昼休み、水崎は「他クラスの偵察」とやらでどこかへ消えてしまった。俺は同行する理由もなく、自席で弁当箱を広げる。自分で詰めてきたこだわりの弁当。といっても、その半分を占めているのはミニトマトである。
ところでミニトマトは、農業の歴史が辿り着いた一つの到達点だと思う。
その薄い皮の内側には自然の奇跡と人類の英知が詰まっている。爽やかな酸味と飽きない甘みのバランス。よく水を弾く皮は洗いやすく、それでいて食べやすい。一口サイズだから刃物もいらず、手を汚さずに食べられる。直売所で買えば値段も手頃。水耕栽培やハウス栽培の発達によって年中購入することが可能だ。
一粒をぷちっと噛みながら、俺はその細胞に織り込まれた遺伝情報に思いを馳せる。アンデス山脈に自生していた、小さな実しかつけない祖先。味もきっと酸っぱくて渋かっただろう。それを人類が栽培化して、代を重ねながら少しずつ自分たちの好みへと改良していった。生物の遥かな進化の歴史と、人類の長い努力の歴史が、この一粒一粒に刻まれている。その奏でるシンフォニー! 太陽を浴びた植物が、光合成という巧妙なシステムによって得たエネルギーを使い、数多の遺伝子を動員することで、気の遠くなるような工程を経て、多様な物質を生み出しているのだ。それが舌の上で味と香りの絶妙なバランスを実現している。人類が一からこの仕組みを再現することなど到底できまい。奇跡と言わずして何と呼ぶのか!
「ミニトマト、好きなの?」
突然声を掛けられ、驚いて後ろの席を振り返る。
岩間理桜が、大きな目を丸くしてこちらを見ていた。俺はすぐに視線を落とす。
「あ、ああ……まあ」
間抜けな返事をしてしまったと思い、付け加える。
「……そんなに美味しそうに食べてたか」
言ってから、岩間からは俺の背中と後頭部しか見えていなかったはずだと思い至る。馬鹿なことを口走ってしまった。
「ううん。だってすごい数。お弁当にこんなにミニトマトが入ってる人、初めて見たかも」
うっすらと日に焼けた指で、岩間は俺の机を指差した。
二段重ねになっていた弁当箱の、一方はすべてミニトマト。ちなみにもう一方には、梅紫蘇のふりかけで味付けした白米と残りのおかずがきちきちに詰められている。
「美味しいからな、ミニトマトは」
理由になっているのか分からない俺の答えに、岩間は花が咲くようににこっと笑った。
水崎の言葉を借りれば、「見たかよあのスマイル」だ。
「うん! 美味しいよね、ミニトマト」
同じ内容を繰り返されるだけで、まるで自分のすべてを肯定されているかのような気持ちになってしまう。恐ろしいほどの人心掌握能力である。
「でも、そんなにたくさん食べて飽きない? 親御さんと喧嘩したのかと思っちゃった」
どうやら岩間は、親が腹いせにミニトマトを詰めたのではないかと疑っていたらしい。しかし違うのだ。そうではない。
「いや、好きでこの量を食べてるだけだ。これでも少しもの足りない」
ミニトマトのシンフォニーについて小一時間語れる自信はあったが、控えておく。代わりにミニトマトの入った弁当箱を岩間に見せた。すでにいくつか食べてしまっているが、残りも隙間なく詰められているため、パズルのように動かない。
「すごい! 最密充填構造だ!」
想定していなかった言葉が岩間の口から飛び出してきて、困惑した。
俺の表情の変化を敏感に読み取ったらしく、岩間は慌てて両手を振る。
「あ! 私、おかしなこと言った! ごめんね、効率よく詰まってるねって言いたくて」
「そんな、別におかしいとは――」
「ということは出田くん、お弁当自分で作ってるんだ」
強引な話の切り替えにちょっとした違和感を覚えながら、俺はまあいいかと頷く。
「作ってるというほどでもないけど」
ほとんど詰めているだけだ。ミニトマトを。
「偉いね! 私、マ――お母さんに作ってもらってて」
何もおかしな会話はしていないのに、慌てて話題を変えようとしているかのようだった。
岩間の手がすっと動き、自分の弁当を開いて見せてくる。バランスよく詰め合わせられたおかずに、小さな梅干しの乗った白米。自分の弁当箱の中身を、ほとんど初めてしゃべる男にこうも自然に見せるあたり、警戒心の低さというか、人のよさというか、いい家庭で育ってきたのだろうなと邪推してしまう。
というかさっき、ママって言いかけていたか。
弁当箱を持つ指先を見ると、爪が短くきれいに切り揃えられている。武道か水泳でもやっているのだろうか。
……いけない、つい観察してしまった。自然に聞こえるよう会話を続ける。
「別に、作ってもらえるならいいんじゃないか。うちは両親とも東京に勤めてて、朝が割と早いんだ。だから自分で用意してる」
「へえ! そうなんだ! 私のお母さんは家で仕事する人だから、いっつも甘えちゃってるんだよね。高校生になったんだし、今度は自分で作ってみようかな」
言いながら、岩間は漆塗りの箸を取り出した。
家で仕事をする人とは、何だろう。プログラマー、デザイナー、ライター……自宅が店舗になるのであれば、他にも可能性はありそうだ。しかし自宅と店舗が繋がっている場合は、家で仕事をするとは言わないだろう。自宅に人を入れる個人塾などはありそうだが……。
岩間が小さく首を傾げるのが見えた。俺は目を逸らして、ミニトマトを口に放り込む。ヘタごと食べてしまったが、出すわけにもいかず呑み込んだ。トマトのヘタ特有のハーブのような香りが、ほんのり鼻腔をくすぐる。
何をしているんだ。別に興味があるわけでもないのに、岩間の家庭環境をあれこれと詮索しようとしている。まったく気持ちが悪い。
岩間は丁寧な箸使いで白米を小さくとって、口に入れる。少量をもぐもぐとしっかり咀嚼する様子は、小さく揺れるポニーテールも相俟って、どこかウサギや齧歯類を思わせた。
ポニーテールを結ぶのは、昨日も今日も同じ、装飾のない黒のヘアゴム。
「出田くんはもう、部活って決めた?」
食事の合間に、岩間の方から新しく話題を振ってきた。俺は椅子の上で身体をずらして、横向きに座り直す。
「部活は……いや、まだかな。体験入部してから決めようと思ってる」
「そっか。そうだよね。私もまだ、迷っててさ」
水崎の予想通り――というか期待通り、自然な流れで岩間と話すことになってしまった。
ちなみに岩間の左隣はやんちゃそうな男子だ。仲間とつるんでどこかに出掛けている。
「岩間さんは入りたい部活、考えてる?」
礼儀として同じ質問を返すと、岩間は「うーん」と唸る。
「そうだなあ、お母さんには運動部にしておきなさいって言われてるんだけど、私、そんなに運動得意じゃないし……」
ご謙遜を。岩間は背が高めだが、華奢ではない。骨格からして、運動は何でもこなせてしまいそうな印象だ。
「中学では? 何部だった?」
訊いてみると、岩間は口に何かが入っているわけでもないのに、少し躊躇った。
「えっとね、おかしな部活だよ。出田くん、聞いたら笑っちゃうかも」
「別に笑ったりはしない」
かくれんぼ研究会とか、お嬢様部とかだったら……笑ってしまうかもしれないが。
「ほんとに?」
そんなにおかしな部活なのか、と身構えながらも俺は頷く。
岩間はどこか後ろめたそうに、小さく口を開く。
「私……実はカガク部だったんだ。ほら、ミョウバンの結晶育てたりとか、星を見たりとか、植生調査をしたりとか……あんまり真剣に活動してたわけじゃなくて、ただのエンジョイ勢だったんだけど」
エンジョイ勢の是非はともかく、別に笑う要素なんてどこにもないじゃないか、と思う。
「へえ、実は俺も――」
化学部だったんだ、と言いかけて、違和感に気付く。ミョウバンはまだいいとして、化学部が星を見ることはない。植生調査もかなり怪しいところだろう。
「カガク部って、サイエンスの?」
「そう! のぎへんの科学部!」
科学と化学。意味が近くて発音が同じだから、たまにこうした勘違いが生じる。
「全然おかしな部活じゃないと思うけどな。実は俺も、カガク部だったんだ。とはいっても、ケミストリーの方の化学部だけど。バケガク部」
「ええーっ、そうなの?」
大きな声で反応してから、岩間ははっと口を塞いだ。
しかし俺は、その黒い瞳が、レトリックではなく本当に、きらっと輝いたのを見逃さなかった。少しこちらに身を乗り出してきたから、角度の関係で蛍光灯が反射したのかもしれない。
岩間は次の言葉を、わずかに潜めた声で言う。
「確かに出田くん、白衣が似合いそうだね」
そんなことは初めて言われた。誉め言葉のように聞こえたが、おそらく違う。むしろ「いかにもインドアっぽい」ということの婉曲表現だろう。どんな表現でも褒めているように響かせられるのは、この優等生の特技なのだと思った。
「白衣は実際に割と着てたからな。週三回の活動で、半分は実験だった」
「例えば? どんな実験?」
「面白かったのを挙げるなら……ルミノール反応とか。岩間さんは知ってる?」
「うん! 科学捜査で使う、血液があると光る反応だよね」
さすが元科学部。話が早くて助かる。
「そう。触媒反応だから、血液がかなり微量でも検出できるのが面白くて。証拠隠滅を図る犯人役と証拠を見つける鑑識役に分かれて捜査ゲームをやったりしたんだ。結局、予想通りに鑑識側が圧勝したけどね。俺たちはあれで触媒というものの素晴らしさを思い知った」
俺は鑑識役だった。犯人役の水崎が思いつく限りの方法を使って血痕をぬぐい取っても、化学の力の前には無力であった。あのときの水崎の悔しそうな顔は今でも憶えている。
気がつけば、岩間が小さく口を開いたまま、ぽかんとこちらを見ていた。
――いけない、しゃべりすぎてしまった。
一般人の前でこれをやると、こうした反応を引き起こすことがほとんどだ。ミニトマトのシンフォニーについて話したときは、水崎にすら苦笑いされてしまったことがある。
「ごめん、聞き流して」
俺が言うと、岩間ははっとしたように首を振る。
「あっ、ううん、そうじゃなくって――」
そうじゃなくてどうなのかは、遂に分からなかった。
「おやおやデルタ、まったく油断ならないぜ。デキる男は手が早いなあ!」
水崎が満面の笑みを浮かべて、岩間の隣に座ってきた。殺してやろうかと思った。
「あ、えっと……水崎くん!」
岩間が眉を上げてにこやかに応じた。
前の席ならまだしも、ほとんど教室の反対側の席に座る水崎の名前まで憶えているとは、さすが服を着て歩く優等生だ。一年C組四〇人、昨日顔を合わせたばかりである。
水崎も名前を呼ばれたことで意表を突かれたのか、岩間の前で固まった。この男が演技でなく固まる瞬間にはなかなかお目にかかることがない。
「……おう。すごいな岩間さん、クラスメートの名前、もう憶えてるのか」
「一応ね。でも水崎くんだって私の名前を憶えてくれてるよ」
「ま、そりゃあ、天下の岩間さんですから?」
なんて言いながら、水崎は普段のにやにやを取り戻して、俺と岩間を見てきた。ダークブラウンの髪色は、教室の光環境下ではほとんど黒だった。
「えっ、私ってそんなに有名なの?」
「もちのろんさ。有象無象の山の中にこうやって美しい桜が一本咲き誇ってたら、誰でも気になっちゃうものですよ。なあ、デルタ」
俺に訊くな。
話を合わせたりしないぞ、という意思表示で俺はミニトマトを頬張る。
俺が答えないのを見て、岩間はにこっと笑い水崎に訊く。
「あの、水崎くん……デルタって?」
話を逸らすのが上手い。きっとこうやって、過去にもチャラい男をかわしてきたのだろう。
しかしよりにもよってこの男が喜びそうな話題であった。
「お! いいこと訊いてくれるなあ。デルタってのは、ここにいる出田
「ええ? デルタが本名なの……?」
絶対に嘘だと分かっていながら、岩間は嫌味なく純粋に訊いた。
「そう。出田ってのは戒名みたいなものでさ。中学時代はみんなからデルタって呼ばれてたんだ。岩間さんもぜひ、デルタって呼んであげてよ」
「人を勝手に殺すな」
まったく、テキトーなことをペラペラと……。
そうこうしているうちに予鈴が鳴る。
急いで弁当の残りを平らげている間に、昼休みは終わってしまった。