オーバーライト――ブリストルのゴースト

いらっしゃいませハイヤ。……ああ、ジョージさん」
「やあ、ヨシくん。おはよう」
 愛想のいい笑顔と柔らかい声でそう挨拶すると、ジョージはすらりと長い指のついた手をふわりと上げた。
「うわ、嫌なやつが来た。回れ右して帰れパセリ野郎」
「ご挨拶だね、ローストビーフちゃん」
「うっせー、誰が肉だ。てめーを焼くぞ」
 ジョージはこの店の常連客だ。常連といっても、日中ふらりと来ては、特になにを買うわけでもなく、こうしてブーディシアと言い合いをして去っていく。
 高い背を生地のいいスーツで包んだいかにも英国紳士といった外見で、上からレインジャケットを羽織った気取りすぎないところもかえって洒落ている。穏やかな口調と優雅な身のこなし、そして柔らかい眼差まなざしは、なんだか大きな犬を思わせる。そういう意味では、ブーディシアとは対照的な人だった。
 ブーディシアはなぜかいつも嫌がっているが、俺としてはジョージから世間話を通じてイギリスの様子を知るのは、今やここに来る楽しみのひとつでもあった。
「あーもう、なんであたしの周りはこんなのばっかなんだよ」
「シンデレラ読んだことないのかい? 態度の悪い姉は王子様とは結婚できないんだよ」
 ブーディシアの当たりの強さもひどいものだが、ジョージの切り返しもなかなかだ。様子から察するに、古い知り合いか親しい友人なのだろう。
「そっちこそ知らねーようだな。いじわるおおかみは赤ずきんにぶっ殺されるんだぜ」
 ブーディシアはニヤリと笑うと、赤いパーカーのフードをかぶって爪を立てる仕草をする。どう見ても赤ずきんとおおかみが混ざってしまっている。
「そんな暴力的な話でしたっけ」
「そうだよ。だからずきんが赤いんだろ」
「絶対に違いますよ」
「あ、そういえばさ。さっき入ってくるとき見たんだけど」
 ジョージは思い出したように親指で肩越しにドアを指差す。
「店のガラス、落書きされてたよ」
「え、本当ですかリアリ―?」
本当さリアリ―
 俺は急いで外に出ると、ショーウィンドウを見渡す。
 落書き? そんなものあるわけがない。だってさっき俺が来たときには……。
 しかし、確かにジョージの言う通りだった。
 ガラス窓の右下。その隅に、青緑色の不気味なガイコツが描かれていたのだ。
 大きな帽子をかぶったガイコツは、ボートの上で、やりのようなものを振り上げている。その表情は、なんだか笑っているように見えた。サイズはだいたい広げた手の平におさまるくらいだろうか。小さいが、精巧な絵だった。
「こんな絵、いつの間に……」
 俺が片膝をついてその落書きを観察していると、左からガシャリとドアを開ける乱暴な音がした。
「これか。……ナメた真似まねしやがって」
 店から出てきたブーディシアは俺の隣にかがむと、握った左手を伸ばしてガイコツをノックするように叩いた。てっきり激怒するものと思っていたが、意外に落ち着いた様子だ。急に顔が近づいてきて肩が触れたので、俺はどぎまぎしながら半歩右にずれる。
「いったいなんでしょうね、この絵」
 奇妙だった。突然出現したとしか思えない。論理的には、そんなはずはないのだが。
 ブーディシアは無言で俺を見る。ぱちぱちと数度まばたきするのにしたがって、長い金色の睫毛まつげが上下した。
「……あのさ、悪かった」
「え?」
機知ウィットがないって言ったの、気にしたんだろ。真面目はお前の取り柄だよ、うん。こう言っちゃなんだけどさ、その冗談ジョーク、マジでつまんねーからもういいって。ごめんな」
 話が見えない。どういうことだろう。
「いや、別に冗談ではないんですけど」
「こんなのよくあるグラフィティだろ」
「グラフィティ」
 突然登場した思いもかけない単語を、俺は思わずそのまま繰り返してしまう。
「……マジでシリアスリー? グラフィティ見たことねーの? そんなことあるかよ」
「聞いたことはある気がするんですが……」
 俺は正直に答えるが、ブーディシアは納得がいっていないらしい。
「いっぱいあるだろその辺に! スプレーとかでさ、こう、シャシャって!」
 少し考えてみたけれど、心当たりはなかった。
「ローストビーフちゃん、その説明じゃ、ヨシくんもわからないと思うよ」
 そんな声が聞こえてブーディシアの肩越しに目をやると、ジョージが笑いながら店内から出てくるところだった。
「どう考えても目に入らねーほうがおかしい!」
 立ち上がってブーディシアが言うと、金色の髪が遠心力でさらりと揺れた。しかしジョージはそんな反論も意に介さない。
「気にしていなければ、そんなものだよ。むしろ僕は、興味を持ってくれたことのほうをうれしく思うね。いいかい、ヨシくん。グラフィティっていうのはね……」
 まるで水を得た魚のように、ジョージはグラフィティについて嬉々ききとして語りはじめる。
 スプレーやペンを使って、街の壁などに書くアートであること。
 最初は本当に落書きだったこと。
 70年代に本格化し、90年代にピークを迎えたこと。
 ニューヨークを中心に、世界中で発展したこと。
 本来はヒップホップ・カルチャーの一部であること。
 多くの場合、犯罪であること。
 そのほとんどすべてが、俺にとっては、未知の情報だった。
「グラフィティはね、自分のニックネームを落書きするところから始まって、その文字がどんどん派手になっていったというのが定説なんだ。だから〈描くドロー〉でも〈塗るペイント〉でもなく、〈書くライト〉って動詞を使うんだよ。グラフィティを書く人も〈ライター〉だね。敬意を込めて、グラフィティ・アーティストっていうこともあるけれど」
 百科事典のように情報をすらすらと並べていくその知識と教養に、俺は圧倒される。
「ジョージさんはグラフィティが好きなんですね」
「グラフィティに限らず、アートは何でも好きだよ。小さい頃からね。ブリストル美術館は僕のホームみたいなものさ」
「ずいぶんカビくせー家だけどな」
「美の追求の歴史を馬鹿にしたものじゃないよ。もう少し敬意を払いたまえ」
「でさ、ここブリストルは、そのグラフィティの聖地なんだぜ」
 ブーディシアはジョージの言葉を無視しつつ、得意げに腰に手を当て、胸を張った。ジョージは特に気を悪くすることもなく、うなずいて続けた。
「グラフィティが有名な街なら幾つもある。ロンドンだってそうだし、パリやメルボルン、それにベルリンの壁の跡だってそうさ。でも、このブリストルは、グラフィティの世界ではもっとも有名なアーティストを輩出している。そういう意味では、特別な場所なんだよ」
「もっとも、有名な……」
「そ。あいつだよ。バンクシー」
 反応しない俺を見て、ブーディシアはやれやれといったふうに腕を広げる。
「知らねーって顔してんな」
「いや、まあ……」
 言いよどむ俺の様子を見て、芝居がかった調子でジョージが説明する。
「バンクシー。神出鬼没の覆面アーティスト。その正体は誰も知らない、謎めいた存在さ。わかっているのは、ブリストル出身だということだけ。にもかかわらず、彼の作品は世界中で高く評価されている。世界最大のアート・オークションのひとつ、サザビーズで落札された彼の作品が、いったい幾らになったと思う? 100万ポンドさ」
「ひゃく……まだ生きている人ですよね?」
 日本円にするなら、おおよそ1億5000万円。想像を絶する額だ。
「そう、そこがバンクシーのすごいところさ。価値を創り出す天才だよ。でも本当にすごいのはここからだ。なんと彼は、落札直後にその作品を……」
「あー、もういいよ。ジョージはホント、バンクシー好きな」
 もう飽きた、というふうに、ブーディシアが遮る。俺が聞くのは初めてだが、きっとふたりにとっては何度もしているやり取りなのだろう。
「そりゃそうさ。あんなインパクトを持った存在は、美術史上でもまれだよ。アンディー・ウォーホルやマルセル・デュシャンにも比肩する。ブリストル出身なら、ダミアン・ハーストと並ぶ双璧さ。僕は彼と同じ街に生まれたことを誇りに思うね」
 そんな存在が、今自分がいる街で暮らしていたとは、なんとも不思議な感じがした。
「ひょっとして、これもバンクシーだったりします?」
 俺はグラフィティを指差して、一応聞いてみる。
「いや、さすがにねーな。あいつはもう、この辺には住んでねーし。ま、ブリストでもたまには書いてるみたいだけどさ」
 答えは予想通りだったけれど、もしこれが本当にバンクシーでも、俺はきっと気づかないだろうなと思った。
「なににしても、ここに書かれるのは迷惑ですよね」
「さすがの僕も、これはアートというほどでもないと思うかな」
 ジョージは口の端を下げ、肩をすくめる。
「まったくだ。消させてやりてーとこだが……」
 俺はブーディシアの発した言葉になにかひっかかるものを感じて、その違和感をゆっくりと手繰り寄せる。
「ブーさん」
「なんだよ」
「ひょっとして、犯人が誰か、わかっていたり、しません?」
「な……」
 彼女は信じられない、といった顔で、俺を見る。俺はその表情を見て、自分の推測が正しかったことを確信する。
「俺はどうやって消そうか、と思っていました。事故か災害みたいなもので、誰かがやった、という意識がなかったので。でも、ブーさんは違った。消させてやりたい、と言いました。やろうと思えば犯人まで辿たどりつける、のではないかな、と」
「くそっ、細けーとこばっか気にしやがって。バラの品評家かお前は」
 ブーディシアの妙に洒落しゃれた罵りを聞いて、ジョージが大声で笑った。
「鋭いね、ヨシくん! 君の負けだよブー。これはもう、話さないわけにはいかないんじゃないか?」
「どうなんですか、ブーさん。誰がやったんですか」
 俺は聞いてみたかった。こんな、いつ書いたかもわからないグラフィティの犯人を、果たして特定できるものだろうか。
「あー、もうしょーがねーなー。……言っとくけど、全部はわかんねーぞ」
 気乗りしなさそうに、ブーディシアはそのグラフィティを指差す。
「いいか、よく見ろ。グラフィティは普通スプレーで書くんだが、こいつはスプレーで直接書いたんじゃねー。それにしちゃ細かすぎるだろ」
「確かに」
 俺は眼鏡を直し、顔を寄せて確認する。
「ほら、ここ。ちょっとボケてる。切り抜いた型紙を使って、上からスプレーを吹いてんのさ。ステンシルってやつだな」
「そうか、それなら一瞬で書けますね」
 答えがわかればシンプルだ。だが、シンプルであるからこそ、驚いた。そんなこと、考えもしなかったのだ。
「多くのグラフィティは犯罪だからねえ。のんびり書いていられないのさ。素早く書くテクニックはいろいろあるんだ」
 確かに、書かれた方は迷惑極まりない。器物損壊ヴァンダリズム、ということになるのだろうか。
 ブーディシアは、改めてガイコツのグラフィティに顔を近づける。
「こいつ、絵はそこそこうまい。この調子なら100は書いてる。ここまで書けるやつはブリストルでもそうはいねー。でも細かいところのペイントの入り方が甘いんだよ。絵そのものの技術と釣り合ってねーんだ、ステンシルは本来の作風スタイルじゃねーんだろうさ。このツヤなしマット低圧ロープレッシャーは、多分モンタナ。それは普通にしても、色がベリル・グリーンってのが妙だ。ステンシルは黒とか赤で書くことが一番多い。わざわざこんな色を使うのには理由があるだろうな」
 情報量が多すぎる。身構えて聞いていたつもりだが、反芻はんすうしてみても半分もわからなかった。
 それでも、最後の言葉は気にかかる。
「理由、ですか」
「あらかた誰かにステンシルを渡されて、この色で書いてこいって命令されたんだろ」
「複数犯、ということですか?」
「ああ。ひょっとしたら二人組かもしれねー。ひとりがステンシルを押さえて、ひとりがスプレーを吹く。そっちのほうが速く書けるからな」
 俺はなるほど、と感心した。このグラフィティから、そこまでのことがわかるなんて。
「すごいですよ、ブーさん。まるでシャーロック・ホームズじゃないですか」
 せっかくイギリスに来るからと読み込んでいた小説の主人公の名前が、口をついて出てしまう。
「ほ、ホームズ? いや、そんな、こんなの誰でも見りゃわかるし……」
 ブーディシアはそう言いながら右手をポケットに突っ込んで、左手の指先でパーカーの紐をくるくると巻く。うつむき気味に目線を外して口をとがらせる表情を見て、俺は、こんな顔もするんだな、と思った。
「ブーがホームズなら、さしずめヨシくんがワトソンといったところかな。顧問探偵コンサルタント・ディテクティブならぬ、落書き探偵グラフィティ・ディテクティブというわけか。なかなかいいコンビじゃないか」
 ジョージはどこか満足そうに、ブーディシアと俺を順番に指差した。俺にワトソンほどの存在感があるかはともかく、ブーディシアの洞察力に驚いたことは確かだ。
「で、犯人は誰なんです」
「しつけーな。言ったろ。あたしも全部はわかんねーって」
「ごまかさないでください。突き止める方法はあるんでしょう」
「なんであたしを問い詰めてんだよ!」
 犯人が誰かも気になるが。
 なにより気になったのは。
 この、バイト先の美人だけれど態度の悪い先輩が、いったい何者なのか、だった。
「いいから教えてください」
「あーもう! わかった! わかったよ」
 ブーディシアは両手を上げて言った。多分〈まいった〉と〈もうたくさんだ〉の両方の意味合いがあるジェスチャーだろう。
「ま、ナメられっぱなしってわけにもいかねーからな。落とし前つけさせるのも悪くはねーか」
「じゃあ……」
「ああ。これをやったやつをシメに行く」
 俺は内心、小躍りした。
「そうと決まれば、君たち、今すぐ行くしかないね」
 ジョージは新しいおもちゃを手に入れた子供のように微笑んだ。
「でも、さすがにまだバイト中ですから……」
「あー、もう融通効かねーな。そういうときはな、イギリスじゃこうすんだよ」
 ブーディシアは店の中に入り、そこにあったペンで適当な紙になにかを走り書きすると、すぐに戻ってきて、手に持った紙をテープでドアに貼った。
「これでよし」
 そこにはめちゃくちゃな字でなにかが書かれている。
「……なんて書いてあるんです?」
「は? 読めるだろ!」
「いや、ちょっと……」
 俺は顔を近づけてみるが、いっこうに読めない。想像を絶する字の汚さだ。イギリス人は概して字にこだわりがないが、それにしてもひどすぎる。
「これは〈ランチ休憩! 一時間で戻ります〉だね」
 不満そうなブーディシアをよそに、ジョージが横から読み上げる。
 確かに、どこかでそんな張り紙を見たことがあった。まさか、そんな自分勝手な理由だなんて。もちろん全部が全部そうではないのだろうけれど、一時間後に行っても開いていないことがあった理由はわかってしまった。
 というか、読めないと張り紙の意味がないのでは。
 あらゆる水準の適当さに俺が呆然ぼうぜんとしているうちに、ブーディシアはガチャリと店のドアの鍵を閉めた。
「なにボーッとしてんだよ。行くぞ、ヨシ」
「いやはや、ブーが人の言うことを聞いて動くとはねえ」
 ジョージは笑いをこらえながら、俺たちを交互に見比べる。
「あたしが言うこと聞いてんじゃねー。ヨシが人の話を聞かねーんだよ」
「これ以上ないほど耳を傾けてますけど」
「そういうとこだよ! そういうとこ!」
「ま、犯人がわかったら、ぜひ教えてくれたまえ。それじゃふたりとも、幸運を祈るよグッドラックー」
 手を振るジョージを後にして、悪態をつきながらも、ブーディシアは歩き出す。俺は彼女に置いていかれないように、後に続いた。
 いったい、これからどこに行くのだろう。
 なにが起きるのだろう。
 俺はこの奇妙な体験に、心が躍るのを感じていた。
 まるでガイドについて未知の世界に分け入っていく冒険家みたいに、俺は意気揚々と、ブーディシアの背中を追いかけていった。