4-①

 帝都アムステンブルムは、水の都である。


 湖畔に設営された旧帝国時代の駐屯所を礎として発展してきたその市街には、湖から引かれた運河が縦横に張り巡らされ、大陸全土から集まる人と物と富を淀みなく流通させる役割を担っていた。湖水に浮かべた船や艀をそのまま住居に改造したものも多く、浮橋でつなげられた水上建築の群れはもうひとつの市街地とも呼べるほどの規模に拡大していた。また湖中に点在する島々にも贅を尽くした館が建てられ、王侯たちの別宅や宴会場として使われていた。


 中でも名高いのが、湖のほぼ中央に位置する最大の島にあるセルマ離宮である。

 重麗宮――の別名で呼ばれる。

 建物と、その主とが、どちらも都で最も美しい、というのが由来だ。


 白亜の城館の三階、寝室の窓辺にけだるく寝そべった皇女アクィラは、午後の陽を照り返す湖面をぼんやりと眺めながらわざとらしいため息をつく。


「あたくしの結婚相手はまだ決まらないの?」


 背後で敷布の繕いをしていた侍女サビーナがくたびれきった顔で答える。


「姫様にはそれはもう山ほどの求婚が届いています。陛下も選びきれずに困っているだけでございますよ。焦ることはございません」

「でも、あたくしはもう十七歳よ」


 頬を膨らませてアクィラはサビーナを振り返る。


「今はこうして帝国でいちばん美しい女でいられるけれど、無駄に歳を重ねたら――」


 形の良い顎の輪郭をアクィラは自分の指でたどる。


「帝国でいちばん美しい年増女になってしまうわ……」


 サビーナは苦笑いを返すしかない。

 アクィラの美貌が帝国全土に知れ渡り、諸侯から縁談が大量に申し入れられているというのは事実だった。しかし。


「ねえサビーナ。お父様はあたくしを嫁がせないつもりじゃないかしら」


 不意にアクィラが言うのでサビーナはどきりとして糸を握った手を止める。


「マシェラ姉様もフィオラ姉様もまだでしょう。マシェラ姉様なんて今年でもう二十五じゃない。老婆も同然よ。おかしいわ」

「ですからそれは陛下が慎重に慎重を期して」

「西のハバキ族も大酋長のもとにまとまって勢力を増しているというし、南洋貿易も海賊が増えて停滞気味で、教会も税収で私腹を肥やしてのさばっているし、諸侯とのつながりを政略結婚でどんどん強めなければいけない時期でしょう」


 サビーナは頭を抱えたい気分だった。世間知らずの姫君みたいな顔をしていながらアクィラは帝国の内情をしっかり把握している。サビーナの教育の成果ではあるが。


 現在の帝国は、ゆるやかな君主連合である。帝位はアムステロ家が世襲しているものの、選帝会議が儀礼的にアムステロ家の代々の当主を指名しているという形式であり、皇帝はあくまでも《同輩中の首席》に過ぎない。旧帝国時代のような強力な中央集権など望むべくもなく、婚姻によって諸侯とのつながりを深めておかなければならないはずだった。


 しかし、当代は未だに娘を一人も嫁がせていない。

 理由について、口さがない世間は色々と勘ぐっていたが――


「お父様ってひょっとして実の娘に懸想する変態なのではなくて?」


 サビーナは縫い針を指に突き刺しそうになってしまった。


「……姫様、な、な、な、なにを」

「前々から、あたくしや姉様を見る目がなにか不必要にいやらしいと思っていたのよね」

「尊崇すべきお父上にそのような、いけません姫様」

「小さい頃はあたくしのうなじを一日に二十回くらいくんかくんかすーはすーはしてたし」

「父親としての愛情表現ですから」

「あたくしの胸が育ってきてからは服の採寸をしたいなんて言い出すし」

「手ずからお召し物を贈りたいというお気持ちですよきっと」

「水遊びにも毎回ついてくるし」

「大切な愛娘の安全を御自ら見守りたいと」

「あたくしの月のものの周期を完全把握しているし」

「それも姫様の健康を思えばこそで」


 だんだんと擁護しきれなくなってきたサビーナである。

 なにしろアクィラの懸念はすべてあたっている。奉公に出されて以来二十五年間宮中勤めをしてきたサビーナはそこらの貴族よりもよほど帝室事情に詳しい。


 当代の皇帝は――

 真性の変態だった。


 近親者にしか欲情しないのだという。実際に当人がそう発言しているのをサビーナも耳にしたことがある。

 正式な皇后もおり、側室も四人いるが、全員が煙幕のためだった。数多くいる皇子や皇女たちの母親はすべて皇帝の実姉や実妹だという。美形の家系なので産まれてきた子供たちもみな美しく、変態皇帝の興味は当然のように実娘にも向けられ……


「とにかくお父様は存在そのものが気持ち悪いの!」


 本人が聞いたら泡を吹いて卒倒しそうなことをアクィラは言い切る。


「こんな場所にあたくしを閉じ込めて。囚人と変わらないわ」


 ここ数年、アクィラはセルマ離宮から一歩も外に出ていない。皇帝が禁じているのだ。いくら風光明媚な美宮で、楽団や劇団がしょっちゅう訪問してくれるといっても、十代の少女にとっては退屈極まりないだろう。


「どうせ求婚もお父様がぜんぶ握り潰しているんでしょう」


 まったくその通りだったがサビーナは縮こまって言葉を濁すしかない。その様子を見てさすがにアクィラも口元に手をやる。


「ごめんなさい。サビーナを責めているわけではないの。なにか知っていても言えるわけはないわよね、罰を受けるかもしれないし」


 これもまたアクィラの言う通りであり、姫の気遣いにサビーナは痛み入ったものの礼を言うわけにもいかなかった。口に出せない事実を抱えている、と認めることになってしまうからだ。黙って小さく頭を下げ、針仕事に戻る。

 窓枠からだらしなく片腕をぶらりと垂らしてアクィラはつぶやいた。


「魔法の国の王子様がさっと現れてあたくしを攫っていってくださらないかしら……」


 ほんとうにそうなってしまえばいいのに、とサビーナも思った。

 もちろんそんなお伽噺みたいなこと、現実には起きるわけがないのだ。苦笑いを漏らし、手元に目を戻す。

 ところが次の瞬間、起きてしまう。


 寝室の出入り口の方から轟音が響いた。サビーナは針を取り落とし、アクィラは身を起こして目を見張る。両開きの扉の蝶番が弾け飛んで板がこちら側に倒れ、粉塵がもうもうと舞い上がった。

 その向こうから現れたのは――


 透きとおるような髪と薄衣と肌、伸びて尖った長い耳、濡れた宝玉の瞳。背筋が凍るほどに美しい少女だった。エルフだ。しかも一人ではない。二人、三人、と続いて扉の残骸を踏み越えて部屋に入ってくる。どの少女も、青と紫の揚羽蝶の柄を刺繍した腕章を巻いている。


「……な、あ、あ、……」


 サビーナは声を引きつらせた。言葉にならない。腰も抜けている。

 先頭のエルフの少女がサビーナを冷ややかに一瞥し、それから窓辺のアクィラに目を移す。この少女だけ明らかに雰囲気がちがうことにサビーナは気づいた。目つきが凶暴なまでに鋭く身のこなしも野生の狼のようだ。対して、後から入ってきた少女たちはみな不安げに室内を見回している。


「なに? あなたたち」


 アクィラが気丈に声を張って訊ねた。


「皇女アクィラだな?」


 先頭のエルフ少女が訊ねてきた。


「そうよ。皇女の部屋と知っての狼藉? 衛兵はなにをして――」


 エルフたちの背後にいかつい人影が現れる。甲冑をつけた衛兵だ。見るからに満身創痍で、折れかけた槍を杖代わりに脚を引きずりながら扉板を踏み越えて入ってくる。


「きさまらっ、皇女殿下に、……ひ、ひっとらえ、て、や、八つ裂き――」


 先頭のエルフの少女が振り向きざまに一閃させた爪先が、衛兵の顔面にめり込んだ。巨体は床にどうと倒れ、凹んだ冑が外れて転がる。サビーナは声にならない悲鳴を喉から漏らした。

 少女は再び向き直る。


「皇女アクィラ。いっしょに来てもらう」


 窓際に歩み寄ると、アクィラの身体を肩に担ぎ上げた。

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