1-②

「狩り尽くされないだけありがたいと思え」

「伯爵に感謝するんだな、一族そろって愛玩用に飼ってもらえるんだからな」


 獣欲のにじむ笑い声に、娘たちは底冷えのする恐怖をおぼえ、後ずさる。

 鎧を軋ませた騎士たちに追い詰められ、組み敷かれ、布を裂くような悲鳴をあげているリュサンドールの民の様子を、ヒナは樹上の庵に隠れて垣間見ることしかできなかった。侍従の女もヒナを抱きすくめながら震えている。


「ぉお、なんという、なんと……無体な……」


 侍従のか細い声を聞きながら、ヒナは無力感で身がねじ切られそうだった。


(ああ、みんなが……)

(ねえさまが、あんな汚らわしい男に――)


 眼下でヒミカが伯爵の太い腕によって草むらに組み伏せられ、花嫁衣装が大きくはだけて白い柔肌があらわになる。


「ゃぁあああ――ッ」


 姉の悲痛な声がヒナの脳に突き刺さった。

 そのとき――

 はるか東の空に月が顔をのぞかせた。

 夜の訪れ。森の民にとっての一日のはじまり。ヒナが迎えた六十回目の誕生日。

 それは、生者と死者の《刻》が交差する瞬間――


「――がッ」


 伯爵は顔面から地面に叩きつけられ、土に深くめり込んだ。

 なにが起きたのかすぐに理解した者は一人もいなかった。ヒミカは乱れた衣の前をかき寄せながら後ずさり、精霊樹の幹に背中を押し当てる。一族の他の娘たちも、それを追い回していた騎士たちも、唖然とした顔で伯爵のみじめな姿を注視していた。

 なにか銀色のものが樹上から落ちてきて伯爵の頭部に激突した――ように、ヒミカには見えた。その銀色のものがヒミカの眼前に小さく縮こまっている。

 それはゆっくりと立ち上がった。細い四肢に巻き付く長い銀月の髪。


「……ヒナ……?」


 ヒミカは怯えきった震える声で、その者の――妹の名を呼んだ。

 ヒナは応じるようにちらとヒミカに横目をやり、しかしなにも言わず、地面に伏したままの伯爵に油断なく視線を戻した。六十年間にわたってこの森の深奥で大切に庇護されて育ってきたエルフのあどけない姫の、右の拳は、しかし固く握りしめられて伯爵の血にまみれていた。


「……く、……ぅうっ」


 伯爵は呻き声を漏らし、地面から頭を引き抜いて立ち上がった。膝が震え、髪は乱れ、顔面は鼻血で汚れ、前歯はそっくり折れている。

 樹上の庵から飛び降りてきたヒナが、その落下の勢いのままに伯爵を痛烈に殴り倒したのだ、と、ようやくヒミカも状況を理解し始めていた。

 けれど、ヒナが? か弱く世間知らずで虫一匹殺せない妹が?


「……ぐ、き、きさま――」


 伯爵がヒナをにらみつけて唸る。その声を遮るように少女の涼やかな声が響く。


「薄汚ェ手でねえさまに触るんじゃねぇ」


 樹海を渡る風も凍りつくような言葉だった。その場のだれもが目と耳を疑った。


「無礼なッ、わッ、私をだれだとッ」


 伯爵は血混じりの涎を吐き散らしながら目の前のヒナに躍りかかった。少女と巨漢の体躯の差は倍ほどもあったが――

 肉をえぐり骨を砕く痛ましい衝撃音の後、再び地面に崩れ落ちたのは、伯爵の身体だった。

 今度こそ全員が目の当たりにしていた。まっすぐ突き上げられた少女の拳が伯爵の顎を弾丸の如き勢いで貫くところを。

 血のにおいのする風が樹間を吹き過ぎる。

 突っ伏していた伯爵の爪が草を掻く。かろうじて頭が持ち上げられる。血だらけの顔の中で濁った両眼だけが恨めしげに光っている。


「……き、さま、……何者、だ……エルフに、こ、このような、……がッ」


 伯爵の言葉の最後は血に沈められた。ヒナがその後頭部を強く踏みつけたからだ。

 何者なのか。それは、ヒナ自身にも――わかってはいたが、いまだ受け入れられずにいた。ひとつの身体の中に、ふたつの生涯の記憶が同居し、混じり合うことも隔絶されることもなくとぐろを巻いていたからだ。


「俺は――」


 矛盾してねじくれた想いを、ヒナはそのまま口にした。


「四代目雛村一家! リュサンドールの谷のヒナだッ! てめェらよくもうちの組の者に手ェ出しやがったな」


 いまだ慄然として硬直している騎士たちを睨め回し、ヒナは吐き捨てる。


「生きて帰れると思うな」


       *


 後始末が済む頃には、夜が明けようとしていた。

 ヒナが殴り倒して半殺しにした男たちをすべて馬の背に乗せて樹海の出口に送り返すだけで二十人がかりの大仕事だった。他にも、血で汚れた精霊樹や広場を清めなければならなかったし、騒ぎで怯えた鳥や獣や蟲たちをなだめるための歌も一晩中歌い続けなければいけなかった。

 そしてなんといっても――

 ヒナが一体どうしてしまったのかを調べなければいけなかった。


「……たしかに、この方はヒナ様でございます」


 谷でいちばんの占術師が、たっぷりと時間をかけた儀式の後でヒミカにそう報告した。


「だから最初ッからそう言ってるだろうが!」


 水に浸けられたり香油を塗りたくられたり煙で燻されたりとあれこれやられて不機嫌なヒナがむくれて言った。


「俺は俺だよ、ねえさまの妹で! リュサンドールの末姫だ!」

「つまり、簡単に申し上げますと」


 占術師は姫姉妹の顔を見比べながらおそるおそる説明する。


「ヒナ様の前世はまったくちがう世界に生きておられた殿方で、その記憶が大霊さまのご意志で完全な形で保持されていたのです」

「大霊さまが?」


 それはヒナにも初耳だった。大霊というのは全地の精霊樹の根がつながる大地の最奥に住まう女神のことだ。


「おい待て、それは大霊さまに直接聞いた話か?」

「はい、先ほど巫術でお伺いをたてました」

「なんでこんなか弱い女に生まれ変わらせたんだッ! 俺ァ極道だったんだぞ!」

「前世でもヒナちゃんと呼ばれていて手芸がご趣味だったので可憐な森の姫にふさわしかろうと大霊さまはご判断されて――」

「雛村は苗字だし男だって手芸くらいするだろうがッ」


 思わず怒鳴りつけてしまったが、前世のことについて今世の者に怒ってもしょうがなかった。隣で聞いていたヒミカが弱り切った声で訊ねる。


「つまり、わたくしの可愛いヒナは……何者かに取り憑かれているわけでもなければ、何者かが化けているわけでもなく……これが本性だと……」

「はい。その通りでございます」

「だからさっきからそう言ってるだろ、ねえさま」

「その喋り方も元に戻らないのですか」


 ヒミカは泣き出しそうだった。


「もう思い出しちまったンだから今さら戻せって言われても困る」


 ヒナは苦い顔で姉の頭を抱き寄せて髪をぐしぐしと乱暴になでた。


「別人になったわけじゃねぇんだ。変わらずあんたの妹だよ。気にすんな」

「気にしないのは無理です……」


 ヒミカはめそめそしつつも、以前と同じようにヒナが自分に懐いてくれているのは嬉しくもあり、妹の胸に額を押しつけた。


「そんなことより俺の方こそあんたらに言いたいことがある」

「なっ、なんですか」

「六十年間も箱入りで育てやがって、ふざけんなよ! おかげで俺はなんにも知らなかったんだぞ。自分の種族が滅びかかってるってのに」


 ヒミカはしゅんとなってうつむく。


「それは、ヒナに心配をかけたくなくて」

「それはこっちのせりふだ。もうねえさまたちに心配かけさせねェ」


 ヒナは立ち上がり、庵の戸口の幕を引いて外に顔をのぞかせる。

 眼下に広がるリュサンドールの郷。夜明けの光を受けて露をきらめかせた梢の葉、薄く透きとおっていく夜光蟲たちの羽根、霧で煙る翡翠色の木々、こちらを見上げて安堵の表情を浮かべている森の女たち……。


「エルフはみんな精霊樹でつながった同族――俺の身内だ。全大陸のエルフを救ける」


 姉を振り返るヒナの眼には、可憐な末姫にはまったく似つかわしくない、凄惨なほどに凶暴で狼じみた光が湛えられていた。


「人間どもと抗争ガンガミだ」

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