ほうかごがかり 2

五話 ⑱

現実に『あれ』と遭遇してしまった『ほうかご』の廊下。そんな場所にはもう、怖くて居続けることなど、とてもではないができなかった。

 少なくとも、一人では、絶対に無理だ。

 しかもあの場所は、『開かずの間』に近い上に、場所としてはただの廊下だ。

 こうなってしまって気づいたが、学校とは〝廊下〟だった。自分のクラス以外の教室が、基本的には自由に出入りするものではない以上、通っている子供にとって、学校というのは大半が廊下と言えるのだ。

 学校は血管のように廊下が通っていて、それを通らないと、どこにも行けない。

 そしてそれらは、一見してイルマが襲われた廊下とほぼ見た目は同じで、加えて外を暗闇に覆われている『ほうかご』の学校は、窓の内側が全て、常に、見る場所によっては鏡になりうるのだ。

 そして、そんな廊下には、どの階にも、どの場所にも、必ず一定間隔で、非常ベルのある消防設備が設置されている。


 ぽつん、

 ぽつん、


 と赤いランプが、等間隔に灯っている廊下。それはイルマが『あれ』を見た現場と、ほぼ同じ光景の再現で――――そのため『ほうかご』に来たイルマは、その場からもうどこにも動くことができなくなっていた。

 イルマは『ほうかご』が始まると、最初の家庭科室の前から動けなかった。

 家庭科室前の近くの、かろうじて陰になる場所にうずくまって、そこから誰かが迎えに来るまで、一歩も動けなかった。

 前回は惺が迎えに来て、『開かずの間』まで送ってもらえるまで、身を潜めてじっと動かなかった。そして『開かずの間』に着いたら、もうそこから出なかった。『ほうかご』が終わるまで、部屋の隅で膝を抱えて、じっとしていた。

 もう『あれ』に会いたくない。ただその一心でだ。

 次に『あれ』と遭ったら、。だからどれだけ見苦しくても、それだけ人に迷惑をかけても、『あれ』が出そうな場所は、行くのも見るのも嫌だった。

 助かるために。

 生き延びるために。

 啓が『記録』の絵を完成させるまで。イルマは『ほうかごがかり』を、逃げ続けることで切り抜けようとしていた。それ以外になかった。

 そして――――


「……ごめんね」

「ううん、いいよ」


 そう謝りながら、留希に手を引かれて『開かずの間』に向かうイルマ。

 十三回目の『ほうかごがかり』。七月が目の前になり、パーカーを着るような季節ではすでになくなってしまっていたが、イルマは今まで通り、わざわざ『ほうかご』にてるてる坊主のパーカーを持ち込んで、フードを深く被っていた。

 フードで自分の視界を隠していた。

 元々、最初からオシャレと安心のためにパーカーを持ち込んでいた。だが、今はますますそうしないと安心できなかった。

 パーカーのフードに頭を包まれ、守られているのを感じつつ、周りは見ない。自分の足元だけを見る。自分の置かれている状況への、恐怖と不安だけでなく、このずっと下を向いた暮らしもイルマの気分を慢性的に落ち込ませていたが、だからといって、今これをやめるわけにはいかなかった。

 目を上げれば、絶対に窓が目に入る。

 だから、絶対に目を上げない。

 そんな行動は危ないだけで意味なんてないのかもしれなかったが、怖いものを見てしまうよりも、何倍もマシだった。もしまた『あれ』を見てしまったら、イルマはきっとその場で限界を迎え、悲鳴をあげてすくみ上がり、逃げるもことも、身を守ることもできなくなるに違いなかった。

 周りを見ないで、留希に手を引いてもらって、イルマは廊下を歩く。

 視界の制限された、ただ足元だけが見える廊下。

 空気を満たすノイズと、自分の呼吸と足音と、留希の足音。それが今、イルマの感じられる世界の大半だ。

 そうやって、今日もイルマは『開かずの間』に向かう。

 代わりに『しごと』をしてくれる啓と菊を家庭科室に残して――――自分は安全な場所に閉じこもるために。


「……ねえ、瀬戸さん」


 その途中、先を歩きながら、留希がふと、イルマに訊ねた。


「瀬戸さんの担当の『無名不思議』って、そんなに怖いやつなの?」


 危機な人を優先してみんなで助けようと惺が言い、今日は留希がその役目についた。率先して引き受けたというよりも、周りに従ったという感じの留希は、『かかり』の中では非常に主張が少ない。その理由は、元々の本人の性格もあるが、それ以上に明らかな要因が、別に存在していた。


「…………うん」

「そうなんだ」


 頷くイルマに、留希は言った。


「そっか、ぼくが担当してるやつは、そんなに怖くないから、瀬戸さんがここまでする気持ちがわかんないんだ……」


 彼の主張が少ない最大の原因が、これだ。自分が担当している『無名不思議』を、留希はそれほど恐れていないのだ


「他の教室とかにいる『無名不思議』の方が、よっぽど怖いよ……」


 あまり語らないので詳しくは分からないが、担当の『無名不思議』は怖い見た目をしていないらしく、怖い目にも遭っていないらしい。そこに加えてイルマほど臆病でもない留希は、他の子に比べると明らかに危機感が薄く、むしろ余計なことをすることの方に及び腰で、余計なことをして他の『無名不思議』と接触してしまうことの方を、ずっと強く恐れていた。


「………………うらやましい」


 ぼそ、とフードの奥で、イルマはつぶやく。


「えっ? なにか言った?」

「なんでもない」


 思わず本心が漏れた。聞き返す留希に、イルマは小さく首を振った。

 妬ましかった。どうして自分はこんな怖い目に遭っているのに、留希はこんなに平気そうな顔をしているんだろう。

 同じ『ほうかごがかり』なのに。同じように巻き込まれたのに。同じ五年生なのに。何でこんなに違うんだろう。最初は二人だけの五年生として、信用できない六年生や顧問ばかりがいる中で、せめて自分たちだけは味方同士でいようと相談しあっていた。なのに、どうしてこんなに状況が違ってしまったのか。

 なんで?

 うらやましい。

 不公平だ。できることなら立場を代わってほしい。

 でも同時に、わざわざ手を引いて送りに来てくれている留希に、そんな感情を向けてしまう自分への、自己嫌悪にも襲われた。嫌だった。この状況も、自分自身も、何もかもが、嫌でたまらなかった。


「……」


 でも、それでも、耐える。

 死にたくない一心で、死にたくなるような全てに、歯を食いしばって耐える。

 耐えられる。啓の『絵』が完成しさえすれば――――全てが報われるのだから。

 だから、啓の『絵』が進んでゆくのを、あと少し、あと少しと見守りながら、それを希望として、イルマは耐え続けることができていた。

 啓が描いている『ムラサキカガミ』の絵は、素人であるイルマも目から見ると、すでに完成しているとしか思えないくらいの状態になっていた。

 見せてもらっていた。イルマの希望は、形のある進捗として常に目に見えていた。

 それもあって、辛うじて耐えられている。それに、あれからイルマはその影に怯えつつも『ムラサキカガミ』には遭っていない。イルマがこれほど警戒しながら生活していることもあるだろうが、もしかするとすでに『絵』の効果が現れているのではないかとも思えてしまい、心の隅に浮かびそうになる、喜びと油断を、抑えつけるのに必死だった。

 あと少し。

 本当に、あと少しなのだ。早く。早く。


「…………早く……!」


 イルマは、あとほんの少しで助かるという、その希望に心の中で縋りながら。

 ぼろぼろの心と体で、床だけを変わらず見つめて、『開かずの間』に向けて『ほうかご』の廊下を歩み続けた。

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