Hello,Hello and Hello 特別版


※本ページは、電撃文庫『Hello,Hello and Hello』のスペシャル短編です。



「ふさわしいチョコレート」



 いつだって、初めてのことは緊張する。

 ふーっと深い息を吐いて、鏡の中にいる自分をそっと眺めた。

 いつしかわたしの“いつも”になっていた姿がそこに映っている。四年間で長く伸びた髪。少しだけ大人の女性に近付いた顔の輪郭。

 ただし、その表情だけはいつもとちょっぴり違う。やけに強張っているのに、どこか嬉しそう。胸に手をおいて、自分の中に尋ねてみる。

 ねえ、あなたは今、どんな気持ちなの?

 とくんとくんと速く優しい答えが返ってきた。

 好きな人が出来たことも、バレンタインデーにチョコレートを用意することも、男の子を彼氏くんなんて呼ぶことも、その全部が十九年の人生の中で初めてのことだった。

 まさか、自分にこんな日がくるなんて思ってもみなかったな。だって、こんなの。

 普通の女の子みたい。

 好きな男の子のことで一喜一憂して。

 彼の笑顔を思い浮かべながら、あれじゃない、これじゃないなんて悩んだりして。

 それがこんなにも嬉しくて。

 こんなにも楽しくて。

 だからかな。

 思わず泣きそうになってしまうのは。

 鏡の中の笑顔が途端にくしゃりと歪む。

 泣かないでと伸ばした指先が鏡の冷たい頬に触れ、まだ微かに濡れていた爪から水滴がうつってしまう。一粒の滴が頬を流れ落ち、本当に泣いているかのよう。わたしは慌ててそこに親指をこすりつけた。だって、こんなに楽しいのに泣いてしまうのはもったいないから。

 笑って、笑って。

 そう勇気づけて、笑みを形作る。

 その笑顔はまだ硬いままだけど、それでも泣きそうな顔よりはずっといい。何より、彼が言っていた。わたしが辛いと彼も辛いと。わたしが笑うと嬉しいと。

 だったら、答えは一つだけだ。

 ねえ、そうでしょう?

「うん。じゃあ、行ってくるね」

 いつの間にかちゃんと笑っていた自分にそう告げて、わたしは外の世界へとようやく向かった。


 2月の前半。

 町はクリスマスとは少し違った活気に溢れていた。

 決して煌びやかではないけれど、どこかふわふわとした想いが至るところに浮かんでいる。かつてその輪の中に入れず、光を避けるように歩いていたこともあったけれど、今度は違う。羽が生えてるみたいに、地面を踏みしめる足取りは軽やかだ。

 ドレッサーに閉まった宝石箱をそっと開けるように、昨日の彼との会話を、その手触りを思い返しながら町を歩いていく。

 町に溢れる色、音、誰かが誰かを呼ぶ声が、わたしの瞳の中で鮮やかに色づいている。


   ❆


 バレンタインフェアと書かれた赤いのぼり旗がはためいて、わたしたちが思わず足を止めたのは昨日のことだ。

 冬の凛とした空気が傾いた日の光でオレンジやピンクやパープルに色づき、どことなく寂しくなる。

 やがて世界は夜を迎えいれるだろう。夜の帳と共に、わたしたちが一緒にいられる時間もまた、幕が下りてしまう。

 しんしんと骨まで染み入る冷たさに、そこからくる寂しさに、わたしたちは手を繋いで耐えていた。

「そう言えば、ちょうどあと一週間なんだね」

「そうだな」

 その後、彼が口にしたのはこんな言葉だった。本当にバレンタインの事を思っていたのか、あるいはこの日々の終わりのことを考えていたのかまでは分からないけれど。

「もしよかったら、チョコくれないか?」

 彼の声はやたらと緊張していて、首筋が少し赤くなっていて。それが全然隠せてなくて。

 少しだけ軽口でも叩いてみようかと、悪戯心がうずうずと顔を出す。

 きっと、うろたえるんだろうなあ。

 恥ずかしがって、やっぱり何でもないって言って、さっきの言葉を取り消しちゃうんだろうなあ。

 なんだか、それは――。

 彼の隣でそんな空気を感じながら、わたしはとても素直に思ったのだ。

 それは、寂しいなあ。

 彼がわたしのたくさんのお願いを叶えてくれたように、彼が初めて自分から口にしたお願いを叶えてあげたいな、って。

 だから、いいよと頷いておいた。

 もちろん、照れ隠しの言葉は忘れずに付け足しておいたけれど。

 だって、わたしも少しだけ気恥ずかしいし。

 赤い旗は未だなお、はためいている。

 彼が嬉しそうに微笑んでいる。

「楽しみだな」

 由くんが独り言のように呟いた白い声に、わたしは繋いだ手に力を込める事で応えておいた。


   ❆


 さて。

 目的地を目前にまで捉えた足が、そこまで来て急に怖気づいた。

 今までなら横目に見つつ通り過ぎていくだけだったのに、これからわたしはそこに突入しなければならない。そう。ショッピングモールの一角に設置されていたバレンタインコーナーに。

 大々的に展開されたそのコーナーに足を踏み入れるのには、やたらと勇気が必要だった。だって、そうでしょう? わたし、恋してますって言っているようなものなんだから。

 そんなわたしの葛藤を知らず、わたしと同年代の女の子が三人、コンビニに入るような気安さでバレンタインコーナーへと向っていく。並んでいたチョコレートをあれもこれもと手に取って、きゃあきゃあと楽しそうに黄色い声を放つ姿はとても幸せそうで。

 あなたも早くおいでよと誘われているみたい。

 けれど、もう少しだけ勇気の必要なわたしは様子見を兼ねて、今はまだ離れたところからチョコの並んだ棚を眺めるだけにとどめておく。

 結構いろんな種類がある。

 トリュフとか、チョコクランチとか。クッキーにケーキ、お酒の入っているもの。

 一歩分だけ、心が動く。

 オランジェットなんてすごく可愛い。口にしたら、オレンジの皮が少し苦くて、とびきり甘いんだろうなあ、なんて思いを馳せる。

 二歩目は、少しだけ楽に。

 手のひらサイズの箱が綺麗にラッピングされているのは、見ているだけでわくわくする。

 三歩から後は一気だった。自然と足が前へと進んでいた。不安も恐怖も、別の何かに上書きされる。大丈夫、一人じゃない。だって。そこにいる誰もが自分が渡すチョコレートを選ぶのに夢中で、大好きな人の笑顔で頭の中をいっぱいにしている同士なんだから。

 そんな扉の内側に、ようやくわたしも入って行った。

「これなんて可愛いんじゃない?」

「ちょっと派手すぎだよ。すごく本命ぽいじゃん」

「何言ってんだか。本命なんだから問題ないでしょ」

「それは、そうなんだけど。ただあんまりさあ、ガチッぽいのあげるとむこうが照れちゃうから」

「照れるのはあんたの方でしょ。てかさ、あいつ鈍いんだからそれくらいしないと気付いてもらえないよー」

「でも、でも。えーどうしよう。迷う」

「あははは。迷え、迷え」

 隣で繰り広げられている声に半分くらい意識を傾けながら、ちょうど目の前にあった四角い箱を手に取ってみた。真ん中がハートの形に切り取られていて、ピンク色の布みたいなものが中に入っている。ちょんと突いてみると、結構さわり心地が良かった。

 これはなんだろう。ハンカチとは少し違っているみたいだけど。

 答えは、名前も知らない女の子が教えてくれた。

「あ、じゃあさ、これなんてどう?」

 なんて言いつつ、わたしの目の前に手を伸ばし、わたしと同じものを手に取り友人に渡す。箱を渡された子はぽかんと口を開けていた。

「何、これ?」

 わたしも知りたくなって、彼女と同じように首を傾げた。すると箱を手渡した子は、にたりと笑って――

「ボクサーパンツ」

 衝撃の真実、というものはいつだって不意打ちでやってくる。

 パ、パンツ!?

 わたし、今、男の人のパンツを手に持ってるの。というか、突いちゃったの?

 思わず落としそうになった箱を、なんとか空中でキャッチすることに成功する。ひやっとして心臓がバクバクしている。それは、この瞬間にも速度を上げて。

「もっと密着したいとか、離れたくないとかの意味があるらしいよ」

「なんかヤラシー」

「だから、そういうのはまだ早いって」

 女の子がやんわりと否定すると、友人二人の顔が楽しげに揺れて、二つの声がぴったりに重なった。

「「へえ、“まだ”なんだー」」

「もう! 意地悪」

 別にわたしが言われたわけじゃないのに、顔が熱をもって赤くなる。特に耳の先っぽなんかは、痛いくらい。わたしは手に持っていた箱を雑に棚に戻し、慌ててバレンタインコーナーから出ていく。マフラーに顎をうずめ、赤くなった顔を隠す。

 チョコだってあげるのが初めてなのに、パ、パ、パンツなんて、わたしにはハードルが高すぎる。

 無理、無理無理。絶対に無理だ。

 般若心境でも唱えるように心を無にして――全然出来てはいないんだけど――、わたしは綺麗に清掃されたお店を歩きまわった。飲食街を抜けて、靴屋を通り過ぎ、眼鏡屋さんを左折する。とりあえず少しでも離れたところに行きたかった。

 そうしてたどり着いたのは、ショッピングモールの一番端にある電化製品を扱っているお店だった。

 50インチとか70インチとかの大きなテレビ画面に、実物より大きく引き伸ばされた女性レポーターの顔が映り、いくつも並んでいる。どうやらお昼の情報番組らしい。テーマはちょうどいいことに、というかいろんな意味でタイムリーな「バレンタイン」。

 さっきの出来事が頭の中で再生され始めるのを頭を振って抗っていると――。

 画面に映ったものに、思わず見入ってしまった。

 レポーターのお姉さんがわざとらしく驚き、それを口にして幸せそうな感想を言っているが、その声は頭に入ってこない。彼女の手元にある、宝石のように輝いたチョコレートに意識が全部集中している。

 これ、いいかも。

 そんなことを思うのと同時に、わたしはお店の場所と名前を記憶していた。

 

 2月9日。

 バレンタインデーまで残り5日となったその日。

 わたしは“本命チョコ”を求め、今度はデパートへと向かった。もちろん、近所のデパートなんかじゃない。昨日テレビで紹介されていた、やけに大きくて、キラキラしていて、そのくせ中は戦場のようにごった返しているところへ電車に二時間揺られてやってきた。

 店内は暖房が効いているのか人が多いせいか暖かく、ふうと息を吐いて、それからようやく思い切り吸い込んだ。冬の凛とした空気は嫌いじゃないけれど、吸い込むだけで肺が痛むので得意じゃない。

 入口のガラス戸を押し開けて、一番人の群がっているお店に向かう。

 目当てのものはみんな同じなのだろう。

 イタリアだとか、フランスだとか、とにかくヨーロッパのどこかでみっちりと修行したというパティシエがバレンタイン前の一週間限定で売り出すというチョコレート。

 ベリー系のソースやホワイトチョコでコーティングされた色違いの七個のチョコボールは、艶々と輝き宝石のようだった。確かな職人が手間をかけ、自信をもって売り出す宝玉こそ、わたしたち女の子の一番特別な気持ちを添えるのにふさわしい。

 開店から五分も経たずに到着したというのに、すでに列の全容が把握できないくらい女の子が並んでいる。

 上品に、それでいて小悪魔のように可愛らしくラッピングされた箱の山がだんだんと小さくなっていく様子は、わたしの心をチリチリと焦らせた。買えなかったらどうしよう。わたしには少しだけ長すぎる袖を手の内側にきゅうっと握って、不安に耐える。

 一つ目の山が無くなった。

 ゴールまで半分位のところまできた。

 二つ目の山が無くなった。

 それでもまだわたしの番まで数十人はいる。

 店員さんの後ろに見えるチョコの山はあと一つ。

 行列から解放され、その手の中に“特別な一つ”を納めた女の子たちが、一人二人と幸せそうな笑顔を浮かべ次々に出口へ向かっていく。寒空の下に出てもなお、彼女たちは少しも顔を歪めることはなかった。と――

「どれになさいますか?」

 不意に声がかけられた。

「え?」

 どうやらわたしの番が来ていたらしい。店員さんの後ろを見る。チョコレートはあと十箱は残っている。ギリギリセーフ。

「あ、あの、昨日、テレビで紹介されていた、き、綺麗なチョコを」

 緊張で若干どもってしまった。声も震えている。ただお店で買い物をしているだけなのに、頬が熱い。

 それだけで特別なものを買っている気になる。

「かしこまりました」

 しかし店員のお兄さんはにっこりと笑って、商品を手渡してくれた。よっぽどわたしが緊張しているように見えたのだろう。ありがとうございました、の代わりに、頑張ってね、の言葉を添えながら。

 目的を達成したわたしは、すぐに電車に飛び乗った。

 まさか購入まで二時間もかかるなんて。

 ここからさらにまた二時間の旅が始まる。

 由くんとの待ち合わせは午後四時に正門前なので、駅から歩くことを考えればギリギリになるかもしれない。席に座って、膝の上に買ってきたばかりの小さな箱を乗せる。欲しかったものだ。これしかないと感じたものだ。

 何もかもが一級品で、誰が見ても本命だと分かるチョコレート。

 なのに、どうしてかな。

 電車が由くんのいる街に近づくにつれて、不安が大きくなっていった。

 いつもの駅に到着する旨のアナウンスが流れる頃、わたしはもうチョコレートを幸せそうに買っていった女の子たちと同じ笑顔を浮かべてはいなかった。

 こうして見ると、違っているように思えるのだ。

 ほんのちょっと何かが足りていない。

 でも、その何かが分からない。

 指でリボンをイジっていると、綺麗に付いていたそれが少しだけ歪んでしまった。


 見慣れた駅に着くと、途端にお腹がきゅるると鳴った。そういえば、朝から何も食べていない。

 ゆっくりと昼食をとっている時間はなさそうだからと、駅近くのよく訪れるコンビニに入った。ちょっとはしたないけれど、歩きながら食べてしまおう。

 いくつかのおにぎりとホットの緑茶をカゴに入れたわたしは、いつもの癖でお菓子売り場へと向かった。普段からあるチョココーナーとは別に、バレンタイン用のチョコ売り場なんてものもあった。でも、わたしが行くべき場所は、普通のチョココーナーの方。

 このお店に来ると、ついここに来てしまう。

 四年前、わたしが由くんと出会った場所。


 ――止めておいた方がいい。


 遠い日の幻聴。


 ――だけどそれは犯罪だよね。


 まだ名前すら知らなかった少年の声。

 なんだかやけに懐かしくなって、わたしたちの出会いの理由となったチョコレートをそっと手にした。誰もが、どこでも、手軽に買えるチョコレートだ。全然特別感がなくて、外装だって可愛くない。わたしのカバンの中のチョコと比べると、百人が百人、こちらが義理チョコだって口にするはずだ。

 ああ、でもね。でも、それでもね。

 手にした瞬間、足りないと思っていた何かが埋められていた。

 だって、わたしは知っていたから。

 このチョコの甘さを。

 彼が込めてくれた勇気と優しさを。

 だったら、わたしの想いを添えるのに、これほどふさわしいものが他にあるだろうか。途端に手の中のチョコが重くなる。その重さが嬉しかった。

 今度はそのチョコをきちんとかごに入れる。

 どうしよう。顔に力が入らない。

 でもしょうがないじゃない。ようやくわたしは確信できたのだ。このチョコこそがわたしからの“本命”に一番ふさわしいんだって。

 コンビニを出て、おにぎりを齧る。お茶を飲む。

 コートのポケットにチョコレートをしまう。

 誰にも聞こえないように口の中で言ってみる。

「もし甘いものが嫌いじゃなかったら貰ってくれないかな?」

 遠い日の、もうどこにもない少年が告げた言葉を真似してみた。男の子の口調って、ちょっと気取った感じになるので面白い。まだ少し早いけれど、予習を兼ねて続きを紡ぐ。少しだけわたしのオリジナルのものに言葉を変えて――

「自分でも柄でもないことをやっていることは分かっているんだ。ただ今回だけは大好きなあなたに、チョコをプレゼントするくらいの気まぐれなら許されるでしょう。だってさ」

 気付けば、ふふっと笑っていた。

「バレンタインだもの」

 早く由くんに会いたいな、と思った。


 おわり