ほうかごがかり 2

五話 ⑫

 目を見開く菊。


「惺には内緒な」

「あ、わたしも……緒方くんに言ったら、絶対、止められるから……」

「だろうな」


 慌てたように言う菊の言葉にそう答えると、啓は、にっ、と犬歯を見せ、悪戯っ子のように笑って、その秘密の約束を請け負った。


「共犯だ」

「うん……」


 照れたように頷く菊。そして菊は、しばらく腿の前で、絆創膏だらけの両の指を組み合わせてもじもじとしていたが、やがて目をそらしたままぽつりと言った。


「あと――――二森くんの絵が、好きだったから」

「ん?」

「ここについて来た、理由。あの『まっかっかさん』の絵を見て――――それから、学校の玄関に飾ってある絵を見て、好きだったから――――協力したいな、って……」

「あ……ああ、うん」


 菊がそれを言うと、啓は少し驚いたように、あるいは少し動揺したように、思わず目を瞬かせて、少し身を引いてうなずいた。


「? ど、どうしたの?」

「あー、いや……」


 その不審な様子に菊が訊ねると、啓はどこか面映そうに頬を掻いて、言った。


「いやさ、僕、絵を『上手い』って言われたことはたくさんあるけど、『好き』って言われたことはあんまりないな、って思ってさ……」

「え……」


 そうして、しばし黙る。菊も黙る。そして啓はしばらくそうしてから、不意に椅子から立ち上がり、椅子の場所を動かす。


「……あー……じゃあ、そろそろ頼む」


 椅子を動かしながら、菊を見て言った。


「えっ」

「『狐の窓』」

「あ。あっ、うん……」


 虚をつかれ、慌てて頷く菊。そしてイーゼルの前に椅子を戻し、また絵を描く体勢に戻った啓が、教卓の上の『鏡』に向かって指で作った四角を向け――――菊がそれを背中から抱きしめるようにして手を伸ばし、啓の四角に、自分の指を重ねた。

 その時だった。



『――――ザーッ――――ガッ……ガリッ…………

 ……、の、連絡でス』



 突然、砂のようなノイズを流し続けていたスピーカーの音が、激しく乱れ、その騒音の中から、あの校内放送の声が響き渡ったのは。

 男とも女とも判別しがたい、辛うじて子供の声と分かる程度の、激しく劣化したスピーカーから発されているかのようなあの音声。毎週金曜日に『かかり』を呼び出し、集合をうながすあの異様な放送が、少なくとも啓は一度も聞いたことのないタイミングで始まって、体が触れていた二人は互いの驚きがはっきりと分かるくらい飛び上がった。


「!?」


 互いに顔を見あわせ、それから周りを見回す。

 今まで『ほうかご』の始まりにしか聞いたことのない放送。

 どうして今? いったい何が? そんな驚きと戸惑いの中、神経を削る無機質な声で、放送は校内の全てに、その『連絡事項』を告げた。



         5


 イルマは漫画が好きだ。

 漫画の主人公たちのようになりたいと思いながら、幼い頃を過ごしてきた。

 可愛くて、強くて、賢くて、かっこいい人間に。

 でも現実の自分は、あまりにも弱くてバカで臆病で、ただ生きているだけで、どんどん理想から離れた自分になってゆく。


「…………もうやだよ……」


 いま家庭科室では、イルマの代わりに啓が『しごと』をしているはずの時間。

 啓に『無名不思議』を押し付けたイルマ。それによって、自分がいま何もせずにいられるという現状に、イルマは安堵と共に、自己嫌悪を感じていた。

 自分が嫌だった。弱くて、卑怯な自分が。

 漫画に出てきたらきっと嫌悪感を覚えて、許せなくて、軽蔑するだろうキャラクターに、今まさに自分がなっているという事実がたまらなく嫌で悲しくて、それなのにどうしようもなくて、たまらなく胸が締め付けられた。

 たった一人、『開かずの間』からほど近い廊下の、柱の陰に隠れるように座り込んで、イルマはじっと苦しい物思いに沈んでいた。

 ここにいることも臆病と卑怯のあらわれだった。惺も『太郎さん』も信用できず、反発しているのに、『ほうかご』が怖いので、そんな信用してない相手であっても、人のいる場所から離れることができないのだ。

 真絢とも留希とも一緒にいられない時には、イルマはいつもこの場所でじっとしていた。当然『かかりのしごと』には向かわず、『ほうかご』が終わるまで、ただじっと座って、時間が過ぎるのを待ち続けるのだ。

 ノイズに紛れる物音と、気配と、周囲の暗がりに怯えながら。

 武器がわりに持ち込んだ、大きな裁縫用のハサミを握りしめて。

 学校で『ムラサキカガミ』らしきものを見て以降ずっと、イルマは、また見てしまうのではないか、今度は襲われえるのではないかと、ビクビク怯えながら暮らしている。だがあれ以来一度も決定的に『ムラサキカガミ』に遭遇したことはなく、ただ何度も、そのたびに驚き飛び上がっていた。

 ふとした瞬間に、あの赤紫色が目に入った気がして、「ひっ!」と息を呑む。

 だが、見直すとそんなものはないか、別のものを見間違えている。

 本当に『あれ』が現れたのか、それとも怯えるあまりに見てしまった錯覚なのか、自分では分からない。

 怖い。全てが怖い。

 自分の臆病さに絶望しながら、だからといって勇気が出るわけではなく、ただ恐ろしいものに怯えながら、イルマはずっと神経をすり減らし続けていた。

 でも――――そんな生活も、もうすぐ終わる。

 啓が『記録』を引き受けてくれた。啓が絵を完成させれば、いま唯一『記録』を成功させている啓が、それを完成させれば、イルマは助かる。

 この恐怖も、きっと終わりを告げる。

 他人任せの自分を責める良心の声に苛まれながら、それでもそれしか縋るものがなくて、イルマは全力でそれに縋る。

 全てを他人に任せて、ただ耐える。

 それしかできないから、ただ信じて、待つ。

 まだ耐えられているから、耐えられているうちに、早く。

 今までは何の展望もなく、ここにうずくまっていた。だが今は、その希望を頼りに同じ場所にうずくまって、同じように息を殺して、絵の完成を待っていた。

 そんな時だ。



『――――ザーッ――――ガッ……ガリッ…………』

刊行シリーズ

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