1-①

 JR武蔵野線北府中駅の東側には、地獄がある。

 一見して地獄とはわからない。歩道の片側に色気のないクリーム色の塀がずっと続いているだけだ。ただ、異様に高い。4メートルほどもあって、敷地内の建物の影すらうかがえない。そして広い。どこまでいっても壁が続く。


 娑婆と地獄を隔てる壁――


 府中刑務所、である。

 選りすぐりの凶悪犯のみが収監される日本最大の監獄。その正門に、20××年9月某日、百台に迫るメルツェデス・ベンツと、その何倍もの人数の男たちが集結していた。

 車はすべて黒。集まった人々のスーツも一人の例外もなく黒であった。

 物々しい空気の中、門が開き、四人の刑務官を伴って、一人の初老の男が姿を現す。硬い銀髪に精悍な顔立ち、眼光衰えぬ双眸は狼を思わせた。

 居並ぶ数百人の黒服たちが左右に壁をつくって整列し、一斉に最敬礼した。


「永のお務め、ご苦労様ス!」

「ご苦労様ス!」


 閑静な北府中の町の曇り空に、男たちの野太い唱和が響く。

 黒一色の光景の中でただ一人、ベージュのジャケットに開襟シャツという服装のその初老の男は、集まった黒服たちをざっとねめつけ、低い声で応じた。


「苦労かけたな」


 七年の懲役を終えて出所したばかりのその男こそ、日本最大級の指定暴力団、四代目雛村一家組長。日本の裏社会に君臨し続ける極道の帝王であった。

 俗世の空気を大きく吸い込み、迎えの車の方へと歩き出そうとしたとき――

 黒服の列を成していた男たちのうちの一人が、突如飛び出し、組長に激突した。


 鈍い痛みが腹を貫く。


 血相を変えて殺到する他の黒服たちの手によって刺客は組長から引き剥がされ、地面に組み伏せられる。組長は空を仰ぎ、真後ろに倒れた。

 腹に、短刀が束まで埋め込まれている。ジャケットがみるみる赤黒く染まる。

 男たちの悲鳴に近い声が飛び交うが、すでに薄れ始めた意識の中では、風の音と区別がつかない。

 組長は裏切り者の顔を見ようとするが、頭を起こす力さえ残っていなかった。

 肉体のぬくもりが腹部の穴からだくだくとアスファルトの上に流れ出ていくのが自分でもわかる。痛みも怒りも大昔に観たモノクロ映画のように現実感がない。


(俺ァ……死ぬのか……)


 ひどく冷静に組長は自らの最期を察していた。


(ろくでもねェ人生だった)

(ひでェこともたくさんやった)

(似合いの死に様だな)

(生まれ変わるとしたら、野犬か虫けらだろう……)


 近づいてくるストレッチャーのキャスター音をかすかに聞きながら、組長は絶命した。

 享年、六十。


       * * *


 精霊樹が銀色の花をいっぱいにつけ、微光を放つ花粉で黄昏の樹海を仄明るく満たしている。人の身長ほども丈のある葉で葺いた屋根が梢の合間に見え隠れし、紫や青の蟲灯りのランプが枝から枝へと渡された蔦のロープにびっしりと吊されて明滅している。

 リュサンドールの谷。

 大陸のうちでも今やここにしか残っていない、夜エルフの郷である。

 祭のための華麗な薄衣に身を包んだ美しい夜エルフの娘たちが、手に手に花輪を持ち、郷の中央広場に列をなしている。

 広場の縁、巨木の洞に設えられた祠から歩み出てきたのは、月光そのもののような妖しい光を帯びた衣を纏う、ひときわ麗しい娘だった。

 花嫁の衣装――である。

 夜エルフ族長の長女にして、百万の星を墜とす美貌と讃えられた姫、ヒミカ。

 めでたいはずの婚礼を控え、着飾った花嫁を囲み、一族の者たちは――しかし、啾啾と泣いていた。


「ああ、ヒミカ様……」

「なぜヒミカ様があのような男に……」

「おやめなさい、そなたたち」


 ヒミカが穏やかな声でたしなめた。


「しかたのないことです。わたくしたちは女しか生まれぬ一族。外の血を受け入れねば滅びるさだめなのですから」

「それはわかっておりますが、あのような、蛮族の男を――」


 ヒミカは哀しげにまつげを伏せた。


「シュペムルドールの郷も、風裂き谷の郷も、星蟲洞の者たちも、みな帝国に攻め滅ぼされたと聞きました。もう……夜と森の民は、ここにいるわたくしたちしか残っていません。異種の血を甘受するしかないのです……」


 エルフという種そのものの黄昏が、樹海に訪れようとしていた。

 そのとき、ヒミカの頭上で幼い声が響く。


「ねえさま? お嫁に行くのですか? なぜヒナは婚礼に出てはいけないのですか!」


 見上げると、精霊樹の梢に設えた小さな庵の戸口から、可憐な少女が顔をのぞかせている。ヒミカの妹、ヒナだった。


「いけませんヒナ、中にいなさい」

「なぜです、めでたい席なのでしょう? ちがうのですか? なぜ皆泣いているの」

「あの男が見たら、きっとあなたまで欲しがります。隠れていなさい!」


 侍女の手でヒナの小さな身体は庵に引っぱり込まれた。


「ねえさま! そんなにおつらいならヒナが代わりにお嫁に行きます!」


 ヒナは声をあげ、侍女に抱きすくめられて身をよじった。


「ヒナさまはまだ成人前です。無茶をおっしゃらないで」


 侍女が耳元で縋るように言う。


「いつまでも子供扱いしないで、ヒナも今夜の日没で六十になります!」


 人間の何倍もの寿命を持つエルフにとっては六十歳が成人とされ、ヒナはこの五十九年間、外界のことはなにひとつ教えられず、一族の窮状についてもまったく知らされずに大切に大切に育てられてきたのだ。しかしそのかりそめの平穏も今夜終わろうとしていることを、さしもの箱入り娘も肌で感じ取っていた。


 不意に、森の静けさが掻き乱される。

 下生えを踏み折りながら近づいてくる、たくさんの蹄音、いななき、そして金属のぶつかり合う音。

 ヒナは庵の戸の隙間から広場を見下ろす。


 夜エルフの女たちが集まった広場に、踏み込んできたのは何騎もの軍馬だった。背には厳めしい装飾鎧を着込んだ人影をそれぞれのせている。ヒナは恐怖にぶるりと震えた。一族の者たちと比べて、体格も、顔つきも、髪も、肌も、なにもかもがちがっていた。

 ヒナが生まれてはじめて目にする――《男》だった。


「伯爵閣下、いけませぬ、ここは精霊の森です。鋼鉄は帯びず、徒歩か籠でおいでください、と申し上げましたでしょう」


 年嵩の夜エルフの女が、先頭の一騎に駆け寄ってか細く抗議する。

 伯爵、と呼ばれた馬上の男は、鼻で笑って冑をむしり取った。粗野で好色そうな顔が現れ、濁った目が居並ぶ女たちを舐めるように見渡す。


「細かいことを言うな。めでたい日だ。大陸一の女をものにできるのだからな。籠でちんたら来る気になぞなれんわ」


 伯爵の目が、正面のヒミカに留められる。舌なめずりしそうな品のない顔で、一歩また一歩と花嫁に歩み寄る。その背後、付き従ってきた騎士たちも次々と下馬し、冑をとって女たちの胸元や脚に下卑た目を注ぎ、広場へと踏み入ってきた。


「閣下、そちらの方々は……?」


 ヒミカは怯えた声で訊ねた。


「今宵の婚礼はわたくしたちの流儀で執り行う取り決めです。このような大人数は困ります」


 伯爵も、他の騎士たちも歯を剥いて笑った。


「他の娘どもにも夫となる男を連れてきてやったまでよ」


 ヒミカは目を見開く。


「……なにを……?」

「女しか産まれないなら、男はいくらでも必要だろうが。くくっ、種族ごと我々が末永く面倒を見てやろうというのだ。たっぷり産ませてやる。産まれたその娘もまた――」


 夜エルフたちは一斉に顔をこわばらせ、声を荒らげる。


「そのようなことまで望んではいません!」

「約束がちがいます!」


「あきらめろ、おまえたちはもう種として終わってるんだ」と騎士の中から嘲笑が飛ぶ。

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