チョコレート・コンフュージョン


 翌日、少し早めに出社した千紗が更衣室のロッカーを開けると、紙袋に入ったチョコが山のように置いてあった。恵里子だ。紙袋の上には、『千紗、ありがとう&愛してる! 一個オマケしとくわ!』と、キスマーク付きの付箋が貼られている。

 もう会社来てるんだ。いつもはわりとギリギリなのに。不思議に思ったが、ああそうか、今日は恵里子、チョコ配るので忙しいんだわ、と納得。コートとマフラーをハンガーに掛けて、足早に更衣室を出る。

 今日は金曜――土日に滞る分も、できる限りの仕事を済ませておかなければ、月曜に地獄を見るはめになる。休日前は、いつにもまして忙しいのだ。

 席についた千紗は早速パソコンを起動、ざっとメールをチェックする。今のところ大したトラブルはないようだ。ほっとした次の瞬間には、定時一五分前からフライングで業務を開始する。アイコンをダブルクリック、書類作成システムを起動させたところで、

「おはよぉーございまぁーす」

 能天気な声に振り向くと、派手すぎる金髪を揺らしながら桃原がやってきた。何かあるのだろうか、ツインテールが普段より高い位置で結んである。

「おはよう、今日は早いのね」

 いつもは恵里子よりもさらにギリギリの出社なのに。まさか、週明けに備えて早めに来てくれたの……? なんて一瞬期待しちゃったけど、そんなわけないか。この子も恵里子みたいに義理チョコばらまく気かな……。

 返答を待っていると、「せんぱ~~い」と、妙に甘い声を出した桃原は、

「今日あたし、定時より一五分早く来たんでー、定時より一五分早く帰ってもいいですかぁー?」

 壁時計を指差しながら、満面の笑みを浮かべる。いいわけないでしょ! あっさり却下すると、むっすぅと唇を尖らせた桃原が、ケチと呟いて着席する。大方デートの約束でもあるのだろう。じゃあ定時ジャストで帰ります、とそっぽを向いた。

 宣言しなくたって、いつもそうじゃない。残業なんてほとんどしたことないくせに。

 そうこうしているうちに時間は過ぎて、他の社員たちも出社してきた。

「おはようございます、三春さん。今日も素敵ですね。その服、よく似合ってます」

 向かいの席の後輩が、ペコリと頭を下げて着席する。

 そんなことないわよ。口ではそう言いつつも、オシャレは完璧に仕上げたつもりだ。

 足元を飾るのはもちろんハイヒール。今日の一足は、ミッシェル・ロザリーの新作で、春を先取りしたライトピンクのエナメルパンプスだ。三万オーバーと、決して安くはなかったが、文句なしに可愛い。一〇センチ以上もあるヒールは、いつもより少し高くて慣れないけれど、これを履きこなせてこそ一人前のレディだ。

 今日は大忙しの金曜日、とっておきの一足で気分を上げていかなくちゃ!

「三春さん、ちょっとすみません、この件なんですが……」

 早くも持ち込まれる後輩からの相談事を、いつものように颯爽と解決。緊急出荷のアレンジに、通関書類の作成、クライアントとのコレポン等々、流れるように仕事を片付けていく。が、その動きに急に赤信号がともった。原因は隣に座る問題児――桃原ミホだ。

 念のためにとチェックした彼女の書類にミスばかりが見つかる。というかミスしか見当たらないという末期状態。「桃原さん!」と注意するも、例によって反省する気はゼロ、相変わらずメモ一つ取らない。それどころか小生意気な顔で、

「その書類もう飽きちゃいました。他に何かないんですかぁ? あたし、自分にしかできないような仕事がしたいんですけどぉ。それ、あたしじゃなくてもできるしぃ」

 はいー? その飽きちゃうほどやってる書類を間違えまくっちゃうのはどこの誰なのよ! 問題ばかり起こすから、何もしないで座っててもらうのが一番だけど、仕事をさせないわけにもいかないから、わざわざ簡単な案件を選んで回してるっていうのに……。苛立つ千紗に、桃原は続けて、

「てゆーか、どうせチェックするなら、最初っから先輩がやればよくないですかぁ? いちいち検閲みたいにされるの、テンション下がるぅ~~」

 こっちはチェックしたくてしてるわけじゃないんですけどっ!

 小憎らしい桃原の両頬を、オタフクみたいにビヨーンと伸ばしてやりたい衝動に駆られるけれど、我慢我慢。大人だもの、余裕の笑顔でかわさなくちゃ。

 足元のハイヒールをチラ見して気持ちを落ち着けた千紗は、「とにかく、すぐに直してちょうだい」と、己の仕事に戻る。

 その後も、たびたび桃原のフォローに追われ、気付けばとっくに正午を過ぎていた。

 周囲がランチに出掛ける中、通勤途中に買っておいたパンを頬張りつつも作業を続行、昼休みが終わるころにようやく、午前分の仕事を終えることができた。が、息をつく暇もなく午後の業務が始まる。

 いけない、これ経理に回しておかなきゃ。机の脇によけておいた請求書作成用の書類を目にした千紗は、一つ向こうの島にいる、請求担当の北風龍生を遠目に偵察する。

 パソコンに向かう彼の表情は相変わらずのド迫力だ。落ち窪んだ切れ長の三白眼は、いつも周囲を威嚇している。目の下の黒々としたクマも不気味で恐ろしい。

 入社前は某組員として日本の裏社会で暗躍してたとか、卓越した狙撃術で海外にまで進出、東南アジアのヤバい筋とドンパチやり合ってたとか、入社後は営業部で恐喝まがいのセールスを強行、経理になった今でも、未払い業者に犯罪的手口で支払い催促してるとか、顔が怖い上に悪い噂しか聞かないし、正直苦手な相手だ。

「これで、大丈夫よね……?」

 書類の束を手に取って確かめる。元データは念入りに確認したし、いつもと違う項目や、わかりにくい箇所には付箋をつけて説明してある。不備があるぞ、なんて、いきなりどやされることはない……と思う。本音を言えば話し掛けるのも怖いけど、これは仕事なんだし、放り出すわけにもいかない。よし、行こう。

 立ち上がった瞬間、ハイヒールはやっぱり武装なんだなぁと思う。いつもより少し高めの視界に勇気が湧いてくるのだ。一〇センチヒールを華麗に履きこなし、北風のいる経理へと向かう。

 北風は、社員の誰かからもらったらしい義理チョコを、デスクの引き出しに仕舞っているところだった。彼でもチョコもらうんだ……と、変に感動してしまう。

「北風さん、今お話ししても大丈夫ですか? これ、請求書の作成お願いします」

 怯える気持ちを必死に抑え、ニコリと最大限の作り笑いで差し出した書類を、北風は「はい」と、ドスの利いた声で無愛想に受け取る。

 怖い怖い怖い。なんだかすごーく睨まれている。だけど、大人の女はコワモテにだって怯んだりしないわ、と千紗は小首をかしげて余裕のスマイルをみせる。

「ご不明な点がありましたら、なんでもおっしゃってくださいね。それでは」

 そう言い残して、くるりとUターン。レディらしく優雅な足取りでデスクへと戻る。

それからはもう仕事、仕事、仕事。脅威の集中力で、忙しいなりにも緊急の案件をほぼ完遂する。あと一〇分で終業時間だが、このペースなら残業もそれほどしなくて済みそうだ。

 安堵した千紗は、帰りにDVDでも借りて帰ろうかなー、明日はお休みだし、夜更かしして昼過ぎまでダラダラ寝ちゃいたい――そんな、ささやかに贅沢な週末を思い描いて心を躍らせる。が――――

「せんぱーい、これ、月曜までに通関に回さなきゃいけないやつなんですけど、まだ書類完成してなくてぇー。でもあたし、今夜予定あるからとてもやる時間なくてぇー。ほら、今朝も言ったじゃないですかぁ、今日は定時キッチリに上がりたいってぇ!」

「で、それを私にやれと……?」

「はいっ! ミホ、まだ若いんでいろいろあるんですぅー」

 桃原が、昭和の人とは違うんでぇ、みたいな目で見てくる。ギリギリの書類があるならもっと早く相談してよ、終業前に突然言われても困るわ。

 断りたいのは山々だが、急いでいるからといって、いつも以上に手抜きされるのはもっと困る。今さら桃原に任せるより、自分でやった方がスピーディかつ確実だろう。

「もういいわ、そこ置いといて」

 悲しいかな、私には誰かとの約束なんてないし。諦めて仕事を引き取ると、桃原は「いぇーい! お疲れ様でしたぁー」と、早くも帰り支度を始める。

 全くもう……。ため息をこぼしつつも顔を上げる。ふっと感じたのは、他の後輩たちの視線だ。三春さん、私たちも大事な予定があるんです。救いの手を求めるように、うるうると揺らぐ瞳。いっそ気付かないふりをしたいけど、桃原だけ特別扱いするのもフェアじゃない。

「もし他に、急ぎの案件囲ってる子がいたら引き継ぐけど?」

 本日何度目かの作り笑いで、後輩たちの仕事を根こそぎ引き取った。


 誰もいなくなった輸出業務課の島で一人、千紗は残業を続ける。振り向くと、海外営業課のメンバーも残らず撤収したあとだった。いつもならまだ残っている時間だが、金曜の夜、しかもバレンタイン前夜だ。皆いろいろと予定が入っているのだろう。

 カタカタと響くキーボードの音がやけに孤独感をあおる。蛍光灯は明々とついているのに、フロアの人口が減っただけで、なぜか薄暗く感じる。それに、心なしか肌寒い。真上にある空調の吹き出し口からは、生暖かい風がガンガンと流れている。暖房が効いていない、というわけではなさそうだ。

 なんだろうこの空虚感。少し前にも味わったような……と思ったらあれだ、クリスマスイブ。あの日も千紗は一人、こうして残業をしていた。いつもつるんでいる恵里子も、イベント事のある日は構ってくれない。彼氏持ちで交友関係も広い彼女とは違い、こういうとき千紗はいつも孤独だ。

 バレンタインか……。海外じゃ男性から女性に告白する日だっていうし、ガラスのチョコを持った王子様でも迎えにきてくれないかなぁ。ま、私には自腹で買ったチョコが待ってますけどね、ロッカーに。一個おまけで二一個も。

 そんなことを考えながらも、キーボードを打つ手は止まらない。寂しいが、誰にも邪魔されない分、サクサクと仕事が進む。厄介なL/C決済の案件も無事に片付け、本日の業務は終了。ぐっと伸びをして、念のためにとメールをチェックする。――と、そのとき、電話が鳴った。

 こんな時間にかかってくるなんて……。急用か、それともクレームか。どちらにしても出たいものではない。本来なら業務時間外だ。もう少し粘ってみて、それでも切れなければ諦めて出よう。そう思ってメールチェックを続行していると、延々と続く呼び出し音が不快だったのか、

「電話、こっちで取りましょうか?」

 経理の島に残る北風が、ギンっと鋭い三白眼で睨んできた。

「いえ、大丈夫です。うるさくってすみません」

 作り笑顔で誤魔化した千紗は、邪魔くさい髪を耳に掛け、面倒事ではありませんように、と深呼吸してから受話器を取る。

「はい、ミモザ・プディカ株式会社です。Ah speaking.Yes……ah……could you hold on please?」

 クレームだった。しかも桃原絡みの。メールで何度催促しても、船積み通知を送ってこないのだという。あいつめー、と彼女のデスクから該当ファイルを引っ張り出して質問に答える。それで終わりかと思ったら、これまでの桃原の対応に相当鬱憤が溜まっていたらしく、延々と文句が続いた。レスポンスが遅いだの、ミスが多いだの、本当に手配しているのか不安になるだの、いや、それ私に言われても……的なことに必死に平謝りして電話を切る。

 自分に責任がないことで怒られるのって、精神的にキツすぎるんですけど……。

 言い訳もできずにメンタルだけをガリガリと削られた千紗は、また変な電話が来ないうちに逃げよう、と帰り支度を始める。

 化粧室に寄って鏡を覗くと、きゃっゾンビ! ゾンビがいるっ! ……と思ったら自分だった。チークのとれた、青白いやつれ顔は、今さらメイクを直そうなんて気さえ起こらない。

 どうせ誰とも会う予定ないんだし、いいや、このまま帰っちゃえ、と更衣室のロッカーで自腹チョコを回収、エレベーターホールへと向かう。

 ああもう、この際だからゾンビみたいに手を前に出して、うお~~って、フラフラよろよろ、バレンタイン前夜に浮かれるカップルの間に体当たりしながら帰っちゃおうかしら。

 そんなことを考えるくらい、心身共に限界だった。今の千紗を支えているのはミッシェル・ロザリーの一〇センチヒールのみだ。この時間になると、足がむくんでパンパンできつくて、つま先なんて痺れを感じるくらいに痛いけれど、家に帰ったらすぐにでも脱ぎ捨てたいっていうのが本音だけど、それでも、オフィスを出るまではちゃんとしたレディでいなくちゃ。

 最後の大人力を振り絞って、エレベーターホールに着いた千紗。ほどなく来たエレベーターに乗り込もうとした瞬間、ふらり、と立ちくらみがした。

 いけない! 必死に踏みとどまろうとしたそのとき、

 ――バキッ!

 変に力を加えてしまったせいだろうか、パンプスのヒールが折れてしまった。

「うそでしょ……」

 屈んで足元を確認すると、右側のかかとが綺麗に取れてしまっている。

 鎧が……私の鎧が砕けてしまった……。それも、三万以上もしたミッシェル・ロザリーの新作。試着以外で履くのこれが初めてなのに、クレジットの引き落としだってまだ残ってるのに……。それなのにこんなにもあっさりと、こんなにも絶望的なタイミングで壊れちゃうなんて……。

 ――ダメだ、もう戦えない。一歩だって歩けない……。

 後ろから槍で突き刺された騎士のように、ガクリとその場にくずおれる。

 もう無理よ。それこそ白馬の王子様でも迎えにきてくれなきゃ、私、立ち上がることさえできない。半泣き状態で肩を落とした刹那、

「三春さんっ!」

 突如掛けられた男性からの声にドキンとする。

 まさか、本当に王子様が――?

 淡い期待を胸に、千紗は振り返る。そして、ピシィッと凍り付いた。

 背後に立っていたのは、白手袋にマント姿の王子様などではなく、黒い革手袋にロングトレンチの、殺し屋然と佇む北風だったのだ。

「どうか……これをっ……!」

 差し出してきたのはガラスの靴……ではなく、どうしてなの? 使い捨てスリッパだ。ホテルとかでよくもらえる、白いパイル地の、薄ーいやつ。

「北風さん……?」

 彼の手はわなわなと震えていた。もしかして怒ってる? しかも、何やらぶつぶつ言い始めた。「緊急事態」とか「菌が跋扈」とか、意味不明なワード。続けて聞こえてきたのは、耳を疑うようなとんでもない言葉だ。

「許さない……」

 北風は、怒りに満ちた震え声でそう言った。

 えぇぇ、いったい何なの? 私恨まれてるの?

 まさか、今日依頼した請求書のデータに致命的なミスがあったとか、さっきの電話が耳障りすぎて今でも苛立ってるとか――?

 頭が真っ白になって、何も言えない、動けない。

 そんな千紗に、殺し屋……ではなく北風は、迫力ある切れ長の目をギラリと光らせて、「とりあえずこれ、履いてください!」と、手にしていたスリッパを再度突き付けてきた。

 許さないって、スリッパ履かなきゃ許さないってことだったのね……。

 ヒールを折るなんて、靴の手入れもできないだらしない女め! とか怒っているのかも。でも違うのよ、これ新品なのよ、おろしたて! なのにバキッといっちゃったのよ! 消費者生活センターもビックリなクオリティなのよ!

 反論したいけれど、できない。だって怖いもん。カタギの人にはありえない気迫が、彼の体から溢れ出している。うかうかしていると刺されてしまいそうだ。

「ありがとうございます……」

 震える足でなんとか立ち上がった千紗は、失礼のないように一礼、スリッパを受け取って履き替える。パンプスの中で窮屈そうにしていたつま先が、一気に自由を取り戻した。足の裏に当たる、ふわふわのパイル地が意外と心地よくて、思わず苦笑してしまう。

 北風の怒りは収まったのだろうか。確認したいけれど、顔を見るのが怖くて俯いた。

「すみません……」

 とりあえず謝ってみる。エレベーターのボタンを押してから、脇によけておいた荷物と脱いだパンプスを回収、北風とともにエレベーターに乗り込む。

 先ほどから北風は、一言も口にしない。スリッパには履き替えたし、もう怒っていないということだろうか。怒りのツボがよくわからない。

 何か話し掛けた方がいいような、このまま黙っておいた方がいいような……。

 とはいえ、北風のおかげで助かったのも事実だ。壊れたパンプスでは、とても家までたどり着けなかった。修理しようにも店は閉まっている時間だし、かといって裸足で帰るわけにもいかない。軽く足首を捻ってしまったのも痛む。

 ――そういう意味では、彼に感謝した方がいいんだよね? いきなり怒られたのは怖かったけど……。

 ふっと視線を落とすと、手にしていた紙袋が目に入る。恵里子から買い取った大量のチョコレートだ。全部自分で食べようと思っていたが、一つくらい本来の目的に使ってあげた方が、義理チョコも役目を果たせて嬉しいのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに一階へ到着、結局一言も会話することなくエレベーターから降りた。このまま帰っても問題はないと思うけど、北風さんにはこれからも仕事でお世話になるわけだし……。

 決心した千紗は、「あのっ……」と、北風を呼び止め、

「これ、よかったら受け取ってくださいっ!」

 紙袋から出したチョコを、勢いに任せて差し出す。

 ぎゅっと目を閉じ、ていっ! と。

 義理チョコを渡しているというより、剣道の試合で『めーんっ!』と竹刀を振り下ろす感じに近かったかもしれない。強敵を前に、チョコを持つ手がガクガクと震える。

 感謝しているとはいえ、怖いものは怖い。

「三春さん、これは…………」

 どうしよう。チョコを受け取った北風が怒りにわなないている。こちらを睨めつける三白眼は熱く鋭く、今にもレーザービームが飛んできそうだ。

 まさか、神聖な職場にバレンタインなんてチャラチャラした風習持ち込むんじゃねえ! とか思ってる? 社内の風紀が乱れて仕事にならないからって――?

 何よもう、学校の先生じゃないんだから、そこまで怒らなくてもいいじゃない! 

 他の子からもらったチョコ、机に仕舞ってたの見ましたけど?

 言い返したい気持ちはある。が、ヘビに睨まれたカエル状態だ。ハイヒールの魔法を失ってしまった千紗には、大人の余裕などとても保てない。作り笑い一つできず、涙目になってしまう。

 やだもぅ、怖い怖い怖い! 北風さんの顔直視するのは三〇秒が限界だよ~~!

 北風の眼光に負けた千紗は、ぱっと顔を背け、「失礼、します……」と後々尾を引かぬよう、挨拶だけはきちんとして駆け出す。

 撤退よ、撤退! もし追いつかれて糾弾されることになったら、渡したチョコはバレンタイン絡みじゃないってことにしよう。そうだわ、使い捨てスリッパと等価交換しただけですって言えばいいんだ! うん、我ながらナイスアイディア!

 走りにくいスリッパをパタパタとさせながら、できる限りの全速力で逃げ出した。


 月曜の朝はいつも憂鬱だ。というより、日曜の夕暮れからブルーな気分は始まっている。日がだんだんと沈んで暗くなって、朝になってもそのまま光が差さないのだ。

 ウィークデーの一日は忙しくても長いのに、休日はダラダラしていてもあっと言う間に終わってしまう。不公平だ。

「あーあ、またうんざりするような一週間が始まるのかぁ……」

 会社の最寄り駅から出た千紗は、オフィスの入るビルを目指しつつも、思わず呟いてしまう。今日は土日に溜まった分の仕事もあるし、後輩……特に桃原のフォローにてんてこ舞いになるのは目に見えている。考えただけで嫌になってくるが、週明けから辛気くさい顔で出社するなんてレディ失格だ。懲りずにオシャレの武装に身を固めてきた千紗は、余裕の足取りをみせる。

 正直、この時点では金曜の夜に起きたことなどすっかり忘れていた。もちろん、壊れたパンプスのことはショックすぎて記憶に焼き付いていたが、北風に絡まれたことは忘却の彼方へと放り出してあった。だから、会社のビルに足を踏み入れた直後に、

「三春さん、ちょっとよろしいでしょうか!」

 後ろから突然呼び止められて、心臓が縮み上がった。危うく呼吸まで止められてしまうところだった。この声の主はまさか――――

「北風さん……?」

 恐る恐る振り向くと、朝から殺し屋オーラ全開、黒いトレンチコートをはためかせた北風が、正面玄関に立っていた。

 嘘でしょ、まだ何か怒られるの……? 早くも涙目な千紗を、「とりあえず、人目に付かないところへ」と、北風が非常口付近へと追い立てる。

 怖い怖い怖い! これってまさか恐喝? ヒールが折れて無様に倒れてたゾンビをネタに、これから強請(ゆすり)が始まるって、そういうこと――?

 狂気さえ感じる鋭い三白眼に、オシャレ武装は早くも完敗、視線を合わせないようにするのが、千紗にできる精一杯の防御だった。

「私も同じ気持ちですから……」

 相変わらずその声は怒りに震えていて、やはり意味不明だと思ったその刹那、北風は厳しい表情でスーツの内ポケットに手を入れる。

 ――まさか拳銃……? 組員時代に愛用してた銃で脅す気なのっ……?

 身構えた千紗の前に、スパッと空を斬るようにして差し出されたのは、意外にも一冊の手帳だった。血に染まったような、毒々しい赤色をしている。

「詳しくはこちらをご参照ください。これからどうぞ、よろしくお願いします」

「う、う…………」

 撃たれるかと思った……。口元に手を当て、まだ生きているという事実に安堵の息を漏らす。だけどその手帳、いったい何なの――?

 もしかして果たし状? いやいや、さすがにそれはないですよね?

 恐怖に震える手で果たし手帳を受け取りつつも、冗談だと言ってほしくて、小首をかしげてみる。引きつる頬で作った笑顔も添えて――。

 だが北風は、何の補足説明もなしに「それでは」と、先にオフィスへ向かってしまった。後を追うこともできたが、足がすくんでそれどころではなかった。

 とりあえず中身を確認しよう。そう思って血染めの手帳を開いた千紗だったが、そこに書かれていた内容に、拳銃で撃たれるよりもさらに大きな衝撃を受けることになった。

「うそでしょ、夢じゃ、ないよね…………」

 手帳には、千紗が北風にチョコを渡したことへのお礼、それから、北風も千紗を愛しているという意味不明の告白が綴られている。

 なっ、なっ、何これ? こっちは北風さんのことなんて、これっぽっちも愛してないのよ? なのに、なんで両思い的な雰囲気になってるのよ!

 目玉がリアルに飛び出して、ポロッと落ちてしまいそうなほど驚く。

 こんな誤解、早く解かなくちゃ! そう焦るも、どうしよう……。あんな怖い人に、何て言い出せばいいの? 正面切って、あなたのこと別に好きじゃありません、むしろ苦手ですっ! なんて告げようものなら、激昂して刺されちゃうかもしれない。金曜だってあんなに怒ってたし……。

 怒り狂った北風が、刃物を手に襲い掛かってくる姿を想像して、体がガクガクと震える。

「やだぁ、まだ死にたくないよ~~~~!」

 手帳を抱え、その場にへなへなとへたりこむ。何か悪い夢なんじゃないかって、体のあちこちをつねってみたけど、残念ながらしっかり痛い。

 悲しいけど、これは現実。先週末から全然ツイてない……。

「神様なんて、どこにもいないんじゃないの……?」

 頼みの綱のハイヒールを見つめながらも、弱音をこぼしてしまう。

 もうやだ、本当にどうしよう。これって、先週渡したチョコを、本命だって勘違いしてるってことだよね、北風さん……。でも私があげたの、明らかに義理用だよ?

 味だってきっと、そんなに美味しくない。安っぽいっていうか、実際格安だったダサいチョコ。確か、いつもありがとうって、感謝のメッセージが入ってたはず……。

 恵里子が見せてきた、通販サイトの画像を思い出しながら首を捻る。

 まさか、あれ以外に、本命と誤解されるようなメッセージがあったとか――?

 バッグからスマホを取り出した千紗は、恵里子に緊急招集をかけた。


「珍しいわね、あんたが昼休みに呼び出すなんて」

 会社近くにある小洒落たカフェの窓際席で、不満そうに頬杖をつく恵里子。気だるげな表情は、月曜の昼とは思えないほどに色っぽい。

「あたし、今日は部長にランチご馳走になる予定だったんだけど、チョコのお返しに」

 どうやらバレンタイン明け早々、たかりを始めたようだ。面倒なイベントを逆手にとって昼食代を浮かそうだなんて、本当に抜け目がない。

「そのチョコのことで確認したいことがあるの。恵里子が用意したチョコ、何か変なこと書いてなかった?」

「やぁね、変じゃないわよ。〈いつもありがとう〉とか〈これからもヨロシク〉とか、軽い挨拶が印字されてただけ。無料サービスっていうから、お任せで頼んじゃった」

「本当にそれだけ?」

 疑いの目を向けると、あ! と、思い出して人差し指を立てた恵里子は、

「一個だけ自分でメッセージ選んだわ、〈愛しています〉ってピンクのデコペンで入れてもらったの。誰か一人にだけ当たる、愛のロシアンルーレット。刺激的でしょ?」

 ま、それでも義理には変わらないんだけどね、と蠱惑的な笑みを浮かべた恵里子がコーヒをすする。

 間違いない。北風が誤解した原因は恵里子のチョコだ。

 顔面蒼白で沈黙する千紗に、恵里子は続けて、

「でもね、全然反応ないのよ。あたしが配った分には、当たりはなかったみたい。引き当てた誰かが動揺してる姿、楽しみにしてたんだけどなぁー、残念ー!」

「残念ー! じゃないわよ! 私、あのチョコのせいで、好きでもない人に誤解されちゃったんだからねっ!」

「誤解ってまさか、あんたが当たりのチョコ配ったの? 全部自分で食べるんだー、なんて意地張ってたのに」

「まあその、なりゆきで……」

「ふぅん。で、誰なのよ、その誤解しちゃったおバカさんは。まさか課長じゃないわよね? 海外営業? 嶋田とか村上あたり? 将来性でいくならあたしは断然、村上推しよ?」

 嬉々として聞いてくる恵里子。海外事業部イチオシ男性の名がすらすらと出てくるあたりは、さすがとしか言いようがない。

「――それが、北風さんなんだよね、チョコ渡した相手…………」

「ん? ごめん、聞き取れなかった」

 あらぬ男の名に、聞き違いだとでも思ったのだろうか。恵里子が仕切り直して聞いてくる。

「――で、相手誰よ?」

「だから北風さんだってば! 経理の北風さんにあげたのっ!」

 思わず大声を上げてしまった。周囲の客の視線が一斉に千紗を向く。

「嘘でしょ? よりにもよって、なんでそんな男にチョコ渡したりしたのよ? 経理の北風っていったら、顔も犯罪的に怖いけど、経歴がアウトローすぎるって黒い噂が絶えない人じゃない」

 相手があの北風であることに、よほど衝撃を受けているのだろう。あんなに楽しそうだった恵里子から表情が消えた。

「あんた、ああいうのがタイプだったわけ? たまにいるけどね、悪い男に惹かれちゃう女。それとも何? コワモテマニア? ごめん、今まで気付かなかった」

「なわけないでしょ!」

 変なことを言い出す恵里子に、またも大声を出してしまった。周囲の視線が刺さるようで痛い。今度は、そばにいた店員にまで咳払いされる始末だ。

「でもさー、ちょっとでもアリだと思ったから餌まいたんでしょ? 可能性ゼロな男に義理でも渡す? あんなに義理チョコ渡すの渋ってたあんたがさ」

「ほんとにそういうのじゃないから! 北風さんにチョコあげたのは、純粋な感謝の気持ちからっていうか、単なる物々交換だったっていうか……」

 金曜の夜にあったことを話すと、「うわぁー、とんだシンデレラだねー、笑える!」と、恵里子が愉快そうな声を出す。

「全然笑えない! こっちは午前中、すっかり誤解しちゃった北風さんと目が合わないようにするので精一杯だったんだから!」

「ごめんごめん。で、何て言ってきたの、彼。付き合いましょうって?」

「まぁ、そんな感じ……かな。言われたというか、書かれてたんだけど……」

 千紗は、バッグから取り出した例の手帳を恵里子に見せる。

「これ、交換日記なのよ」

「交換日記ぃ?」

 恵里子が素っ頓狂な声を出した。

 そうなのだ。今朝渡された手帳に書いてあったのは、トンチンカンな告白だけじゃない。

〈つきましては、二人の交際を開始するにあたり、交換日記を始めることと致しましょう。互いのことを知るためにも、有効な手段であると考えます〉

 そんな前置きで、北風の日記までもが綴られていたのだ。

 正直言って怖い。いつもぶっきらぼうで、話し掛けてもボソッと一言返してくるぐらいなのに、手帳にはやたら丁寧で饒舌な文章が並んでいる。それも、彼が書いたとは思えないような、乙女チックな丸文字で。

「これって、何か裏があるのかなぁ? からかわれてるとか?」

「さあね。さすがのあたしも彼とは面識ないし、何考えてるか、なんてさっぱりよ。それにしても、イマドキ交換日記って……。あたし、子どものころだってやったことないわ」

「ブログならやってたけどね。交換っていうか、公開日記? 北風さん、結構年上なはずだから、世代的にはズレがあるのかも……」

「あんた、随分と面倒くさそうな男に絡まれたわね」

 面白話が大好物な恵里子が、こらえきれずにプッと吹き出す。

「笑い事じゃないってば! 元はと言えば恵里子が変なチョコ買わせるからでしょ!」

 ムッとする千紗に、わかったわかった、と財布から小銭を取り出した恵里子は、

「責任感じちゃうから北風さんにあげたチョコの分、返金しとく。はい、三〇〇円」

「そういう問題じゃないでしょ!」

「冗談だって。調べたげるわよ彼のこと。まずは情報を手に入れなきゃでしょ?」

 そう言ってスマホを取り出した恵里子は、慣れた手つきで画面を操作。北風のことを知ってそうなメンバーに呼び掛けたらしく、ほんの数分後には、敏腕刑事よろしく報告を始める。

「えー本名、北風龍生、年齢は三五歳。入社当時は営業部に所属、好成績を記録するも、その脅迫のようなセールス手口が問題となり、他部署に左遷。その後も様々な対人トラブルを起こし、社内を転々とするも、抜群の取り立てスキルを買われて経理部にスカウト、今に至る。ちなみに入社前は某組に所属、日本の裏社会で暗躍するも、さらなるスリルを求めて海外へ進出。得意の狙撃術で香港マフィアを壊滅させると、その勢いで各地の戦場にまで乱入、問答無用でガンガン人を殺し回る、だってさ」

「うぅ、改めて聞いても凄まじい人物像ね。なんでウチの会社に入ってきたんだろう……。付き合うとかいう以前に、お近づきにすらなりたくないタイプだわ」

 美味しいと評判のコーヒーを口にしても、素直に楽しむことができない。『小熊の愛したベーグルサンド』なんて、可愛い名前のランチメニューを注文したけど、食欲がわかずに手つかずのままだ。

「ま、さすがに戦場にまでは行ってないだろうけどね、北風さん。香港マフィアを壊滅に追いやったってのも、スケールが大きすぎて信憑性に欠けるし」

「だっ、だよね! 所詮は噂だし、実際はそこまでヤバい人じゃないよね?」

 願望を込めて聞く千紗に、「や、組員上がりのスナイパーってとこまでは事実だと思うわよ」と、恵里子。

「だってあの目付き、明らかに抗争慣れしてる感じだし、東南アジアの組織ともやり合ってたって……あっ、さらに新着情報! 北風さん、会社の飲み会で突然怒り出して、そばにいた同僚殺しかけたって! 裏ルートで密輸した怪しげな凶器を手に襲い掛かったらしいわよ。逃げる相手を羽交い締めにして身ぐるみ剥がした上に、失神するまで執拗に攻め続けたって。指紋が残らないように手袋までしてたみたい」

「突然怒り出して、怪しげな凶器でって……いったいどんな状況なのよそれ! しかも指紋が残らないようにって、その場にいた目撃者、全員始末する気だったわけ?」

 いったいどんな思考してたらそうなっちゃうのよ! あの夜も折れたヒールに激怒してたし、ほんと怒りのツボが謎だわ……。

「ねぇ恵里子、そんな人に、渡したチョコは手違いでした、本当はあなたのこと好きじゃありません、なんて言ったら――――」

「殺されるね、あんた」

 スマホを手に、あっさり言ってのける恵里子。

「やっぱり、そうなるよね……」

 チョコをあげたときも、なぜだか既に怒ってたし、さらにそのチョコの文言が嘘でしたー、なんて知られたら……。鋭い目を光らせ、刃物を振り回しながら襲ってくる北風を想像して身震いする。運良く殺されないにしても、指の二、三本は詰められちゃいそう……。

「ど、どどどどどうしよう? 警察に相談……?」

「フッ、甘いわね。こんだけ悪さしてるのに何のお咎めもなしだなんて、バックにお偉いさんが付いてるに決まってんじゃない、警視総監とかさ」

「そんなぁ。じゃあどうすれば……」

 すがるような目で恵里子を見つめる。そうねぇ、と顎に手を当てた彼女はニッコリと笑って、

「とりあえず、交換日記してみるしかないんじゃない?」

「ええぇ? さすがにそれは無理でしょ、余計に勘違いさせちゃう」

「なら、こんなのできませーんって突き返す? 北風さん、怒ると何するかわからないタイプなんだから、ここは慎重にいくべきだと思うけど」

「それはそうだけど……」

 毒々しい赤色の手帳を前に、千紗は言葉が出ない。ともすると、己の血でさらに真っ赤に染まるかもしれないのだ。

「いいじゃん、テキトーに世間話でも書いてやれば。関係が和んできたときに、イイ感じで打ち明けちゃえばいいのよ。急に本当のこと言うよりは、ワンクッションあった方が弁解できる余地もあるでしょ」

 ね、それ食べないならもらっていい? と恵里子は、結局手つかずだったベーグルサンドを横取りする。

「大丈夫だって、フロア違うけど同じ社内だし、緊急事態には助けに行くからさ。ってか、殺し屋が交換日記って……くはは、最高じゃん!」

「頼もしいこと言ってくれたと思ったらこれだもの。他人事だと思って面白がってるでしょ! 誰のせいでこんなことになったと思ってるのよ……」

 それにしても、健気なアラサーシンデレラの元へ、王子様どころか殺し屋を遣わしてきちゃうなんて、神様って本当にイジワルだわ。仕事はおろか、プライベートまでが赤信号だ。

 冷めたコーヒーに口をつけた千紗は、ハァっと、体中の生気が抜け出てしまいそうなほど大きなため息をこぼした。