では秘密兵器の出番である。
だから、わたしは「さよぽん、さよぽん、さよぽん、さよぽん、さよぽん、さよぽん、さよぽん」とひたすらスマホに向かって連呼していた。おそらく数十回くらいは言っていると思うけれど、なかなか向こうからの反応が返ってこない。しかたない。百回、続けてみよう。
だって、他に頼る手段がない。既にクラス名簿を片っ端から電話をかけて「ぜひとも話を聞かせてください」と願ってはみたが、全部断られている。早くも手詰まり。
だが、現段階の情報ではとてもじゃないが、事件の真相なんて推理できないのだ。なにせ、わたしが知るところの事件を時系列にまとめるとこうなる。
①校長がヘンテコな人間力テストを導入。
②十一月、ネットの書き込み、菅原が起こした傷害事件によって、昌也たち四人が一人のクラスメイトにイジメられたことが明るみにでる。
③母親たちや学校が菅原拓を処分、以降菅原を厳重に監視、昌也たちから隔離するように努める。
④十二月、昌也は精神異常をきたしたのち、自殺。
推理できるかっ、と怒鳴りたくなるほど情報不足だ。
特に意味不明なのは三番と四番の間。菅原拓は一体どうやって、昌也を追い込んでいったのだろう? それが分からなければ、誰も菅原を責めることはできない。
だから完全に行き詰まったわたしはたとえ中々繋がらなくても、秘密兵器こと紗世、通称「さよぽん」へ電話をかけることにしたのだ。紗世は通う大学こそ違うものの、小中高と子供のときから、勉強に苦しむわたしを何度も救ってくれた幼馴染なのだ。
《うるせぇな! 呪いみたいな留守電残すな、アホ野郎」
百回までさよぽんを唱えたところで、やっと向こうから言葉が聞こえてきた。普段通りのガサツな声だ。
《しかも、なんでお前は電話に出た瞬間、『さよぽん』しか言わないんだ》
「さよぽん、聞いて、さよぽん」
《無視か》
「わたしの弟の事件は知っているでしょ? そのことを現在、調べているんだけど……」
そこから、わたしはマスコミや親から聞いた情報などを全部紗世に伝えた。整理しないままの情報をひたすらに彼女へとぶつけていく。話していくうちにわたし自身が混乱するようだったが、紗世はすべてを聞いた上で「なるほどな」と理解したように言った。
《まぁ、さすがにニュースで見るからな。事件の概略は知っていたけど》
「さよぽんの見解を教えて」
わたしはそう伝えてみたが、電話口からなかなか返答が返ってこなかった。なんだか向こうも悩んでいるみたい。憂鬱とした息遣いが聞こえてくる。
《あくまで一般的な感想としてだからな?》そう前置きしてから紗世は言う。《普通に考えれば、菅原が昌也たちをイジメていた可能性は低いんじゃない?》
「……どういうこと?」とわたしは訳が分からず聞き返す。
《いや、怒るなよ? ただ昌也ほどの人間が、たった一人の中学生にビクビク恐れていたとは思えないだけだよ。菅原自身が『イジメは発明だ』とか腹立つことを語るのは、自らに注目を浴びさせる演技。そして黒幕は他にいるんじゃないか?》
「黒幕説か……可能性としてはあるけど。でも、それだと、おかしいことがあるよ」
悪くはない推理だと思うけれど、妙な点が残る。
「黒幕がいた。だったら、昌也の遺書にはなぜ菅原の名前しかないの?」
そう、だから難しいのだ。昌也でさえ黒幕の存在が見抜けないという可能性を抜かせば、このイジメは菅原拓という「一人の少年」のみで行われたことになる。自殺まで一ヶ月間、徹底的に監視されていた中学生が。
わたしはどうしようもない行き止まりにため息をついた。紗世も同じようで熊が唸るような声が電話先から漏れてくる。
《かーっ、分からん。分からんな。なんでハッキリと言わないんだ! なぁ、昌也以外のイジメの被害者の三人は学校に話したんだろう? なんて話したんだ?》
「菅原拓にイジメられていた。傷害事件後はよく分からない。それだけみたい。なにかに怯えるように、本当にそれだけしか言わないんだって」
《そうか……》
「やっぱり内部の生徒に聞くしかないかぁ。だれか話してくれないかなぁ。菅原拓と昌也の関係を」
《だよなぁ……菅原拓か……》
そこで紗世は言葉を切り、押し黙ってしまった。なにやら長考タイムに入ったようだ。時折、彼女は完全に沈黙して、自分の世界に入ってしまうことがある。大抵、話しかけても聞こえないので、わたしはしばらくスマホのカバーを親指でいじって暇を潰す。
少々の時が流れたあとで、電話の向こうで何かを決意したように《よし!》という声が聞こえてきた。
《香苗、ちょっとこの事件の調査、私にも協力させてくれ》
紗世の鼻息が電話から聞こえてくる。
《私だって、昌也と何度か遊んでやったからな。このままで終われるか》
「おぉ。どうしたの? もともと頼むつもりだったけど」
《いや……私だって、いろいろ、この事件には思うところがあるんだよ。それに、なんだかさ……》紗世はそこでまた何か言いにくそうに言葉を詰まらせてから口にした。《なにより、お前が心配だ》
いつも豪快な幼馴染にしては、あまりに優しいお言葉。ちょっと驚いた。
「……心配されちゃった」
《……しちゃったな。そりゃあ、幼馴染の弟が亡くなって、気にすんなって方が無理だろ。お前、無理に明るくしようとしてない?》
「うん、少しだけね」
《あんまり見栄張るなよ。辛かったら、なんでも話せ。なんか去年あたりから、SNSでも鬱ツイートしかしてねぇじゃん。ほら、お前の失恋の噂も聞いているからさ》
「そっか……ありがとうね。でも大丈夫。いまは昌也のことが重要だから」
《そうだな……じゃあ、ちょっくら私も本気だしてやるよ》
電話の向こうで紗世が不敵に笑みを浮かべる姿が想像できる。
うむ、なかなかに良い親友をもったものである。そして、強力な協力者を得た。
わたしは心の中の温度が上昇していくのを感じながら、お礼だけ言って電話を切った。
紗世の方から再び電話がきたのは、協力を得た日から二日経ったときだった。
《やっぱり親を通すと弾かれるが、子供側には話す気満々の人間もいるらしいな》
「もしもし」も言わずに紗世は開口一番に語りだした。しかし、その内容はわたしが最も期待していたものだった。
「えっ? ってことは?」
《うまくいったよ。今日の放課後、駅で会ってくれるって。お前、行けるよな?》
「もちろん! さすが、わたしの秘密兵器」
詳しく紗世に尋ねると、久世川第二中の生徒が彼女の友達の弟の友達にいたらしい。しかも、昌也のクラスメイト。まさか、こんな素晴らしい人間に話が聞けるとは思わなかった。やはり彼女には、わたしにはない人脈がある。
「よく約束できたね。いつも自分が昌也の姉ってことを伝えると、すごい勢いでドン引きされて断られるんだけど……」
《お前、正直すぎるぞ……そりゃ重たいだろう》紗世は呆れたように言った。《だが、これで大人達には見えない話が聞ける。もしかしたらクラスメイトは何か知っているかもしれない》
「うん、まったく謎のイジメの話とかね……」
《任せたぞ。真相を聞きだすのはお前の仕事だ》
頷いて、わたしは再びお礼を言ってから電話を切る。
わたしはコーヒーでも淹れて、質問事項を整理しておこうと居間へと向かった。現在は下宿先から実家に戻っているのだ。大学の講義も三年後期になるとほとんどないし、昌也の調査をするならあまり久世川第二中学校から離れない方がいいと思ったのである。
家にあったコーヒー豆を思い出しながら階段を下りると、居間には母がいた。長髪を頭の後ろで留めて、パソコンに向かって、何かを懸命に打ち込んでいるようだった。
「母さん、何を作っているの?」
わたしが尋ねると、母親は顔をあげ、疲れた笑いをみせた。
「連絡網よ」
「なんの?」
「学校教育を改善する会。まだ名前は決まっていないんだけどね。これ以上、昌也みたいな犠牲者を出さないように久世川第二には頑張ってもらわなきゃいけないわ。だとしたら、ほら、私が動かないと」
確かに、自殺した生徒の母親というのはリーダー性としては十分だろう。もう昌也がいないにも拘わらず、母さんは学校を変えようとする気なのだ。母さんは慣れない手つきで文字を打ち込んでいった。その横顔は昌也が亡くなる前より、はるかに老けてみえた。
「菅原拓は厳重に罰しないといけないわ。悪魔には制裁が必要よ」
そうして彼女は忌々しそうに呟いた。
「確かに、昌也はやつに殺された。けれど、私と悪魔の闘いはまだ終わっていない。私は絶対に許さない。絶対に破滅させる。追い込んで、追い詰めて、ボロボロにしてみせる」
その言葉はなんだか自分の母親ではないようで、わたしは少し恐くなった。
思い出されるのは、菅原拓の言葉。
『革命はまだ終わらない』
果たして事件はもう終わったことなのだろうか? それとも、まだ始まったばかりなのだろうか?
わたしは嫌な予感がしてならなかった。
紗世が紹介してくれた相手は、加藤幸太と言った。
初対面の印象は、もやし。この比喩がここまで似合う人間にめぐり合うのは初めてだったので、わたしは思わず喫茶店ではなく牛丼屋へ目的地を変えるところであった。まずは精をつけないと! ほとんど骨しかない細長い手足、血の気のない顔、常に半開きの口元、左右のバランスが合っていないメガネ。どこもかしこも、ザ・もやしだった。
わたしは凝った置物が店中に置かれたアンティークな雰囲気のあるカフェへ彼を誘導した。コーヒーが一杯六百円もするような場所。間接照明が照らす薄暗い店内の奥の席に、わたしたちは座った。
彼はホットレモネード、わたしはホットコーヒーを注文し、商品が出てくるまで雑談したあと、質問を切り出した。
「最初に、なんでもいいから、二人の印象だけ話してくれないかな? 加藤くんから見た、岸谷くんや菅原くんの雰囲気を」
まずはそこから聞くと、加藤くんは「はぁ」と呟いた。
とりあえずは簡単に答えられる質問から始めることにした。漠然と菅原拓は性格悪いやつというイメージはあるものの、実際確かめたい。それに、わたしも学校にいる昌也の様子までは知らなかったのだ。
「マサ、あぁ、岸谷昌也のあだ名です、アイツは一口に言えば人気者でしたね。なにかイベントがあれば間違いなくリーダーシップをとりましたし、勉強は飛び抜けていましたから。だから、みんなアイツをチヤホヤしていた。あぁ、もちろん俺も尊敬していました。マサがイジメの被害者なんて最初は考えられなかったですね。加害者でも被害者でもアイツはイジメという概念から無縁だったから」
「うーん、さすがだねぇ」
これは予想通り。昌也の家での雰囲気と変わらない。
「じゃあ菅原くんは?」とわたしは続いて尋ねる。
すると加藤くんは眉間にしわをよせて、ゆっくりと口にした。
「ん、いや、菅原は……なんでしょうね。暗いやつ、と言うのも変か。明るくはなかったです。嫌われていた、というわけでもないんですが、とにかく存在感がなかったですね。たぶん、教室で一番目立たなかった」
「ん?」
これは予想外。ニュースや学校から聞いた情報では、もっと不遜で偉そうで捻くれた中学生だったはず。わたしは手を使って、加藤くんの言葉を遮って言った。
「地味ってこと? マスコミが言うような、悪魔とは違って」
「あ、確かに不気味でしたよ。なにを考えているか分かんなかった。でも、そんな不良生徒みたいなやつじゃないです。頭も悪かったし、運動もできなかった。昼休みは一人で漫画や小説を読んで静かでいるようなタイプ」
「他には……ある?」
「そうですね、あと、周囲の人間に無関心なように見えました。根本的に他人に興味がない、というか。話かけても無視するというか。対人恐怖症とは違うんすよ。だから、やっぱり悪魔だったのかもしれません。気持ち悪かったですもん」
それから加藤くんは菅原拓の「気味悪さ」を何回か強調して、一旦喉を潤すようにホットレモネードを飲んだ。
その間、わたしはノートを見ながら、聞かされていた菅原像のギャップを振り返る。あまりに大きい。菅原拓は悪魔であり『お前らじゃ革命は止められないよ』と偉そうに言うようなやつのはず。でも、本当は地味なやつ? この落差はなんなの?
なかなかに気になるポイントである。だが、推理は後にして――本題だ。
簡単にノートにメモだけして、わたしは一旦深呼吸をする。脳みそに酸素を送り込んだのち、この事件の真相に切り込むことにした。気合いを溜めに溜めて、わたしはボールペンを握り直して「じゃあ……イジメのことを教えてくれるかしら?」と切り出した。
しかし、わたしの意気込みの割には、加藤くんの反応は曖昧だった。申し訳なさそうに答える。
「……よく分からないんです。イジメは」
うつむきながら、加藤くんは呟くように口にした。
「どういうこと? 菅原くんが水筒で殴ったあとの一ヶ月間、表面上は何もなかったってこと?」
質問を具体的にして、わたしは訊いてみる。
けれど、彼は再び首を横に振った。
「いや、違うんです。それも含めて、最初から最後まで。傷害事件でイジメが発覚する前も後も、その現場を見た人間は一人もいないんです」
「…………え?」
わたしは思わずノートを取り落としそうになった。けれど、かろうじて掴み、机に乗り出して加藤くんの顔を見る。
それから茫然と質問を口にする。
「どういうこと? ネットに投稿された内容では、ハチの死体を食べさせられたり、針で背中を刺されたりって……」
「だから、誰も目撃していないんですよ。そんなの。どちらかがイジメている空気さえ無かった。その内容がネットに書き込まれるまで、いや、書き込まれて話題になっても気づかなかった。菅原が昌也を水筒で殴るまで、クラスの全員が誰一人としてイジメに気がつかなかったんです」
「……っ」
どういうこと?
さすがに混乱してくる。
誰にも気づかれずに人気者たち四人を一人で虐げていた? そんなこと可能なのか?
無茶苦茶だ。人気者が少しでも憂いの表情を浮かべれば、クラスメイトがすぐに心配するはずだし、彼らなら相談相手だって山ほどいるはずだ。ありえない状況だ。
なんだか腹が立ってきたので、横にあった砂糖を二個ほどコーヒーの中に入れる。格段に甘くなるだろうけれど、元々わたしは甘党である。少しでも頭の回転を速くしておきたい。
わたしはそのコーヒーを口にしたあとで、加藤くんに尋ねた。
「……イジメは、本当にあったの?」
「チラリとした影はあったから、たぶん。マサの体操服が誰かに切り裂かれていたこともあったし……」
「影だけ、か」
「それにマサ、シュン、タカ、コウジの四人はイジメられたと主張して、菅原も認めているから……加害者も被害者も言うんだから、本当にあったんだと思います」
わたしは最早、溜息をつくしかない。
少しは真相に近づけると思ったが、完全に失敗である。もちろん加藤くんは悪くないけどね。でも、ちょっと落胆してしまう。
これで被害者の自宅、パソコンメール、スマホには何一つ手がかりなしというのだ。警察や学校だってお手上げなわけである。菅原拓が昌也たちを追い込んだ決定的なものが見つからない。
加藤くんがイジメに関して何も知らない以上、この話題で訊けることはない。後はもう確認事項だけ。なんだか敗戦処理をする投手の気分だ。
わたしはノートに事前に書き込んでおいたことを加藤くんに訊いていく。
「えぇと、じゃあ、傷害事件後、菅原が岸谷くんを水筒で殴った後のことを教えて。話によると、菅原くんは孤立したみたいだけど」
「まぁ、元々菅原は孤立していましたが。あ、でも、一部の女子からは逆にイジメられていたみたいですね。マサのファンというか、仲間からの逆鱗に触れて。まぁ、それよりも辛そうなのはアレですかね、テレビは学校の不手際しか取り上げないから……」
「ん? 取り上げない?」
すると、言いにくそうに加藤くんは告げた。
「菅原は一週間、土下座させられていたんですよ。学校中を回って」
わたしは再び「は?」とだけ言葉を発して、固まってしまった。これまた、まったく知らない事実であった。思わぬ情報。いや、確かに断片的には聞いていた。
学校や保護者は菅原拓に厳重な罰を与えた、と。
けれど、そこまで過酷で、歪んだ罰とまでは聞いていなかった。
「なんでも学校や保護者で取り決めたそうです。一週間、昼休み、三年から一年までの教室を回ってひたすら土下座させる。ちょっと惨いですよね。全校生徒にイジメの首謀者を晒し回るんだから」
「え、なんでそんなことを? あ、いや、加藤くんの答えられる範囲で教えて」
「たぶん、菅原が恐かったんじゃないですか? だって誰にも気づかれず、誰にも知られずに、四人のクラスメイトを嬲っていたんですから。それに全校生徒が菅原の顔を覚えれば、みんなが菅原を監視するわけですからね」
確かに話の筋は通っているように見える。先生側が見えなかったイジメを、生徒同士で菅原を見張らせるのは納得できる。
だが校内を土下座しながら回る必要まであったのだろうか?
合理的なのか。けれど、これではあまりに――。
「お願い続きを教えて」急ぐ気持ちを抑えながらも、わたしは訊いていく。「そして、その土下座回りから昌也、あ、岸谷くんが自殺するまでに何があったの?」
「特別なことはないですよ。ただマサの様子が徐々におかしくなるのは分かりました。なんだか、人を避けるようになって。あんまり笑わなくなって」
「それは菅原くんが何かをしたから?」
「だから誰も分からないですってば……みんなは断然マサの味方ですし、菅原の敵です。なのに、なぜか壊れていったんです。菅原が何かをしたとしか……」
壊れた、という表現が少し気に食わなかったが、ここで怒るほど短気ではない。わたしは質問を続ける。
「それを見て周りはどう対処していたの?」
「もちろん、心配しました。菅原につけられた痣は痛々しかったです。みんなで菅原をイジメて、昌也たちと菅原を遠ざけることに努めて、学校全員で昌也を護って、菅原と戦ったんです」
「全員……菅原くんの味方は本当にいなかったのね?」
「い、いや、さすがにそこまでは言い過ぎました。きっと、何人かは菅原に同情するやつもいたでしょうし」
同情? 菅原に?
わたしは「なんで?」と問いかけてみる。やや口調が強くなったのは、申し訳ない。もう少しで何か重大なことが聞けそうな予感があったのだ。
言いにくそうに加藤くんは顔を俯かせた。
「えぇと、何も知らない上級生や下級生とかが、そう思うかもってだけです。菅原の土下座はインパクトが強すぎましたし、ちょっと誤解している人間がいても不思議じゃない。元々、学年以外の人間はマサを好かないやつは少しはいたんですよ」
「ん、どうして岸谷くんが嫌われているの?」
そこで加藤くんは口にした。
「マサの母親、けっこう有名だったんですよ。ほら、よくニュースでやるモンスターペアレント。授業内容だとか、テストの採点方式とか、すぐにクレーム入れるようで。その事実を知っている人間はけっこう嫌っているようでしたね」
そんな事実、聞いたこともない!
「……岸谷くんの母親はそんなに酷かったの?」わたしはできる限り、自分の感情を押し殺しながら言った。今日のヒアリングは、全部、こんなのばっかだ。
「えぇ。だって、PTAの副会長でしょ? マサ自身も嫌がっていたみたいですしね。マサが忘れ物をしたことを咎めたらクレーム、擦り傷を負ったらクレーム。擦り傷なんて間違いなく家で負った傷なのに、体育のせいにして。マサ自身も隠したらしいんですけど、どっかからネタを見つけてクレームを入れるようで」
「……そう、なんだ」
そして、得られた情報は衝撃的なものだった。
口の中が一気に渇いてくのを感じる。
少なくとも、わたしが高校生だったときは普通の母だったはず。わたしが大学生となり実家から離れた三年間のうちに、母は豹変していたのだ。
数時間前テーブルの上で、菅原拓への怨念を浮かべていた母の姿が頭をよぎる。
そして確信した。菅原拓に土下座回りをさせたのは母なのだ。モンスターと化した母は規格外の罰を彼に与えたのだ。
どういうことだろう? 事件の根幹が母親にある?
話を聞きに行かなくてはならない。母親の元に。この事件、彼女はただの関係者とは言えないほど事件に絡んでいる。そして、なにより、わたし自身の問題なのだ。
わたしは加藤くんにお礼だけを言って、席を立った。
すると、彼はわたしに最後、質問をしてきた。
「あの、俺、何か言いました? 途中、様子が変でしたよ」
「大丈夫、ありとあらゆることは気にしないで。お姉さんは五分に一回、変になるの」
「あ、そう……じゃあ一ついいですか? この事件を調べているんですよね。じゃあ、マサの彼女に関しても知っているんですよね? 何か新聞以上の情報はありました?」
わたしはカバンを肩にかけながら口にした。
「いえ、岸谷くんが自殺する三日前、階段から転落したことしか……まだ意識不明なのよね?」
「はい……こっちも大分、謎なんですよね。犯人は菅原拓って言われていますが、菅原はそのとき職員室で説教をされていた……」
そう、昌也の事件との関連が不明であるため後回しにしているが、謎はまだあるのだ。
昌也の恋人が、昌也の自殺の三日前に学校の階段から転落して意識を失った。
昌也が自殺する原因の一つともいえるが、こればかりは事故の可能性もある。とりあえず、わたしが調査するべき最優先事項は昌也のことなのだ。
わたしは彼に再びお礼を言って、その場を去った。
わたしはまっすぐ家には帰らなかった。
思考がまとまらなかったからである。
本来欲していたイジメの手がかりは手に入らなかったけれど、思わぬ大きな情報が手に入った。土下座回りという菅原の受けた重すぎる罰と、モンスターペアレントとなったわたしと昌也の母。
だから、頭を整理するために高校時代によく通っていた服屋だとか、大好きだったパン屋など、駅前にある商業施設をとくに目的もなく回っていった。なんだか歩幅が歩くたびに変わっていく感覚さえあって、まっすぐに進んでいるのかどうかも疑わしかった。あれ? 南ってどっちだっけ?
わたしを正気に戻したのは、紗世からの電話だった。
彼女の声を聞いた瞬間、わたしは加藤くんから聞いたことすべてを語っていた。紗世は黙って聞いたあと、穏やかな声で《本当に大丈夫か?》と心配してくれた。
「大丈夫。話したらスッキリした」とわたしは返す。「シュウフクカンリョウ、始動します」
《そこまでボケられるなら大丈夫だな》
「わたしは探偵に向いてないのかも。もう混乱の連続」
《んなこと紀元前から知っている。で、次は母親なんだな》
紗世が冷静に今後の提案をしてくる。
「……」
だが、わたしはすぐに同意はできなかった。
《香苗? どうした?》
「……いや、なんでもない。うん、たぶん母さんはなにか隠しているんだ。じゃないと、土下座回りなんて常軌を逸した罰が下されるわけがないもんね」
わたしはその場で深く頷いた。
まだ謎は多い。
――傷害事件前、誰にも認知されなかったイジメ。
――傷害事件後、土下座をすることによって全生徒から注目されていたはずの菅原。
――そして、自殺した昌也。
それでも、少しずつ真実には近づけているはずだ。
どんどん解明していけばいい。加藤くんとの繋がりができた以上、そこから広げてもいい。母が事件に深く関わっているのならば、そこから崩していってもいい。ありとあらゆる繋がりから謎に迫っていくのだ。
《徐々にだが、事件が浮き彫りになっているな。香苗、ここが踏ん張り時だぞ》
紗世の励ましの言葉が電話の向こうから届く。
正直に言えば、精一杯に元気を見せる裏側で、わたしは拭いきれない不穏なものを抱えていた。真実に近づくたびに、だんだんとわたしの胸中に存在するべきでない感情が生まれてくるのだ。意識してはダメだと思い込むけれども。
事件を知るたびに、
昌也のことが分かるごとに、
わたしは――欠落したお姉ちゃんは――。
「うん、ガンバル」けれど、それでもわたしは決意する。「昌也のためにね」
不安なことを考えていたらキリがない。
《うん、その意気や良し》幼馴染も満足そうに笑ってくれる。《が、その前に》
そして、そこで紗世が何かを思い出すように言った。
《香苗、画像送ってくれよ、画像》
「ん?」
《昌也、そしてイジメられた仲間、それから菅原拓の画像。全体写真か何かであるだろ? それを見ておきたい。イジメの問題には外見も重要だろ?》
「あぁ、そうか。ちょっと待って。一旦、切るね」
わたしは紗世へ画像を送信した。昌也が友人と笑い合っている画像、それから、集合写真の隅でつまらなそうにカメラを見つめる菅原の画像。狙ったわけではないが、そのえらく対照的な二つのものを送信した。
紗世からの反応はすぐにあった。
電話に出ると、いつもの彼女からはかけ離れた深刻な口調で告げてきた。
すなわち、
《会ったことがある》
と。
当然、わたしは訊き返した。すると、紗世は答えた。
《わたし、菅原拓に会ったことがある……》
つまりは、彼女も本格的に巻き込まれることになったのだった。
菅原拓の革命戦争に。
内臓が破裂した猫の遺体が家に届いたのは、その翌日のことであった。
『革命はさらに進む』というメッセージと共に。
やはり、それは動き始めている。
徐々に。しかし確実に。