2-①

 硬い向かい風が、長い耳の先を尾羽のように揺らし、銀月の髪を高く翻らせている。


「じゃあエルフってのは女しか産まれねェのか」


 ヒナが訊ねると、姉ヒミカは風でなぶられる髪を手で押さえながらうなずいた。


「このままでは森とともに滅びるしかなくなるんです」


 か細い声は風にかき消されてしまいそうだ。

 二人は、巨大な蝶の背に身を寄せ合って乗っていた。蝶は月が照らす雲海の上を籠はとてつもない速さで飛行しており、風は肌を裂くほど冷たく険しい。

 ヒミカの術によって森の木の一本が姿を変えた霊蟲である。七日で大陸を縦断できるというその翼で、二人は北の氷壁に向かっていた。リュサンドールの谷を発ってからもう半日は過ぎただろうか。ずっと雲の上なので景色の変化もほとんどない。なにか喋っていないと眠ってしまってそのまま蝶の胴体から転げ落ちそうだ。


「女しか産まれねェならこれまでどうやって子供つくってきたんだ。あんなふうに好きでもない外の男と結婚してたのか」

「いえ。これまでは、何代かに一度、族長が《祝福》を賜っていたんです。つまり、その、子供がつくれるような身体に……」


 ヒミカはもじもじと恥ずかしそうに言って自分のへそのあたりをちらと見下ろす。


「ああ、生えるのか」

「ヒナっ? そ、そのようなはしたない物言いはよくありませんっ」

「そうやってねえさまたちが何事もはっきり教えてくれねェから、俺はこの歳までほとんどなんにも知らないで育っちまったんだぞ」

「うう……それは、わたしも反省していますけれど……」


 ヒミカは縮こまってつぶやいた。


「ともかく、ここ二百年の間、どこの郷でも《祝福》を賜った者が出てこなくなったんです。大霊さまにお伺いを立てても原因はまったくわからないと……。古い伝承にも、何度かそのような種族の危機を迎えたことが記されていました。そのときどきで異種の血を迎え入れてなんとか種が絶えないように保ったと」

「だからってなんであんな下劣な男を引っぱってきたんだ」

「連れていかれた他の郷の民になにをされるかわかりませんから……わたしたちは選べる立場になかったんです」


 長い間、新しい子が産まれないままのエルフは各地で力を失い、郷を隠蔽する術を人間たちに破られ、侵略をゆるしてきたのだという。

 ヒナはため息をついた。


「祝福なんてなくても、女同士で子供くらいどうにかつくれねェのか。なんか術とか使って」

「そっ、そんな! 自然の理に反します!」


 精霊術で造った巨大蝶で空を飛んでいる最中に自然の理を語らないでほしいとヒナは思ったが、面倒なので口にはしなかった。代わりにため息をつく。


「とにかく人間どもと戦うにはもっと力が必要だ。こんな細っこい身体じゃタイマンもろくにできやしねェ。ほんの二十人くらい半殺しにしただけなのに腕が腫れ上がって」

「鍛えるのですか! 大猿のようにむきむきになるつもりですか、わたしのかわいいかわいいヒナが!」


 ヒミカは泣きそうな声で言って抱きついてきた。ヒナは鬱陶しそうに姉を押しのける。


「今さら鍛えてどうなるもんでもねえだろ。人間界丸ごと相手しようってンだ。千年以上生きてる魔女ならなんか武器になるもんを見繕ってくれるだろ」


 二人が向かっている先、北の氷壁には、かつてこの大陸全土を震え上がらせた強大な魔女が棲み、隠居生活を送っているという。リュサンドールの長老たちの話によれば、何十代か前の夜エルフの長がその魔女になにかしらの『貸し』をつくったのだとか。


「大丈夫でしょうか。逢っていきなり石に変えられたりしないでしょうか……」

 震える声でヒミカは言った。

「《不動の魔女》アリシアといえば、そのむかし数万の民を一夜で生ける屍にしたとか――」


 途中でヒミカは言葉を呑み込む。

 霊蝶がぐっと身を傾け、降下を始めたからだ。

 行く手の暗い空になにか白い巨大なものがぼんやりと見える。

 雲を貫いて聳える雪を戴いた峰――北方大氷壁だった。


       * * *


 信じられないほど深く寒い洞窟だった。

 氷壁の中腹にぼっかりと開いた入り口から踏み込み、きれいに刻まれた階段を下り始めてから、どれだけたっただろう。エルフは厚着をする習慣がないため冷気はとくに身に堪え、ヒナとヒミカはほとんど抱き合うようにして歩を進めていた。

 手にしたランプの中の夜光蟲もくたびれはてて尻の光を眠たげに明滅させ始めた頃――

 ようやく階段は尽きた。


 廊下の先は巨大な広間だった。壁は透きとおるほど磨きあげられ、ずらりと並んだ燭台が真昼のような明るさをもたらし、天井もよく見えないほど高いせいで、洞窟内だということを忘れそうになる。

 広間の中央にぽつりと、天蓋付きの円い寝台が設えられていた。


 異様な光景だった。寝台の上にも、足下の床にも、動物を模した色とりどりのぬいぐるみが山積みになっている。ヒミカはヒナから身を離し、貢ぎ物を収めた籠を両手でしっかりと抱えながら寝台に歩み寄った。

 ぬいぐるみの山の間に、人影が見える。

 長い髪が、流れ出した黒蜜のように敷布の上に広がっている。


 両脚を投げ出し、大きな枕に半身を沈め、分厚い革張り表紙の書物を物憂げに読んでいるのは、あどけない少女だった。エルフよりもなおいっそう肌が白く、夜藍色の瞳は深く、青い衣の袖や裾からのぞく手足は四夜目の月のように細い。


「リュサンドールの姫君たちがぼくに何用だい」


 見た目通りの少しかすれ気味の幼い声で少女は言った。目は書面に注がれたままだ。


「アリシアさま。突然の訪問、おゆるしください」


 ヒミカは丁寧に言って平伏する。

 その後方でヒナは立ち尽くし、寝台の少女を凝視していた。

 これが――悠久の時を生きてきた《不動の魔女》アリシア?

 ヒナの半分ほどの歳にしか見えない頼りなげな幼女が?

 アリシアはようやく書から目を上げた。


「……おや。妹ぎみは面白いことになっているね」


 ヒナと視線を合わせた魔女は口の端を持ち上げる。


「ひとつの身体にふたつの心だ。しかもけんかせずに完全に融合している。これほど珍しい例はぼくもはじめて見る」

「おわかりになるんですか」とヒミカは目を見開く。

「わかるとも。ぼくをだれだと思っている。この窖に居ながらにして全世界を検索する、全知無能の魔女だよ」

「……どっかで逢ったことねぇか?」


 ヒナが訊ねるとアリシアは首を傾げた。


「初対面だよ。なにを言っているんだい?」

「そうか。ならいいんだが。あんたに頼みたい仕事がある」

「仕事はごめんだね。世界が滅ぶその日までごろごろするためにこの氷壁洞に引きこもっているのに」

「《不働の魔女》じゃねえか」

「なにか文句があるのかいっ! 働いたら負けだよ!」


 アリシアは敷布をぼふぼふ平手で叩いた。ぬいぐるみの山が崩れる。


「あの、アリシアさま、うちの郷の香草漬けがお好きと聞いてお持ちしましたからっ」


 ヒミカがあわてて貢ぎ物を差し出す。籠いっぱいに詰め込まれていたのは何本もの透明な瓶だった。真っ黒な液体で満たされている。リュサンドール近辺で採集される何十種類もの薬草を調合した不気味な飲み物だ。

 受け取ったアリシアの顔がほころぶ。


「なんだい、先に出したまえよ」


 瓶の一本の蓋を開いた。さわさわという音がして中の黒い液体が泡立つ。エルフは嗅覚も鋭いので、複雑にからみあった甘い香りがヒナにも嗅ぎ分けられてしまう。顔をしかめたくなるようなにおいだ。

 ぐっと一口で一瓶を飲み干したアリシアは相好を崩してうなずいた。

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