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「旧世界病には大きく分けてふたつあるわね?」
「はい。急性と亜急性です」
「じゃあ、それぞれ特徴を簡潔に言ってみて?」
「急性は……短期間に大量の汚染物質を体内に取り込むことで中毒に陥ります。亜急性は微量か、あるいは時間をかけてを体内に蓄積していくことで発症します」
「うん、いいわ。治療法をどうぞ?」
「発症後すみやかに血液製剤を投与します」
 グロッシュラーはうんうん、とうなずいている。オリヴィアは続けて言った。
「発症を予防することは基本的にはできません。あっ、でも……あらかじめ汚染物質にさらされることが予期される場合に、事前に純度の高い血液製剤を投与することで発症をかなり遅らせたり、ウイルス疾患のキャリアのような状態にできる可能性があるというレポートを先日読みました」
「わお、勉強熱心ね。でもそれどこで読んだの? 筆頭著者はだれだった?」
「ワール……なんとかさん? ごめんなさい、どこで読んだかも覚えてなくて。でもとても興味深かったです。はやく治験に入れるといいのに」
「ほんとね。おっと、話がそれちゃった。治療法のことを話していたんだった?」
「はい。発症後、すみやかに血液製剤を投与すればのうほうなどが全身にできる劇症化は防げますが、断続的かつゆるやかに進行していくため、いずれは末期に至ります。根治も寛解も望めませんから、さきに末期がくるか、それとも寿命がくるかは個人差が出ますね」
「そうね。旧世界病の患者を臨床で診たことは?」
「あります」
「何例も?」
「はい」
「なら気付いた? ひとくちに旧世界病って言っても、じつひとからげにはできないってことを」
「はい。とくに発症者の免疫力に大きく影響される、と思いました。小康状態が維持される期間は個人差が大きかったですし、血液製剤の投与回数にもあまり左右されなかったように思います。文献には亜急性のほうが小康状態の期間が長いとありましたけど……」
「けど?」
「小康状態がまったくなくて、しかもすでに末期のような状態が長く続いている劇症型の患者を診たこともあるんです」
「ふうん。その症例はかなりレアね。その人はくなったの?」
「いえ、まだご存命です」
「へえ。ずっと気にかけてあげてるのね」
「忘れたくても忘れられない患者なので」
「あら。忘れてもいい患者なんてひとりもいないわ」
「……そうですね。失言でした」
「患者を減らすには、わたしたちはどうしたらいいと思う?」
「血液製剤がもっとあれば、と思います。患者は増える一方なのに、供給数がまるで足りてないから。でもそれは大昔から変わらないことですし、いまさら増産なんて期待できません。だから早く、血液製剤に代わる新薬を開発しなくちゃいけないと思います」
「ほんとね。いまのところ、一握りの裕福な人たちは、新薬の半永久的な治験者になるという形で恩恵を受けて、《清浄国》で旧世界病とは無縁の生活をしている。でもそれって、命に優劣があるって感じで、すごく嫌よね。フェアじゃないわ」
「わたしもそう思います」
 グロッシュラーはぱんぱんぱん、と手を叩いた。
「パーフェクト! でも、ちょっとつまんないわね」
「えっ?」
「だってあなた、とってもとってもおりこうさんな答え方をするんだもの。こうなることを予測して、あらかじめ模範解答をどこかでたたき込んできたみたい」
「カンニングなんてしたことありません!」
「だいじょうぶよ、疑ってないわ。基礎しか聞いてないんだもの。わたしがここで知りたいことはね、あなたが旧世界病をどう認知しているかってことのほうなのよ」
「どういうことですか?」
「認知にズレがあったら、仕事の邪魔になるからよ。あなたは諦めていたからよかったわ」
「わたしが……なにをですか?」
「あなたはちゃんと言ってた。血液製剤の増産は期待できないって」
「あっ……はい」
「そこがわたしたちのスタートラインだから。合格よ、わたしのラボへようこそ」
「ありがとうございます!」
「じゃ、わたし先に行くわ。一服しないと頭が働かないの」
 グロッシュラーは紙巻きたばこをくちはしにくわえてカフェテリアを出て行った。
 すこぶる美人で言葉も女性らしいのに、その仕草は男性的で野性味がある。オリヴィアはグロッシュラーが好きになった。なんて刺激的な人だろう。
 しかし新薬の開発もさることがら、オリヴィアにはもとより大事な任務がある。
 それは血液製剤の供給元をつきとめ、ひそかにそれをドラルに持ち帰ることだ。
 オリヴィアは漠然とした不安に襲われるときがある。工作員としては基礎的な教育しか受けていない。自分にどこまでできるのか。正直自信がない。
 右耳でピアスがまたふるえ始めたが、オリヴィアは食事を続けた。ドラルからは遠く離れた地にいるのに、父に振り回されている。せめて食事のときくらいは邪魔されたくなかった。

<7>

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 少女にせがまれてアルムが話したのは、故郷マリネリスの夕焼けの話だ。
 空と同じオレンジ色に染まった海に、もっと濃いオレンジ色の太陽が沈んでいく。水面がきらめいて、目に見えるすべてがオレンジ色に染めあがる。マリネリスでアルムが一番好きな時間の景色だ。
 アルムはドーマが用意してくれた椅子ではなく、床に直接座った。
 ベッドで膝を抱えながら聞いていた少女は、ころんと横になってアルムにたずねた。
「オレンジ色の海はどんな香りがするの?」
「香り?」思いもよらない質問にアルムは戸惑った。「香りなんて気にしたこともなかった」
「もったいない。わたしならきっと、五感すべてを使って頭に閉じ込めるのに」
 そう言って少女は天井の照明にかざすように手を高く上げた。
 床に座っているアルムからもそれが見えた。
 少女の着ている服の袖口は大きく開いていた。そこから無防備な胸が見えそうになる。少女はまったく気にしていない様子だったが、アルムは慌てて視線をそらすと立ち上がって椅子に座った。
「なに?」手をぱたんとおろして、少女が言った。アルムを見ている。
「……支給されてる服はそれだけ?」
「同じものが何枚もあると思う。使い捨てだから。どうして服が気になるの?」
「ずいぶん簡単な作りだから」
「あはは。変な人ね。そんなこと言われたの初めて」

 カルセドニー同様おれもお手上げだ、とアルムは思った。
 囚人に終始ペースをいいように握られたままだ。
「採血しやすいの。腕がすぐ出せるから」
「採血?」
「明日からあなたの仕事」
「なんで採血を?」
「ほんとにあなたはなにも知らないのね」
「知らないんじゃない、知らされてないんだ」アルムは不快感を隠さなかった。
 少女はゆっくりベッドから立ち上がると、ぎりぎりまでガラスの壁に歩み寄り、アルムに両腕の内側を見せた。
 両腕のそれぞれに、血管に沿って規則的に並んだ注射痕がある。
 そのおびただしい数の小さな針痕にアルムはぞっとした。見てはならないものを見てしまったような気がしたのだ。
「なんでこんなことを?」
「アルセノンだから」
「アルセノン?」アルムはおうがえしに言った。
「それも知らされてないの?」
「もういい加減やめてくれないか? おれは突然ここに放り込まれたんだ」
「いつか話すわ。でもわたしは疲れた。あなたも疲れたでしょ?」
 少女はくるりと後ろを向いて、ベッドのほうに歩きだそうとした。
「あっ、ちょっと待って」
 アルムは反射的に声をかけた。それは自分でも思いがけないことだった。
「なに?」少女はアルムのほうに振り返った。
 呼び止めておきながら、アルムはすぐに言い出せなかった。
「なあに?」少女がもう一度アルムに言った。
「えっと……」
 とても簡単なことをしたいだけなのに、アルムはてのひらに浮く汗をうっすら感じる。
 なぜこんなさいなことで緊張するのだろう。生まれてはじめてすることだからかもしれない。
「きみの名前をまだ聞いてなかったから」アルムは一気に言った。
「そっか。ふふふ、カルセドニーは紹介したつもりになってただけね」
「あしたからきみの担当なんだし、名前くらい聞いておかないと」
 そのアルムの言葉で、少女の表情が一瞬で変わってしまった。
 アルムは自分がまた失敗したことに気付いた。
 きょうが初対面なのに、これで二度目だ。
「それって……わたしの担当になったから、わたしの名前を知る必要がある、ってこと?」
「担当するから、ってだけじゃないけど……」
「ふうん……。でも目の前であからさまに困った顔をされて取り繕われたりすると、そうは思えないけどな。ちょっと傷付くし」
「……ごめん」
「名前は識別するためのただの記号だ、ってゼキは言ってた。理屈としては大正解よね。でもわたしは不愉快な気分になった。なんでかなあ」
「ごめん」
「あなたはきょう、ごめんごめんって言いっぱなし」
「……ごめん」
「まあいいわ。じゃあ、改めまして、もう一回どうぞ」
 アルムは深呼吸してから言った。
「……きみの名前は?」
 少女はまばたきをひとつして、ゆっくりガラスの壁に歩みよった。壁に顔を近づけて、口を軽く開ける。そしてガラスの壁にゆっくり息を吹きかけた。
 少女の呼気で、壁が白く曇る。
 少女は左手の人差し指をそっとガラスの壁に押し当てた。
 そして一文字ずつ、指を壁に滑らせていく。
 目で追っていたアルムはすぐ気付いた。少女が書いているのは鏡文字だ。
 フ、ロー、ラ、イ、ト……
 フローライト。それが少女の名前。
 少女は曇ったガラスの横からひょっこり顔を出してアルムの顔を見た。
「読めた?」
「うん」
「よかった」
 少女は無邪気にそう言うとベッドに滑り込み、あっという間に静かな寝息を立てはじめた。
 もしかしたらたぬきりなのかもしれない。そうも思ったが、アルムは椅子を部屋の隅にそっと置き、音を立てないように囚人の部屋を出た。