逆井卓馬 新作青春ミステリ 〈理学部〉シリーズ(仮) 第1章まるごと先行掲載

「あれ、デルタくん、どうしてこんなところに?」

 岩間はスクールバッグを持っていた。帰る途中なのだろう。俺の前で立ち止まった。

「ちょっと強制連行されて……ちなみに、無理してデルタと呼ばなくて大丈夫だ」

「そう? じゃあ、出田くん」

 そちらの方がよっぽどいい。「デルタくん」という呼び方はあまり嬉しくないのだ。

「岩間さんはどうしてここに?」

「私? 実はちょっと面白そうな話を聞いて、調べにきたんだ」

 なんだか不穏なものを感じた。とても不穏なものを。

「……面白そうな話って?」

「この裏山にね、見ると幸せになれる有名な桜があるらしくて。入学の時期にだけ、猪目っていう魔除けの模様が浮かび上がるんだって! どうしても気になって、見にきちゃった」

 なるほど。少しずつ状況が分かってきた。

 名探偵でなくても、この状況が偶然によってつくられたものではないことくらい察する。

「……それってもしかすると、水崎から聞いた話か?」

「うん! よく分からないんだけど、何かのお詫びにって、猪目の話を教えてくれて」

 あの野郎……。

「出田くんも、もしかすると水崎くんから聞いてここに?」

「……まあ、聞いてというか、連れられてというか」

 ちなみに猪目とは、要するにハートマークのことである。恋愛成就なのか、魔除けなのか、どちらが本当の伝説かは知らないが、水崎は相手によって巧みに話を変えて、ここで俺と岩間を引き合わせたのだろう。まったく詐欺師の爪の垢みたいな奴だ。

「あれ、でも、水崎くんは?」

「用事があるとか言って、帰ったよ」

 俺を置いて。

「そうなんだ……水崎くんも猪目に興味あるみたいだったのに。かわいそう」

 今日のあいつが何かに興味をもっていたとすれば、その対象はきっと、俺に岩間をぶつけてみたらどんなことが起こるかという一点のみだったことだろう――などと考えながら、少し岩間の発言に違和感を覚える。

「……かわいそう? 水崎が?」

「うん。だって今夜、すごい低気圧が来て、かなり荒れる予報だよね。せっかくのお花も、全部散っちゃいそうだからさ」

「なるほど、今日を逃したらチャンスはないってことか」

 ここまで話して、なんとなく、あくまでなんとなく、俺は非常に不都合な展開を予期していた。タチの悪いことに、水崎は岩間に恋愛成就の話を伝えていないらしい。岩間はこの裏山の桜を、単に幸運を呼ぶ有名スポットだと思っている。

 そしてさらに悪いことに、岩間は俺も桜を見にきたと知ってしまった。

 この流れだと、岩間は――

「じゃあせっかくだし、出田くん、一緒に見にいかない?」

 楽しそうに、例の「見たかよあのスマイル」を浮かべる岩間。

「あー……」

「あれ、もう帰るつもりだった?」

「いや別に、そういうわけではないんだけど」

「じゃあ行こうよ! 高校生活、幸先よくしたいじゃん!」

 高校生活、幸先よく……か。

 断りづらかった。というか、断るための理由がない。ここであえて恋愛成就の話をもち出して、「二人だと気まずくなるから」なんて、俺に言えるはずがないのだ。

 すべては水崎の狙い通り。あいつはきっと、日陰者の俺にこれだけ眩しい日光を当てたらどうなるか想像して、きっとどこかでわくわくしていることだろう。

 考える。

 そうすると――これはむしろ、何もないことを証明してやるチャンスではないだろうか。

 俺の生き方はこの程度じゃ揺るがないのだと、あいつに示してやればいい。

「まあ、そうだな。せっかくだし見にいこうか」

「うん! 探しにいこう、幸せの桜!」

 岩間はそう言うなり、待ちきれないように山道へと入っていく。標識などはなかったが、他に山へ登る道は見当たらない。この道でいいのだろう。

 気まずくて、俺は岩間の少し後ろを遅れて歩いた。明るい森だ。足元には去年のドングリがころころと落ちている。裏山の森は、このドングリの生産者たち――すなわちクヌギやコナラを中心とした落葉広葉樹林だ。

 秋に葉を落とすから、落葉。葉が広く平らだから、広葉樹。そういう樹木の多い林である。

 本来、温暖なこの地域は、冬になっても葉を茂らせている常緑広葉樹の林になる気候帯なのだが、人が山に入っては木を伐採してきたため、成長の早い落葉広葉樹が多くなっている。

 そして、落葉樹の森は明るい。

 葉がすっかり落ちてしまう冬は、地面まで日の光が届く。この新芽の季節は、薄い黄緑の葉が枝をまばらに飾って、空を見上げるとまるでステンドグラスを見ているような気分になる。

 桜もまた、この落葉樹だ。明るい森に栄える、日向の人気者。

「ねえ、出田くん!」

 岩間が立ち止まって、振り返ってきた。

「たくさんカタクリが咲いてる。珍しいよね。この山、多いのかな」

 まだ茶色の多い地面。ところどころに、紫がかった薄紅の花が群れている。細長い花びらが反り返って咲く様子は小さな風車(かざぐるま)のようで美しい。

「ああ。カタクリは、ここみたいな落葉樹の林に多いんだ」

 植物名を出されたものだから、自然と口が動いてしまった。

 よくない兆候だ。急いで口を噤む。完全に自覚していることなのだが、俺は語り始めると長い。付き合いの浅い人の前では、特に気を付けて自重している。

「え、どうして?」

 岩間が興味深そうにこちらを見てきてしまった。

「ごめん……話すと長くなる。気にしないでくれ」

「え、聞きたい! 歩いてる間、話してよ」

 むしろリクエストされてしまった。

 まあ、沈黙よりはマシかもしれない。俺は少しだけ話すことにした。

「片栗粉ってあるよな。料理でとろみづけに使ったりする」

「うん。料理で使ったことはあんまりないけど、ダイラタンシーの実験で三キロくらい使ったことがあるよ!」

 …………?

 なんだか奇抜な発言をされた気もする。片栗粉を三キログラムも使わなければいけない実験があるのだろうか。少なくとも、化学実験の範疇ではない気がした。

「ダイラタンシー?」

「あ、ごめんね、私おかしなこと言った! 気にしないで」

 岩間はなぜか申し訳なさそうに言って俺を促した。俺もダイラタンシーというのが何かよく分からなかったので、続ける。

「……片栗粉って、今じゃジャガイモから作られてるのがほとんどだけど、もとはこのカタクリから作られてたんだ。岩間さんなら知ってるかな」

「カタクリの根っこのデンプンが原料だったんだよね。だからカタクリ粉」

「そう。カタクリは地下茎の部分に、養分となるデンプンを蓄える植物だ。何年もかけて少しずつ蓄える栄養を増やして、種が発芽してから八年くらいするとようやく初めての花が咲く」

「八年……そんなに長生きなんだね、小さなお花なのに」

「それがカタクリの生存戦略だ」

 南向きの斜面。新芽の眩しい木の下で、カタクリは日を浴びて儚い栄華を誇っている。

 俺の口はすでに止まらなくなっていた。

「太陽の光は、まだ木に葉の茂っていないこの時期にならまっすぐ地面に届く。カタクリは、暖かくなってきてから、木が茂って地面が日陰になってしまうまでの、ほんの二、三ヶ月だけ光合成のために葉を広げるんだ」

「ニ、三ヶ月だけ? 確かに夏になると見ないけど……」

「そう。その間に作った栄養を地下茎に蓄える。木の葉が茂ってきて、地面に太陽の光が届かなくなると、カタクリは地下茎を残して枯れてしまう。そうやって長い間、少しずつ成長を重ねていく生き方だから、花が咲くまでに長い年月がかかる。夏から冬にかけて、長い冬眠をしてるみたいなものだ」

「なるほど、だから落葉樹の林なんだね」

 岩間は納得したようにぱちんと手を叩いた。

「地面が日向になる、葉っぱの落ちてるときだけ、光合成ができるから。冬からずっと葉が茂ってるような森の中だと、日陰になって栄養が溜められないもんね」

 理解が早くて助かる。

 カタクリの生存戦略は、冬に葉が落ちる森でしか成り立たないのだ。

「そう。春の一瞬しか地上に姿を現さないから、カタクリみたいな生き方をする植物はこんな呼び方をされることがある――」

「スプリング・エフェメラル!」

 岩間が答えを先に言ったものだから、驚いた。

「なんだ、知ってたのか」

「あ、ええとね、詳しくは知らなかったんだけど……ほら、生物の教科書をパラパラとめくってるうちに、そういう言葉を見かけた気がして。なんだか可愛いな、って思ってたんだ」

「すごい記憶力だ」

 教科書販売があったのはつい最近だ。俺はまだどれも開いてすらいない。

 スプリング・エフェメラル――春の儚き者。和訳の説明は、岩間には不要だろう。

 山道には細い丸太を渡した階段が続いている。歩く自分の呼吸が速くなっていることに気付き、しゃべりすぎてしまったと悟る。湧き出る言葉に身を任せるあまり、運動に必要な酸素の吸入すらおろそかになってしまったのだろう。そして気配りも、おろそかになっていた。

 物知りぶって、知識をひけらかしてしまった。しかも、ほぼ初対面の女子相手に。元科学部で、細密充填構造やスプリング・エフェメラルといった用語まで知っているのだから――エンジョイ勢を自称していたが、きっと科学の知識だってそれなりに豊富なはずだ。

 そんな相手に、俺は――

 岩間が立ち止まった。

「……どうした?」

「ごめんね、私、知ったかぶりをしちゃって……この分野、あんまり詳しくないのに」

 本当に申し訳なさそうな顔をしている。おかしなところを気にするものだ。

「知ったかぶりというのは、知らないことについて知っているふりをすることだろう。知っている用語を知っていると表明するのは何も間違ったことじゃない」

「そうかな……でも私、スプリング・エフェメラルなんて教科書で軽く流し読みしたくらいだし、カタクリの根っこだって、実際に見たことがあるわけじゃないし……」

 ちょうど手近に折れた枝があったので、俺はそれを手に取る。

「そういうことなら、前半はもう解決したわけで、後半はこうやって解決できる」

 近くの地面を吟味して、柔らかそうな土に生えているカタクリのそばに枝をずぶりと突き刺した。それを何度か繰り返し、カタクリを土ごと掘り起こす。丁寧に土を払っていくと、茎がわずかに太くなっただけに見える小さな白い鱗茎が現れた。

 岩間は俺のカタクリ採集を、目を丸くして見ていた。まあ花を掘り起こすのは少し野暮だったかもしれないが、高校の敷地なのだろうから学習活動ということで大目に見てほしい。

「これがカタクリの鱗茎――つまり地下茎だ。実際には根じゃなくて、ジャガイモと同じように茎の部分に栄養が溜まる」

 手渡すと、岩間は「ありがとう」と言いながら、ガラス細工でも触るような手つきで慎重に受け取った。しげしげと夢中になって鱗茎を見つめる。指で触り、つまむ。

「こんなに小さいんだ……」

「昔は片栗粉を作るのも一苦労だっただろうな」

 鞄からコンビニのレジ袋を取り出して、広げる。岩間から返されたカタクリはそこに入れ、空気を含ませてから口を結んだ。岩間はその一連の動作を興味深そうに眺めてくる。

「それ、どうするの?」

「持って帰って、押し葉標本にでもしておこうかと思って」

 もうカタクリの標本は家にあるので、ここで捨ててしまってもいいのだが、岩間の前でそれをやるのは気が引けた。レジ袋は鞄にしまう。

 今日の目的は桜だった。俺たちはまた山道を歩き始める。

「出田くんって、化学部だったんだよね。バケガクの」

「……そうだけど」

「植物のことも勉強したの? カタクリの話、化学じゃなくて生物の分野だと思ったけど……すごく詳しかったよね。押し葉標本も化学部では作らなさそう」

「ああ……それはまあ。色々あって」

 適当に誤魔化すと、岩間はにこりと笑いかけてくる。

「植物、好きなんだね」

「好きというか……憧れるんだ」

「植物に?」

「そう。まっすぐだからな、植物は」

 少しだけ首を傾げる岩間を見て、言葉が足りなかったことに気付く。

「植物はいつだって、自分らしい生き方をまっすぐに生きてる。そこに憧れるんだ」

 岩間は意外そうな顔でこちらを見てきた。すぐ、取り繕うような微笑に戻る。

「……迷いなく生きてるのって、確かにちょっと羨ましいかも」

「だよな」

 もうかなり歩いただろうか。振り返れば、校舎の屋上がずっと下に見えた。

 岩間が立ち止まったので目を上げると、向こうから男女二人が和気藹々としゃべりながら降りてくるところだった。岩間は端に寄って道を譲った。俺も倣う。

「せっかく登ったのにねー、マジ期待外れ」

「まあ仕方ない。この冬は風が強かったからな」

 そんなことを言いながらすれ違う二人はどうやら上級生だ。派手な見た目で、距離感からしてカップルらしい。二人揃って俺たちを一瞥すると、にこにこと手を振ってきた。

 岩間が頭を下げたので俺も軽く一礼する。目を逸らすのにちょうどいい口実だった。

 カップルとすれ違ったことで、目指す桜を岩間がそういう場所だと思ってしまわないか不安になったが、心配はいらないようだった。岩間はこれまで通りの調子で先を歩く。

 山は静かだった。水崎曰く「超人気スポット」のはずだが、他に人が全然いない。ずいぶんと山を登ったが、すれ違ったのはさっきの上級生カップルだけだ。

「あ、あれじゃないかな!」

 岩間がカーブの先を指差した。

 追いつくと、前方に桜の薄紅色が見えた。周囲には水彩で描いたような新緑が多いが、そこだけ油性の絵具を垂らしたかのごとく色鮮やかに桜の花が咲き乱れている。ちょうど満開だ。

 近づくにつれ、ちゅんちゅんと楽しげな鳴き声が聞こえてくる。

 よく見れば、桜の木にたくさんのスズメがとまっている。彼らは無邪気に花を根元から齧り取り、蜜だけ吸っては地面に捨てる。この食べ方ではスズメが花粉を運ぶことはないため、盗蜜と呼ばれたりもしている。桜にとっては百害あって一利なしの客。

「落花狼藉だな」

「でもスズメさんたちって、可愛いから許せちゃうよね」

「そうか……」

 俺たちは桜の手前でなんとなく立ち止まった。周囲の木々にもたくさんのスズメたちが群れていた。岩間はその様子を愛おしそうに眺めている。

「私、スズメは神様がデザインした生き物だと思うんだよね」

 突然、冗談でもなさそうな感じで、突飛なことを言ってきた。

「小さくて丸っこいフォルムに、真ん丸な目、それに何よりほっぺたの黒い斑点! きっと、神様がとんでもなく可愛い生き物を創ろうと思って考え出したんだよ」

 俺が唖然としていると、岩間は焦ったように胸の前で両手を振る。

「もちろん冗談だけど……時代はネオダーウィニズムだよね」

 などと言いながら、岩間は桜の方に身体を向けた。

 俺の中で渦巻いていた疑惑が確信に変わる。ネオダーウィニズムとは、かのダーウィンが提唱した自然淘汰の概念を新たな知見によって増強してきた、現代版進化説のこと。

 優等生なら先取りして勉強していてもおかしくはないだろうが、こんな話を日常会話の中でするりと繰り出してくるのであれば話は別だ。どうやらただの優等生ではないらしい。

 岩間はエンジョイ勢などではない――どう考えてもガチ勢だ。