オーバーライト――ブリストルのゴースト

Chapter 1 "To the Pit"

 彼女はいつも、その椅子に座っている。
 俺が住んでいる学生寮のマナー・ホールは、ブリストルの西側にある。
 敷地しきちの門を出ると、ローワー・クリフトン・ヒル通りの石畳でできた急な坂を下っていく。誰も信号を守らない横断歩道を渡って、ブリストル大学の一番大きな建物、まるで教会かお城みたいなウィルス・メモリアル・ビルディングの前を通り過ぎたら、今度はなだらかに下るパーク・ロウ通りを歩いていく。
 くすんだ木とびた鉄でできた本物のライフルを並べる骨董品店こっとうひんてんと、スケートボードとスニーカーを並べるアパレルショップの脇を通って道路を渡ると、古びた長い階段が姿を現す。十四世紀からここにあるらしい、クリスマス・ステップと名付けられたその階段を下りて少し歩けば、外套がいとうを着て馬にまたがった銅像に出くわす。
 そのほど近く、そろそろ街の中心に近づいて活気が出てくるかな、というあたりのところに、その小さなゲームショップ〈エイト・ビット・ワールド〉はある。
 ショーウィンドウの中では、紫外線で色あせた数年前のポスターの隣で、人気キャラクターのぬいぐるみが埃をかぶっている。手が回らずそのままにしてきたが、今日こそはどうにかしたい。
 そのためには、やはり、彼女と話をしなくてはならない。
 決意を固めて眼鏡を指で押し上げると、俺はドアを開ける。
おはようございますグッド・モーニング、ブーディシアさん」
 レジカウンターの安い椅子に座った彼女は返事もしないまま、気怠けだるげにこちらに視線を向ける。きついり目の中に浮かぶ、灰色がかった青い瞳が俺を捉えて、高い位置でざっくりと結んだ長い金色の髪が、差し込む日の光で透ける。
 彼女がこちらを見るたび、サバンナで水を飲む美しいライオンと目が合った動物写真家のような気持ちになる。俺は悟られないように心のなかでそっとシャッターを押して、それからおそるおそる話しかける。
「掃除、終わりました?」
まだノット・イエット
 俺がたずねて、ブーディシアが答える。いつものやり取りだ。しかし毎回こう聞くことにしてはいるものの、彼女にとって、まだ、というのは、これからやる、という意味ではないのだ。
 俺はバックヤードに行って、はたきを取って戻ってくる。
 彼女はレジカウンターに頬杖ほおづえをついて、ぼーっとしている。俺は小さくため息をつくと、これからの展開をだいたい予想しながら、声をかける。
「ブーディシアさんも、掃除、しませんか」
 そう切り出すと、ブーディシアの鋭い目が俺を射抜く。それから眉をきゅっと寄せると、白い歯が規則正しく並ぶ口を開いた。
「はあ? いちいちうっせーな」
 そしてそのまま、噛みつくように言葉を続ける。
「お前あたしのおかんマムかよ。その割にはパイのひとつも焼いてもらったことねーけどな」
「はあ、パイですか。料理は好きですけどね」
 今回はそう来たか、と思いながら、俺は言葉を返す。
「そういうことじゃねーよ。日本人ジャパニーズ機知ウィットがなさすぎ」
「その理屈だと、イギリス人ブリティッシュは掃除が苦手ってことになりますね」
「なんだそれ意味わかんねー」
「どっちも過度な過度な一般化オーバージェネラリゼーションでしょう」
「……ヨシ、お前、マジでムカつく」
「それはお褒めの言葉コンプリメントをどうも。それじゃ、ブーディシアさんは棚をお願いしますね」
「やらねーよ。それに、名前で呼ぶなっつってんだろ。ブーでいいよブーで」
 彼女は俺の話は聞かずに、自分の要求リクエストだけを一方的に突きつけてくる。確かに以前にも同じことを言われた。しかしなんとなく否定的で、呼びにくいニックネームではある。
「ブーディシア、いい名前だと思いますけど」
「やだって言ってんの!」
 彼女は腕を組んで口をとがらせ、そっぽを向く。俺はその子供っぽい仕草に苦笑するが、まあ、本人が拒否するのに、どうしても名前で呼びたいわけでもない。
「それでは、ブーさん」
「やりゃできんじゃねーか」
「これで棚のほこりをお願いします。俺はショーウィンドウをやりますから」
 俺ははたきを差し出すが、ブーディシアは受け取らない。
「あたしがショーウィンドウでもいいじゃん。そっちのほうが楽そうだし」
「いえ、ディスプレイを入れ替えようと思っているので……ブーさん、できます?」
 このアルバイト先の先輩は、驚くべきことに、俺よりずっと店のことを知らない。
「わかったよ、棚でいいよ棚で。やりゃーいーんだろやりゃー!」
 ブーディシアは悪態を重ねながら、左手を伸ばしてはたきを引きちぎるように取る。そう、彼女は左利きだ。ガチャンガチャンと大きな音を立てて踏み台を乱暴に置くと、その上に乗って嵐のような勢いでほこりを吹き飛ばしていった。
 もうちょっと丁寧に扱ったほうがいいと思ったけれど、多分それを言うとはたきが俺の顔面に飛んでくることになるので、さしあたってはこれでよしとすることにした。
 こんなやり取りにも、随分慣れたものだ。
 はじめこそ、その可憐かれんな外見からは想像もできない強烈な口の悪さと皮肉には驚いたものだ。けれど会話の練習にはもってこいで、この一ヶ月で劇的に英語がうまくなったのは、彼女のおかげというか、彼女のせいだというところもかなりある。
 俺がブリストル大学に合格して寮に引っ越してきたのは、九月はじめのことだ。
 それまでは日本の大学にいたのだが、一度日本を離れてみたくて留学を決めた。入学できたのは、まったく奇跡というほかない。もちろん、日本の大学に比べれば入ってからのほうが格段に大変ではあるのだけれど。
 どちらかというと経済的な問題のほうが大変だった。幸い奨学金ももらえてはいるが、留学はとにかく物入りだ。そこでできる範囲でアルバイトをしようと思って見つけたのが、このゲームショップだった。初めて来た海外でいきなり働くというのはなかなかハードルが高かったけれど、見慣れた日本のゲームキャラクターがたくさん並んでいるのを見て、ようやく決心がついたのだった。
 俺が初めてこの店のドアを開けたときも、ブーディシアはレジカウンターの椅子に座っていた。輝く髪、上を向いた睫毛まつげ、透き通った瞳、小さな顔、そしてびっくりするくらい長い手足。最初は映画に出てくる女優かと思ったくらいだが、そのときは、口を開けばこのありさまだとは知らなかった。
 ちなみにファッションモデルだと思わなかったのは、真っ赤なオーバーサイズの前開きパーカーに、黒いぴったりしたスポーツ用タイツ、履き古したアンバランスなくらい大きなスニーカーというラフなちが、さすがに俺の目から見ても服に気を使っているとは思えなかったからだ。
 とはいえ論理的には、彼女が女優やモデルだという可能性も、ないわけではない。俺がこの店で働きはじめてから一ヶ月ほどになるが、彼女について知っていることはほとんどない。身の上についてわかるのは、俺が店番に入るといつもいるから、主にここで働いているのだろう、ということくらいだ。女性の、しかもイギリス人の年齢なんて正直よくわからないが、多分俺と同じくらいなのではないか、と勝手に思っている。
「なに見てんだよ」
「あ、いえ、フィギュアを持ち上げてはたきをかけないと、ほこりが取れないな、と」
 掃除をする後ろ姿に見とれていたことを悟られないように、俺はごまかす。
「いちいちうっせーな! 今やるところなの!」
 そう言い返す彼女の声は、びっくりするくらい、透明な響きをしている。叫んでも、怒鳴っても、濁ることがない。実に不思議だと、聞くたびに思う。
 怒りながらも、ブーディシアはちゃんと右手でフィギュアを持ち上げる。
「うわっ、とっ、とっ」
 ところがフィギュアは手に引っかかって棚から落ち、つかもうとしたブーディシアの右手の上を跳ねる。一度、二度、そして三度目、なんとか手のなかに収めたのもつか、今度は手を伸ばしすぎた彼女自身が、前のめりに倒れ込む。
「きゃっ!」
 受け止めようと思ったが、悲鳴が聞こえたときには、彼女はガラガラと大きな音を立てて、フィギュアと一緒に床に転がっていた。
「大丈夫ですか、ブーさん」
「お前のせいだからな! あたしに掃除させるのが悪い!」
「無茶すぎませんか、その理屈」
 ブーディシアは、白いというより透明な肌を赤らめて、理不尽な怒りをぶつけてくる。
 美人かと思えば気性が荒く、かと思えばちょっと不器用なところがあって、よく物を落としたり、たまにこうして自分が落ちたりする。ひょっとしたらそれが自分でもわかっていて、棚の掃除がしたくなかったのかもしれない、と思い至り、俺は少しだけ反省する。いや、でも掃除はしたほうがいいのだけれど。
 ともあれ、無事でよかった。俺は床に座ったままのブーディシアを起こそうと、手を差し出す。しかし彼女はわざとそれを無視して、自力で立ち上がった。
 こうなると、ライオンというより、プライドの高い野良猫のようだ。どこか謎めいているところも似ている。俺がそれなりに忙しい勉学の合間を縫ってついついシフトを入れてしまうのも、なんだかこの人の様子が気になるからだった。それは、近所の野良猫がいる場所に足繁あししげく通ってしまうのに、少し似ている。
 俺は行き場を失った手を引っ込めて、代わりに床に落ちたフィギュアを拾う。
 ちょうどそのとき、ドアについたベルが、ちりんちりんと高い音を鳴らした。