※本ページは、電撃文庫『俺たち!! きゅぴきゅぴ♥Qピッツ!!』の公式サイト限定特別書き下ろしストーリーです。
私立恋文字学園の生徒会長、香澄歌織(かすみ かおり)の日常は、常に多忙を極める。
塵一つない整理整頓された生徒会室には、今日も生徒会に救いを求める少年少女たちが大勢訪れる。
「た、助けてくれ、生徒会長っ!」
生徒会室入口のドアをバンッ!と開き、転がり込むように中に入ってきたのは、ボロボロの野球ユニフォームに身を包んだ、坊主頭の男子生徒だった。
「何か問題かしら、野球部キャプテンの田沼くん?」
部屋の奥に据えられた会長席の椅子に座り、今年度の予算が細かく書き込まれた資料を捲る手を止めずに、歌織は艶めく黒髪をかき上げながら平坦な声で聞き返す。
「野球部の二軍連中が『誰が一番か決めようぜっ!』って、急にグラウンドの真ん中でサッカーし始めて大変なんだ! 俺たちレギュラーだけでは人数が少なすぎて止められないっ!」
「何がどうなってそうなるの? しかも野球じゃなくサッカーなのね……」
こめかみに指を添え、淡々と聞き返す歌織。
「野球は、もう諦めたって……」
悔し涙を堪えながら、田沼は呟く。
「しかも、あいつらサッカー部よりもドリブルがうまいっ! なんで野球部入ったんだっ!?」
「本末転倒ね……」
田沼の慟哭に生返事をしながら、歌織はスカートのポケットからスマホを取り出し、何処かへと電話を掛け始めた。
「……もしもし、私よ。野球部がグラウンドで……ええ、そうなの。頼んだわ」
『恋ジャーッ!』
通話口から意味不明な雄々しい返答が聞こえると同時に、電話を切る歌織。
数分後、生徒会室のドアが開くと同時に、田沼と同じ野球ユニフォーム姿の、野球帽を被った男子生徒が息を荒げて駆け込んできた。
「大変だキャプテンッ!」
「どうしたんだ副キャプテン?」
「突然グラウンドの上空にピンク色の輸送ヘリが飛んできて、ピンク色の軍服を着た外国人が大勢ラペリング下降してきたっ! そんでもって二軍メンバーとサッカーを始めてボッコボコに叩きのめしてまたヘリで飛び去ってった! 俺、今でも自分が何を説明しているのかよく分かんないけど、そういうことだっ!」
困惑を隠せない副キャプテンの説明を受け、田沼は目を丸くした。
「あんなにドリブルがうまかったうちの二軍が、数分でやられたっていうのか!?」
「ああそうさっ! しかもプレイの間中、外人共にセクハラ紛いの執拗なボディタッチをされ過ぎたせいで、あいつら『もう二度とサッカーはしたくない』ってショックを受けて落ち込んでるっ!」
「……いや、それなら逆に、サッカーがうまいというプライドを打ち砕かれて、本来の野球に興味を示してくれるはずだっ! ありがとう会長っ! よく分かんないけど、これで練習を再開できるよっ!」
そう言い残し、田沼は副キャプテンを引き連れて生徒会室を後にした。
「……」
歌織が再び手元の資料に目を戻すのとほぼ同時に、また生徒会室のドアが開かれ、今度は丸眼鏡に坊ちゃん刈りの小柄な男子生徒が飛び込んできた。
「生徒会長っ! 僕たちを救ってくださいっ!」
「……何かしら、文芸部部長の岡部くん?」
「はい、それが……部員たちが、今度うちから出す合同誌の統一テーマにしているヒロイン像を巡って、殴り合いの大喧嘩を始めたんですっ! 草食男子の僕じゃあ、止めるに止められませんっ!」
「殴り合ったの? そんなことで?」
「ええ、本当に。一方は『シスター服アンドロイド系クールお姉さんキャラ』、そしてもう一方は『作業着ガテン系ツンデレ妹キャラ』を推すと言い張って一歩も退かなくて……僕はただ単純に『巨乳系サキュバス未来人女教師』が書ければそれでいいのにっ!」
「……とりあえず設定を尖らせすぎると、読者置いてきぼりの、独りよがりな作風になりやすいとだけは伝えておくわね」
口惜しそうに拳を床に叩きつける岡部を尻目に、知った風な忠告をしながら、歌織は再びスマホを取り出す。
「……もしもし、私よ。何度も申し訳ないけど……ええ、頼むわ」
『恋ジャ恋ジャーッ!』
数分後、生徒会室のドアが開くと、岡部と同じ坊ちゃん刈りにやはり眼鏡を掛けた、小太りの男子生徒が滑り込むように入室してきた。
「大変です編集長っ!」
「どうしたんだい副編集長っ!」
「文芸部では、お互いをそう呼び合っているのね。いえ、特に言及したくはないけれど……」
歌織の呆れた声に気づかないまま、副編集長と呼ばれた小太りの男子生徒は話を続ける。
「突然部室の窓ガラスが割れたと思ったら、頭から爪先までピンク一色の軍服を来た外国人集団が飛び込んできて、殴り合う部員二人の間に割って入るとそのまま取り囲んで猛烈なセクハラを始めたんですっ! 揉み残しがないくらいに揉みしだいて……草食男子の上に小太りの僕じゃあ、止めるに止められなかった!」
「そ、それで二人は!? 二人はどうなったんだい?」
恐る恐る聞き返す岡部の背中に、歌織は「窓の修理代は文芸部に請求しておくわね」と声を掛ける。
「それが、解放されて軍人たちが再び窓から外へ出て行った瞬間、感情のない目で口から涎を垂らしながら『次はゴリマッチョ系外国軍人のボーイズラブが書きたい』って揃って言い始めて……」
「とんでもない路線変更だっ!? でも、それで喧嘩が収まったなら、次の合同誌のテーマはそれでいこうっ! 未知なる扉が開きそうで怖いけどっ! とりあえず、ありがとうございます、生徒会長っ!」
そう言うが早いか、小柄と小太りの眼鏡二人組は揃って眼鏡のフレームを上下にスチャスチャ揺らしながら、生徒会室を去っていった。
「……ふぅ」
首を振りつつ、歌織は息を吐き、手元の資料を捲り始める。
すると、ドアが勢いよく開き、頭頂部を剃り上げた天然パーマの生徒が勢いよく飛び込んできた。
「生徒会長ッ! ワタシタチニ神ノ御加護ヲォ!」
「……ここは教会じゃないのだけれど」
――これが、恋文字学園生徒会長、香澄歌織の日常。
数分後、伝道師を崇拝する『ザビエル部』部長は、ライバルである鑑真(がんじん)部との宗教戦争勃発に関する相談を終え、神に祈りを捧げながら意気揚々と退室していった。
「今日は、いつもより少ないほうかしら……」
スマホをポケットに仕舞いながら、少し疲労の混じった声でそう独りごち、歌織は両腕を頭の上で組み、背筋を伸ばす。
背骨をポキポキと響かせながら、ゆっくりと首を回し、天井を見上げる。
「…………」
しばらく、そうしてぼんやりと天井を仰いでいると、不意に乾いたノックの音が生徒会室に響いた。
「……どうぞ」
歌織の返事を待って、礼儀正しくドアを開けてゆっくりと入ってきたのは、今年から生徒会役員となった一年生、陽方朝道だった。
「失礼します。香澄先輩、頼まれていた文化部の予算資料、持ってきました」
緊張した面持ちで、目線を下に逸らしたまま、朝道は机越しに、歌織へと資料を差し出した。
「お疲れ様、陽方くん。すぐに確認するわ」
朝道が差し出す資料を受け取ろうと、歌織は手を伸ばす。
「はい。どうぞ……うわっ!」
「っ!」
そのとき、受け取る歌織の指が朝道の指に軽く触れた。思わず悲鳴混じりに朝道が手を引っ込めたせいで、その足下に資料が落ち、止めていたクリップが衝撃で外れ、床一面に散乱してしまった。
「あっ! す、すみません……」
慌てた様子で机の下にかがみ込み、朝道は資料を急いでかき集める。
「……」
そんな朝道の屈んだ後頭部を、少し眉を顰めながら歌織はジッと見下ろす。
「……陽方くん」
「え、あ、はい?」
歌織に呼ばれ、資料を拾う手を動かしたまま、朝道は返答する。
「君は、もしかして……」
朝道が生徒会に入会してから一ヶ月。歌織はその間、朝道の自分に対する不審な行動の数々を見て、秘かに感じていた違和感を口にした。
「――私のこと、嫌いなの?」
「……え?」
歌織が放った予想外すぎる質問に、思わず朝道の手は止まり、歌織の顔を見上げたまま固まってしまった。
「その証拠に……」
歌織は突然机の引き出しを開くと、中から大学ノートを取り出した。ノートの表紙には、几帳面そうな字で『新人役員における、生徒会長に対する不審行動とその統計による予想』という堅苦しいタイトルが書き込まれていた。
「いつの間に、そんなタイトルからしてよく分からない記録をっ!?」
朝道の質問を一切無視して、歌織はノートを開く。
「君が生徒会に来てからというもの、今のように私の指と君の指が偶然触れるたびに、まるで雑菌に触れてしまったかのように勢いよく手を離すこと二十八回。私が声をかけるたびに、真冬のプールに飛び込んだみたいに全身を痙攣させること五十五回。私と目が合うごとに、便器に残された排泄物を見てしまったかのように即座に目を逸らすこと六十三回。その他諸々、計五百九十三回にわたる君の私に対する行動は、明らかに私を避けている……いえ、もっと激しい感情、つまりそれは――」
ノートに記録された、偏見に満ちた統計をつらつらと読み上げると、嘆息し、歌織は手にしていた大学ノートをパンと音を立てて閉じる。
「私のことを嫌っているの? ……困ったわ。私には、君に嫌われる心当たりがまったくないの。ということは、私は意図せず、君に嫌悪感を露わにされるような行動を取っていたことになるのかしら?」
「どうしてそうなるんです!? 僕は――」
「これは厄介ね。無意識では直しようがないもの。このままでは、生徒会の活動にも支障をきたすし、役員全体の空気も悪くなってしまうわ。私が出来る範囲なら改善も可能でしょうし、陽方くん、具体的に教えてもらえるかしら? 私のどこが嫌いなの?」
朝道の答えも聞かぬまま、歌織はそう独りごちるように呟く。
「話を聞いてくださいっ!! 誤解です香澄先輩っ! 僕、決して先輩のことが嫌いだなんてことは……」
焦りを露わに勢いよく立ち上がり、朝道は必死の形相で弁解をしようと口を開く。
しかし朝道の口から、それに続く言葉は出てこなかった。
「そんな、つもりは……」
声が段々と尻すぼみになり、両手の指をモジモジ、クニクニと乙女のように絡ませ合いながら、朝道は目線を下げる。
「じゃあ、どんなつもりなの?」
静かな声で、歌織は朝道に質問する。歌織の声には怒りや不満といった含みはまったくなく、ただただ不思議そうに朝道を見つめている。
「ねえ、陽方くん? 嫌いじゃないなら、どうして君は私を避けるような態度を取っていたの?」
「そ、それは……っ!」
――好きだからです。
声にならない言葉を脳内に響かせ、朝道は口元を真一文字に結ぶ。
朝道の態度が不審なのは、嫌いだからではない。その真逆、歌織に恋をしていたからだ。
入学式の日、朝道は偶然出会った香澄歌織に一目惚れし、それが理由で、ここ恋文字学園生徒会に入会した。
好きが過ぎる余り、朝道は歌織に触れられたり、声を掛けられたり、見られたりするたびに、緊張してしまっていたのだ。
つまりは、二十八回ドキドキして、五十五回バクバクして、六十三回キュンキュンし、合計五百九十三回、ただただ歌織にときめいていただけなのだ。
端から見ても、歌織を意識した朝道の挙動は、見えすぎるほどに剥き出しだった。心のパンツは丸見えにもほどがあった。
おそらく、生徒会の中で朝道の気持ちに気づいていないのは、目の前にいる歌織本人だけだろう。
それを歌織に説明するのは簡単だが、純情な朝道にはできない。『説明=告白』の図式は、数学が苦手な朝道にだって容易に理解できる。
だから、朝道はこう言った。
「香澄先輩のことを、尊敬していたから……」
「……尊敬?」
ない知恵を振り絞り、朝道が苦肉の策で捻り出したその答えを聞いて、歌織の片眉がピクリと動いた。
「はい。嫌悪(ヘイト)ではなく、尊敬(リスペクト)です。香澄先輩へのリスペクトが過ぎてしまい、リスペクトの向こう側にいってしまいましたっ! だから、あんな態度を取ってしまったんです!」
「リスペクトの、向こう側……?」
小さな桃色の唇に人差し指をあてがいながら、歌織は、その耳慣れない言葉の意味を頭の中で咀嚼する。
「つまり、君は別に私のことを嫌ってはいない。そう捉えて良いのね?」
「はいっ!」
「私に対して、過ぎたリスペクトを持って接していた、と?」
「そうですっ! 余りにも尊敬しすぎて一周回ってしまい、自分がどう接すればいいか、戸惑ってしまいましたっ!」
はきはきと応える朝道は、我が意を得たとばかりに、気力、体力共に、謎の自信に満ち溢れていた。
乗り切ったっ! 朝道は胸の内でそう確信していた。
自分の恋愛感情を悟らせることなく、嫌悪感情を否定するという高等技術。それを今、自分はやってのけた。ひょっとしたら、僕は天才なんじゃないか? 朝道は自分に酔いしれた。
そう――
「じゃあ、私の肩を揉んでくれるかしら、陽方くん?」
歌織が放った、その突然の命令を耳にするまでは。
「……はい?」
展開についていけず、思わず聞き返す朝道。
「私、さっきまで生徒たちの意味不明な数々の相談を解決していて、少し疲れているの」
歌織はそう言って、自分の肩に手をそっと触れる。
「すみません。僕、この流れについていけてません。波が荒すぎて……」
自分の理解力の追いつかなさに戸惑いながら、朝道は歌織に言う。
「君が本当に私を尊敬しているというのなら、肩を揉むなんてこと、簡単でしょう?」
さらりとそんなことを言いながら、歌織は制服のブレザーをゆっくりと脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと香澄先輩っ!? 突然何を……っ!」
歌織の奇行に顔を赤らめ、朝道は目を両手で覆うが、その指の隙間からはしっかりと眼を覗かせていた。男の性である。
「何って、肩を揉みやすくしてあげただけでしょう?」
歌織は平然とそう言い返し、ブレザーを椅子の背もたれにバサッと掛け、薄手のワイシャツだけになった上半身を晒すと、朝道に向き直る。
「さあ。私の準備は出来たわ、陽方くん。思う存分、尊敬する私の肩を揉みしだきなさい」
歌織は背後に流していた黒髪を胸の前に寄せるようにして、背後から朝道が肩に触れやすいようにした。
「尊敬する、香澄先輩を、揉みしだく……っ!?」
夢遊病患者のように、虚ろな声で歌織の言葉を反芻する朝道。
「そこでは肩が揉めないでしょう。さあ、早く私の後ろに来なさい」
「は、はい……」
朝道は受け入れられぬ現実(ご褒美)に思考を乱されながらも、歌織に言われるまま、フラフラと彼女が座る椅子の背後に回り込む。
歌織の肩はとても細く、儚かった。長く美しい髪が掻き分けられ、その隙間から覗く首のうなじは白く、香水ではなく、自然な、石鹸のような良い匂いが朝道の鼻をくすぐった。
これに、触れと? 自分が今、これから何をしようとしているのか、朝道は想像した。
これを、揉みしだけと? 朝道は、それがとてもイケないことのような気がしてならなかった。
そんな朝道を急かすように、歌織は前を向いた姿勢のまま、催促するように呟く。
「陽方くん、早くして。私、すごく、こってるの……」
「こ、コッテルノ……?」
歌織の言葉も、今の朝道には手の込んだイタリア料理の名前にしか聞こえなかった。
『コッテルノと春野菜のムース』を前菜に、メインディッシュは『牛ヒレ肉とフォアグラのコッテルノソース仕立て』、そしてデザートは『ラズベリータルト・コッテルノアイスクリーム添え』などなど、旬のコッテルノを使ったフルコースが目の前に浮かんでくる。
すごく美味しそう、としか思えなかった。だが、そんな物は存在しない。
しかし朝道の脳内では、喧噪広がる騒がしい厨房で、大きなコック帽を被った無表情の歌織がフライパンに高級ブランデーを垂らして香り付け(フランベ)している姿が浮かんできていた。
身に余る光栄、恐悦至極。好きな女の子の肩に触れられるという千載一遇のチャンスを前にして、朝道の脳内厨房『リストランテ朝道』は、お昼時(ランチタイム)真っ盛りの大忙し(パーティータイム)だった。
イタリア語で注文をまくし立てるウェイトレス姿の別の歌織に、汚れた食器を洗いながら、下働きの朝道はただひたすらに「ベーネ(了解!)、ベーネ(了解!)」と繰り返していた。
脳が、馬鹿になっていた。
「陽方くん……陽方くん?」
いつまでも動こうとしない朝道に業を煮やしたのか、歌織は静かな声を掛ける。
「……はっ!? ベーネッ!」
思わず脳内(イタリア語)が口から零れる朝道。
「べーね?」
「何でもありませんっ!」
慌てて誤魔化す朝道。
「お願いよ、陽方くん。私、もう肩が限界なの」
苦しそうな声で歌織はそう呟くと、肩の筋肉をゆっくりと前後に動かした。
「うぅ……」
急かす声を聞いて、朝道はその両手を、歌織の両肩に向けてゆっくりと伸ばした。
心臓の鼓動が、いつもより朝道の耳の中で大きく鳴り響いている。
好きな女の子の肩を揉むことが、こんなにも緊張することだったなんて、朝道は知らなかった。知りたくもなかった。
まだ手を握ったこともない、憧れの香澄歌織の美しく華奢な肩に触(さわ)れる。しかも、揉みに揉みしだける。現実とは思えなかった。
だが、自分の目の前で歌織が無防備な肩を晒しているのは、紛うことなき現実だった。現実(リアル)だった。
歌織は、朝道が敬愛の証に肩を揉むのを、今か今かと待ち望んでいる。浅い呼吸と共に上下する歌織の肩は、この世のどんな芸術作品よりも美しく、神々しく見えた。
マグマのように熱く滾った血流が、朝道の脳を迸る。朝道がヤカンだったら、とっくに耳穴から蒸気を噴き出していただろう。
それほどまでに、朝道は興奮していた。留まるところを知らぬほどに高揚していた。
えもいえない高揚感は、朝道の思考回路に異常を呼び、困惑し、混乱した。
そして、歌織の肩まで残り数ミリ単位のところで、朝道の手は来た道を一瞬で遡り、
思い切り自分の顔面に拳を叩き込んでいた。
「グハッ!!」
吐血しながらそう言い残し、朝道は歌織の椅子の後ろに倒れ込んだ。
盛大なドタァンッという物音が、生徒会室に響き渡った。
「何? どうしたの、陽方くん?」
突然背後から響いた音に、思わず振り返る歌織が見たものは、倒れ伏したあと、一瞬でコンパクトに四肢を折り畳んだ朝道の、亀のように丸まった土下座だった。
「……何、それ?」
静かに問いかける歌織。
「香澄先輩。ぼ、ぼ、僕にはできませぇーんっ!!」
地面に顔を向けたまま、朝道は雄叫び混じりの慟哭を歌織に放った。
「……どういうことなの、陽方くん?」
椅子に座ったまま、床に顔を擦りつける朝道の後頭部を見下ろしながら、歌織は質問する。
「は、はいっ!」
顔を上げないまま、朝道は、思い悩んだ言葉の数々を歌織にぶつけた。
「ぼ、僕みたいなペーペーの一年生が、いまだ女子の手すらも握ったことのない僕みたいな男が、よりにもよって香澄先輩の肩を揉むだなんて、そんな幸運、罰が当たってしまいますっ! こういうのは、もっと段階を踏んで、お互いのことをよく知ってから行うべきだと思うんですっ! 香澄先輩の肩揉みは、僕にはハードルが高すぎますっ! 登山未経験でのエベレスト登頂なんて、死んでしまいますっ! だから……」
思い悩みすぎた朝道の思考は、ぶっ飛びすぎて明後日の方向へ急発進してしまっていた。
だが、朝道が本当に言いたいことは、たった一言。
「恐れ多くて、鼻血が出そうですぅっ!」
「……」
朝道の魂の訴えを、歌織は沈黙を保ったまま、静かに聞いていた。
そして、歌織はゆっくりと頷き、そっと呟くように言う。
「……顔を上げて、陽方くん」
「……はい」
歌織に促され、ゆっくりと頭を上げる朝道の表情は不安に満ち溢れ、お説教を待つのに相応しい面構えをしていた。
「君の気持ちは、よく分からなかったけれど、よく分かったわ。私の肩を揉むのは、恐れ多いのね?」
「はい……」
「段階を踏んで、まずは高尾山あたりから登りたいのね?」
「あ、その、登山のくだりは喩えと言いますか、その、まあ、そうです……」
「肩よりも、先に手なのね?」
歌織はそう言って、す、と朝道に向けて右手を伸ばす。
「……え?」
意味が分からず、歌織の白い手をただただじっと見つめる朝道。
「……ここから始めなければ、君は肩を揉んでくれないのでしょう?」
無表情で手を差し出した歌織は、無理矢理朝道の右手を取り上げ、握り締めた。柔らかく、優しい握手だった。
「まずは手を握るところからなんて、まるで恋人同士みたいなことを言うのね……」
鉄面皮は相変わらずだったが、歌織の声にはどこか微笑が含まれているように、朝道には聞こえた。
「こ、こ、こ、こ……」
感動しすぎて、言葉が出ない。
握手が出来ただけでこうなのに、自分は、この人に想いを伝えようとしている。もし万が一、それがうまくいったとして、この人と付き合う、恋人同士になってしまった日には、自分はどうなってしまうのだろう? たぶん七日と保たず、死んじゃうんじゃないだろうか? 蝉のように。
だが、それでもいいと朝道は思った。
七日間もこの人と恋人になれるのだとしたら、こんな命、いくらでも投げ出せる。
蝉が、どうしてあんなに大きな音で鳴くのか、朝道はようやく理解できたような気がした。
あの音は、命を削る音。
命を賭してでも雌蝉(異性)と付き合いたいという、男の慟哭だったのだ。
ならば、僕も蝉にあやかろう。蝉のように、命をこの人に捧げよう。
そして朝道は精一杯の声を振り絞り、絶叫した。
「か、香澄先ぱぁーいっ!!」
勢いよく立ち上がると、両手をワキワキと蠢かせながら、朝道は荒い息のまま、勢いよくまくし立てる。
「お約束通り、御肩(おんかた)、揉みしだかせていただきまぁーすっ!!」
今の自分になら、できる。この胸に、熱く滾る情熱がある限り。この手のひらに、香澄歌織の温もりが残っている限り。
だが、そのとき、盛大な着信音を鳴り響かせ、背もたれに掛けられていたブレザーのポケットが小刻みに震えた。
「……電話だわ」
あっさりとそう言って、歌織はポケットから、ブルブルと震えたままのスマートフォンを取り出し、通話ボタンを押すと耳に押し当てた。
「はい」
通話口を通して歌織の鼓膜を揺らしたのは、腹の底まで通りそうな渋い男の声だった。
『事件だ、ボス。現場は二年四組。至急、捜査会議室に来てくれ』
「……了解、すぐそちらに向かいます」
電話の相手にそう応えると、通話を切った。歌織は椅子から立ち上がり、再びブレザーを身に纏い始めた。
「……あの、香澄先輩?」
その間、行き場をなくした両手(ワキワキ)をぶら下げたまま、アホ丸出しで朝道は歌織に声を掛ける。
「ごめんなさい、陽方くん。私、急に用事ができたの。少しの間、ここ空けるわね」
「え、でも、その、肩は……」
「それはもう良いわ。君が私を嫌っていないことはよく分かったもの」
そう言いながら、歌織は生徒会室のドアへと向かう。
「私がいない間、誰か相談しに来るかもしれないけど、そのときは、陽方くん、お願いね」
それだけを言うと、歌織は呆けた朝道を残し、颯爽と生徒会室から姿を消した。
唐突に終焉を迎えた幸運(サービスシーン)を、朝道はすんなり受け入れられず、しばらく椅子の前に立ち尽くしていた。
「え……えぇ~?」
そんな朝道の胸中を無視して、突如生徒会室のドアが開かれ、雪崩のように大勢の生徒が駆け込んできた。
『生徒会長ぉおおおおおおっ!! ヘルプウィイイイイイイッ!!』
「うわぁああああああああっ!?」
悩みを抱えた生徒たちの濁流に、朝道は一気に飲み込まれた。
ギュウギュウと流れ込む生徒たちの肉の大河に溺れながら、朝道は思った。
こんなことなら、嗚呼こんなことなら――
「とっとと揉んどけば良かったぁあああああああっ!!」
――この三日後、後悔先に立たずと知った朝道は、勇気を振り絞って香澄歌織に告白し、その後、大きく人生を間違えていくのだが……、それはまた別の話。