きみにしか見せない姿で
杉井 光
我が校の音楽教師、
若くて、風采が華やかで、幅広い話題に気さくに応じてくれる。きわどい下ネタもさらりと切り返してくれるし、漫画やゲームにも詳しい――となれば、とくに男子生徒からの人気は相当なものだった。
僕のクラスメイト男子たちも、まだ入学して三ヶ月ちょいで学校に全然慣れていない時期だというのに、華園先生に対してだけは気安かった。音楽の授業がちょうど四時限目なので、昼休みになってもそのまま音楽室に居残って先生と話したがる。しかも、ぶつけるのはこんな失礼な質問である。
「先生って彼氏いるの?」
脇で授業の後片付けをしていた僕は聞いてびっくりする。
先生は笑って言った。
「直球でセクハラだねえ。校長か教頭あたりが同じ質問してきたらぶん殴るところだけど、かわいい生徒の質問だから許そう。でも教えてあげない。勝手に予想して」
「えー、絶対いるだろ」
「いないわけない」
「どんな人ですか、歳上?」
「金持ち?」
「結婚すんの?」
いる前提で男子たちは盛り上がる。しかし、と傍で聞いていた僕は思う。彼氏なんているわけがない。みんなは見た目にだまされているけれど、この華園美沙緒という女、笑顔の下にとんでもない本性を隠しているのだ。そもそもみんな、いち生徒である僕が毎回の音楽授業の準備や片付けをしていることを疑問に思わないのか? 弱みを握られて脅されて手伝わされてるんだぞ。ずぼらで、怠惰で、悪知恵だけは働いて、ひとをからかったり陥れたりするのが大好きな性格最悪人間なのだ。
こんな女とつきあえる男性がいるわけがない。
ところが――
男子生徒五、六人から質問責めにされて根負けしたらしい先生は、手を振りながら苦笑して言った。
「わかったわかった。教えるってば。こないだまでいたよ。あたしと同い年。でも別れた。はい、この話はおしまい! みんなさっさと教室に戻って、お昼食べる時間なくなるよ!」
僕以外の生徒はみんな音楽室から追い出された。
なんかみんなでがやがやうるさかったけど話の内容なんて聞いてませんでしたよ? というそぶりをしながら僕は黙々と片付け作業を続けていた。
そこに華園先生が寄ってきてにまにま笑いながら言う。
「安心した? ムサオ」
「……なにがですか」
ていうか学校でムサオって呼ぶな。この呼び名こそ、先生に握られた弱みだ。僕が女装してネット上の動画サイトでオリジナル曲をアップしているときの名義なのである。
「あたしにいま彼氏がいないって知ってほっとしてたでしょ?」
「なんでほっとするんですか。先生の犠牲者がこれ以上増えなくて安心てことですか」
「ふふふ。認めたくないならそれでいいよ」
腹の立つ人だった。
そりゃあね、今は彼氏いないって聞いたとき、ああやっぱりそうなんだ、僕の予想通りだったな、と思ったよ。そういう意味では安心したって言えなくもないけどね? なんで僕は要らない言い訳をしてるんだろうね?
「ところで、彼氏の話で思い出した。ムサオに頼みがあるんだけど」
「なんですか……嫌な予感しかしないんですが」
「今週の土曜日、あたしの彼氏の振りしてくれない?」
僕はあまりにも驚いたせいで、せっかく整理し終わった教材を落っことして床にぶちまけてしまった。
* * *
土曜日の正午、華園先生と池袋駅で待ち合わせした。
もう七月に入り、夏休みの足音も聞こえてきた時分で、人通りが多い。照りつける陽から逃げて乏しい街路樹の陰を渡って歩く。
池袋はうちの高校からいちばん近い繁華街なので、どこか遊びにいこう、となったら大概が池袋集合だ。知り合いに見つからないかとひやひやする。
当然のように先生は遅刻だった。芸術劇場の入り口前でスマホの時刻を何度も何度も確認しながらじりじり待っていると、「やっほ、お待たせ」と声がかけられる。
見上げた僕は唖然とする。
休日の私服の華園先生は、大きく肩口の開いた春色のブラウスにフリルを多用したハイウエストのスカートという女子力全開の服装で、髪も下ろしていて、あとたぶん化粧も全力で、まるで学校とは別人だった。
「どうしたの? 十五分くらいの遅刻で怒るムサオじゃないでしょ?」
「怒るよ! ……じゃなくて、ええ、はあ、いや、その、なんでもないです。……なんでそんな気合いの入ったかっこうなのかなって」
「だって彼氏の振りしてもらうんだから、こっちも彼氏に見せるようなかっこうしなきゃ不自然でしょ」
「……ああ、うん、そうですね、たしかに……」
彼氏に見せるためのお洒落が、これなのか。たいへん勉強になります。なんか体温が上がってきた。おまけに先生はいきなり僕の腕をつかんでくる。
「じゃ、先に買い物行こうか!」
「え、え、ちょっ、元彼に逢うんじゃなかったんですか」
「そうだけどまだ時間あるし、せっかくの休みに池袋まで出てきたんだから」
そう言って先生は東武デパートへと僕を引っぱっていく。
「お昼ご飯まだでしょ、おごるよ!」
ことの次第はこうである。
つい先頃別れた先生の元彼が、まだつきまとってくる。もう新しい彼氏がいるのだと嘘をついても信じてくれない。そこで実際に引き合わせてすっぱりあきらめさせたい。
そんな面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだったので、僕じゃ若すぎる、絶対に見破られる、ていうか警察いけば、と必死に断ったのだけれど、脅してきたり泣き落としにかかってきたり、さらには昼飯をおごるからと珍しく懐柔案も出してきたので、しかたなく折れてやることにしたのだ。
「ご飯どこで食べる?」
東武のレストラン街で先生はうきうき顔で訊いてくる。
「ラーメンとかでいいですよ……」
中華料理店に入った。けっこう高そうな店だが大丈夫だろうか。
「けっこう給料いいから大丈夫。楽な仕事だし高校は天国だよ」
「仕事が楽なのは僕らに押しつけまくってるからであって、高校教師全般みたいな言い方をしないでくれませんかね……」
昼食後、女性服売り場に行くのかと思いきや、メンズフロアに連れていかれた。
「え、あの、なんでメンズ」
「ムサオの服を買うんだよ。当たり前じゃん」
「いや僕はそんな金は」
「あたしがおごるんだってば。彼氏の振りしてもらうのにそんな一昨年の夏からずっと着てるようなTシャツとデニムじゃ困るわけ」
たしかにファッションに気を遣ったことなんてなかった。服を買う金があるなら新しい音源ソフトとかゲームとか漫画を買う。
先生は僕をあちこちの売り場に連れ回し、店員と楽しそうに協議しながらうんざりするほど大量の試着を僕にさせた。
「弟さんですか?」
「ううん彼氏」
「あっ、ごめんなさい!」
そんな会話が試着室の中にいてもカーテン越しに聞こえてくる。僕はもうほんとに知り合いに絶対遭遇しませんようにと祈った。
五つほどの売り場を渡り歩いた結果、僕は頭のてっぺんから爪先まで先生好みのファインボーイズなスタイルに変わっていた。今日着てきた服は紙袋に突っ込んである。
「……さすがにこんなおごってもらうわけには……万単位かかってますよねこれ……」
帰宅して家族にどう説明したらいいかわからない。
「これからやってもらう損な役回りを考えたらこれでも足りないくらいだから、気にしなくていいって。じゃ、そろそろ元彼との待ち合わせ時間だから、駅に戻ろうか」
本来の用事を思い出し、僕はげんなりする。
* * *
その人物は、池袋西のメトロポリタン口、階段を下ったところの円柱に寄りかかっていた。上下とも黒のジャケットとロングパンツできめた、鋭利な印象の長身。ワイルドな感じに跳ねさせたセットの髪と、白い縁の眼鏡とのギャップがこれまた渋い。引き締まった細面と佇まいから発せられる危険な魅力は、通りすがる女性がみんな振り返るほどだ。
「あ、いたいた」
僕の隣を歩いていた華園先生は、その黒い人影を見つけて手を振り、階段を下りる足を少し速めた。僕は唾を飲み込む。
あれが先生の元彼なのか。めちゃくちゃイケメンじゃないか。僕なんかじゃとても太刀打ちできない。いや、べつに太刀打ちするために来たんじゃないんだけど。「俺みたいな良い男を捨ててなんでこんなしょぼいやつとつきあうんだ」とか言われたらどうしよう。まったく反論できない。
その人物も目を上げ、こちらに気づいた。
口が半開きになる。
駆け寄った華園先生に向かって言った。
「教え子とつきあうのはまずいんじゃ……?」
僕は頭が真っ白になった。
ばれてる! 教え子だってばれてるよ! なんで知ってるんだ? 学校に来たことがあるのだろうか?
「……ああ、いえ、あのですね、僕はべつに先生の……じゃなかった、美沙緒さんの、学校の方とはなんの関係も……」
先生、って呼んでしまった。完全に語るに落ちている。
ところがパニック状態の僕を見て華園先生は笑い転げた。
「……ムサオ、気づかない?」
「な、な、なにをですかっ? ていうかなんで笑ってるんですかっ」
先生は元彼を指さして言った。
「これ、
僕の顎が落ちた。
黒ずくめのその人物はやれやれと首を振って眼鏡を外した。僕はのけぞって叫びそうになった。たしかに黒川さんだった。僕の行きつけのスタジオの店長だ。華園先生の昔からの友人で、女性である。
女性、である。
「すごいっしょ、これ。黒川、バンドやってた頃はばりばりのV系でね、そりゃーもう女の子たちに騒がれたもんよ」
「ちょっと待って美沙緒、これどういうことなの?」
黒川さんと華園先生がなにか言い合っていたが、僕はもう意識が遠くなりかけていてほとんど会話が耳に入らなかった。
* * *
詳しい説明を聞けたのはその夜の電話である。
『いやー、黒川にね、彼氏がいるんだって嘘ついちゃってね。賭けまでしちゃったもんだから。今日は黒川と一緒にライヴを聴きにいく予定だったんだけど、もし彼氏を連れてきたらチケット代おごってやる、嘘だったらそっち持ち、とか言われて引くに引けなくなって、ムサオを連れていくことにしたのさ』
「……なんで僕なんですか。黒川さんとも面識あるんだからすぐばれるにきまってるじゃないですか」
『いやまあそうなんだけどね』
電話口の向こうで先生はまた思い出し笑いを始めた。通話を切ってやろうかと思った。
『どっちもだましたまま引き合わせたとき、二人がどういう顔するかなーって考えたら、もう賭けのこととかどうでもよくなっちゃってね? めっちゃびっくりしたでしょ?』
「……そんなことのためにあんなに金遣って休日半分潰したんですか……」
ため息しか出てこなかった。
ところがそこで先生は口調を変えて言う。
『やだなあ。いちばんの目的はね、ムサオといっぺんデートしてみたかったんだよ』
スマホを落っことしそうになった。
『じゃねー、おやすみ』
通話はぶっつり切れた。
黙り込んだスマホをにらみ、僕はしばらく悶々としてからベッドに突っ伏した。
まったくあの女、どこまで本気かわからない。さんざん引き回しといて。いらだちを噛み殺してシーツの上を転がる僕だったけれど、まぶたの裏には、華園先生の『彼氏に見せるため』の姿がずっと焼き付いて消えなかったのである。
楽園ノイズ
著者:杉井 光 イラスト:春夏冬ゆう
作品ページはこちらから↓
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