<8>

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 フローライトはカルセドニーからもらった空の写真集を眺めている。
 海と空の話をしてくれた新人さん……ちょっとおもしろかったな。あんな人はじめて。
 それに新人さんはわたしのことをなにも知らなかった。
 なんでだろう。それがとても不愉快に感じる。
 グレンの狙いが見えるようで見えなくて、胸がざわざわする。
 前の人たちはもういない、とカルセドニーは言った。
 じゃあどこへ消えたの?
 みんなそれぞれ大きな野心があってわたしに近づいてきた。でもそれはグレンに命令されたから生まれた野心であって、任を解かれたあとに殺されなければならないほど、彼らがわたしになにかをしたわけでもない。決して悪い人たちではなかった。
 悪いのはわたし。グレンに言われたことをいまだに成し遂げられないわたし。
 アルムという人は、わたしの義務を一緒に背負ってくれるだろうか。
 フローライトは目を閉じた。
 眠るには、今夜はまだもう少し絶望が足りない。

<9>

 九時五分前。ブルー・ステイブルの前に立つアルムから、フローライトが膝を折りたたんで椅子にちょこんと座り、本を読んでいる姿が見える。
 ガラスの壁の前には、黒髪をきっちりと七三分けにし、濃いグレーの服に全身を包んだ色白の小柄な男がいて、ワゴンの上に医療キットを並べている。男は縁がべつこうでできている薄いグレーの色つき眼鏡をかけていて、奥二重の鋭い目が一点を見つめている。
 待っていても声をかけられる気配はなさそうだった。
「おはようございます、昨日着任したアルム・オブシディアンです。ゼキさんですよね?」
 否定も肯定も、そもそも返事すらせず、ゼキはアルムの頭のてっぺんからつま先までをめるようにじっくりと見ている。初対面とはいえ、からだにまとわりつくような粘性を帯びた視線にさらされるのは気分のいいものじゃない。
 アルムはそのまま二分ほど、ゼキにねめつけられるのを無言で耐えた。
「囚人にもう会いましたね?」前触れなくゼキが言った。とても低い声だ。
「あっ、はい。会いました」不意をつかれてアルムは答えにまごついた。
「そこに座ってください」
 ゼキはアルムを椅子に座らせると、少しかがんで、薄緑の薬液が入った容器をワゴンから取り出した。アルムの左の腕の内側を素早く消毒し、またたに注射針を刺す。
「点滴……ですか?」
「囚人の担当者が必ず受ける処置です。中身については機密事項なのでぼくも知りません」
「機密? でも、からだに入れてだいじょうぶなものなんですよね……?」
「知りません。ぼくはこの処置を受けたことがありませんから」
「はあ……」
 アルムはもうゼキのなすがままだ。
「点滴は三十分ですみます。じゃあ座ったままでいいので、これからすることをよく見ていてください。明日からすべてオブシディアン君の担当になりますから。完璧に覚えて」
 ゼキはそう言うと、フローライトの胸のあたりの高さに設けられた外開きの小窓を開けた。
 本から目をはなさないフローライトが、その小窓から右腕をぬっと突き出す。
「今朝は左です」すかさずゼキが言った。
 フローライトはむっとして本を持ち替え、今度は左腕を出す。
 黙ったままでゼキとは目を合わせようともしない。ゼキもそんなことは一向に気にならないようで淡々と作業をすすめていく。ゼキが採血用キットの袋をぎわよく開けると、中からは長さ十センチ、鉛筆くらいの太さの円筒形のものがころんと出てきた。
「先端に採血用の特殊なアダプタがついてます。特殊な針が内蔵されていて、血管の上にセットしてボタンを押すと自動的に採血できます。素晴らしいでしょう? ぼくが開発したんです」
 ゼキがフローライトの左腕に円筒を置いてボタンをポンと押す。
 痛みはないらしくフローライトの表情は変わらない。手早く作業を終えて円筒を一振りすると中から五センチほどの細い採血管が出てきた。
 中には白みを帯びた血液が入っている。
「これで終わりです。回収した血液は冷蔵室に保管してロックをかけます。採血がすんだら囚人の体調なども含めて必ず船長に報告を」
 フローライトは小窓から腕を抜くと、少しかゆみがあるらしく採血痕を服でこすっている。
「点滴、終わったら自分で針を抜いてください。訓練船で、それくらい習ってますね?」
 ゼキはアルムにそう言うと、片付けをさっさとすませて、ワゴンを押しながら足早にブルー・ステイブルから出て行った。
 その後ろ姿を目で追っていると、アルムはフローライトが自分を見ていることに気づいた。
 点滴筒にぽとん、ぽとんと落ちる薬液を見つつ、椅子に座ったまま慎重にフローライトのほうへ移動する。