※本ページは、メディアワークス文庫『チョコレート・コンフュージョン』の公式サイト限定特別書き下ろしストーリーです。
――ああ、この会社には天使がいる……!
デスクのパソコンで黙々と請求データを入力していた龍生(たつお)は、ふっとその手を止め、一つ向こうの島の海外事業部を見やる。
近眼のためにぼんやりと広がる視界。その中でただ一人神々しく浮かび上がるのは、翳み目をも凌駕するマイエンジェル――三春千紗(みはるちさ)だ。
「三春先輩、インド向けの新規案件で、ちょっとわからないことがあって……」
「あっ、三春さん、私も教えてもらいたいことが! 後でお時間いいですか?」
次々に寄せられる後輩たちからの相談事に、「いいわよ」と微笑んだ三春は優しく、だが的確に、テキパキと応えていく。
入社五年目の二六歳、海外事業部の若きエースと謳われる彼女は、数人分の激務を一人でこなしてしまうほどの凄腕なのだが、ツンとした刺々しさは皆無で、女性らしい大らかさに溢れている。己の業務だけでもかなり忙しいはずだが、周囲への気配りも欠かさず、こうして毎日、後輩たちに頼られる日々を送っている。
「あー、この件ね。これは先方に確認した方がいいわ、後々トラブルになっても困るし。でもそうね、ちょっとややこしくなりそうだから、今回は私から連絡してみるわ。初めてのお客様だし、慎重にいきましょう」
栗毛色のふんわりとした髪を耳に掛けながら、ニコリと三春が微笑む。ただでさえ美人な彼女だが、内面の素晴らしさがその美に一層拍車を掛けている。遠目に見てもヴィーナスと見紛うほどの麗しさに、龍生の胸が痺れるように震える。
――ああ、私より一〇歳近くも年下だというのに、なんと心の優しい、出来た人だろうか。あの面倒見のよさ、まさに天使だ! コンクリートジャングルに舞い降りた天使に相違ないっ!
可憐かつ凛とした佇まいの三春に、龍生の目は釘付けになってしまう。
そう、北風(きたかぜ)龍生は年甲斐もなく恋をしているのだ。一つ向こうの島の天使、三春千紗に――。
「他に何かある人、いるかな?」
遠くから龍生が見守る中、後輩たちの相談事を颯爽と解決した三春が、念のためにと周囲の席を見回す。
「桃原(ももはら)さん、勤務時間中にプライベートのブログ更新するのやめよっかー?」
困ったように笑った三春が、隣席の後輩、桃原ミホに声を掛ける。
「えー、だって今やることないしぃー。時間無駄にするよりはよくないですかー? ほら、時は金なりって言うしぃ!」
オフィスには派手すぎる金髪ツインテールを揺らしながら、桃原が唇を尖らせる。入社一年目の彼女は、まだ学生気分が抜けないところがあり、いつもこうして天使を手こずらせている。
つい先日も、会議用にと書類のコピーを頼まれていた彼女だが、書類をコピー機に仕掛けたまま、途中で帰ってしまった。なんでも、コピーしているうちに終業時間がきてしまったらしい。
翌日、どうして途中で投げ出したのかという三春の問いに、桃原は少しの反省もなく、あっけらかんと答えた。
『いいじゃないですかぁー、コピー機にはセットしていったんだしー。あんなの最後まで見届けてたら、友達との約束遅刻しちゃいますよぉー。それに、コピーお願いね、とは頼まれましたけど、机まで持ってきてね、とは言われませんでしたしぃ』
そんな問題児にも三春は、
『桃原さん、取って帰ってくるまでがコピーだよ』
そう優しく微笑みかけていた。家に帰るまでが遠足だよ、と諭す教師のごとき愛のある対応に、他人事ながらほっこりとしてしまった。
もともと海外事業部――中でも輸出業務課は新人を怒らない方針なのだという。ゆとり世代は打たれ弱いという偏見から、前課長が決めたようだ。おかげで、新人の桃原も気負うことなく伸び伸びと働けている……のだが、自由すぎる彼女のフォローに回る三春はてんてこ舞いのようだ。
「ブログするほど暇なら、これブッキングお願い。それからインボイスとパッキングリストの作成も。できるよね?」
「えー、これどこの国ですかぁ? USA(うさ)・HOUSTON(はうすとん)向けってぇ……」
三春から差し出された書類を受け取った桃原が、仕向地を見て不思議そうに首を捻る。
「桃原さん……それUSA(ユーエスエー)・HOUSTON(ヒューストン)向けね……。ア……アメリカは知ってるんだよ……ね?」
「そのくらい知ってますよぅ。てゆーか、紛らわしいんで次からはフリガナ振っといてくださいねぇ……って、これサンプル品じゃないですかぁ。ノンコマのインボイスってどうやって作るんでしたっけぇー」
「えっ……もう何度もやってるよね、無償サンプルの輸出。前回のメモとかないのかなぁ?」
「あたし、メモとかしない主義なんでぇー。頭にキッチリ入っちゃうタイプっていうかぁー。ほらっ、先輩と違ってまだまだ若いんでぇ」
いや、それならばノンコマインボイスの作り方も忘れはしないだろうと、さすがの龍生も脳内でツッコんでしまう。ちなみにこのノンコマうんぬんの件は、これまで幾度も繰り返されてきたやり取りでもある。おかげで、端で聞いている龍生の方が作成方法を覚えてしまった。メモも取らないのに……。
遠くの席にいながらも嘆息してしまう龍生。一方の三春は、不躾すぎる桃原の物言いにも余裕の表情を見せている。足元のパンプスをチラリと見て、すぅはぁと大きく深呼吸した彼女は、
「じゃあ今回は特別にもう一度だけ説明してあげるから、次からは一人で頑張ってみてくれるかなー?」
とびっきりのエンジェルスマイルで、過去何度もあったやり取りを繰り返すのだった。
あぁ、どれだけ懐が深いんだ三春さんは! 素敵すぎて動悸が止まらないっ……!
暴れ出すような鼓動を感じつつも、我に返った龍生は眼球をぐるりと動かす。
視力低下予防のための眼筋ストレッチだ。
いくら三春に恋をしているとはいえ、仕事をサボって彼女を見つめ続けるなどという、ストーカーじみた愚行に走っているわけではない。遠くを眺めることにより、パソコン業務で凝り固まってしまった眼筋をほぐし、視力の維持を図っているのだ。
とある事情からメガネにもコンタクトにも頼らないと決めている龍生にとって、この作業は食事と同じくらい重要だ。
龍生が、右、左、上、下と眼球を動かし、目の筋肉を緩めている間も、三春に休息は許されない。
「三春君、悪いけどこれ見てくれんかねー? ここ、この操作が上手くいかんのですわー」
輸出業務課の課長、綿貫(わたぬき)からの要求に彼女は笑顔で駆けつける。昨年の秋、人事異動で配属されてきた彼は、今どき珍しいほどのパソコン音痴だ。貿易業務にも疎く、パソコン操作と併せて三春に頼りきりになっている。
「ああ、これならそこをドラッグしてドロップ……」
「ドっ、ドラッグ……?」
腰を屈めてパソコン画面を指差す三春に、綿貫が顔をこわばらせる。
「仕事が大変やからって、ドラッグはいかんよ三春君! 百害あって一利なしですけん。好奇心に負けたらいかんですよ三春君」
「や、そうじゃなくてですね、ここをこうドラッグして……」
「いやいやいや、気をつけた方がいいですわー。法の抜け道を行くタチの悪いのが流行っとるらしいんですわ、若者に蔓延しとるらしいですわー、危険ドラッグですわー」
「あの……だから薬物じゃなくて、画面上をこうやってですね……」
「ああ、それならわかりますわー、ガーッとやるやつですわー」
「ええ、それがドラッグ……」
「だからいかんよドラッグは!」
「あーもう、じゃあガーッでいいですから! ここをガーッとして、こっちにシューッとしていただければ、ここがサーッとなりますからっ! これでオッケーですか?」
専門用語での解説を諦めた三春が、綿貫にも通じる擬音で華麗に説明している。優しい!
もし私ならドラッグはもとより、クリックやスクロールなどのパソコンにまつわる超基本用語も併せてくどくどと講義、翌週には小テストまで実施してキッチリ指導してしまうところだが、さすがは三春さんだ。上司の面目を保つ見事な神対応に惚れ惚れしてしまう。
が、綿貫の方は、「助かりましたわー」と感謝しながらも、
「しっかし三春君、パソコンに詳しいのはいいですけど、ちょっと隙がなさ過ぎるんじゃないですかねー。可愛げがないような気がしますわー。このままじゃ嫁のもらい手がなくなるんじゃないですかねー」
などと、甚だ失礼な暴言を吐いている。
マイエンジェルに向かってなんということを! 聞き耳を立てながらも憤りにその身を震わせる龍生だったが、
「あはは、どうなんでしょうねー?」
三春は再び笑顔で返した。
まただ。微笑む直前に、足元のパンプスをチラ見していたような気がする。心を落ち着けるための儀式的な何かだろうか。魔法を発動させるために呪文を唱えているような、そんな少しの間があった。
何にせよ、感情的になるまいと己を律している彼女に、龍生はただただ感服してしまう。
課長とのやり取りを終え、自席へと戻った三春は隣席の桃原に、
「ごめんなさい、私、ちょっと外すけどすぐに戻ってくるから、書類の作成進めておいてね」
そう告げると、華麗な足取りでフロアを後にした。
――嫁のもらい手ならいくらでもあるだろう。
眼筋トレーニングの仕上げに、ぱちぱちと瞬きしながら思う。
あんなにも清く正しく美しい彼女がモテないはずがない。水面下では今ごろ、『三春さんを嫁にしたい人選手権』が世界規模で行われているのだろう。
くぅ、できることなら私もエントリーしたかった。や、できたところで予選敗退は確実なのだが……。
というのも、龍生と三春の接点などないに等しいのだ。仕事以外で会話をすることなどまずないし、業務で関わる際も、月に一、二度、短い言葉を交わすくらいの関係だ。龍生の方は毎日眼筋を鍛えながらも三春を見守っているが、彼女の方は龍生のことなど眼中にはない。
そもそも、一〇歳近くも年上の――もう三五の冴えないオジサンに興味を持ってくれというのが間違いだ。その上、龍生には年が離れているという以上に大きなハンデがある。というのは、
「きっ、北風さん! たっ、大変申し訳ないのですが、ぼっ、僕は……その、こっこの請求書の処理をお願いしたく参上致しましてっ……!」
背後から珍妙な声を掛けられて振り向くと、営業部の男性社員が立っていた。請求書を持つ手が小刻みに震えている。どれだけ震えているんだ。手だけが分身の術のようにダブって見える。細胞分裂でも始まりそうな勢いだ。
緊張のせいではない。彼は怯えているのだ。無断で血を吸ってくる蚊でさえも見逃してやるほど心の広い龍生を恐れ、慄いているのだ。
「…………了解しました」
これ以上怖がらせまいと笑顔を作った龍生は、書類を受け取るべくスッと手を伸ばす。――と、
「ひゃっ! す、すみませんでした! 今のナシ、ナシでいいですからっ! うわぁぁぁぁっ!」
書類を放り投げた男性社員はくるりとUターン。情けない声を上げながら全速力で逃げていく。
いったい何だというんだ。立ち上がって、散らばった請求書を掻き集めていると、同じ経理の島にいる女性社員たちのヒソヒソ声が聞こえてきた。
「今の見た? あれって営業部の新人君だよね? いくらなんでもビビリすぎじゃない?」
「仕方ないよー。北風さん、いつにも増して怖い顔で凄んでたし。悪だくみしてるのか、口の端が異様に吊り上がってたよ? 何か癇に障るようなことでもしたんじゃない、あの新人君」
誤解だ、凄んでなどいない! 三春さんを見習って、とびきりのスマイルで迎えようとしただけだ!
心の中で猛抗議するが、決して声には出さない。黙々と請求書を拾い集め、何事もなかったように席に着く。
悲しいかな、顔が怖いのは事実なのだ。特に目元。法外に危険だ。ギラリと鋭く尖った迫力ある三白眼が、本人の意思とは関係なく周囲を脅しつけてしまう。下手に反論しようものなら、『北風が突然キレ出した!』と余計に怖がられるのがオチだ。
誕生より三五年、幼いころからずっとこの調子だ。強面のせいで当然のように避けられ、何の言い訳もできぬまま孤立してしまっている。
そんな巨大なハンデを持つ龍生が三春の恋愛対象になるなどという奇跡は、たとえ年の差抜きにしてもありえないことなのだ。それは龍生自身も、充分すぎるほどに理解している。
幸い、経理の職務上、月に一、二度は彼女と相まみえることができる。織姫と彦星以上の頻度で会話できるのだ。それだけでも十分に幸せではないか――。
そんなことを考えながらも、依頼主に放棄された請求書に目を通す。
これも一応、処理した方がいいんだろうな……。
パソコンに向かう龍生の耳に、「それにしてもほんとに怖いよねー、北風さん」と、またもヒソヒソ話が聞こえてくる。
「どっかの組上がりなんでしょ? 相当悪いことしてたらしいよ。この会社にも社長を脅迫して入ったとか。結構な弱みを握ってて、今も裏でいろいろ要求してるんだって」
そんなバカな! 社長と会話したことなど一度もない。というか、入社式以来その姿を見ていない!
「やっぱり……かなりアウトローなんだね、北風さん。そういえば家で大麻栽培してるらしいよ。古巣の組に言い値で売りつけてるって聞いたことある」
それもガセだ! 亡き母の残した草花を育ててはいるが、全て合法、極めて安全な品種だ。たくさん咲いた花を、手入れがてらお隣さんに分けたことはあるが、決して売りつけてなどいない! それも、私が渡すと顔の怖さでご近所トラブルに発展する恐れがあるため、妹経由(二十歳の女子大生。兄には似ておらず、身内のひいき目なしに可愛い)で届けているんだぞ、くぅぅ悲しいっ!
そういえば昔、同僚に家で何をしているのか聞かれたことがあったな。特に趣味もないので『家事や植物を少々』と答えたのだが、誤解の原因はそれか――?
よもや、家事と言ったのも火事――火付けの方に取られてはいまいな? 皆想像力が逞しすぎるので不安だ。
だが今さら訂正しようにも、話し掛けるだけで怖がられてしまう。口下手もあってなかなか弁解できない龍生には、ツッコミどころ満載の黒い噂が絶えない。
「そういえば北風さん、いつも海外事業部の方見てない?」
ドキリ!
龍生の心臓が大きく跳ねる。
もっ、もしや、マイエンジェル三春への恋心がバレてしまっているのか? それはさすがに恥ずかし過ぎるっ――!
思わず顔を覆いたくなってしまう龍生だったが、
「あー、それたぶん組員時代にやってた密輸に思いを馳せてるんじゃないかな? 懐かしくてつい見ちゃうんだよ。めくるめく思い出があるのか、目をぐるぐる回しちゃってることあるし!」
違う! あれはただの眼筋体操だ! ……が、今回はそれでよしとしよう。三春さんへの思いが気付かれていなくてよかった……。
ふぅと小さくため息をつき、無言のまま席を立つ。このままでは業務に集中できない。気持ちを切り替えようと、龍生は休憩室へ向かった。