電撃文庫『豚のレバーは加熱しろ』特別掌編
癒えない傷跡
逆井卓馬

 意識が裏返りそうになる感覚の中で、パブの扉を押し開けた。手近なソファー席に倒れ込む。近くに座るじじいが、大丈夫かねと声を掛けてくる。知るか、とそっぽを向く。
「ばっちゃん、悪い、包帯を持ってきてくれねえか」
 いつも通りの調子で言おうとするが、喉が言うことを聞かず、俺の声は奇妙に裏返った。
 奥から出てきたのは、ばっちゃんではなかった。
「……お前のことは呼んでねえ」
 俺が歯を食いしばったまま唸ると、イェスマは驚いたように二重の目を見開いた。
「どうしたんですか、こんな大怪我をして!」
 駆け寄ってきたイェスマを、俺は動く方の手で払いのける。
「うるせえな、ちょっと熊に引っ掻かれただけだ。自分でなんとかするさ」
 痛みに耐えかねて、イェスマを払いのけた手で肩を押さえる。
「血だらけじゃありませんか! じっとしててください……今リスタを……」
「いらねえって言ってんだろ。ほっとけよ。包帯をもらいに来ただけだ」
 立ち上がって、自分で奥へ歩こうとする。しかし眩暈がして、すぐにソファーへ倒れ込んでしまった。かなり出血しているようだ。
「動かないでください……ねえ、ノットさん」
「何だよ、触んじゃねえ」
 身体をよじって拒絶すると、イェスマは手を止めた。
「ノットさん……どうしてそんな自暴自棄になるんですか。最近おかしいですよ。どうせ今日も、一人で狩りに行ったんでしょう」
 叱られるような声に、怯んでしまう。イェスマは声を和らげて、続ける。
「まだまだ将来があるんですから、自分を大切にしてください。今はしっかり治療を受けてください。私が癒して差し上げますから、ここでじっと――」
「俺の将来は俺が自分で決める。お前には関係ねえだろ」
 沈黙。悲しそうな目が俺を見た。
「でも……私と結婚するって、そう言ってくださっていたじゃありませんか」
「結婚? イェスマのお前と?」
「…………」
 言い返さないイェスマ。俺がいつまでも世間知らずでいると思ったか。
「聞いたぜ。お前、もうすぐこの村を出てくんだろ。イェスマに俺の将来は関係ねえんだ」
 しばらく黙っていたかと思えば、イェスマは俺のそばにしゃがみ込んで目尻を下げる。
「……おい、何笑ってやがんだ。包帯をくれよ。本当に死んじまうぞ」
 イェスマはその薄い唇を悪戯っぽく笑わせる。
「最近私を避けていると思えば……そんな理由だったんですか?」
「悪いかよ」
 ヤバい。目の前で星が飛んでいる。ソファーから床に血の滴る音が聞こえる。
 イェスマが何か言っているが、聞き取れない。
 目を閉じた俺は、そのまま意識が薄れていくのを感じた。


 頭を撫でられて、目を覚ました。ベッドの上で横になっている。柔らかく懐かしい感触が、俺の頭を支えている。目の前には――白い布に覆われた二つの大きな膨らみ。
「お目覚めになりましたね、すけべさん」
 膨らみの向こうから、笑った顔が覗く。すると同時に、枕も動く。俺は膝枕されていた。
「頭ん中を読むんじゃねえ」
 痛みは消えていた。腕は問題なく動く。服も、柔らかく清潔なローブに変わっていた。
「……お前、勝手に着せ替えたな」
 イェスマが悪戯っぽく笑う。
「ご迷惑でしたか?」
「もうガキじゃねえんだ、軽々しく脱がすな」
 起き上がろうとしたが考え直し、寝返りを打ってイェスマの腹とは反対側に顔を向ける。ここはこいつの寝室だ。柔らかな指が、優しく俺の耳を撫でる。
「もう一人前の男性ですものね。しっかり拝見しましたよ」
 ふざけるな。そう思いながらも、耳が赤くなるのを止めることはできなかった。
「……癒してくれたんだな」
「当たり前じゃないですか」
「またばっちゃんに借りができちまった。金はいつまでに払えばいい」
「お金なんて」
 こいつはそう言うが、治療はリスタをたくさん食う。こんな未熟な放浪者の稼ぎでは、当分払いきれない。
「……いいんですよ。私がなんとかしますから」
「そしたらお前に借りができるだろうが。行っちまうなら、もう返せねえぞ」
 俺を撫でる手が止まる。自分でも、声が震えているのが分かった。
「まだすぐには行きませんよ。もう少し長く、留まれるかもしれないんです」
「でもいつかはいなくなっちまう」
「嫌なんですか?」
 顔は見えないが、いつものように悪戯っぽく笑っているのだろう。いつだってそうだ。力は弱いのに、こいつの方が上手うわてなんだ。どんなに背伸びしたって、やっぱり俺は年下だ。
「……どうにかなんねえのか」
 強がって訊く俺の声は、かえって情けなく響いた。
「ひとつだけ、方法があります」
 頭をずらして上を見る。あれの向こうに、真剣な瞳が覗いていた。
「本当か」
「ええ」
「何だ、教えろ」
 俺の額の上に、ひんやりとした指がのせられた。
「簡単ですよ。ノットさんが一人前になったら、私と一緒に来てくださればいいんです」
 額の指が、俺の髪をそっとかき上げる。思わず目を閉じる。そんなに簡単な答えがあったとは。こいつが行ってしまうならば、俺も一緒に行けばいいのだ。
 強くなりたいと願ったのは、それが最初だった。



豚のレバーは加熱しろ
著者:逆井卓馬 イラスト:遠坂あさぎ
作品ページはこちらから↓
https://dengekibunko.jp/special/butaliver/