば、万に一つも『変化(へんげ)』に惑わされる心配は……」
「ふんっ」
鼻から軽く息を吐いた妹が、ほとんど優しく撫でるのと変わらないくらいの力で、コツンと頭の上に小さなゲンコツを落としてきた。
「……おいっ、アユミ……」
「なに、まだやる?」
くそっ、僕の方から説教してやりたいくらいなのに、体が思うように動いてくれない。
こっちはまだあいつにやられた衝撃が抜けない。というか、一日二日で何とかなるものでもないのかも。感覚的にはもう軽くらいの自動車のバンパーで吹っ飛ばされたって感じがする。ともあれ壁に寄りかかったまま、震える指で目隠し拘束されたエリカ姉さんの方を指差した。
「……分かったよ。アユミ、とにかく姉さんを頼む。早く助けてやってくれ……」
「言っとくけどこの中で一番ダメージデカいのはお兄ちゃんなんだからね! ふぐう。銀でやられた人狼よりもだ!!」
なんだかんだ文句を言いながらもひとまず指示には従ってくれるのが、ゾンビの妹の美点だと思う。考えるより先に手を動かすが極まっているのだ。
そして助け出された姉さんも囚われのお姫様はやめたらしい。
てか怒ってる。
フライのヤツ、何が力と美意識のバランスだ。思いっきり恐怖のカタマリじゃないか!
「……サトリ君。今回は不覚にも捕まってしまった私の方にも非はあるんですけど、だからと言ってここで遠慮すると際限なく脱線していきそうなので敢えて恥は捨ててみますね? 今からとても大事な事を話すので、ようく聞いてください」
腰を折り、ずずいと顔を近づけて、姉さんは滅法至近から僕の目を覗き込んでくる。
「ねえさ、」
「聞け」
目を逸らせる雰囲気じゃなかった。
メスレエートが目隠しまでしていたのは、もしかしたら支配者の眼光に気圧されるのを防ぎたかったんじゃないだろうか。
そして天津エリカは確かに言った。
「もしもサトリ君が理不尽に命を落とすような事があれば、私は、そしておそらくアユミちゃんも……躊躇なくあなたを噛みます」
「……、」
それは、もしもと前置きのついた話だとしても、重大な意味を持つ一言だった。
「さらに言えば、そんな歪な平穏を断じようとする者達全員と戦い、地上を不死者で埋め尽くしても構わない覚悟と想定で勝利をもぎ取りにいく。私達にとって、ようやく腰を落ち着ける事のできた天津の家とはそれくらい大切なものです。世の中には、カラミティの他にも人類滅亡の火種が存在する。これだけは、しっかりと覚えておいてください」
「ふぐう」
横からアユミも割り込んできた。
助け舟を出してくれる……なんていう話でもないようで、妹も妹で半ば呆れながら、
「ぶっちゃけお兄ちゃんいなくなったら、怒りで埋め尽くされたあたし達も歯止め効かなくなるだろうね。前のシミュレータの時はいがみ合ってたからあの程度だったけど、もしもあたし達が手を取り合って計画的に汚染を広げていったらどうなると思う? 光十字のやり方は最悪の一言だったけど、でもあれくらいやらなきゃ安心できないくらいの事情はあったんだよ」
冗談なんかじゃ……なさそうだ。
首を縦にも横にも振れない僕を見て、何故だか姉さんとアユミは納得したようだった。逆に肯定だろうが否定だろうが、安易に軽く流していたらぶっ飛ばされていた。そんな気がする。
「さてお姉ちゃん」
「何ですかアユミちゃん」
「結局そこのメスレエートはどっちだった訳? 正統派なの、それとも潜伏クラウド派?」
アユミが勝手に進めた話に、姉さんは頬にかかる髪を片手で払いのけながら、
「疑うまでもないでしょう? あれだけ自身が『本物』である事にこだわり続けた氏族の一角が、わざわざ自分から格を落としにかかるとでも思っているんですか?」
……まあ、だよな。
当初は一人だけ人狼だったから、なんて風にも疑っていたけど、メスレエートの東欧一三氏族としてのプライドは本物だった。あの東欧一三氏族でもその東欧一三氏族でもない、姉さん達と共に歩んだこの東欧一三氏族を愛していた。あそこに潜伏クラウド派の甘言が付け入る隙なんかなかったはず。スカウトマンなりエージェントなりがへらへら笑って正面から接近した時点で、迷わず急所をぶち抜いていたはずだ。
「ふぐう。じゃあこっちは空振りかあ。まあお姉ちゃんが無事だったから良かったけどさ」
「何言ってんだ、四対八のロシアンルーレットだぞ。あのフライだって敵方だった。そんな中で、ようやく腹の内を明かして背中を預けられる味方を引き当てられたんだ。これ以上の当たりはないよ」
僕の言葉に一番驚いているのはメスレエートみたいだけど、知った事じゃない。
罪は罪で、それは罰を伴わなくちゃならないのかもしれない。だけどメスレエートの罪は、元を正せば僕達が多目的ビルで敵味方の区別もつけず不用意に追い込んだから起きてしまったものだ。まして、あんなあそこまで暴走するほど『この』東欧一三氏族を誇りに思って愛していたんだ。
多目的ビルで他の吸血鬼達がバタバタ倒れた時、メスレエートは無防備な彼らにトドメを刺せたはず。最低でも大会議室に四人はいたんだから。でも実際にはそうしなかった。恨みがあって裏切っていたなら、ああはならなかったはずだ。
……あの罪なら、僕は笑って許せると思う。
むしろ一段落ついたら、僕達の方が頭を下げなきゃならないような。
もちろん、姉さんが無事だったって前提あっての後出しだけどさ。わざわざ自分から幸せを遠ざける必要なんかどこにもない。
2
メスレエートの件が落ち着いたからといって、それで全部終わりじゃない。東欧一三氏族に紛れた潜伏クラウド派についてはケリをつける必要がある。
「それじゃ多目的ビルのカレンの方に任せるのが妥当かな。マクスウェル、ビルの内線全部に片っ端からコール、どれかにカレンが出るはずだ」
『シュア』
相手が出るまでに呼び出し音が五回も鳴った。やはり神様、勝ち組っていうのは余裕がおありなようだ。
『はいはーい、カレンちゃんですよう。なんか発信元いじってますね?』
「こっちは無事に片付いた。メスレエートは白。そっちはどうなってる、神様ぶっ殺したい系の潜伏クラウドについて何か出たのか?」
『まあ怪しいのがちらほらと。前に言いましたよね、潜伏クラウドにアタック仕掛けるなら情報関係に強い人間を仲間に引き入れておきたいって。やるべき事が大体分かってきたんでとりあえずこの、何だっけ、スターライト供饗? とにかくビルまで戻ってきてくださーい』
……ぶっちゃけるとこっちは東欧一三氏族の中の汚染さえ取り除ければその奥にまで手を突っ込む必要はないんだけど、カレンは誰と誰が潜伏クラウド派だったかは話してくれない。きっと全部分かった上で交渉材料にしているんだ。
面倒だが、ここは従うしかないか。
「分かった」
『ほいほい。できるだけ早くお願いしますね』
通話を切る。
アユミと姉さんも顔を見合わせていた。
「お姉ちゃんはどうすんの? ふぐう、もう三時くらいだから、ここから長引くと日の出とかち合って家に帰れなくなるかもだけど」
「それはあの東欧一三氏族みんなに言えるので、ここで一人だけリタイアする理由にはなりませんよ。大丈夫、供饗市の地下には蜘蛛の巣みたいなトンネル網がありますから、その気になればどこからだって自宅には帰れます」
……とはいえ、普段テレビとレコーダーの配線にも難儀してネグリジェ一枚で泣きついてくる機械オンチの姉さんじゃあの分厚い扉の電子ロックは開けられないだろう。やる事リストの優先ラインに記憶しておかないとな。
ただ、
「メスレエート、アンタはそれとは別だ。ホテルか旅館か民泊かは知らないけど、今日のところは寝床に帰っておけ」
驚きと、それ以上に不満げな瞳が向けられたが、ここだけは曲げられない。
「銀でやられた傷口があるんだ。これ以上ドンパチの現場に連れていって無茶させる訳にはいかない。そいつを何とかするまでは後方支援だ、分かったな」
ぐる……という、人語とはまた違う、低い唸りがあった。不満そうだけど、ひとまず引き下がってくれたようだった。耳や尻尾の動きを見る限り、いきなりちゃぶ台ひっくり返す感じじゃない。
……実を言うとカレンも一〇〇%信用できる訳じゃない。ここにきて、ようやっと背中を預けられる切り札が手元に回ってきた。絶対にメスレエートは温存しておきたい。
と、前の大きく開いたロングスカートとぴっちりした黒革のズボンを組み合わせ、真紅のコルセットで大きな胸を強調した姉さんは口元へ黒い手袋に包まれた手を当ててくすくすと微笑みながら、
「あらあら。メスレエート、あなたもすっかりサトリ君に懐いてしまわれましたね」
「えっ? どういう事、姉さん」
「かの誇り高き『吸血鬼』は、元来人の放つ口頭命令になど応じませんよ。信頼を示すための度胸試しもなく口約束だけで下がらせるなど、私にもできません」
「? ???」
説明されてもいまいち実感は持てなかったけど、ようはこいつ、僕の話を聞いてくれるん、だよな?
とはいえもちろん東欧一三氏族としての知識は借りたい。何とも不思議な気分になるけど、永き時を生きた夜の貴族サマとアドレス交換をしておく。
負傷したメスレエートと別れて、僕と美しい姉妹は建物の外へ出る。
さっきも言った通り夜明けが近くなってきたのであんまり時間はない。そして廃工場敷地内をあちこち見て回ると、一体いつから置いてあるのか分からないボロボロの自転車を見つけた。
ここでちょっとした問題が起こった。
「ふぐう。お兄ちゃんが見つけた自転車は一台」
「そのように見えますね」
「でもってここには三人いて、後ろの荷台を使っても一度に乗れるのは二人まで」
「みたいですねえ」
ばぢっ、と見えない火花のようなものが散った、ような気がした。
「ふぐう! お姉ちゃんはコウモリとか狼とか好きなように変身して優雅についてくれば良い!」
「あらあらここは今まで人質やってたお姉ちゃんに譲ってくれてもよろしいんじゃないですか」
「吸血鬼は人間の二〇倍、ゾンビは一〇倍。あたしの方がか弱いの!」
「ランニング少女なら個性を活かしなさいな。サトリ君だって二人乗りで後ろに乗せるならおっぱい大きなお姉ちゃんの方がお徳ですよねー?」
「ふぐうふぐう! あたしの方が軽くてコンパクトなはず。お姉ちゃんみたいな大荷物乗せたら上り坂で地獄を見るよお兄ちゃん!!」
「……アユミちゃん、ちょっと裏に行きましょうか?」
「ああもうお姉ちゃんが大きいのは胸ばっかりじゃないもん例えばお尻だって……!」
「ちょっ、バッ、あわわ警告はしましたからね妹よッ!!」
何を揉めてんだか知らないが、ラチが明かない時はいつだってジャンケンに頼るのがこの国の流儀なのだ。
「「「じゃーんけーんぽん!!」」」
そんな訳で。
キコキコと自転車のペダルを漕ぐ音が深夜の住宅街に響き渡る。
「……はあ、ひい。何で自転車見つけた僕がマラソンしなくちゃいけないんだ。こういう体力勝負はインテリでクレバーな僕の担当じゃないよ」
「「……、」」
「あと勝ち組ども! 人が探し出した自転車奪って楽してんだから渋い顔すんな! 何だその全身から漂うコレジャナイ感は!?」
住宅街から駅前に近づくにつれて風景も変わってくる。この時間になれば、電飾の数に反して流石に行き交う人はかなり少なめだ。終電を逃したおじさんがあっちこっちで酔い潰れて眠りこけているのが分かる。
……職質されたらまずそうだ、と今さらながらそんな当たり前の話を思い浮かべる。まあ夜しか出歩けない吸血鬼の姉さんだけは、アークエネミーとしての身分証を提示すればフリーパスだろうけど。
駅前の多目的ビル・スターライト供饗へ地下駐車場経由で再び戻っていく。
今カレンが何階にいるのかは分からなかったけど、ひとまず大会議室のある最上階までエレベーターで向かってみる。
待ちきれなかったのかヤツは通路でうろうろしていた。
「ふにゃーっすサトリさん」
「……なんか余裕だな。正統派と潜伏クラウド派の割り出しって終わったのか?」
「そっちはすでに。一一人を一人ずつ個室に閉じ込めてこう囁けば問題なしです。……先に知ってる事を話したヤツが勝ち抜けだって」
「外道」
「まあ初手からストレートに裏切る人はいませんけどね! 万引きや痴漢と一緒で、こういうのはあらぬ疑いをかけられた人ほどしどろもどろになるものです。逆にあらかじめ想定して冷静に身構えるヤツの方がクサい。慣れてしまえば結構簡単に違和感は分かるものですよ?」
そりゃ数百年単位で人間観察してるこいつは蓄積してるデータの量が違うだろう。並の人間がやっても先入観と疑心暗鬼で魔女狩りモードになるだけだ。
ところが、潜伏クラウド派の集まっている方に案内されるかと思いきや、そういう訳でもないらしい。
カレンが開けたのは、誰もいない大会議室だった。
それなりに荒れた机の上に、振り込め詐欺グループ捕まえましたって感じでスマホやケータイ、タブレット端末なんかがずらりと並んでいる。
「これ、東欧一三氏族から取り上げたのか……? でも、それにしたって数が多すぎるような」
「そりゃあそうですよー」
ミニスカ鎧の未亡人(!?)はしれっとした顔で、
「お試し期間中なのは潜伏クラウドから見たって同じですもん。スカウトとしてはできるだけ有利な条件で早期締結したいところですが、土壇場で寝返って光十字みたいなハンター職にゲロってもらっちゃあ困る訳です。つまりまだあの東欧一三氏族はクラウドの輪の中にはない、今この段階で中枢にまで繋がるような痕跡は残したがらないはずです」
もちろん、デジタルデータを『完全に』消去する方法なんかない。中には好んで紙の便箋と暗号文を使い続ける輩もいると聞く。
「となると、潜伏クラウド側からコンタクトのあったデバイスは時間を置いて物理破壊されるって感じか」
「ランサムウェアの極悪版みたいな感じですかね。東欧一三氏族もそれが分かっていたから、あらかじめ安物のモバイルをいくつも用意しておいたみたいです」
言いながら、カレンはテーブルの上にあったタブレット端末の一つを無造作に掴んでこっちに投げてきた。向こうにとってはお気楽なのかもしれないけど、何だかんだでノートサイズなので結構怖い。
画面は見事に固まっていた。
潜伏クラウド派以外へのアクセスはできず、ハードウェアの物理破壊までのカウントダウンが続いている。
一回限りで、こちらからのアクセスを待っている状態だ。
「リミットは一時間くらいか……。マクスウェル」
『ノー。普通に逆探知した程度で潜伏クラウド派中枢に辿り着けるとは思えません。そもそもこちらは敵性が取り扱う防御・回避手段さえ予測がついていないのですから』
「心配すんなお前にそんなぶっつけ本番なんか期待してないよ」
『……、』
「ねえ自分から誘導しておいて首を縦に振ったらムクれるっていうのは難易度高過ぎると思うよ?」
『現在はオフライン、電波や赤外線の放射は確認されておりません。少なくとも、死んだふりしながらカメラやマイクで情報収集している訳ではないようです』
「ホワイトハッカーのアナスタシアとコンタクト。凍結処理したウィルスを送りつけて解析してもらうんだ。確か向こうの大学の研究室じゃあ、ブログ解析プログラムの応用で、データベース化したウィルスと類似するコードの癖や特徴をピックアップして製作者を絞り込むオモチャを作っていたはずだ」
『後は結果待ちですか?』
「お前に華を持たせてやる。会話パターン用のフローチャート準備、CC攻撃で行こう」
情報犯罪やハッキングっていうと得体の知れないプログラム言語が飛び交う世界の話に聞こえるかもしれないけど、連中の手口はそれだけじゃない。
例えばソフトウェア開発会社の相談窓口に電話をかけて、トラブルに巻き込まれて困った客のふりをしながらパスロック解除方法とか他人との共有設定とかの内部技術情報を引き出していく……なんて手を使うヤツもいる訳だ。これがカスタマーセンター略してCC攻撃。
これを参考にさせてもらうとすると、だ。
「お客様がいるな。潜伏クラウド派のスカウトが猫撫で声で顔色を伺いたくなるような誰か。初対面の僕じゃダメだ」
「あの東欧一三氏族の中で、すでに汚染が確定しているメンバーを引きずってきましょうか?」
「電話口での挑戦はぶっつけ本番の一発勝負だ。土壇場で裏切られて、罠だとか逃げろとか叫ばれても困る。もっと信用の置ける人物だと嬉しいんだけど……」
カラミティをわざわざ生み出して神様に一矢報いたい潜伏クラウド側が、喉から手が出るほど欲しい人材。それでいて僕達から見ても絶対の信頼のある人。
……自然と、全員の視線は一ヶ所で固定された。
「えっ? 私……ですか?」
当の本人、エリカ姉さんの方がキョトンとしているくらいだった。
でも僕達からすればこれ以上の適任はいない。東欧型クイーン級、一三氏族の中でも格別な重要人物。でありながら、同時に僕やアユミの家族でもあるんだから。絶対裏切らない。
「たとえは悪いけど、振り込め詐欺劇場みたいなものだ。姉さんはとにかく電話口で潜伏クラウドに興味があるふりをしながらスカウトを引き止め続けて。回答に困ったらイエスともノーとも言わない濁しで。状況に合わせて必要な質問や会話の切り返しは僕とマクスウェルで考えてカンペを出すから案内に従ってくれれば問題ない。マクスウェル」
『シュア。可能な限り相手の素性や逆探防止手段に関する質問をしれっと織り込んでおきます。単独では追跡不能であっても、敵の身内がペラペラ内情をしゃべった場合は話が変わってきますので。この会話劇で追跡のための足掛かりを作りましょう』
「は、はあ、よろしくお願いしますね……」
指示に従ってくれる姉さんだけど、何だか変に緊張しているっていうか、借りてきた猫みたいだ。基本的に何でもそつなくこなすパーフェクト姉さんのはずなんだけど、電話の向こうではいつもこんな感じだったんだろうか。
潜伏クラウドへのアクセス方法はシンプルだ。使い捨てにされたモバイルには元々タップボタンが一つしかない。
「じゃ、じゃあ始めます」
「うん」
マクスウェルに新規ファイルを作らせ、こっちもこっちでリアルタイムでフローチャートを構築していかなくちゃならない。
姉さんは黒い手袋の中指の先を小さく咥えて引き抜くと、ほっそりした白い人差し指の先でタブレット端末の画面に触れる。そして機材をそっとテーブルの上に置いた。念のため、レンズを塞ぐように外した手袋を乗せておいてもらう。
スマホやケータイじゃないからか、最初からスピーカーフォンしか対応していないらしい。相手の声を聞き取るのは容易いけど、こっちの物音を気取られるリスクも高い。楽観はできないぞ。
処理待ちのアイコンがしばらく点灯していたけど、それが不意に途切れる。
いよいよ始まる。
潜伏クラウドのスカウトとのラインが繋がったんだ。
3
タブレット端末からいかにも合成音声といった調子で、甲高い声が飛んできた。
『どちらにつくのが得策か、答えは出たか?』
いきなり姉さんがこっちへ視線を投げた。僕は僕で、自前のスマホをいくつか指先で操作してから姉さんの顔の前に小さな画面を突きつける。
……ここは嘘をついても意味はない。他人の端末を使って姉さんが出ている事を伝えて……。
「……それはこの機材の持ち主、エリザベート個人に対するご意見ですか。あるいはこの東欧一三氏族全体の舵まであの子が預かっているとでも吹聴されました?」
『……、』
「あなた一人が無言で切れば、その非礼を潜伏クラウド全体から東欧一三氏族全体への侮辱として受け取ります。問答無用の戦争をお望みですか?」
沈黙はそれでもしばらく続いたけど、マクスウェルの分析だとあまり意味はないとの事。呼吸の乱れやノートをめくる音などはないから、特に向こうは対応に困っている訳じゃない。こちらを焦らして平静さを見失わせ、主導権を握ろうとしているだけだ。
お化け屋敷は怖いけど、裏でこそこそ移動しているスタッフを見つけてしまえば雰囲気は壊れる。その程度では揺さぶられないぞ。
やがて。
ゆっくりと、合成音声はこう会話を再開してきた。
『あなたは?』
「エリザベート以外の誰か、とだけ」
『天津エリカ。東欧型クイーン級、か。これまた大物が出てきたものだ』
姉さんよりも傍で聞いていたアユミの方がギョッとして暗い窓の方に目をやった。
けど違う。
遠目からビルを観察して東欧一三氏族が僕やカレンの手で制圧されていると分かっていたら、そもそもコンタクトに応じない。
なら、スマホに表示して姉さんに見せるべき一文はこれだ。
……あらかじめこの東欧一三氏族の全メンバーがリサーチされていただけ。声の調子やエリザベートとかいうのを格下に扱える人間関係なんかから当てはまる人物を推測しているだけだ……。
姉さんは何やら不満そうな顔で片目を瞑り、むき出しの白い人差し指を左右に振っていた。どうやら格下扱いという言い草が心外だったらしい。
『しかし天津エリカだとすれば、他の仲間を押しのけて我々とコンタクトを取りたがるとは思えないが?』
「あなたにどこまで私が分かると言うのです」
『というと?』
「私の望みは第一に東欧一三氏族の持続と繁栄です。すでに何人書き換えられたか分からない状況で魔女狩りを始めても、奇麗に鎮圧できるかは未知数。不毛な共食いで足を引っ張り合って全滅するくらいなら、組織丸ごと母体を乗り換えてしまった方が良いとは思いませんか?」
真紅のコルセットで大きな胸を強調している姉さんがチラチラとこっちを見てくる。指示通りとはいえ、自分の口から出た言葉に苛立ち始めているみたいだ。静かに牙を剥くのやめて怖いっ!
『あなたの好みとは思えない』
「私の意見などどうでも良い」
鍔迫り合いのような言葉だった。
その間にもマクスウェルが起こり得る展開と切り返しを何パターンも網羅していく。並べられるリストの中から僕は一つを選んで姉さんにスマホの画面を突きつけていく。
……そろそろ本題に入ろう。
「この東欧一三氏族からの要求は一つです。あなた達が招いた組織の内紛を終息してもらい、代わりに母体をあなた方潜伏クラウドへ移す。それ以外に大切な仲間達の共食いを止められる方法はありません」
『我々に何をしろと?』
僕がスマホの画面を姉さんに見せると、
「……私は天津の家に留まるとして、一三氏族全員をホームステイさせる事は不可能です。よって彼らに次の住まいを提示していただくのが最低条件。さらに、移動ルートについても提供していただきたい。我々吸血鬼は、船で海を渡る際は棺桶に籠って貨物扱いになります。当然、ここを人権無視のハンター達に嗅ぎつけられては元も子もありません」
『共食いを直接止める手立てにはならなさそうだが』
「避難キャンプの法則が当てはまります。人は衣食住の提供者にはひとまず従うものですよ。もちろん、補給線が安定していればの話ですが」
『なるほど。ただし仕様書はそれなり以上に分厚くなるが』
「ネットボックス」
『ノーだ。民間のアップローダなど使えない』
「スカイメールやデータボトルは?」
『使い捨てアドレスだろうが、第三者の管理するサーバにデータが残るリスクは避けられない』
「ならどうしろと? P2Pファイル共有ソフトでも使ってじかにやり取りしますか」
『……その東欧一三氏族の中に、このマルウェアに感染していない正常なクランベリーフォンを使っている者は? それなら当局の監視の目の外、国境の埒外に漂う古い衛星携帯サービスが使える。地上のサーバー基地の代わりに衛星がデータ管理しているものだ。こちらがデータを送り、そちらが受け取った直後に衛星を乗っ取って大気圏で焼けば第三者の手元にデータは残らないだろう。後は追って指示を出す』
通話は途切れ、タブレット端末は完全に沈黙してしまった。CPUのクロック数を過剰に底上げされたか。何にしても、おそらくもう二度と動かないだろう。
これで良かったのか、そんな不安げな目でこっちを見る姉さんに僕は親指を立てつつ、
「マクスウェル、音声解析! 声のピッチを変えていても吐息や回答までの間は誤魔化せない。ヤツの焦りや緊張を洗い出せ!」
『シュア。ネットボックス、P2Pではそれぞれ違和感あり。一方スカイメールでは変調が見られません』
「ラストのクランベリーフォンは?」
『緊張なし。スカイメール以下です』
「……ふむ」
僕が考え事をしている横で、アユミが怪訝な顔をしていた。
「ふぐう。結局今ので何が分かったの?」
「何かが特定できた訳じゃないよ」
ここで嘘をついても仕方がないので、素直に報告しておく。
「でもヤツは明確に何かを避けた。その避け方にクセがあるって話」
「ふぐ」
「アユミ。シンプルに五教科で良いか。この中から三つ選んだ合計で大事な入試の合否が決まるって言われたら、お前はどれを選ぶ?」
「国語と社会と理科。できれば現文と地理と生物かな。あっ、でも英語は単語の穴埋めだけなら」
……ものの見事に丸暗記系ばっかりだな。
ただ、
「金髪の姉さんなら英語、数学、理科。この国の歴史や古文漢文は避けると思う。僕なら数学、理科、国語で、できれば化学と小論文かな。……つまり、何が得意で何を避けたがるかでも、そいつの個性は滲み出てくるものなんだ」
ぶっちゃけてしまえば、スカイメールだろうがP2Pだろうがリスクはゼロにできない。にも拘わらず緊張の強弱がはっきり見えたのは、潜伏クラウド側の技師の得意分野が偏っていたからだ。
今はもう学校でも体育のダンス感覚で簡単なアプリ開発を教えている時代だけど、それでもハッキングや情報犯罪に世界共通の教科書はない。基本的に独学かチーム内での技術共有がベースだから、どうしても知識の偏りや無意味な回り道は生まれてしまう。
そしてこの手の犯罪は世界規模で広がるネットを介しているから大きく見られがちだけど、実際には意外と狭い業界の話だ。この辺は窃盗団や結婚詐欺師なんかと同じ。ネットに触れるみんながみんな化け物って訳じゃない。
パソコンやモバイルは世界中に普及していて四〇億人以上が利用しているなんて報告もあるけど、わざわざ毎月基本OSの更新ファイルのお知らせが来るたびにソースコードを端から端まで覗きたがるアナスタシア級に酔狂な連中は、それこそバズーカみたいな一眼レフカメラやアマチュア無線の愛好家より少数派だと思う。こうして偉そうにしている僕だって、基本的にはマクスウェルに丸投げだし。
つまり、だ。
「この分野の腕一つで自分の居場所を作っているなら初めての犯行って訳じゃないはずだ。過去のサイバー攻撃を洗えば『類似する匿名の誰か』が出てくる可能性は高い」
思えば、必要以上に第三者運営サーバーに自分のデータが残るのを危惧しているのも、前科者が現場に指紋を残さないようやたら神経を尖らせる反応に似ていた気もする。
『アナスタシア嬢より返信です。ウィルスコードの記述を大学でまとめた過去一七万六〇〇八件の情報犯罪アーカイブと検索照合した結果、インド圏で猛威を振るうハッカー集団「バッドカースト」の特徴と一致したとの事です』
「……人口一〇億人超えの数学者の国か。坩堝だな」
『「バッドカースト」は不当な差別の解消と特権階級への富の集約の打倒を掲げるチームですが、推定容疑者はストリートチルドレンから財閥長者まで多種多様です。想定規模は五〇〇人から一千人弱。小さな町や村レベルですので、個人特定としてはまだ弱いですね』
「全員が全員優れたハッカー軍団って訳じゃない。マシンパワーを貸しているだけのDDoSゾンビ要員もたくさんいるだろ。攻撃を主導しているのは一部のエリート、英雄だ。ネットボックス、スカイメール、データボトル、P2P、クランベリーフォンで照合。得意と苦手の分野別に英雄様をふるいにかけてみろ。答えが出るぞ」
『……出ました。本名不明、通称はアバターヌル。ゼロの化身、数値や中身の設定されていない神、といった意味合いでしょうか』
「幽霊みたいに透き通った存在だから誰にも捕まえられないくらいの意味しかないよ、ただのジョークに気を取られるな」
アバターヌル的には潜伏クラウド派は副業のつもりなのか、あるいは逆にバッドカーストなど最初から隠れ蓑や待機中の手慰みくらいのものでしかないのか。
「それより過去の履歴を総ざらいだ。向こうの提案通りクランベリーフォンの衛星サーバーを利用しつつ、ヤツが最も気を抜くトラップを構築しなくちゃならない」
『アバターヌルは三年前に交換局のソフトウェアスイッチ固定制御にやられて、クルーザーに隠していたハック用サーバーシステムを特定、押収されています。いわゆる「すぐ電話を切ったつもりが切れていなかった」トラップですね。かろうじて本人の特定、逮捕は免れたようですが』
「……心理的な死角どころじゃない、基本中の基本だぞ。まったく独学は恐ろしい」
『灯台下暗し、という事なのでしょう。その後、銀行預金データ破壊や弁護士事務所攻撃の際にも似たような凡ミスを繰り返しています。こちらは間に一台、第三国のゾンビPCを挟んでいたおかげで難を逃れたようです』
痛い目を見て、本人は気をつけているつもりでも、それでも払拭し切れない悪い癖か。
使える。
「マクスウェル、予定通りソフトウェアスイッチでトラップ構築」
『確実にかかる手とは限りません。アバターヌルにとってはトラウマなので、最も警戒している凡ミスでもあります。バレたら追跡の足掛かりもご破算になりますよ』
「この地雷を踏むか踏まないかは分からない。半々じゃなくて確定情報が欲しい。それなら一つ確実な手がある」
僕は一拍空けてから、
「……地雷に土なんか被せなきゃ良い。最初から剥き出しで道端に置いておけば一〇〇%絶対に踏まないって確定させられるはずだ」
無駄なように思えるかもしれないけど、そうじゃない。露骨に見える、誰でも分かる罠を張っておけば、アバターヌルは必ずそこを避けるんだ。当然、次の動きを読みやすくなる。平たく言えば『手榴弾のワイヤー』を上下二段重ねで張っておくのと同じ理屈。下のワイヤーを避けたつもりで、上でがっつり引っ掛ける。
そんな訳で。
『待てクイーン、この感じ……。データ輸送は一時中止だ、確かめてみたい事がある!』
さっきとは別のモバイル、クランベリーフォンを使っての応酬はこっちが主導権を握った。
「ここにきて値上げの交渉でも? 安全な衛星ルートとやらはそちらが提案してきたものでしょう」
『そうではないとにかく待てと言っている! お互いの安全のためだ!!』
よし、ソフトウェアスイッチのトラップには気づいたな。
問題は、見え見えのワイヤーを避けた足をどこへ下ろすかだ。
……姉さんはコンピュータ関連に強い訳じゃないから、こっちで会話の流れをコントロールしないとな。
「先ほども申し上げた通り、私は同胞の脱出を急いでいます。土地の限られた、それでいて通信インフラの拡充されたこの島国は面積あたりのカメラの数で言えばロンドンやニューヨークを超えています。いつまでも長居して時代錯誤なハンター達の目に留まる訳には参りません」
『……我々潜伏クラウドに何を要求したい?』
「ごきげんよう皆様。交渉は後日改めてという事で。ひとまず私は東欧一三氏族を安全に逃がす方へ専念します。……ちなみに」
姉さんは僕の方を、スマホの画面をちらりと見てから、
「言うまでもない事ですが、今回の一件はあなた方潜伏クラウドのスカウトの最中に起きた案件です。もしもハンターなどに嗅ぎ付かれて同胞から犠牲者が出た場合は原因を精査し、然るべき報いを求めますのでそのつもりで。他のどの東欧一三氏族でもなく、この東欧一三氏族が。つまり、何か一つでも起きれば、それは全てあなた方の責任だ」
僕が親指を立てると、姉さんは一方的に通話を切った。
当の本人がお上品に柔らかそうな頬へむき出しの白く柔らかそうな手を当てて首を傾げている。
「あんなので良かったんですか? どこにも誘導していませんし、単なる物別れに見えましたけど」
「大丈夫、あれで最適だ」
そもそも潜伏クラウド派のアバターヌルが姉さん達東欧一三氏族に強い欲を覚えているのは、傍受の危機の中でも通信を切らずにコンタクトを持続していた時点で丸分かり。
ただし、だ。
こっちとしては『土壇場でトラブルが起きて取引場所を変更』でヤツを罠だらけのフィールドにおびき寄せたいんだけど、露骨にやったって向こうは乗ってこない。
そうなると、
「そもそも再交渉なんかしてやらない」
僕は舌を出してそう言った。
「責任の所在を明らかにした上で交渉相手が勝手にウロチョロ動き回るって分かれば、アバターヌルは絶対に焦る。こっちからコンタクトしなくたって、姉さんが持っているクランベリーフォンへ勝手に侵入してくるはずだ。情報がないと、怖くて怖くて仕方がないはずだからね」
「なるほど、押すだけが駆け引きではないという事ですね……」
「アバターヌルだってプロのハッカーだ。こっちから下手な演技をしたってヤツは地雷原にはやってこない。でもこっちが素人丸出しで危険地帯に飛び込んでしまった場合、アバターヌルもついてこない訳にはいかなくなるんだよ。そこで首根っこを押さえれば良い。マクスウェル」
『シュア』
敵の侵入ルートが分かっているなら、ウィルス感染させるのだって容易い。必ずアバターヌルが経由するデバイス、つまり姉さんの手の中にあるクランベリーフォンをウィルスまみれにして待ち構えれば良い。
『アプリ更新通知に偽装した不審なパケットを確認、十中八九アバターヌルによる侵入です。あらかじめモバイルに仕込んでおいたスイートレディ、ブルーブラッド、タオロンDなど三九種のウィルスが作動。カウンターの逆侵入開始しました』
「中継用のゾンビPCとかIPの乱数化サーバなんかに注意」
『システムはそこまで低スペックではありません。アバターヌル、ハック用マシンを特定。彼または彼女が担当保護するクラウド領域を網羅。……潜伏クラウド派の全貌の把握、完了しました』
「もう用はない。クランベリーフォンの接続を維持したまま、アバターヌル滞在国の現地警察に通報。逮捕は期待しなくて良い」
『シュア』
ヤツがストレートに捕まろうが物理的に逃げ切る方へ専念しようが知った事じゃない。どっちみち腰を落ち着けてネットで活動する余裕を奪ってしまえば、鬼の居ぬ間にやりたい放題だ。
さて、と。
「アバターヌルが何を重点的に守っていたかを特定しよう。それが潜伏クラウド派の運営母体だ。どうするかはカレンに任せる」
「あいさーです」
「……言っておくけど、天津サトリが手を貸したっていう事実は忘れるな。皆殺しとかつまらない手を使って泥を塗った場合は、僕なりの方法で制裁を加えるからな」
一応の釘を刺しつつ、マクスウェルが割り出したリストをカレンに渡そうとした。
が、
「……ちょっと待て、マクスウェル。これは正しい結果なのか? 何か一枚噛まされたとかじゃなくて?」
『システムは要求通りの回答を提示しただけですが』
「ふぐ? 何か問題でも見つかったの。その、データが飛んじゃったとか」
「逆だ」
僕はゴクリと喉を鳴らして、
「……多過ぎる。一〇億一〇三六万八〇九八件も『運営母体』がある計算になるぞ」
4
一〇億。
全世界の人口が七〇億強。アークエネミーは正確な統計は取れていないけど、全体的にはマイノリティだ。おそらく人間と不死者を全部足しても、八〇億には届かないと思う。
つまり、だ。
「一〇人に一人以上は潜伏クラウドに参加している事になる……」
口に出してみて、その馬鹿馬鹿しいスケールに呆れそうになった。
「うちのクラスは四〇人くらいだから、三、四人は紛れている計算になるぞ!? そんなのほんとにアリなのか!?」
「さほど不思議な話ですかね」
と、信じられない事を言ったのはカレンだった。
「何しろ相手は本気で世界を狂わせぶっ壊して神様に反逆しようとしている潜伏クラウドですよ? 国家、宗教、経済、学問の境くらいは越えてもらわないと、逆にリアリティがありません。私の敵はその程度なのかと」
「……でも、これじゃ義母さんのアブソリュートノア以上だぞ? あんな組織が二つも三つもゴロゴロあるって言われて信じられるか?」
「その考えが間違っているのかもしれません」
衝撃は、ないはずがないと思う。
だけど過酷な現実に立ち向かうように、姉さんはそう言ったんだ。
「例えば私達アークエネミーは、人々の暮らしを邪魔しないよう折り合いをつけて生活しています。表向きは国に申請登録していますが実態については不透明な部分も多い。実際、私達アークエネミーは学校やスーパーマーケットから光十字やアブソリュートノアまで、どこにでもいるはずです。……潜伏クラウドも、そういうモノだとしたら?」
人間も不死者も関係ない。政府も犯罪集団も区別をつけない。
神様が憎い。
天国から引き摺り下ろして泥の味を味わわせてやりたい。
……ただそれだけを考えて集合した、世界を切り分ける第三勢力。
当たり前の恩恵から弾かれ、希望を持つ事をやめた人達がそれだけいて、しかも実際に行動を起こしているって訳か。
「ヤツらはどこにでもいると仮定しましょう。アブソリュートノアのエキドナや、我々の東欧一三氏族を引き合いに出すまでもなく」
……あれだけの秘密組織の中枢にまで潜り込んでいるんだ。学校や商店街には入れないっていうのも逆におかしな話か。
どんな国家にも男と女がいるように。
どんな宗教にも大人と子供がいるように。
すでにそんなレベルの比率で、潜伏クラウドはあらゆる垣根を越えて遍在している。
十字架、仏教、ヒンドゥー。神話宗教なんかじゃ終末の前兆として邪悪が蔓延っていくなんて話もあったっけ。
終末。
カラミティ。
極限のモラルハザードの行き着く先。
「しかし一方で、みんながみんなエキドナやフライのような特殊行動を取っているとも限りません」
「姉さん、それどういう事?」
「本当に、南極含めて六つの大陸七つの海に一〇億人が潜伏していて、その全員が命を懸けて我々に強い敵意を抱いているとしたら、こちらの行動なんて密告密告また密告で筒抜けだったはずです。少なくとも、この多目的ビルで東欧一三氏族を一網打尽にする事はできなかったのでは?」
「……言われてみれば」
「本気度は人それぞれ。登録数はあったとしても、その全員がリアルタイムで活動しているとは限りません。登録してそれっきりの人も少なくないのかもしれません」
……そうか。
最初はその数に圧倒されたけど、みんながみんな大ボス級とは限らない。かくいう僕だって無神論者だ。事故や病気など、ちょっと悪い偶然が重なれば漠然とした『かみさま』に悪態をつくかもしれない。潜伏クラウドは、その受け皿になったんだ。一〇億人なんて言うと凄まじい数に聞こえるかもしれないけど、そこらの登録制SNSやフリーメールだって利用者は軽く一〇億人に届いてる。元はと言えばベンチャーや大学のサークルなんかから始まったようなコンピュータやサービスでもだ。『所属の重複あり』ならカレンの言う通り、ありえないとは言い切れない。警察や軍隊にいながら潜伏クラウドでもアカウントを作っていたり、試しに登録はしてみたけど放ったらかしなのも含めれば、現実に届く数なのかもしれない。
一人でいくつもアカウントを作っているケースだって。
「でも、これだと何の特定にもなってなくない?」
アユミが不安そうな声を出した。
「実際の容疑者は何億人? 誰が危険人物なのかは分からない。まして中心なんてものがあるのかも。この話だと、誰を叩けば事件は終わるの? まさか全世界を回って一〇億アカウント全部洗って皆殺しにする訳にもいかないし」
しかし青い鎧のヴァルキリー・カレンはくすくすと淡く笑ったままだった。……こいつの事だ、いざとなれば惑星全土を巻き込む神話スケールの大災害もありえるか。方舟なしの大洪水も。
……でも、待てよ。
「SNSや検索エンジンの利用者だけなら億単位で集められるかもしれない。でも、その受け皿は誰が作ったんだ? いいや作って終わりじゃない。毎月OSの更新があるように、システムの保守点検は必須のはず。さっきのアバターヌルじゃないぞ。それこそネット事業の雄みたいな、大企業レベルのマンパワーがないと無理だ」
『シュア。つまりそれが潜伏クラウドの中心、とみなして構わないのでしょうか』
「ただ、言うのは簡単だけど容易な事じゃないぞ。一〇億アカウント分のアクセスを担保した上で、その存在を徹底的に秘匿するサーバーシステムなんて。何だってサイズが大きくなれば隠すのが難しくなるんだ。CIAが世界一有名なスパイ組織なんて矛盾極まる看板を手に入れてしまったように。きらびやかなのにどれだけ探し回っても正体が全然見えてこないなんて、まるでシンデレラのドレスだよ。御都合主義の魔女もナシに、現実的にまともな方法で手に入るのか……?」
「ふぐう」
と、アユミの口から変な音が漏れた。
いいや、
「……ほんとにそんなややこしい話なのかな? ようは魔女のおばあちゃんがいれば良いんでしょ」
「アユミ?」
「ううん、そもそもあんな連中と関わりを持つ事自体が大失敗で、ちっとも近道なんかじゃないかもしれないけどさ」
片目を瞑り。
ピッと人差し指を立てて。
可愛い妹にしてブードゥー由来のゾンビは、確かにこう言ったんだ。
「もうみんな忘れているかもしれないけど……例のブラックマーケットの『邪霊』。一番大切な生贄と引き換えにしてあいつらに頼めば、欲しいヒトもモノも何でも簡単に手に入るんじゃなかったっけ? そう、どんな無茶ぶりでもさ」