4-②

「な、なっ? やめなさい、はなしなさいっ」


 アクィラは顔を紅潮させて四肢をばたつかせる。

 しかしサビーナにはわかった。どこか本気で抵抗していないところがある。赤らんだ顔も怒りというよりはむしろ――昂奮か、期待……?


「ヒナさま。……いえ、ええと、組長」


 脇に控えていたエルフの女がサビーナをちらちら見ながら遠慮がちに呼ぶ。


「こちらの女性はどうしましょう。侍女かと思いますけれど……」


 ヒナと呼ばれたその少女がアクィラを担いだままサビーナを振り返った。殺気を含んだ視線に射すくめられてサビーナは死を覚悟した。首をすくめて顔をそむける。

 けれど、冷たい声が降ってくる。


「連れてく。置いてったら俺らとの内通を疑われて処刑されるだろ」


 サビーナが驚いて顔を上げた瞬間、身体全体が傾いて宙を泳いだ。ヒナに担ぎ上げられたのだ、とすぐには気づかなかった。右肩にアクィラ、左肩にサビーナをのせて窓に向かう。ヒナの背中側でサビーナはアクィラと顔を見合わせるかっこうになり、お互いになんともいえない恥ずかしさで視線をそらす。

 階下から鉦の音や重たい靴音が近づいてくる。おそらく警護兵の増援が到着したのだ。この行き止まりの部屋からどうやって逃げるつもりなのか。

 ヒナは窓枠に足を掛けた。


 サビーナもアクィラも声にならない声をあげた。ヒナが二人を両肩に担いだまま宙に身を躍らせたからだ。

 重みが消え失せ、内臓すべてが浮き上がる感覚が襲いかかり――

 次の瞬間、なにか柔らかい感触がサビーナを受け止めた。

 風の音が全身を包む。知らずと閉じていた目をおそるおそる開くと、眼下に遠ざかっていくセルマ離宮の白亜の尖塔が見えた。

 空を――翔んでいる。


「暴れンなよ。落ちたら死ぬぞ」


 ヒナの声が耳元で、向かい風にまぎれつつも聞こえた。


「うぅ、……サビーナ、いるの? 離れないで……」


 すぐ近くでアクィラが怯えきった声を漏らし、サビーナは皇女の手をしっかりと握った。もう一方の手で、身体のすぐ下にあるなにかふさふさしたものをつかむ。

 この上質の絨毯のような感触はなんなのか、一体どうやって自分たちは飛行しているのか、と周囲を見回したサビーナは、やがて気づき、卒倒しそうになった。

 彼女たちがしがみついているその柔毛で覆われたものは、ばかばかしいほどに巨大な蛾の胴体だったのである。


       *


 帝都アムステンブルムから、エルフたちが前哨基地を構える黒銀の森までは、大蛾の翼で丸一日かかった。途中、二度だけ水の補給のために地上に降りたが、あとは飛びっぱなしで、森の広場に着いたときにはアクィラは魂が抜けたように憔悴していた。サビーナにしても一日中蛾の背につかまり続けていて疲労困憊で、四肢が萎えきっていた。


「必死につかまってっからそんなくたびれるんだよ」


 ヒナがあきれて言った。アクィラなどは飛行中ずっとヒナの腰に両腕を回して全力で絞めていたのだ。体力が保つわけがない。


「じっとしてりゃ毛に引っかかって落ちないのに。立てるか? 無理か。しょうがない」


 アクィラの背中と膝の裏に腕を差し入れたヒナは、やさしく抱き上げて蛾の背から草地に柔らかく飛び降りた。サビーナも転げ落ちるようにしてその後を追う。


「ヒナさま、お帰りなさい!」

「ご無事でよかった!」


 梢の庵からエルフたちが姿を現し、駆け寄ってくる。各エルフ郷から派遣されている駐在員であるため、肌や瞳の色がみな少しずつちがうが、人間を見た経験がほとんどない点は同じであり、ヒナが抱えている皇女を見てあからさまな警戒の色を目に浮かべる。


「その方……帝国の、皇女ですよね?」

「ほんとうに皇帝に刃を向けることに……あぁ……」


 アクィラはぐったりとヒナの胸に頭を預けて茫然としていたが、エルフたちの不安そうな声を耳にして我に返り、ヒナを押しのけるようにして地面に降りた。


「愚かな異種族! 帝室に刃向かうなんて命知らずにも程があるわ!」


 せいいっぱい居丈高にアクィラは声を張り上げる。


「帝国の恐ろしさを思い知りなさい。いずれ軍が派遣されて一族郎党皆殺しよ。あたくしを人質にすれば手を出されないと甘い考えでいるのでしょうけど、あたくしも誇り高き帝室の一員なのよ、帝国の威信のために犠牲になる覚悟はできているわ! さあ気が済むまで慰みものにしなさい!」


「しねえよ」とヒナは億劫そうに言って、地面にへたり込んでいたサビーナに手を貸し、助け起こす。「あんた侍女だよな? ここにいる間、姫さんの世話を頼む。俺たちは人間の日常の細かいことはよくわからない」


「……は、はいっ」


 サビーナはなぜか姿勢を正して返事をする。


「待ちなさい、あたくしは覚悟できているけれどサビーナには手を出さないで!」

「だからなんにもしねぇって」

「あたくしはどうせエルフの男に純潔を奪われてしかたなくエルフの妻になる運命だけれど、サビーナは関係ないから解放してあげて!」

「エルフに男なんていねェよ」

「……いないの? 嘘でしょう。それじゃ子供を作れないじゃない」

「だから今おまえら人間につけ込まれてんだろうが」

「あっ、まさかそのためにあたくしを攫ってきたの? あたくしは女よ!」

「見ればわかるよ。さっきからうるせえな。とりあえず飯にしよう」

「どうせ豚の餌みたいなものを食べさせるんでしょう! どんな屈辱にも耐えてみせるわ!」


 エルフの食事は木の実や蟲の蜜を主材料とした彩り豊かで滋味あふれるもので、もとより肉や魚をあまり好まないアクィラにとっては夢見心地の絶品だった。相伴したサビーナも一皿ごとに目を丸くしている。


「お口に合ったようで良かったです」


 料理を運んできてくれたエルフの娘が遠慮がちに言ってほほえむ。


「あと、行水して着替えてもらう。そのかっこうは森の蟲や鳥が怖がるんだ」


 ヒナが言うのでアクィラは身をこわばらせる。


「全裸に剥いてあちこち辱めた上に奴隷の服を着せるというわけね!」


 香草をたっぷり浮かべた水槽で髪と身体を清められると、蛾の背中に丸一日しがみついていた疲労が残らず溶けだしていくようだった。与えられたエルフの衣は蕗の葉脈を編んで仕立てた繊細な上物で、肌にしっとりとなじみ、寒さも気にならなくなった。


「とりあえず今日は寝ろ。疲れてるだろ。身体壊されたら困る」

「牢獄に放り込んで薬で眠らせてその間にいやらしい拷問をするつもりねっ?」


 長い草を編み上げてつくった庵に案内されたアクィラは、綿毛を敷き詰めた寝床に横になるとすぐに心地よい眠りに落ちていった。

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