大きな二本のヤマザクラは、山の斜面の谷側に、お互い寄り添うように立っていた。登山道はある程度まで桜に近づくと距離を保ったまま迂回する方向に曲がっている。まだ猪目(もしくはハート)らしき形は見えない。俺たちはさらに道を進む。
しかし、曲がった先はすぐ行き止まりになっていた。
「うわ、すごいことになってるね……」
巨大な倒木だ。桜の近くでコナラの大木が根元から折れ、ずっしり道を塞ぐように横たわっている。根元の土の様子を見るに、倒れてからあまり経っていない。この冬は風が強かった。きっと冬の間に倒れてしまったのだろう。黒と黄色の縞模様になったテープが、倒木の幹にぐるりと巻かれている。
俺たちは立ち止まった。乗り越えなければ先へは進めないようだ。別に登れなくはない木だったが、テープが巻かれているということは立ち入り禁止なのだろう。
「行き止まりか」
「でもほら! 桜はそこから見るみたいだよ」
岩間が登山道の脇を指差した。道から桜に向かうようにして、二人がちょうど並んで乗れるくらいの木の台が置かれていた。なんと全体がハートの形をしている。
台には立て札らしきものが付属していた。だが長い年月を経たせいだろう。表面を灰色の地衣類が覆っており、すっかり読めなくなっている。落ちていた枝を使ってべりべり剥がすとようやく文字が現れた。
曰く――観桜台。そう書かれた下には説明も添えられている。
草花を大切に! 登山道から外れず、桜はこの上から見てください♡
平成一六年度 卒業生一同
卒業制作らしい。そう思って見てみると確かに造りは粗かった。二〇年前の高校三年生が木材を切って組み上げたのだろう。材料は木目の調子から広葉樹のようで、長い年月を経ても傷まず残っていることから、おそらくクリの木だ。硬くてタンニンを多く含む材は湿った場所でも腐りにくく、建物の土台や線路の枕木などに利用されてきた。
岩間は観桜台の説明を――もしかすると文末のハートを見てから、台に乗って桜を見た。
「いい眺め! ここからだと、確かに桜が一番よく見えるのかも」
感動した様子の岩間の後ろで、俺は登山道に立ったまま動かなかった。
「あれ? 出田くんもおいでよ! 汚れてるけど、案外頑丈だよ!」
岩間は無邪気に誘ってくるが、そういうことではない。
このハート形の台はあからさまにカップル用だった。
「どうしたの?」
首を傾げる岩間。「いやあ、女の子と二人でハートに乗るなんて、ちょっと照れくさくてね」などと俺が断れるわけもなく、俺は何も気にしない顔をして岩間の隣に並んだ。
設計者は策士に違いない。観桜台の絶妙な大きさは、二人で並んで乗れそうに見えながらも実際に乗ってみると窮屈なもので、少し動いたら肩が触れ合ってしまいそうだ。
できるだけ意識しないようにして桜を眺める。
登山道より少し桜へ近づけるように置かれた台だ。近すぎず、遠すぎず、満開になった二本のヤマザクラがちょうど視界を覆うように見えた。
世界すべてが春になったかのようだ。
「なるほど……きれいだ」
ソメイヨシノよりも濃い薄紅の花弁は、少しの風にも舞い上がって、俺たちへと降り注いでくる。賑やかに盗蜜するスズメたちがぽとりぽとりと花を落としていく。
周囲の地面は桜の花びらだけでなく、カタクリの花々でも埋め尽くされている。登山道の外の観桜台は、このカタクリが見物客に踏まれないようにする役割も兼ねているのだろう。
まだ緑の濃くない裏山で、この空間は一番色鮮やかな場所かもしれなかった。
しかし岩間は、どこか納得していない様子だ。
「……でも、猪目ってどれのことだろう。幸せになれる模様が見えるはずだよね」
「そういえばそんな話もあったな」
あくまで興味のないふりをして、言った。
「猪目ってどんな模様か、出田くん知ってる?」
「ううん、いや、どうだったか……」
曖昧に終わればいいなと思っていたが、そうはいかなかった。岩間がスマホを取り出して調べ始めてしまったのだ。
「……分かった?」
訊くと、岩間はしばらく画面を見てから頷く。
「うん。猪目って、イノシシの目って書いて、ハートみたいな模様のことを言うらしいよ」
「あー、なるほどな。だから観桜台もハートみたいな形をしているのか」
「そっか、そういうことかもね!」
演技は下手な方だが、岩間は俺の知らなかったふりを疑っていない様子だった。
岩間はスマホの画面から、桜の方へと視線を戻す。
「でもおかしいね、あんまり猪目らしい形は見えないけど……二本の木の間にある大きな隙間が、もしかしたらそうなのかな」
夫婦の桜はそれぞれ満開の枝を広げ、視界を薄紅で埋め尽くしている。二者の間にはぽっかりと穴があり、青空が切り取られて見えた。だがそれは歪んだ逆三角形。どう解釈しても、ハート――いや猪目と呼べるような形ではなかった。
「これを猪目と呼ぶのは厳しいんじゃないか」
「そう、だね……」
思っていたよりも沈んだ声が聞こえてきて、俺は岩間を振り返る。
桜の木の悪戯かもしれない。だが岩間の顔には、わずかに影が差しているように見えた。
そうか。
全く期待していなかった俺と違い、岩間は幸せになれる模様を楽しみにしていたのだ。
――高校生活、幸先よくしたいじゃん!
山に入る前の、岩間の言葉を思い出す。素直な優等生は面白そうな噂を聞き、おまじないレベルの話とはいえ幸せを求めて裏山に登った。
だが、そんな幸せは存在しなかった。
水崎は言っていた。猪目だろうがハートだろうが、今年は誰も見ることができていない。きっとすでに失われてしまったのだろう。あいつはとんでもない罪を犯した。俺をおちょくりたいばかりに岩間を巻き込み、彼女に掴めない幸せを追わせたのだ。
端から期待を抱かないことより、期待を裏切られることの方がよっぽどつらい。
俺はなんとかして励まそうと言葉を探す。
「この冬は風が強かった。枝が折れて、ハ――猪目も崩れたんじゃないか。ほら、木だって倒れてるくらいだ」
すぐ先で道を塞いでいる倒木を、俺は指差した。
「でも……倒木は桜にぶつかってないよね」
岩間の言う通り、倒木と二本の桜とは接触しそうにない位置関係だった。
「桜の枝が風で折れた可能性だってある。仕方ないことだ」
岩間はまだ顎に手を当てて、じっと桜を見ている。
「ほんとかな……まだ分からないよ。枝の折れた痕跡が見つかったわけじゃないし」
その眼差しはこれまでにないほど真剣だった。
裏山に桜を見にきた少女の横顔ではなく、俺のよく知る研究者の横顔。
「……あ! ごめん!」
突然岩間が元の顔に戻り、俺の方を見てきた。
「忘れて! 私、分からないことがあるとすぐ本気になっちゃう悪い癖があって……天気が崩れるといけないし、帰ろっか!」
その笑顔は明るかったが、これまでの「見たかよあのスマイル」とは性質が違うことに俺は気付いていた。
少なくとも今は、心から笑っているわけではない。
まだ天気はもちそうだ。幸せを掴む手伝いはできないにせよ、納得できるまで付き合うくらいしても罰は当たらないだろう。
「いや、この場で検証できることは、検証してから帰ってもいいんじゃないか。別に、後ろに用事があるわけじゃない。水崎によれば、去年まで一九年間、桜の猪目は見えていたらしい。今年突然見えなくなったのなら、何か理由があるはずだ」
少しだけ、俺の真意を探るような間があった。
「……一緒に調べてくれるの?」
「ああ。植物に関する考察なら、俺も少しは手伝えるかもしれない」
「本当に……?」
やたらと確認してくる。まあ枝が折れているかどうか確かめるくらいなら、さして時間もかからないだろう。俺は頷いた。
岩間の顔に、「見たかよあのスマイル」がぱあっと戻ってくる。
「ありがとう! じゃあ検証してみようか……科学的に!」
突然飛び出してきた言葉に、俺は若干の戸惑いを覚える。
「科学的に?」
「うん。今まで見えていたはずの猪目が、どうして今年、突然見えなくなったのか――それをきちんと、科学的な態度で突き止めてみたい」
身の回りのちょっとした謎を解明するのに「科学的」とは、ずいぶん仰々しい言い方だ。
岩間の雰囲気が変わったように見えた。
前のめりになっているというか、前しか見えていないというか、とにかく優等生という枠に収まり切らない熱のようなものが迸っているように感じられた。
面白い人だと思った。
会話の節々から滲み出ているように、岩間は相当な科学好きなのだろう。理系の端くれとして、その探求に付き合ってみるのも悪くはない。
「よし。じゃあまずは、枝が折れていないかどうか確認しよう。ここからじゃよく見えない。桜の木に近づいてみるか」
「そうだね! ……でも、お花は踏まないようにしないと」
岩間に言われて地面を見る。登山道に沿って満遍なく咲くカタクリの花。日当たりがいいためか、道を外れるとどうやってもカタクリを踏んでしまうほどに密生している。
「どこか、お花を踏まずに桜の木まで近づける道はないかな」
岩間はそう言いながら、さっそく周囲を調べ始めた。登山道は二本の桜から一定の距離を保つようにしてぐるりと迂回している。見た範囲では、ほぼ全面にカタクリが咲いていた。
「あ、出田くん! この倒木の向こうなら、行けそうかもしれない」
岩間に呼ばれて、倒木の向こう側を覗く。確かにカタクリの花の全く咲いていない部分があって、そこを通ればある程度まで桜へ近づけそうだった。
「でも、この倒木には立ち入り禁止のテープが――」
「立ち入り禁止とは書いてないよ。黄色と黒が縞々になってるだけ!」
危険な発言が飛び出してきて、度肝を抜かれる。岩間の探求心は並大抵ではないようだ。だが俺も、相手が岩間でなければ同じ理屈を使っていたかもしれない。
「……危なくないか?」
「平気平気! 出田くん、ちょっと持っててくれない?」
岩間はそう言ってスクールバッグを俺に託すと、当然のような顔をして倒木に手をかけた。
身体を器用にさばいて枝を避けながら、その幹に足をのせる。
「……待て、危ない」
岩間は動きを止め、不思議そうに振り返ってくる。
「あれ、でも別に、枝も頑丈そうだし……」
「そうじゃなくて……その、なんだ……」
言いづらくて言葉を切ってしまったが、言いかけてしまったのでうやむやにできなかった。
「……ほら、スカートが」
俺は一歩下がり、視線を逸らして指摘した。岩間がもう一歩を踏み出せば、それはほぼ確実に俺の視界に入ってしまう予定だった。
「あっ……」
岩間は慌てて倒木から戻ってくる。
「ごめんね! 夢中になってて気付かなかった。うわあ、悩んだんだけど、私はやっぱりスラックスの方がよかったのかな」
まあ俺が後ろを向いていればいい話ではあったが、岩間も女子としての矜持があるのか、倒木を越えて向こうへ行くのは中止になった。スクールバッグを受け取ると、岩間は耳を赤くしたままそのファスナーを開く。
「そういえば双眼鏡を持ってるんだった。使えるかも」
と言って取り出したのは、折りたたみできるタイプの、コンパクトな双眼鏡だった。
あまりにも準備がいい。
「どうして双眼鏡なんか持ち歩いてるんだ」
「ほら、通学中とかさ、鳥さんを見たくなること、あるでしょ」
「……そうか?」
スカートのことがあったからか、岩間は若干しどろもどろだった。
「あのね、入学祝いで、お父さんに買ってもらって」
暗緑色のボディが美しい双眼鏡を俺に見せてくる。スワロフスキーだ。岩間本人が知っているかは分からないが、かなり高級な代物のはずである。
いったいどんな父親なのか、そもそもこんなものを学校に持ってきてよいのか、本当に通学途中にバードウォッチングをしているのか、など様々な疑問が脳を駆け巡った。だがここは、些末なことは気にせず、問題解決に注力すべきだろう。
「一〇倍か。それで桜を見れば、枝の具合がここからでも確かめられそうだ」
「うん、やってみよう」
岩間は双眼鏡を覗いて、慣れた手つきでピントを合わせる。
「えーっと、そうだなあ……あれ? うーん」
しばらく探してから、岩間は双眼鏡を下ろし、俺に差し出してくる。
「私には、折れてるのは分からなかった。出田くんも見てみて」
「……いや、俺は別にいい」
同じクラスの女子がさっきまで覗いていた双眼鏡を覗くのには、なんというか、ちょっとした抵抗があった。
「見落としの可能性が低くなるし、ほら!」
かなり厳密に調べようとしていたらしい。そこまで固辞する理由もないので、俺は双眼鏡を受け取った。眼鏡を額に上げて、覗く。
「……すごいな、この大きさで、こんなにはっきり見えるなんて」
照れ隠しではないが、まず真っ先に、双眼鏡の感想が出てきてしまった。
「でしょ! 小型なのに明るくて、森の中でもよく見えるんだ」
話が逸れてしまった。俺はスズメたちの遊ぶ桜の枝を丁寧に観察する。確かに、枝が大きく破損したような痕跡は見られなかった。
「岩間さんの言う通りだ。折れたわけじゃないらしい」
「だとすると、どうして猪目じゃなくなったんだろう。もしかすると、去年枝が伸びすぎちゃったのかな?」
「それはない。桜は前年枝――前の年に伸びた枝に花をつける。花がついている部分はどれもそこまで長くない。これだけ大きな木になると、枝先が一気に伸びて樹形が変わるなんてことは起こり得ないんだ。伸びたとしても、ハ――猪目全体の形が変わるとは思えない」
「へえ……植物に詳しいと、そんなことまで分かるんだね」
少しマニアックな知識だったかもしれない。
軽く礼を言って岩間に双眼鏡を返す。岩間はすぐさまその双眼鏡で桜を見た。眼鏡を戻しながら、なんだか杉花粉ではないむず痒さを目の辺りに感じた。
「ううん、折れたわけでもなくて、育ちすぎたわけでもなくて……」
岩間は双眼鏡を下ろして、呟く。
「だったら、どうして猪目は見えなくなったんだろう?」
薄紅が切り取る領域の形は、なぜ変わってしまったのか。
花吹雪を浴びながら、スズメたちのさえずりを聞きながら、考える。
そして――
「なるほど……分かったかもしれない」
すると、岩間がものすごい勢いでこちらを振り返ってきた。
「え、猪目が見えなくなった理由が?」
「ああ。それに、どうやったらハートがきちんと見えるのかということも。岩間さんの言葉を借りれば、ある程度科学的に説明できると思う」
「ハート?」
「いや、ごめん。猪目だった。ハートじゃない」
大事なことだ。
「それで、どうしてなの?」
岩間に問われて、俺は花弁の舞う空ではなく、地面を指差す。
「ヒントは桜じゃない。カタクリにあった」
俺の遠回しな言い方に、岩間は驚いたように目を見開く。
「えええ? どういうこと?」
「桜の枝は折れてもいなかったし、大きく伸びてもいなかった。桜の樹形が変わったわけじゃないとしたら、変わったのは何か」
岩間はまだ、閃いていない様子だった。続ける。
「桜を見る俺たちの側だ」
しばしの沈黙。
「……え、それって、見る位置が違ったってこと?」
「そうだ。それしか考えられない。立ち位置が違えば、見える図形も当然変わってくる」
「でも、だとしたら、この観桜台は……」
「今年から、この観桜台の位置が変わったんだ。そして正しい位置を教えてくれるのが――」
再び観桜台の周囲に咲くカタクリを指差す。
「カタクリだ」
岩間はまだ気付いていない様子だ。俺は続ける。
「カタクリはスプリング・エフェメラル。花を咲かせるには、およそ八年間、春先にだけ光合成をして、養分を貯める必要がある。でも、観桜台があったらどうだ?」
岩間も気付いた様子で、頬がほんのり赤く上気する。
「台があったら太陽の光を浴びられないから、光合成ができない!」
「ああ。桜が切り取る猪目は、去年まで一九年間、毎年見えていた。観桜台は長い間、正しい位置にあったんだ。つまり観桜台のあった正しい位置で、カタクリが今年花を咲かせることはできない」
「すごい、科学的だ!」
どうやら岩間は、科学的という言葉がよっぽど好きらしい。
「一面カタクリの咲いているこの周辺で、一ヶ所だけ、カタクリの咲いていない場所があっただろ。そこに立てば、この仮説が検証できる」
「倒木の向こう側……!」
岩間は待ちきれないように動き出した。ついていく。倒木の先を覗くと、登山道の脇に、カタクリの花の薄紅色が一切見当たらない区画が存在した。
岩間がわざわざ倒木を乗り越えようとしたのは、この花のない領域から桜の木に近づこうとしたためだった。
おそらくこの場所が、観桜台の本来の位置。つまり、俺が引き留めていなかったら、岩間は猪目を発見できていたのだ。
責任を取って、俺が先に倒木をよじ登った。
そして岩間に手を差し伸べる。
「これならスカートは、気にしなくて大丈夫じゃないか」
「ありがとう!」
岩間は俺の手を迷わず握ってきた。その手の感触に、一瞬腕が強張ってしまった。
二人で倒木を乗り越える。手はすぐに離した。
岩間は早速、薄紅が切り取る領域に立って桜を眺める。
「ねえ、出田くん、すごい! きれいな猪目!」
俺も岩間の隣に立ち、彼女が指差す先に目を向ける。
たちまち心を奪われた。
二本の桜が夫婦のように寄り添って、薄紅の花で飾られた枝を重ねている。
その間には雲一つない青空。桜によって見事なハートマークの形に切り取られていた。
「……やっぱり、ここが正しい位置だったんだ」
岩間がぽつりと言った。俺は頷く。
「倒木があって危険だからと、気の利かない誰かが観桜台を動かしたんだろうな」
きっと、桜を見にくる生徒の安全を考慮してのことだったのだろう。倒木を乗り越えなくて済むようにと、冬の間に観桜台を倒木の手前へ移動した。しかし実際に春が来てみると、その位置が微妙に変わってしまっていたせいで、桜のハートは見えなくなっていた。
岩間は両手を胸の前で合わせ、目を潤ませさえする。
「すごい! カタクリに目をつけるなんて、出田くんのお手柄だね!」
岩間は右手をグーにして、俺の方へ差し出してきた。俺も控えめに右手を握って、その拳と軽くぶつける。
「これは岩間さんの手柄でもある。俺一人じゃ、まさか倒木を越えようなんて思わなかっただろうから。枝が折れているかどうかもきっと確かめなかった」
「そう? じゃあ、二人の手柄」
岩間は笑顔で言うと、桜の方に向き直って手を合わせる。まるで祈りを捧げるかのように目を閉じた。何やらお願い事をしているらしい。
俺も桜を眺めながら、この素直な少女の高校生活が幸先のよいものになることを願った。
「ありがとう、付き合ってくれて」
改めて岩間に礼を言われ、反応に困る。
「いや、別に……俺も楽しかった。突き詰めて考えれば、こんなふうに謎が解けるなんて」
「科学の勝利だね!」
これもまた大袈裟な言い方だが、別に間違ってはいないのだろう。
課題や疑問があればまずは対象を観察し、学んできた知識を総動員して客観的に可能性を絞り込む。そこから仮説を立てては検証していく。研究活動と規模やスパンの違いはあれど、今回の猪目探しもある程度まで科学的な営みと言えるはずだ。
「さすが元科学部だ」
俺の言葉に岩間は笑った。
そよ風が吹き抜けて、桜の花弁が俺たちを包んだ。岩間は楽しそうに言う。
「私、科学が大好きなんだ。世界中の人たちが集めた英知を使って、身近な謎と向き合える。巨人の肩に乗って、自分の住む街を見渡せる。こんなに楽しいことってないよね」
岩間の言葉を反芻する。
これほど鮮やかな考えをもつ同級生がいるとは思ってもみなかった。
「……その視点はなかったな」
「そう? 出田くんも科学の道を行く人だと思ったけど」
「確かに研究は面白い。でもそれは、自分の力で人類に貢献できる可能性を感じさせてくれるからだ。科学はあくまで人類の可能性を広げるための営みだと思ってる――思っていた」
春の風を吸い込んでから、俺は付け加える。
「でも確かに、巨人の肩から自分の周りを見てみるのも悪くはないな。こうしてきれいな景色にも出会うことができたし」
頷く岩間は嬉しそうだった。
「少し見方を変えるだけで、世界はこんなに素敵になるんだね」
優等生らしいまとめ方だった。
ふと思う。これほど科学のことが好きならば――
「なあ、もしよかったら、これは岩間さんが持って帰らないか」
鞄から、レジ袋に入ったカタクリを取り出す。どうせこんなことをするならもう少しいい袋にしておけばよかった、と後悔した。
「え、いいの?」
「実はもう、カタクリの標本は持ってるんだ。岩間さんさえ興味があれば、押し葉標本にしてみるのはどうだろう。新聞紙や段ボールみたいに簡単な材料で作れる」
俺は普段、こんなことを初対面の女子に提案するような人間ではない。しかし岩間ほど、話が合うというか、同好の士と言えるような人に出会うことは稀だった。少し調子に乗っていたのかもしれない。
土の残ったカタクリと、皺だらけのレジ袋。女子への贈り物にしてはあまりに粗末なものだったが、岩間は嬉しそうに受け取った。
「作ってみるね、ありがとう!」