※本ページは、電撃文庫『Hello,Hello and Hello』のスペシャル短編です。
「由希」
誰かがわたしを呼んでいる。
「由希」
誰かが名前を呼んでいる。
「由希。起きなよ」
そう言って誰かがわたしの肩を揺さぶるから、段々と意識が浮上していく。目が覚める時の、いつもの感覚。深い水底に沈んでいるわたしは、光に近づき、最後には包まれている。
つまり、そこが夢の終わり。
そして、現実の始まる場所。
「あ、起きた? おはよう、由希」
真っ白な光は、男の子の姿をしていた。
わたしもまた、彼がずっとそうしていたように彼の名前を呼んだ。
「おはよう。由くん」
トロンとした瞼は、日の光を受けて未だ重い。太陽の光って重力が多分に含まれている気がする。でなくちゃ、こんなに瞳を開けるのに苦戦するはずがないもの。
そんな馬鹿なことに脳の機能の半分くらいを割きつつ、残りの半分できちんと状況の把握に努めていく。ええっと、今日は土曜日で、由くんは学校がお休みで。ああ、そうだった。だから一緒にお昼でも食べようと誘ったのだ。
いつも通り約束よりもいくらか早く待ち合わせ場所の公園についたわたしは、なんとなくベンチに座った。そこまでは覚えている。ただ、そこから先の記憶は曖昧だ。ううん。まあ、状況から察するに、そのまま春の陽光に誘われて居眠りをしていた線が有力だろうけど。
視線を上げると、太陽の位置がいくらか変わっていた。そばに立つ木々の影が濃くなり、わたしの顔の上を撫でるように揺れている。
「暖かくなってきたとはいえ、外で寝てたらさすがに風邪ひくよ」
「だよね。気をつける。でも、ここ。気持ちいいんだよ、ほら」
そう言って彼の手を引っ張って、隣に座らせた。
由くんがこちらを見ていることには気付いていたが、気付かないふりをして再び目を瞑った。やがてため息と共に、頬に刺さっていた視線がすっとなくなったのが分かる。どうやら彼もわたしと同じように目を瞑ったらしい。
こうやって目を閉じていると、五感の一つが閉ざされているからか、普段よりも嗅覚とか聴覚とかが敏感になっている気がする。さわさわと木々のざわめきが聞こえる。自転車の走る音がする。楽しそうな話し声は、どこかゆっくりだからおじいちゃんおばあちゃんのものだろう。
不意にした春の花の香りは、わたしのものか。
それとも近くに咲いてある桜のものか。
「ね、気持ちいいでしょう?」
世界の音を、匂いを、体全部を使って感じながら尋ねた。こうしているだけで、隣にいる由くんの息遣いだとか、体温だとか。そういうのもなんとなく感じられた。
「もうすっかり春だ」
「由くんはやっぱり春は好き?」
「そうだね。好きだよ。……由希は、どうなのかな?」
さて、それにどう答えたものか。少しだけ思案していると、隣の由くんがなんとなく焦れているのが分かった。なんだか楽しくなってしまう。ちょっとだけ、意地悪でもしてみようかな。
「春はさ、服装が困るよね」
「え? どういうこと?」
「ほら、昼はこんなにも暖かいでしょう。でも、朝とか夜とか日が沈んでしまうとまだ肌寒い。一日外に出てると、どっちに合わせようか困っちゃうの」
「な、なるほど」
「あと、体調も崩しやすいし」
「うん」
「わたしはそうでもないけど、花粉症の人とか大変そう」
「うちは父さんが苦しそうにしてる」
そこでわたしはようやく目を開けた。由くんがいた。春由という名前の、春を冠した男の子。この日ざしのように暖かく、わたしの髪を揺らす風のように、彼は優しい。
そんな彼はいつからか、不安そうな顔をしてわたしを見ていた。彼の瞳の中で何かが揺れている。それはわたしが欲しいものなのか、違うのか。答えは分からなかった。
そっと、両手の側面をくっつけてお椀を作る。ちょうど木々の間から漏れる光が、そのお椀のなかに溜まっていた。真っ白な日だまりは少しの濁りもなく美しく、何よりも温かい。
こんな温もりの中にいたら、雪なんてあっという間に溶けていくだろうな。
ああ、でも。いつからか。
わたしはこの温もりを求めていたんだ。
その先に待つ春の中に、雪の姿はないというのに。
それでも、春の中に雪の姿を残そうなんて、そんな奇跡を希う。だったら、もうこんな風に言えるのではないか。言ってもいいんじゃないか。
「でも、わたしは春が好きだよ。ううん。好きになれたんだよ」
そうだ。わたしはこの季節が好きなのだ。
「そっか。よかった」
ほうっと、彼は息を吐きだした。
春の香りを体に纏ったわたしは、そこでようやくベンチから立ち上がる。
手の中の光を高くすくい上げ、そして頭の上でゆっくりと両手を広げた。
光が、春が、その温もりが。
わたしの世界に確かに満ちて、溢れ、広がっていく。
いつか交わした約束を由くんが守ってくれることはないけれど、それでもわたしは、わたしだけは守ってあげる。まだ中学生だった彼が、わたしに願ったこと。言葉にこそしなかったけれど、願ったことは分かっていた。
春のことを嫌いだなんて言わないでほしい。
ねえ、由くん。わたしはこの季節のことが好きになったよ。本当だよ。
だから、あなたも早くわたしの願いを叶えてね。
そんなことを思いながら春の光に濡れた手を、今度は由くんへと差し伸べた。
おわり