3-②

 男たちは驚愕に顔を歪ませ、エピトルテから手をはなして後ずさる。瓦礫の雨が床に降り注いでざらついた音を散らばらせる。支えを失って崩れ落ちかけたエピトルテの身体を、背後から抱き留める細腕があった。

 首をねじると、そこには少女の冷え冷えとした顔がある。


 夜明けの月のような肌と深い藍色の瞳。リュサンドールの夜エルフだ、とエピトルテはすぐに気づく。なぜこれほど若い夜エルフがこんな場所に――しかも両脇に従えた天井を突き破りそうなほど長身の二柱は、いずれも強大な岩精と電精だ。あふれ出る凶暴な魔力にエピトルテの皮膚は粟立つ。


「遅くなってすまねェ。なんもされてねェか、女王さん」


 少女の口から可憐な声で、しかし乱暴な言葉が吐かれる。エピトルテは混乱の極みにあったが、しかし腰に回された腕は力強く、伝わってくる体温は怯えと恥辱にこわばっていた身体を少しずつ溶かしていく。エピトルテは思わずその少女の首に両腕を回していた。


「そなた、一体――」


 濡れそぼった声で少女の耳元に訊ねる。


「リュサンドールのヒナ。静かにしててくれ女王さん、舌噛むぞ」


 ヒナ。名前にだけは聞き憶えがある。リュサンドールとはそれなりに交流があったがエピトルテも一度も顔を見たことがなかった。たしか、族長の末姫で、姉の過保護により庵から一歩も出ずに育ったという娘ではなかったか。

 それが、このような――凛々しく、雄々しく――


「な、き、きさまっ、ど、どう」


 ようやく我に返った男たちが声を上ずらせる。一人残らず腰を抜かして尻餅をついているのが実に間の抜けた光景だった。


「どうやってここまで侵入ったッ? 要塞の中枢だぞ、警備兵はッ」


 しかし、問うまでもなかった。ほとんど一面崩れ落ちて壁ではなくなったその向こう、通路の反対側の壁にも同様に大穴が穿たれ、さらに奥の部屋の突き当たりの壁にも大穴がくろぐろと口を開け――そして瓦礫の間には、甲冑をつけた兵たちが何人も伸びて、血や嘔吐物を床に広げていた。


「あるじ、こいつらも皆殺しにしていいんスか」


 青白く帯電した電精が、辺境伯や宮中伯たちをぞろりと眺め渡して訊ねる。


「だめだ。こいつらはエルフに手を出すとどうなるのかって帝国に思い知らせるための生き証人になってもらう。半殺しにしろ」


 男たちはすくみ上がった。黒光りした岩精が言う。


「半殺しって半分は殺していいってことスか。六人いるから、半分で、ええと」


「四人だな!」と電精。

「馬鹿おまえ六人の半分だから八人だろ」と岩精。


 ヒナは電精と岩精を殴り倒した。


「殺すなっつってンだよ! 死なない程度に痛めつけろ!」

「すンません」「すンません、あるじ」

「蛮族めがッ」


 大司教が声を引きつらせ、身を起こして懐に手を突っ込んだ。

 引っぱり出されたその手には、宝石と金細工を縫い付けた複雑な刺繍の布片がしっかりと握られている。


「見よ、聖地で祝福を受けた護符じゃ! 神の絶対防護術によって貴様らのような穢らわしい悪霊の手は我らには届かぬ!」


 護符から強い法力があふれ出すのがだれの目にもわかった。淡くきらめく光の防護膜が、床にへたり込んだままの男たちをまとめて包み込む。男たちの顔にだらしない安堵感、そして優越感が広がる。


「少し術を使うくらいで調子に乗りおって、小娘が!」

「わしら帝国の要職を担う貴族がなんの備えもしていないと思ったか!」


 大司教は護符を見せつけるように掲げて口元を歪める。


「じきに援軍が来る。その薄汚い悪霊をさっさと地獄に追い返して降伏しろ。おとなしくしているのであれば、ぐふふ、女王と二人並べて女の悦びを教え込んでや――」


 大司教の言葉は途中でくぐもった破砕音に呑み込まれた。

 撃ち込まれたヒナの左足の蹴りが《神の絶対防護膜》をやすやすと突き破り、突き出された手から護符を弾き、そのまま大司教の顔面に叩き入れたからである。


 血しぶきを派手に散らしてもんどり打つ大司教の肥えた身体。

 しかし彼はまだしも幸運だった。鼻の骨と前歯を折られるだけで済んだからだ。あとの五人を処理したのは岩精と電精である。

 貴族たちの悲鳴はバサマランカ郊外にまで届いたという。


       * * *


 ヒナがリュサンドールの谷に帰還したのは、二日後の夜半過ぎだった。

 精霊樹に囲まれた広場に、ハズリムシの巨躯がほとんど音もなく走り込んできて草むらに頭を潜り込ませて停まった。ハズリムシはエルフが使役する騎乗用の大型甲虫だが、リュサンドールの族長一家に飼われたその個体は普通の倍の飛翔速度を出すことができた。


 甲殻に取り付けられた鞍から、ヒナが飛び降りた。

 輪になって出迎えた夜エルフの女たちの間から、ヒミカが駆け出してくる。


「ヒナ、お帰りなさい! よかった、無事だったのですね。ひとりで要塞に乗り込むなんて」

 ヒミカは途中で口をつぐむ。

 ヒナの背中側から首に両腕を回して抱きついている人影に気づいたからだ。


「……エピトルテさま? ご、ご無事で、なによりです」

「ヒミカどのか。久しいな。妹ぎみにはほんとうに救けられた。それにマリエルドールの民もこちらに避難させてもらったと聞く。どれほど言葉を尽くしても感謝しきれない」


 エピトルテが、女王にふさわしい威厳と気品がにじむ口調で言う。

 しかし、話している間もずっとヒナの首にかじりついて身体を密着させ続けているのだから威厳も気品もあったものではない。ヒミカは困惑の目で妹と女王とを見比べる。


「エピトルテさま、どうかなさいましたか? その、ヒナに、ずっと」

「郷を攻め落とされた心痛で立つこともままならないのだ。しかたなく、妹ぎみの肩を借りている」

「しっかりとご自分のおみ足で立っているように見受けられますけれど……?」

「妹ぎみと触れ合っていると心が落ち着き、胸の奥から生きる気力が湧き出てくる。しばらくこうしていたい」

「しばらく、といっても……いつまででしょう」

「最低でもあと千六百年くらいは」

「そっ、そんなの永遠姉妹も同然じゃないですか!」


 エルフには女しかいないため結婚という概念が存在しないが、死ぬまで添い遂げる契約を交わす《永遠姉妹》という結婚によく似た儀式がある、というのはヒナもぼんやりと聞き知っていた。具体的になにをどうするのかは知らないけれど、四六時中こうしてひっついている契約なのだとしたら鬱陶しいだけだった。


「いけません、ヒナはわたしの妹ですから!」

「実の姉妹は契りにはなんの関係もないだろう」

「関係あります! ヒナはわたしのですっ」


 ヒミカも負けじとヒナの首にすがりついた。


「二人ともうるせえ。離れろ」


 あきれたヒナは高貴なエルフの王族二人を乱暴に振りほどいた。


「ンなことやってる場合か。早く全土のエルフと交信するぞ。女王さん、準備しといてくれ。俺は蟲たちを世話してくる」


 ハズリムシの脇腹をさすって巣へと連れていくヒナの背中を名残惜しげにエピトルテが目で追っていると、木々の間から見知った顔が駆け出してくる。マリエルドールの花エルフたちだった。


「女王さま! ご無事で……よく……」

「もう二度とお逢いできないかと」

「私たちのために、おつらい目に……あぁ……」


 寄ってくるマリエルドールの民をエピトルテは両腕を広げて抱き寄せる。


「心配をかけたな。郷はどうなった」

「みな逃げ散りました。残っている者はおりません」

「そうか。卵もそのまま、か」

「はい。帝国軍に追われて、とても持ち出す余裕は……」


 花エルフたちは声を詰まらせる。

 エルフは卵生である。孵化までの期間は個体によって大きく差違があるものの数百年あるいは千年以上にも及ぶ。孵化前の卵は一族の宝として郷の中枢部、精霊樹の根元深くの聖所に安置されることになっていた。

 そうそう人間たちの手の及ぶ場所ではないが、それでも大切な卵たちになにかあったらと考えると胸が圧し潰されそうに感じる。


「郷には戻れるのでしょうか」

「私たちはこれからどうなってしまうのか」


 弱々しい花エルフたちの言葉を聞きながら、エピトルテはヒナが分け入っていった踏み分け道の先を見やる。


「わからない。だが、あの者なら――」

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