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アインクラッド標準時、二〇二四年十月二十三日午後九時。
俺、レベル96片手剣使いキリトは、レベル94細剣使いアスナに求婚し、承諾された。
もちろんこれは、ソードアート・オンラインというVRMMO-RPGの中での話だ。現実世界では俺とアスナは顔を合わせたことさえなく、そもそも俺は法的に結婚できる年齢に達していない。──アスナのほうは微妙なところかもしれないが。
初めて《結婚システム》を採用したゲームタイトルが何なのかは知らないが、もう二十年以上も前から、MMO世界でのキャラクター同士の結婚はとてもポピュラーなものになっている。たいていのタイトルでは《夫婦》のキャラクターには何らかの特典が与えられるので、それ目当てで結婚するケースも多いだろうし、もちろん真面目なロールプレイの一環として結婚するプレイヤーもいれば、中にはゲーム内での結婚がきっかけで現実世界でも結婚する例さえあるらしい。これは俺の勝手な想像だが、仮に全世界のMMOプレイヤーを対象に《ゲーム内での結婚経験の有無》をアンケートすれば、経験有りが五割を超えるのではないだろうか。
しかし、残念ながら(と言っていいのかどうか不明だが)、俺はこれまでプレイしてきた全てのMMORPGの中で、ただの一度も誰かと結婚したことはなかった。
理由は──まあ、俺の対人コミュニケーションスキルの低さということになるのだろうが、それと同時に《ゲーム内での結婚》というものをどう捉えていいのか、さっぱり解らなかったのだ。俺こと桐ヶ谷和人というプレイヤーが操作する男キャラクターKiritoが、世界のどこかに実在する女性または男性プレイヤー(その可能性も大いに存在する)の操作する女キャラクターDareko(仮)と結婚したとして、俺はそのダレコさんと永久固定パーティーを組んだと理解すればいいのか? あるいはダレコさんを愛しているというロールプレイまですべきなのか? それとも──ダレコさんの向こうにいる、生身の誰かさんのことまで意識すべきなのか……?
正直に言えば、SAO以前にプレイしていたゲームで、フレンド登録したりギルドメンバーになったりした女性キャラクターさんに「結婚しよっか(〃^▽^〃)」とお誘い頂いた経験がないではない。しかしその全てのケースで、俺はモニタの前で冷や汗をかきつつフリーズし、相手に「(´ノω;`)」的な反応をさせてしまった。
構えすぎの考えすぎのビビりすぎだ、と自分でも思う。
しかし、俺がMMOゲームに耽溺した理由はそもそも、そこが仮初めの世界だったからだ。あらゆるキャラクターの向こうには、性別や年齢の定かでない見知らぬプレイヤーが存在する。だから、「この人は本当は誰なんだろう」などと考えても仕方がない。俺を含めて、皆が皆、本当のその人ではないのだから。
ところが、俺にとって《結婚》というシステムは、その認識と真正面から衝突するものだ。ゲーム内での結婚であっても、誰か一人と特別な関係を結べば、どうしても意識せずにいられないのだ。現実世界でマウスを操作し、キーボードを叩いている《誰か》のことを。
ゆえに俺は、ネットゲーム内で誰かと永続的パートナーとなることを忌避してきたし、それはもちろんこの異常なデスゲーム、ソードアート・オンラインでも変わらないはずだった。いや、ここではアバターと生身の容姿が同一なだけに、いっそう他人と距離を作ってきたかもしれない。
しかし、そんな俺の違和感──または怖れを、ゆっくりと溶かし、小さくして、ついには消し去ってくれた人こそがアスナだったのだ。
デスゲームが開始されてからの二年弱、彼女はその時々によって立場は変われど、俺の視界から消えることはなかった。最初は行きずりのパーティーメンバーとして、やがて彼女がギルド血盟騎士団に所属してからも攻略組の仲間として。時には一緒に不可思議な圏内殺人事件を調べたり、俺のためにS級食材アイテムを料理してくれたりもした。そんなアスナとの交流を経て、俺は学んだ。
この世界では──そしてきっと現実世界でも、もしかしたらSAO以前にプレイしてきた非フルダイブ型のMMOゲームでも、目の前にいる誰かが本当のその人なのか、そうでないのかを決めるのは俺自身なのだ。疑い、距離を置けば偽物になる。信じて歩み寄れば本物になる。
いま、俺のすぐ目の前には、アスナと言う名の剣士がいる。
彼女と一緒にいると楽しい。戦うアスナも、笑うアスナも、むくれるアスナも、俺の心に強い感情を呼び起こす。いつでも手の届く距離にいたいし、確かな繋がりが欲しいとも思う。アスナを見ている時、俺はもうわずかにも、この人は本当は誰なんだろうなど考えることはない。
だから、俺はアスナに求婚した。
正直に言えば、あらゆる迷いが消え去ったわけではない。アスナを求めるこの気持ちが、いわゆる《愛情》なのかどうか、そこにはまだ確信が持てない。現実世界では家族と距離を置き続け、この世界に来てからもひたすらソロプレイに固執してきた俺に、本当に人を愛する心があるのかとつい考えてしまうのだ。
でも、その最後の疑問も、アスナと一緒にいればいつか答えが見つかると思う。
──と、ここまでが、今の俺が辿り着いた《SAOに於ける結婚の精神的側面》だ。
いっぽう、たとえゲーム世界でもそれが結婚である以上、物質的側面という奴も厳然として存在する。具体的には、いわゆる新居をどうするか、ということだ。
結婚後は当然ながら一緒に住むことになろうが、その場合、五十層主街区アルゲードの路地裏にある俺のねぐらはもとより、六十一層セルムブルグのアスナのメゾネットも少々手狭なのだ。それに、面積の他にも、いままでと同じ場所に住み続けられない事情がある。
ギルド《血盟騎士団》サブリーダー、《閃光》アスナは、いまやアインクラッド最大最強のアイドルプレイヤーと言っていい。
情報屋が発行する新聞のプレイヤー人気投票ではほぼ不動の一位、ファンクラブまでもが複数存在し、どこかの大手雑貨屋チェーンがCDならぬRCデビュー話を持ちかけたがこれはレイピアを突きつけられて退散したらしい。
デスゲーム初期の、常にフーデッドケープを被りっぱなしだった《赤ずきんちゃん》時代のことを思えば隔世の感があるが、ともあれそんなアイドル様の結婚が明らかになれば、各新聞がこぞって一面で取り上げることは間違いない。
多くのファンたちは嘆き悲しみ、そのエネルギーはやがて呪い属性攻撃へと変化し、結婚相手である俺のリアルラック値をマイナスまで下げてしまいかねない──ことはさておいても、取材だの何だのが殺到しては新婚生活どころではないので、結婚の事実は伏せられる限り伏せておきたい。
もちろん、彼女のたくさんの、そして俺の数少ない友人にはメッセージで伝えるのでそう長い間秘密にはしておけないだろうが、それを言うならばお互いいつまでもハネムーン気分に浸っていられる立場でもないのだ。七十四層のフロアボス、《ザ・グリームアイズ》が倒されてからまだ四日で、現在の最前線である七十五層のボス部屋が発見されるにはもうしばらくかかるはずだが、俺もアスナも迷宮区タワーのマッピングはともかく、ボス戦には参加しなくてはならない。
ゆえに、それまでの十日ほど……いや二週間……できることならもう少し、二人きりの穏やかな時間を過ごせる家を、どこかに見つくろう必要がある。
経済面では、俺とアスナがこれまでのゲームプレイで溜め込んだアイテム群のうち、当面不要なものをざっくり処分してコルに替えれば、圏内……つまり街の壁の内側にある一軒家でもぎりぎり買えなくはなかった。しかし、そんな所に新居を構えれば、当日のうちに情報屋に発見されてしまう。とっくに攻略されてプレイヤーのほとんど来ない層の、しかも端っこのほうに建っていて、目立たないがそこそこ広さはある──という家が理想的だ。
なかなかに厳しい条件ではあるが、実のところ、プロポーズ前に物件の目星はすでにつけてあった。
アインクラッド第二十二層が最前線だったのは、一年半も昔のことだ。低層ゆえに面積はあるが、ほぼ全面が深い森と草原と湖という、美しいが起伏のない地形で、そのうえ大したクエストもフィールドボスも存在しない。攻略組プレイヤーたちは主街区であるコラルの村から一直線に迷宮区に到達し、難易度マイルドな塔を駆け上り、平均をかなり下回る日数でボスを倒した。現在では、二十二層を訪れるプレイヤーは、大小の湖目当ての釣り師と森で木材を集める木工細工師くらいのものだろう。
かくいう俺も一年以上訪れていないのだが、なぜかそれだけは忘れなかった、印象的な光景がある。
あれは、二十二層ボスが撃破されたその日に、コラルの村で受けたままになっていたクエストを消化できるだけしておこうと一人走り回っていた時のことだ。
俺は、青く澄んだ湖のほとりに、近づかなければ気付けないような細い小道を見つけた。クエストとは関係なさそうだったが、何となくその道を辿ると、丘を登っていった突き当たりに、深い針葉樹の森を背負ってひっそりと建つ、一軒のログハウスを見つけた。
壁の丸太はあちこち苔むし、屋根には若木が二、三本伸びていたが、朽ちた印象はまったくなかった。むしろ周囲の自然にとけ込んだ、あたかもエルフ族の家のような美しさを感じた。
俺はそうっと木製のゲートを開け(それができた時点で他のプレイヤーが所有する家ではない)、索敵スキルで内部をチェックし(無人だった時点でNPCの家でもない)、正面のテラスまで近づいてから、ようやく発見したのだ。ドアノブに掛けられた、《FOR SALE》の木札を。
まだレベル40にもなっていなかった俺は、木札に記された売り値の桁数を指さしてかぞえ、はぁーっとため息をつき、あきらめ悪く何度も振り返りながらその場所を後にした。いつか、この家が買えるほどのコルがアイテム欄に溢れ返ることを夢見ながら。
実際のところ、五十層を突破したレベル70幾つの頃ならもう無理すれば買えないこともなかった。だが、攻略組として、最寄りの転移門まで片道二十分もかかるような場所を攻略拠点にはできない。結局俺は五十層主街区アルゲードにねぐらを構え、数日前までそこで寝起きし続けていたわけだ。
二十二層で森の中の家を見つけてから、実に一年半後──。
アスナへの求婚を決意し、新居をどうするか考えた俺の脳裏に、真っ先に浮かんだのはあのログハウスだった。それ以外の選択肢はないと思えた。
俺はプロポーズの言葉として、まず問題のログハウスの情報を開示し、そこへの引っ越しを提案し、最後に「結婚しよう」と言った。
アスナが、まったく迷う様子もなく「はい」と答えてくれたことには、あの家の加護も少しばかりあったのかもしれないと、俺は思っている。
俺、レベル96片手剣使いキリトは、レベル94細剣使いアスナに求婚し、承諾された。
もちろんこれは、ソードアート・オンラインというVRMMO-RPGの中での話だ。現実世界では俺とアスナは顔を合わせたことさえなく、そもそも俺は法的に結婚できる年齢に達していない。──アスナのほうは微妙なところかもしれないが。
初めて《結婚システム》を採用したゲームタイトルが何なのかは知らないが、もう二十年以上も前から、MMO世界でのキャラクター同士の結婚はとてもポピュラーなものになっている。たいていのタイトルでは《夫婦》のキャラクターには何らかの特典が与えられるので、それ目当てで結婚するケースも多いだろうし、もちろん真面目なロールプレイの一環として結婚するプレイヤーもいれば、中にはゲーム内での結婚がきっかけで現実世界でも結婚する例さえあるらしい。これは俺の勝手な想像だが、仮に全世界のMMOプレイヤーを対象に《ゲーム内での結婚経験の有無》をアンケートすれば、経験有りが五割を超えるのではないだろうか。
しかし、残念ながら(と言っていいのかどうか不明だが)、俺はこれまでプレイしてきた全てのMMORPGの中で、ただの一度も誰かと結婚したことはなかった。
理由は──まあ、俺の対人コミュニケーションスキルの低さということになるのだろうが、それと同時に《ゲーム内での結婚》というものをどう捉えていいのか、さっぱり解らなかったのだ。俺こと桐ヶ谷和人というプレイヤーが操作する男キャラクターKiritoが、世界のどこかに実在する女性または男性プレイヤー(その可能性も大いに存在する)の操作する女キャラクターDareko(仮)と結婚したとして、俺はそのダレコさんと永久固定パーティーを組んだと理解すればいいのか? あるいはダレコさんを愛しているというロールプレイまですべきなのか? それとも──ダレコさんの向こうにいる、生身の誰かさんのことまで意識すべきなのか……?
正直に言えば、SAO以前にプレイしていたゲームで、フレンド登録したりギルドメンバーになったりした女性キャラクターさんに「結婚しよっか(〃^▽^〃)」とお誘い頂いた経験がないではない。しかしその全てのケースで、俺はモニタの前で冷や汗をかきつつフリーズし、相手に「(´ノω;`)」的な反応をさせてしまった。
構えすぎの考えすぎのビビりすぎだ、と自分でも思う。
しかし、俺がMMOゲームに耽溺した理由はそもそも、そこが仮初めの世界だったからだ。あらゆるキャラクターの向こうには、性別や年齢の定かでない見知らぬプレイヤーが存在する。だから、「この人は本当は誰なんだろう」などと考えても仕方がない。俺を含めて、皆が皆、本当のその人ではないのだから。
ところが、俺にとって《結婚》というシステムは、その認識と真正面から衝突するものだ。ゲーム内での結婚であっても、誰か一人と特別な関係を結べば、どうしても意識せずにいられないのだ。現実世界でマウスを操作し、キーボードを叩いている《誰か》のことを。
ゆえに俺は、ネットゲーム内で誰かと永続的パートナーとなることを忌避してきたし、それはもちろんこの異常なデスゲーム、ソードアート・オンラインでも変わらないはずだった。いや、ここではアバターと生身の容姿が同一なだけに、いっそう他人と距離を作ってきたかもしれない。
しかし、そんな俺の違和感──または怖れを、ゆっくりと溶かし、小さくして、ついには消し去ってくれた人こそがアスナだったのだ。
デスゲームが開始されてからの二年弱、彼女はその時々によって立場は変われど、俺の視界から消えることはなかった。最初は行きずりのパーティーメンバーとして、やがて彼女がギルド血盟騎士団に所属してからも攻略組の仲間として。時には一緒に不可思議な圏内殺人事件を調べたり、俺のためにS級食材アイテムを料理してくれたりもした。そんなアスナとの交流を経て、俺は学んだ。
この世界では──そしてきっと現実世界でも、もしかしたらSAO以前にプレイしてきた非フルダイブ型のMMOゲームでも、目の前にいる誰かが本当のその人なのか、そうでないのかを決めるのは俺自身なのだ。疑い、距離を置けば偽物になる。信じて歩み寄れば本物になる。
いま、俺のすぐ目の前には、アスナと言う名の剣士がいる。
彼女と一緒にいると楽しい。戦うアスナも、笑うアスナも、むくれるアスナも、俺の心に強い感情を呼び起こす。いつでも手の届く距離にいたいし、確かな繋がりが欲しいとも思う。アスナを見ている時、俺はもうわずかにも、この人は本当は誰なんだろうなど考えることはない。
だから、俺はアスナに求婚した。
正直に言えば、あらゆる迷いが消え去ったわけではない。アスナを求めるこの気持ちが、いわゆる《愛情》なのかどうか、そこにはまだ確信が持てない。現実世界では家族と距離を置き続け、この世界に来てからもひたすらソロプレイに固執してきた俺に、本当に人を愛する心があるのかとつい考えてしまうのだ。
でも、その最後の疑問も、アスナと一緒にいればいつか答えが見つかると思う。
──と、ここまでが、今の俺が辿り着いた《SAOに於ける結婚の精神的側面》だ。
いっぽう、たとえゲーム世界でもそれが結婚である以上、物質的側面という奴も厳然として存在する。具体的には、いわゆる新居をどうするか、ということだ。
結婚後は当然ながら一緒に住むことになろうが、その場合、五十層主街区アルゲードの路地裏にある俺のねぐらはもとより、六十一層セルムブルグのアスナのメゾネットも少々手狭なのだ。それに、面積の他にも、いままでと同じ場所に住み続けられない事情がある。
ギルド《血盟騎士団》サブリーダー、《閃光》アスナは、いまやアインクラッド最大最強のアイドルプレイヤーと言っていい。
情報屋が発行する新聞のプレイヤー人気投票ではほぼ不動の一位、ファンクラブまでもが複数存在し、どこかの大手雑貨屋チェーンがCDならぬRCデビュー話を持ちかけたがこれはレイピアを突きつけられて退散したらしい。
デスゲーム初期の、常にフーデッドケープを被りっぱなしだった《赤ずきんちゃん》時代のことを思えば隔世の感があるが、ともあれそんなアイドル様の結婚が明らかになれば、各新聞がこぞって一面で取り上げることは間違いない。
多くのファンたちは嘆き悲しみ、そのエネルギーはやがて呪い属性攻撃へと変化し、結婚相手である俺のリアルラック値をマイナスまで下げてしまいかねない──ことはさておいても、取材だの何だのが殺到しては新婚生活どころではないので、結婚の事実は伏せられる限り伏せておきたい。
もちろん、彼女のたくさんの、そして俺の数少ない友人にはメッセージで伝えるのでそう長い間秘密にはしておけないだろうが、それを言うならばお互いいつまでもハネムーン気分に浸っていられる立場でもないのだ。七十四層のフロアボス、《ザ・グリームアイズ》が倒されてからまだ四日で、現在の最前線である七十五層のボス部屋が発見されるにはもうしばらくかかるはずだが、俺もアスナも迷宮区タワーのマッピングはともかく、ボス戦には参加しなくてはならない。
ゆえに、それまでの十日ほど……いや二週間……できることならもう少し、二人きりの穏やかな時間を過ごせる家を、どこかに見つくろう必要がある。
経済面では、俺とアスナがこれまでのゲームプレイで溜め込んだアイテム群のうち、当面不要なものをざっくり処分してコルに替えれば、圏内……つまり街の壁の内側にある一軒家でもぎりぎり買えなくはなかった。しかし、そんな所に新居を構えれば、当日のうちに情報屋に発見されてしまう。とっくに攻略されてプレイヤーのほとんど来ない層の、しかも端っこのほうに建っていて、目立たないがそこそこ広さはある──という家が理想的だ。
なかなかに厳しい条件ではあるが、実のところ、プロポーズ前に物件の目星はすでにつけてあった。
アインクラッド第二十二層が最前線だったのは、一年半も昔のことだ。低層ゆえに面積はあるが、ほぼ全面が深い森と草原と湖という、美しいが起伏のない地形で、そのうえ大したクエストもフィールドボスも存在しない。攻略組プレイヤーたちは主街区であるコラルの村から一直線に迷宮区に到達し、難易度マイルドな塔を駆け上り、平均をかなり下回る日数でボスを倒した。現在では、二十二層を訪れるプレイヤーは、大小の湖目当ての釣り師と森で木材を集める木工細工師くらいのものだろう。
かくいう俺も一年以上訪れていないのだが、なぜかそれだけは忘れなかった、印象的な光景がある。
あれは、二十二層ボスが撃破されたその日に、コラルの村で受けたままになっていたクエストを消化できるだけしておこうと一人走り回っていた時のことだ。
俺は、青く澄んだ湖のほとりに、近づかなければ気付けないような細い小道を見つけた。クエストとは関係なさそうだったが、何となくその道を辿ると、丘を登っていった突き当たりに、深い針葉樹の森を背負ってひっそりと建つ、一軒のログハウスを見つけた。
壁の丸太はあちこち苔むし、屋根には若木が二、三本伸びていたが、朽ちた印象はまったくなかった。むしろ周囲の自然にとけ込んだ、あたかもエルフ族の家のような美しさを感じた。
俺はそうっと木製のゲートを開け(それができた時点で他のプレイヤーが所有する家ではない)、索敵スキルで内部をチェックし(無人だった時点でNPCの家でもない)、正面のテラスまで近づいてから、ようやく発見したのだ。ドアノブに掛けられた、《FOR SALE》の木札を。
まだレベル40にもなっていなかった俺は、木札に記された売り値の桁数を指さしてかぞえ、はぁーっとため息をつき、あきらめ悪く何度も振り返りながらその場所を後にした。いつか、この家が買えるほどのコルがアイテム欄に溢れ返ることを夢見ながら。
実際のところ、五十層を突破したレベル70幾つの頃ならもう無理すれば買えないこともなかった。だが、攻略組として、最寄りの転移門まで片道二十分もかかるような場所を攻略拠点にはできない。結局俺は五十層主街区アルゲードにねぐらを構え、数日前までそこで寝起きし続けていたわけだ。
二十二層で森の中の家を見つけてから、実に一年半後──。
アスナへの求婚を決意し、新居をどうするか考えた俺の脳裏に、真っ先に浮かんだのはあのログハウスだった。それ以外の選択肢はないと思えた。
俺はプロポーズの言葉として、まず問題のログハウスの情報を開示し、そこへの引っ越しを提案し、最後に「結婚しよう」と言った。
アスナが、まったく迷う様子もなく「はい」と答えてくれたことには、あの家の加護も少しばかりあったのかもしれないと、俺は思っている。