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四時四四分四四秒のチャイムが『ほうかご』の学校に鳴り響いて。
それと同時に、『ほうかご』の世界と意識が、急速に白く、遠くなり────
がば、
と目を覚ましてベッドの上で身を起こした志場湧汰は、深い悪夢の底からいきなり引き上げられて、最悪の気分に襲われた。
「………………っ!!」
釣り上げられた魚は、こんな気分なのだろうか?
胸が、呼吸が苦しい。心臓が、壊れたようにばくばくと鳴っている。
自分の胸を押さえて、シャツの胸をつかんで、あえぐように息をする。『ほうかご』から目を覚ます時はいつも、深い眠りから無理やり起こされた時のように気分が悪くなるが、しかしここまでひどいことは、今までなかった。
先週も、目覚めはひどかった。
そのときは、こんなにひどい目覚めは、もうこの先ずっとないだろうと本気で思っていたのに、今日はそれを上回った。最悪の最悪だった。
ただ、目覚めが物理的にひどくなったわけでは、たぶんない。
少しはあるかもしれないが、最大の理由は、精神的なものだ。確信があった。
たぶん湧汰は、悪夢を見たのだ。
前からなんとなく感じていた。『ほうかご』が終わり、自分の部屋で目を覚ますまでの、ほんの短い間、自分は眠っているのではないかと。
あの目を開くまでの、ほんの短い時間、湧汰は、『かかり』は、みんな眠っているのだ。そんな気がする。そして、その間に夢を見るのだ。思い出せないくらいの夢を。うたた寝の時に見るような、短い夢を。
そして、きっと、その夢が最悪の悪夢だった。
たぶん、そうだ。うたた寝の夢が、その寸前の現実と地続きになっていて境目が分からないことがあるように────湧汰はたったいま、最悪の現実から地続きになった、最悪の悪夢を見ていたに違いないのだ。
友達が、春人が、死んでしまった。
それだけでも最悪の出来事なのに、それだけではなく、最悪の最悪なことに、そんな友達が気味の悪い化け物になって『ほうかご』の廊下にいたのだ。
最悪だ。最悪の出来事。
こんなもの、夢に見ないわけがない。奈落のような、地獄のような悪夢になるはずだ。そしてそんな夢から目を覚ましたとするならば、その目覚めがいいはずがない。たとえどんなに短くても。たとえ思い出すことができなかったとしても。
「………………っ!!」
胸の中が荒れ狂っていた。
心臓が、心が、乱れに乱れていた。
あのとき見た、あの光景。
怖い。恐ろしい。ひどい。気持ち悪い。だがそれよりも、何よりもあのとき湧汰が思ったのは、絶対に許せないということだった。あの化け物が許せなかった。あの『ほうかご』が許せなかった。そしてもしも、こんなことをする元凶の存在がいるのなら、そんなものが、許されていいはずがなかった。
春人は友達だった。友達だったのだ。
その友達が、あんなことになった。
それが怖くて、悲しくて。そして、あまりにも、悔しい。
何もできなかった。
何もできない。
無力な自分。
「くそっ……!!」
湧汰は、自分の胸元を引きちぎらんばかりに強くつかんで。
呪詛のような怒りと悲しみを吐き出して、かたわらの金属バットを握って、ベッドの布団に思いきり叩きつけた。
†
湧汰の家は、学区の端のほうの住宅地、同じデザインの建売が並んでいるエリアにある、そのあたりでは最もありふれた家の一つだ。
近くに数キロ四方の大きな公園があり、そういった環境のせいか、子供のいる家庭が比較的多い。湧汰の一家もやはり、そのうちの一つだった。
二階建ての、白くて四角くて奥に長い家で、一階に大きく駐車スペースが作られている。正面から見ると、父親のミニワゴンと玄関のドアが窮屈に並んでいて、その上に二階の物干しのベランダがぎゅっと乗っている、そんな小さくまとまった構えをしていた。
同じ形の家が、この通りには並んでいる。
同じ形の家が、それぞれ違う使われ方をして、それぞれ違う人が住んでいる。
「……じゃあ、いってきまーす」
月曜日。朝。そんな自宅で、湧汰は黒いランドセルを背負いながら、リビングダイニングに向けて声をかけた。
部屋には両親がいて、テーブルでテレビのスポーツニュースを見ているお父さんと、さっき湧汰が食べた朝ご飯の食器を忙しそうに片付けているお母さんが、それぞれ湧汰の方を向いて応えた。
「はーい、いってらっしゃい」
後ろで髪を結び、動きやすいパンツルックにエプロンをつけたお母さんが、作業の手を止めずに言う。
「日焼け止めはちゃんと塗った?」
「塗った」
太陽の下で運動をすることが多い湧汰に、お母さんはこういうところをうるさく言う。
シャツにネクタイをして、すでに会社に行く準備を終えているお父さんも、テレビから目を離し、体ごと振り返って言う。
「おし、じゃあいってこい」
「うん」
「土日の練習、また身が入ってなかったからな。今週こそ元気よくいこうぜ」
「……うス」
答える湧汰。「よし」と精悍に笑うお父さん。日に焼けて髪を短く刈ったお父さんは、週末に小学生に野球の指導をしていて、湧汰もそんな野球チームの一員だ。
「……学校で何かあったのかしら?」
「かもな。でも小六なんて、色々あるだろ」
「……」
両親が話す声を背中に聞きながら、玄関に行き、靴をはく。
あまり広くはない玄関には、鉢植えの木が一本だけ置いてある。
細いが、湧汰よりも背が高い。湧汰が生まれるよりも前から家にある鉢植えだ。
別に特別な木ではないし、熱心に世話をしているわけでもないし、普段はぞんざいな扱いだが、この鉢植えはお父さんの大事なものだ。
正確には、大事なのは木ではなく、土の方。
この鉢には、お父さんが若いころ、高校野球で決勝に行ったときに、ポケットに詰めて持ち帰ったフィールドの土が入っている。
「父さんが死んだら棺桶にこの土を入れてくれ」
そう何度か冗談めかして言ったことがある、お父さんの宝物。
「お、そうだ、おまえも決勝まで行って、お前の土もいっしょに入れてくれよ。なんならアメリカのスタジアムの土でもいいぞ」
そんな時には決まって、こうも言って笑う。とにかく野球が好きなのだ。野球が人生。湧汰もその血を、はっきりと引いていた。
湧汰は野球が好きだ。
好きなだけでなく、上手いプレーヤーになって、強いチーム、野球の強い学校に行って、いずれはプロ野球選手になりたいという夢がある。
「父さんの夢を、おまえが叶えてくれよ」
そうしたいと思っている。
その夢のため、湧汰は野球に打ちこんでいる。そうする自分に疑問はない。
だが。
だが今は。
今だけは、そうはできなかった。
先週と先々週。今だけは、身が入らないことを許してほしかった。
理由をお父さんに説明することはできないが、ごめん、今だけは許してほしいと、心の中で謝りながら、届くはずのない許しを願った。
「────やっぱ、引きずらないのも、何もないふりするのも、俺には無理だ」
その理由を吐き出せる、唯一の場所。
月曜の朝にいつも集まっている、朝のホールの片隅で、湧汰は『かかり』の仲間に、深刻な顔でそう漏らした。
毎週、『かかり』が明けたあとの月曜日は、あらためて話をするため、必ずここに集まることにしている。春人が犠牲になり、その結果、自分以外が女子ばかりになって、そのせいで少し居心地の悪くなった場所。
「やっぱ、全然納得できねえよ。どうしても思い出す。考えちまう」
湧汰は、そんな場所で開口一番に、この週末の思いを吐き出した。
「あの時は、頑張って納得しようとしたけど……あれからなにしてても、越智くんがあんなことになったのに、って考えちまうんだよ。野球してても、寝てても、飯食ってても……越智くんがあんなことになったのに、俺はなにしてるんだ? って。今こうやって、手や足を動かしてるのも、息をしてるのも、もう越智くんはできないんだよな、って思っちまって……それなのに、こんなことしてる自分が噓に思えてきて……つらくなるんだ」