ハート――ではなく猪目も見ることができたし、下山しようということになった。
観桜台の本来の場所から出る前に、岩間は思い出したようにスマホを取り出した。カメラを起動して桜に向ける。
カシャリと何度かシャッターの音。それでもスマホを構えたまま、岩間は何やら考える。
「……どうした?」
訊くと、岩間は悩ましげにうーんと唸った。
「きれいなんだけど、これだと、今年撮ったものだって写真だけでは分からないね」
確かに、去年までの写真ならば巷に溢れているはずだ。今年見つけたという希少性を大事にしたい気持ちは分かる。
「今日の朝刊でも写すか」
冗談で言ってみると、岩間は割と真剣にこちらを見てきた。
「え、新聞、持ってるの?」
「いや、持ってない。冗談で言った。悪かった」
「そんなに謝らなくても……今日のカレンダーを出田くんのスマホに表示させて撮るという手もあるけど、なんだか誘拐犯みたいだし、雰囲気が損なわれちゃうかな」
それもそうだ。
「自撮りでもすればいいんじゃないか。それか、俺が岩間さんを入れて撮る」
いい提案だと思ったのだが、岩間は少し顔をしかめて首を振った。
「私の顔なんて……そんな、わざわざ写すほどのものじゃないよ」
いやいやご謙遜を――という言葉を、喉の辺りで呑み込んだ。
水崎も言うように、岩間の容貌は並大抵のものではなかったが、それはさておき、写真は撮りたいが自分は写りたくない、という気持ちは俺にもよく分かる。
少し考えてから、岩間は自分のスマホのカメラの前に空いた手を差し出した。
「何してるんだ……?」
「私の手を写せばいいかな、と思って」
何かを写し込むことにこだわりがあるようだった。だが確かに、岩間の手を入れた写真ならば、それはただの風景写真ではなく、唯一無二のものになり得る。
理屈としては分からないでもなかった。
岩間はピースサインやらサムズアップやらを試した後で、どうも納得いかない表情になる。
「どうした?」
「うーん、なんだかどれもしっくり来なくて……猪目の形に合わないというか」
俺にはいわゆる映えというような美的センスが欠如しているので、岩間の助けになる自信はなかった。適当にアドバイスしてみる。
「背景が猪目なんだから、手でも猪目を作ってみたらどうだろう。ハートを作るみたいに」
「なるほど!」
岩間は言うと、片手でハートの半分を作った。そして期待に満ちた目で俺を見てくる。
「…………?」
混乱する。
「片手が埋まっちゃってるから、出田くん、手伝ってよ!」
この理屈は分からなかった。
「親指と人差し指でハートを作るやり方があるんじゃなかったか。よく女の子がやる」
「それは指ハート! これは猪目だから、ちょっと違うよ」
「なるほど……?」
確かに、指ハートとやらは巷でハートと呼ばれているからハートに見えるのだ。同じ形であってもハートという概念の適用されない猪目にはなり得ない。一方、岩間のやり方で猪目を作ろうとすると、両手が必要になってしまう。岩間はスマホを構えている。手が一本足りない。そこまでは理解できる。
しかしその足りない手を、俺に頼むだろうか?
でもまあ、岩間に抵抗がないのなら、俺が気にしすぎているだけなのかもしれない。これはハートではなくて、あくまで猪目、幸せを呼ぶ形なのだ。
隣に立って、岩間が構えた片手に俺の手を合わせようと試みる。
だが、心臓が跳ね上がるようでいけない。耳が熱くなっているのが分かる。汗が垂れた。
結局俺は、すぐに手を引っ込めてしまった。
「……?」
「いや、女の子同士なら、まだいいかもしれないけどな……」
変に意識していると思われたくなかったので、少しぼかして言った。
岩間はようやく気付いたようで、はっと目を丸くした。
「あっ……ごめんね! すごく馴れ馴れしかったよね!」
「いや、別に謝ることではない。違う形はどうかと提案してるだけだ」
「じゃあさ、二人でピースにするのはどう?」
この理屈は全く分からない。
「……ピースなら、一つでもいいんじゃないか?」
俺の提案に岩間は小さく首を振る。
「気付いたんだよね。私がこの写真に手を写り込ませるのは、今この瞬間の一意性を切り取りたいからなんだ、って」
「一意性……?」
数学でしか聞いたことがない用語だった。
「そう。出田くんと一緒にこのきれいな景色を見つけたっていう事実を記録したいから、景色だけじゃなくて、出田くんと私が写ってないともったいないんじゃないかと思って……」
確かに間違いのない論理的な説明だった。
まあピースくらいならいいだろう。断る理由もなかったので俺は岩間の隣に行く。そしてやる気のないピースサインを作り、岩間のスマホのカメラの前に差し出した。
「もう少し、寄って!」
岩間が一歩こちらに近づいてくる。肩が触れ合いそうになる。心臓がまた跳ねる。
この少女が無自覚に落としてきただろう男たちのことを思って、心の中で合掌した。
かしゃり――岩間がシャッターを押す。
薄紅の桜に縁どられたハート形の青空の手前で、逆光気味にほんのり暗い二つのピースサインが並んでいる。ちょうどアルファベットのWのような形になった。
「うん、いい感じだ。ありがとう!」
岩間はそれで満足したようだった。
その後、日も傾いてきたので俺たちは足早に山を下りた。校門まで戻ったころには、もう夕方になろうという時間帯だった。
「そうだ。出田くん、連絡先教えてよ」
並木道を街の方に向かって下りながら、岩間が提案してきた。
「さっきの写真、送るよ」
「ああ……ありがとう」
そうして俺と岩間はLINEを交換する。
並木が終わると分かれ道だった。俺の自宅は市内にあって、並木道から左に曲がるのだが、岩間は電車通学ということで、並木道の先をさらに駅の方へと下っていくらしい。
俺たちはそれぞれの帰途に就く。
海上の発達した雨雲が、夕日の方へと暗い腕を伸ばしつつあった。
「うっわ、すごい雨!」
夜、妹の声で外を見てみると、外はまるで嵐のようだった。
窓を叩く激しい雨の音と、風の吹き抜ける轟音を聞きながら、俺は寝る前に、岩間から送られてきた写真をもう一度眺めた。技術の進歩はすさまじい。スマホの小さなカメラとはいえ、桜と空のコントラストは高精細で鮮やかだった。
その手前に、岩間の手と俺の手が並んでいる。撮影後にグレーディングをしたのか、逆光による暗さはさほど感じられなかった。
自信満々に胸を張るピースサインと、猫背で気の抜けたピースサイン。
手だけでこれほど性格の差が現れるのかと、俺は少し感心すらした。
嵐はなかなか止まなかった。見事に満開だった桜は無残に散っていることだろう。
ふと考える。
ひょっとすると――
岩間と俺は、今年あのハートを見た唯一の男女になってしまったのではないか。
もしそうだとすれば、例のくだらない迷信を前提とする場合、まずいことになる。
一九年の間、毎年恋愛成就を叶えてきたという裏山の桜。
二〇年連続の記録が達成されるかどうかは、俺と岩間の二人にかかってしまうことになる。
きちんとハートが見えたことは、水崎には絶対に秘密にしようと思った。