オーバーライト――ブリストルのゴースト

「あの、ブーさん」
「あ?」
「これは無理です、やめておきましょう」
 無言のブーディシアの後ろを20分ほど歩いて、ついたのは画材店だった。
 画材店といっても古びた感じはなく、大きなガラス窓から店内がよく見え、明るい色の木の棚に商品が整然と並べられた、洒落た雰囲気の店だった。
看板には、四角く黒い文字でこう書かれている。
さあ、この街をアーティストで満たそうレッツ・フィル・ディス・タウン・ウィズ・アーティスツ
 大きく書かれたそのメッセージは、立ち並ぶショップのなかでもひときわ目立っていた。実に力強いフレーズだ。まさかこれが店名ではないとは思うが、看板はほとんどこのメッセージで埋まっている。
 俺は迷いなくガラスのドアを開けて入っていくブーディシアに続いて、店内に入る。
 店の中の空気は、絵の具の匂いがした。棚には見たこともないようなさまざまな画材が並んでいる。そのすべて、ひとつひとつに異なる用途があるのだと思うと、圧倒される。
 見慣れないものばかりの店内に、俺はひとつ、見覚えのあるものを見つけた。
 94、と書かれた、スプレー缶。
 そう。
 あの日拾ったのと、同じものだ。
 ただ、違うのは、その量だ。
 同じ数字が書かれた銀色の筒が、棚に大量に並んでいる。何列にも渡って一面を埋め尽くしていて、まるでそれ自体が壁になっているようだ。
 よく見ると、缶の上の方にそれぞれ違う色がついていた。
「これって……」
「ん? スプレーだよ。グラフィティに使うやつ」
 俺が不思議そうな顔をしているのを見て、ブーディシアが説明する。
「幾つあるんですか?」
「189色」
「ええっ」
 想像よりずっと多い数に、俺は驚く。俺が知っているのは、子供のころ買ってもらった色鉛筆の24色が最大だ。そもそもそんなにたくさん色の名前を言える気がしない。
「94だけだぞ。モンタナだけでもハードコアとかウォーター・ベースド入れりゃもっとあるし、あっちにはベルトンもフレイムもある」
 言っていることはよくわからなかったが、とにかくたくさんあるということだけは、十分すぎるほどに伝わってきた。
 ブーディシアは迷うことなく、レジカウンターのほうに歩いていく。
 行く先に目を向けると、スプレーで埋め尽くされた棚とレジカウンターの間に、屈強な男が立っていた。
 きれいに剃り上げられたスキンヘッドが、陽光にさらして溶けたチョコレートのようにつやつやと輝く。分厚い胸の前で組まれた腕は隆々と盛り上がり、競走馬の力強い筋肉を思わせる。色の濃いサングラスをかけていて、その目線はうかがうことができない。
 それを見て、俺はすべてを察する。
 この男が落書きをした犯人だ。
 これからこの男を追及して謝罪させ、グラフィティを消させるのだ。
 そんなこと、可能だろうか? 向こうが拳を突き出せば、ブーディシアは壁まで吹っ飛ぶだろう。それが俺でも同じことだ。
 そこで俺は、無理です、と声をかけたのだった。
「さすがのブーさんでも勝てませんよ。いいですか、格闘戦というのは体重差が……」
「ちげーよ。っていうかさすがのってなんだよ。お前あたしのことレスラーかなんかだと思ってんの?」
 どちらかというと猛獣だ、と、思ったが、黙っておくことにした。
 そんなやり取りをしていると、こちらに気づいたサングラスの男が口を開く。
「……ブーディシアか? 驚いたな。君が顔を見せるとは」
 男の声は想像したよりずっと静かで、深く響いた。言葉通り驚いているとは思えないほどだ。
 男がブーディシアの名前を呼ぶのを聞いて、俺は自分の心配が杞憂きゆうだと理解する。
 彼らは知り合いなのだ。
「うっせーアイオン。相変わらずでけー図体ずうたいしやがって。名前で呼ぶなって言ったの忘れたわけじゃねーだろ」
 ブーディシアはいつもの調子で食ってかかった。言い回しこそきついものの、その声は俺やジョージに対してよりも、幾分か柔らかいように思える。
「君には似合っていると思うがね」
「てめー、やる気か」
違うネガティブ。単に物事を肯定的に解釈しようという話さ」
 アイオンと呼ばれた男は、眉を動かさないまま薄く笑う。色の濃い肌と白い歯のコントラストが眩しい。体重差以上に、そこにある不思議な余裕のようなものが、勝てないと感じさせる。背骨に鉄柱でも入っているのかという姿勢のよさには、ショップには不釣り合いな雰囲気さえあった。
「どーだかな。まあいいさ」
 ブーディシアは適当に話を流すと、隣の俺を指して、親指を軽く振った。
「アイオン、こいつヨシ。バイト先の日本人ジャパニーズ
「ヨシサン、コンニチハ。ワタシハ、アイオン、デス」
「え?」
 先に音が頭に入ってきて、後から意味が焦点を結ぶ。それは日本語だった。しばらく話していなかったから、認識が遅れる。俺は慌てて日本語で返事をする。
「俺はヨシです。はじめまして、アイオンさん。……お会いできて嬉しいですナイス・トゥ・ミート・ユー日本語、大変お上手ですねユー・スピーク・ジャパニーズ・ベリー・ウェル
 途中から英語に切り替えると、アイオンも英語に戻して満足そうに言った。
「ゼンに興味があってね。キョートとカマクラには何度か足を運んだ」
「いかつい顔のくせに、スピリチュアルなのが好きなのさ」
 けらけらと笑ってからかうブーディシアとは逆に、俺はむしろ納得する。その動じない振る舞いが、いかにも禅といった趣だったからだ。
「こう見えて私もライターの端くれでね。書いているのは地味なグラフィティばかりだが」
 意外、ではなかった。明らかに画材店の店員だけやっていてはつかない筋肉に覆われてはいるものの、壁のようなスプレーの前にたたずむさまは、実に馴染なじんでいたからだ。
「なにが端くれだよ! こいつのストローク・コントロールはすっげーんだぜ。高圧ハイプレッシャー使わせたらブリストルでも右に出るライターはいねーよ。もうホント、ゼンって感じ!」
「ありがとう、ブーディシア。しかし私はただ、問いの答えを見つけようとしているだけさ。壁に向かってね」
 急にはしゃぎはじめたブーディシアに対して、アイオンはあくまで穏やかにそう告げる。
「哲学的ですね」
「単純な話だ。アートは問いの連なりだからな」
「答え、ではなく?」
「答えはすぐに問いになる。同じことだ」
「なんだよーお前らー! 勝手に盛り上がんなよー!」
 話についていけなかったのか、ブーディシアは両手でドンドンとカウンターをたたく。子供っぽい仕草に、アイオンは微笑ほほえみながら声をかける。
「ブーディシア、君も瞑想めいそうを試してみるといい。気持ちが落ち着くぞ」
「うっせー! あたしが悟りを開いたら、てめーら真っ先に涅槃ニルヴァーナたたんでやるからな!」
「はは、それはありがたい」
「ブーさん、涅槃ねはんは地獄じゃありませんよ。どちらかというと天国寄りの概念です」
うそつけ! あんなに暗いバンドが天国なわけあるかよ!」
「まあそこは、気にするなネヴァーマインド、というくらいですから……」
 あらゆる水準でひどい発言に目を白黒させていると、アイオンがつぶやくのが聞こえた。
「君たちは仲がいいな」
「は? ばっかお前なにいってんの? 今のでなんでそうなるんだよ。サングラスかけてると耳まで遠くなるんじゃねーの」
「まあ、そういうことにしておこう」
 アイオンは笑いまじりにそう言うと、仕切り直すようにパンと手を打った。
「さて、ブーディシア。なにから買うんだ。まとめて買うなら安くしておこう。ずいぶん待っていたぞ」
 待っていた? どういうことだろう。考えられる状況を数えるより先に、ブーディシアの鋭い答えが返る。
「勘違いすんな。……うちの店にグラフィティ書いたやつがいるんだよ。正直、関わりたくはねーが、放っておくわけにもいかねー」
「君がいるとわかってやったのなら軽率だな。まあ、おおかた偶然だろうが」
 俺はその言葉の意味をしばし考えてみて、それから質問した。
「あの……どうして店にグラフィティを書くのが軽率なんですか」
いい問いだグッド・クエスチョン、ヨシ」
 アイオンは人差し指で俺を指して、うなづく。
「グラフィティには競争という側面がある。多くのライターは主な活動エリアが決まっていて、中には縄張り意識を持つ者もいる。他のアーティストの縄張りだとわかってわざとグラフィティを書くなら、それは宣戦布告と受け取られる場合もある」
 そんな文化があるとは知らなかった。そしてこの情報は、おのずからもうひとつの事実を明らかにする。
「ということは、ブーさんもライターということになりますね」
「げっ」
「それも、けっこう有名なんじゃありませんか?」
 考えると、つまりそういうことになる。
「なんだ、ブーディシア。話していないのか」
「うっせーな。……つまんねー話をする趣味がねーだけだ」
 なんとなくその反応は予想していたが、アイオンの次の言葉は、さすがに意表を突くものだった。
「有名どころじゃない。そこのお嬢さんは、一級のグラフィティ・ライターだ。このあたりで〈ブリストルのゴースト〉の名前を知らない者はいないさ。誰もがささやいている、やつは天才だとね」
 ブーディシアは、冷蔵庫の隅に腐ったリンゴを見つけたような顔をしている。しかしアイオンは旅先のレストランの話をするときみたいに、満ち足りた表情で続けた。
「グラフィティは競争でもあると言ったが、そこには絶対の不文律がある。それは〈上書きオーバーライトするときは、より手のかかった、あるいは優れた作品を書く〉というルールだ」
上書きオーバーライト……」
「そう、街の壁の数などたかが知れている。埋まれば上から書くしかない。より手をかけて、より素晴らしい作品を。そうして競い合いグラフィティは発展してきたというわけだ」
「アイオン、てめーいい加減に……」
「ブリストルのゴーストは、上書きオーバーライト専門だ。下手なグラフィティを記せば、闇から現れ、そして……」
 アイオンの言葉は、それ以上続かなかった。
 ブーディシアが、バン、とカウンターを左手でたたいたからだ。
 カウンターに置かれた小さな花瓶が揺れて倒れそうになるのを、アイオンは眉ひと一つ動かさずに受け止める。花瓶に差された赤い花が、ぐるりと揺れた。
「行儀がよくないぞ、ブーディシア。やはり君には瞑想めいそうを勧める」
 そっと花瓶を立てながら、アイオンはたしなめる。ブーディシアの行動に驚いた俺とは違って、落ち着き払っていた。
「てめーが黙らねーのが悪い。それに……頭なんていつだって空っぽだよ」
 ブーディシアは我に返ったのか、気まずそうにポケットに両手を突っ込んで、目を逸らしながらつぶやき、それから、付け加える。
「……うちの店が落書きされたって言ったろ。94モンタナのベリル・グリーンだった」
「ベリル・グリーンだと? それは……」
「ああ。まず間違いねー。あいつらが動いてる。……アイオン。最近ベリル・グリーンのスプレーを買ったやつはいるか」
 俺はそこまで聞いて、ようやく思い至る。
 アイオンが犯人でないなら、ブーディシアはなぜここに来たのか。
 決まっている。情報を得るためだ。犯人についての。
「顧客のプライベートをさらすわけにはいかないな」
「ったく、協力する気ねーのかよ」
「心当たりは一切ないが……腹が減ったな。ベアー・ピットのブリトーが食べたい。それと」
 アイオンは、太い腕を組んで、白い歯を見せた。
「グラフィティを消すなら、溶剤ソルベントがいるのではないかね?」
「はっ、食えねーチョコレート野郎だ」
肯定アファーマティブ。私は優しいスウィートんだ。特に優秀なアーティストにはね」
「うっせー」
 褒められているのに、ブーディシアは喜んでいるようには見えない。嫌そうな顔をしながらコインを取り出すと、バラバラとカウンターの上に置いた。
「そらよ。溶剤寄こせ」
ありがとうセンキューよい一日をハブ・ア・ナイス・デイ
 アイオンはわざと定型句を述べて、まるでカクテルを客に出すバーの店主のように洗練された手付きで、溶剤をカウンターの上に置く。
 ブーディシアは左手でそれをひったくるようにしてつかむと、きびすかえした。
「行くぞヨシ」
「えっ、どこにです?」
「決まってんだろ。ベアー・ピットだ」
 溶剤を片手に、店を出たブーディシアはずんずんと歩みを進めていく。俺はやや小走りになって並ぶと、横から話しかける。
「……アイオンさんって、何者なんです?」
「何者って、ライターだろ」
「そうじゃなくて。只者ただものじゃない感じだったので」
「知らねーよ」
「え、知り合いだと思っていました」
「そうだけど、あいつのグラフィティがあいつだよ。それ以外は興味ねー」
 その言葉に、俺は少し面食らってしまう。アーティスト、いやグラフィティ・ライターというのは、みんなそういうものなのだろうか。
 俺は歩みを緩めないブーディシアについていきながら、街に目を向けてみる。今まで落書きとしか思っていなかったが、確かに注意して見てみると、色も形もさまざまなグラフィティが、さまざまな場所に書かれている。
 しかし。
 あの霧の日に出会ったグラフィティには、なんというか、なにも知らない俺をも圧倒するような迫力があった。このあたりで見かけるものは、なんとなく書いてみました、という感じで、そういうパワーがほとんど感じられない。
 グラフィティ、といってもいろいろあるのだろうが、比べるとどうにも物足りない感じは否めなかった。
「……やっぱり、アートって感じじゃないけどな」
「ヨシ、なんか言ったか」
「あ、いや」
「今、馬鹿にしたろ」
「してません。単に思わずちょっぴり疑問が口から出ただけです」
「お前、意外と正直だよな……」
 いつもの皮肉も忘れるほどだったのか、ブーディシアはストレートにあきれる。
「取り柄のひとつということにしてください」
「ふん、いいさ。ま、お前の言ってることも間違っちゃいねー」
 ブーディシアは立ち止まると、ちょうど壁に書かれていたグラフィティに拳を当てた。
「あたしに言わせれば、こんなのは三流だ」
 そして、ニヤリと笑う。
「ちょうどいい。本物のグラフィティを、見せてやるよ」