「大事件があったらしいぜ」
水崎がこう言うときは、大抵あまりにも些細な出来事である。
「それは大変だな、早く帰ろう」
靴を履き替え、昇降口を出る。授業も終わり、後は帰るだけだ。
「おいおい、帰っちゃダメだ。悪かったって。昼休みのこと、まだ怒ってるのか?」
「俺はあれくらいで怒ったりはしない。でも岩間さんに対しては相当失礼だったからな」
「いやあ、そうだよなあ。失敗した。『水崎くん』って名前呼ばれた瞬間に、脳内ぱあっと桜色になっちまった」
「脳内桜色は元々じゃないか」
「まあ確かに、脳細胞の白とヘモグロビンの赤で、脳みそって薄紅色に近いんだよな」
本当に、くだらないところで弁の立つ男だ。
「反省しろよ」
「安心してくれ。だる絡みしちゃってごめんって、きちんとさりげなく謝っておいた」
割と反省していたようで、ほっとする。水崎はたまに無神経で図々しいことをする男だが、心根のところは案外きちんとした奴なのだ。
「……で、大事件って?」
俺が訊くと、水崎は急に立ち止まった。満面の笑みがこちらを見てくる。
「裏山にな、桜が二本、生えてるんだ」
「裏山?」
振り返る。校舎越しに、少し高台となった森が見える。
綱長井の街は、南が太平洋に面していて、他の三方を山に囲まれている。海から北へ行くにつれ、標高は少しずつ高くなっていく。我らが綱長井高校はその北部に位置している。校門は南の海を向いていて、校舎を挟んだ背後、グラウンドの向こうには山があるわけだ。
「そうそ、裏山。ここからは見えないけど、とにかく桜が二本あるんだぜ。隣り合って生えていて、
「よかったな」
「よかっただろ。で、この桜、なんと今が見頃らしい」
なるほど、見にいこうという話か。
「割と遅咲きの種類なんだな」
「だな。で、その桜には伝説がある――非常に興味深い伝説だ」
頷いて促す。
「二本の桜がな、花の咲く時期、それはそれはきれいなハートマークを作るんだそうだ。で、それを見た男女は――なんと必ず結ばれる」
「男女限定なのか? この令和の時代に」
茶々を入れると、水崎は少し真剣そうに首を傾げる。
「うーん、それは言葉の綾っていうか。別に男女じゃなくてもいいとは思うけどな。要するに恋愛成就ってことだ」
「水崎は、その桜を俺と一緒に見にいきたいんだな」
「ま、そういうことだ」
楽しそうな返事を受けて、俺はあえて少しの沈黙を挟む。
「……それは、告白と捉えていいのか」
「ばっ……そりゃ、デルタは大事な親友だけどさ……べ、別に俺はデルタのこと、そういうふうに思ったりとか……してるわけじゃないんだぜ?」
ということで裏山へ行くことになった。
校門を出ると、下っていくイチョウ並木の向こうに街の中心部が見える。そのさらに向こうには海。明るい太陽が波をちらちらと光らせていた。今日は天気が崩れる予報だったが、まだしばらくはもちそうだ。
並木道を下らず、裏山へと向かう脇道に入っていく。細い道だが一応舗装されていた。学校は山に囲まれているから、グラウンドの方へ何かを搬入するときにはこの道を使うのだろう。
「でも疑わしいよな。見れば必ず結ばれるなんて、ちょっと探せば簡単に反例が見つかりそうなものじゃないか?」
俺の指摘に、水崎はちっちっと人差し指を振る。
「まあな、確かに必ずってのは言いすぎかもしれない。でもここ一九年間、毎年一組は成功例があるって話だ。すげえだろ?」
「そんな胡散臭い話、誰から聞いたんだ」
「信頼できる先輩。ともかく、一九年の奇跡はれっきとした事実だぜ」
「……確率の問題だろ。有名な桜で、毎年何組も見ていれば、そりゃ一組くらいは成就するかもしれない。それに二人でそんな伝説がある桜を見にいくほどの関係なら、桜の力を借りなくたって、恋は勝手に成就しそうなものだ」
「まったくなあ、論理的すぎる男はモテないぜ」
少し肩をすくめてから、水崎はにやりと笑って俺を見てくる。
「でな、大事件ってのには続きがあるんだ」
「そうなのか」
「そうなのだよ」
インパクトを狙おうとしているのか、水崎はすうっと息を吐いて間を空けた。
「その先輩によるとな、実は今年、そのハートマークを見た者は誰もいないって話だ」
「……どうして」
「いや、それが気になってるんだけどな。どうも、形が崩れて、お世辞にもハートには見えなくなってるらしいぜ」
「残念だ」
恋愛成就の期待を胸にわざわざ裏山へ分け入って、ハートが見られなかった男女。想像してみるとかわいそうだ。むしろ恋路を邪魔されたような気分になるに違いない。
端から期待を抱かないことより、期待を裏切られることの方がよっぽどつらいものだ。
「ま、百聞は一見に如かずだ。とにかく見にいってみようぜ。面白そうじゃんか」
「ああ」
ずいずいと歩いていく水崎の案内に、俺は大人しく従った。
しばらく進むと、体育倉庫か何かの裏に出た。そこで道が広くなっていて、木のベンチまで置かれている。運動部員が休憩に使う場所だろうか。あまり使われないらしく、錆びたスチール缶や泥まみれの硬球などが隅に転がっている。
「この辺りで山に入るはずなんだけどなあ」
などと言いながら、水崎は周囲をぐるりと見回した。
そして突然、俺に向き直る。
「あ。いっけね」
なんだかわざとらしい言い方だった。
「悪い、今日はどうしても外せない用事があるんだった。また明日な」
「は?」
「絶対埋め合わせする! ミニトマト箱買いしてやるから、許してくれ。じゃ!」
水崎は片目を閉じて顔の前で手を合わせ、すたこらさっさと走り去ってしまう。しかも、来たのとは反対方向に。
急いで帰るなら、最短ルートは来た道を戻るはずなのだが、なぜだろう。そう思って来た道を振り返り――俺は水崎が突然いなくなった理由を悟る。
そしてその理由は、水崎が反対方向へ走っていったことも十分に説明し得るものだった。
道の向こうから、理由が一人で歩いてくる。
――岩間理桜だった。