ほうかごがかり 2

五話 ⑯

         6


「あっ、あの……絵は、『ムラサキカガミ』の絵は、いつ完成しそう?」


 イルマは学校の玄関で啓をつかまえて、その質問をぶつけた。


「いま進めてる。普通に絵にするだけなら今週中に完成できるけど――――それで『記録』にできるかは、ちょっと分からない」


 絵についての質問をされたと同時に、イルマよりも背の小さな体に、しかしストイックな芸術家の大きな風格をにじみ出させた啓は、難しい表情で口元に手をやって、記憶を探るような視線をどこか脇へとやりつつ、そう答えを返した。


「まだ感じがしないから、もう少し時間がかかる気はしてる。悪いけど」

「い、急ぐことって……できる?」

「もう急いでる。でも自分の『記録』を描いたのだって、何週間もかかってるんだ。まだ二日しか経ってない」

「う……」

「いつできるかと言われたら、正直に言って全然わからない。でもサボってはいないよ。全力でやってる。そこは信じて待っててもらうしかない」


 無常だが正当な、啓の答え。

 イルマはパーカーの裾を握って、うつむく。そして話しかけた時の勢いをすっかり失った小さな声で、言う。


「そ、そうだよね……」


 週が明けて、すぐの学校。

 前回の『ほうかごがかり』から目を覚まして、この週末を、イルマはずっと、怯えと不安の中で過ごしていた。

 イルマはもう理解した。鏡が紫色になると、そこから『あれ』が現れる。それが『ムラサキカガミ』という化け物で、イルマに取り憑いている『無名不思議』なのだと、前回の『ほうかご』で全貌を見せられて、そのように理解させられた。

 状況が進んだ。自分の番になった。

 啓が襲われ、真絢が襲われ、今度は自分が襲われる番になったのだ。

 何が起こるのか、何に襲われるのか、とうとう目の当たりにした。だが、まだ自分に起こる全てのことが、分かったわけではなかった。

 まだ、は分からないのだ。

 一体、『あれ』に見つかって捕まると、

 それが分からない。何をされるのか? そして、

 そう。

 たとえば――――真絢のように?


 嫌だ。


 イルマは思った。

 嫌だ。怖い。あんなふうに死にたくない。

 あんなふうに消えたくない。お母さんに、お父さんに、忘れられるなんて嫌だ。

 お父さんとお母さんが、自分がいたことも、いっしょに暮らしていたことも、ぜんぶ忘れてしまうなんて。みんなで遊園地に行ったことも、誕生日のお祝いをしたことも、楽しかったことも、お話ししたことも、何もかも忘れられるなんて、嫌だ。

 そして、そうやって忘れられてしまった裏で、自分は死ぬのだ。

 お父さんにもお母さんにも気づかれずに、たった一人で恐ろしい目にあって、たった一人で寂しく死んでゆくのだ。助けを求めても、届かずに。そして全てを忘れて、自分に子供がいたことも忘れて、お父さんもお母さんも生活を続けるのだ。イルマは怯えて苦しんで死んでいるのに。そんなのは想像するだけで、恐ろしくて悲しくて嫌だった。

 嫌だ。

 絶対に。

 一昨日、『ほうかご』から目を覚ました時に想像し、布団をかぶって一人泣いた、その未来予想を思い出し、イルマは下を向いたまま身を震わせた。


「…………!」

「……まあ、焦るのは分かるけどな」


 そんなイルマに、ぶっきらぼうに、しかし思ったよりも親身に言う啓。


「一昨日の『ほうかご』で何があったかは聞いてるし、あの呼び出しの放送なんかは直で聞いてる。僕も死にかけたから、焦るのはわかる」


 腕組みして言う。怒らせるかもしれない不躾な催促に来たイルマに対して、しかし啓は腹を立てた様子はない。

 初対面の頃から啓に対して感じていた、どちらかというと気難しい芸術家肌で、取っつきづらそうな印象とは違った意外な気づかい。それを感じた時、イルマは、もしかしたらという可能性を感じて、不意に顔を上げ、思いきって口に出した。


「……ね、ねえ」


 言ってみる気になったのだ。


「ボクのお願い、聞いてほしい。できれば、もう一つだけ」

「ん?」


 不躾なお願いを、もう一つ。

 視線の高さを合わせて。啓の上着の裾の方をつまんで。

 イルマは普段はうつむきがちの目を、まっすぐに啓に向けて、その願いを口にした。


「これが終わったら――――ボクに絵を教えて」

「は?」

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