ほうかごがかり 2

五話 ⑪

「…………」


 ともあれ啓には最初から、ここにイルマがいないことを責める気などない。

 むしろ、のモデルに対してフラットな気持ちで向き合えるので、初めはその方がいいとまで思っていた。

 そして、そのいわくつきのモデルは、無言の啓によって、徐々にスケッチブックに写し取られ始めている。細かくて早い独特の鉛筆使いで、陰影を中心に、モデルを浮き彫りにしてゆくような描き込み。まだ下書きだが、薄い鉛筆の線による、教卓と『鏡』の輪郭と、うっすらとした全体のディテールが、すでにある。

 鉛筆が紙の上をすべる音が延々と続いて、白紙の中から彫り上げられるように、だんだんと絵が姿を現してゆく。この段階でもう鉛筆画としての完成した姿を想像できてしまうが、これは実際のところ、あくまでも色を乗せるためのガイドラインにすぎない。

 それが出来上がってゆく様子を、菊が固唾を飲むようにして、熱心に見つめていた。

 始めた瞬間から過集中で、一時間以上、啓は休むことなく描き上げる。そして全体像を描き上げたところで一息ついて、バランスを確認しようとしたところで、うっかり存在を忘れていた菊のことを思い出した。


「――――あ」


 思わず声を出す。来てもらったのに、何の相手もせずに待たせていた。


「悪い、呼んだのはこっちなのに、放置してた」


 慌てて菊を見て、謝る啓。だが謝られた菊の方も、胸の辺りで手を振って否定した。


「あ、ううん……全然いいよ。だんだん絵ができてくの、見てて楽しかった……」


 そして言う。


「絵のメイキング動画とか見るの、好きだから……こんな近くで見れて、すごかった」

「そっか。退屈してないんなら、よかった」


 とりあえず胸を撫で下ろす啓。そして立ち上がり、座っていた丸椅子をイーゼルから少し離れた位置まで動かして、改めてそこに座り直し、描いた鉛筆画の全体像を眺めながら、菊に話しかけた。


「……あのさ、やっぱりこうして僕が『ムラサキカガミ』の絵を描くのは、惺が言うほど危険なことしてると思うか?」


 家庭科室の机に寄りかかるようにしていた菊は、その質問に、少しだけ表情の明るさと、声のトーンを落として答えた。


「うん……」

「そっか。ごめんな。そんなのに付き合わせて」


 その答えを聞いても、しかし啓はそれほど深刻そうにはせず、スケッチブックに描いた絵を眺めるのを続けながら、あっさりとそう言った。

 そしてしばらくそうした後、「んー」とひとつ伸びをして。

 それからそのまま重心を大きく後ろに傾けた格好のまま丸椅子の縁を掴み、足を浮かせてバランスを取り、その状態で菊を振り返ってもうひとつ訊ねた。


「なあ……堂島さんは、危ないのは分かってるのに、何で惺の言うことを聞かないで、僕について来てくれたんだ?」

「っ……! えっ……?」


 啓の体勢が急に後ろに傾いたので、倒れるのではないかと慌てた菊が、その質問を聞いて我に返った。


「えっ……えっと……あ、あの、私も、誰かを助ける役に、立ちたかったから……」

「ふーん?」


 その答えに、納得したような、していないような様子の啓。菊はそんな啓の反応を見て、付け加えて言う。


「あの、わたし……『狐の窓』で『無名不思議』を見るのは、緒方くんに禁止されてて」

「ん? 禁止? なんで?」


 啓の眉根が寄った。


「自分の担当のはいいんだけど……他の担当の『無名不思議』を『狐の窓』で見たら、引き受けて、死んじゃうかもしれないから……」

「……ああ、そうか。僕が言われたのと同じか」


 啓は納得して、難しそうに口を歪めた。


「『まっかっかさん』を『窓』で見たって、みんなには言ってないもんな」

「うん……」


 啓と菊は、あの屋上であったことを、全ては説明していなかった。

 菊は屋上で、『まっかっかさん』によってフェンスの外に連れ出されそうになっていた啓を助けたのだが、みんなに話したのはそこまでで、そのあと啓が菊の協力によって『狐の窓』を覗いたことは、説明から漏れていたのだ。

 意図的ではない。たまたまだ。あのとき説明したのは啓だったが、惺ならばとっくに知っていることだろうと思い込んでいて、重要な部分とは考えていなかったし、禁止されていることも知らなかったのだ。

 だから惺は、菊を啓のお目付け役にしたのだ。

 偶然そうなった、二人だけの秘密。そして啓は、そこで、はっと気がついて姿勢を戻すと、菊の方に身を乗り出して問いかけた。


「そうだ、だとすると、堂島さんは大丈夫なのか? そっちに『まっかっかさん』は出てるんじゃないか?」

「! う、うん、たぶん大丈夫……」


 その勢いに、菊は思わず、少しのけぞるようにして答える。


「たぶん、見てない……たぶん『狐の窓』をメインで覗いたのは二森くんで、わたしはそれを助けただけだからか――――二森くんが絵を描いて『記録』しちゃったから、大丈夫になったんだと思う」

「なるほど……」


 啓はそれを聞いて、今度は前のめりの姿勢で視線を落とし、考え深げに眉根を寄せた。


「だから、わたしもびっくりして、これで瀬戸さんを助けられたら、って思って……」

「……ああ」

「わたし、『狐の窓』くらいしか、みんなの役に立ちそうなもの持ってないのに、危ないから使うなって、みんな……緒方くんも、去年の六年生も……そうやってわたしをかばって……六年生、みんな死んじゃったから……」

「…………」


 たどたどしく言葉を探しながら、菊はしかし、それでも思いの丈を、ずっと秘密にしていた思いの丈を、ここに吐き出す。


「だから――――、って……」

「そっか」


 その重大な告白を聞いた啓は、しかしそれも、あっさりと受け入れた。

 そして、啓も応えて言った。


「僕も実は、

「!」

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