9-③


       *


 セルマ離宮は湖の中央に浮かぶ小島に建てられており、交通手段は舟しかない。

 皇女アクィラの私室はいちばん眺めの良い三階の南端にあり、窓からは帝都の誇る水上施設群が一望できた。都から離宮に向かってやってくる舟も窓からすべて視認できる。

 その昼下がり、曇天を映す藍灰色の湖面を鈍く滑ってやってきた屋根付きの小舟は、有翼の獅子の紋が入った旗を掲げていた。


(お父様……?)


 逢いたい相手ではなかった。きっとアクィラの勝手な振る舞いを責めにきたのだ。戦争事由にまでなってしまった。

 エルフ奴隷解放運動自体は責められないかもしれないけれど、無断で宮殿を出たことは確実にねちねち言われるだろう。おまえが心配だ、外は危険だ、他人は信用できない……。


(逃げてしまおうか)


 アクィラはもう囚われの身ではない。瞬間転移能力に覚醒したため、いつでも逃げ出せるのだ。自分であれこれ試し、能力についてはおおむね把握していた。無尽蔵でもないし距離の制限もかなり厳しいが、少なくとも丸一日果汁だけを摂って心を落ち着けて過ごした今の状態であれば、この離宮の部屋から湖岸まで容易に跳べる。


 しかし戻るのが面倒だし、侍女のサビーナも残しておけないので一緒に連れていく必要がある。面倒。面倒。面倒……。

 そんなことを考えながら窓辺にもたれかかってだらけていると、扉越しにサビーナの声が聞こえてきた。


「姫様。……殿下がお見えです」


 アクィラは跳び起きた。

 部屋に入ってきたのは皇帝ではなく、アクィラの長兄――皇太子カドニスだった。どうやら小舟の旗の紋章を見間違えていたらしい。皇太子の紋は皇帝のそれより獅子の翼が一対少ないだけなので遠目だと見分けがつきにくいのだ。


「お兄様、ごきげんよう。ご用向きは?」


 内心アクィラは訝しんでいた。カドニスが離宮に訪ねてきたことなどこれまで一度もなかった。アクィラとは十歳以上も離れているし、母親もちがう。年に数回しか顔を合わせない間柄なのだ。父親である皇帝の面差しを色濃く継いだ青年で、そのせいかアクィラは昔から皇太子がなんとなく苦手だった。


「アクィラと二人だけで話したい。外してくれ」


 カドニスは、部屋の入り口に控えたサビーナにそう告げた。

 サビーナは困惑の目でおずおずと答える。


「陛下から、姫様がどなたかと面会するときには必ず付き添うようにと――」

「僕は皇太子だぞ。僕の言葉には陛下の言葉と同じ重みがある」


 強い口調で言われてサビーナの困惑の表情はさらに深まった。かわいそうになってきたのでアクィラは横から言う。


「大丈夫よ、サビーナ。しばらく外で待っていて。お父様になにか言われてもあたくしの命令で離席したことにするから、あなたには迷惑かけない」

「……はい、わかりました……」


 扉が閉まり、アクィラは長兄と寝室に二人きりになった。

 父である皇帝ほどの威圧感はなく、顔立ちにも体躯にも線の細さを残しているカドニスだったが、サビーナの姿が見えなくなると表情がさらに険しさを増し、アクィラは父が訪問してきたときと同じ緊張感を味わうことになった。


「アクィラ。おまえが自主的にやってきたエルフ解放についてだが」


 アクィラは身を固くした。

 やはりその話か。

 しかし自分は間違ったことはしていない。高貴な森の民を捕らえて奴隷にするなど、誇り高き帝国貴族のするべき所業ではないはずだ。


「あたくしは全臣民の上に立つ皇族の責務として、過ちを正しただけですわ。たしかに戦争の口実にはされてしまいましたけれど、正義はこちらにあるのですから――」

「いや、戦争のことはどうでもいいのだ」


 カドニスにあっさりと遮られ、アクィラは熱気を抜かれてしまう。


「おまえがエルフを助けようと思ったのは、以前誘拐されたときにエルフに感化されたから、だったな?」

「……え、ええ」


 アクィラは困惑気味にうなずく。カドニスは言いにくそうに続けた。


「とくに、エルフの戦闘指揮をとっているという――まるでエルフらしくない娘がいたな。たしかリュサンドールのヒナと名乗っていた」

「ヒナさまを、お兄様もご存じなのですか」とアクィラは驚く。

「うん。軍議の席で一度見た。あれは、なんというか、あまりにも強烈で、目を離せなくて、おまえが惹かれたのもわかる」


 言われてアクィラはかあっと赤面した。惹かれた、と直截的な言葉にされると、やはり恥ずかしい。


「僕もあのヒナというエルフに、つまり、その……ものすごく興味を持ったんだ。アクィラなら彼女のことをよく知っているだろう。色々教えてくれないか。どんな人なんだ?」

「ええ、ええ! いくらでもお教えしますわ。ヒナさまはそれはもうお美しく、凛々しく、決断力と気遣いにあふれていて」


 一度しか逢ったことがない夜エルフの末姫について、アクィラは熱く語り始めた。これまでヒナの魅力について語り合える同好の士などいなかったのだ。サビーナは話だけは聞いてくれるが全然気乗りしていないのがわかるので張り合いがない。カドニスは目を輝かせて真剣に聞き入ってくれるので語り甲斐があった。実のところアクィラはヒナとの接触はほとんどなかったので、途中からは妄想が混じり始める。


「蛾の背に乗っている間ずっとあたくしを抱きしめ続けてくださいましたし、郷に着いてからもつきっきりで、しとねでは添い寝してくださり、朝起きたときにはそのしろがねの髪越しに差し込む森の陽光がそれはもう神々しくて」


 しかしカドニスは疑いもせず熱心に聞いてくれる。


「恐ろしい精霊を使役するという話も聞いたが、ほんとうなのか?」


 カドニスが不安そうな顔でふと聞いてくるのでアクィラはあわてて答えた。


「それは、はい、魔力もお強い方なので、指環に封印した精霊を二つも――あっ、あの、けれどそれはヒナさまがご自分の身を護るためで、けっして暴力のためではなく」


 ヒナのヤクザな実態をよく知らないアクィラは、逞しい妄想で美化し続ける。彼女の中でのヒナは森の民を護るために自らを犠牲にする聖戦士だった。


「そうなんだ。一族の者たちにも慕われているようだね」

「はい、それはもう! ヒナさまはだれからも愛される――」


 そこでふと思い至ってアクィラは言葉を呑み込んだ。

 わざわざセルマ離宮までやってきて、人払いをして、エルフの末姫の話を聞きたがる。

 これは――


(まさかお兄様もヒナさまのことを……?)

(あたくしの恋敵になるというの?)


 一瞬焦ったが、すぐに気を取り直す。


(大丈夫、ヒナさまは男性というものが存在しない森の民ですもの。殿方になんてまったく興味を持たないはず)

(それにあたくしを迎えに来ると約束してくださったし、お兄様なんて恋敵になるはずもないわ)


 そんな約束はまったくしていないのだが、アクィラの妄想を止める者はどこにもいなかった。恋敵にならないとわかれば、ためらわずヒナの魅力を全身全霊で売り込む。皇太子にヒナが気に入られれば人間とエルフの和解に向けての大きな前進になるし、アクィラとヒナが結ばれるための下地作りにも役立ってくれるかもしれない。


 その後、陽が傾くまでアクィラは《ヒナ語り》を続けた。

 聞き終えたカドニスが満足顔で帰っていった後でサビーナが寝室に戻ってくる。兄妹会談が行われている間じゅうずっと扉のすぐ外に控えて待っていたはずなので、顔を合わせたとたんにアクィラの胸に申し訳なさが募る。


「ごめんなさい、お兄様とのお話につい夢中になってしまって」

「いえ、そんな、お気になさらず」


 サビーナは手を振り、それからカドニスが去った廊下の向こう端を見やって言う。


「姫様を戦のことで責めにこられたわけではなかったんですね。ほっとしました」

「ええ。お兄様もヒナさまに興味津々だったようで、ヒナさまのあふれんばかりの魅力を詳しく説明して差し上げたわ!」

「実は私も廊下で、皇太子殿下の付き添いの方にエルフの郷のことを根掘り葉掘り。ヒナさまについては特に踏み込んであれこれ訊かれました。殿下もかなりヒナさまにご執心のようですね。びっくりしました」

「お兄様も一度逢っただけなんですって! でもしょうがないわよね。ヒナさまの麗しさは魔術的だもの」


 我が事のように自慢げに言うアクィラを見ながら、サビーナは胸騒ぎをおぼえていた。

 そう、あの夜エルフの末姫は、サビーナも一度顔を合わせただけだが――あまりにも吸引力が強すぎた。人の心をどうしようもなく惹きつける。


 好意も、そして敵意も。

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