• 邪霊のボコール

    邪霊のボコール
    ブラックマーケットを取り仕切る邪霊の神官。
    薬品の扱いを得意とする。


   第八章



     1


 答えなんか決まっていた。

「全部ハズレ……」

 分かってしまえば逆にどうして今まで気づかなかったのかと疑問に思ってしまうほどだった。


「……そもそも最初の最初、事件が始まるから全部まやかしだった! それが答えだッ!!」


 間違いのない間違い探しなんか延々続けていたら、何だって怪しく見えてしまうかもしれない。ゲシュタルト崩壊でも起こしたように、目の前にあるものに目の前にあるもの以上の深い意味を与えようとしてしまうかもしれない。自らの雑念が迷宮入り事件をさらに深みへはまらせていくように。

 でも違う。

 最初の印象で何もなければ、やっぱりどれだけ調べたって何にも出てこないんだ。でも、そいつはまやかしなんかどこにもなかったって結論づける事にも繋がらない。だから、正しくはこう考えるしかないんだ。

 一から十まで全部偽りだった。

 一分の隙もないほど滑らかに侵食してきたから、あらを探したって何の意味もない、って。

 ……そもそも『邪霊』、いや彼らの母体となったブードゥーが一番得意なゾンビとは何だった?

 アユミのような、本物のアークエネミーは。

 それはカリブ海で使われていた伝統的な呪術の薬品によってある種のウィルスが突然変異、劇症化を起こした結果生まれたものだ。

 でも。

 そのウィルスとの出会いがたまたまの偶然だとして、なら本来の本来、カリブ海に伝わっていたその『薬品』は何をどうするためのものだったんだ。

 ふぐの毒、テトロドトキシンを含む複数の化学成分の合成物。

 ティ・ボンナンジュやナームなど、古い言葉でどう呼ばれていたかは知らない。人から生きながらに思考を奪い、さらには土中に埋める事で死を偽装して人権を奪い、掘り返された人物の脳を適度に破壊して生かさず殺さず操り人形のように作り替えられないか。罪人を罰して強制労働に課すため、そんな事を本気で願って何代も何代もバージョンアップを重ねてきた、奇怪極まる『殺さずの毒』。


 つまり、ブードゥーの薬品は人の脳に作用する。

 その毒にさらされている中なら、どんな夢や幻を見せられたっておかしくない。


 正しい認識が繋がれば、後は雪崩れ込むようだった。

 途中分岐の一点まで、全てがロールバックしていく。

「……う、がばっ、ハぁッッッ!?」

 あらゆる輪郭が二重三重にブレる。極彩色の乱舞が止まらない。地面の水平すら保てずにぐにゃぐにゃ揺らぐ大地に揉み込まれながら激しい吐き気に耐えていると、景色が滑らかに一変していた。

 学校、

 。夜の……?

 時間帯さえ除けば、いつも僕が通っているあの高校の敷地内だ。場所は……中庭辺りか。僕はうずくまって校舎の外壁に寄りかかる格好で、今の今まで脂汗を流していたらしい。

 ……それにしても……。

 一体どこまでロールバックした? どこから嘘だった。決まってる、時系列を年表みたいに整理して指でなぞっていけば分かる。そもそも最初の最初から嘘だったとすれば、『本物のリアル』ではまだ事件は起きていないなら。

 今。

 これから。

 委員長はあの三人組のクソ女が主催する恋のおまじないの儀式にかこつけて、魂を抜き取られるところなんだ!

「、うだ……そうだマクスウェル!」

 ぐらりと揺れる視界に堪えきれず、校舎の外壁に寄りかかりながらスマホに向かって叫ぶ。

「すまない迷路で迷ってた。ああもうバカのアユミが一周回って『邪霊』が怪しいなんてクレバーな事言い出した時点でもっと早く違和感に気づけよ僕! カーチェイスの時も運転手が死んでたのにあっさり流してたし! それで状況の方はどうなってる!?」

『シュア。すでに天津エリカ、アユミ嬢は校内へ突入済み。ただし交戦継続中です』

「あの化け物姉妹を同時に相手取って、まだ戦い続けられる……?」

 首筋に違和感があった。虫か何かがとまっているのかと思って空いた手をやると、その硬質な感触にぞっとする。改めて注意深く引き抜いてみれば、尾翼のついた注射器のようなものだった。

 ダーツガン。

 こいつでブードゥーの秘薬を直接体内にぶち込まれていたのか。麻酔銃、ゴム弾、スタンショット。非殺傷兵器も色々あるけど、確実じゃない。どんな方法だってやり過ぎて死なせてしまう事はありえるんだ。実戦において蹴っても殴っても絶対に目を覚まさない安全確実な一撃なんて、ある意味で単純な鉛の実弾より何倍も価値があるはず。今の今まで頭の中の渦巻きに囚われていた僕は、活かすも殺すも自由自在な捨て場に放り込まれていた訳だ。

 例えば。

 離れた場所から強制的に他人を幽体離脱させる方法があれば、その間、無防備な肉体は攻撃し放題になる。

 ブードゥーの薬を詰めたダーツガンは、そんな荒唐無稽なアイデアを具体的な手段にまで昇華させたって事か。

「ここ僕の学校だろ。夜間部の人達はどうしてる?」

『連絡網のメーリングリストを経由して、ガス漏れ警報による緊急メンテナンスのため休校という扱いになっています』

 苛立ち紛れに手の中の麻酔薬莢を放り捨て、マクスウェルからの報告に目をやる。

 ……本当に自分一人の力で抜け出せる類のものだったのか。VRを得意とするマクスウェルから光や音の呼びかけがあったからこそ、だったのかもしれない。

 文字を目で追い駆けるだけで吐き気の波が押し寄せるけど、今は贅沢を言っていられない。

「敵と味方は?」

『安藤スタア、佐川アケミ、菱神アイなど中心メンバーは大した事ありませんが、サポートに回っているブードゥー系ブラックマーケット「邪霊」の、いわゆるボコールと呼ばれる術者がそれだけ強大という訳です』

 あいつか……。

 ボコールって言っても基本的には生身と同じじゃないのか。魔女の井東ヘレンと同じく薬品使いっぽいけど、それにしたって複数のアークエネミー相手に良くやる。

「……姉さん達と合流して委員長を助け出す。マイクで音源を探査して推奨ルートを検索」

『あの渦中に飛び込む事自体が非推奨ではありますが……』

「わざわざテンテンまでつけんでも分かってる、いつだってお前の言う事が全部正しい。だけど世の中ってのは不思議なもんで、正解を選んでるだけじゃ後悔まみれの人生を歩む羽目になるんだよ。とにかく検索」

『シュア』

 スマホの画面に重ねた夜の学校に、長い長い緑色の矢印が浮かび上がる。僕は腰を低く落とすと壁に沿って進み、途中にあった金属バットより重たい庭仕事用のスコップを拾いつつ、適当な渡り廊下の引き戸から校舎の中へと踏み込んだ。

 空気の粘度が変わる。

 廃屋で顔いっぱいに蜘蛛の巣を頂戴するよりも、なお抵抗は強い。まるで腐った動物の血と臓腑で満たした洗面器に顔をつけるような感じ。五感が不快なぬめり気と微熱にさらされる。どこまでが幻で、どこからが小麦でもこねたオモチャの感触なのか。意識を強く持たないと、視界の端々から長い手や紫の影が湧いて出てきそうだ。

 スコップの柄を脇に挟み、空いた手を使ってハンカチで口や鼻を塞ごうとしたけど、いつものポケットには何もない。くそっ、どこかで落としていたのか。あるけど認識できてないとか、おっかない話じゃない、よな?

「……これは、肉眼よりも常に画面の表示に注意ってヤツか、マクスウェル……」

『ノー。機械的なセンサーは誤魔化されないものの、結局画面を見ているユーザー様の認識をかき乱されるので、「受け取る情報」には一〇〇%の確度を保障できません。前回もそれで失敗しています』

 ただの心理効果じゃない。

 古式の薬学に基づいてホルモン、脳内物質、フェロモン、各種の体内薬品を刺激する秘薬が使われていた場合は、もはや化学の話だ。気合いで硫酸を跳ね返すなんてできない相談なのと同じ、精神論や根性論でどうにかなるレベルを超えている。

 何にしても外より酷そうだ。姉さんやアユミが暴れたせいであちこち派手にガラスが割れているのも、ひょっとしたら風通しを良くする狙いがあったのかもしれない。

 爆音や破砕音は上の方から響いていた。パラパラと天井から細かい粉塵が落ちてくる中、僕も脇に挟んでいたスコップの柄を掴み直してスマホの矢印を頼りに階段へ向かう。

 と、踊り場の辺りに影があった。

 月明かりを浴びてその輪郭を輝かせるのは、銀のショートヘアにぶかぶかの黒い軍服の上着をワンピースのように着こなし、合成繊維で細い両足を包んだ小柄な吸血鬼……。

「フライ=ヴィリアス!?」

「おっと弟君、行方が分からなくなっていましたがご無事でしたか」

 全身の筋肉を強張らせ、いざその時になるとスコップの振る舞いに困る僕に対し、感染と腐敗を支配する銀の蝿の反応はどこかズレていた。

 いいや?

 何だ、このフレンドリーに弛緩した空気は。

「……マクスウェル。彼女は僕達サイドなのか?」

『シュア。ユーザー様の記憶の中で混同が起きているかもしれませんが、彼女は数ある東欧一三氏族の一つに属しており、天津エリカ嬢とは古い付き合いだそうです』

 ……それだと正しいんだけど、でも疑惑を払拭できてないっ。ああもう、平たい帽子を被り直すフライの目の前であいつが神に仇なす潜伏クラウドになびいた裏切り者かって聞き返す事はできないし……!

「どうしましたか、弟君」

「っ、そうだメスレエートは? あいつなら……」

 ……あの誇り高き吸血鬼なら潜伏クラウドに寝返っていない、はずなんだけど。だけどよくよく考えれば、それも僕がブードゥーの秘薬で見ていた夢や幻だ。はて実際にはどうだったんだ。

 フライ=ヴィリアスは敵か。

 メスレエートは味方か。

 あるいは、どちらも丸っきりひっくり返るのか。

 くそっ、いっそ全部デタラメなおとぎ話なら丸ごとリセットできたのに。中途半端にディテールを借りているから、かえってどこまでデータを引き継ぐべきかで混乱が生まれてるぞ。

 確実な線から足場を固めていこう。

「それで、姉さんやアユミ達は?」

「上に。……彼女達が全力全開攻撃シフトに転じている理由の半分は弟君、あなたがダーツガンで撃たれて消息不明になったからですよ。わたくしは無数の蝿となってあなた様を捜すよう頼まれていた訳です」

 その話が本当なら、少なくとも姉さんやアユミはフライに背中を預けているらしい。

 ただ、その割には銀髪の吸血鬼は一塊の少女のままだし、何より……彼女を取り巻く不吉は何だ? そう、その足元。月明かりも及ばぬ深い闇に、何か腐った泥のようなものがわだかまっているような……?

 ぐずぐずと。

 ぶすぶすと。

「それからくれぐれもお気をつけを、弟君」

「う?」

「かのボコールが再定義した戦場は魔窟にございます。目撃イコール発狂というほどではございませんが、有象無象が徘徊しておりますので、どうかわたくしの傍を離れませぬようお願いいたします」

 マクスウェルから警告のポップアップは出ない。だとすると、単なるブラフで僕の背中を刺そうとしている訳じゃないのか。

 僕はスコップを掴み直して、

「……姉さん達の所へ行こう」

「イエス。頭に血が上ったカタストロフどもには、それが一番の薬となりましょう」

 黒い軍服を纏う銀の蝿と一緒に、月明かりしかない学校の校舎を進む。

 元の素材は何だったのか。

 廊下や階段を塞ぐように、黒のような紫のような……得体の知れない影がのたくっていた。あれは幻、じゃない!?

「失礼、弟君」

 フライもフライで、それらが飛びかかってくる前に大量の銀の蝿を放ってあっという間に腐らせていく。後には目が眩むような、酸っぱい悪臭しか残らなかった。

「小麦の等身大人形に何か混ぜ物を加えたモノのようですな。てっきり、腐乱死体の大軍勢でも押し寄せてくると思っていたのですが」

「アークエネミーはどこまで行っても生き物だ。闇雲にゾンビを作ったって、被害の規模をコントロールするのが難しいんだろ……」

 ……吸血鬼側のタガが外れていないのは姉さんが睨みを利かせているからかもしれないけど、それ以前に致死量相当の血液を吸い尽くさないといけないから意外と手駒を増やすのは面倒臭い、って側面もあるんだろう。世界一有名なトランシルバニアの伯爵だって何日かに分けて犠牲者を襲い、分割払いで衰弱死させていったくらいだし。噛み傷一つでパンデミックを引き起こすゾンビパウダー劇症型とは事情が違うのだ。

 時々、窓の外におかしなものがチラついていた。向かいの校舎の壁をよじ登る影や、鍔迫り合いの火花のようなものも。

 いや、あれも幻じゃなくて……?

「おやおや。メスレエートに、エリザベートもいるようですな。何しろ久方ぶりのクイーン級との共闘ですから、皆年甲斐もなくはしゃいでいるのでしょう」

 ……みんなの足並みは揃っている?

 潜伏クラウドに寝返った裏切り者の話はどうなった、そんなもの現実には何もないのか? 確かにそれは喜ばしいけど、でも待った。じゃあ『邪霊』から派遣されてきたとかいうボコールの方は? エリカ姉さんと妹のアユミ、さらには東欧一三氏族揃い踏みで、パンデミックを起こす心配もなくみんなで戦況を掌握して、なお相手は陥落せずに戦い続けているっていうのか? 生身の人間が、一人ぼっちで!? ゾンビなら常人の一〇倍、吸血鬼なら二〇倍の筋力を誇る。さらにフライ=ヴィリアスみたいな腕力勝負以外のイレギュラーだって加わっているだろうに、お構いなしに? ダーツガンや自前のクリーチャーがいたってそう簡単にできる事じゃない。むしろ攻め込まれているボコール側の方が一騎当千の無敵状態じゃないか!!

 爆音に近づいていく。

 爆心地はもうすぐそこだ。

 僕の足は勝手に動くけど、魂の部分が何かを否定しようとしていた。スコップを持つ手が汗でぬるぬる滑る。見るな、と。ここから先に待つ真実は、お前にとって万に一つもプラスには働かないぞ、と。

 隣に小柄なフライ=ヴィリアスが控えているのは、幸か不幸かどちらなのか。

 とにかく深奥、最終盤までやってきてしまった。

 その先にあったのは……。

「あ」

 長い長い直線廊下で鍔迫り合いをするような影が複数。二つの陣営に分かれて死闘を繰り広げていた。片方は言うまでもなく前の大きく開いたロングスカートとぴっちりした黒革のズボンを組み合わせた、防刃性を考えた厚手のゴスロリドレスを纏う姉さんやへそ出しのジョギングウェアの上からジャージを羽織ったアユミ。そしてもう片方は黒い礼服にネクタイ、メガネをかけたボコール。

「ああ……」

 そして彼を庇うように立つのは、青い鎧にミニスカート。黄金の槍と盾を携えた天の使い。

 北欧神話の戦乙女。

 ヴァルキリー。

「ああっっっ!?」

 ……ありえない事はなかった、はずだ。

 ブードゥーの薬品が脳髄に作用するものなら。僕がレコード盤みたいに先へ進んでいるようで同じ場所で足踏みしていたのと同じ。女神を殺す事はできなくても、縛って操るくらいは手が届くのかもしれない。寝返りを打たせるように。事実、あの姉さんやアユミ、それに東欧一三氏族が束になっても拮抗状態を崩せない相手なんて、もう神話の神様とか魔王とか、そういうレベルの連中くらいのものだろうし。

 脅威の、レベルは?

 リリスの義母さん、あるいは巨大ザメのリヴァイアサン、いやもっとか!?

「ふぐう!? こいつ……!!」

「あら、サトリ君。無事に見つかったようで何よりです」

 でも。

 それにしたって。

「ぶぶず……」

 排水溝に口をつけてぬめりをすすり取るような、不快を極めた音が響いていた。

 理性や思考を奪われ、悪夢にうなされて手足を振り回しているかのような、その青い蝶。

 カレンの右手が、閃く。

「ッ!?」

 フライ=ヴィリアスが小さな手で僕を突き飛ばし、廊下の壁に背中からぶつかった直後だった。

 ゴッ!! と比重の重たい黄金の槍が液状に溶け、そしてぶかぶかの黒い軍服をまともに呑み込んだ。こんなスコップなんか目じゃない。直撃すれば交戦中の装甲車だってひっくり返すほどの、問答無用の天の槍。

 砕け散った。少女の形が。

 大量の銀の蝿として飛び散る事ができなければ、冗談抜きで四肢も五体も五臓六腑も粉々にされていたはずだ。

「ぶずずが! ずずう!! ぶぞぞずう!!」

 額に浮かぶ冷や汗を拭う余裕もなく、僕はごくりと喉を鳴らす。

 実際問題。

 神の座に属するヴァルキリー・カレンが生身の人間に意のままにされるっていうのは、想像以上に凶悪なインパクトを心臓へ叩き込んでくる。人は、ここまでできるのか。やってしまって良いのか。禁忌という言葉が脳裏で乱舞していた。最も愛する者を贄に捧げる代わりに、二番手以下の世界の全てを手に入れるブードゥーの『邪霊』。その真髄が垣間見えたような気がする。

 ヤツが言う。

 あらゆる神話宗教を自分のものとして教義に組み込む、柔軟極まるブードゥーのボコールが。

「無駄な事だ。この私にとって敵味方の概念はさして問題にならない。肉塊など所属に関係なくボコールの素材に過ぎない」

 もちろん会話の最中にも不意打ちが飛び交っている。姉さんが黒い手袋で包まれた五指で掴んだのは消火器。それだって人間の二〇倍の膂力でぶん投げれば文字通りの金属砲弾と化すはずだ。

 ボッッッ!! と空気を引き裂く音と共に、ボコールのシルエットが壊れた。

 いいや、ただの破壊じゃない。

 コーヒーの上にミルクを垂らしてからスプーンでかき混ぜるように、その五体満足の体がぎゅるりと渦を巻いた。回避、今のは回避だ。すんでのところで消火器が獲物を食いそびれ、そして白い羽根が空中に舞っていた。

 そう、ボコールは変わっていた。

 人間から、巨大な白鳥へと。

 一瞬、またもや幻覚の世界に引きずり込まれたのかとも思ったけど、そういう話じゃないらしい。姉さんやアユミも僕と同じモノに焦点を合わせて睨みつけている。

 僕とは違うのは、初めてって感じじゃなさそうなところくらいか。

『我々ブードゥーの術者はあらゆる神を降ろして自らの力とする。そして元来のゾンビとは秘薬を投じて人体を物的・霊的を問わず五つの項目に切り分け、内ゼトアールとティ・ボンナンジュを除く三つを束ね直して意のままに操る術を指すものだ』

「っ」

 続けざまにアユミも天井の蛍光灯を砕いて掴み直すが、本来できないはずの滞空を行いながら天の白鳥は禍々しく嘲笑うだけだ。

 いくら投げ放っても効果なし。

 決して素早い訳じゃないけど、宙で身をくねらせるだけで全部避けてしまう。水を漂う木の葉の動き、とでも言うべきか。

『そして三つの外にあるティ・ボンナンジュは手元に置いてコントローラとする。……普通の人間ならその程度だが、これでもカレンは神だからな。ティ・ボンナンジュは対象の記憶や知識を司る。私は薬を使ってただカレンの中から引き出せば良かった、人の身でも起こせる奇跡、男の手でも制御可能な女神の御業を。白鳥に化ける秘儀もその一つ、どうやら女神の衣を人間の男が取り上げて天に帰る力を奪う話があるらしい。つまり人に触れられる、男でもコントロールできる程度の良いラインという訳だな』

 くそっ、魔女の井東ヘレンといい、インテリ系っていうのは動物変身と相性が良いのか?

 そしてどんな理屈にしたってカレンを止めなくちゃならないのは事実なんだ。

「……もはや戦力はカレン一人に留まらないっていうのか? 将棋の駒の取り合いみたいに」

『何か勘違いしているのではないかね』

 ねちゃり、と巨大な白鳥は粘ついた吐息と共にこう言ったんだ。


『私の最大の駒は君だよ、少年。直接戦闘は皆無だが、相関図の中心にいるのは自明の理だしな。そして一度体に入った毒素が、ダーツガンを首から抜いた程度でそう簡単になくなるとでも? 君のティ・ボンナンジュは未だ戻らず、だよ』


     2


 視界が極彩色で埋まる。あらゆる物の輪郭が二重三重に乱れて心電図みたいに波打ち始めていた。

 こんな中じゃ武器を持っている方が怖い。とっさにスコップを手放そうとしたけど、どうだ? 掌からずっと何かが張り付いている感触がなくならない。

「お兄ちゃ、!? agmtk

 bmyqd。リ君、だめ……強く保ってください!!」

 間近で叫ばれているはずの声がぐわんと頭蓋骨の周囲を何周も回り込んでいる。距離も掴めないし、音程も不自然に揺らいでいた。

 一つ一つに集中しようとすると、それだけで強烈な吐き気が込み上げてくる。

 ……まずい。

 ここで僕が体を投げ出したら、人質に取られるのと同じだ。姉さんやアユミ、そして東欧一三氏族。僕を庇いながらじゃ行動の自由度は格段に落ちる。彼らの足をここで止めたらカレンの力で狩り殺されていくだけなんだ!

 決断するしかない。

 輪郭も定かじゃない波線の集合に向けて、金槌みたいに自分の頭を後ろへ振ってからおでこを思い切り叩きつける。

 派手な音と共に極彩色が薄らぎ、波線が廊下の壁を取り戻していく。スコップが冷たい床に落ちているのも分かる。

『ふうん、原始的だが効果的だ。頭の方に衝撃を与え、シナプス間の情報伝達を乱せば通常思考と共に秘薬の効果も誤作動を起こす。飛び出た杭を打つというか、薬学的に分離したはずのティ・ボンナンジュを強引に叩き戻したか』

 カレンの力を借りて巨大な白鳥となったボコールの余裕は崩れない。

『……だが所詮は一瞬の自由だ。その方法で連続的に自我を取り戻そうとすれば、それこそ自分で頭を割る羽目になるぞ』

 ぐずり、と。

 見えない手で再び脳みそを鷲掴みにされるようだった。痛いんじゃない。舌も使っていないのに、何だかひどく甘い……ッ!?

 ……ん、いいいいッ!?

 いいいじきをたもてっ何でもいい極彩色とりんかくをひていするんんんだとにかくなんとか。

「あぶろっ、じで……潜ぷく、くらウド。中心、お前達……!?」

『ははっ、いっそ健気なものだ。そんな状態で真相を耳にしたところで、もはやどこからが夢かの区別もつかないだろうに』

「べぶっ……」

 こうしている今もカレンと姉さん達が激突しているのか。あるいは僕の額が壁にぶつかっているのか単なる幻聴か。ともあれ不規則に爆音が連打されていた。

『そして潜伏クラウドに中心などない。自分の尾を噛む蛇だよ。そのような不可能を注文してきたので、具体的な形を与えた。よって君達に破壊するのは不可能だ』

 笑みの吐息が広がる。

 遠近法がおかしい。輝く白鳥が月より大きく見えるはずがないだろうに……。

『潜伏クラウドはどこにでも根を張っている。例えば仲良しこよしな「この中」にも。……まあ、私を倒す側に収まっていた方が確実だしな。これなら両者どちらが勝っても潜伏クラウドに与する者は残る。まさに理想の状況だ』

 ……それは、僕達をかき乱すためのブラフか。あるいは偽りのない真実か。

「びいんちょ……」

『ああ、彼女に恨みはないよ。あの魂……五つの内の二つ、グロ・ボンナンジュとティ・ボンナンジュはただ商品だったというだけだ。通常、通過儀礼なしに我々が手を貸す事はないのだが、難易度を上げ過ぎても流通が滞るのでな。時折、こうして後払いのオーダーも受注している訳だ』

「たった、それだけで?」

『まあもちろん、引き受けた以上はどんな手を使ってでも取り立てるがね。委員長? もし彼女を抜き取る事に失敗すれば、今度はあの三人の中から誰かを消費してもらう事にはなるだろう。我々としては、数の帳尻さえ合わせられればどうだって良いんだ』

 ……首筋に秘薬をぶち込まれた時もそうだったけど、こいつはやっぱり最悪だ。もはや単純な悪意を通り越して、ブラックマーケットっていう一つのシステムに化け始めている。たとえカラミティが表面化して地球最後の日がやってきたって、両手を叩いて異形のバーゲンセールを繰り返す事だろう。むしろ水や食糧がなくなれば闇市が市民権を得る、くらいにしか考えていないのかもしれない。

 心臓の鼓動に合わせて景色が揺らぐ。

 夢と現の間を行ったり来たり。

 一つ一つの変化に焦点を合わせようとすると、それだけで光の点滅を凝視するように頭の奥から吐き気がねじり込んでくる。

 ……くそ……。

 ここでお荷物になればそれだけ姉さんやアユミに負担をかける。無防備な僕を庇ったまま、あのカレンと戦い続けなくちゃならなくなるんだから。何が正しくて、何が間違っているか。それさえあやふやな状態に溶けているけど、何かできないか。探すんだ、家族を助ける方法を!

「きゃああっ!?」

 今のは誰の悲鳴だ。誰のものだって容認できるか。くそっ。カレン、アンタは常に冷笑どんな時も最強をキープする女神様のはずだろ。訳の分かんないカタカナ用語なんかに負けてどうする。一体どんな風に頭の中をいじくり回されたら人間なんぞの良いように振り回されるんだ……!?

 ……。

 ……、いや。

 ちょっと待て……。

 頭を蝕む鈍痛の芯に何か違和感がある。今、何か閃いたような。思い出せ、バックしろ。テレビに現れては消えていく一発ギャグとは違うんだ、ここで頭に出てきませんはありえない!

「そうだ……」

 認識すらあやふやなこの主観。

 ブードゥー本式の秘薬によって脳髄を支配されかかっている崖っぷち。

 でも。

 だけど。

「……もしかしたら」


     3


 前後左右上下どころか時系列さえ定かじゃない極彩色の乱舞の中、青い蝶のように長い髪をちらつかせるカレンの右腕が蠢く。いいや、たとえ万全であってもあの一撃は避けられなかったはずだ。相手はガチの軍神。人の足がチーターには勝てないように、知略や努力の前の体構造からして勝てないようにできている。

 それでも諦めなかった。

 自分の鼓動に合わせて行ったり来たりする二つの世界を泳ぐように、僕はゆっくりと、緩慢に体を横へ揺らす。

 そして言った。


「マクスウェル、記録開始。サンプルをいくつか取ったら分析してフローチャート化」


 キュガッッッ!! という空気を引き裂き摩擦で焼き焦がす音が真夜中の学校に響き渡る。壁を抉り美化委員のポスターを引き裂き、でもそれだけだ。

 女神の一撃なんて、前後左右どう動いたって逃げ切れない。

 だから、相手に外してもらうしかない。

 具体的にはタイミングを合わせてスマホのストロボを炸裂させる事で。

 間一髪。

 右耳の数ミリ横を、液状化した純金の奔流が突き抜けていった。

『……まぐれを引いた? いや違う』

 疑問の声があった。

 向こう側に切り離されたカレンは現況なんか把握できない。攻撃の成否も分からない。だから発信源はそこじゃない。怪訝な声を出しているのは、全てをコントロールしているボコールだ。

 黄金が逆戻りして再びカレンの手元に収束。さらに一投を放ってくるが、その直前で僕は体を横に揺らしながらスマホのストロボを一発。ほとんどふらつくようだったけど、閃光の壁が役立った。何とかして金色の砲撃の数センチ横に逃げ切る。

 そう。

 カメラのストロボ、ただそれだけ。派手な回し蹴りやフランケンシュタイナーと比べれば微々たる抵抗。夢と現の間を泳ぐカレンにも部分的に刺激は届く。明かりや室温で夢に変化がないか調べる実験のように。ただし、指一つとは言ってもやっぱり命懸けなんだ。

 たかだか人間如きの動体視力や反射神経では追いつかないはずなのに、現に僕は『直前』のタイミングを把握している。その上で、スマホのストロボを利用した閃光のヴェールで身を守っている。ヴァルキリー・カレンより一歩先の位置に立っているんだ。

 一瞬でもタイミングがズレれば不発。

 あのアブソリュートノア最深部で父さんがエキドナ相手に大きく翻した分厚いビニールシートとも、また違う。

『理由があるはずだ。だが君の筋肉と神経の質では説明がつかない。秘薬のせいで神経伝達速度に異変でも生じたか?』

「……そんなにご立派なもんじゃない。だだだけどアンタのおかかかかかげっていうのはウソじゃなびぶ」

 僕の舌がおかしいのか耳がおかしいのかは知らないが、とにかく不明瞭な言葉が漏れる。

 そう、僕は未だにボコールの術中の中。

 ヤツの薬品は頭や体から抜け切っていない。腐りかけのトマトを握り潰すように、いつでもボコールは僕の脳味噌を粉砕できる圧倒的優位に立っているはずだ。

 でも。

 今は、それが最大の切り札になる。

「……僕とカレンは同じ薬品をぶぶぶちびちぶち込まれている。つまり、同じ症状を見ていないとおかかかかかしいんだ……」

『それがどうし……いやちょっと待った』

「カレンが僕と同じじじじじじモノを見て黄金の槍を振り回しているるりるりなら、タイミングだって分かるはhhhhず。姉さんやアユミにとってはあやふやででででで掴み所のない夢や幻であったとしても、今の僕にとっっっってはどっちが現実かかかかかかかか分からない小旅行を繰り返しているんだだだだぶだ。これ以上ないくらいいいいい生々しく感じるよ。カレンの立っている場所ってヤツがな!」

 さらに三発、四発と純金の奔流が飛び交うが、もう大丈夫。

 目で見ている訳じゃない。

 耳で聞いている訳でもない。

 そもそもそんなのじゃ間に合わない。

 ただ、僕とカレンは同じ幻覚に苦しめられる事によって同じ世界で繋がっている。そう、互いに影響を及ぼし合えるんだ。プールに浮かんだ木の葉を両手ですくい上げようとしても、わずかな水流が生き物のように木の葉を逃がしてしまうのと一緒。繋がっているっていうのは、それだけで大きな意味を持つ。

 カレンみたいな神様は意図して神域に身を置いて人間達を上から目線で睥睨していた。ブードゥーのボコールは秘薬を使って切り離しさえやってきた。

 それを、逆手に取る。

 傲岸不遜にも同じフィールドに、神の座に立つ事で、お前達の特別性なんか剥奪してやる。

 そして立て続けに回避されてらちが明かないと感じたのか、白鳥と化したボコールがその大きな羽で何かを軽く振った。正体は粉末か、白い羽の隙間から何かがちらつく。極彩色がきつくなったと思ったら、槍と盾を構え直したカレンが爆発した。いいや、垂直に跳ねて真上のダクト口をぶち抜いたんだ。

 視界から消えたのは数秒。

 だけど誰もが冷静な思考を取り戻すより先に、カレンは致命的な位置まで踏み込んでくるはずだ。

 そう。

 僕の脳天を狙うべく、真上を陣取るために。

 分かっているんだ。

 見えていなくたって。お前が接続したんだぞ、ボコール。そしてそう何度も幻覚に頼る必要もなかった。

 こっちはマクスウェルに行動ルーチンを分析させ、フローチャートを作らせていたんだ。機械のマクスウェルに生理的な幻覚を見る事はできないけど、僕の呼吸、眼球運動、顔の筋肉の緊張と弛緩なんかを外から捉える事はできる。瞳の焦点距離を測定すれば、僕が何もない空間のどこにゴーストを見ているかだって分かるだろう。そうやって間接的に『ありもしない情報』を共有すれば、ビッグデータのように情報は蓄積していく。カレンの次の一手を先読みする取っ掛かりだって作れるかもしれないんだ。

『文章、振動、音響、電流、バッテリー発熱による味と臭気。五感全方式プラスアルファにてユーザー様へ伝送を開始。全て上書きできるものならしてみやがれです「邪霊」』

 おそらくどこへ逃げてもカレンの一撃は降り注いでくる。僕はとにかく足元のスコップを掴み上げた。

「カレンの行動予測!」

『非推奨の

「良いから計算だ!!」

 いちいち全部読んでられない。叫んだ直後、青と黄金の落雷が降り注いできた。いいやダクトと天井パネルをまとめてぶち抜いて、ギロチンじみたシールドバッシュをかましてきたんだ。

 もはやスマホは文字も音もなかった。内部通電によって電気の刺激が指先から肘の先にかけて突き進む。勇ましさもクソもなかった。ほとんど勝手に跳ね上がるように、対する僕はシャベルの柄を振り上げていた。途中から筋肉に力を入れ直し、素人なりのありったけの力で盾のエッジを受け止めようとする。

 鈍い音が炸裂した。

「お兄ちゃ、折れ……!?」

 ……予想通りだ泣きそうな顔すんなアユミ!!

 手首も肘も、歯を削るよりひどい痛みに支配される。ある程度は威力の減じた重たい盾が、それでも強引に突っ込んでくる。すでに手をやられているんだ、砂糖漬けだろうが何だろうが生粋の女神様相手にもはや無傷だなんて虫のいい話は考えない。とにかく頭蓋骨だけかち割られるのを避けるため、わずかな減速を利用して首を思い切り横に降る。

 右肩に衝撃が落ちた。

 耳や鎖骨よりは外。

 頭を振った事で左側へ傾きかけていたはずの重心が、強烈な力で右側へ振り直される。それでもマシな方だ、とポジティブに考えるしかない。下手すれば腕一本。いいや、脳天をかち割られて脳味噌を床一面にばら撒いていただろうし。

 カチカチカチ、と奥歯が不自然に鳴る。

 狭いダクトからの一撃のせいで、長物の槍を選択できなかったのもプラスに働いたか。ヤツは僕を殺しきれなかった。

 だから。

 シャベルと右肩を使って、何とか空中でヴァルキリーを受け止めた。このまま押し切ればヤツは着地に誤って転倒するはず。だけどどうしても最後の一打、着地予定ポイントに足を掛ける事が敵わない。もう分かる、次の行動に移る前に手首や肩口の激痛が爆発して制御不能になるって。

 だからありったけの力で絶叫した。

 こっちはただの高校生。どうせやせ我慢して歯を食いしばったって悲鳴が出るのは分かっていたんだ。後はそこに意味ある言葉を乗せてやるだけ。

 相手は姉さん、アユミ、それとも銀の蝿?

 だけど何故だか僕はこの名を叫んでいた。

 所詮は幻覚の中の話。

 あれは、何の根拠にもならないはずなのに。

「めめめめメスレれれるれエええええートおおおお!!」

 轟!! と荒々しい暴風が唸った。

 三階なんて高さは無視して真横のガラスを叩き割り、アルミの窓枠もメチャクチャにして、空中で中途半端な姿勢でいたカレンに向けて特大の塊が突っ込んでいく。脇腹に噛み付き、青い装甲を砕いてキラキラ輝く破片を撒き散らしながら、そのまんま内壁を破って空き教室へと飛び込んでいった。

「お兄ちゃんッ!」

「いいっら、あゆみ、らぶれべれべる、カレっ、盾と槍を!」

 まともに舌も回らないけど、とにかく折れたスコップの柄を投げ捨てて柱に寄りかかり、僕はそれだけ叫んだ。

 もうすぐ肩や手首の痛みがぶり返す。

 そろそろっ、思考の維持も限界だ!

 姉さんがブーツで包まれた細い脚で廊下の床にあった超重量級の槍を蹴飛ばし、銀髪に黒い軍服のフライ=ヴィリアスに投じる。銀の蝿が手袋に包まれた片手で受け取った時には、もう終わっていた。純金の価値は酸化や腐食に強い究極の永劫性にあるって話だったけど、何事にも例外は存在するらしい。王水が純金を溶かしてしまうように、フライの手の中でぐずぐずの黒い粘液と化していく。

 この分じゃビニールテープや結束バンドなんかもどこまで効果があるのやら。

 ともあれ、だ。

「あとは、ら、って盾!!」

 ゴンッッッ!! という爆音が響いたのはその時だった。驚いてそちらへ目をやると、さらにもう一回。

 あれだけの巨体に押し倒されていたはずのヴァルキリー・カレンだった。足腰を無視して、腕の振りだけで丸い盾をぶん回し、メスレエートの顎をかち上げただって!?

 まずい。

 カレンが再びっ、起きる!?

「……やれやれ、しょうがありませんね」

 と、ゆるりと言い放ったのは姉さんだった。というか、何だ? 黒い手袋で覆われた、そのほっそりとした手の中で何かをくちゃくちゃ握ったり潰したりしている……?

「ようは、カレンの持つ武器が純粋な金でなくなればコントロール不能に陥るのでしょう? それなら打つ手があるかもしれません。そう、どこにでもあるもので」

「姉さん?」

「ねえサトリ君。確かに純金は極めて酸化に強くその永劫性や希少性を評価されて今の価値を保っています。その時々の貨幣や王冠などにも使われてきた事からも明らかです」

 ただし、と姉さんは人間の二〇倍はある握力で『くちゃくちゃ』しながら、

「……実際問題、一〇〇%完全に純金を使った宝飾や貨幣はさほど多くないんです。銀や銅、ひどい場合は鉛や錫を使って嵩増ししているケースがほとんど。かのアルキメデスも王様からお願いされていたじゃないですか。この金の王冠には本当に不純物が使われていないか確かめる方法を考えてくれって」

 つまり、だ。

 そうかそういう事か……っ!?

「歴史が証明しています。金それ自体を消し去る事は難しくても、合金化を施して異なる物質に変えてしまうのは容易い」

 くちゃくちゃが、止まる。

 それはメスレエートが吹き飛ばしたアルミの窓枠を握り潰し、徹底的に砕いた上で自らの血液を混ぜて乾燥させた……つまり酸化鉄と混ぜ合わせた凶悪な粉末。

 姉さんは古い時代のマッチでも擦るように、適当な壁に自分の指を軽く振った。

 それだけだった。


 酸化鉄とアルミの粉末は急激に反応する。

 それこそ摂氏三〇〇〇度以上の高温で。


 ボンッッッ!! と姉さんの右腕全体が溶接じみた眩い炎に包まれた。ゴスロリドレスの袖も黒い手袋もお構いなしに。

 容赦も何もなかった。

 夜に生きる吸血鬼が眩い閃光を振りかざす、という究極の理不尽。

 ようやくふらりと起き上がったカレンに向けて、姉さんは前の大きく開いたロングスカートを翻し、美しい縦ロールの金髪をたなびかせ、燃え盛る利き腕と共に突撃を仕掛けていく。まるで車のテールランプだ。カレンが反射的に純金の盾を構え直した時には、すでに姉さんの輝く腕が振り回されていた。それは間にあったあらゆる物体を焼き焦がし、溶かし、巻き込んで、雪崩のようにカレンの盾に突き進む。そもそも黄金自体が一〇〇〇度程度で溶けてしまうので、防御にもならない。

 ロッカーや机。

 あちこちにあった鉄、銅、ステンレス、あるいはビニールやプラスチックまで。とにかく液状化した黄金に様々な物質が絡みつき、カレンの盾から純粋さが失われる。不景気を誤魔化すための嵩増し小判のように、金を金とも呼べなくなるような粗悪な合金へと成り下がってしまう。

「っ!?」

 もはや自分の意のままに動かせず、熱を逃がす事さえままならなくなってしまったのか。カレンの鋭く息を呑む音と共に、灼熱に煮える塊が空き教室の床に落ちてフローリングを発火させる。

 姉さんは続けざまに右拳を振り回そうとして、自分の腕が管理不能の松明と化している事を思い出したらしい。

 一歩横に逸れて、道を譲ったエリカ姉さんはこう囁いた。


「アユミちゃん」


 一気に何かが突き抜けた。

 問答無用にぶち抜いた衝撃が、囚われ続けたカレンの鼻っ柱に直撃したようだった。


     4


 残るは一人だった。

 ここまで来れば怖いものはなかった。

 真っ白な羽根が舞う。女神のティ・ボンナンジュ、記憶や知識を借りて奇跡を振るう男が剥き出しの世界へと投げ出されるのが良く分かる。

 世界最大のブラックマーケット。ブードゥーを母体とする『邪霊』に属する、ボコールと呼ばれる黒い礼服にネクタイ、メガネの男。

 ……こいつ単独でどこまでやれるかは不明だけど、カレンが倒れた事で姉さんにアユミ、東欧一三氏族らとの均衡は崩れたはずだ。まさかここにきてカレンがいなくなった方がパワーアップするなんて話はないだろう。

 僕は痛む肩を押さえながら、床に散らばった白い羽根を踏みつけて、一歩前へ出た。

 金属の頭蓋骨を飴細工のように曲げたようなJ字のヘッド部分を整えた杖を握り込む陰気な男へ、踏み込む。

「委員長を返してもらうぞ」

「ビジネス的には損失だが、これ以上の負債を抑えるためにはやむを得んか」

「……商売の話なんか誰もしてない。譲歩はナシだ、『邪霊』もここでぶっ潰す。再起なんて、またどこかで誰かの人生が切り売りされるなんて、絶対に許さない。マクスウェル」

『シュア』

「ヤツのモバイル電波を特定し、発信源に侵入。秘密のアドレス帳を引っ張り出したら逆に辿っていけ。正義のホワイトハッカーアナスタシアに名簿を渡して片っ端から薙ぎ払ってもらおう」

『見え見えのスマートフォンはブラフのようですね。本命はGPS電波腕時計とカードサイズのデジタルカメラ。どちらも携帯電話のSIMカードを介さずに通信するため見逃されがちですが、定時でやり取りするデータパケットの末尾にメーカー純正以外のゴミがついています。普段は単なるゼロの群れですが不規則に一六進数ベースの乱数に変化。おそらく中身はメールデータなどでしょう』

 世の中高機能になると、メーラーなんてキーボードやパッドのついた機器じゃなくても搭載できてしまう。心臓ペースメーカーを医療ネットに繋いだり、コンビニの防犯カメラをウィルスに感染させて大量のデータを投げつけるDDoS基地に作り変えたり。ようは電話やパソコンだけが情報犯罪のツールじゃなくなってきた訳だけど、仕組みさえ分かっていれば見逃さない。

 くまの深い目元をメガネで隠すようにしたボコールは、ゆっくりと息を吐いた。

「……私達は、求められてここにいる」

「悪いけど、多数決の正義には興味がない。知らなかったのか、僕は世界一〇〇ヶ国以上に根を張っていた光十字を怒りに任せて叩き潰した天津サトリだぞ」

「我々は大衆の総意に支えられている! 世界の皆が裏から手を回して商品を欲する限り永劫になくならない!」

『秘匿アドレスリストから潜伏クラウドに関する情報を取得。おそらく経過観察をするためのモニタリング窓口でしょう。平たく言えばここから「邪霊」を含む潜伏クラウドの始点となったコンピュータを割り出し、アタックできます』

「それも求められたから調達した。世界の一〇億人以上が神を疑っている。この中にいる誰かさんも!!」

「マクスウェル、アタック開始」

「君はシステムの完全さを信仰できるかね? たった今見てきたはずだ。たかだか人間如きに後れを取って良いように扱われた戦乙女を。これを見てもまだ神の定めた理が絶対だとでも!?」

「……それは、アンタが決める事じゃない」

 僕はスマホの画面へ目をやった。

 マクスウェルからのふきだしにはこうあった。