チョコレート・コンフュージョン

※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。


     第一章 三五年ぶりの微笑み



 ――何だ? いったい何だというんだ?

 二月も半ば、立春も過ぎたというのに、頬を刺す冷たい風が吹きすさぶ駅のホーム。やって来た電車に乗り込んだ龍生(たつお)は、違和感を覚えた。

 未だ冬の支配下、ドアが開く度に入ってくる寒気に、乗客はキュッと身を縮める。彼らの心を占拠するのは、ああ今日も仕事か、学校か、という朝特有のけだるさだ。顔は皆一様に下を向き、新聞やスマホを見つめながら小さく、あるいは大きくため息をこぼす。いつもなら、そんな重く暗い空間が広がっているはずだった。

 それが今日に限ってはどうだろう。なんとなくではあるが、車内の雰囲気が普段と違っている。特に女性陣、例えば、いつも決まってドアの脇に立っている大学生風の彼女は、座席シートの仕切りにぼーっともたれ掛かっているのが常だが、今日はしゃんと背筋を伸ばし、何かしらの決意に瞳を輝かせているように思える。

 すぐそばの座席に座っている女性――いつも灰色のスーツに身を包んでいる彼女は、低血圧なのだろうか、不機嫌そうに眉を寄せ、前髪をくしゃくしゃと掻いていることが多い。が、今日はそういったアンニュイな様子もなく、綺麗にセットされた髪をさらに整えようと、手ぐしで毛先をといている。頬紅をさしているのだろうか、いつもは青白い顔が艶々と血色よく見える。

 常連のこの二人、そしてその他、多くの女性たちに共通していえることは、どことなくウキウキとしていることだ。なんなら鼻歌でも歌い始めそうな、浮き足立った春の気配が車内に充満している。

 はて、今日は何の日だったか、と考えてみる。これといった記念日ではないはずだ。強いて言うなら一三日の金曜日だが、女性たちに春を運んでくる要素があるとは到底思えない。今日を乗り切れば明日から土日。だから明るい気持ちになっているのか。いや、それならば毎週陽気に満ちているはずだ。ではなぜ。

 不思議に思う龍生だったが、前方に座る女子高生たちの会話でようやく理解した。

「ねぇ、マナミは今日、先輩に渡すの?」

「もちろん! 徹夜で手作りしたんだもん。ユウコはショーゴ君にあげるんだよね?」

「そのつもり……だけど、受け取ってもらえるかなぁ。ほんとは明日がよかったんだけど、土曜じゃ会えないし」

 少女はそう言って、膝に載せたカバンをキュッと抱き締める。

「私もね、手作りしてきたんだ、チョコレート――」

 そうか、明日、二月一四日はバレンタインデー。今年は休日と被ってしまうために、彼女たちは前日の今日、勝負をかけるつもりのようだ。

 女性たちほどではないにせよ、男性まで少しそわそわして見えたのは、もしかするともらえるかもしれないチョコレートに心躍らせているからだろう。

 一部世間には春が来るのか。エールを送るつもりで女子高生たちに微笑むと、気付いた少女が「ひっ!」と小さな悲鳴を上げる。

「やだ、怖い人がこっち見てる!」

「え、背も高いしシュッとしてて、オジサンのわりに……って思ったけど前言撤回! よく見たらヤバすぎだよ! まさか、その筋の人だったり……?」

「わっ、そんなにガン見しちゃダメだって! 下向いてよ、下!」

 何やら誤解したらしい少女たちがざわついている。失礼、決して怖がらせたかったわけではないのだが……。ちょうど良いタイミングで降車駅に着いた。小さく頭を下げた龍生は、そそくさと電車から降りる。

「バレンタインか……」

 改めて呟いてみる。そういえば最近、コンビニでやたらとギフト用のチョコが売られていたな……。とはいえ、そんなもの自分には関係のない話だ、と龍生は思う。生まれてこの方、三五年、本命チョコなど一度ももらったことはないのだ。

 立春が過ぎようが、バレンタインが来ようが、龍生を取り巻く季節はいつも冬。悲しいかな、北風(きたかぜ)という名字に負けぬほどに、春が縁遠い。

 性格は悪くはない……と、思う。が、龍生にチョコをあげよう、熱い思いを告白しようなどという女性は、これまで一人として現れなかった。理由は恐らくこれだ。

 人の混み合う駅の改札。ずん、と龍生が一歩踏み出したとたん、

 ――サァァァァァッ。

 群衆の波がはけ、龍生の前に道が開いた。海を割るモーゼさながらだ。

「きゃ、すみません!」「ごめんなさいごめんなさい!」「どっ、どうぞどうぞ!」

 人々の口から怯えをはらんだ声がこぼれる。何もここを通せ、と脅しつけているわけではない。特徴的な龍生の外見に、彼らが勝手に恐怖し、道を譲っているのだ。

 周囲が怯えるほどの外見とはどのようなものか。挙げてみるならば、日本人離れした彫りの深い顔立ち。顎はシュッと細めで、鼻の形はツンと尖っている。これだけ聞くと、なんだ自慢か、随分と色男ではないかと思われるかもしれない。

 が、問題は目元だ。酷く落ち窪んだ瞳は鋭い三白眼。まるで鋭利な刃物のようにギラついている。左右併せて六センチ以上。ちょっとした銃刀法違反だ。そのくらい、龍生の顔には悪い意味で迫力がある。

 どのくらい怖いかというと、生まれたばかりの龍生を取り上げた助産師が、可愛い赤ちゃんですよー、と言うのをためらったほどだ。その後、順調に鋭さを増していった風貌は、こうして人々に毎朝避けられるまでの、ナチュラルな凶悪顔に仕上がってしまった。どこかの組員ではと、あらぬ疑いをかけられることもしばしばだ。

 不用意に威嚇せぬよう、目元を前髪で隠しているのだが、一八〇センチを優に超える身長では、否が応でも目立ってしまう。妹からは、『目を閉じてればそこそこなのにねー、寝顔とかさー!』と、よく茶化されているが、常に睡眠状態というわけにもいかない。ハァと嘆息して、不自然に空いた改札を抜ける。

 昔からずっとこの調子だ。身内以外の女性から好意を寄せられたことのない龍生にとって、バレンタインなど異世界の行事としか思えない。

 駅を出た龍生を待っていたのは、凍みるように冷たい北風だ。真っ黒なロングトレンチの襟を立て、風をよけるように歩く。途中、自販機でブラックの缶コーヒーを買い、カイロ代わりに暖を取りながら会社へと急いだ。

 龍生が勤めているのは、国内でもそこそこ名のある日用品メーカーだ。化粧品や洗剤、ペット用品、健康食品と、扱っている製品は多岐にわたる。入社時の龍生は営業を担当しており、売り上げも決して悪くはなかった。が、客が怯えるとの理由で、ある日突然異動になった。契約を取った会社から後日、販売方法が恐喝のようだったとクレームが入ったのだ。

 龍生としては、口下手なりにも誠心誠意商品を勧めただけなのだが、血に飢えた狼にしか見えなかったらしい。極度の近視のため、やたらと目を細めてしまう癖があるのだが、それが目付きの悪さに拍車を掛けてしまったようだ。

 その後内勤となるも、『北風さんが怖くて仕事がやりづらいです』との内部告発からいくつかの部署を転々、現在は経理で請求関連の業務に就いている。チームワークよりも、個人作業の多いこの部署では、今のところ誰にも迷惑をかけずに職務をこなせている。

 出社後、席についた龍生は、引き出しから除菌シートを取り出し、ディスプレイとキーボード、それにマウスのホコリを除去してからパソコンの電源をオン。起動している間に、まだフタを開けていなかった缶コーヒーの飲み口を、ティッシュで綺麗に拭いてから口をつける。

 ここまでの一連の作業が、龍生が業務開始前に行う習慣だ。あのウキウキそわそわした車内とは違う、いつも通りの、代わり映えのしない一日が始まる。

 ――と、少し遠くの方で声がした。

「これ、休憩のときにでもどうぞ。日頃の感謝を込めて!」

「あぁ、ありがとう。そうか、明日はバレンタインか」

 後ろの島で疑似ウキウキが展開されている。どうやら女性社員たちが義理チョコを配っているらしい。女性は大変だな、この後も一人一人回っていくのだろうか。社員全員に配らなければならないという決まりもないし、結局は自己判断か――? 

 そんなことを考えながら、業務メールをチェックしていると、

「よしっ、次は経理部を回ろ……ひっ……!」

 こちらの島まで来た女性社員たちの動きが止まる。ああ、確か彼女たちは去年入ってきたばかりの新入社員だったか。よろよろと後ずさった彼女たちが、小声で何やら相談している。

「どうしよう、あそこ北風さんいるんだけど、すっごい怖い顔してる。こんなのあげたら怒られないかなぁ?」

「後ろから見るとイケてそうなのに、前から見ると悲惨……っていうか、目だけ異次元に迫力あるよねー。変に絡まれても困るし、北風さんだけスルーしちゃう?」

「それはさすがにマズイでしょ。他の人にはあげるのに一人だけナシなんて、後でどんな目に遭うか」

「そっか! あの人、会社の飲み会で同僚殺しかけたことあるんだっけ……! なんでも、裏ルートで入手した怪しげな凶器で……」

「しっ! あんまり大きな声出すと聞こえちゃうよ?」

 全部聞こえている。が、素知らぬ顔でメールチェックを続ける。

 それにしても、まだあの件が噂されているとはな……。身に覚えはあるが、殺したかったのは同僚ではない。だが、今さら弁解するつもりもない。それが無駄なことだと、十分すぎるほどわかっているのだ。

 龍生が何か言おうとしても、強面が邪魔して相手が身構えてしまう、先走ってしまう、誤解されてしまう。そんな中、何か話そうものならさらに怖がられる、下手すれば泣かれる、どうしようもなくこじれる――結果は目に見えているのだ。そんな人生を生きてきた今、誤解を解くことすら面倒になってしまった。

 そもそも、龍生は口数が多い方ではない。心の中では饒舌でも、その実かなりの話し下手なのだ。幼少時からこの顔だ。話し掛けるとまず怖がられてしまう。不用意には脅かすまい、そう思ってなんとなく発言を自粛してきた結果、自分の言いたいことを上手く伝えられなくなってしまった。愛想のない受け答えしかできなくなってしまった龍生は、周囲には顔の怖い無愛想な男として認識されている。

「で、どうする? 隣の人に頼んで渡してもらう?」

「それもなんか露骨だよね、いかにも避けてますって感じで……。あーあ、北風さん、席離れないかなぁ……」

「それだわ! 北風さんがトイレとか行った隙にチョコ置いて逃げちゃおうよ!」

 もういい、やめてくれ……! 耳を塞いでしまいたい思いの龍生をよそに、

「そうと決まれば経理は後回し! 先に上の階の営業部とか回っちゃお?」

 早々に切り替えたらしい女性社員たちが、楽しげにフロアを駆けていく。

 そういえば、別の社員からではあるが、去年は社内便でチョコをもらったな。たった一つ、小さなウイスキーボンボンが、大きな封筒に入って回ってきた。同じ部署の、それも斜め前の席にいるのに……。もらっておいてなんだが、もはや義理チョコというより、拷問チョコだ。気持ちはありがたいが、そこまでするほどなら、いっそくれないでくれ。むしろ、いらない。悲しすぎる。

 そんなにこの顔が恐ろしいか? 

 義理チョコさえも面と向かってもらえない龍生は、つい考えてしまう。顔以外に避けられる理由など……むっ! まさか、知らぬうちに臭気を放っている――? 

 そうか、もう三五だからな。清潔には充分すぎるほどに気をつけているつもりだが、それをもってしても抑えきれぬオヤジ臭が、社内を汚染しているのかもしれない。

 なんたる失態だ! そんなにも強力だったのか私のスメルは……!

 すんすん。恐る恐る、己の脇に顔を近付けて確認してみる。駄目だ、加齢のせいか鼻が鈍っていて自分ではわからない!

 明日からは始業前の儀式に、己への消臭スプレー噴射も追加してみよう。それでも駄目なら朝シャンをして、昼には会社近くの銭湯に行って汗を流すか。そうすれば不快な臭いも消え、来年には晴れて義理チョコを手渡ししてもらえるかもしれない。

 ふむ、それでいこう! 気分一新、業務に集中する。今行っているのは、取引先へ発行する請求書の作成だ。社内各部署からの指示に従い、専用フォームに請求額を打ち込んでいく。没頭しているうちに午前の業務が終了。昼休みに入り、いつもの定食屋でいつもの日替わり定食を注文した龍生は、いつも通りに完食して会社へと戻る。

 先ほどの子たちからだろうか、席について視線を落とすと、机に小さなチョコが置いてあった。これはまぁ、妹にでもやるか。龍生が拷問……もとい義理チョコを、引き出しに仕舞おうとしたところで、ふわり、と花の香りがした。

「北風さん、今お話ししても大丈夫ですか?」

 透き通るような声に顔を上げると、書類の束を手に立っていたのは三春(みはる)千紗(ちさ)――入社五年目、海外事業部の若きエースで、噂によると、通常の三倍の速さで業務をこなすという彼女だが、その外見はキリッとしたキャリアウーマンというよりはかなりフェミニンで、たおやかな印象を受ける。

 ぱっちりとした瞳を縁取る睫毛はくるんとカールしており、瑞々しい頬はまさしく薔薇色。胸のあたりまである栗毛は、先だけふんわりと巻かれ、ブラウスの派手すぎないフリルも相まって可憐だ。

 はっきり言ってかなりの美人だが、そんなことよりもさらに注目すべき点がある。

「これ、請求書の作成お願いします」

 ニコリ、と微笑みながら、手にしていた書類を差し出す彼女。

 そう、三春は龍生を怖がらないのだ。上司ですら怯える恐怖の三白眼を。

 はい、と答えた龍生は丁重に書類を受け取る。ご安心ください。この北風、作成する書類はいつも完璧を心掛けてはおりますが、貴女からの依頼は特に力を入れて行います。請求書の内容にミスがないことはもちろん、印刷時のインク滲みも一文字だって許さない。社名の横の押印も、少しのズレなく綺麗に仕上げてみせます。そんな意気込みに満ちた熱い眼差しで三春を見つめる。

 熱意が伝わったのか、小首をかしげた三春が再びニコリと笑う。

「ご不明な点がありましたら、なんでもおっしゃってくださいね。それでは」

 そう言って踵を返し、自分のデスクに戻っていく三春。華奢なハイヒールで優雅に歩く後ろ姿も、ため息がでるほど絵になる。

 受け取った書類に目を通すと、注意点が丁寧に示された付箋がいくつも貼ってある。なんという細かな気配り。彼女の依頼書はいつもわかりやすく、仕事がしやすい。

 ――相変わらず、すごい人だ。

 龍生のいる経理部の一つ向こうの島に、三春の所属する海外事業部がある。近視の龍生にはぼやっとしか見えないが、それでも、いつもてきぱきと仕事をこなしている三春の様子が十分に窺える。ハキハキと上司に業務報告、後輩のフォローにも優しくあたり、ときに英語を使った電話応対に励む――そんな彼女のよく通る美しい声が、龍生の耳にも聞こえてくるのだ。自分より一〇歳近くも年下だというのに、本当にしっかりした人だと常々感心している。

 それに何より、三春は龍生のことを恐れず、微笑みまで見せてくれるという、身内以外では唯一無二の存在でもある。彼女とのやり取りは、それがどんなに短いものだとしても、龍生にとっては至福の時間だ。三春の優しい笑顔に、年甲斐もなく恋をしているのだ。

 再び視線を落とすと、開けっぱなしの引き出しには例の拷問チョコが見える。たとえ拷問でも、三春にチョコをもらえたらどんなに幸せだろう、と夢を膨らませる。

 だが、そんなことは起こりえない。彼女と仕事以外で会話することなど皆無。仕事にしても、今のように一言、二言交わすだけの関係でしかないのだ。

 ただ遠くから見ているだけでも、十分に幸せじゃないか――。

 現実に戻った龍生は、引き出しを閉じて業務を再開。黙々とパソコンに向かい、専用フォームに請求額を打ち込む、打ち込む、打ち込む。機械のように淡々と、同じ作業を繰り返す。

 そうだ、世間に春が来ようとも関係ない。北風龍生はいつものように粛々と業務を遂行する、ただそれだけの男なのだ。


 もうこんな時間か……。作業の途中で手を止め、壁時計を確認すると、時刻は二〇時を回っていた。気付けば経理の人間はもう全員退社している。

 何時間も続けて画面を見ていると、さすがに目が疲れる。ぱちぱちと何度か瞬きしたあと、右、左、上、下と順番に眼球を動かす。視力低下予防の眼筋ストレッチだ。

 これ以上近視が進むと裸眼での日常生活が困難になってしまう。いかん、それだけは何としても阻止せねば。メガネにもコンタクトにも頼らないと固く心に決めている龍生は、眼筋を緩めようと、顔を上げて遠方を見やる。

 金曜の夜だからだろうか、フロアにはもうほとんど社員は残っていない。が――龍生は遠くに女神を見た。あそこにいるのは三春さんではなかろうか?

 目を細めて確認すると、蛍光灯の光よりも神々しく輝いているのは、ああ、やはり三春千紗だ。真剣な顔でモニターに向かっている。周りに人がいないところを見ると、あの島に残っているのは彼女だけなのだろうか。

 そのとき、電話が鳴った。経理のものではない。三春のいる一角――海外事業部のものだ。

 手が離せないのか、三春が電話に出る気配はない。もう営業時間外だ、普通ならこの時間に電話などかかってこないはずだが、呼び出しベルはなかなか鳴り止まない。

「電話、こっちで取りましょうか?」

 少し腰を上げて聞いてみる。居留守するにしても、地味にうるさい呼び出し音の中、仕事を続けるのも大変だろう。私が出て、海外事業部の人間はもう帰ったと伝えてしまえばいい。そう思った龍生だったが、

「いえ、大丈夫です。うるさくってすみません」

 困ったように笑った三春は、ふんわりと巻かれた髪を耳に掛けると、すうっと大きく深呼吸してから受話器を取る。

「はい、ミモザ・プディカ株式会社です。Ah speaking.Yes……ah……could you hold on please?」

 おお、突然英語に変わった。そうか、海外事業部だと時差の関係でこの時間の電話もアリなのか。龍生が遠くから見守る中、隣のデスクからファイルを引っ張り出してきた三春が、何やら調べている。担当外の案件で問い合わせがあったようだ。

 彼女が電話に出てくれてよかった。情けない話、英語はさっぱりなのだ。淀みなく会話を続ける三春に、龍生はまたも感心してしまう。が、同時に心配にもなってくる。

 あんなに若いお嬢さんが、こんなに遅くまで働いていていいのだろうか。夜道も危ない……というかそれ以前に、こんな週末の、それもバレンタイン前夜に、会社に残っていていいのか。一足早いバレンタインデートなんて予定が入ってそうだ。大丈夫なのか? 遅刻じゃないのか? 相手は待ってくれているのか?

 余計なお世話だろうが気掛かりだ。とはいえ、彼女に代わって仕事ができるわけもない。気の毒に思いつつも、中断していたデータ入力を再開、きりのいいところで作業を終えると、パソコンの電源を落として机周りの整理を始める。朝と同様に、ディスプレイとキーボード、マウスを拭くのも忘れない。

 いつものような出社に、いつものようなルーティンワーク、いつものような業務の終わりには、いつものような終業の儀式が欠かせないのだ。


 掃除を終え、更衣室に向かった龍生はロッカーに掛けてあったコートを羽織り、エレベーターホールへと歩き出す。――と、通りかかった休憩室から、「本当に?」と驚く男性社員の声がする。休憩室の入り口は、ドアではなく、パーティションで区切られているため、中の音が漏れ聞こえてくるのだ。

「それでこんな遅くまで残っててくれたの? これを僕に渡すために……?」

「はい、もし迷惑でなければもらってください。先輩のこと、入社したときからずっと素敵だなって思ってて……。義理じゃ、ないですから……」

 この声は確か、拷問チョコを配っていた女性社員の一人だ。昼間とは違う意味で震えた切なさの滲んだ声に、相手の男は優しく応えて、

「嬉しいよ、僕も君のこと可愛いなって、ずっと気になってたんだ」

 これ以上はとても聞いていられない。思わず立ち止まってしまった龍生ではあったが、胸焼けしそうなほどの甘い空気に再び歩き始める。

 本命チョコか……。若いな、まさか社内で本物のウキウキに遭遇するとは。そういえば、朝、電車で居合わせたあの子たちは、無事にチョコを渡せたのだろうか。受け取った男性陣は今ごろ、この世の春を謳歌しているのかもしれない。

 羨ましい……いや、羨ましくなどない。甘い物は苦手なのだ。チョコレートなどもらったところで、どうせ食べられない。強がりに聞こえるかもしれないが、事実だ。

 ああ、それでも母からは毎年もらっていたな――と、思い返す。

 バレンタインの恩恵を何一つ受けずに帰ってくる哀れな息子に、母はいつもビターチョコレートを用意してくれていた。子どものころからずっと、社会人になってからも続いていた。いろいろほろ苦いからやめてくれと言っても聞かず、そんな母を鬱陶しく思うことさえあったが、その母も病気で亡くなってしまった。

『いつか龍生が素敵な女の子から本命チョコをもらえる日までは、これは私の役目だから絶対にやめないし、誰にも譲らないわ』

 三年前、病室のベッドから母が差し出してくれたチョコを、つまらない意地で無下にしてしまった。どうしてあのチョコを受け取ってやれなかったのか。遅すぎる後悔に、胸が痛む。

 もうすぐ命日か――。今思えば、あれこそが愛情のこもった本命チョコだったな。もう二度とそんなチョコ、もらえはしないが…………。

 いかん、妙に感傷的な気持ちになってしまった。ふっと顔を上げると、仕事はもう終わったのだろうか、エレベーターの前に三春の姿があった。しかも、困ったように膝をついている。どうやら、パンプスのかかとが折れてしまったようだ。

 三春は取れてしまったヒールを手に、途方に暮れている。一〇センチ近くもあるヒールだ。片足が折れた状態では歩きにくかろう。不憫に思う龍生だったが、はっと思いついて彼女のそばに駆け寄る。

「三春さんっ! どうか……これをっ……!」

 緊張に手を震わせつつ差し出したのは、携帯用の使い捨てスリッパだ。

「北風さん……?」

 振り向いた三春が面食らっている。当然か。いきなりスリッパを突き付けられて、戸惑わない方がおかしい。

 もともとこのスリッパは、病院などで靴を脱がねばならない、そんな緊急事態に備え、常にカバンに入れているものだ。どこの誰が履いたかもわからない、それも多様な菌が跋扈(ばっこ)する場所に用意されたスリッパなど、とても使えない。医者が大丈夫だと勧めても、己の信条が許さないのだ。――が、幸い今夜は病院に行くこともなさそうだ。壊れた靴の代わりに使ってもらえれば、と思ったのだが……。

「緊急事態のスリッパ……菌が跋扈……許さない……を…………」

 困った。口下手が邪魔して上手く話せない。これでは外国人の片言ではないか。ええい、まどろっこしい説明はもういい。要は彼女の助けになればそれで構わないのだ。

「とりあえずこれ、履いてください!」

 気を取り直して、再度スリッパを差し出す。パイル地なので履き心地もフカフカです。もちろん未使用、信頼の日本製でもあります。その素敵なパンプスには遠く及びませんが、急場しのぎにはなるでしょう。さあさあどうぞ、遠慮なさらずお使いください。そんな思いを込めて三春を見つめる。

「ありがとうございます……」

 戸惑いつつも立ち上がって頭を下げた三春は、受け取ったスリッパに履き替える。すらっと背の高い印象の彼女だが、靴を脱いだ状態では、一五五センチもないようだ。急に背が低くなったようで、そのギャップがなんだか愛らしい。

「すみません……」

 恥ずかしそうに俯いた三春が、エレベーターのボタンを押す。

 二人きりになってしまった……。エレベーターに乗り込んだ龍生は、隣に立つ三春の存在が気になってしょうがない。これを機に、もっと自然に話せるようになればいいのだが。仕事でも、それ以外でも――。

 そうは思っても、気の利いたことなど何一つ言えない。普段妹としか話さない、というより話せない龍生にとって、一歩踏み込んだフリートークなど、ハードルが高すぎるのだ。せっかくのチャンスだというのに、先ほどから続いているのは、ただただ沈黙のラリーだ。まずは会話の糸口を見つけねば、と頭をフル回転させる。

 困ったときはお天気ネタが鉄板だが、日もとうに暮れた今さら、今日はいい天気ですね、などと切り出すのもおかしかろう。ならば、明日の天気に言及してみるか?

 ふぅむと唸っているうちに一階に到着、エレベーターのドアが開く。

 結局、一言も話せぬまま、好機を逸してしまった。ほっとしたような、残念なような。複雑な思いにとらわれつつエレベーターを降りると、

「あのっ……」

 ずっと黙っていた三春が、突然口を開いた。

「これ、よかったら受け取ってくださいっ!」

 ぎゅっと目を閉じた三春が、華奢な両手を震わせながら差し出してきたのは、赤い包装紙で綺麗にラッピングされた小箱だった。パッケージに貼られたハート型のシール。そこに印字された言葉はなんと――Happy Valentine's Day!

 こっ、これはまさか――――?

 辿り着いた一つの可能性。あまりのことに全身が震える。

「三春さん、これは…………」

 小箱を受け取りつつも、真意を知りたくて彼女を見つめる。うるうると潤んだ切なげな瞳が揺れる。照れているのか、ぱっと顔を背けた三春は、

「失礼、します……」

 それだけ言い残して駆けていく。彼女の足には大きすぎるスリッパをパタパタと鳴らして。

 エレベーターホールに残るのは甘い花の――三春千紗の香りだ。

「も、もらってしまった……。おおお、もらってしまった…………!」

 驚きと喜びと当惑と――様々な感情が一緒くたになった龍生は、チョコレートが入っていると思しき箱を手に打ち震える。

 バレンタインなど恋愛上級者たちの嗜む贅沢な祭典だと、どんなに世間が浮かれ気分でも、自分だけはいつもと変わらぬ一日を送るのだと、そう思っていたのに――。

 奇跡だ、奇跡が起きた。三五年に一度の奇跡。これまでの人生において、恋愛に関しては一度も微笑んでくれなかった神が、突如態度を変えてきた。

 この私がチョコをもらうなどと! それもあの三春さんから!

 おお神よ、ありがとう! あなたはこの日のために、笑いをこらえたもうていたのか! 身に余るほどの幸せに、龍生はふらりとなる。ああ、今なら空も飛べそうな気がする。三春の姿を思い浮かべ、自然と顔がほころんでしまう――が、

 いやいやいや落ち着け、冷静になれ北風龍生! このチョコに特別な意味なんてないんだ、義理だ義理! と、慌てて己に言い聞かせる。

 いや、たとえ義理でもあの三春千紗からもらえるなど、十二分に光栄なことではあるのだが、まあとにかく落ち着け。変な期待はするなよ? これが青春時代なら淡い期待に胸を膨らませてしまう、そんな愚行に走っても許されるだろう。が、もういい大人なんだ。若者というより、もはや中年。酸いも甘いも噛み分けた……いや、基本酸っぱいものしか噛んでこなかったような気もする……悲しい。――が、いずれにせよ、もう子どもではないのだ。

 有り得ない夢を見るのはよせ。あの三春千紗が、一〇近くも年の離れた枯れかけのオジサンに、本命チョコなどくれるわけがないではないか。

 そう、これはただの義理チョコだ。いつも世話になっているからと、別の課の、それもほとんど絡んだことのない私にまでくれるとは、若きエースはやはり違うな。気配りと慈悲深さが並みではない。

 荒ぶる心を説き伏せた龍生はカバンにチョコを仕舞い、いつものように帰路につく。

 ああ、また駅の改札で不自然に道が開いた。ほらみろ、やはりこういう星の下に生まれているのだ。浮かれて馬鹿を見るのはお前だぞ。目を醒ませ、北風龍生よ。

 駅のホームで冷たい風に吹かれながら、龍生は何度もそう心に唱え続けた。