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『私の知り合いが、寝たきりになりやがったんです。不眠症が原因で』
都内を走行する、タクシーの車内。就職の最終面接に向かう道すがら、カーラジオから届く声をなんとなしに聞いていた。
『そいつは私の弟弟子で、元々、糖尿を患ってましてね。医者からもっと運動しろって助言されてたようなんですが、運動したぐらいで痩せないのは力士を見てたらわかる話であってね』
本来は、電車で面接に向かうはずだった。
だけど、寝過ごした。いや、心のどこかで寝過ごしたい思いがあったのだ。
『まぁでも私も還暦過ぎてるもんで、健康には普段から気を配ってはいるんですが』
今回以外にも一社、最終面接までこぎつけていた。
でも――。
『最近、つともの忘れがひどくなってきましてね。特にモノの名前ってのが途中までは出ても、全部思い出せないことがあるんです』
行かなかった。
『落語した場所の名前でさえ、いまいち思い出せないことがあるんです。昨日も、どこで落語したんだっけなぁ』
行けなかった。
『どこだっけなぁ。三重県だったのは思い出せるし、途中までは出るんだけど、いまいち地名が正確に出てこない。なんだったかなぁ、つ、つ、つ、頭につが付いてたのはたしかなんだけど、なんだったかなぁ、つ、つ、つ、つなんとか』
行きたくなかった。
自分が進もうとしている道が、どうにもつまらないものに思えてしまって。
視界の先にある標識が、どうにも邪魔に思えてしまって。
『って、思い出した。津だ。津でした、三重の』
「……ふふ。ふふふ」
笑ってしまった。
真面目に考えごとをしていたのに、唇からこぼれ落ちるように二度、三度と。
『でも最近ホントもの忘れがひどいんで、今日ももし同じことを二度話すようなことがあったら、客席から注意してください。でも最近ホントもの忘れがひどいんで、今日ももし同じことを二度話すようなことがあったら、客席から注意してください』
「ふふ。ふふふふふ」
顔全体が緩み、意識がつと、カーラジオのほうにベクトルの向きを変えた。
「やっぱおもしれぇよな、この人」
斜向かいに座る運転手が、肩を小刻みに揺らしている。
『まぁ噺の枕はこのへんにしておき、これからお話させてもらう噺にも、体を傷めた男が登場します。その男は足が悪く、それを理由に兵役を逃れたんですが――おい誰か家にいるか、トントントントン、トントントントン、なんでぇ平助かよ、なんでぇじゃねぇよ――』
「お、出た、千歳飴。好きなんだよなぁ、この噺!」
年老いた運転手が、色めきだった。
そしてこのあと、俺は出会うことになる。
俺の人生を百八十度変えた、一本の落語に――。