ほうかごがかり 2

五話 ⑰

 そのイルマの頼みに、気押されたように身を引きかけながら、怪訝そうな表情になって、啓は疑問を返した。


「な、なんでだ?」

「見上さんの絵を描きたいの」


 イルマは答えた。そうなのだ。イルマは自分の死への恐怖だけでなく、もう一つ、絶対に死にたくない理由を見つけてしまったのだ。


「残したいの。見上さんが――――『まあや』ちゃんがいたって証拠を」

「は?」


 イルマは訴える。


「ボクが一番、『まあや』ちゃんの魅力を知ってる。だからボクが絵を描いて、残さないといけない。だって、このままボクが死んだら、『まあや』ちゃんっていう素敵な女の子がいたことを知ってる人が、この世界にいなくなっちゃう! この世界に『まあや』ちゃんがいた、証拠がなくなっちゃう……!」


 訴える。真絢の存在が消えてしまったのを知り、衝撃を受けて、しかしそれでもその事実を徐々に呑みこんだイルマが、次に思ったのは、そんなことがあってはならないと言う激しい焦燥だった。

 真絢は特別だった。なのに死んで、何者でもない何かになって、消えた。

 あんなふうに死ぬだけでもひどいのに、あの輝きを誰もが忘れてしまった。そんなひどいこと、あっていいはずがなかった。

 あの魅力が。あの才能が。あの笑顔が。あの優しさが。

 残らない。消えてしまう。誰も知らないままになる。そんな損失が、そんな悲劇が、そんな馬鹿なことが、あっていいはずがなかった。

 あんまりだ。どうにかしなければいけないと思った。

 でも、真絢がどれだけ素晴らしい女の子だったか知っているのは、もうこの世にはイルマしかいない。

 いまや『かかり』の人間しか真絢のことを憶えていないのに、『かかり』のみんなは誰も真絢を特別だと思っていない。ずっと特別だと扱っていなかった。そんな人間には、この役目は任せられない。

 だったら、イルマが残すしかなかった。

 イルマにしかできなかった。イルマが生き残って、そして何かの方法で、真絢のことを記録して、残すしかないのだ。

 どうやって? 絵だ。絵がいい。

 ずっと考えていたが、いま決めた。真絢の絵を描く。今からでも描けるようになる。描けるようになりたい。真絢の魅力を一番知っているイルマがそうしなければ。だからイルマはお願いする。


「だから、ボクを助けて。絶対に、『ムラサキカガミ』の絵を完成させて」


 静かな、しかし、鬼気迫る様子で。


「それで、そのあとで、ボクに絵を教えて」


 すぐ近くまで身を乗り出して、まっすぐに、啓の目を見て。


「すごいワガママ言ってるって、分かってる。でもお願い。代わりに他のことはなんでもするから……」

「…………!」

「このさき一生、言うこときいてもいい。『まあや』ちゃんのために、ボク、人生を全部捨ててもいい。だから――――」


 イルマは言った。


「…………」


 啓は、覚悟を決めたような、初めて見るイルマの強い態度に、困惑の表情を浮かべて、イルマの顔を見返した。

 啓は答えた。


「……わかった」


 と。

 そして、十二回目の『ほうかごがかり』。

 絵は、まだ完成しなかった。



         7


 イルマは追い詰められていた。

 あの『ほうかご』が明けて以降、ずっと、『鏡』を避けて暮らしている。見るのが怖かったし、どう考えても実際に危険だったからだ。そして自分が『あれ』に襲われないようにするための方法が、他に何も思いつかなかった。

 そうでなくても、単純に怖い。

 だから逃げていた。鏡を、それから鏡になるものを、できるだけ見ないようにした。

 それから、できるだけ近寄らないようにしていた。徹底的に。だが、実際に完全にそうすることは、現実には不可能だった。

 鏡は暮らしていると、どこにでもある。

 そして、鏡ではないけれども鏡になるものは、もっともっと多いのだ。

 最初はそんなものまで警戒していなかった。だが、実際の鏡でなくても、映るものからは『あれ』が現れるのだと、あのとき『ほうかご』の学校の廊下の窓が鏡になったことで、明らかになってしまった。

 だとすると、ありとあらゆるガラス、金属、それ以外の光沢のあるもの、全部が鏡だ。

 そしてそれらは、あまりにも身の回りにありふれていた。

 家の中にも、外にも、もちろん学校にも。

 鏡を避けようとして、イルマはだんだんとその事実に気がついて――――それからのイルマは、友達や親に不審に思われるくらい、日々の様子が変わってしまった。

 ずっと下を向き、もう暖かいのに、パーカーのフードを目元まで引き下ろす。

 口数もだいぶ減り、教室の自分の席でずっと読書をして、外に遊びにも行かない。

 学校が終わると、逃げるように帰宅して、部屋に閉じこもって、カーテンも開けない。

 部屋から鏡は追い出した。そしてお風呂や洗面所には絶対に長居しないし、仕方なくそこにいる間は、絶対に、鏡の方は見ない。

 ずっと好きだった、ママの作った服を着て、鏡のまでファッションショーのようなことをする遊びも、ぱったりとやめた。

 ママに呼ばれて衣装合わせをするのも拒否して、ケンカになった。

 鏡の前で調えることもしなくなったので、髪の毛も、服の着方も、身だしなみがあちこち荒れた。自分がどんな姿をしているのか、イルマはいま分かっていなかった。

 鏡を避けようとすると、自然とそうなった。

 そうなるしかなかった。それでも、鏡が一度も目に入らない日などない。

 そこまでしても、いつだってどこかに鏡はあって、時には思いもしない時に、目に入る。そして、見えるたびにとなって――――そこに紫色を見た気がして、激しい不安に襲われて、息を呑み、肌が粟立つのだ。

 イルマは、毎日を怯えて暮らすようになっていた。

 啓や真絢がそうだったように、とうとう日常が『ほうかご』に侵食されてしまい、そして生まれ持った度を越している臆病のせいで、安心安全に暮らせる場所が、日常の中になくなってしまっていた。

 そして――――『ほうかご』は、さらに厳しかった。

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