「じゃあ、まずこれ」
見たことのある表紙。
「あ……!」
「『ほうかごがかりのしおり』。これを小学校に配布するのが、いま僕らがメインでやってる活動だ」
「ありがとうございます!」
最低でもこれだけは、と求めていたものを渡されて、華菜は受け取ったそれを、感激して胸に抱きしめた。
「僕らは、このマニュアルを作った人たちの意志を継いで、今後『かかり』に選ばれる子供たちのために、全部の小学校に行き渡らせることを目標にしてる」
彼は説明した。
「だから、『ほうかごがかりのしおり編集委員会』を名乗ってる。死んでしまった僕の親友がやってた活動を、僕らが引き継いだんだ。もしこの『しおり』が助けになって、無事に『かかり』を卒業できる子が増えたら、そいつも喜ぶと思う」
「はい……!」
華菜はうなずいた。
「たぶんないと思うけど、もし『かかり』が『しおり』を持ってない学校に気がついたら、君もコピーでいいから渡してやって」
「わかりました」
「頼んだ」
すがるように抱きしめた紙の束に、それに書かれている事務的な言葉に、思っていた以上の思いが入っていることを知って、華菜はあらためてこの『しおり』に、重さと温かさを感じたような気がした。
†
「僕が『かかり』だった小学校には活動の記録が何十年も蓄積されてて、それを基に活動するためのマニュアルを作ってた。それがこの『かかりのしおり』」
あらためて話をする、二人と携帯越しの一人。
決して快適とは言えない気温の中、『しおり』を入れたミニリュックサックを抱いたまま、自分用の一冊に目を通している華菜に、持参した水筒の水をときおり口にしながら、啓が説明を追加した。
「これがあるかどうかで『かかりのしごと』の安全さや、効率がかなり変わる」
「ですよね。欲しかったです。こういうの」
同意して、うなずく華菜。
これこそが、ずっと求めていたもの。ただ漠然と『記録』しろと言われ、途方にくれるばかりだった活動に道筋を作ってくれる、『記録』の仕方から心構えから禁忌まで書かれた、具体的な作業マニュアル。
「最初に『しおり』が作られたのはかなり昔で、うちの学校の『かかり』は、いくつかの代が他の学校に広めようとしてたらしい。僕の親友も、片手間だけどそれをやってた。かなり遠くの学校の『かかり』が、かなり昔の版の『しおり』をマニュアルにして活動してたのを、僕らも確認してる」
「そうなんですか……初めて聞きました。うちにも最初からあれば、もっとなんとかできたかもしれないのに」
答える華菜。心からそう思う。いま見ているのは『記録』のための『日誌』のテンプレートだ。これが最初からあれば、もっと化け物は大人しかったかもしれない。それなら春人にも湧汰にも、もっと猶予があったかもしれない。
「そうかもな」
うなずく啓。
「それについて、由加志がなんか言ってたよな?」
『は!?』
そして急に話を振る。携帯のスピーカーから、由加志の慌てた声がした。
「なんか言ってたよな? 五十嵐さんの小学校の、『しおり』について」
『おっ、おまえ……えーと……あの、あんたのとこの、あ、あかね小学校だけど……こっちでもちょっと調べてみたんだ』
啓がうながすと、最初は急に水をかけられた猫のように泡を食っていた由加志は、画面の向こうで何かパソコンを操作しながら、しどろもどろで説明した。
『できてから五年の、新しい学校なんだな。だからまだ、マニュアルが行き届いてなかったんだと思う。小学生同士の、チェーンメールみたいなやり方でしか、広める方法が今のところないんだ。だから、どうしても、な、なんていうか……限界がある。日本縦断して、全部の小学校に配って回れれば確実だけど、そんなのできないし……郵便とかで送っても、大人には「しおり」の内容が認識できないから、捨てられるし……』
話すうちに、徐々に言葉がスムーズになってくる由加志。だがそこから、だんだんモゴモゴと言葉が途切れて行ったが、華菜はそこに、「そうなんですね」と踏みこんで、携帯のカメラを覗きこむ。
「ネットじゃだめだったんですか? 調べても全然出てこなくて」
質問した。
たぶん嫌がられているわけではないと判断したのだ。その予想が当たっているのかは分からないが、動揺をあらわにしつつも、それでも由加志は答えてくれる。
『! あっ、えっ、と、大人だけじゃなくて、どうも、「ほうかご」の話は、部外者には認識しづらいらしいんだ』
「認識?」
『たっ、たぶんだけど、子供同士でも、同じ学校とか、友達とか、関係者とか……関係が離れるほど、情報が目に入らなくなる。見えてても、見えてないっていうか……ネットで検索しただけの情報とかは、たぶん出てきてるやつを、おれらの脳がスルーしてる。無意識に。部外者だから。たぶん「ほうかご」の情報は、そういう性質を持ってる。わかるか?』
「え、えーと……」
目をしばたたかせる華菜。
「じゃあ……もしかすると、見えてないだけで、つながれてないだけで、啓さんたちみたいな活動をしてる元『かかり』が、他にいたかもしれないってことですか?」
『あんた、そんな見た目してる割に理解力があるな?』
華菜の答えに、由加志は驚いたように言った。その失礼な言いように、むっとして口をとがらせる華菜だが、由加志はそれに気づいた様子もなく、結論を言う。
『そう考えるのが自然だと思う。でも、きっと数は少ない』
「……どうして?」
『生き残って、卒業したら、みんな忘れちまうからだ。嫌な記憶だから、忘れたい、思い出したくない、見ないようにしたいと思って────その通りになる。大半の「かかり」は、「かかり」だった時の自分の異常な経験のことを、大人になる前に忘れちまうんだ。忘れずに憶えてる一部の人間も、そんな嫌な記憶を思い出させる存在とは関わりたくないし、見てられないから、徹底的に避ける。
おれらみたいのは────っていうか、そこの啓みたいなのは、ものすごい少数派だ。こいつは忘れた方が楽なくらい嫌な目に遭ってるのに、やらなきゃいけないことがあるからって執念で憶えてる。この活動やってるのはあくまでもそいつで、おれは無理やり付き合わされてるだけだからな。そこは勘違いしないでほしい』
いかにも迷惑そうに、カメラに身を乗り出して、言う由加志。その様子を見て華菜はピンときて、つい先ほどの仕返しを、さっそく思いついた。
「そういう割に、由加志さんもちゃんと憶えてるんですよね?」
『ぐっ……!? う!』
画面の中の由加志が言葉を詰まらせた。
「いい人なんですね」
『違……っ! わ、忘れるつもりだったんだよ! そのはずだった! なんでまだ憶えてるのか、おれが聞きたいよ!』
叫ぶ由加志。華菜は笑顔で見返す。心の中で舌を出す。
「そいつ、僕より記憶が確かなんだよな」
やり取りを黙って見ていた啓が、静かに口をはさんだ。
『啓! おま……!』
「まあ、それで助かってはいるんだけど────そんな僕らでも、やっぱり少しずつ記憶が薄れてる。いつまで憶えてられるか自分でも分からないし、僕らがまだ活動をやれてるのは偶然だ。君が僕らに辿りついたのも偶然。君はギリギリのところで運がいいよ」
啓は、そう言って華菜と由加志の言い合いを、一旦引き離す。
そして。
「じゃあ、あらためて」
ベンチから立ち上がった。
「君らの状況について話をしようか。学校まで歩きながら」
そう言って、まだ由加志が何かを言っている携帯をイーゼルから取り上げて、見上げている華菜を振り返った。
「案内してくれるか?」
「あ、はい……!」
そして、慌てて返事をする華菜を見て。
啓はまた、目を離す刹那に、その右目だけを、少し細めた。