ほうかごがかり 2

五話 ⑮

 駆け寄る足音。駆け上がる悪寒。絶叫が上がった。

 凝視が満ちている静寂の中から突然激しい足音が迫ってきて、そのまま強い力で腕をつかまれて、イルマは決壊したように甲高い悲鳴を上げた。


「――――――――――――――――!!」


 恐怖。錯乱。悲鳴が全てを塗りつぶす。

 絶叫しながら身をよじったが、二の腕をつかんだ手は離れず、逆に引きずられるように腕を引っ張られて、暗闇の中で横倒しに引き倒された。


「いやあ――――っ!!」

「落ち着いて!」


 だが、絶叫するパニック状態のイルマにかけられたのは、腕をつかんだ何者かからの、強い調子の声だった。


「!?」

「助けに来た、避難するよ、立って! 歩いて!」


 驚いて目を開けると、そこには緊張の表情でイルマを引き起こそうと引っ張りながら、もう片手でスコップの切っ先を廊下の方に向けつつ、じりじりと通路を後ずさろうとしている惺がいた。

 駆け寄ってきて、イルマの腕をつかんだのは惺だった。


「『開かずの間』に行くよ、早く!」

「……っ!!」


 強くうながされ、引きずられ、イルマは必死に這うようにしてその場から移動した。涙でろくに前も見えないまま、引きずりこまれるようにして『開かずの間』に逃げ込む。そして、びしゃ! と扉が閉められた。途端、張り詰めていた、あらゆるものが、切れた。

 今まであった、異様なまでの『無音』が切断されたように途切れた。それと同時に強張っていた全身から力が抜け、心の糸も切れた。


「…………う…………っ、うう……う……っ!」


 涙の浮かんでいた目が、そのまま決壊した。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、座りこむイルマ。惺が荒い息を吐きながら、スコップを構えて扉のそばに立ち、扉の向こうを警戒する。

 部屋の中にいて、背を向けたままの『太郎さん』が、おもむろに言葉を発した。


「……何があったんだ?」

「瀬戸さんが、廊下で襲われたみたいです。廊下の窓を恐れてたみたいですが、僕には何も見えませんでした」


 息の少し上がった声で、惺が答える。

 えっ? と思った。何も見えなかった? あの化け物が――――あんなにたくさんいた『貌のない女』のことが、見えなかったって言った? 信じられない答えだった。イルマは混乱する。惺は緊張したままだが、『太郎さん』は皮肉げで、笑いさえ含んだ、危機感の感じられない反応をした。


「本人にしか見えないやつか? 枯れ尾花じゃないよな?」

「…………」


 そんな『太郎さん』の反応を背に、入口とその周りに、警戒と怖れの沈黙が落ちていた。

 惺の警戒と、イルマの怖れ。じっ、とそれらが続いた後、しばらくして惺が、ようやく止めていた息を吐いて、胸の辺りで構えていたスコップを降ろした。


「……多分、もう大丈夫」


 そして言う。


「うぅ……う……ひっ……」


 イルマはもう立ち上がることもできず、声を殺してしゃくり上げ、涙をこぼすだけになっていた。

 ぶるぶると指先が震える。身体に力が入らない。

 頭の中は、恐怖と絶望でいっぱいになっている。とうとう来てしまった。真絢のように。真絢がああなってしまったのと同じように。

 嫌だ。怖い。死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 このままでは、自分も死んでしまう。あの異常なものに襲われて。もしも、あの窓ガラスから生えた紫色の女に襲われてしまったら、捕まってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう?

 何をされて、どんなふうに死んでしまうのだろう?

 想像もできなかったし、したくない。

 想像するのが恐ろしい。

 考えたくない。

 でも。


「…………先生」


 そんなイルマをよそに、惺が細く扉を開けて廊下の様子を確認しながら、『太郎さん』に声をかけた。


「どう思いますか?」

「僕に聞くなよ。こないだの『赤いマント』の時にも言ったけど、全然情報が来てないし、僕はここから動けないんだからさ」


 面倒くさそうに答える『太郎さん』。


「『ムラサキカガミ』だと、思いますか?」

「だから分からないって……ただまあ、『ムラサキカガミ』の言葉を二十歳まで憶えてたら何が起こるかは、基本的には語られないから、『これ』が『そう』だったとしても何もおかしくはないね」


 そう答えると、『太郎さん』は椅子の背もたれに肘を置いて、振り返った。


「そこの瀬戸さんが、ちゃんと『かかりのしごと』をしてくれれば、少しは話が変わるんだけどね。キミ、サボりすぎて『呼び出し』を受けただろ。僕も『呼び出し』の放送なんか聞いたのは、何年かぶりだよ」

「…………」


 イルマは何も答えなかった。

 答えられるような状況には、最後までならなかった。

 ただイルマは泣き続けた。真絢のようになりたくなくて。

 ただ単純に、死ぬのが恐ろしくて。

 そして死にたくない、消えたくない理由があって、その理由を胸に抱えて、恐怖に怯えて泣き続けた。


 ………………

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