Hello,Hello and Hello


※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。
※実際の作品には挿絵が入ります。



 これは僕が失った、二百十四回にも及ぶ一週間の恋の話だ。


 そして――


 これはわたしが手にした、四年に及ぶたった一度きりの恋の話。



Prologue 僕と彼女の出会い



「ねえ、由くん。わたしはあなたが――」

 見ず知らずの女の子に声をかけられた。

 春の日ざしのように暖かく、花を揺らす風のように柔らかな声だった。

 思い返せば、僕はまずその声に惹かれたのだと思う。


  ❀


 時計の針は十時を過ぎて、十一時にさしかかっていた。

 参考書を詰め込んだ鞄のベルトが肩に食い込んでやたらと痛い。お腹だってくうくう鳴っている。いつもならとっくに家に帰っている時間だ。

 けれどもその日の僕は、どこに向かうというわけでもなく町をさまよい続けていた。

 数時間前の出来事が、頭の中から離れない。

 僕が逃げてしまった真っ直ぐな瞳。

 強い感情。

 薄暗い放課後の教室で、クラスメイトである竜胆朱音は僕に言った。

「あたし、ハルが好き。あたしと付き合って」

 彼女の顔は見たことないくらい赤くなっていたのに、肩だって震えていたのに、その声だけは大きく、決して揺れることはなかった。

 僕を真っ直ぐに見据える彼女は綺麗だった。

 すごくすごく綺麗だった。

 だから、僕も好きだよ、なんて言えたらどれだけよかったか。

 事実、僕は朱音のことを少なからず想っている。ただ僕のそれと彼女の好きは、同じものではない。色も形も重さも、多分、種類すら。

 僕たちが胸に抱いた気持ちは等価値ではないのだ。

 たったそれだけの事実が、想いを交わすことを拒んでしまった。

「ごめん」

 やけに渇く喉を唾でごまかしながら、それだけをなんとか告げる。

 朱音の首がゆっくりと垂れ、やがて俯いた。随分と長くなった髪が彼女の顔を隠してしまう。それでも朱音は何度か口を開こうとしたけれど、想いは吐息に変わるばかりで、もう言葉を紡ぐことはなかった。

 僕も何も言うことが出来ず、頭だけを下げて空き教室から出ていった。

 そこから先は覚えていない。頭の一部分が麻痺したように働かず、家に帰ることもなく、ひたすら歩き続けた。

 冬なのに、背中に汗が滲む。世界は瞳の中で焦点を結ぶことなく、ぐらぐらと揺れている。まるで止まり方など忘れてしまったみたいに、足は前へ前へと進み続けた。

 そんな僕がようやく立ち止まったのは、なんの変哲もない空き地の前を通った時のこと。

 いつの間にか変わっていた看板に気付いたからだ。

 何年も前から更地だったこの場所は、次の春がやってくる頃にはビルを建て始めるらしい。そうか。ここ、なくなるのか。思い出と呼んでいいのか分からないけれど、ほんの少しの思い入れがある場所だった。

 かつてこの場所に猫の遺体を埋めたことがあった。

 真っ白な毛並みの綺麗な猫。

 眠っているように目を閉じた猫の小さな体に指の先が触れて、僕はあの時、生まれて初めてその概念を理解した。ああ、ここに命はもうない。抜け殻だ。固く、重く、何より冷たい。

 中学生だった僕の前にあったのは、“死”だった。

 どうすることも出来なかった。

 それで多くの人がするように、自分の心を軽くする為だけに白い体に土をかぶせ、手を合わせたのだ。もう、四年くらい前の出来事になる。

 気付いた時、足はふらりと空き地の中へと向かっていた。あの日のように手くらいは合わせておこう。このあてのない逃避を終わらせる為のきっかけにちょうどいい。そう思った。

 そこで、僕は彼女に出会った。

 あの真っ白な猫のようにとても綺麗な女の子だった。雪のような白い肌に、リンゴみたいな赤い頬。長い髪に雪の結晶が絡まっている。

 ひとひらの雪が名前も知らない女の子の頬に触れて溶けた。とても幸せそうに笑っているのに、たった一片の雪のせいで泣いているようにも見える。

 彼女の形のいい唇が動き、やがて真っ白な言葉を紡いだ。


 ――ねえ、由くん。わたしはあなたが好きです。


 どうしてなんだろう。

 どうして朱音の言葉では動かなかったものが、見ず知らずの女の子のたった一言で簡単に転がり始めるのだろう。余裕とか理性とかそんなものは全て、一瞬で吹き飛んだ。

 その感情を前にして僕はあまりに無力だった。

 僕の返答に彼女は笑った。

 とてもとても嬉しそうに。

 それから少しだけ寂しそうに。

 高校三年の冬のこと。

 こうして僕は椎名由希と出会った。


 これが、僕と由希の出会いだ。

 だから。

 そう、だからこそ、僕は何も知らなかった。

 由希があの時、どんな想いで僕に告白したのかを。

 由希があの瞬間、どんな決意をして僕の前で微笑んでいたのかを。

 由希が僕に与えたものも、僕の手から溶け、こぼれ落ちていくであろうものも。

 本当に何一つとして知らなかったのだ。