「今は別にいいかもしれないけど、とりあえず、これを憶えといて」
反論の言葉が出ないまま、差し出された『しおり』を見て、複雑な表情をする華菜に、啓は言った。
「自分の見た『無名不思議』が何なのか、どうしてそういう姿をしてるのか、考える癖をつけた方がいい。それを考えないと、ちゃんとした『記録』にならない。対策も立てられない。君の担当してるやつだけの話じゃなくて、君が他の人を助けたいときにも、この考えは必要になる。そいつが何であるかが分からないと、どうやったらそいつから、友達を助けられるのかも分からないだろ」
「それは……確かに……」
そこだけは納得する華菜。しかし納得しつつも窓の絵を見るのはやめて、他の化け物の絵を開いた。それを見た啓が、小さくため息をつく。
「……君みたいなの、知ってるよ」
「え」
「自分のことより、他人のこと優先なやつ」
真剣な顔で、もういちど人形頭の異形の絵を見ていた華菜は、顔を上げて、そこは不服そうに言う。
「別に、そんなことないですけど」
「いや。自分は恵まれてて大したことないから、もっと困ってる人を優先しよう、って考えるとこまではいい。そこまでは単なるいいやつだ。でも君はやりすぎだ」
啓はそんな華菜をまっすぐに見て、否定した。淡々としているが、妙に真剣さを感じる言い方をされて、全く認めてはいなかったが、華菜は鼻白んだ。
「君は見た感じ何でもできて、行動力とか決断力とかが高くて、そんな自分の基準で『余ってる』って思ってるリソースを全部他人に突っこんでる」
「……」
「それは結果的に自分を削ってる。気づいてないけど、いつかそうなる」
「そんなことは……ないと思いますけど……」
「そう思うか? まあ僕の知ってるやつとは方向性が違うけど、自覚がないところは、ちょっとタチが悪いな」
もちろん自覚はない。別に他人を優先しているつもりはない。ちゃんと自分を優先している。自分のことはちゃんとやっている。その上で人のためになることも、自分がやりたいからやっている。
ちゃんと考えて、優先順位もつけて、だからこそ自分の担当は後回しにしている。
そう思っているからこそ、納得できない。そんな華菜の様子を、啓はあの観察する目で静かに見すえていたが、やがて視線を外すと、持っていた『しおり』を団扇がわりにして自分の顔をあおいだ。
「……まあいいや」
そして言う。
「君みたいなのには、つい、ひとこと言いたくなるんだ。悪かった」
少し自嘲するように。そして啓は外した視線を、あらためて仰ぐように学校へと向けて、続けた。
「でもまあ、今この学校にいる『無名不思議』がどういうものなのかは、『記録』するにも対策するにも、考える必要があるのは本当だ」
それにはうなずく華菜。
「はい……」
「どうやったって『ほうかご』に入ることができない僕らが、現役の『かかり』に協力できる部分も、そこになる。あらためて君たちの『無名不思議』と、それが起こしたと思われる異常な現象について、これからちゃんと考察していこうか」
啓は締めくくる。
頭上に広がる薄曇りの空からは、そろそろ光が失われつつあった。
「じゃあ、また明日。明日で大丈夫なんだよな?」
「はい」
「わかった。よろしく」
うなずく啓。明日、他のみんなとも顔合わせすることに決めた。
今日、啓と会ったのが華菜一人だけだったのは、華菜が独断でコンタクトを取って決めた急な話だったということもあるが、彼が他のみんなと会わせても大丈夫な人間なのか、詐欺や偽物ではないかを、華菜一人だけで確認する意味もあった。
とりあえず、大丈夫だと考えた。
協力してくれる元『ほうかごがかり』と聞いて、いくつか想像した人物とは、まるで当てはまらなかったけれども。
「……正直に言うと、君らに起こってることは、今まで聞いたことがないんだ」
啓は言った。
「そうですか……」
「僕らが元いた学校の『かかり』の『顧問』と連絡が取れれば、似たような例があったかとか聞けたかもしれないけど、まあ僕らでなんとかするしかない」
啓は言いながら手に持っていた『しおり』を、それから絵を描くためにリュックサックから出していた道具を集めて、しまう。
「だから────こう言っていいのかは分からないけど」
そうしてリュックサックの口を閉めると、汚れて古びているが頑丈そうな、そして重そうなそれを持ち上げて、肩に背負うと。
「君の仲間に会えるのを、楽しみにしてるよ」
華菜を見すえ、その言葉とは裏腹に、ほんの少しの笑みも浮かべることなく、静かに重々しく、そう言ったのだった。
………………
6
次の日。水曜日。
昼ごろ、みんなで集まる前に、先に恵里耶と待ち合わせした。
他のみんなよりも先に、話したいことがあったからだ。そして何より、恵里耶には先に見せておきたかった。手に入れた『かかりのしおり』をだ。
「……五十嵐さん」
待ち合わせ場所にした、学校周辺に点在している公園の一つで。
砂場で遊んでいた小さな子たちに交ざって、せっせと泥だんご作りをしていた華菜に、少し遅れてやってきた恵里耶の、細く可愛らしい声がかかった。
「あ、お友達きたから、ここまでね。これはあげる」
気づいた華菜は、それまで作っていた、他の子よりもかなり大きな泥だんごを砂場のふちに置いて、両手の砂をはらって立ち上がる。そして日傘をさした恵里耶が、汚れるのを嫌って砂場から少しだけ離れて立っている方へ、「じゃあ、手、洗ってくるね」と断って、手洗い場に行って手を洗う。
そして、
「ごめんね、お待たせ」
ハンカチで手をふきながら、笑顔で恵里耶のところへ戻った。
「えっとね、あの子たち、泥だんご作りの道具が足りなくて、上手くいってないみたいだったから、ちょっと教えてて」
そして、思いもよらなかっただろう状況に少し困惑した表情をしている恵里耶に、事情を説明する。
「わたし泥だんご、すっごい得意なんだよね」
笑顔で言う華菜に、恵里耶は納得したような、しかし同時にどことなく呆れたような、微妙で曖昧な表情をする。
「……五十嵐さんって、ほんとに誰とでも仲良くなれるんだね」
言う。そしてちょっとうつむき、小さく続ける。
「私は、全然友達いないから、うらやましいな……」
「でもわたし、小さいころから『むやみに誰にでも話しかけるな』とか『もう少し大人しくしてて』とか言われて、怒られてたよ」
あははと笑って華菜は応じた。
「それに、いっつも大人っぽい服着てる恵里耶ちゃんが、砂場遊びに交じっているのは想像できないよ」
「そうかな……」
「そうだよ」
いや、そんなことはない。想像はできるし、可愛いと思う。でも、もし本当にそんなことをしたら一大事だ。恵里耶の着ているこの服は、そして履いている靴も、見る限り、たぶん安い物ではない。
「逆にわたしは、恵里耶ちゃんみたいな落ちつきが欲しいなあ」
「……落ちつきじゃないよ。上手く人と話せないから、黙ってるだけ」
華菜の評価に、たぶん謙遜ではなく言う恵里耶。
これまで華菜は、『かかり』の仲間と一緒にいる時の恵里耶しか見たことがないのだが、話によると知らない人とか、大勢の人とか、同年代の人とか、いくつか苦手な要素があると、恵里耶は緊張を通り越した不安と恐怖で話せなくなるのだという。
特に教室が駄目で、恐怖ですくんで動けなくなる。なので恵里耶は保健室登校だ。保健室で登校してきたことを確認してもらい、あとは支援室のような別室で、放課後まで自習したり本を読んだりしながら過ごしているそうだ。
華菜たちとはちゃんと話している。
ものすごく頑張って、『ほうかご』ではみんなと話せるようになったのだ。