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その日、僕は夜の散歩に出掛けていた。
庭で花火をした時に見た星空を、どうしてももう一度見ておきたくて、僕はこっそりおばあちゃんちを抜け出したんだ。家を出ると決心した時はすごくドキドキしたけど、上手くいった瞬間はそれ以上に嬉しかったことを覚えてる。
カエルの大合唱の中、浮き足立った僕は踊るように畦道を駆けた。
一人きりで見る夜空はとても広大で、手を伸ばせば届きそうなほど間近に見えた。あの星もこの星も、全部僕が独り占めしちゃっているような、そんな全能感さえ僕の中にはあった。
飽きもせずずっと夜空を眺めていたから、僕は気付かなかった。
畦道の先に、見慣れない奇妙な影が存在していたことに。
ちょっとした丘かと思うくらいに白くて大きい〝それ〟が、どうやら蹲る人影であることに気付くまで、たっぷり十秒は掛かった。ひどく狼狽えた様子で左右を見回したかと思うと、重々しい足取りで立ち上がる。
こんな大きくて白い人がいるのに、何でずっと気付かなかったんだろう。
そんな疑問を抱いた僕は、隠れるべきか逃げるべきか迷ったけど。
「あ、あの」
困っている人を見たら助けてあげて、という先生の言葉を思い出し、僕は勇気を出してその人影に声を掛けた。
「あなた、誰なんですか? ここで何してるんですか?」
思えば僕の人生は、きっとあの日から本当の意味で始まったんだ。
期末テスト終了のチャイムが鳴ると、校内のそこかしこからちょっとした歓声が湧き立った。
誰も彼も、お預けされていた〝夏休み〟というご褒美に目を輝かせているようだった。テストが返却されればまた一部はお通夜ムードになるだろうが、それはそれ。誰しも目の前のタスクを片付けるのに精一杯で、その先のことを考える余裕なんてないのだ。
学生にとってのテストと夏休みよろしく、いいことと悪いことは交互に来ると言う。
いいことだけ来てくれればいいのに、というのが私の切実な感想だ。
「終わったぁー!」
放課後、教室の後ろに集まった女子達は、皆一様に解放感に満ちた歓声を上げた。
今日も今日とて、中身のない無意味な反省会が始まる。
「全然勉強してなかったから今回絶対ヤバいよー」
「私もー。数学とかマジイミフ状態だったし」
「美鈴ー、テストどうだった?」
「まぁ、普通かな」
流れ弾の質問に、私――市塚美鈴が平然と答えると、友人らは片手で頭を抱えて項垂れる。
「美鈴すごいよねー、私なんか全然ダメだったのに。やっぱり一夜漬けじゃ厳しいなぁ」
「あーあ、もうテストとかなくなっちゃえばいいのにねー」
「そーそー、どうせ将来何の役にも立たないんだしさぁ」
彼女達が不平たらたらに傷を舐め合う中、『まぁ普通』の私は付かず離れずの距離を保ちつつ、スマホ片手に直立するだけ。
――本当にせよ嘘にせよ、勉強してないなんて予防線は見苦しいだけなのに。
テストが嫌いという感覚は、私にはよく分からない。別に何かやることが変わるわけでもないし、テスト当日の数日間は午前中で授業が終わってくれるのだ。個人的にはむしろテスト週間が終了して、再び八時間も学校に拘束される方が気が重い。
もちろん口にはしない。嫌みと取られることは、火を見るよりも明らかだから。
「美鈴ー、この後カラオケ行かない?」
「ごめん、今月スマホ機種変してピンチだからパス。また今度誘って」
実際は単に気乗りしなかっただけなんだけど、私は理由を適当にでっち上げて断った。貴重な小遣いを使って素人の下手な歌を聞かされるより、クーラーの効いた部屋でダラダラする方がよっぽど健全だ。カラオケなんてどうせ夏休みになれば嫌というほど付き合わされる。
「そっかー、残念。じゃあとりあえず五人だね。場所どうしよっか?」
「最近駅前に新しいとこ出来たんだけど、結構いいらしいよ。そこにしよ」
「オッケー、ユッコとマキも誘ってみるね」
すぐさま切り替えて談笑するその様は、まるで初めから私がいなかったかのようだ。
私は通学鞄を肩に引っ提げ、会話の邪魔にならないよう静かに立ち去った。別れの挨拶を告げる者は、誰もいない。
別に友達なんていなくても困らないんだけど、親に心配されたり哀れみの目を向けられたりするのが不愉快なので、負担を感じない程度で適当に合わせることにしている。それは恐らく彼女らにとっても同じで、適当な言い訳が出来るなら誰でも構わないんだと思うけど。
下駄箱で靴を履き替えて昇降口を抜けると、容赦のない日差しに炙られた。
息苦しいほどの熱気に肺を蒸され、私は小さく呻く。
「あっつ……」
夏は嫌いだ。
暑いし湿度は高いし食べ物もすぐに傷むし、何と言ってもそこかしこに虫が湧くのは最悪だ。セミがやたらと喧しいだけならいざ知らず、黒くてすばしっこいアレと遭遇した日には一日を淀んだ気持ちで過ごすこと請け合いだ。これだけ科学が発展して尚、住み分けも殲滅も叶わないのだから、薬剤メーカーや駆除業者がわざとバラ撒いているんじゃないかと疑ってしまうことすらある。
夏は嫌いだ。最悪だ。
かと言って冬が好きかと問われれば、別にそういうわけでもない。今でこそ「夏より冬の方がよっぽどマシ」と思っているけれど、恐らく実際に冬になればその評価もあっさり逆転してしまうだろう。寒すぎて布団の外に出たくなくなるし、雪が積もればインフラがあっさり麻痺するし、自転車に乗るとすぐに手や耳が痛くなってしまう。人はしばしば話題作りに「夏と冬、どっちが好き?」という質問をするが、私に言わせれば何の意味もない二者択一だ。北風と太陽が相打ちで消えてくれるに越したことはない。
つくづく世の中には意味のないことが多すぎると、私は思う。
それは例えば肩書きであったり、ランキングであったり、学歴であったり、芸術であったり、ゴシップ、ノルマ、手続き、体裁……とにかく色々だ。多かれ少なかれ、似たような思いは多分他の人も感じていると思う。感じていてその上で、それを口にすることが許されない――そんな雰囲気だ。よく分からない何かについて偉い人が難しい言葉を並べ立て、無縁の大多数がよく分からないままそれに同調する。宇宙の誕生の仕組みが分かったところで、別に貧困や戦争がなくなるわけでもないし、みんなもそのことは分かっているはずなのに。
何となく、私だけみんなと違う世界に居るんじゃないかと思うことがある。正論や本音を言うと人は泣いたり怒ったりするらしいが、私にはその感覚がよく分からないのだ。それが欠点であれば素直に正すべきだし、根も葉もない妄想やデタラメなら粛々と指摘すればいいだけの話だ。腹いせに爆発させた感情で共感や同意を得るやり方は、はっきり言って卑怯だと思う。声の大きい方が勝つゲームならカラオケでやればいい。
行き場のない蟠りを強引に呑み下し、私は深い溜息を吐いた。
私だってこんな偏屈なことじゃなくて、もっと楽しくて面白いことを考えたい。だけど実際問題として勉強は窮屈だし、運動は退屈だ。友人関係は億劫なことの方が多いくらいだし、小説も映画も音楽もアニメも漫画もゲームも流行りのものは何が面白いのかさっぱり分からない。たまに気に入ったものに巡り合えても、大抵の場合は打ち切りになってそれきりだ。
売れないものは必要でないから、淘汰される。この大量消費社会で、それは当然の原則だ。
――だけど、それを言うなら。
――必要でないものを好きになった私は、何なんだろう。
ふと、私は足を止める。
汗ばんだ背中に制服のブラウスがじっとりと張り付き、私は炎天下にも拘らず寒気を感じた。下らない哲学と脳内で笑い飛ばすことが、なぜか今日に限って出来なかった。下らない連想ゲームの果てに期せずして自己否定という終着点に行き着いたことが、たまらなく恐ろしく思えて仕方なかった。
一人でいると気を紛らわせることもできなくてよくない。やっぱりカラオケについていけばよかったかな、とか柄にもなく後悔し始めた矢先。
「…………んん?」
私の視界に、何やら怪しげな影が割り込んできた。
カッターシャツとスラックス姿の男子生徒が、キョロキョロと周りを見回したかと思うと、早足で道路脇の雑木林へと駆け込んで行ってしまったのだ。遠目にもかなり小柄で中学生くらいに見えたけど、あれは私の通う高校の制服だ。
そして何となく、私はその生徒を知っているような気がした。
だけど、暑さに思考をやられかけていることもあって、私の頭はどうにもそれ以上回ってくれない。そもそも同級生の名前なんて、女子ですらさほど覚えていないのだ。これだけ離れた距離の男子の名前なんて分かるわけもない。
男子生徒は雑木林に踏み入る姿を見られたくないようだった。私は暫し、彼の気持ちを汲んで見なかったことにするか否か迷ったが。
――どうせ暇だし、こっそりついていっちゃえ。
人生と人間社会という壮大なテーマに不貞腐れていたこともあり、悪戯心で彼の後を付けてみることにしたのであった。