8-④


       *


 時詠みの塔は、大陸の東端、乳白海を眼下に望む断崖の際に立つねじくれた尖塔である。

 伝説では天地開闢からそこにあるとされ、悠久の月日を厳しい潮風に晒されてきたため、石造りの外壁は腐食と塩の結晶化とで変質して不気味なまだらを描き出していた。

 俗人が近づくことすらないその塔は、古来、強力な魔女の集いである《千年夜会》の拠点として使われていた。用途は多岐に渡る。文献の保管、呪物の製作、薬物の精製、術の実験、そして密会場所……。

 その夜も、時詠みの塔の十八階の一室に、ぽつりと蝋燭が灯っていた。

 壁には二人ぶんの影が引き伸ばされて投影され、炎が揺らめくたびに大仰に踊っている。暗がりに女のくぐもった声が響く。


「……対象はだれです?」


 男の声が答える。


「それは言えぬ。知る者をなるべく増やしたくない、と主の仰せだ」

「困りますね。呪いは対象が限定されていればいるほど威力と正確性が高まるのです。できる限り情報をいただかないと」


 逡巡の間があった。


「……軍事指導者だ。人望が篤く、荒くれ者を率いている。手勢は多くはないが、よく訓練されていて手強い。当人も、腕が立つのはもちろん、化け物じみた力を持っている」

「どうにも抽象的ですね」

「これ以上具体的には言えぬのだ! わかるだろう。主はやんごとなきお方だ。特定の者をはっきりと名指しで呪うように指示した、などという穢れた事実は残せんのだ!」


 女の忍び笑いが挟まった。


「なんともまあ、虫の良い。しかたありませんわね。その条件でお詠みしましょう」


 しばらく、この世のものではない文言の詠唱、炎で貝殻や香木が爆ぜる音、そして金属の爪が石の表面を掻く音が続いた。胸をふさぐ甘苦いにおいが部屋に充満する。

 やがて女は熾火の中から青く変色した石片を長い爪でそっと拾い上げ、冷めるのを待ってから布に包み、男に手渡した。


「指名呪詛ではありませんから、かけるためには対象をかなりの長時間視認し続ける必要があります。また、対象に察されてしまうと精神抵抗によって防がれるおそれがあります。なるべく対象の注意が他に向けられているときを狙うといいでしょう」

「……戦っている最中とか、か?」

「それも一案ですね」

「あれだけ大量の貴金属や宝石を対価に要求しておいて、なにやら小うるさい条件ばかり。防がれるかもしれぬときた。呪いなぞ大したことがないのだな」


 男の言葉を、女は鼻でせせら笑った。


「対価に見合わないと思うなら剣なり弓なり普通の方法で殺せばよいでしょう。それができないからこのような人の世の果てまでわざわざ頼みにきたのでしょう?」

「む……」


 男は渋い顔で手中の布包みを見下ろす。


「ご心配なさらずとも、ひとたびかかってしまえば、効能は保証しますよ。十回殺してもなお余るほどの呪詛です。青紫の斑紋が皮膚を覆い尽くし、汗が即座に蒸発するほどの発熱、骨の髄をくりぬかれるような激痛、際限なく深まる悪夢の中で――」

「わかったわかった。もうよい。もらっていく。代金のもう半分は成功報酬だからな」


 冷や汗を浮かべて男は出口に向かった。

 部屋にひとりきりになった女が、呪物の焼き付けに使った火鉢に塩を振りかけて消火と消毒をしていると、小さな人影がするりと入り込んできた。


「……ずいぶんいやなにおいをさせているね。一定以上の呪詛を練るときには夜会に申請を出す規定がなかったかい」


 床まで届く黒蜜の髪に夜藍色の瞳の少女だった。その可憐な容貌も、青い衣の袖と裾からのぞく細い手足も、ほんの十二、三歳の幼さに見えるが、その実は《千年夜会》の構成員の中でも五指に入る年長者である。《不動の魔女》アリシアだった。


「《不動の魔女》にしては、ここのところあちこち歩き回っていますのね。引きこもりはやめたのですか? 二つ名を返上なさっては?」

「下界が騒がしいせいだよ。全知無能も楽じゃない。寝転がっていてもすべて見聞きしてしまうからね。きみこそ、ひそひそ裏商売に精を出すなんて《慟哭の魔女》の名折れじゃないのかい、フルミルネラ。やるなら派手にやりたまえよ」

「慟哭するのはわたくしではなく狙った獲物ですもの」


《慟哭の魔女》フルミルネラは平然と言って、麻袋の灰を残らず熾火にぶちまけ、完全に消してしまった。


「なるほどね」


 アリシアは、今し方男が出ていった扉をちらと見やる。


「さっきの客は皇族が遣わした者だね? 有翼の獅子紋が衣の下にちらと見えたよ」

「答える義理はございませんわ。個人で請けた依頼はお互いに干渉しない、という規定もございますでしょう?」


 そう言い捨てて、フルミルネラは部屋を出ていった。

 蝋燭も消された真っ暗闇の中で、アリシアは部屋の中央の火鉢に歩み寄り、かがみ込んで灰の中に指をそっと差し入れた。

 かすかに残っていた呪詛の気が青黒い炎となってアリシアの手に噛みつく。たちまち手の甲が醜く爛れて紫に染まり、肉が腐り落ちて骨が剥き出しになる。アリシアは舌打ちして立ち上がると手を何度も振って呪詛のからみついた腐肉を払い落とした。石畳の床が飛沫で汚れ、白い湯気が幾筋も立つ。

 部屋を出て、月明かりの差し込む外廊で、袖に引っ込めていた手を再び外気に晒した。


 すでに肉は再生し、汚れも傷も皮膚には残っていない。

 しかし、燃え滓にわずかに残っていた呪気だけであの有様である。本体を浴びせられたとしたら、どんなに生命力の強い者でも死は免れないだろう。

 呪う対象は軍事指導者――と言っていたのが聞こえた。となれば今回の戦にかかわる依頼だろう。くだらない理由で始まった些細な揉め事かと思っていたが、予想以上に厄介な事態にこじれつつあるようだ。さしもの《不動の魔女》も不吉な悪寒に身震いした。

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