吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
あとがき

 

【Unknown_Storage】あとがき【file09】


 どんっ! 吸血鬼ゾンビも一〇冊になりました。
 鎌池和馬です。
 今回は流星雨の墜落から始まった連鎖型災害と、そこに並行して行われるJBとの大規模なバトルを軸にしています。どうも私の中ではストレートな脅威はもちろん、それを『使える』と考える人の業みたいなものが怖い、と考える思考があるようです。インテリビレッジやぶーぶーでも形を変えて表れていましたね。
 また、言葉が通じない、文化が違う、そんな場所での災害もスタンダードとは違った怖さがあるのではないかなと。今は簡単に通訳・翻訳をしてくれる機械もありますが、電気や通信が途切れた状況でも使えるかどうか。いざという時、どこからどうやって情報を仕入れるかについては非常口の確認と同じくらい大切だと思います。


 アナスタシアが顔を出すとスマホやセキュリティ方面のカラーが強くなります。こちらもこちらで大好物。単純なツールやテクノロジーの他にも、いつもは振り回されっ放しなサトリが主人公っぽく動くからかもしれません。
 マクスウェルに天津ユリナ。災害下でも頼もしい仲間のおかげで安全地帯がいくつか用意されています。しかし、だからこそ、仮初めの安全が崩れた瞬間こそハイライトではないかなと。
 災害下では絶対の安全なんてちょっとした事で崩れてしまうものだし、そもそもこれがあれば安全という前提の情報自体が間違っているかもしれない。そんな中でも足掻いて前に進み続けた天津サトリの物語。楽しんでいただけましたらと願っております。


 イメージイラストの真早さんと担当の阿南さんには感謝を。吸血鬼やゾンビ、アブソリュートノアやJB、そしてユリナやアナスタシアと、一つの世界に生きるレギュラーキャラでも誰が表に出るかで作品カラーは大きく変わります。そこまでの広がりができたのは間違いなく設定イラストの力だと思います。今回もありがとうございました。
 そして読者の皆様にも感謝を。供饗市を離れると地形破壊がダイナミックになりがちなのですが、今回の流星雨災害はいかがでしたでしょうか。一見荒唐無稽ではありますが、どうやら全世界で燃え尽きた星屑が(目には見えないレベルの微細な塵らしいですが)一日一万トンくらいは降り注いでいるらしいと聞くと結構ぞっとしないでしょうか。当たってる当たってる、ち、地球に弾幕系のシューティングは厳しかったか。ともあれ、ここまでお読みいただいてありがとうございました!

 それでは、今回はこの辺りで。

 パートナーがヘレンかアナスタシアかで大分カラーが変わるなあ     鎌池和馬


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第八章

 正直、だ。
 このまま日本に帰れないんじゃないか。そんな展開も真面目に考えていた。
「……恐るべしだな、アブソリュートノア」
「何を言っているのサトリ、ただの輸送機でしょ」
 だから普通の人はモスグリーンに塗られた大型機なんて乗れないんだってば。
 世界は平和だった。
 あれだけの事が起きても、まだ。EU内はもちろん様々な国から支援の申し出があって、パリの再建に動いているらしい。
 でも、何だか腑に落ちない。
 まるで何かの号令があって、一斉に世界中のパニックが収まってしまったような、そんな不可解なもやもやがいつまでも残る。
 だって経済は? 食糧やエネルギー、軍事や外交のバランスは? 流星雨が止まったって地球の裏側ではフェイクニュースが拡散するかもしれない、次は自分達の街がやられるって。買い溜めや暴動なんかが起きても不思議じゃない。
 なのに奇麗さっぱり何もない。
 朝の八時に起きて一〇時から会社で仕事を始める、いつものサイクルを七〇億人が保っている。
 不気味だろう? そんなの。
 世界が平和なのは良い事のはずなのに。それでもどうしても違和感を拭えない。
 例えば、人類全体にモラルハザードが拡散する終末の人災・カラミティ。それだって、本物の神様ならスイッチ一つでオンオフできてしまうんじゃないか。
 オンオフ。つまりそう、オフだけじゃない。オン側にだって。
 ……そしてこれまで一度もそうしなかったなんて誰に言える? 僕だって気づかなければ平和な世界で笑っている側だった。
「……、」
 小さな画面越しに、濡れ髪の女の子が声を掛けてくる。
『こっちはもう東海岸のホテルでシャワーを浴びてディナー食べて、ベッドに飛び込んだところよ。トゥルースは地球の裏側だから大変そうね』
「よく我慢できたな、機内食」
『じょーだん、助かって最初に食べるものくらいこだわりたくない? キンキンに冷えた炭酸禁止なんてまっぴら。ラップで包んだ作り置きをレンジで温めるだけの保存食じゃ感動がないわ』
「なに食べた?」
『モンスターバーガー、トリプルミート。これ一個で七〇ドルもするバカみたいにでっかいハンバーガーだわ』
「うわあ、生きてるねえアナスタシア……」
『ええまったく。完食するのに二時間かかったわ。ホテルのウェイターはびっくりしてたわね、SNSの写真狙いじゃなかったのかって』
 こっちはぺらぺらのプラスチックみたいな焼きジャケ定食だ。アナスタシアの言う通り、感動も何もない。
 ただ、家には帰れるようだ。
 ……実は一つ恐れていた可能性があった。いきなり黒服に左右を固められて、方舟まで強制連行されるパターンだ。神様とかいう、訳の分からない管理者が邪魔な星を一つ消した。JBの話が真実だったのかはっきりしないまま。次、狙われるとしたら邪魔者は誰だ? 家族を守るために方舟を作った義母さんからすれば、守りの切り札を使わない方がおかしいくらいだった。
 しかし、そうなっていない。
 スマホのマクスウェルをスタンバイさせていた僕からすれば、不思議で仕方がなかった。
 理由についてはシンプル過ぎた。
「間に合わない……」
 ぽつりと、天津ユリナはそう呟いたんだ。
「仮にあの連中が本格的に介入してきたなら、地上の都合で勝手に作った方舟の存在なんて許さないはず。神は、自分で選んだ命だけを生かす。人の側の余計な足掻きは許さない。だから必ず一撃が来る」
 皮肉、ではあった。
 今まで世界中の命を選別していたのは天津ユリナだったはずなのに。その彼女が奪われる側に転落している。
 いや、違うのか。
 元から奪われる側だった。だから必死になって足掻いていたのかもしれない。
「迎撃しようにも戦力が足りないわ。アブソリュートノア再建のため、力を結集する意味でもJBの撃破っていう事実が欲しかった。今のままでは、足りないわ。人を集めるためのカリスマ性が。方舟は機能しない」
 珍しい、と思った。
 それにしてもあの天津ユリナが、こんな風に自分の弱いところをこぼすだなんて。
 前の時は、JBと戦争するって息巻いていた。そこにはある程度の勝算があって、少なくとも最善のパターンに漕ぎつければ計画のロードマップの先の先に勝利の形が見えていたんだろう。
 ただし。
 今度は違う。
 どんな形であれ人類をカラミティから救う、一定数は残して種を残せるよう尽力してきた魔王リリスが、見失っている。
 地図か。
 あるいは磁石か。
「……神様」
 ぽつりと僕は呟く。
 世界は彼らが回す。彼らが首を横に振れば、太陽の周りを回る星すら一瞬でなくなってしまう。テーブルについた汚れでもざっくり拭き取るように。
「マクスウェル」
『シュア』
「次は、来ると思うか?」
『シミュレーション不能なリクエストです。それこそ神のみぞ知る、としか』
「……、」
『ただし決め打ちで一つの詳細な予測ができないなら、考えられる可能性を全て列挙した上で最悪を想定すべきかと。同じ現場にいた以上、ユーザー様は神様サイドからその存在を認識され、近い内に干渉を受けるリスクがあります。具体的な数値はさておき、少なくともゼロではないはずです』
 天災を生む者。人間には把握もできない膨大な歯車の動きに基づいて正確に星を傷つけていくてっぺんの存在。
 荒唐無稽なファンタジーじゃない。実際に、これまでだってチラチラ見え隠れしていたはずだった。光十字って名前が一ミリも神様を意識していないだなんてありえないし、『コロシアム』を管理したヴァルキリーのカレンもそう、我が子を次々と殺されたエキドナが恨んでいた相手だって神様、吸血鬼はタブーを冒した人間が神に呪われて生まれるって話も聞いたし、JBだって神の力を部分的に掠め取ってあれだけの被害を撒き散らしてきた。そのJBですら管理しきれなかったヘカテの自由気ままぶりは、神様のスタンスを端的に示しているとも言える。僕達の戦いには、常にその存在が寄り添っていた。
 最初から見えているはずの相手。
 今さらになって太陽の存在に気づくような、あまりに間抜けな発見だった。
 それでも、どうする?
 分かったから何ができる。神様が直接迫り来るとして、対策なんてどうやったら良い?
 倒す? 逃げ切る? 譲歩を引き出す? そもそも勝ちの形が、もう見えない。
 人間も、アークエネミーも。大荒れの世界を認めた上で方舟に閉じ籠ろうとしたアブソリュートノアも、認められずにこんな世界からの脱獄を願ったJBも。
 神様なんて、こんな連中だけは手の打ちようがない。
「義母さん、連中の動きは? 次はどう出る?」
「……もう始まっているわ」
 魔王リリス。
 特大の存在だけど、それでも天の神様には勝てなかった……悪の側に突き落とされた誰かがそう呟いた。
 自嘲気味に。
 天災を前に立ち尽くす、誰とも変わらない顔で確かに言ったんだ。
「常に、私達はヤツらの掌の上なのよ。だから始まりも終わりもない。ただただ永遠に、決まったレールを走らされて苦しめられるだけ」
 JBは最低だった。
 キャストのヤツらがパリでやらかした事なんて、一つも擁護はできない。
 だけど、僕達は奪った。
 余計な事をした。そのせいであの連中の介入が間に合ってしまった可能性だってある。神様以外の全ての命に残されていたはずの、最後のチャンスを僕は自分から棒に振ったのかもしれない。
 だから。
「マクスウェル」
『シュア』
 世界は平和になった。
 みんな笑っていた、疑問を持たなかった。
 だけど……きっと、そこに違和感を覚えた僕はもうレールから外れている。神様の庇護下にない以上、次は僕がああなるって可能性を考えた方が良い。
 これまで必死に積み上げてきた全てを圧倒的な力で薙ぎ倒され、周りの誰もがそれで良かったと笑って拍手する世界。舞台さえ整えれば人間の感性なんか呆気なくすり替わるんだ。スポーツ、武道、犯人逮捕の瞬間、またはその先にある処刑。誰かが誰かを攻撃する行為は痛ましいだけじゃなくて、時に正反対の感動すら呼び起こす。
 きっとそうなる。
 向こうのスケジュールでお涙頂戴の燃料扱いされる方はたまったものじゃない。
 これは、人間とかアークエネミーとか、でっかい何かを守るための戦いじゃない。
 ここからは僕が僕を守り、それ以上に大切な人を助けるための戦いだ。
 JBのキャスト、ヘルについては身柄を拘束してアブソリュートノアに預けたけど、それだけじゃ足りない。

 次は、本物の神様との戦いになる。
 この平和で安定した世界にわずかでも疑問を抱く事。僕はきっと、ヤツらのタブーを踏んづけた。

 もっと世界の核心に迫る力がいる。
 天災。
 そんな言葉で身近な誰かが泣く瞬間なんて想像もしたくない。エリカ姉さんや妹のアユミ、後輩の井東さんに、何より委員長。誰一人、こんな理不尽に巻き込ませたりなんかさせない。天災は神が起こす。ヘルの言葉が正しければ、災害環境シミュレータはまさに神々の決定に抗うために人が創造した装置だったって訳だ。でも僕やマクスウェルだけじゃ、足りない。相手は条件次第では、手品のように惑星一つを丸ごと虫食い状態にして消滅させるほどの力を躊躇なく使ってくるんだから。
 だとすると。
 だとすると、だ。
「検索しろ。……JBの遺産と、後は可能なら軍用シミュレータ・フライシュッツとのコンタクト方法」
『すでに、先方よりリクエストは来ています。十中八九罠でしょうけど』











 JBの軍用シミュレータ・フライシュッツより通信リクエストがあります。コンタクトに応じ、専用のグループを作成しますか?(y/n)

 警告、JB側には極めて高確率で裏の意図があります。危険度最大、非推奨。選択の際は細心の注意を払ってください。









 


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第七章

 

   1

 ちなみにマクスウェルはわざと通信を切った訳じゃなくて、普通にスマホ本体が壊れていたらしい。アナスタシアが変な工具で本体を開けて中をいじくったら再起動できた。
「誤作動とか接触不良とかって言ったら大体ココよ。洋梨のスマホって砂時計のくびれみたいに、必要もないのにわざとハードウェア上脆い箇所を作ってんのよね。何故かって? そりゃ頑丈で長持ちしたら誰も買い換えてくれないからに決まっているわ」
 ハッカーのアナスタシアはこういう所にやたらとうるさい。語り出したら止まらない。
 そしてマクスウェルは開口一番アレルギーが出ていた。
『ほ、本職のハッカーに直で基板を触らせるとか何考えてんですかこのすっとこどっこい。BIOS領域にウイルス仕込むよりエグいハードウェア攻撃をされていないと良いのですが……』
 この状況だ、いくらアナスタシアでも小指の爪より小さなチップの付け替えをする余裕はないだろう。ハッカーを警戒するのは分かるけど、ハッカーなら何でもできるってイメージ自体が彼らの手助けをしている事も忘れちゃならない。
 ともあれ。
「とりあえずここを離れましょう」
 と義母さんが言った。
 人が多く集まるモンパルナス駅は、確かにJBの襲来を待ち構えるには不向きだ。大勢の無関係な人達を巻き込む意味でもそうだし、僕達はJBの兵隊の顔なんか知らない。群衆に紛れて接近されたら面倒な事になるのは目に見えていた。
 アナスタシアがペットロボットを小さな胸の辺りで抱き締めながら、
「短期間とはいえ組織に潜っていたんでしょ。JBの手口は引っこ抜いていないの?」
「分かるけど、向こうだってそれを織り込んで作戦を立てるでしょうね。半端に齧っていると先入観に囚われて、自分で自分の選択肢を潰す羽目になるわ。ドヤ顔のアマチュア相手に手品師が良くやる方法よ」
「……つまり、組織にとっても裏技が来る?」
「JBはその大きな規模の割に秘密主義の徹底を末端のキャストにまで強いる、重心の悪いアンバランスな組織よ。身内の行動を監視して必要なら拘束や暗殺を行う、専門の捜査機関を設けていても不思議じゃないわ」
『あの』JBの中に警察部門があるなんて悪い冗談だ。しかもその警官達は、法律以外のルールで厳密に人々を縛りつけている。
 アナスタシアは唇を尖らせて、
「それ、アブソリュートノアではどうしていた訳?」
「あなただけが知っている特権階級の秘密は、あなただけが隠していた方が得をする。さもなくば方舟はあなた以外の民衆で溢れ返って定員オーバーとなり、出航すら難しくなるでしょう」
 ……自分だけは何があっても生き残りたい、って欲を逆手に取った訳か。JBのように締めつけるんじゃなくて、自分から口を噤むように仕向けたんだ。さらに言えば、知るべきでない者にまで拡散しそうになった場合は生き残りたいと願うセレブ達が自家生産の脅えに衝き動かされ、寄ってたかって同じ特権を持っているはずの一人の口を封じるようにも。
 自粛ムードは、何も潔癖から生まれるだけとは限らない。
 世界の秘密を握っている金持ちは飄々とした顔でテレビに出演して、民衆の怒りとやらを代弁したりしている。だけど大きな事件や災害が起きてみんなが右往左往している時、テレビの向こうにいる彼らがいきなりごっそりいなくなる事はまずない。つまり深刻そうな顔はしているけど、何だかんだで分厚い装甲に守られている。彼らが急にいなくなるのはサッカーの世界大会の時くらいだ。
「具体的にどこへ行くの、義母さん?」
「敵は開けた場所を狙って降下してくるでしょうけど、どこから見ても丸分かりな空中コースはブラフでしょうね。本命は私達が呑気に夜空を見上げている隙に、地を這って真正面の死角から喉笛を狙ってくるはず」
 天津ユリナは指を一本立てて、
「そこでJB炙り出しのために、こっちは、普通の人なら絶対にそんなトコ行かないだろって場所に陣取るわ。ゴミゴミした街中で後ろを振り返っても尾行があるかどうかなんて判断できない。でも誰もいない、どこまでも広大な南極のど真ん中なら話は別でしょ。だって他に人がいないんだから」
「つまりどこ?」
「ルーヴル美術館」
 パリの地名は言われてもピンとこない僕だけど、そんな僕でも分かる。
「ルーヴルって、あのルーヴル? じ、冗談じゃないぞ!」
 もっと具体的な話を切り出したのはやっぱり金髪少女のアナスタシアだ。
「というか、セーヌ川の対岸から見たけど略奪犯と警官隊が思いっきり銃撃戦をしていた辺りじゃない! 賢明なパリの市民なら今夜は絶対近づかないでしょうし、言ってもワタシ達の扱いは外国人なのよ。このピリピリした災害下であんな所にふらふら顔を出したら命がいくつあっても足りないわ!!」
 対する義母さんの答えは一つだった。
「イエス、『だから』普通の人は来ないでしょ? 絶対に」

 

   2

 午前二時。
 まだまだ夜明けまでは長い。
 だけど全てが白日にさらされた時、僕達は目の前いっぱいに広がるパリの現実を受け入れる事ができるんだろうか。慣れというのは恐ろしいもので、あれだけ危険の象徴だった暗闇に名残惜しさを覚えている。変化を怖がっているんだ、こんな状況で。パリの歴史全体からすれば、今日この一日こそが最大の異物だっていうのに。
「……静かになってきたわね」
 非常階段を使ってモンパルナス駅地下から出て、表を観察しながらアナスタシアが言った。
「こんな日くらい神経が昂ぶって、誰も寝付けないんじゃないかと思っていたんだけど」
「逆よ。いつもと違う事をしているんだから疲労が溜まって当然、だから水とか糖分とかちょっとした補給でスッと眠気に包まれていく」
 天津ユリナはそんな風にバッサリ切り捨てる。
 相変わらず建物は崩れ、瓦礫は道路まで雪崩れ込んでいて、歩きにくい事この上ない。街灯一つないものだから、地面に崖みたいな亀裂があっても分かりにくい。
 信号機が斜めに傾いていた。
 いつ重たい機材が頭の上に降ってくるかもしれない。今日なら何でもありだ。
 スマホのライトは足元も頭の上も常に必要だった。バッテリーは永久機関じゃないし、さっきは接触不良で電源が落ちてる。いきなり切れて立ち往生、にならない事を祈るしかない。今は義母さんやアナスタシアのスマホもあるから、いきなり全部壊れる心配はないと思うけど。
 見るからに略奪狙いの暴徒とか自暴自棄の酔っ払いなんかは通りにいないようだった。それどころではないのかもしれない。欲をかくのは、寄り道するだけの余裕ができてからか。
 僕達は北に向かって進んでいるはずなんだけど、方角なんて実感がなかった。スマホの地図にある矢印って感じ。そもそも地図アプリと現実の風景があまりに違い過ぎて、正しいはずの地図が薄っぺらに見えてくる。
「……あれだわ」
 義母さんが片手を水平に上げて僕達の歩みを止めながら呟いた。
 ギリギリだけど、何とか無事な橋がある。夜の色を吸って真っ黒な川の向こうに、宮殿みたいなでっかい建物があった。
 ルーヴル美術館。
 まだ向かい側なのに、自然と腰を低くしてしまう。鉄砲の怖さはイメージしにくいけど、だから根拠があるんだかないんだかな恐怖心がまとわりついてきて離れない。間近に雷が落ちた時、校庭の真ん中に取り残された自分はどうするべきか。そんな感覚に近いかもしれない。
「銃声とかは聞こえない、みたいだな……」
「でもいるわ。あちこちに明かりがある」
 アナスタシアの言う通りだった。
 どこも粘つく闇に沈んだようなパリ市内だけど、川の向こうは例外的にぼんやり光っている。建物の明かりって感じはしなかった。集まっているパトカーのヘッドライトか、あるいは小型の発電機でも持ち込んでいるのか。オテル何とかの広場でも見たけど、工事用の野外照明は根本にガソリン発電機や巨大なバッテリーをつけたものもあったっけ。
 それだけ重要な場所なんだ。
 隠れて近づいている事がバレたらどんな疑いを持たれるか分かったものじゃない。
 ……まずは手前の橋を渡らないと。
 前に見た橋は崩れていた気がするけど、どうも細長いルーヴル美術館に面した橋はいくつかあるらしい。マグマ水蒸気爆発とかも耐えたのかな、これはその一つだ。
「水位は……見えないわね」
 アナスタシアが岸から身を乗り出しながら難しい顔をしていた。おかげで小さなお尻が危ない。
 それにしても、これまた石でできた古そうな橋だ。今日の災禍を浴びてただでさえあちこち崩れかけているし、もう一回『川の逆流』が襲いかかってきたら年代物の瓦礫と一緒にサーフィンする羽目になるだろう。大きな亀裂も多い。原因となる流星雨は小康状態だけど、真っ暗な夜空なんて見上げたって何も判断できない。そもそも人工的に落とされているんだから、天気予報みたいに兆しを読み取るなんて不可能だ。
 JBは、どんな手を使ってでも裏切り者を始末したい。世界の裏側へ潜られる前に、今ここで。だとすると、持っている手札を使わない方が不思議なくらいだ。でも義母さんに助けてもらっている僕達が非難するのも筋違いか。
 大体、JBから狙われている義母さんがパリを出て誰もいない原野にでも行けば周りを巻き込む心配はないのでは……じゃない。
 大切なものだと分かれば集中的に狙って人質に取る危険がある。JB側としちゃ、義母さんの自由を奪って確定で拘束したいはずなんだから。そうなると、内心ではどうあれパリに対して冷たい態度を取るしかなくなるんだ。
「ほら、お母さんについてきて」
 そればっかりな気がする。もちろん何の補助もなく真っ暗な今のパリを歩いても、道路の亀裂に落ちたり瓦礫に押し潰されたり、何の陰謀もなく誰にも語れない理由で死んでいくのは目に見えているんだけど。
「まずお母さんが行くわ、私が立ち止まって一〇数えても何もなかったらサトリ達は同じ道をついてきて。その繰り返しよ」
 天津ユリナは腰を低くして、石橋の端の方を奥に向かってそろそろと歩く。足が大地を離れて黒い川の上を進むと、現実感がふわふわと薄れていく。
 彼女が身振りでサインを送ってから、僕とアナスタシアがその後を追う。
 時々、倒れた街灯や放置された車に寄り添って辺りを観察するけど……僕達のはほとんど義母さんの見よう見まねでしかない。
 何がどうなってここにあるのか、義母さんは橋の上に乗り上げていたモーターボートの側面に張りつきながら、
「……罠も狙撃もない。JBのキャスト達もまだポジションについていないのか、あるいは奥まで誘い込んでから包囲するつもり?」
 あったらどうしていたんだ、とは聞ける雰囲気じゃなかった。お母さんは良いのよ、よけるから……、という言葉が脳裏をよぎる。
 天津ユリナの先導で、何とか壊れた街を進む。
 対岸に着く。
「うっ……」
 思わず呻いたのは、ぼんやりとした周囲の光が強くなった気がしたからだ。心臓に重たい負荷。事情を知らない警察側のテリトリーに踏み込んだ。銃の世界に。そんな気がした。
 アナスタシアは別の所を気にしているようだった。
「……世界最強警備のルーヴルでしょ、セキュリティってどれくらい生きているの? 敷地に足を踏み入れるまで近づく者はノーマーク、なんて甘い事を言うはずないわ」
 ハッカーはハッカーらしい物言いを貫いていた。ただ一方で、僕達がこうして最接近しているのに警官隊が押し寄せてくる気配もない。
 天津ユリナは肩をすくめて、
「ルーヴル美術館に預けておけば安心だ。良く聞く伝説だけど、ストップウォッチ片手に警備の動きをほんとに忍び込んで試してみた人っているの?」
「まさか……嘘でしょ……?」
「そういう伝説で威嚇するのもセキュリティの一つなのかしら。実際、ルーヴルを囲っている防衛網の正体は今あなたが見ている通りよ」
 唖然とする僕達に、義母さんはあっけらかんと言ったものだった。
 ただ、言っているのはアブソリュートノアを率いて、救いを求める官民のVIP達を眺めてきた天津ユリナだ。この辺の裏事情は散々見聞きしてきたのか。
 そりゃあ、僕達だってフランス国防省の地下に無断でお邪魔している。非常時とはいえ緩いなとは思っていたけど……。
「案外多いのよ、実力以上に自分を大きく見せる事で無駄な衝突もなく見えない壁を作ろうとするやり口って。大人の世界の常套手段だわ。世界最強の軍隊とか、最高警備の刑務所とかね」
 でも、そういうヴェールを小惑星の雨が丸ごと吹き飛ばし、剥がしていった。フランス側にとっても流石に流星雨は想定外だったんだろうけど。でも予想できませんでしたと言っても時間は待ってくれない。
「さて、私達も配置につきましょう。狙うのはJBの返り討ちよ。そこから情報を抜き取る」
 川の対岸から見ればきらびやかな宮殿みたいだったけど、近づいてみればやはりダメージが目立つ。壁の亀裂からは、こんな時でなければ離れておきたい。主立った窓のガラスは全部割れていたし、瓦礫の中には崩れた屋根らしきものも見える。ただ、建物自体はきちんとそびえているし、炎や煙に巻かれている様子もない。別に当たり前の事なんだけど、この状況でまだ普段通りを保っていられる辺りはやっぱりすごいと思う。
 僕達なんかボロボロだ。
 人様の許可も取らないで敷地をまたぐ事に、罪悪感を感じなくなりつつある。
 どうやらルーヴル美術館はコの字をしているようなんだけど、唯一開いた口から広場に近づけばそれこそ警官隊とまともにかち合う。僕達は川に沿ってコの字の外側から側面を眺めている格好だ。
 西洋の宮殿っぽいので、見るだけなら窓はたくさんありそうだった。ガラスも全部割れている。
 ただし普通だったらあそこを潜ろうなんて泥棒でも考えないと思う。
 スマホをかざし、一切機械的な熱や音を放たなくなった、つまり壊れて沈黙した防犯カメラの下をおっかなびっくり進みながら、
「具体的にどうするの?」
「JBを焦らせるのよ。あなたを待ち伏せしていますなんて言ったら釣りにならないから、もっともらしい理由をつけてデコレーションする。私は世界各国のVIPを手懐けた天津ユリナなのよ? 警官隊に保護してもらって秘密の手順でパリ脱出を図っていると思わせられたら、JBだってこそこそ長期戦の準備なんかしていられないでしょ。安全な狙撃スポットから飛び出して、小さなナイフを握り締めてでも私を止めなくちゃならなくなるわ」
 なるほどもっともらしい。
 ていうか僕達がピエール=スミスことビッザ=バルディアを追い回した時と一緒じゃないか。
 天津ユリナは揺るぎない。義母さんに任せておくとそのまま右から左へ流してしまいそうになる。
 ただちょっと待った、
「か、義母さん……? それってつまり」
「ええ。おそらくサトリが今考えている通り」
 ぱちりと片目を瞑って現役の魔王が言い切った。

「フランスの警官隊と接触すればするほど秘密主義のJBは焦る。だからそうするのよ、やっほー!!」

 ぶっ!? と暗がりにいたアナスタシアが思わず噴き出していた。ピリピリしているパリの警察と鉢合わせしたら勘違いから銃弾が水平に飛んできかねない。だからできるだけこっそり死角に潜り込む。そんな誰でも分かる当たり前の前提が一発で壊れた瞬間だった。
「ちょ、なっ、バカ……」
「ほら行くわよサトリ。もたもたしないの」
「ばかー! ここにきて全力の笑顔でやっほーとか!? やっぱ義母さん見た目は若いけど中身っていうかセンスの方はババぐえげふん!!」
 真実に触れたら片手一本で襟を締められた。笑顔で天津ユリナは告げる。
「お・か・あ・さ・ん、が何だって?」
「あぐもぐぐ!! 分かった分かった、新しいおかあさんは若くて美人でご近所に自慢できますう!! もうなんていうか歳の事言われてキレる母っていうのが昭和のおばごきゅ!?」
「一度で懲りてね?」
 微妙に(一人で海外旅行ができちゃう大変自立した)一一歳の少女から呆れたように見られながらも行動開始だ。
 直後だった。

 ゴガッッッ!!!!!! と。
 一番厳重な広場の方から、爆発があった。

 え?
 何が、今……。
「伏せて!!」
 義母さんが慌てて叫んで、僕達二人の上に覆い被さってくる。
 押し倒されている間にも、まだ続いた。二回、そして三回。近くの街路樹がいきなり弾けて、硬い木の皮がめくれるのも分かる。
 ていうか。
 貫いた? 何も見えなかったけど、宮殿みたいな博物館の建物を丸ごと貫通して破片か何かが飛んできたのか、今!?
 僕と同じように濡れた地面にぺたりと伏せたまま、アナスタシアが質問してきた。
「どうするの、撤退!?」
「それじゃ警官隊はどうするんだっ」
「サトリ」
「これについては僕達が巻き込んだ、JBの危険性を知っていながら。絶対向こうで何か起こってる!!」
 義母さんの下から這い出ながら叫ぶ。もちろん警官隊だって応戦はしているはずだ。最悪、本来だったら守るべき市民全員が暴徒になるかもしれない疑いを向けてでも、世界的な美術品や骨董品を守るために。
 なのに、聞こえない。
 ……銃声らしきものが。音は鳴っているかもしれないけど、もっと凄まじい爆音にかき消されているんだ。
 学校の校舎みたいに長い博物館の建物に沿って僕達は走る。爆発はやまない。というか一体何が起きているんだ、ビリビリと地面が細かく揺れて体がふらつく。逆サイド、黒い川の水面もざわついているようだった。
 そして、
「やんだ……」
 遅かった。
 建物の角へ着く前に、しんと静まり返ってしまう。爆発があった方が危険で不自然なのに、元の静寂が落ち着かなくて仕方がない。
 爆発だけじゃない。
 対する警官隊は? 銃声はもちろん、悲鳴や掛け声みたいなのも全く聞こえてこない。人の意思っぽいものが急速に引いていくのが分かる。まるで死体から体温が奪われていくように。
「やんだわよ。これどうするの、トゥルース」
「……、」
 何が起きているのか。
 まだ無事な人はいるのか。
 確かめるのは怖いけど、無責任に引き返すのも絶対尾を引く。気がつけばマイナスとマイナスを見比べてどっちを選ぶか決める最悪の時間がやってきた。葛藤の中でも最悪の部類。ようやくJBへの逆転のきっかけを掴んだつもりだった、だけど今、どう考えても僕達は転落を始めている。
 壁に張りつく。
 ゆっくりと時間をかけて、一度目を瞑って、それから改めて、恐る恐る角の向こうを確かめる。

 理不尽と直面した。

 見るんじゃなかった。
 これは。
 なんていうか……次元が違う。世界が塗り替えられていくのがはっきりと分かる。恐怖を超えて、あまりの理不尽さに怒りすら湧くほどだった。小惑星に核弾頭、それでもまだ足りないっていうのか。JBは。
「……、」
 半分壊れた石の広場にあちこちにバタバタ倒れているのは、今まで美術館を防衛していたパリの警官隊か。ていうかあれは警察? 日本と違ってかなり軍隊っぽい。誰がどういう決まりで装備を決めているのかは知らないけど、防弾の黒いジャケットにショットガンやカービン銃で武装している彼らは、それなのにぴくりとも動かない。自慢の装備は全く役に立っていなかった。
 ……銃と火薬が最強の座を独占する、そんな最新科学の前提が『何か』に否定される。
『何か』って、具体的に何だ???
 ぎちぎちかちかち、と。
 複数の金属が噛み合う音があった。
 まず見えたのは、棺桶。
 西洋式の棺を大顎に据えた、機械仕掛けの肉食恐竜がひっくり返ったパトカーを踏み潰している。全長は一〇メートル以上、二足歩行の馬鹿げたシルエットはちょこんと折り畳んだ前脚を胸の手前に備えていて、そこだけ妙にユーモラスだった。
 効率や機能美を極めた兵器っぽくない。
 それは見た目だけでなく、挙動にも表れていた。
 歯ぎしりに、尻尾の振り。
 重厚な棺の蓋が開いた途端、牙が見えた。棺桶の縁にずらりと並んでいるのは、銀か何かで作ったガス圧式の金属杭だった。噛みつかれれば、一撃で装甲車でもアルミホイルのように引き裂かれる。というか現実にそうなっている。とはいえ、『だから』こんな設計にしている訳じゃないだろう。
 太い尻尾をぶんぶん左右に振り、小さな前脚の指を開いたり閉じたり。
 兵器として無駄がありすぎる。
 単なる機能美だけじゃない。何かしらの神話的・儀礼的な理を感じさせる。明らかな機械なのに、変な存在感、いや神々しさが見る者を威圧してくる。
 でも。
 だって、ダメだろう?
 今日この夜だけは機械が蹂躙してはならないはずじゃなかったのか。
「……それは」
 見たけど。
 前にもビッザ=バルディアが操っている人工物の巨大ワニは見たけど! JBにはそういう技術があるのかもしれないけどさ!! それにしたって、ありなのか? 小惑星の流星雨で崩れていくパリから脱出するサバイバル。そういうゴールじゃなかったのかよ!? 何だ、この、へとへとになってフルマラソンを終えたら次は遠泳ですって言われて崖から突き飛ばされるような無慈悲ぶりは。確かに現実の事件や災害なんて一つとか一個とかでパッケージングされているものじゃないかもしれないけどさ、それでもだよ!!
「おかしいと思ったのよ……」
 ぽつりと。
 あの天津ユリナが、今さら気づいた自分の愚かさを嘆くような声色で呟いていた。
「……水神セベクじゃなかった。遠い昔、この物理世界で川に住むワニへ供物としての食糧を捧げたり、その行動から未来を占ったのは神様じゃなくて神殿で働く神官達だった。実際、ビッザ=バルディアは一回も水神セベクなんて名前は口に出していなかった!」
 だったら。
 だったら僕達が見てきたあのワニは何だったんだ。そしてそれが目の前の大顎みたいな棺桶とどう繋がるんだ。
「クロコディロポリス。外からやってきたギリシャ人はそう呼んでいたわよね、ワニの神を祀る砂漠の街を。ビッザ=バルディアは巨大な神殿を丸ごと折り畳んで形を整え、我が物としていたのよ。そこの棺桶・エリュズニルと同じように!!」
 二足歩行の棺。
 ……エリュズニル……?
 その足元には誰かが寄り添っていた。恐竜と比べればかなり小さな影だ。彼女だけがこの壮絶な景色の中で立つ事を許されている。彼女。少女……のようだが細部は見えない。辺りに取り残されたパトカーの強烈なヘッドライトのせいで逆光になっているんだ。それは何だか俗人が見る事を許されていないといったような、妙な神々しさを感じさせた。
 一体どうやったら見逃してもらえるのか。
 いいや。
 考え方が違うのか。
 ぐるりとこちらへ首を回すと、光に切り抜かれた少女の影は明確に言い放った。

「天津ユリナ」
「っ」

 義母さんは冷静だ。息を呑んだのは僕とアナスタシアだった。
 JB。
 機密と安全を保つべく裏切り者を殺すために派遣された精鋭は、正確にこちらを捕捉している。
「太古の魔王だから大丈夫、というセオリーはもはや通じない。今日までの積み重ねはこの私に何の効力も持たない。あなたの歴史はここで断つ。エリュズニルの元首が、ここに魔王リリスを納棺する」
 天津ユリナが顔をしかめて呻いた。
 これまで見た事のない表情だ。
「……ヘル……」
「地獄の?」
「北欧神話よ。冥界ニブルヘイムの元首、戦士達の社会において不名誉な死を遂げた魂を人類単位で管理する雪と氷の世界の支配者。エリュズニルはそのヘルが暮らす館の名前よ。ビッザ=バルディアの神殿と同じように畳んで作り替え、自由気ままに持ち歩いている。不死の光神バルドルすら呑み込んで離さない『死人の館』を、この物理世界でね」
 専門家も専門家じゃないか。
 そりゃ僕だって腹黒ヴァルキリーと話をした事がある。JBとヘカテが繋がっていた事も知ってる。でも、何もそんな、ここまでか? JB、ここまで好き放題やっておいてまだ世界に満足できないっていうのか!?
 神様。
 これはもう、ゾンビとか吸血鬼とかなんて次元じゃない。都市伝説と世界的な神話くらい話が違う。災害やアークエネミーなんか、これが顔を出しただけで容易く丸呑みされてしまう。
 死から逃れる例外を許さない、神。あまりにも分かりやすい不吉。人間には定義ができないから、ひとまずアークエネミーなんて箱に放り込まれているだけの、実際には定義不明な怪物達。
「棺を開け、エリュズニル。死すべき者へ与える眠りと安らぎのために。慈愛と敬意をもって客人を歓待せよ」
 少女の形をした影が謳う。
 冷たい館の玄関が、開く。
「これは白き停滞の世界にそびえる元首の館。咎人の魂よ、私はその手が罪にまみれていようが強者は礼儀を忘れずに迎賓する。女王ヘルに招待される事を光栄に思いなさい、穢れた賓客」
 ごごんっ、という鈍い響きがあった。
 恐竜に似た棺桶が、足の置き位置を変える。潰れたパトカーから、ひび割れた広場へと。それだけで地面が小さく震動した。これまでの大災害が全て吹っ飛ぶ。塗り替えられていく。
 捕食者に見初められた。
 喰うか喰われるか。
 これは、こいつは、今までの災害や戦いとは恐怖の種類が全く違う!!
「サトリ」
 義母さんが短く言った。
 具体的な作戦があるのかと思った。神話で語られる魔王、七つの大罪の一角、アブソリュートノアの中心。そんな天津ユリナが思いも寄らない名案でこの危機を切り崩していくのかと。
 でも違った。
「あなたの最優先はアナスタシアちゃんよ。その子を連れて逃げなさい、早く!!」

 

   3

 爆音が鼓膜を殴打し、地面が下から突き上げられるように大きく揺さぶられる。
 どこをどう走ったかなんて正直覚えていない。ただ気がつけば僕は屋内に転がっていて、アナスタシアの濡れた体を両手で必死で抱き寄せていた。ここは一体何階なんだ? まだルーヴル美術館の敷地なのか。それさえ確証がない。
 掌にぬるりとした感触がある。
 ガラスか何かで切ったようだけど覚えていない。窓でも越えた時に怪我したんだろうか。とにかく出処は僕で、アナスタシアの冷えた肌に傷がない事だけ確かめる。
「あ、あ……」
 腕の中で、アナスタシアもまた震えていた。体を丸めて小さな親指を口に含んでいる。何かしらの退行の、サイン? まるで、周りの全てから内側へ逃げ込もうとするようだ。
 何が……あった?
 ドゴン!! ずどんっ!! という全身を叩くような衝撃は、まだ途絶えない。激しい音がある間は、戦っているはずだ。つまりあの棺桶、エリュズニルは敵を見据えている。
 ……義母さんは?
 天津ユリナはどこ行った。まさか外であの巨体と取っ組み合いでもしているのか……?
 マクスウェルは、ダメか。
 今は声の一つでも怖い。画面のバックライトなんてもってのほかだ。くそっ、落雷対策の時に使っていた無線のイヤホンはどこやった? どこかに落としたのかよっ!?
「くそ……」
 アナスタシアを抱き寄せたまま、とにかくハンカチで自分の掌を縛って止血を試してみる。厳密にはその真似事か。減災都市なんて呼ばれる供饗市で暮らしている割に、僕はその辺のサバイバル知識が使えるレベルで頭には入っていない。料理や英会話なんかもそうだけど、必要な知識っていうのはやろうやろうと思うほど遠ざかっていく気がする。
 手をやったのは何気に痛い。
 音を立てないよう気をつけて床を這いずり、窓の下へ。駄々をこねるように僕の上着にしがみつくアナスタシアを無理に引き剥がしたりはしないで、二人分の体重を支える感覚で首を伸ばす。そっと割れた窓から外を眺める。いくつかのパトカーのヘッドライトや屋外照明でぼんやりと輝く外の方を。
 ……明かりが残っているって事は、ここはやっぱりルーヴル美術館なのか?
 潜望鏡でおっかなびっくり外界を覗く気分だった。
 こっちの潜水艦は疲弊しきっていて、海の上には魚雷なり爆雷なりをしこたま積んだ軍艦やヘリコプターがうじゃうじゃいるようなイメージだけど。
 今はとにかく情報が欲しい。
 具体的な作戦とか戦術とかじゃない、勝算なんか全くない。ただただ情報を手に入れて緊張から逃げ出したいんだ。まるで赤ちゃんが哺乳瓶を求めて泣きじゃくるような、後先なんか三秒も考えられない餓えが僕を衝き動かしている。
 そして、分かっていたはずだ。
 前にも同じミスをしたはずだ。
 見れば、後悔すると。
「……ちくしょう……」
 まず僕達はルーヴル美術館の三階みたいだった。ここからだと、コの字の建物に囲まれた広場全体を見下ろす格好になる。いくつかのオブジェは小惑星衝突の衝撃にやられたのか崩れてしまい、あちこちに停めてあるパトカーは青いライトやヘッドライトが残っているだけで、人が操作している感じはしない。他にも、装甲と金網で覆ったバスみたいな乗り物や、八輪の装甲車なんかもあった。これがフランスでは通常運転なのか、彼らにとってもイレギュラーな状況なのか。判断はできなかった。
 その全部が紙くずみたいだった。
 あるいは踏み潰され、あるいは蹴飛ばされて、あるいは大顎に噛みつかれて横に捨てられ、投げ飛ばされる。
 あの棺桶。
 二足歩行の肉食恐竜みたいな影。
 形を変えた地獄の館・エリュズニルは破格過ぎる。あるいはあれ一個で独立したディザスターとして成立してしまうほどに。しかも、エリュズニルは狙って無人の車両を攻撃している訳じゃない。
 あれはあくまで余波。
 逃げる獲物を食いそびれた結果、頭から障害物へ突っ込んでいるに過ぎない。
 つまり、
「義母さん……っ」
「あれは、ダメだわ」
 アナスタシアが、どこか感情の抜けた声で呟いていた。
 人外の妖精、存在自体が科学の外にあるシルキーさえ力なくぺたりと座り込んでいた。
「アークエネミーとか魔王とか、そういうのは全く通じない。あれは、そもそも駄々をこねる該当者を貪り食って現世から強制退去させるための仕組み、魂のペルソナノングラータって方が正しいんだわ。だから、ワタシ達には無理。不老なだけじゃあの牙は防げないし、不死であっても棺の蓋が閉じた時点で消失を避けられない……」
「つまり、つまりアレは何なんだ? ただの戦車とはどう違うっ?」
「トゥルースだって知識が邪魔をしているだけで、感覚ではもう認めているんじゃない? あの棺は大穴なのよ。そのまんま死者の領域まで繋がっているワームホール。だから、耐久値とか抵抗力とか、とにかく自分を鍛えれば何とかなる要素は関係ないわ。努力なんか報われないっ、才能だって光らない。放り込まれれば誰でも平等に殺されるわ。あの棺はそういう密室で、そういう門なのよ」
 言われてみれば、だった。
 あの棺桶に感じるのは分厚い壁じゃない。恐怖は恐怖なんだけど、まるで崖っぷちから下を覗き込むような感覚なんだ。だから立ち向かう気が起きない。壁だったら体当たりで壊せるかもしれないけど、崖だったら何の意味もない。勢いをつけて走るほどそのまんま落っこちて、こっちの命が無駄に散るだけだ。
 自由自在に歩き回り、自発的に人を突き落とす断崖絶壁。
 移動能力を手に入れた自殺の名所。
 ……最悪だ。
 勝つとか負けるとかじゃない。こんなの、そもそも何をどうやったら勝った事になるのか答えが出ない。
 義母さんも逃げる一方だった。
 パトカーや装甲車など、壊される前提で障害物を間に挟んだりもしているけど、それだって永遠にストックを確保できる訳じゃない。
 そもそも義母さんには開けた場所で戦う必然性は特にない。むしろ狭い場所に潜り込んでエリュズニルの移動を妨げた方が有利に立ち回れるはずだ。
 そうしない理由はない。
 つまり、できないんだ。
 あの天津ユリナでさえ、撤退のチャンスを掴みきれずにいる。だから迂闊に背を向ける事もできずに戦い続けるしかなくなっている。
「長くは保たないぞ……」
 僕達を逃がすためにこうなった。
 それは分かっている。
 だけど、
「アナスタシア、ヤツがまともじゃないのは分かった。硬さや重さだけで強さを測ってもどうにもならないって」
「トゥルース……?」
「義母さんをあのままにはしておけない。でもってここは世界中の美術品や骨董品が集められたルーヴルだぞ。……エリュズニルに効く何かはないのか? 魔除けの札でも神話の剣でも構わないから!!」
「……そんなに都合良くいく訳ないわ。ルーヴルはあくまで美術館だし、仮に本物があってもワタシ達には扱いきれない」
 だろうよ。
 アイテムさえあれば誰でも未知の力を使えるなら、そもそもああいうのは世界中に広まっていたはずだ。核爆弾すら秘密を守れずにあちこち拡散させるのが人間っていう愚かな生き物だ。JBだけの専売特許にはならない。
 だけどだ、
「……なら、そう『思い込ませる』事は?」
「?」
「アナスタシア、相手はJBだ。世界で一番、『ああいう力』に詳しい。ほとんど唯一、感覚じゃなくて知識で魔法を説明できる集団なんだよ。つまりその怖さだって骨身に沁みてる。技術である以上はよそに洩れたら同じ事をされるって恐怖だって、したくもないのに実感できてしまう。普通の人なら知らなくても済むような脅えでもな」
「つまり、つまりワタシ達の手で本当に扱い切れるかどうかは関係ない……?」
「何だったらモノが本物である必要さえない。騙してビビらせたら僕達の勝ちだ。だからアナスタシア教えてくれ、こういうのはマクスウェルよりアークエネミーの方が詳しそうだ。こっちはとにかく時間がない。謎の彫刻でも呪いのダイヤでもいい。このルーヴル美術館にあるもので、力を持ったJBのキャストが一番怖がりそうな『伝説』を抱えていそうなのはどれだ!?」
 ずずん!! という一際大きな震動が建物を揺さぶった。
 心配だけど、ここから見物していたって義母さんを助けられる訳じゃない。
「こっち!」
 アナスタシアが再起動した。まだ震えているけど、それでも小さな手で僕の手首を掴んで走り出す。
「ミロのヴィーナス、モナリザ、ルーヴル美術館には世界中の教科書にも出てくるような美術品が集まっているわ。だけど意外と武器関係は少ない。トゥルースもさっきまでいた、オテルデザンヴァリッドにある軍関係の博物館の方に集められているからかもしれないわね」
 だけど、と彼女は言った。
 古い屋敷にまとわりつき、家事を手伝う代わりに好まざる客へ攻撃を加える妖精、シルキー。彼女の案内によると、
「ルーヴル美術館で神話やオカルト込みで強い記号って言ったらこれしかないわ」
 つまり。
 僕達の狙いはこれだ。

「サモトラケのニケ。ギリシャ神話の勝利の女神よ」

 ギリシャ神話。
 思わず僕は苦い顔になった。確か、『前の』ヘカテもそっち方面だったか。スキュラ、エキドナ、セイレーン……。いずれも一筋縄ではいかない連中ばかりなイメージがある。
 キルケの魔女、井東ヘレンだって根っこが素直でカワイイ後輩ちゃんだから良かったものの、もしも純粋な敵対者として立ち塞がったらって考えると結構本気で背筋が凍る。本人に言ったらむくれそうだけど。
 アナスタシアはこう続けた。
「ニケはそのまんまよ。どんな戦争だろうが、彼女がついた側が必ず勝つ。だから勝利の女神。風神が風を操り雷神が雷を操るように、ニケは勝敗という状態そのものを管理しているのね。ゼウスが巨人に勝てたのもニケが所属を変えたからって言われているわ。いくらエリュズニルだろうがヘルだろうが、ここを踏み倒す事はできないはずだわ」
「けど、ルーヴルにあるのは誰かが作った彫刻なんだろ。神様本人じゃない」
「どっちだって同じ事だわ。ギリシャ神話じゃ偶像崇拝が認められていた、神の像には神の力が宿るから拝めば傷が癒えたり商売繁盛したりするって考えよ。つまりニケの像にはニケの力や属性が宿る。どれくらいのパーセンテージかはさておいてね」
 もちろんだ。
 本当の本当に、太古の石像がロボット兵器みたいに歩き出す事までは期待してない。僕達の方針はさっき言った通りだ。
 クロコディロポリスに、エリュズニル。
 道具に頼るJBだからこそ、ヘルは必要以上に道具を怖がる可能性がある。
「……いけると思うか?」
「演出次第。ヘル自身、形を組み替えた『死人が集う世界の館』を連れ回しているんだから、道具に力を込められるって思想は完全に否定できないはず。強力な術者だからこそ恐怖も強い。それにここにはワタシがいるわ」
「?」
「ヨーロッパの古い屋敷に住むお手伝い妖精、シルキー。ルーヴル美術館をテリトリーとして登録し、ワタシがトゥルースを主人とみなして力を貸し与えたら? 元々トゥルースはJBの中でも扱いがはっきりしていないみたいだし、そこへさらに今だけ特化型のアークエネミーが限定のスペシャルな特権を与えたっぽくない? 不吉の塊ってヤツだわ」
 僕は少し考えて。
 それから言った。
「……お前、そんな便利なアピールポイントなんかあったか? だったらラスベガスの時だって……」
「だからやり方次第だってば。いい、ヘルはワタシ達の本当の実力なんか知らないわ。あんな化け物、できれば一言も交わす間もなく仕留めたいけど、できないならその時はその時だわ。選択肢は多くても困らない」
 そういう事か。
 暗闇に脅えているのは僕達だけじゃない。
「とにかく、トゥルースの予想が当たっていれば、きちんとハマる。そのための素材も多分揃ってる。ワタシ達のハッタリでヤツを縛りつけられるはずだわ」
「なら箔付けの儀式(てじゅん)がいるな。ただ展示してある石ころをそのまま見せたってJBには響かない!」
「もちろん」
 目玉の美術品なのか、壁の案内板にもそれっぽい印はつけてあるし、パンフレットの表紙にも写り込んでいる。首のない女性の石像。翼は両腕が変化している? いや、腕のトコも取れてしまったのか。
 ただ、アナスタシアは展示コーナーには向かわなかった。まとめて階段を何度か折り返し、地下まで走る。
「普通の人が見ている美術館は、実は施設全体の三割四割に過ぎないって説もあるわ」
 ハッカーとしてネット越しにそういう所にも潜った事があるのか、あるいはアークエネミーとしてのオカルトな常識か。とにかくアナスタシアには確信があるようだった。
「実際には、人目に触れない保管庫や修繕室なんかがかなりのスペースを占めている。特殊な温度・湿度の管理、空気清浄機、紫外線対策もしなくちゃならないし、芸術家や学芸員用の勉強会を開くための講義室もあるわ。ちょっとしたダンジョンね」
「そこに何があるんだ」
「何も。ただし『伝説』だけなら色々語られているわよ。リージェントダイヤのカットされた残りが回収されているとか、ルーベンスの使った絵の具がラボで完全に再現されているとか」
「……、」
「この辺はやっぱり世界一有名な美術館だからね。大英博物館と一緒で、世界中の人達がみんな好き勝手にウワサしてる。けど、この『下地』があれば騙せるかもしれないわ。ひょっとしたら、もしかしたら、あのルーヴルだったら。サモトラケのニケの頭や腕くらいあるのかも。それが揃ったらニケの像には真の力が宿るのかもって!」
 元々ルーヴル美術館は半地下のフロアにも作品展示しているようだけど、ここはもっと下だ。表のパトカーや現場照明の名残もないので、完全な暗闇となる。
 スマホのライトを頼りに中を観察する。
「随分、雰囲気が違うな……」
「お客さんに見せる場所じゃないからでしょ。芸術家が気を配るのは自分の作品だけよ、その服装やアトリエは案外雑なものだわ」
 元々の通路が狭いのもあるけど、あちこちに木箱や段ボールが山積みされていて、さらに迷路感が強い。単純に図面だけ見ても壁に阻まれる事間違いなしだ。
「どこから手をつけよう?」
「両腕よりまず頭よね、やっぱり。ニケの頭があれば騙しのアクションを始められるわ。天津ユリナもいつかは力尽きる。だからその前に即席でもいい、ワタシ達の手で用意しないと!」
 幸い、そのための道具ならいくらでもあるようだ。絵の具、粘土、彫刻刀に香木みたいな木の塊も、どういう基準なのか何個もマス目みたいな壁際の棚に並べてある。元々は美術品のひび割れや色褪せを修繕するためなんだろうけど、ゼロからものを作るのにだって使えそうだ。
 問題なのは、
「……サモトラケのニケって世界の至宝なんだよな? 僕達の手で勝手に頭を作ったとして、ヘルにバレないかな」
「真面目にやったら、神の子の肖像画を台無しにしたどこぞの有名な事件みたいになるでしょうね。だけど……」
 ズズン!! と、これまで以上に大きな震動が地下全体を揺さぶった。僕は地震が起きた時みたいに、思わず天井を見上げてしまう。アナスタシアが追従してこなかったのは、地震の国の人じゃないから……って訳でもないか。ラスベガスのある西海岸側は地震で有名だし。ぱらぱらと天井から細かい粉末みたいなのが降ってくる。
 地上で何かあった。
 もう時間はない。
「だけどお手本があるなら話は別。地下には芸術家や学芸員のための講義室もあるって言ったわよね? 修繕の練習用に作ったりするのよ、絵画や彫刻の失われた部分って」
「……つまり元から欠けているニケについても、裏でこっそり練習台にされている可能性がある?」
「どこにも出さない練習用って言ったって、ルーヴルに出入りする以上は世界トップクラスの芸術家の手によるものよ。少なくともワタシ達が首をひねりながら粘土をこねるよりは見栄えが良いはずだわ!」
 とはいえモノだらけで迷路みたいになっているルーヴル地下。辺りは暗いからスマホのライトだけが頼りだし、光に照らされる文字もみんなフランス語だ。
 石膏とか大理石とかの石像はあちこちにある。元からそうなのか、衝撃や震動で倒れて砕けたのかは知らないけど頭だけ床に転がっているモノもかなりあった。でもどれなら正解だ? 正解なんかないのか? エリュズニルの持ち主、死の元首ヘルを騙し切るにはどの頭を拾えば良い!?
「マクスウェル、ひとまずサモトラケのニケで画像検索。特に首の断面について分析してくれ。ジグソーパズルのピースみたいなもんだ。この中から合致する頭部を風景に重ねて全てピックアップ!」
『シュア、了解しました。ただし箱の中や物陰など、カメラに映らないオブジェクトについては対応しきれませんのであしからず』
 これで分かるのは、ルーヴル美術館に出入りしていたプロの人間が、ニケの頭を想定して作った練習作品だ。ピタリと首の断面に合う頭部だけ選べば、ひとまずヴィーナスとかヘルメスとか、別の神様の頭を間違えてくっつける心配はなくなる。
「参考までに言っておくと、勝利の女神ニケは好まれる題材だわ。つまりサモトラケで見つかったもの以外にもいくつか銅像や石像があるの。頭については、ヴェールを被った女性っていうのが有名だと思うわ。サモトラケのニケは船の先に足を置いたものだし、他には女神アテナの手に留まっているのも多いかしら」
「その辺が正解、か」
 ただしそれだけだ。
 間違いがないという事は、別にヘルを騙し切れるかの根拠にはならない。むしろ順当なだけではヘルが慌てふためく材料としては弱い。
 温度感はどこに置く?
 地味では効かない、だけど女神の体にヒゲ面の男の頭を乗っけるほど派手にやったら流石にバレる。ヘルはどこで引っかかる? 衝撃は絶対ほしい、でも信憑性は失いたくない。ヤツの脅えや興味の線引きはどこにある?
 そんな風に考えていた時だった。

 ドゴアッッッ!!!!!! と。
 天から地へ、縦一直線に衝撃が貫通した。

 直撃、じゃなかったと思う。
 それでも体が跳ねる。床全体が恐竜の背中みたいに激しく揺れた。ここがルーヴル美術館の裏の心臓部だっていう前提を忘れそうになる。ただでさえ暗いのに、四方八方へ粉塵が一気に襲いかかっていく。
 何が起きた?
 とにかくスマホのライトを急いで消した。頭上から月明かりがこぼれている。つまり何かが何なのかは知らないけど、その何かは地上から地下フロアまでまとめてぶち抜いたんだ。直径一〇メートル以上の大穴を空けて。
 居場所がバレて良い事なんか一個もない。
 息を殺し、木でできた作業机の下に潜り込む。アナスタシアはどこ行った? ここからじゃ見えない。今この状況じゃ声をかけてやる事さえ自殺行為になりかねないっ!
「何か」
 ぽつりと。
 粉塵の中央で、女性らしき声があった。言葉は日本語だった。それだけで、ケタ外れの力を持った誰かのターゲットが誰なのかはっきりと分かった。
 僕だ。
 ヘルは、僕を捜している。
 ……確認するのが怖い、物陰からちょっとでも顔を出したらそれでバレそうだ。でも見えないのもおぞましい。こればっかりは理屈じゃどうにもならない。
 見るか。
 覗くか? ほんとにやるか???
「何か、こそこそとしていると思っていた。向こうは放っておいても決着がつく、それ以外に介入してみる事にした」
「……とも限らないぞ」
 テーブルの下から声を返す。
 喉の奥が張りついて、格好なんか全然つかなかったけど。
 台無しだ。目と目が合った、これで遮蔽物の効果は完璧に死んだ。なけなしの守りを失い、命とか魂みたいなものがむき出しのままぽんと外に置かれたのがはっきりと分かる。今の僕は生卵より脆弱で、床に放っておかれた卵の黄身みたいなものなんだ。何かするまでもなく、命の繋がりは途切れている。
 はっきり言って確定で寿命を縮めている。居場所を教えて得する事なんかない。
 だけど、注目をこっちに集めれば極悪なキャストの視界からアナスタシアを逃がす事はできるはず。得にはならないけど、無駄にだってならない。
 そう信じろ。
 でないと、折れる。
「ヘルだっけ。あの棺桶に守られていないならこっちだってやりようがあるんだ、わざわざ前に出過ぎなんだよアンタ」
「おや、まあ、これは困った」
 空気が緩む。
 余裕の表れなんだろう。アレは笑っている。スポットライトのような月明かりの下にいるのは、モデルみたいなすらりとした少女だった。年齢感とスタイルが合っていない、っていうか。肩まである銀髪に白い肌、瞳は氷みたいに冷たい。服装は丈の短い純白のドレス。肩も出した派手派手なものだけど、何故か右手と右足だけ青黒い手袋やストッキングで覆われていた。全部は覆わず、片方に寄せる。あれも何か意味のある配色なんだろうか。
 間違いなく、人の注目を集める美人だと思う。だけど僕でも分かる。この、作られた笑みから生まれる弛緩。こいつに引きずられて緊張を解いたら一瞬でやられるって。
 JB関係者で、なおかつ神話レベル。
 言葉を見聞きしただけで人の脳のタガを外して魔女に作り変えるあのヘカテと同ランクか、あるいはそれ以上。
「まさか、いやまさかとは思う。いくら無知でもそこまでの暴論は並べられないはず。普通のバカなら無自覚でも気づく。エリュズニルとは私の館。この私が自分で用意したものを今代さらに折り曲げて形を変えた。つまり、これはあまりにも当たり前の事実」
 汗が止まらない。
 今は何月だ。そんな前提さえ体が忘れてしまう。ヘルの出す結論が怖い、聞きたくない。それだけで体が震え上がり、不自然な発熱で内側から暴走しかけている。
 でも言葉はあった。
 拒否する権利なんかなかった。

「死した神をも管理するこのヘルが、まさか自分で創った死より見劣りすると?」

 あああ!! と。
 叫び声と共に、鈍い打撃音があった。小さな影がヘルの横から躍り出て、両手で振り上げたボウリング球くらいの塊で殴りかかったんだ。
「アナスタシア!?」
「にげてっ、トゥルース! こいつは今までのヤツとは次元が……!!」
「おや……」
 ゆっくりとした声が、遮る。
 ちくしょう……。
 子供の手とはいえ、ボウリング球くらいの鈍器だぞ? 実際に側頭部に直撃したんだ。なのに僕の意識が何ら反応しない。その程度ではヘルに対する心配ってものが全く感じられない!?
「まあ。死を踏みつけて従えるヘルを相手に、よりにもよって殺傷力で挑むとは。まったく最近の若者にはつくづく驚かされる、ろうそくの火を持って太陽に挑むつもりか」
「がっ……!!」
「アナスタシア!?」
 ヘルが得体の知れない魔剣でアナスタシアを斬り捨てた訳じゃない。実際、ヘルは指一本動かしていない。
 ただ、アナスタシアの小さな体がすとんと真下に崩れ落ちた。
 ビニール人形から空気でも抜いたように。
 JBのキャスト、死の権化たるヘルはそちらに視線すら投げていなかった。
「まさか、不用意に死へ近づいた愚か者がどうなるか、想像すらできないのか。そこまでの無知ではないはず」
「……、」
「無力な幼子故に踏み込みが甘かったのは救いとなったらしい。しかしあなたほど体ができていれば臨死では済まされない、天津サトリ。あなたは普通に死ぬ。それでも良ければ来るが良い、いくらでも」
 一歩、ヤツがこちらに向けて歩いてくる。それだけで、目には見えない分厚い壁のように、普段は意識しない死が押し寄せてくる。魂を締め上げにかかる。
 が、その一歩で止まった。
 ヘルの足が止まったんだ。
「……に、住まう。形を変えた神秘、矮小になれど確かに今を生きる妖精シルキーが宣言する」
 原因は、倒れたはずの少女。
 アナスタシアの唇から溢れる、息も絶え絶えの言葉だ。
 いいや。
 呪文、とでも呼ぶべき何か。
「ルーヴル美術館はすでに我が領域なり、他のあらゆる世界はどうあれこの聖域はワタシが支配する。ここに儀礼の結びを。天津サトリ、館の中心たる存在よ。ワタシがその任を認める限り、尽きる事なき力は保証される」
 ばかっ、アナスタシア!
 分かる、理屈だけなら。古い屋敷に住みつく妖精シルキーがルーヴル美術館って建物を自分のテリトリーに登録して、天津サトリをそこの主として扱ったら。何かしら、魔術とかオカルトとかそういう力が授かりそうな気はする。エリュズニルって館を利用して戦うヘルからしても、信じ込みやすい題材でもあるだろう。
 だけど。
 結局は空気だけだ。実力なんか伴わない。つまり論理も計算式もないハッタリだろ、そんなもん!! 追い風の時ならともかく、負けたら終わりの中でそんなのに頼ったら寿命が縮むだけだ。
 そうまでしても助けたいのか、僕を。
 息も絶え絶えで、起き上がる力もなく、生きているだけでも奇跡なのに。見逃されたのなら大人しくしていれば良いだろうがっ、ちくしょう!!
「……マクスウェル、検索だ。北欧神話のヘル」
『ノー、ヘルは神々の主要な敵として取り上げられますが、フェンリルやヨルムンガンドといった怪物達と違い、他の神と相討ちになる描写がありません。全てが滅ぶラグナロク後も平気な顔して生き残る説もあるようです』
「いきなり答えを出そうとしなくて良いっ、基本的な情報がないと考えようがないだろ!」
 何があってもアナスタシアを助ける。
 悪い注目を浴びたままにはしておけない。ヘルは命令一つでパリの警官隊を壊滅させた。魔王リリスの力も借りられない。あんなもの、一一歳の女の子になんかにぶつけられない!
『これがお求めの検索結果です。ヘルの役割は死の世界ニブルヘイムの管理者。体は半分が生身で半分が死人とされていますが、弱点を示す描写はありません。生身の部分を剣で刺せば良いとか、死人の部分に回復魔法を当てれば逆にダメージが加わるとか、そういう話ではありません』
「弱点が……ない?」
 頭がふらつく。
 ひずんだ呟きを耳にしたのか、遮蔽物の向こうのヘルがさらりと言う。
「ラグナロク。一応まだ起きていない戦争のはずなんだが」
「……、」
 ラグナロクって、ゲームとか漫画とかに出てくる最終戦争のアレ? 世界全体があんなになっても傷一つつかないっていうのか、ヘルは!?
「言ったはず。死を統べる私に殺傷力を向けても、意味がないと。世界をくまなく滅ぼすラグナロクですら、私の館は壊せない」
 ……ダメだ。
 アナスタシアの言った通りだ。これまでとは次元が違う。気紛れにJBに手を貸していたヘカテは、言葉を交わすだけで人間を覚醒させて魔女に『してしまう』神様だった。それと同じで、ヘルの死には加減や程度ってものが存在しない。
 触れれば死ぬ。
 関われば終わる。
 しかも、当人はとにかく死なない。ダメージが全く通らない。
 病気をばら撒く疫病神や家を没落させる貧乏神どころじゃない。こいつは、もっとダイレクトで、チャンスがない。対立したらそこで強制終了、あらゆる才能や努力は均一な死で全て埋め尽くされる。隙間や抜け穴、敗者復活のチケットなんか一つもないんだ。
 光の神や火の神と同じ。
 死を自在に扱い、死そのものとなる、怪物。
「それにしても」
 ごりりと、ヘルは足元にあった何かを踏んだ。
 弱々しく息を吐くアナスタシアの顔、じゃない。
 ごろりと転がっていた、ボウリング球くらいの塊だ。
「……サモトラケのニケ、か。死の元首に無理矢理勝つ気でいるなら、勝利の女神くらいの反則技は必要という考えは分かる」
「っ?」
「どうしたの。あなたの手が読めないほど浅はかだとでも?」
 違う。
 そうじゃない。
 今、何で、ヘルの興味がそっちに向かった? だってその読みはハズレなんだ。言うまでもなく、僕達は女神ヘカテの導きで頭のタガを無理矢理外された魔女なんかじゃない。このルーヴル美術館に何が眠っていようが、逆立ちしたってサモトラケのニケの力なんか引き出せない。普通に考えたらヘルがそっちに寄り道する理由はないのに。
 ……まさか、アナスタシアの狙いはこれだったのか? 無意味なパニックを起こしての突撃じゃない。石像の頭を使って殴りかかる事で、サモトラケのニケに注意を引かせて少しでも信憑性を与えるために。
 誰だって、だ。自分を殺すために使われた凶器に注目しないはずがない。怒りを覚えて、恐怖を拭うため、あるいは敗北の可能性を遠ざけ、己の勝利や安全を実感するために。そう、誰だって敵を倒した後は床に落ちて無害化された凶器を一度くらいは確かめたがる。
 導入は作られた。
 じゃあここから何をすれば良い? どうすれば捨て身でチャンスをくれたアナスタシアの努力を実らせられる!?
 とにかく。
 まずは疑念を膨らませるんだ。この火種を絶やしちゃならない!
「ルーヴル美術館の地下には伝説がある。アンタも聞いた事くらいあるだろ? 現実は、もっとひどかったよ。何ならその辺を見て回れば良い。ニケの力を借りる方法は、すでに出来上がっていたんだ」
「だとしたら?」
 っ?
 そくと、え、即答?
 実際に、ヘルは首を傾げていた。辺りに視線を投げたりもしない。
「北欧にもいる。こちらでは勝利の神は火曜日の語源となったテュールと言うが、活躍の機会は特にない。我が兄弟フェンリルを騙して片腕を食い千切られる程度の描写しかない。一応、オーディンと並ぶ力を持つとされてはいるのだが」
「……、」
「つまり、ヤツは死や失敗を克服するほどの力は持たない。腕をなくすと分かっていても舞台から降りられない。勝利は死を覆すほど強くない。勝利とは、つまりその程度の力。試合に勝って勝負に負け、勝利と引き換えに相討ちで死を貰い受ける事実くらいいくらでもある。実際、勝利の神テュールはラグナロクでガルムと戦って死ぬ事が決まっている。勝った程度で死をねじ伏せられると思うのは大間違い。北欧では、最強たる神々は死ぬものとあらかじめ予言されている。死を免れられるのは、不死のバルドルと死を掌の上で転がすヘルだけ」
 ダメだ……。
 根本的に間違えていた。騙せるか騙せないかなんて次元じゃない。完全にニケの存在を信じ込ませて騙しおおせたとしても、それでもヘルは止まらない!?
「この程度?」
 くっ……。
「他に隠し球は? 本当の切り札はどこ? まさかこんな程度で自分の命を預けたりはしないはず。どうか、いくら何でもそこまでのバカではないと言っておくれ」
 打つ手が、ない。
 ニケのハッタリが使い物にならない以上、ルーヴル美術館の地下にいても意味がない。何か別の作戦を考えるところからやり直しだ、そのためには手を引くしかない。
 けど。
 ヘルの足元には、倒れたままのアナスタシアが……。
『撤退を推奨します』
「でも……」
『ノー、ユーザー様とて分かっているでしょう。災害等の危難に際しては、要救助者の位置を知る者が倒れて情報が途絶えてしまうのが最悪なのです。ここで唯一動けるユーザー様が倒れれば、その時こそアナスタシア嬢を助ける手立てがなくなります。それは、上で捕食性を獲得した棺・エリュズニルと戦っているユリナ夫人も同様です』
「……っ!」
『彼女達の安否はユーザー様にかかっています。一時のプライドではなく、判断基準にはどうか賢明な思考を割り当てていただけますと』
 くそっっっ!!!!!!
 奥歯が砕けるほど噛み締めて、僕は負け犬の道を選んだ。
 そしてきびすを返した瞬間だった。
「知っている、天津サトリ?」
 声が。
 死の声が、届く。
「北欧は死を肯定する神話。特にオーディンは勇敢な戦死者を好み、天上へ招待する。そんな中、では地の底に位置するニブルヘイムでヘルが担う死とは何か。……つまり平和を望むなり命を惜しむなりで戦争に参加しなかった者達の死よ」
「あ」
 ち、くしょ。
 しくじった。ちからが、ぬけていく。アナスタシアが接触しても臨死で済んだ、のは、そういう『ルール』だった、の、か……。

 触れたら死ぬんじゃない。
 戦闘という状態を解除してはいけない。
 ごとんという重たい音が響いた。僕自身が床に崩れ落ちた音だった。

 

   4

 体が、動かない。
 だけど即座に意識が落ちる訳じゃなさそうだ。麻酔と違って記憶は連続している。
 なんか、こう。
 胸の真ん中から、目には見えない握り拳くらいの塊を引っこ抜かれたような、そんな感じ。歯車なのか電池なのか、どういう役割なのかは知らないけど、そいつが胸から飛び出ているのがひどく気持ち悪い。殺菌消毒もしていない部屋で普通に手術が始まってしまったっていうか……。
 体の半分が生身でもう半分が死人。
 つまり生きている人間と死んでいる人間を仕分ける存在っていう記号か。しかしまあ、随分と直接的じゃあないか。
「ふうん」
 ヘルの……声があった。
 無造作にこっちに歩いてくる。視線も向けないって感じじゃない。向こうにとっても関心を引くような事でもあったのか?
「『戦略的』撤退、か。体は戦闘をやめながらも、いくらか勝つための気概を残していたのね、天津サトリ。おかげで引き抜きが中途半端な形で止まっている」
 その割には、余裕だな。
 結局、動きを止められればヘルにとっては完勝か。ナイフの一本でもあれば僕にせよアナスタシアにせよ、好きな方から自由に殺せる。
 ……あれ?
 何だ。その割には、こう。引っかかったぞ今の。北欧神話ってグングニルとかミョルニルとかで有名な、あのゲーム時空っぽい神話の事だよな……?
「新たな星は、もう完成する」
 ヘルは頭上を指差した。
 自分で空けた大穴の向こうには、汚れた夜空が広がっていた。
 ぶわあっ!! と。
 その全てがカメラのフラッシュにでも変じたように、真っ白に埋まっていく。
 ……かく……ばくはつ?
 そんな、嘘だろ。
 もう実感もないぞ、そんな終わり。
「心配はいらない、あれでも月よりは遠い。地球の大気圏は優れているから、地上にいて致死量の放射線を浴びる事もない」
 月より遠い。
 つまり、できたんだろうか。地球と火星の間を回る、全く新しい星が。
「あの分だと軌道が安定するまでの間にこの星の衛星を連れ去っていくかもしれないけど」
 ヘルの言葉を、僕はどれだけ理解しているだろう。
 あるいはヘル自身、僕の理解や共感なんか求めていないかもしれないけど。
「……冗談だろ、そこまで軌道が近いのかよ。自分のやった事が分かってるのか?」
「まあ、お月様ほどべったり張りついて常に影響を与えてくるものではないが、あれだけの質量が近づけばこの星の自転や公転にも多少のブレが生じると思う。日照時間はもちろんコリオリの力などにも変化は起きるので、世界中の風の流れも変わるはずだ」
「……?」
「そうなれば荒地にも田畑の恵みが届く。工場の煤煙が国境を越える事もなくなるの。人が自力で幸せになれば、神様なんかに頼まなくなる」
「それが、アンタ達の言う『脱獄』? どこまでいっても変化するのは人間の都合だろ。神様とやらが困るとは思えない」
「そうかな? 巨人を倒すにせよ大地や天空の神が生じるにせよ、神が世界を創ったとする神話は多い。しかし何故かという最初のきっかけが謎の場合も少なくないの。北欧やギリシャなんか意図せずできてしまった世界に神や巨人が争奪戦を始めるくらい。ケルトはケルトでどうやって世界が創られたのか部分が見当たらない。六日で創って一日休む話はストレートすぎて逆に真意を知るのが困難だし」
「ちょっと待て……」
「とはいえ、何かしら必要だから用意したのでは。では必要なものを取り上げたら? 北欧の場合は木で繋がる戦死者の調達先だったが、天界にせよ極楽にせよ何かしら接点くらいはあるはず。つまりここを揺さぶれば、ヤツらにとっても困った事が連鎖するの。人を幸せにしたまま」
 その言い分は正しい、のか? 途方のなさすぎてイメージもできない話だ。
 爛々と目を輝かせ。
 死の世界をまとめる元首という立場ですら満足のできなかった存在が、宣告する。
「これでJBの『脱獄』は完成する。我々キャストだけじゃない。誰もが、与えられた役割から解放される時が来たの」
「……ぁ、お……」
「何か?」
 くちはうごく、のか。
 とても反撃ができそうな感じじゃないけど。
「……だったら、さっさと立ち去れば良いだろ」
「もちろん」
 がんっ、ごん、という鈍い音が上から降ってきた。大穴から投げ込まれてきたのは、血まみれになった義母さんだった。
 みすぼらしく、ボロボロで。
 どう考えたってここからの逆転も騙し合いも入り込む余地がない、絞った雑巾みたいに外から力を吐き出し尽くされた敗者の抜け殻。
 おそらく子の僕に、母親として一番見せたくなかった何か。
 そしてヘルは躊躇なく言った。
「あなた達を殺したら、すぐにでも」
「……、」
 見逃してくれる様子はなさそうだ。
 だけど。
 僕もこの土壇場で確信を持った。というより、最後のはちょっと余計だったぞ、ヘル。決着に際していらないアクションを挟んでいた。
 義母さん。
 天津ユリナを不用意に投げ込まなければ、これはきっと思いつかなかっただろうに。
「ヘル」
「遺言?」
「アンタは、弱い」
 ごんっ! というひどく暴力的な音があった。
 横倒しになったまま動けない僕のこめかみの辺りで、みりみりと軋んだ音が続く。JBのキャスト、ヘルのカカトが空き缶を潰して小さくまとめるように踏みつけてきたんだ。
「失礼、今のは私の聞き間違い?」
「だけど現実に、アンタはこんなになってる無防備な僕さえ殺せずにいる。やらないんじゃない、できないんだ」
 ラグナロクでも、他の神と相討ちになる記述のない敵。誰も殺し方を把握していない超越存在。
 でもそれは。
 裏を返せば、だ。
「北欧神話は武器のお話でもある。オーディンのグングニル、トールのミョルニル。強い神様はみんな人知の及ばない強い武器を持っている。だから最強、分かりやすい。じゃあヘルは?」
「……、」
「『ない』よな? ヘルは死神の鎌とか世界を壊す大砲とか、何か特別な武器を持っている訳じゃない。フェンリルやヨルムンガンドのように巨体そのものを『武器』にする訳でもない。それってつまりヘル本人が戦う訳じゃないからだろ」
 つまりヘルは指先一つ動かさずに人を殺せるからすごいんじゃない。そうする以外、他にできる事が何もないんだ。だから格下の敵といちいち会話に応じてる。何もしなくても、僕達の方が勝手に戦いを解除する……つまり北欧神話のタブーを踏ませるために。
 なんて事はない。
 サモトラケのニケを使って出し抜こうとした、僕達と全く同じやり口だ。こんなになるまで自分で気づかないなんて、やっぱり僕はどこか抜けている。
「それから、この口、我ながら良く回るって思うよ」
「……、」
「さっきよりもずっと、な!!」
 勝つための努力を続ければ、戦いに挑む心を持てば、死の力(ペナルティ)は解除されるのか。
 道理で天津ユリナにはヘル本人じゃなくて、まず肉食恐竜みたいなエリュズニルをぶつけた訳だ! どんな言葉をかけてもその中から勝つための材料を探すってヘル側が警戒したから!!
 本気で頭蓋骨を踏み潰そうとしたヘルの足首を、逆に僕の手が掴み取る。弱々しい力だけど、
「知ってるか、ヘル。アキレス腱は典型的な急所だぞ」
「っ!?」
 不安と焦りの味はどうだ、ヘル。
 主導権はこっちにある。場のコントロールさえできていれば、ヘルの力は怖くない!
 実際に弱りきった僕の親指なんかでアキレス腱を千切れるかどうかじゃない、
「エリュズニル!!」
 ずん!! と地盤全体が揺さぶられた。
 呼ぶよな、そりゃ。
 ヘルは自分で武器を持たない。体が特別強靭な訳でもない。だから代わりに配下に戦わせてきたんだと思う。魔犬とか伝説のドラゴンとか、その辺の細かい人員配置までは知らないけど。
 最初に天井を突き破って地下まで降りてきた時は心臓が止まるかと思った。
 けどそれも、多分ヘルの力じゃない。まずエリュズニルがあの巨体で地形を踏み壊して、後からヘルが安全に降りてきたんだ。粉塵と衝撃波の中ならこっちは細かい観察なんかできない。ただ、言っても二階か三階分だ。分厚いクッションの代わりになるものとか、条件さえ整えれば飛び降りができないって話でもない。警官隊の装備だってその役に立ったかもしれない。車を停める水のタンクとかウレタン系のバリケードとか。
 地上に繋がった大穴から、巨大な塊がこっちを覗き込む。無数の杭打ち機で彩られた大顎。やっぱりアレが原始的な意味で一番怖い。あれだけの巨体なら、地下まで飛び降りても頭は地上に出てしまうかもしれない。
 けど、
「良いのかよ、ヘル」
「?」
「地盤は脆いぞ。今夜だけで流れ星だの地震だの、これだけ何度も揺さぶって、アンタ達が自分で地面に大穴まで空けて。そんなボロボロの縁にダンプよりデカい棺桶が立っているんだぞ。ある程度は尻尾側に体重を逃がしているかもしれないけど、それでも二足歩行で不安定なまま。……ボロっと崩れて雪崩れ込んでくる可能性は?」
「しまっ」
 僕は逆の手にあったスマホを小さく振る。そう、こういう計算ならマクスウェルに任せておけば良い。
「そしてエリュズニルは形を変えた館だ、これ自体は命を持たない。ヘル、アンタだって困るだろ。ただの重たい物体の下敷きにされちゃあな!!」

 鈍い音が連続した。

 これで、勝った。
 土砂が雪崩れ込む。肉食恐竜のような影が転がってくる。強靭な後ろ脚はもちろん、ぺたりと畳んだ短い前脚を振り回してもどうにかなるものじゃない。
 わずかな月明かりが、遮られる。
 地の底、ニブルヘイムに閉じ込められたヘル。確かに強大な存在なんだろうけど、天界に行けないっていうのは逆に言えば地形には逆らえないって事だろ。
 地盤に潰されてやられちまえ。
 ただ、まあ。
 完璧に見えるこの作戦。ヘルの足首を掴んでいた至近の僕も間違いなく生き埋めにされるっていうのが、まあ、タマに瑕なんだけどさ……。

 

   5

 重いとか痛いとか、当たり前の感覚なんかもうなかった。
 ただ、体が動かない。
 逆にヘルには感謝した方が良いかもしれない。半端な形で胸の真ん中から魂を抜かれていなかったら、これ、傷や出血以前に正常な痛みの感覚でショック死していたかも。
「……ん、ぁ」
 すぐ耳元だった。
 横倒しになったエリュズニルの後ろ脚に挟まれたまま、意外とすぐ近くにヘルがいた。うつ伏せになった状態で僕の耳元に囁く。
「ここまでかな」
「アンタ、逃げなくて良いのか? JBは失敗を許さない組織なんだろ」
「おや」
「ヘカテは逃げ切ったっぽい。案外、神様レベルならするっと生き延びられるかもしれないぞ」
「まあ。ここにきて、敵の心配なんぞに気を揉むとは。やはり天津サトリとは甘ちゃんで、恐ろしい」
「……?」
 おそろ、しい?
「鉄の掟で仲間の結束を守る組織が、何故身内に刃を向けると思う? 逆立ちしたってそういう『力』が手に入らないから、躍起になって空中分解を防ぐしかない。あなたには『力』がある。定期的に生贄を捧げなければ太陽がなくなるというアステカ式の契約更新ではない、武力で世界をまとめるしかない眼帯の神とも違う。それは古代インドで悟りを開いた僧侶や、二〇〇〇年前に十字架に架けられた罪人と同じ、人の中から生まれた『力』だ」
 意味不明だった。
 JBが、それもキャストの一人じゃなくて大きな組織全体が本気で僕みたいな一般人を恐れているらしい事はぼんやり分かったけど。
「それに、私は神ではない」
「えっ?」
「死の世界を管理する元首、だが私の血統は『巨人』。母のアングルボザはもちろん、父のロキも出身は巨人だから。私は神と呼ばれる事が許されなかった超越者。だから、神様のまま自由に暮らすヘカテの話はあてにならない」
 ひょっとしたら、それがJBに合流した理由だったんだろうか。
 ヘルには、ヘカテと違って切迫感があった。人間でない死神ヘルが神様連中からの脱獄を望むっていうのも変だと思ったけど……。
「天津サトリ。災害は怖い?」
「ああ」
「そして災害を起こしたJBが憎いの? もしも考えなしにもう一度頷くのなら、あなたは真なる敵を見誤った」
「な、に?」
「あなたの国の言葉では災害をこう呼ぶはず。天災、と」
 ……。
 一見、意味のない言い換えに思えた。
 でもちょっと待て。
 何でここで、そんな風に変換する? よりにもよってその一言に。
「ああ、やはり間に合わない。星が冷える前に、ヤツらが介入してくるか」
 ヘルは何かを見ていた。
 うつ伏せに潰されたまま、頭上を覆う瓦礫の隙間を通して。
 汚れた夜空には、望遠鏡がなくても分かるくらい大きなオレンジ色の光があった。ぶっちゃけ月より大きい。あれがJBの作った新しい惑星。月より遠いって話だったけど、もう距離感とかはイメージできない。
 あれが冷えて固まる前に。
 JBがここまでやった事が実るより早く。

 ぐじゅり、と。

 ……なにが、おきた?
 決して大きな変化じゃなかった。閃光や爆音が五感の全部を潰しにかかってきた、これまでのド派手な災害に比べれば、むしろ易しい方だった。
 でも、それが怖い。
 抉れていた。オレンジ色に輝く新しい星が。月が欠けるのとはまた違う。地面に置いた丸いリンゴが黒ずんで腐っていくのを早送りで観るように、あっさりと、あれだけの質量が内側にへこんで形を崩して消えていく。バラバラにもならずに、小さく小さくまとまって。
 ただ、何で?
 どうやって、どこに消えている!?
 星だぞ。人工物とはいえ、僕達の暮らす地球と何ら変わらないスケールの大質量が、あんなにも簡単に……。
 訳が分からずに見ているしかない僕に、ヘルは皮肉げに笑いながらこう囁いたんだ。
「ヤツらならできる。我々JBは力の一部を奪ったけど、本物には敵わない……」
 その時だった。
 何かがふわりと降り注いできたんだ。
 白鳥の、羽根?
 それは床でも止まらず、僕の目の前で地の底へと落ちていく。
「戦死者の魂を回収する者。その軍勢を率いて悪なる存在を一掃する者。神と天界の正しさを示すため、その尖兵として剣や槍を振るう天の乙女……」
 ヘルは明確に告げた。
「この世界は、ヤツらが回す」
 JBが何と戦いたかったのか。極悪非道な組織に属するキャスト達は口を揃えて皆を脱獄させると言っていたけど、じゃあ具体的に何から人を逃がしたかったのか。
「天災もまたしかり。ノアが耐えた洪水も天の岩屋の暗闇も、皆一様に、神の都合で起きる。天災に翻弄される地上の人々は、天災を退ける事もできずにただ耐えるしかない。砕け散った風景を立ち尽くしたまま眺めて、文句も言わずに復興のため働かなくてはならない。あなたの文化で語るなら、何度も、何度も、理不尽に石の塔を崩される賽の河原の幼子達のように」
「……、」
「そう、理不尽。こんな理不尽が、あってたまるか」
 そして僕も見た。
 最後の一欠片まで消失し、完全に夜空から光が消える瞬間を。JBが作ったのは、惑星だ。月より派手に自己主張をしていたんだ。そんな大質量の塊がああもあっさりと、途中で空中分解も許さずに。
 あそこまでできるなら、それを傷つけるために振るえるとしたら、もう僕達なんかの手に負えないんじゃないか。あれと戦うとしたら、まず一体何から準備すれば良いんだ。
 僕達は、ただ見上げているしかなかった。
 そして僕は呟いた。
 あの格好は見覚えがある。黄金の槍と盾。コロシアムでバニーガールをしていたカレンと同じ、鎧とスカートの組み合わせ。
 つまりは。
 冷え切った星空を背に宙に浮かぶ、天災を己の武器とする本当の虐殺者は……。

「ヴァル、きりー……?」

 

   6

 新しい惑星は潰えた。
 世界は平和になった。
 そしてこれは、僕の胸に鮮烈な事実を刻みつけてきた。

 世界は、神様が動かしている。
 平和も争乱も、穏当も災害も、全ては彼らが指先一つで決めてしまう。
 当たり前と言えば、あまりにも当たり前の事実を。

 

【Unknown_Storage】被害報告【file08】


 ゲンドゥルより報告。

 非正規神秘組織JBが公転軌道上にもたらそうとした新型惑星の事前排除に成功しました。同組織に、我々に準備を察知されない形で二つ目を創るだけの資源的余裕はないでしょう。適時、残存勢力の排除を進めていけば逆転の機会もなくJBは尻すぼみに終わるのでは。どうなろうが神が勝つのは最初から決まっていた事と思いますが。
 新型惑星破壊に際し、副次的被害は特にありません。犠牲者ゼロ。この程度で誤射誤爆をしてしまっては神の品格に関わりますので。
 結果は以上です。
 皆様、ご満足いただけましたか?
 核弾頭、という言葉に振り回されたのかもしれませんね。此度の一件は厳密には戦争ですらない。こうして眺める限り『藁の死』しか見当たらず、優れた戦死者と出会えないのは一人のヴァルキリーとして興醒めです。
 これはただの人災です。
 私は本物の戦争を見て、真に輝く人の魂を拾い集めて愛でたかったのに。
 セイズ魔術を極めたヴァン神族の女神にして天を舞う乙女達を指揮するこの私が、ゲンドゥルと名を変えてまで参戦するほどの規模とは思えません。ブリーシンガメンの借りがある事は理解しておりますが、それでも出撃選出方式の再計算を提案します。次からは、此度のように些末な事態にこの私を招集するのは控えていただきたい。
 では、タイムスケジュールに従い、状況は後続に譲ります。

 これ以上用がなければ、帰還の許可を。
 地上は退屈です。


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第六章

 

   1

 二回目の流星雨が降ってきた。
 とにかく僕達は生き残らなくてはならない。そしてJBのピエール=スミスをここで失う訳にもいかない。
 災禍を乗り越える必要がある。
 流星雨については、直撃はもちろん衝突時に撒き散らされる分厚い衝撃波だって致命的だ。ただ地べたに伏せて耐えるだけじゃきっと保たない。
「セベクよ……」
 義母さんが呟いた。
「JBの作ったオモチャが近くに転がってる! あれなら衝撃くらい耐えてくれるはずだわ!!」
 とにかく賭けるしかなかった。
 気絶したピエールを引きずり、アナスタシアに身振りでサインを送って、僕達はみんなで来た道を引き返す。そうこうしている間にも街中にいくつも流星が落ちていくのが見えた。ここだって分厚い壁で隔離されている訳じゃない。衝撃波は地続きでそのまま押し寄せてくるはず。
 石と純金でできた巨大ワニは自分で抉って舞い上げた芝生や黒土を派手に被ったまま、無造作に転がっていた。
 そしてよりにもよって義母さんはひしゃげた大顎の中へ身を乗り出す。
 確か、すごい『力』が凝縮されているから長時間は乗れないって話をしていたはずだけど。た、短時間なら大丈夫ってコトだよね? 一体どんな副作用が待っているのやら。こんなのは中と外のどっちがマシかって問題であって、やっぱりダメージなしとはいかないか。
 アナスタシアが青い顔で、
「うっ、うええ。ここ入るの? マジで!?」
「だから製作者のピエールも口の中に放り込んでる。不意に動き出したってこいつごと噛み潰される事はないさ」
「……、」
「外に突っ立っていたら一〇〇%生き残れない。どっちがいい、アナスタシア!?」
「っ、ええい!!」
 半ばヤケクソな感じで小柄な金髪少女がワニの口に挑んでいった。最後は僕だ。びしょびしょアナスタシアの小さなお尻を両手で押すようにして、大顎へ飛び込んでいく。
 直後に閉じたはずの世界が真っ白に埋まった。
 割と近くに流星が落ちたらしい。外の様子は見えないけど、バスに匹敵する塊が横滑りしていくのが分かった。それから急激に気圧が変化したのか、耳鳴りがひどい。
 ……外に突っ立っていたら一〇〇%生き残れない、か。
 自分で言った言葉が後から刺さる。パリでは名前も知らない人達に助けてもらった。彼らは度重なる災害でどうなっただろう。僕自身、二回目だから流星雨に慣れてきたのもある。深い地下に潜るとか衝撃が逃げていく強度の弱い方向を避けるとか、彼らも経験を積んで適切に行動していると良いけど……。
「はあ、はあ……」
 全部終わった時、僕は密閉された暗闇の中でアナスタシアを抱き寄せている事に遅れて気づいた。
 でもってそんな僕達を義母さんがさらに抱き締めている、らしい。
「た、たすかった?」
 ごくりと喉を鳴らしてアナスタシアが呟いた。
 噛み合わせの崩れたワニの大顎から顔を出してみると、ゴロゴロという低い唸りが聞こえた。おそらく雷雲。たくさんのチリやホコリが舞い上げられて、大気が不安定になっているんだろう。
 一回目の時は、汚い雨、河川の氾濫、地震、火山活動までやってきた。
 だけど二回目も全く同じ手順をなぞるとは限らない。
「……まずは話を聞きましょう」
 天津ユリナの言葉は場違いにすら聞こえた。でも違う。彼女は気を失ったJBのピエール=スミスを睨んでいたのだ。
「専門的な道具はないから、そうね、泥水と布袋を使って窒息辺りが妥当かしら。サトリ、アナスタシアちゃんの面倒を見ておいて。お母さんが全部やるから、絶対にこんなものを年端もいかない女の子に見せるんじゃないわよ」

 

   2

 アブソリュートノアの天津ユリナがいきなりアブソリュートノア流を全力で繰り出そうとしたため、僕達で慌てて止める羽目になった。もちろん曲者揃いのJBが簡単に口を割るとは思えないけど、ダメだ。拷問なんて。
「ネットは繋がっているんだ。いきなりそんな手を使わなくたって方法はあるよ!」
 とりあえず顔と全身を撮影し、さらに指紋や虹彩、歯型などを細かく記録していく。ピエール=スミスなんて偽名かもしれないけど、生体認証は誤魔化せない。この情報化社会なら検索一つでいくらでもデータは引っこ抜ける。
「マクスウェル、まずはネット全体を検索。特に写真系SNSと動画サイト」
『本人が出会いと自己承認欲求を求めて顔芸でも連投していると良いですね』
「そこまで期待しちゃいないさ。赤の他人のアカウントであっても写真の片隅に写り込む場合もある。手始めに写真や動画の分布からピエールの生活範囲を割り出すんだ」
「出たわー」
 先に呟いたのはアナスタシアだった。
 マクスウェルを超えてご満悦なんだろう。しかし機械相手に一人相撲して何が面白いのやら。将棋やチェスのスパコンと戦ってる感じなのかな? なんかニヤニヤしながらびしょ濡れ金髪少女は自前のスマホを軽く振っていた。
「活動範囲はイタリアのミラノ近辺に集中、おそらくピエール=スミスは偽名ね。普段使っているいくつかのATMの位置からして自宅は……」
「マクスウェル、指紋か虹彩」
『シュア。フィアンセホームセキュリティに同指紋を使った玄関ロックのデータあり。ミラノ県レニャーノ市のマンションですね。名義はビッザ=バルディア。二二歳男性ミラノ工科大学に在籍、就職活動は難航中』
 みっ、見つけたのはワタシが先だからねっ、今のはおまけの横入りだからね! と涙目でほっぺが爆発しそうなくらい膨らんでいるアナスタシアの頭を片手でぽんぽんしつつ。
「交渉材料を把握しておきたい。何か弱みとなる個人データは? 検索履歴でも通販の購入リストでも何かあるだろ」
『何で最初から奇妙な性癖持ちと断定しているのかは疑問がありますが、その手のデータはあまり見つかりませんね』
「人生全部潔癖にJBの使命だけを果たしますって?」
『ただ一人暮らしを機に、数年前から義母モノの動画を死ぬほど閲覧しているようですが。叔母や義姉ではダメなようです』
「ようしここ最近で一番キツいヤツのタイトル教えろ」
 何やら両手を腰にやった天津ユリナがすっっっごい目でこっち睨んでいるけども、平和的な解決のためには必要な情報なんだからね! これでダメならウチの義母がペンチ片手に三二本の歯を一本ずつぐりぐり回してDIY感覚で引っこ抜きかねないんだし!! 元からお母さんネタがあればいくらでも盛り上がれちゃうピエール改めビッザが文字通り悪魔の笑みを浮かべる天津ユリナに馬乗りされてペンチアタックなんか喰らったら何がどこまでねじ曲がるか誰にも予測できん!!
 そんな訳で、
「おはようピエール君。いいや『母と祖母の狭間、揺れるオンナと母性』君と呼んだ方が良いのかな?」
「ひいい!? ちっ違うんだようーほら退屈を極めた深夜三時の思い切りっていうのがあるだろう!?」
「刺激に餓えてるお茶の間の皆さんが若気の至りを理解してくれると良いな。ほうら指先一つでアップロードアップロード……」
「ちょっと待って何それ!! 動画サイト? 捨て垢のSNS? うわあー死んだあ!!」
 白目をむいてびくびく震えるビッザ=バルディアに送信キャンセルの画面を突きつける。
「ほら、次はやるぞ。マジでやるぞ。分かったら全部話せ」
「……、」
「カッチコッチの三分動画だとこんな感じかなあ? 世界中のティーンに拡散してもらうがよい。地球をぐるりと一周回ってミラノに住んでる何にも知らねえキサマの実母の目に入るまでなあ!!」
『コメント>イエス!! 日本のホシガキみてえにしなびた乳にかつて巨乳だった名残りが見えて最高です。やっぱり乳は熟成してこそ甘味が出るというもの。GJ、激しくGJ!!』
「分かったよ、話す! 話すからッ!!」
 謎めいた世界の黒幕なんて一皮剥けばこんなものだ。実像以上に自分を大きく見せようとするから本性を隠そうとする。暗闇を恐れる人の習性を逆手に取っている時点で、正体のしょぼさを認めているようなものだし。
 アナスタシアはキョトンとしていた。
「なに? つまりどういう事???」
「その疑問は一〇年後にでもじっくり解き明かせば良いさ一一歳」
 優しい笑みを浮かべて横に流した。
 この期に及んでビッザ=バルディアが言葉を濁したら、何も知らないアナスタシアに頼んでとにかく低い声で『サイテー』と言ってもらおう。こう、仁王立ちでほっそりした腕を組んで、上から目線で生ゴミを見るような目が良い。
「……JBはこの息苦しい世界からの『脱獄』を目指す組織だ。より正確には、神の都合に合わせて調整されたこの世界からの」
 神様そのものの定義自体があやふやだけど、今は脇道に逸れている場合じゃない。またもや流星雨は落ちた。直撃の衝撃波はしのいだけど、連鎖的にどんな災害が襲いかかってくるかは予測もできない。
「それは分かってる。だからアンタ達はフランスから核弾頭を盗んで、土くれの『凝縮』に使おうとしているんだろ。自分好みの新しい惑星を作って乗り換えるために」
 実際にその通りに進むとは思えない、っていうのが義母さんの意見だった。まっさらな星を作って移住しても、アミノ酸が合成されたりJB自身が持ち込んだ微生物のせいで『招かれざる客』が増殖・進化し、やがては世界を自分達以外のルールで窮屈にしていくって。
 だけどビッザ=バルディアは首を傾げた。
 むしろ不思議そうな調子で彼は言う。
「私達の目的は移住じゃない」
「なに?」
「確かに新しい星は作る。だがそれは移住のためじゃない。その場合は組織が一方的に選んだ人間しか救わない事になるじゃないか。それじゃあアブソリュートノアの方舟とロジックが変わらない」
「……、」
 と睨みが一層キツくなったのは腕組みしている天津ユリナだ。彼女の方舟は実際に組織内部に潜り込んだJB……アークエネミー・エキドナの手でズタズタにされているんだから当然か。
 けど、そうか。
 単に役割がバッティングしているだけなら、JBはアブソリュートノアの方舟を破壊する必要はなかった。密かに作り替えて丸ごと乗っ取ってしまっても良かったはずなんだ。なのに彼らは破壊を選んでいる。
 二つが共存すると目的を達せられなくなるから。
 つまりJBの『脱獄』は、選ばれた少数を他の星へ移住させる事じゃない。
「なら、何が目的なんだ?」
「……JBは下から社会を見上げて間違いを見つける」
「お前達の言う『脱獄』っていうのは何なんだ!? JBお得意のナゾナゾはもうたくさんだ。わざわざ核弾頭なんか盗み出して、新しい星まで作って何をしようとしている!?」
「そしてみんなを救うんだ。選ばれた少数じゃない、下から見上げた全員を。そのための『脱獄』だ。私達はこの世界に敷かれたレール、くそったれな脚本で満ちた茶番劇と戦って自由を勝ち取るキャストとしてここにいる」
 サトリっ、という鋭い呼び声があった。
 意味が分からなかった。
 いきなり真横から鋼鉄の塊が滑り込んできた。メインローターを地面にぶつけてへし折り、ただの鈍器となった巨体が芝生を抉りながら目の前にいたビッザ=バルディアをぐしゃぐしゃに轢き潰していったんだ。
 JBの……攻撃ヘリ?
 結局流星雨を避けきれずに墜落してきたのか。こうまでしてもJBはビッザの口を封じたかったのか。あるいは、JBと敵対するとかいう……神様サイドが横槍を入れてきた? 何だっ、結局何が起きた!? 目の前で人が一人死んだっていうのに分かった事が何もないぞ!?
 アブソリュートノア対JB、この図式さえふわふわしてきた。ほんとどうするんだこれ……。信じられるものがいよいよなくなってきてる。
 ぼんっ、と。
 離れた場所で墜落ヘリが爆発したけど、もはや驚きもなかった。騒ぎの中心は明らかによそへ移っている。あれだけ恐ろしかった天空の支配者が、間抜けな周回遅れにしか見えなかった。
「……なんか、夜空の様子がおかしいわ。トゥルース」
 明かりがなく、それでいて星々も見えない重たい夜空を見上げながら、アナスタシアはそのまま二歩三歩とゆっくり後ろに下がっていた。
 ゴロゴロ、っていう低い唸りはさっきもあった。おそらく流星雨墜落の時に大量の粉塵が舞い上げられて、それらが空中で激しく擦れ合っているからだろうけど……。
「何か来る。トゥルース、早く逃げましょう。何が起きたか知らないけど、死人から話を聞く事はできないわ!!」
 ドガかッッッ!! と。
 どこか遠くで、立て続けに太い雷が落ちた。法則性は見えない。避雷針みたいに背の高い建物のてっぺんが狙われたのかもしれないし、あるいは風に舞うビニール袋とか建物に向けて放たれた消火栓の放水なんかに直撃したのかもしれない。ともあれ分かるのは一つ。
 次の天災は、雷。
 それも不自然過ぎるほど辺り一面に落ちまくる、高圧電流の嵐だ。
『警告、多数の木々が乱立する雑木林は危険です。広場からの脱出には順路に気を配る事を推奨します』
「今のこのっ、ゴルフ場みたいな平場の方が危ないんじゃないのか!?」
『オテルデザンヴァリッドのすぐ外は市街地ですよ。そちらに移られた方が落雷のパターンは読みやすいです。木々の中だと、たまたま木のてっぺんに落ちた雷の影響が地面を伝って襲ってきます』
 災害関係の知識で専用シミュレータのマクスウェルを疑っても仕方がないか。僕は千切れた衣服のポケットにあったビッザのスマホだけ抜き取ると、身振りでアナスタシアや義母さんに広場からの脱出を促す。
 雑木林はもちろん、開けた広場側だって光を失った金属製の外灯なんかも怖いな。
 空中で粉塵が擦れ合っているせいか、落雷の分布には物理的な密度があるようだった。たとえるなら、バチバチ鳴っている砂嵐が急速に風でこちらへ流されてくるような。とにかく雷鳴のない方に向けて走るしかない。
「マクスウェルっ、ノイズで通信障害が出る前にできるだけ知識を仕入れておきたい! 落雷の基本と対策は!?」
『水場、平地、背の高い木々や柱を避けて行動し、できるだけ頑丈な建物に隠れて嵐が過ぎ去るのを待つのが最良です』
 平地と木々で条件が相反してる!? ダブルスタンダードになってないか、それ!
「ねえトゥルース、大打撃でボロボロのパリに頑丈な建物なんて残っていると思う!?」
『ちなみに金属部品に優先して雷が落ちるというのは迷信です。先端放電の条件に合致すれば木でもプラスチックでも普通に直撃します。当然、絶縁破壊状況では人体そのものも導体の一つになりますのでご注意を』
 知識は的確だけどすぐさま役に立つって感じでもない。結局、あの高密度の落雷ゾーンに追いつかれないように走り続けるのが一番か。
 しかし追ってくるのとは別に、行く手の方からもゴロゴロという響きが迫ってきた。
 天津ユリナは両手を叩いて、
「ほら立ち止まらないの、サトリ! 流星雨はパリにいくつも落ちた。なら複数の場所で大量の粉塵が舞い上がったはずよ。『不自然な雷雲』は一つじゃない!!」
「くそっ!!」
 多大なダメージを受けた木々を避けてオテルデザンヴァリッドの敷地を飛び出し、ぐずついた雲の下を走り抜け、瓦礫に侵食された大きな通りに入っていく。
 まるで死のサーチライトだ。はるか天空から投げかけられる光の輪に入ったら、空気を絶縁破壊するほどの高圧電流で骨まで焼かれる。だからそうならないように暗闇の中を走り回らないといけない。
 横合いの暗がりから、フランス語で何か飛んできた。手を引いていたアナスタシアが、そこでぐっと立ち止まる。
「トゥルース、こっち!」
 彼女に案内されて、義母さんと一緒に半分崩れた背の低いビルへ飛び込む。直後、まだ雨も降っていないのに激しい閃光がいくつも連続した。爆音と共に表で何かが引き千切られた。おそらくは金属製の街灯か何かか。バーベルより重たい金属塊だぞ、アレ……。
 人の体になんか直撃したら一撃だ。
「ふうっ」
 外はひどい落雷の連続だ。しばらくはここで待機するしかないだろう。
 改めて見回してみれば、コンビニ……じゃないか。どうやらここは雑貨店のようだった。呼びかけてくれたのは中年のおじさん。店員さんか、あるいはお客さんか。逃げ惑う僕達を無視できなかったって事はひとまず悪い人ではないらしい。
 ビッザ=バルディアは故意か事故か、とにかく死んだ。死因は(流星雨か落雷にでもやられたのか?)JBの用意した救出用の攻撃ヘリだから、他に情報を持っている仲間も多分いない。
 となると、頼りになるのはこれだけだ。
 僕はポケットから、いつも使っているのとは違うスマホを取り出す。ビッザの持っていたモデルだ。
「マクスウェル、こいつのパスロックを解除できるか?」
 返事がなかった。
「マクスウェルっ?」
「ダメよトゥルース、こっちも圏外。無線LANに切り替えても抜け穴はなさそうだわ。どうやら例の雷のせいで大規模な通信障害が起きているみたいね」
「……これを乗り切るまでは一時停止か」
 言っているそばから、立て続けに二、三回雷が落ちた。閃光と耳をつんざく爆音はほぼ同時、つまりすぐそこだ。ここが建物の中だって分かっていても心臓が縮む。感覚的にはほとんど爆発に近い。
 ビッザのヤツ、意味ありげな事を言っていたのにな。
 JBは人を選ばず全員を『脱獄』させるとか、新しい惑星を作るのは移住のためじゃないとか。
 ……あまりにも呆気なくて、僕は人の死に麻痺しているのかもしれない。正しい引き出しに入れる暇もなかった、っていうか。本当だったら泣き喚いて自分の頭を両手で抱え込んでも良いはずなのに、と客観的に眺めている僕自身を感じる。
 もどかしいけど、僕はマクスウェルと繋がっていないと行動できない。アナスタシアだって似たようなものだろう。今日のハッカーはどれだけ便利なプログラムを事前に用意できるかが全てであって、本当にその場でキーボードを叩いて敵対システムに侵入する人間なんかいない。
「お腹減ってきたわね……」
 アナスタシアが当たり前の事を呟いた。時間は夜の一〇時半。こっちが最後に食べたのは機内食だ。アナスタシアや義母さんはどうだろう。
 ずっと歩きっ放しだった生活も、いったん立ち止まってみると改めて疲労の度合いが浮かび上がってくるようだった。不規則に至近で耳をつんざく落雷がなければ、体が濡れているのも気にせずこのまま床に転がって眠りこけてしまっていたかもしれない。
「サトリ」
 天津ユリナが手品のようにチョコバーとゼリー飲料のパックを取り出した。
「アナスタシアちゃんと二人で分けて食べなさい。自家生産のアドレナリンやノルアドレナリンだけじゃ感覚が麻痺するだけ、根本的な欠乏は補えないわよ」
 出所は怪しいものだったけど、冷静に観察すると包装は日本語だった。現地調達で盗んだ訳じゃなくて、日本から持ってきたのか。考えてみれば、義母さんはあらかじめ目的を持ってフランス入りしているんだ。それこそ準備については事欠かないはず。たかだか数食分の補給程度、非常事態だからってわざわざ盗みに入る必要なんてないんだ。むしろ僕とアナスタシアの手ぶらで遭難感がすごい。
「むぐむぐ、これグレープ味か」
「うえっ。先にチョコ食べると舌の感覚が……。ゼリーの隠しきれないケミカル感が強いー」
 アナスタシアと二人で取っ替え引っ替え。胃が膨らまないから満足度はさほど上がらないけど、栄養的にはそこそこ補給できているんだろう。糖分が全身の血管に行き渡ったせいか頭が内側から綿菓子みたいに膨らんでいくっていうか……、なんか、急激に眠たくなってきた。
「あれ? こっこれ冷静になったら間接キスだわ」
「あふぁあ……。だからなあにー?」
「……、」
 何故か無言のアナスタシアにすねを蹴られて眠気が吹き飛んだ。
 義母さんは雑貨店の出入り口に寄って、外を観察しながらこんな風に言ってきた。
「休憩はここまでのようね」
「?」
 最初首を傾げたけど、鼻が異変を感じ取った。何やら焦げ臭い。今の雷のせいかどこかで火が点いたんだ。
 雨のない落雷。
 辺りの建物は半壊、全壊なんて当たり前で、建物と建物の隙間を埋めるように瓦礫が覆い被さっている。こんな中で火の手が回ったらどこまで延焼するか分かったものじゃない。
「……一ヶ所に留まってはいられないぞ」
「でっでも、この雷の中を飛び出していく訳!? 一発当たったらそれで即死だわ!!」
 雷自体は、雲の中で限界以上に溜まった静電気が本来電気を通しにくい空気を突き破ってでも地上に向かう際に起きる現象だ。今は自然の雲の代わりに無数の粉塵が静電気を溜め込んでいるけど、原理自体は変わらない。
 それなら、
「こっちから雷のエネルギーをよそに逃がしてやれば良いんだ」
「ちょ、トゥルース!」
 義母さんは同じ雑貨店にいた中年男性にフランス語でリスクについての説明をしているようだった。
 出入り口から外を覗いてみると、火の手は思ったよりも近い。三軒隣くらいの距離しかない。
 行くなら今だ。
 炎や煙に巻かれてからではもう遅い。

 

   3

 落雷。
 という言葉が一般に定着しているけど、実際に怖いのは落ちてくる雷じゃない。雷は最初天から地に落ちて、次の瞬間に地上から天空へ全く同じ順路を辿って駆け上がる。いわゆる帰還雷撃というヤツで、これは最初に落ちる雷よりもはるかに強力だ。あまりにも速度が速すぎるので、人の目には一瞬の光に見えているんだけど。
 そして雷というのは雨や雪と違って予想が非常に難しい。気象庁ではなんと基準がない。良くある注意報は、雷で被害が出る可能性さえあればその時点で発令されている。つまりランクや注意報などいろんな言葉はあるものの、降水確率のように具体的な%では割り出せないのだ。
 そうなると、
「どこに落ちるかは誰にも予想できないわ……」
 コンピュータの世話をする関係で、雷まわりは一通りの知識を蓄えているんだろう。アナスタシアが青い顔して叫ぶ。
「というかこれだけ不自然な帯電状況なら餌食にならない場所ができる方がおかしい! これもう地上にできた積乱雲に頭から突っ込んでいるのと大差ないんじゃない!?」
「でもこのまま一ヶ所に留まっていたらあっという間に火事に追いつかれるぞ。火の手だって一つとは限らない。おそらく落雷の数に合わせて加速度的に増えていく」
「〜〜〜っっっ」
 その場で地団駄でも始めそうなほどアナスタシアはほっぺたを膨らませていた。目尻には小さく涙まで浮かべている。
 外は落雷の地獄。考えなしにドアの外に出たら、最初の一歩で直撃もありえる。
 でもいつまでも屋内にいたら、迫り来る炎に飲み込まれる。
 ひどい賭けだけど、雷は当たる可能性がある、炎は絶対確実に命を失う、だ。どっちがマシかなんてマクスウェルに計算させるまでもない。
 その上で、
「雷は上空と地面を巨大な電極に見立てて、積乱雲の中に溜め込んでいた電気をやり取りする自然現象だ。だから空気の壁を破って縦方向に高圧電流のブリッジができる。言い方は乱暴だけどでっかいスタンガンと理屈は一緒」
「だっ、だから? だから何だって言うのよ!?」
「……つまり外から細工をするならこの二つ。天空か地面に手を加えて雷撃を不発に終わらせる。それ以外に外を安全に歩く方法はないんだ」
 幸いここは雑貨屋だ。
 間に合わせだろうが、それでも準備するだけのチャンスがある。ずらりと棚に並んだ商品を見回す。フランスって何気に農業大国でもあるんだっけ。なるほど、園芸用品にも事欠かない。マクスウェルに頼れないのは不安だったけど、アナスタシアと協力してダクトテープや接着剤、マイナスドライバーなんかを掴んで格闘する。
 とにかく時間がないから、あまり凝ったものは作れそうにない。
「こんなもんか?」
「最低でも一〇〇以上は飛ばなくちゃ意味ないわよ。できれば余裕を持って三〇〇くらいほしいけど、やり過ぎると圧力タンクが破裂しそうなのよね」
 ……日本ならオモチャであっても銃刀法に引っかかりそうな仕上がりになってきた。
 レジカウンターに使った分だけ紙幣を置いて風で飛ばないように重石代わりの消しゴムを乗せていると、アナスタシアが呆れた感じで言ってきた。
「無意味だわ。放っておいたらここも炎に巻かれるんでしょ」
「それでもだ」
 重たいユニットを背負って両手で本体を掴み、僕は出入り口の方へ向かう。
 透明なガラス一枚挟んだ外は、まるで戦場だ。
 激しい閃光や爆音もおっかない。あんなの目で見て避けるなんて絶対に無理、もうほとんど街中で砲弾でも爆発してるように見える。
 だけどそれとは別に、ガラスの扉の隙間から明確に焦げ臭い空気が入り込んでくるのが分かる。
「覚悟は良いか、アナスタシア」
「うええ……。五秒か一〇秒くらいの間隔で炸裂しているわよ、雷」
 間もなく炎が来る。方角も速度も分かっている。なのに事前に予防してあげられないのがもどかしいけど、今雷鳴だらけの外に出て考えなしに消火ホースから水を噴き出したらどうなるかは言うに及ばずだ。
 じっとしていたら死ぬ。
 だけど考えなしに外へ出ても死ぬ。
「……ようはしっかり考えて行動しろって事さ。とりあえず最優先は火の手だ、こいつが届かない所まで逃げ切らないと」
 僕達の方に義母さんも寄ってきた。天津ユリナは心配そうな目を店の隅に向けて、
「あの人達は地下に篭るって。お店の床下に頑丈な食糧庫があるみたい」
「……、」
 そちらに合流しなかったところから分かってもらえると思うけど、正直に言えば賛成はできなかった。ただ選ぶ道はそれぞれだ。紫電だらけの表を逃げる選択肢だってギャンブル。ただ追従してきて一発目で落雷が直撃しても、僕達には責任が取れないんだし。
 安全な正解を導くだけの情報と時間がない。
 そもそも正しい解答なんかないのかもしれない。
 どっちが正解かは僕だって判断がつかなかった。それでも外に出る道を選んだのは、単純な安全の他に行動の自由をキープしたいっていう僕達の都合……言い換えれば、『欲』によるところも大きい。ここではスマホが使えない。雷のノイズのない場所まで逃げ切って今すぐマクスウェルとのアクセスを取り戻し、ビッザのスマホから情報を引っこ抜いて、フランス製の核弾頭を使って星くずを超高圧縮して新たな惑星を生産しようとする全ての元凶、JBを追い詰める。そのために。
 でもそれは、ただシンプルに生き残りたい彼らには関係のない話だ。リスクを覚悟するほどの理由がない。じっと耐えているだけで条件は満ちる。彼らの都合、ある意味での『欲』は完結しているんだ。
「……ならあの人達にフランス語で伝えておいて。最悪の場合、火事は治まるまで数日かかるかもしれないから衣食住は長期戦の準備をする事、特に暗い地下での篭城になるから独立した明かりと時計は必ず複数用意する事、それからできるだけ強力なジャッキを持っていくのを忘れないようにって。火事で建物全体が崩れた場合、地下室は無事でも瓦礫が覆い被さるせいで跳ね上げ式の扉が開かなくなるリスクがある」
 結局災害現場にいる人間にできるのは、自分が少しでも安全と信じる道を恐る恐る進むだけだ。手伝える事があればお互いなるべくアシストはするべきだけど、だからと言って他人の選択で運命を共にするような『自分縛り』に囚われるべきじゃない。これは人情とか義理とかじゃない、命がかかってる。明らかな情報不足やフェイクニュースで自殺行為や暴徒化に突き進むのでもない限り、僕達には人が生き残ろうとする努力を邪魔する事はできないんだ。
 また間近で雷が落ちた。
 というか一〇秒以内にバカスカ落ちているから、まるで巨大な誘蛾灯にでも放り込まれたような気分だった。何の準備もなく飛び出せば、その間隔で落雷に直撃し、体を引き裂かれる。
 ユニットは二つ用意した。
 天津ユリナにも同じものを背負ってもらった。あっちは予備だ。いきなりの故障やガス欠になった場合は即死になるから、備えておいて損はない。
 タイミングなんか計っている余裕はなかった。
 常に紫電は暴れ回っているので、待つだけ無駄だ。炎から二本の足で逃げる側としては、もちろん早め早めに行動した方が良い。
 恐怖で押し戻されそうになる心を抑えつけ、外に向かって挑みかかるように僕は叫んだ。

「出るぞ!」

 ばんっ!! と大きく扉を開け放つ音が、すでに特大の雷鳴にかき消された。
 外には出た、はずだ。
 そんな前提さえ真っ白な光が吹き飛ばしそうになる。
「……っ、ーーー!?」
 至近一メートル以内でアナスタシアが何か叫ぶけど、それも耳に入らない。通りの向かいにあった街路樹は真っ二つに裂け、松明みたいに燃え上がっていた。直撃したら人の体がああなる。これだけの雷なのに、やっぱり雨はない。乾いた空気は吸い込むと何だか粉っぽくて、ひたすらきな臭い。まるで一面の大気それ自体が禍々しい殺気でも放っているようだ。
 ごろ、と。
 頭上で獣が唸るような低い音が響くと同時だった。僕は両手で脇に抱えていた金属製のユニットを斜め上、できるだけ何もない夜空に突きつける。
「きちんと動いてくれよ、ちくしょう!!」
 ばづっ!! というミシンよりも鈍い音と共に両手に重たい反動が返る。火事や稲光の照り返しを受け、光の尾を引いて夜空に吸い込まれていったものの正体は水だ。背中に負った圧縮タンクで大量の空気に締め上げられた水が、ホースを通じて手元のバルブによってコントロールされている訳だ。『目的』を考えれば、ホースの水やりみたいなアーチを描く必要はない。むしろ点で細かく区切り、マシンガンみたいな形で上下に細かく連射するのが最適だ。
 途端に、夜空が反応した。
 鋭敏に。
 突き刺すような雷光が、ガカッ!! と炸裂する。正直に言えば、目で追えるような話じゃなかった。続けて炸裂する轟音に脅えながら、網膜に焼きついた青い残像を眺めてかろうじて結果が分かったくらいだ。
「でっ、できた……」
 震える声で夜空を見上げたアナスタシアが、やがて感極まってこっちに抱きついてきた。
「あはは! 雷の誘導に成功したわ!! ワタシ達はやったのよ!!」
 無関係な場所に雷を落とせば、大気が溜め込んでいたエネルギーを逃がす事ができる。そして後は避雷針の理屈だ。高い場所に電気を誘導しやすい素材を、できるだけ尖らせた形で置けば先端放電を利用して雷はコントロールできる。高さだけで一〇〇メートル、自分達以外の安全な場所に食塩を混ぜた水の弾を縦一列に撃ち込むとなると三〇〇メートルは欲しい。ほんとに建物の避雷針と重ねられればベストだ。おかげで見た目だけならおっかない武器みたいになってしまった。実際には金属パイプとシャワーホース、後は農薬散布用の手押しポンプがついたタンクにハンディ掃除機のデカいモーターやバッテリーを合体させたような代物なんだけど。
 短い間隔で雷をよそに落としながら、僕達は激しい閃光や轟音で埋め尽くされた広い通りを進む。
 火の粉が僕達を後ろから追い越した。
 やっと振り返るだけの余裕ができる。そして誘惑に従ったアナスタシアが、そのままびくりと固まっていた。ああ、僕も分かっている。水の詰まった重たい金属製のタンクを背負っているのに、さっきから背中一面に薄い針でも刺したようにじりじりと痛みが出ているから。
 この目で確認した。
 赤とオレンジの壁が、それこそ高波のように一面を埋め尽くしていた。道も、街路樹も、放置された車も、建物も。何もかも呑み込んでこちらに迫ってくる。景色を踏み潰してでも僕達を追い回すように。
 おそらく炎の中では車やプロパンガスのボンベなんかが爆発してるとは思うけど、そんな音すら聞こえないほどの猛威だ。
「あ、ああ。ああああああっ!」
 両目を見開いて嘆くように叫ぶアナスタシアを、僕は片手で引っ張った。
 すでに僕達が出てきた雑貨店も赤いカーテンの向こう側だった。今からは戻れない。地下に潜る決断をした人達が蒸し焼きになっていない事を祈るしかなかった。
「どこまで逃げるつもり!?」
 縦一本の線を飛ばす感覚で上下に細かく連射して、さらに続けて二発、三発と落雷を誤爆させる。消火ホースみたいにただ出しっ放しだとむしろ雷がこっちに向かってくるから要注意だ。そんな中、横から義母さんが爆音にかき消されないよう大きな声で尋ねてきた。
 こう答えるしかない。
「あの炎が届かない、雷を凌げる場所ならどこでも良い! 建物のない公園とか、あるいは川をまたぐとか、炎を遮断できる地形を探そう!!」
 一応の安全策は示せたけど、タンクの中身は有限だ。そもそもタイミングを誤ったら一発で即死。圏外でも使える、スマホとイヤホンを結ぶ近接無線を利用して前兆のノイズは拾っているけど、それだって精度は完全とは言えないんだ。目的もなく迷走できるほど甘い状況じゃない。
 ドガシャア!! と新たな雷が一瞬で落ちる。
 僕が誘導したものじゃなかった。ビルの壁から突き出た公衆無線LANを支えるアンテナがすぐ近くで吹っ飛ぶのを見て心臓が締めつけられる。完全にコントロール外。やはり『全て』は対応しきれない。今のが僕達の頭に落ちていたら、それだけで即死だ。
 予想外なんて、いくらでもある。
 もしも、進んでも進んでも背後から迫り来る炎を遮ってくれる川がなかったら? もしも、この道が建物の瓦礫に塞がれていたら? もしも、いきなり一面に激しい雨が降ったせいで上空へ連続的に撃ち出す『水鉄砲』を避雷針として使えなくなったら?
 ひたすら炎から逃げ、雷を撃ち落とす。極限の緊張下での単純作業は疲労と共に思考を内向的に誘導していく。強く頭を左右に振らないと自家生産の妄想に呑み込まれそうだ。
 その時だ。
「……橋があるわ」
 アナスタシアが小さな指を伸ばして指し示した。前を。
 奥に何かある。
「あれ使えるんじゃない? 橋を渡ってしまえば炎の壁を振り切れるわ!!」
 ここからでは何の橋かは知りようがない。ネットに繋がっていないと地図の検索すらできない。ただ……自然の川って感じじゃなさそうだ。ざあざあっていう水の音がしない。一段低いコンクリートで固めた谷みたいなのがあって、その上に短い橋を架けているって感じ。
「地下鉄との交差路みたいね」
 遠くにある橋を見て、義母さんがそう言った。
「水はないけど、全部コンクリートで固められた線路だって炎の進行は防いでくれるでしょう。渡って損はないわ」
 ともあれ、これで助かる。火の手が一つとは限らないし、橋を渡っても雷は降り注ぐ。だけど一つずつでもハードルを越えて自分達に有利な環境を揃えていくのが大事なんだ。そうやってリストの上からリスクを潰して、駆逐していく。こんなのは足元で絡まっている家電のコードを解くようなもので、一度に全部なんて考えるとドツボにはまる。
 そう思っていた。
 みんなで奥へ、炎を遮る橋に近づいていった。
 背の高いビルを通り過ぎた辺りだった、そこで全身が凍る。心臓が止まるかと思った。
「……アナスタシア、待った」
「何よ!? 話なら後で聞くわ……!!」
「ダメだ、今じゃないと。あれ見てくれ」
 奥にある橋のすぐ近く、ちょっと手前側で寄り添うように佇むそれ。道の脇を見たまま僕は言った。
 天津ユリナはすでに気づいている。怪訝な顔をして視線の先を目で追ったアナスタシアが後ろにひっくり返るのも予測がついていたらしく、こっそり彼女の後ろに回って支える余裕さえ見せていた。
 別に珍しいものじゃない。
 というより世界中どこにでもないと困るものだ。僕には看板の文字は読めないけど、もうお店のシルエットだけで分かる。日本にもあるアレだと。
「……うそ、でしょ……?」
 アナスタシアが呆然と呟いていた。
 度重なる災害にやられてどこかに亀裂でも入っているのか、ちょっと離れたこっちにまで特徴的な悪臭が漂っている。
 前方。
 すぐにでも渡っておきたい陸橋の、手前。
 僕達が見つけたのは、無人のガソリンスタンド。
 この上なく危険な可燃物の塊だった。

 

   4

 大前提として、僕達は背後から大火災の炎の壁に、頭上から大量の落雷に追われている。
 一ヶ所で立ち止まって長考なんかできない。保って三分。それ以上は炎にやられる。この道をまっすぐ進んで奥にある橋を渡れば、とりあえずその炎からは逃げ切れる。雷の問題は継続だけど、一個一個着実にリスクを減らしていける。
 でも、その橋へ向かうには寄り添うようなガソリンスタンドのすぐ脇を通り抜ける必要がある。
 すでに悪臭がここまで漂ってきている。目には見えないけど、おそらく気化したガソリンがある程度は漏れている。炎の壁はもちろん、火の粉や静電気一つあれば大爆発だ。
 ひとまず、何かしら行動を続けないと死ぬ、は確定。
『絶対の正解』なんて都合の良いものもない。
 ……その上で、ならどうする? 無理にでも橋に向かうか、あるいはひとまず迂回してあるんだかどうかもはっきりしない別の回避先をノーヒントで探すか。
「い、行くべきだわ……」
 アナスタシアはまっすぐ奥を指差してそう主張した。
「だって爆発の危険があるならなおさらもたもたしていられないっ! あの橋を渡ればとりあえず逃げ切れるわ。それなら早く渡らないと!!」
「爆発に巻き込まれたら即死よ。炎や爆発は道路側まで埋め尽くす、これまでと違って前兆は察知しようがないわ。なら万が一に備えてガソリンスタンドは迂回するべきだと思う」
 腕組みして対案を出す義母さん。しかしアナスタシアは納得しなかった。怒りじゃない、恐怖で目尻に涙まで浮かべながら金切り声を上げてくる。
「今この議論をやらずに道をまっすぐ駆け抜けていたらもう無事に渡り切れていたわ! 大体、横一線に地下鉄線路が走っているのよ。後ろからは壁みたいな炎がきてるわ。『向こう』に行かないと壁に潰される。ここを横に迂回して谷に沿って走ったとして、次の橋はどこにあるの!? 電波障害のせいで地図アプリにも頼れない状況じゃそれすら読めないのよ!」
 どちらの意見も一理ある。
 そしてさっきも言った通り長考する時間はない。マクスウェルにも頼れない。
 ワイヤレスイヤホンのノイズの強弱を聞き分け、特製の水鉄砲で致死の雷を散らしながら、僕は言った。
「……このまま進もう」
「サトリ」
「アナスタシアの言う通り、次の橋が見つからなかったら僕達はなす術もなく炎の壁に押し潰される。しかも目の前の橋をパスして谷に沿ってよその道を探した先にまた別のガソリンスタンドがあったらそこでまた立ち往生だ。大都市なら可能性は低くないし、そうなってからじゃリカバリーは効かない。間違いなくリミット、炎に呑み込まれて死ぬ」
 目の前にリスクがある。それは分かる。
 だけど回避した先に何があるかは知らない、では対案として成立していない。とりあえず、何となく。〇%と一%なら助かる見込みのある方を選ぶべき。……なんだけど、でもな。それって、今はまだ危険じゃない道を選び続けるだけでは選択肢を一つ一つ切っていくだけだ。延々とやっていくと自分からチャンスを棒に振って袋小路に追い詰められていく以外の道がなくなる。
 ……ただ、マクスウェルと繋がっていたら答えはまた違ったかもしれない。精密な地図データと照らし合わせ、次の橋は何百メートル先にあるか、その間にガソリンスタンドや大型ボイラーなど危険な施設はないか、地図の検索一つで安全を確認できたら多分僕は義母さんに乗っていた。
 本来なら論理で答えを出せたはずの問題が、運任せになっている。それも自分や大切な人の命に直結するような話で。想像を絶するおぞましい状況に放り込まれていると、改めて思う。
 奥に。
 まっすぐ進めば橋だ。ガソリンスタンドの存在は確かに怖いけど、ほんの数秒息を止めて走り抜ければ、それで背後から迫る炎の壁から逃げ切れる。はず。
「それじゃあアナスタシア、合図で走るぞ」
「三つ数えたらってヤツ?」
「ああ。三、二、一」

 ゼロで雷がガソリンスタンドに落ちた。

 とっさにだ。
 義母さん、天津ユリナが左右の手で僕達の首根っこを掴んで引き戻していなかったら、今頃千切れて宙を舞うあの分厚いゴムタイヤみたいになっていたかもしれない。
 爆発だ。
 まず辺りに漂っていたであろう気化したガソリンに着火して、一秒も経たずに地面の亀裂から地下のタンクまで炎が殺到した。ほとんど噴火と変わらなかった。コンクリートで固めた地面が砕けて下から噴き上がり、金属製の屋根や柱をねじ曲げながら天高くへ飛ばしていく。四方八方へ、赤とオレンジの光をひたすら撒き散らしながら。火炎瓶みたいにぬめった炎は広い道の、反対側の歩道まで埋めていく。
 ガンゴンっ、と。
 元が何だったのかも想像できない重たい鉄くずの落下音に脅えている場合じゃない。
 三人まとめてひっくり返り、目を白黒している僕の耳元で義母さんが叫んだ。
「サトリ、ユニットを構えて!! 天候はこっちの都合なんか考えてくれないわ、雷が来る!!」
「っ」
 ほとんど呼吸困難になりながらも、僕は倒れたままノズルを夜空に向けた。
 バルブを人差し指で弾くと同時、閃光が炸裂する。連続的な水の弾の列に導かれるようにして。残像は、明らかに不自然な曲線を描いて遠方の地面に刺さる。
「とっ、トゥルース……」
「ダメだ、アナスタシア。義母さんが正しかった」
 橋のすぐ近くにあるガソリンスタンドが丸ごと吹っ飛び、ぬめるような炎の壁は正面の道を塞いでしまっている。とてもじゃないけどまっすぐ突っ込んで奥の橋に向かうのは無理だ。一回の爆発で全ての可燃物質を使い切ったとも限らない。別のタンク、あるいは停めてあった車なんかがさらに爆発する恐れもある。こっちには一応避雷針代わりの水鉄砲はあるけど、たかだか五〇リットル程度で消せる炎じゃない。というか、おそらく普通の水を掛けるとかえって勢いが増すんじゃないか? ほら、てんぷら火災のアレみたいに。
 打つ手なし。
 迂回しかない。物理的に。
「でも炎の壁は後ろからもきてるわ。もう間に合わない!」
「走れ!!」
 正面も後ろもダメだ。無理にでもアナスタシアの手を引っ張って起き上がらせ、天津ユリナと一緒に脇の狭い路地に入る。当然、一方向へ均一に迫る炎の壁は形を持たないので、どんな隙間も蹂躙する。こんな所に隠れても意味はない。さっさと抜けないと蒸し焼きにされる。
 L字に曲がって再び方向を合わせ、地下鉄線路の方へ。そっちはフェンスで遮られ、さらに奥はコンクリでできた谷のようになっている。
 アナスタシアは首を右に向けて、うんざりしたように叫ぶ。
「ダメだわ……。ガソリンスタンドの爆発、かなり広がっている。谷に沿って戻っても、橋の入り口辺りで炎が邪魔してるわよ!?」
 十字路の真ん中を炎でやられたようなものだ。別の道からでもあの橋には合流できない。
 もう一度大きな爆発があった。
 炎の中で何が破裂したかはもう見えない。断言できるのは、向こうに近づいたら致命的なダメージを負うってだけだ。すぐそこに橋があるとかどうとかそんな次元じゃない。
 やっぱり他の逃げ道が必要だ。
 川とか山とか、炎の勢いを殺す障害物を乗り越えれば炎から逃げ切れる。そういう意味では地下鉄線路のために用意した、コンクリートの谷だっておあつらえ向きだった。
 そう、僕達にそこを渡る手段が残されていれば。
 僕はアナスタシアとは逆、左側に目をやる。暗闇の奥に消えていくフェンスと細い道だけで、やっぱり橋があるか断言はできない。幅一五メートル、深さ五メートル前後の谷に沿って進むしかないけど、パッと見た限り他に橋のようなものは見えない。あそこを渡れなかった場合、僕達は壁のように迫る炎に巻き込まれる。
 五メートル。
 地味ではあっても下に下りたら、何か取っ掛かりがないと対岸側になんて上れそうにない。
 まさか。
 ……判断を、誤った?
 もしかして、雑貨屋の地下でじっと耐えている方が正しかったのか。それしか生き残る術はなかったのか。JBを追うには何日も鎮火するまで待ち続けるんじゃなくて、行動の自由が必要だった。分かる、その通りだ。だけどそれだってハイリスクな道は僕が一人でアタックして、アナスタシアと義母さんだけでも地下の食糧庫に入れてもらうって選択肢もあったんじゃないか!?
 今さら来た道は引き返せない。
 あの雑貨屋の入っていたビルの辺りだってすでに火の海に沈められている。お店の地下がどうなったかは知らないけど、少なくとも地上部分は人が歩けるような状態じゃない。熱と煙の地獄だ。
「走るわよ、サトリ」
 義母さんだけが前を見ていた。
「情報は少ない、正解なんか見えない。だけど立ち止まっていても事態は好転してくれないのは分かっているわよね。これは神経衰弱と同じ、情報が少ない時は手当たり次第にカードをめくって自力でヒントを集めるのが一番なのよ!」
 そうだ。
 とにかく前に進まないと。
 アナスタシアや天津ユリナと一緒になって、コンクリートの谷を守るフェンスに沿って細い道を走る。眼下、ただの線路がこんなに憎たらしく見えるだなんて。もしも橋が見つからなかったら、瓦礫で道が塞がれていたら。考えるだけで恐ろしい。アナスタシアは息を切らせながら、途中何度かチラチラとフェンスの方に目をやっていた。分かる。僕も、いっそ谷を飛び降りてから向かいにあるコンクリートの壁をよじ登る方法を試した方が良いんじゃないかって考え始めている。
「ダメよ」
 浮き輪にしがみついて渇きに耐える漂流者が一面に広がる海水に手を出そうとするのを止めるような口振りで義母さんが止めてきた。
「砂利にレールに枕木に……。下はかなりデコボコしてるわ。この暗さ、五メートルって高さも馬鹿にならないし、ここで着地に失敗して捻挫か骨折でもしてみなさい。致命的な事になるわよ」
「でもっ」
「サトリ良く聞いて。聞きなさい。運良く飛び降りた時には怪我しなかったとして、向かいの壁を登る方法は? なければアリジゴク状態ね。進むも戻るもできなくなった後、下段に雪崩れ込んでくる炎の海にただ呑み込まれる羽目になる。アリの巣に熱湯でも注ぐようにね。ほぼ垂直に近い五メートルの壁なんて、肩車くらいで乗り越えられる高さじゃない。でしょう?」
 ボルダリングなんかの技術があればまた違ったかもしれない。人間の二〇倍の筋力を持つ吸血鬼のエリカ姉さんなんかは普通に切り立った崖とかビルの壁でも手足だけでスイスイ登れるみたいだし。だけど僕達には無理だ。名前や簡単な理屈は知っていても、実際、見よう見まねでできるものじゃないのは分かっている。
 ……いいや、義母さん一人なら。
 アークエネミー・リリス。七つの大罪に数えられるガチの魔王なら、それくらいできてしまえるかもしれない。でもやらない。何故か? 決まってる、僕とアナスタシアを見捨てたくないから。そのためなら遅れている方に合わせて、自分自身の体を炎の脅威にさらしても構わないって本気で考えてる。
 結局これが親と子、大人と子供か。
 アブソリュートノアとJB。僕はとんでもない組織同士の戦争を止める気でいた。知人のアナスタシアを頼りフランスで強力な兵器を引き出そうとする義母さんと本気で戦うつもりだった。だけど蓋を開けてみればこの通り。天津ユリナはそんな敵対者を文字通り命懸けで守ろうとしている。しかもそれを、馬鹿正直に真正面から言い放ったりもしない。真実を言っても子は傷つく、だから親は笑って悪態を受け流せばそれで良いんだって。
 その気遣いは嬉しいけど。
 でもそれ以上に、悔しい。
 義母さんとはこれまで何度か衝突してきた。その時その時は命を削って、人生の岐路に立つつもりで挑んできた。だけどこの人から見たら、それはきっと戦いの形にさえなっていなかった。
「見つけたわ、何かある!」
 無理にでも僕達を走らせながら、天津ユリナはそう言った。
 巨大なシルエットだ。
 でも橋じゃない。
 足を止めたアナスタシアが狼狽えたように呟いていた。
「な、何か倒れているわ。でっかい看板?」
「多分これ、ガソリンスタンドの前にあった看板じゃない? バッキバキに割れているけど」
 こんな所まで飛んできたのかよ……。
 三階分くらいの高さがある二本の長い金属柱に支えられたガソリンスタンドのロゴ看板が落下し、背の高いフェンスを押し潰して、コンクリートの谷にまで落ちていた。
 見ているだけでゾッとする光景だ。爆発の威力もそうだし、こんなのが頭の上に降ってきたら僕達は即死だっただろう。
 でも、今はプラスに働く。
 柱の厚みは三〇センチ以上ありそうだ。列車のレール以上、つまりすごく頑丈なんだろう。
 ゴォ! という炎が酸素を吸い込む音が響いた。
 四の五の言っていられる状況じゃなくなってきた。
 谷底までは五メートルほど。
 べこべこに歪んでいるけど、二本の柱は電柱よりも太い。ただ雨で濡れた下り坂だから、上に上がったら這いつくばって、気をつけながら進むのが一番安全な気がする。
「いけそうだ」
 大きな板が斜めに沈んでいるような感じ。つまりこっち側は道路よりも高い。
 まず義母さんがよじ登り、次に小さなアナスタシアを僕が両手で持ち上げる。上の義母さんとの受け渡しに使った時間は三〇秒もなかったはずだけど、心臓に悪かった。高圧放水の細かい連射を使った避雷針がないと、いつ頭の上に雷が落ちてくるか予測できなくなる。しかも足場自体がでっかい金属塊。どれだけ短時間であっても、今、僕達は自分達の命を運任せでぶん投げなくちゃならない。
 そして最後が僕。
 猫みたいに両手を脇に通して抱えられるアナスタシアほどじゃないけど、インドア系の僕だって気軽に何度も懸垂をするほどの筋力はない。しっかりした鉄棒を握り込めば一回くらいはできるだろうけど、金属の出っ張りを指先で雑に掴んで全体重を持ち上げるほどの力はない。
 そうなると、
「アナスタシア、使い方分かるか? これ預けるからいったん水鉄砲頼む! タンクの中身は減ってるから持てるだろ!!」
「トゥルースっ」
「これ以上もたもたしてると雷が来るぞ。一分以上はまずい!!」
 先に背負っていたタンクごとアナスタシアに水鉄砲を渡し、パーティを守ってもらいながら義母さんの手を借りる。これじゃおんぶにだっこ、至れり尽くせりだ。
「っと」
 ここからは濡れた坂道だ。金属柱は下に向かって落ちているのでやや下り坂。表面を這い、実際に抱きつくようにして両手足を押しつけてみると濡れて滑りそうだった。アナスタシアから再度水鉄砲を預かりつつ、
「……失敗した、アナスタシアを最後尾にするべきだったかも」
「何で?」
 すぐ前では濡れたミニスカのお尻を突き上げながら、先を行く一一歳がキョトンとした顔でこっちを振り返っていた。
 ぼんっ!! という爆音があった。
 驚いて振り返ると、さっきまで自分達がいたフェンスの辺りが炎の壁に飲み込まれていた。オレンジ色の海はいくらか液体みたいな動きで下段にも降り注いできたけど、まだ大丈夫。溶けた金属やプラスチックは真下の線路に薄く広がる感じで、宙ぶらりんになってるこっちにまでは乗り上げてこない。でも急がないと熱や煙が怖い。
「コンクリートやアスファルトの亀裂が変に刺激されないと良いわね。今のバランスだって偶然の産物だもの、いきなり倒れたり転がったりする前に通り抜けないと……」
 義母さんは小さく呟くが対岸は目と鼻の先だ。谷に向かって落ちているから基本は下り坂。かなり下がっているけど、コンクリートの壁と激しくぶつかった関係で向こうは金属柱は看板本体が大きくひしゃげて盛り上がっている。L字の釘抜きみたいなシルエットだ。おかげで三メートルくらいは高さを稼いでいるらしい。谷の深さは五メートルだから、残りは二メートル。小柄なアナスタシア以外なら、両手が縁に届く高さでしかない。
 さっきと同じで、まず義母さん、次にアナスタシア、最後に僕の順番だ。
 とにかく最初は天津ユリナ一人で難なく突破。両手でコンクリートの縁を掴み、足で壁を蹴って伸び上がるように身を乗り上げていく。義母さん一人なら五メートルの壁でもストレートに突破できるかもしれないんだから当然なんだけど。
 僕はワイヤレスイヤホンのノイズを頼りに水鉄砲を短い間隔で夜空に打ち上げる手を止めて、いったんアナスタシアを両手で持ち上げ、先に上へ行った義母さんに預ける。
 その時だった。
「何だ……?」
 僕は視線を横に振った。
 小さな振動がある。でも地震の始まりって感じじゃない。谷の底にわだかまる闇の奥。左右の壁の流れに沿って何か巨大なものが動いて……こっちに近づいてくる?
 炎に追われている身だからこそ、光源を背にすると一面に広がる闇の深さが際立つようだった。パッと見ても二〇メートル先さえはっきりしない。
「サトリ、早くして。お母さんの手を掴んで」
「でも先に水鉄砲を受け渡ししないと……」
「早く!! アレが突っ込んでくるわよ!!」
 義母さんの切迫した声に、もちろん恐怖は感じた。だけど、いやだからこそか。僕は思わず闇の向こうを凝視するばかりか、スマホのライトを振動のする方に向けてしまう。飛んでくるボールに反応して身構えるような、そんな防御反応が働いたんだ。
 黒い塊だった。
 べこべこにへこんだ金属柱の上にいる、僕の目の高さを越えていた。
 それは何万、いや何十万っていうネズミの大群だった。
 意味が分からなかった。
 知ってどうするんだ、こんな理不尽。
「う、わあッ!?」
 叫んで、慌てて義母さんの手を取ろうとした。でも直後に隙間のない塊が倒れたガラクタに横からぶつかり、そのまま押し流しにかかった。軽く見積もって何十トンもありそうな金属塊が、まるで高波にでも持っていかれるように。
「トゥルース!!」
 アナスタシアの声は聞こえた。
 だけどその時、すでに僕の両足は浮いていた。抵抗もできず、そのままネズミの海へと放り込まれた。

 

   5

「ぐ……」
 最悪だ。
 最悪だけど、ここはどこだ? 呻き声が出たって事は、僕はまだ生きているらしい。
 ネズミは一匹もいない。
 義母さんともアナスタシアともはぐれたまま身を起こすと、コンクリートや線路のごつごつした感触がようやく伝わってきた。相変わらず地下鉄線路のようだけど、暗く、そして狭い。地上との露出部じゃなくて、どこかのトンネルまで流されたらしい。
 感覚としては、動物に襲われたって気はしなかった。鉄砲水でも浴びて溺れたって方が近い。
 それにしても……。
「ネズミときたか」
 災害の前触れとして、小動物が一斉に変な動きをするっていう都市伝説がある。けど多分違うだろうなって思った。
 そもそもアレは何だったんだ。
「……、」
 JBお得意の呪いや魔法、の線はいったん置いておこう。というか、それなら僕は全身噛みつかれて骨しか残らないか、あるいは容赦のない感染症の犠牲者になっていると思う。
 自然発生的な線も、ない事はないはずだ。
 フランス人は伝統的にネズミの発生を恐れている。
 何もオカルト的な話じゃなくて、ペストの経験があるからだ。遠い昔にヨーロッパ全体で猛威を振るい、時にあれだけ躍起になっていた百年戦争に影響を与え、また同時に内乱を誘発させ、散々人間を振り回した末にヨーロッパ全域から実に人口の三分の一を奪っていった極悪な病。それを媒介したのがネズミ(正確にはネズミについていたノミなど)だった。だから彼らは徹底的にネズミを排除した、自分達の生活圏から。
 でも逆に言えば、意識して、徹底しないと勝手に増殖してしまう環境なんだって話でもある。
 そんな何百年も前の話を、と思うかもしれないけど、人骨だらけのカタコンベの例を出すまでもなくパリの歴史は古い。革命が起こり、よその国に占領された事があっても、それでも世紀単位の時間を過ごしたアパートや地下通路なんかが普通に現役で稼働しているんだ。
 土壌。
 ネズミを無尽蔵に増やす仕掛け。
 そういったものは、まだパリの死角に残されているのかもしれない。何度も何度も絵の具を上塗りしていくように近代化が進んでも、どこかにひっそりと。街全体でどれだけネズミがいるか正確な統計なんか誰も取っていないと思うけど、この災害だ。たっぷり水を吸ったスポンジを手で握り潰すように、あちこち追われて逃げ回った無数のネズミ達は考えなしにコンクリートの谷へ落ち、そして出口を求めて一方向に向けて塊のまま移動した。真相はそんな感じじゃないだろうか。
 怪我とか、ないよな?
 念のため自分の手であちこちまさぐって、ネズミの爪痕や噛み傷がないのを確認する。変な痛みや痒みは特になかった。どうやら敵や食べ物としては認識されなかったらしい。向こうも逃げるのに必死だったって事か。
「……さて、それじゃどうするか」
 誰もいないのに思わず呟いてしまう。
 いや、誰もいないからか?
 幸いスマホは手元にあった。背中のタンクと繋がった水鉄砲は……ダメだな。あちこちべこべこへこんでいて、バルブを開放しても水が出ない。
 義母さんにはスペアを渡してある。使い方はアナスタシアが分かっているはずだし、今すぐ雷にやられる心配はなさそうだ。
 むしろ哀しい事に、残してきた二人より孤独な僕の方がふとしたトラブルで躓いてくたばる可能性は高いと思う。勇気とか正義とかじゃなくて、単純に怖いから早くアナスタシア達と合流したい。今はマクスウェルのサポートもないし、僕は一人じゃフランス語だって読めないんだ。
 スマホに指で触れるとバックライトの眩い光がトンネルを照らした。
 ただ……やっぱり圏外か。
 いや、まだ諦めるな。これはトンネルの中だからかもしれない。そもそも不自然な電波障害自体、二回目の流星雨で大量の粉塵が舞い上がったからだ。あの雷エリアさえ出れば、普通にスマホは使えると思う。
 ここにいても仕方がない。
 トンネルの外に出よう。例えばさっきのネズミ達がどこかで行き止まりに気づいて、まんまUターンしてきたら打つ手はなさそうだし。
 出口はどっちかな。
「あれか……」
 フランス語は読めないけど、矢印の表示くらいは分かる。トンネルの途中でそれらしき鉄扉を見つけた。ノブに触れてみる。鍵のようなものはないらしく、そのまま回る。そっと奥を覗いてみると、金属製の上り階段があった。非常階段だ。
 スマホのライトを頼りに一段ずつ上っていく。こんなのでも命懸けだった。体重を掛けた途端に鉄の踏み板が外れたら? 天井の亀裂に気づかずにコンクリートの塊がいきなり頭の上に降ってきたら? 荒唐無稽であっても完全に否定はできない、自分の常識なんか何の役に立つ。すでに鉄やコンクリートの信頼性なんか吹けば飛ぶ程度も残されていないんだ。
 ……いかん、一人になると自家生産の妄想が止まらない。やっぱり三人くらいの塊がちょうど良い。単に他の人の目があるってだけじゃなくて、自分で自分を客観的に見られるから。
「よっと」
 最後の段を踏んで地上に。
 ドアを開けるのは少し怖かったけど、薄く開けて確かめた限り、閃光やゴロゴロという低い唸りはなかった。風向きなのか、それだけの距離をネズミの濁流で流されたのか、どうやらこっちにまで粉塵は蔓延していないらしい。
 改めてスマホに目をやれば、間もなく午前〇時になる。
 ただそれだけ長い間ずっと流されていたのか、早々にネズミ達から解放されて線路でずっと気絶していたのかは判断のしようがない。
 というか、雷エリアから抜けたならまずスマホだ。地図があれば現在地が分かるし、アナスタシアや義母さんとも連絡がつく。そして何より、

「マクスウェル!!」
『シュア。途中経過を口頭で補完してもらえると助かります』

 結構本気でへたり込むかと思った。
 これだけ。スマホが繋がって、オンラインのプログラムを呼び出しただけ。誰でもできる当たり前に触れられる事が、こんなにも強い支えになるなんて。
 圏外の表示は消えていた。
 今の僕なら何でも検索できる。やるべき事だってたくさんある。世界の叡智は手の中にある、そんな気分だ。マクスウェルと情報共有しながらやる事リストを改めて頭の中で並べていく。
「まずここがどこかって事だ」
『リュクサンブール宮殿前、サンミシェル通りの近くです。大学の校舎が並んでいる辺りですね』
 ……相変わらず地名だけ言われても全然ピンとこないけど、サンミシェル通りは前に聞いた事があるような? そうだ、パリ天文台に向かう時に。ただ、景色が変わったって事は結構遠くまで流された、のか? 確か、義母さん達と別れた場所はもっと庶民的っていうか、背の低い雑居ビルや小さな商店が並んでいたはずだ。それにこっちは火事の炎に照らされているって感じもしない。ただ真っ暗な闇ばかりが広がっている。
「あとアナスタシアと義母さんに連絡。あれから一時間以上経ってるから同じトコにはいないと思うけど、連絡がつけば待ち合わせの場所くらいは決められるだろ」
 そういう目的もあったから、まず自分の居場所を正確に知る必要があった。手持ちの情報は何もありません、じゃこっちからアナスタシア達に渡せるものがない。
「それからJB側でエジプト神話のデカいワニを操っていた、ピエール、いやビッザだったっけ? ヤツのスマホが手元にある。これの中身が分かればフランス製の核弾頭がどれくらいJB側の制御下にあるか分かるかもしれない。パスコードアタックを頼む」
 これでようやく一通り、か。
 他にも、天気や治安はどうなっているのか、あの火事はどうなった、次に予測される災害は、フランス政府の発表は、世界各国の支援はいつ来るのか、ボランティアの中に同じ日本人はいるのか……。知りたい事なんか山のようにあったけど、一度に全部は無理だ。マクスウェルの処理能力というより、小さな画面を眺める僕の頭がパンクしてしまう。
 こうしている今も、組織としてのJBは動き続けている。自分達の手で新しい惑星を作る、そのために大量の核兵器を使い捨ててでも。馬鹿げた話だけど、現実にそれをやるためにキャストの連中はパリ全域をここまで徹底的に破壊している。その行動力だけは本物だ。
 移住が目的じゃない。
 ……ビッザのヤツが死ぬ間際にそう言っていたのが引っかかるけど。
『ユリナ夫人、アナスタシア嬢の両名にメールとメッセージを投げていますが反応なし。通話に応じる気配もありません』
「通話はそのままキープで。……向こうはまだ雷雲の中なのか?」
 何しろ街の形が丸ごと変わるほどの災害下だ、インターネットが使えなくなる理由なんてそれ以外にも山ほどありそうなものだけど。
 電話については向こうが出るのを待つとして、
「JB所属のビッザ=バルディア。こいつのスマホは?」
『ロックには虹彩を使っているようですね。イタリア系ミラノ圏出身の人物を画像検索で無作為に網羅し、数十万人分の虹彩パターンの特徴を分析。その上で多重合成して「マスターキー」を作れば突破できるかもしれません』
 すごいけど、時間がかかりそうだな。
 それにそんな仰々しい話なのか。
「……ビッザ自身の写真があるだろ? 指紋から個人情報は辿れたんだから」
『試してみたら入力ミスと出ました。チャンスは残り二回。おそらく免許証やパスポートなど公文書に残る身分証はカラコンでもつけて写真を撮っているのでは?』
 用心深い男だ。まあ、日頃からピエール=スミスなんて偽名を用意して生活していたんならおかしな話でもないけど。
 結果、分かったのは現在地くらいか。
 アナスタシア達がどこにいるかヒントはないし、ビッザのスマホも解析待ち。この暗闇の中、瓦礫だらけの街を闇雲に歩くのだって危険過ぎる。ここは『次の目的』がはっきりするまで待った方が得策だろう。
 パリの人達はどうしているんだろう。
 自分の命がかかっているのに機械に頼りきりの僕もどうかと思うけど、でもマクスウェルに指示を出しておけばとりあえず『次の目的』は見えてくる。悪夢みたいに広いオープンワールドで途方に暮れる、って話にはならない。だけど他のみんなは違う。情報がないから安心できず、『次の目的』がないから迂闊に動き回るのも難しい。でもこの暗闇の中でただじっとしているのだって、プレッシャーで言ったら電源の落ちた宙吊りエレベーターに閉じ込められるのと大して変わらないんじゃないか。
「……マクスウェル、液晶系の広告や宣伝トラックの中でまだ使えるものをリストアップ。縦長だろうが丸い柱に張りついていようが、どうせ中身は市販のウィナーズだろ」
『それが何か?』
「フランス系のテレビニュースのネット版を拾って映し出せ。ただし明らかなデマは排除しろ」
 ヴン、と。
 低い唸りと共に、闇に沈んだパリのあちこちがほのかに明るくなった。もちろん払拭できるほどじゃないけど。
 これで何が解決する訳でもない。『次の目的』なんか見えないかもしれない。けど、目隠しされたまま地雷原の真ん中で体育座りを強いられるような、悪夢のような息苦しさくらいは取り除けるはずだ。
 その時だった。
 ぶづっ、とスマホの方からノイズみたいな短い音があった。
『繋がりました。アナスタシア嬢です』
「っ、アナスタシア!!」
『そっちは無事? なんか汚れたネズミの大群に体ごとさらわれていったみたいだけど!』
「ダメだったらこの声は届いてないよ。ひとまず感染症とかも大丈夫みたい」
『パッと見た程度で分かる話? ま、回線激弱だから必要な事だけやり取りしましょ。トゥルースどこにいるの、待ち合わせ場所どうする?』
 流れが変わってきた。
 明確に思う。底の底から少しずつでも回復してきてる。こんなスマホ一つでも人生を変えるきっかけになる。
「こっちは無事だ、普通に歩ける。場所はリュクサン何とか? マクスウェルの話だと大学がたくさんある辺りだって」
『リュクサンブール宮殿の近くね。ならそこにいて、ワタシ達がいるモンパルナス駅からなら近いわ』
「おいっ」
『モンパルナス駅についてはマクスウェルに聞いて。一帯じゃあトゥルースのいる辺りが一番開けた公園だから瓦礫だらけの街でも分かりやすいし、リュクサンブール宮殿って今は上院議会として使われているのよ。つまり国会。絶対に軍や行政から見捨てられる事はないわ』
「……、」
『トゥルース、じっと待つのが死ぬほど辛いのは分かる。だけど順当に行けば一〇分あれば普通に合流できるわ。だからそれまで待ってて』
 マクスウェルがいれば地図アプリが使えるけど、わざわざ瓦礫だらけの街で頼りない目印を探して歩き回るのも得策じゃないか。一度は凱旋門の位置を勘違いして日本大使館に辿り着けなくなった事もあるし、すれ違いのリスクは確かにある。
「分かったアナスタシア。義母さんがいるなら大丈夫だと思うけど、無理はするなよ。瓦礫とかで通れない場所があったら待ち合わせ場所は変えよう、リスクを負ってまで乗り越えようとす……」
 スマホが小刻みに振動した。
 画面の上端に短文のメッセージがポップアップしている。SNSを利用してコンタクトを取るマクスウェルからだ。
 通話を保ったまま画面をタップしてSNSを呼び出すと、マクスウェルからこうあった。
『ビッザ=バルディアのスマートフォン、ロックを解除しました』
「っ」
 本格的に追い風だ。
 フランスの核弾頭を握るJBを追う線はまだ途切れていない。細いけど、ビッザのスマホから辿っていける可能性はある。
 さらにマクスウェルからメッセージが連投されていく。いよいよ核心だ。
『ファイル総数一〇万五〇〇五件、JB、核、惑星など重要ワードで検索します』
「アナスタシア、ちょっと待ってくれ」
『特に高い価値を持つであろう文書を絞ります、八件がヒット。核弾頭を利用した惑星製造の計画は信憑性あり、具体的な計算式がありますのでこちらで可能か不可能かをシミュレーションできます。惑星製造については移住を目的としたものではなく、世界のバランスを意図的に崩す事に注目しているのだとか』
「バランス?」
『詳細は不明です。重力的な話なのか、あるいは占い等のオカルトなのか。核弾頭については巡洋艦や潜水艦のものが都合二五発、フランス政府の制御を離れています。仏側に認識ナシ。JB所属のキャスト達の指先一つでいつでも発射可能で、なおかつプログラム的なコントロールを取り戻すには世界中に散らばった潜水艦が高度な設備を有する海軍基地まで戻る必要があります。全ての艦が最寄りの基地まで到着するのに最短で一四日、つまりJBがすぐさま使う場合は復旧が間に合いません。またいくつかキャストらしき人名を入手。リストに天津ユリナ夫人の名前があります』
 聞き流すかと思った。
 あまりにも次々とデータを流し込まれたせいで何でも受け入れる態勢になっていたけど、ちょっと待て。今のは明らかにおかしい。
「……これはJBの機密文書だよな?」
『シュア』
 マクスウェルはあくまでもプログラムだ。だからどんな情報であっても、ユーザーが求めれば迷わず開示してしまう。
 小さな画面にはこうあった。

『つまり天津ユリナ夫人はアブソリュートノアとJB、両方に属しているのでは?』

「あなす……っ!!」
 ほとんど反射で叫ぼうとした。
 それでも間に合わなかった。ブヅッ!! と。不自然なくらいのタイミングでいきなり通話が途切れる。
 リダイヤル?
 そんなもので何とかなるか、くそ!!
「マクスウェル、アナスタシアの位置は? モン何とか駅で検索!!」
『天津ユリナ夫人は最初からアブソリュートノアとJBの間で戦争が起きる事を望んでいる節がありました』
「分かってる……」
 今にして思えば、ビッザ=バルディアとぶつかった時も様子がおかしかった。話が正しければフランス国防省地下で先に激突していたはずなのに、オテル何とかで激突した水神セベクについては煮え切らないところがあった。
 まるで、初めて見て困惑するような。
 というか、義母さんは本当に地下でJBと戦っていたのか? あの施設には防犯カメラもない。誰も見ていない地下深くで、解析機材を詰めたスーツケースを引きずるビッザと合流して握手をしていた可能性は???
『ユリナ夫人はこの戦争に勝つための特殊な兵器を引き出す目的でパリへやってきたと思われますが、実際にカタコンベやフランス国防省地下で何をしていたかは未だに不明です。JBの核弾頭入手を止めるという行動の信憑性は、ユリナ夫人一人の証言にほとんど依存しています』
「だから分かってる!! もんぱる、そうだ。モンパルナス駅への最短コースを出せマクスウェル!!」
『極めて非推奨のコマンドです。アークエネミー・リリスが単純にJB側のキャストとして、つまり敵に回った場合、ユーザー様に勝利できる確率は限りなくゼロに近いです』
 ……分かってるってば。
 義母さんの本当の所属はアブソリュートノアか、JBか。どっちにしたって彼女は組織の力を使ってくるはず。魔王リリス単体だけでも手に負えないのに、さらに数の暴力まで持ち出されたら近いどころかぴったり〇%まで値が落ちる。
 忘れていた。
 和解したと勝手に思い込んでいた。
 天津ユリナは僕の義母さんであると同時に、七つの大罪に数えられる魔王でもあるんだ。こと悪巧みのレベルにおいて、僕なんかの想像をはるかに超えたところにあって当然なんだ。
『モンパルナス駅はパリの中でも巨大な駅で、地上の駅舎だけで三つも隣接しており、郊外の空港と繋がるバスターミナルなど周辺設備も充実しています。さらにこれらは裏方の業務、メンテナンス通路などが地下で複雑に結びついているので、死角や袋小路も多い危険な立地と評価できます。特に、一対多の状況では不利に陥りがちですね』
「……言っても公共の駅だろ。案内図くらいどこにでも転がっているはずだ」
『大きな駅ですから対テロ関連の理由から一般公開されていない職員施設や通路が多数ある他、ユリナ夫人率いるJBが瓦礫で通路を塞いだり、天井に穴を空けて梯子で繋いでいる可能性もあります。もはや既存の見取り図はあてにならないと見るべきです』
 アブソリュートノアとして勝ちたいのか、JBとして勝ちたいのか、まだ見ぬ第三勢力に属しているのか、あらゆる組織を束ねる上位構造でもあるのか、全ての組織に共倒れしてほしい破滅的な個人なのか。
 ダメだ、読めない。
 新たな事実が分かっても、そこから答えを導き出せない。拡散していくばかりで一つの答えに絞り込めない。天津ユリナは、それくらい深い。底が全く見えないくらいに。
 個人として勝てない。地形の面でも不利。組織のパワーバランスさえ見えてこない。挙げ句に、アナスタシアっていう人質まで取られている。
 はっきり言って、逆転の条件がない。
 たったの一つも。
 俯いて、搾り出すように呟いた。
「……それでもアナスタシアは諦められない」
『彼女はアークエネミー・シルキーです。単純な耐久力なら人間のユーザー様より上のはず』
「そういう問題じゃない! アナスタシアはここまで無償で付き合ってくれたんだぞ。本来ならパリに来る理由さえなかった。僕が巻き込んだんだ、このままにしておけるかッ!!」
 マクスウェルがここまで僕のコマンドに反発するなんて珍しい。さっきも言ったけど、基本はユーザーである僕が望めばどんなデータでも表示してくれるはずなのに。
 何となく理由も分かっていた。
「僕と義母さんを対立させるのが怖いのか、マクスウェル」
『システムに恐怖などという分類不明な機能は実装されておりません』
「……僕がもう一度自暴自棄になるのが怖いのかって聞いてる」
 そう言えばあの時もアナスタシアと一緒に行動していたか。ラスベガス壊滅の時にアブソリュートノアや義母さんが絡んでいると知って、僕は初めて天津ユリナと衝突した。ほとんど暴走・暴発と呼べるような酷い代物で、自分でやっておきながら僕は僕の心を半分くらい砕いてしまったと思う。
 僕の安全を守るのが第一なら、確かに止めるかもしれない。
 勝てる見込みはまずないし、勝っても僕の心は無事じゃ済まない。これは、どう考えたって割に合わない破滅の選択肢でしかないんだから。
 でも。
 だからアナスタシアを放り出して一人で逃げるっていうのは、ナシだ。
 そうしたら、その時こそ、天津サトリって魂はぐしゃぐしゃにひしゃげて原形もなくなると思う。
 パリがこうなったのが本当に義母さんのせいなら、絶対に止めなくちゃならない。アナスタシアの安否がはっきりしないならきちんと確かめなくちゃならない。
『ユーザー様、どちらへ行かれるのですか?』
「お前が道順を出してくれないなら勝手にやる」
『そちらは逆方向ですよ』
「ああ! 現実なんか過酷だ、ボスキャラの超絶ド派手な必殺技だけが死因だなんて限らない。この暗闇の中じゃ、本当に何の意味もなく道路の亀裂に落ちたりビルの瓦礫に押し潰されるかもしれないな! 非力で無能な僕一人じゃ!!」
『……、』
「だけどお前がいれば話は変わる。手を貸せよマクスウェル、お前は理不尽な天災から人を助けるために演算する災害環境シミュレータだろ。こればかりはノーとは言わせないぞ、僕がこの手でそう作ったんだから。だったらアナスタシアを助けるために力を使え! お前が計算して僕が手を動かす。お前がいなくちゃこの問題は解決しないんだ!! 頼むよッ!!」
 マクスウェルが本当に沈黙した。
 長考に入っているのか、応答しないという意思表示なのか。
 一秒一秒に命を削られる想いだった。
 耐え切れなくなったのは、僕の方が先だったと思う。さらに一歩、闇雲に進もうとした時だ。
 メッセージがあった。
『……今この場において、システムの最優先事項はユーザー様の保護とみなしております』
「ああ」
『そのユーザー様が自殺行為に突っ走るのであれば何としても阻止しなくてはなりません。しかし残念ながらシステムには物理的なアームがありません。よって極めて遺憾で非推奨ではありますが、愚かなユーザー様の行動を黙認しつつ死亡率を下げるよう適切な助言を行うしかないでしょう』
「正直に言えよ、お前だってアナスタシアが心配なんだろ」
 マクスウェルは明言しなかった。
 モンパルナス駅。
 この災害の連続だ、おそらく向こうもまともに機能していないだろう。今や魔王の潜む鉄とコンクリートの迷宮だ。
 それじゃあ、魔王の城まで行って絵本のお姫様でも助けに行くか。
『ユーザー様こそご無理をされる必要はありません』
「何が?」
『心配なのではないですか、よりにもよってJBなんかと関わりを持ってしまった天津ユリナ夫人が。リスクで言えば、この「借金」は闇金どころではありません』
「……、」
 だからお前に頼るんだよ。
 僕が人の情に引きずられそうになった時、選択次第で家族は壊れるものだってトラウマに呑まれて、極めて重要なあと一歩を踏み込めなくなった瞬間。それでも客観的に状況を眺めて勝負を続けるために、シュミレータであるお前の力が必要なんだ。

 

   6

 地震とは違う、細かい揺れが不規則に地面を揺らしていた。そのアスファルトもあちこちひび割れていて、断面同士が乾いた音を立てて噛み合っている。
「……また地盤だかプレートだかか。あと何回流星雨が降ってくるんだ?」
『電波状況に注意。下敷きと同じ理屈ですが、擦り合わされる質量が桁外れですので静電気による通信障害の懸念があります』
 短い呻き声があった。
 喉の渇きに耐えかねたのか、近くの噴水を覗き込んだ若者達が震えていた。暗がりだから分かりにくいけど、スマホのライトを向けてみると水面が赤く澱んでいるのが分かる。大気中の粉塵を吸った汚い雨とも違う色だ。
「何だ……あれ?」
『毒物ではないでしょう。水道管の赤錆が、激しい衝撃に揺さぶられて剥がれたのでは』
「元々、海外の生水に手を出すつもりはないけど……」
『この調子だと地下水も濁りが生じているでしょうね。市民生活はもちろんですが、ミネラルウォーター産業への甚大な打撃が懸念されます』
 そもそも普通の活火山や断層と無関係に溶岩や火山性のガスが飛び出しているんだ。そういうのは水質検査からやり直しだろうな。
「でも、水か。後で手作りのろ過装置でも作った方が良いかな。こう、ペットボトルサイズの」
『ノー。街中でこれだけ火災や交通事故が頻発しているのです。薬品倉庫が瓦礫の山と化していたり、炎の中に化学系の貨物列車でも転がっていたらどうするのですか。安全の一言を得るためには際限のない努力が必要となります、登録されている全ての化学物質に対応した精密検査となると国立研究所レベルの施設を使わなくてはなりません』
 ……それじゃあ容器に詰めたミネラルウォーターの掴み合いになる。工場からの補充もないし、お店の棚なんかもう空っぽになっているんじゃないか? まあ、今は水道管に頼らないでっかいウォーターサーバーなんかも結構普及しているみたいだけど……。
『モンパルナス駅まで五〇メートル圏内に入りました。都市部の暗闇と言ってもそろそろ危険です、特に専門の暗視装備に注意』
「っ」
 気を引き締め、身を低くする。もう目の前の目的から逃げていられない。
 魔王の城はすぐそこだ。
「マクスウェル、分かっている範囲で良い。実際に踏み込む前に例の駅についての基本情報を確認したい」
『シュア』
 こういう時、マクスウェルは正確だ。
 隙のないデータがこっちの心まで抉ってくる事もあるけど、変な出し惜しみで損をさせられる心配はない。
『モンパルナス駅は先ほども言った通りパリの中でも大きな駅で、三つの駅舎を合わせた場合表面上の敷地面積だけで一辺三、四〇〇メートルに届きます。日本の学校なら二つ三つは校庭ごと収まる規模ですね』
「……それだけ探索は容易じゃないって訳か」
『シュア。当然ですがユリナ夫人やアナスタシアがどこにいるかは不明で、ユリナ夫人側が単独なのか複数の部下を引き連れているのかもはっきりしません。部下がいるとしたら、その一人一人が海風スピーチアや蛍沢ケズリレベルのキャストとなるでしょう。事前に外から観察を重ねるべきですが、それだけで情報不足を補える状況とは思えません。今から屋内探索用の陸上ドローンを調達するのも現実的ではないため、ユーザー様が直接中に入って不足を補うしかない状況です』
「分かった」
『何がですか。この災害環境シミュレータをもってしても、ユーザー様の生存率を計算できない状況です。何しろユリナ夫人を中心として不透明な部分が多すぎます。重ねて言いますが強く非推奨、今からでも黙って引き返すのが最も賢い選択であるのは間違いありません』
「それならアナスタシアを助けたいならすぐ動けって事だよ。明日の天気か週間天気かと一緒だ、時間が経つほどブレが大きくなって予測が一層難しくなる。助けるならここだ、お前だってそう思っているんだろ。今を逃したら、もうチャンスはないって」
 ただ、不気味な振動や暗闇に怯えながら先に進んでいくと、ちょっと様子がおかしかった。
 モンパルナス駅自体は一個の巨大なハコモノじゃない。どうもいくつかの建物を使って中庭みたいな大きな空間を囲っているようだった。建物のシルエット自体もあちこち割れたクッキーみたいに崩れているけど、でも問題なのはそこじゃない。
 人の気配がするんだ。
 それから焚き火らしき炎の揺らめきも。松明とかじゃなくて、多分ドラム缶の中に折れた木材でも突っ込んで暖炉の代わりにしているんだろうけど。
「っ?」
 正しい動作かどうかなんて知らない、とにかく手近な瓦礫の裏に飛び込んだ。スマホの画面を空いた掌で覆って光を隠しながらも、マクスウェルに声を掛ける。
「何だありゃっ、義母さんじゃないぞ。普通に何人も人がいるじゃないか!?」
『オテルデザンヴァリッドから人を追い払ったJBのビッザとは異なる対応ですね。一律の戦闘マニュアルが存在する訳ではないのでしょうか。モンパルナス駅自体は敷地面積の広い公共施設ですから、避難所に認定されるか否に関わらず多くの人が自然と集まりそうな立地でもありますが』
「……だから何だ。今さらパリ市民に歩み寄ったところで義母さん側にメリットでもあるのか、それ?」
 何しろ天津ユリナとJBが繋がっていた場合、流星雨を落とした張本人って事だ。言葉で取り繕って一時的に民衆を味方につけたって、正体がバレれば一瞬で掌を返されるのは目に見えている。
 普通の人はJBなんて組織を知らないんだから、あれが人為的な災害だなんて疑いようがない?
 でもそれは、後ろ暗い事情を抱えた人間が絶対安心とまで言える話かな。そもそも正しい答えを導き出すまでは暴力はやってこない、なんて話でもないんだし。
 筋の通らない妄想や勘違いからでも、災害下の暴力は発生しうる。
『ユリナ夫人を敵に回した場合の戦術の読めなさは毎度の事ですが、木を隠すなら森、混乱すら利用する、マッチポンプの吊り橋効果などが見込まれるのでは?』
「吊り橋効果?」
『暴力的な独裁者がカリスマ性を持つ事もあります。人は直近の危機から救ってくれるならそもそもの元凶が何だったか忘れられる、不思議な生態を有しているものでしょう?』
 ……まあ戦国武将だってそんなものか。民衆の英傑・猛将だった織田信長や武田信玄なんかは多くの民を守って人気を博したけど、そもそも武将達が天下が欲しいなんて身勝手な夢を持たなければ人が死ぬのが当たり前の戦国時代なんかやってこなかった。手に入れるにしても、話し合いではなく武力の行使が当たり前と判断したのは彼らなんだし。
「とはいえ相手は義母さんだ、油断は禁止。最悪、『その程度の暴力なんてリスクの内にも入らない』の可能性だってある」
『シュア。アブソリュートノアという組織の構成を見る限り、そこまで人間を侮っているとも思えませんが。それでも魔王リリスなら何でもあり、に一票です』
 とはいえいきなり突撃は怖い。
 しくじれば、アナスタシアの未来まで閉じるんだ。
 身を低くしたまま、広大なモンパルナス駅の周りをゆっくりと回る。最低でも、あちこちにいる人達が義母さんに丸め込まれた仲間(または部下)なのか、単なる居合わせた避難民なのかはジャッジしておきたい。それ次第で、横を素通りできるのか全員の視界から隠れて進まないといけないのかが変わってくる。
 一刻も早くアナスタシアを助けたい。
 そしてできれば天津ユリナに話を聞いて、JBと手を切らせたい。
 闇に紛れて遠方から観察し、じりじりと心を炙るような情報収集を進めていく内に、分かってきた事があった。
「……あの人達、無線機みたいなのを持っている様子はないな。焚き火を囲んでいるだけで、周りに視線を投げる風でもない」
『時折スマホに目をやっている人もいますが』
「電波状況を確認してるんだろ。言葉は分からないけど舌打ちしてすぐポケットに戻してる、それの繰り返しだ。警察や消防以外の一般回線は今もずっと圏外なんじゃないか?」
 僕やアナスタシアのスマホが通じるのは、JBのウイルスを書き換えて警察系のネットワークを冒し、通信データの権限を吊り上げているからだ。警察、消防、軍隊、行政。この災害下だ、これら非常回線以外の通信はみんな一律で遮断されているはず。彼らはそういう裏技を知らない。
 つまり、
「一般人、だな。天津ユリナやアナスタシアは見ているだろうけど、多分名前も知らない。同じ避難民Aとして受け入れているだけか」
『なら状況次第では群衆を味方につけられるかもしれません。JBのキャストとして、天津ユリナ夫人が極めて高確率でアナスタシア嬢を誘拐・拘束している訳ですし。パリ市民が流星雨災害や核弾頭の深い情報を知らなくても、ここだけは現行犯です』
「大混乱で状況が予測不能になるだけだっ。怒りに燃えた民衆Aがいきなり善意の銃乱射でも始めたらどうする。本人は一一歳の女の子を助けるつもりでも、流れ弾がアナスタシアに当たったらそれまでなんだぞ」
 それに僕は、義母さんを制御不能の暴徒達に預けるつもりもない。
 自分だってどうしたいのかは整理できていないけど。
「……ひとまず周りを一周したけど、表とか窓とかに義母さんやアナスタシアは見えないな」
『モンパルナス駅は複数の路線が合流しております。商用施設の拡張のために地下を掘り進めているらしいので、おそらく迷路のように入り組んだ地下構造体にいるのでは?』
 さらにもう一周回るけど、新事実はなかった。マクスウェルに電波や赤外線のやり取りがないか確かめさせ、停電下でも使えるカメラがないのを確認してから、そろりと駅舎に向かって足を向けていく。
『モンパルナス1、接近します』
 敷地に踏み込む。三つある駅舎の内、いよいよその一つに近づく。
 魔王の城。
 表で身を寄せ合っている複数の人影がこっちに振り返ったけど、特に金切り声とかはなかった。僕はフランス人じゃないんだけど、寛容な人達だ。こういう災害下だと団結心が歪んで変なナショナリズムに化け、まず自国の救援が最優先、よそ者なんか排斥しようなんて動きに繋がる事も珍しくないんだけど。
『すでに天津ユリナ夫人を受け入れている訳ですしね。全ての元凶、JBのキャストとも知らずに』
「そりゃそうだけどさ……」
 下手にこそこそしたり、武器を持ったりすると逆効果になるだろう。何も知らない人からすれば義母さんは避難民Aでしかないんだ。武器を持って追い回した場合、周りから見て『どっちが悪か』は言うに及ばず。言ってはなんだけど、天津ユリナの外見だけは世界で通じるレベルの美人だしなあ……。
 善意からの行動でも血は流れる。
 間違った情報に基づいた選択もありえる。
 ……この辺りの『見え方』については意識しておいた方が良さそうだ。前にも一回、ショップで泥棒と間違えられて殺されかけた訳だし。現時点で僕は『外国人の新参者』。普段と違う災害下、パリの人達からすれば、すでに不信感を持たれていても不思議じゃない。例えばアークエネミー・リリスとの戦闘に備えて物騒な武器なんかかき集めたら袋叩きに遭うかもしれない。
 燃え盛るドラム缶の横を通って駅舎の中へ。
 まるで野戦病院のようだった。
 広い空間に明かりはなく、こちらは完全な暗闇だった。だけどスマホのライトを向けなくても、呻きで分かる。人がいる。それもかなり多い。おそらく硬い床に段ボールやビニールシートを重ねただけの簡易ベッドをたくさん用意して、怪我人達をずらりと並べて寝かせてあるんだ。
 改めて思う。
 これは都市型のオープンワールドでもサバイバル環境を楽しむゲームでもなくて、本物の災害なんだって。こんな所で重傷者がおざなりに寝かされている以上、瓦礫の街に救急車を走らせる余裕はないし病院だってまともに機能していないんだろう。本来なら助かるはずの傷で四苦八苦する人もいる。例えば糖尿病のインシュリン、喘息の携行酸素ボンベが必要な人はどうしているんだろう? 病気の数だけ医薬品や医療機器が必要なはずなんだ。
 これ以上は許されない。
 JBを止め、流星雨の墜落を止めないと。それどころか、場合によってはもっとひどい攻撃もやってくる。
 新しい惑星を作るために必要な核弾頭。だけど手に入れたミサイルを全て使い切らなくては達成できない、とは限らないんだ。JB側が使えるのは二五発。もしも『余り』があるのなら、牽制として追っ手に撃ち込む可能性だってないとは言えない。
 つまりは、僕達を狙ってパリの中心へ。
「義母さん……」
 噛み締め、僕も動き出す。
 可能性は低いと思うけど、スマホのライトを向けて床に寝かされた人達の顔を照らしていった。目的はアナスタシアを助け、義母さんを止める事だ。どさくさに紛れて人混みに隠れているリスクだって完全に否定はできない。
 もちろんこんな所で取っ組み合いなんかしたくない。周りにどれだけ被害が出るか分かったものじゃないんだし。
 だけど待ち構える側からすれば、追っ手が一番嫌がる環境を整えようとするはずなんだ。
『顔認識による照合完了、天津ユリナ夫人及びアナスタシア嬢は確認できず』
「……分かってる」
『それから、野ざらしにしては応急手当てのレベルが妙に高いのが気になります。おそらく高度な技術を有する人間が手を貸したものかと。包帯の巻き方や添え木の固定などがフランス式ではなく、日本式の救護手順なのも気になります。減災都市・供饗市で発達、全国へ普及を進めている医療技術ですね』
「……、」
『天津ユリナ夫人と決まった訳ではありませんよ。パリ市内に日本人または親日派のフランス人がどれだけいるかは未知数。仮にユリナ夫人だとしても、最短で効率的に群衆から受け入れられるための、キャストとしてのパフォーマンスという線が濃厚です』
「だから分かってるよ。ゲリラや麻薬カルテルだって警備とかインフラとかで地域還元くらいはするもんな、街に不可欠な存在となる事で民衆を味方につけて軍や警察の追及をかわしやすくするって訳だ」
 アナスタシアをさらった、っていうのは事実なんだ。天津ユリナがどんなによそで人助けをしていたって、そこにはメリットがあると考えるべきだ。
 しかし、
「義母さんからすれば、JBのビッザ=バルディアがリタイアして、そこから天津ユリナの名前が出てきた事自体はイレギュラーだったはずだ」
『シュア。それが何でしょう?』
「……そこから派生していったモンパルナス駅の篭城についても丸ごとそうだろ。困った時のリカバリー案くらいには考えていたのかもしれないけど、少なくとも第一候補じゃない。義母さんにとってもアドリブの連続になっているはずだ」
『シュア。余裕がなくなっているかもしれませんね。ただし、犯行計画の破綻は必ずしも歓迎できるものではありません。特に人質が絡む事件の際には』
「……、」
 奥に進み、ずらりと横一列に並んだ自動改札を乗り越える。
 不規則に細かい震動が続く中だと、重たい天井に頭の上を塞がれるのが不安で仕方がない。屋根に対する当たり前の安心感はなくて、丸ごと崩落のリスクに置き換わっているんだ。
 そして怪我人だらけの一角を抜けると、今度は食べ物らしき匂いが鼻についた。携帯コンロを持ち込んで料理でも作っていたようだ。
「屋内だぞ……。窓も塞がってるし、一酸化炭素とか怖くないのかよ」
 というかあの形のコンロ、ヨーロッパにもあったんだな。やたらと鍋文化に溢れたアジア限定のアイテムだと思ってた。
『それ以前に壁や床の中でどんな断線や破断があるか読めない状態です。ガス爆発を第一に懸念すべき危険状況ですね』
 義母さんはどこだ?
 アナスタシアはどうしているだろう。
 気絶して大きなバッグにでも詰め込まれているのか、群衆には見えない位置からそっと背中に刃物でも押しつけられているのか。
 ざっと見た限り、ここの人達は普通のパリ市民だ。あからさまに縛り上げられた状態の女の子を肩で担いでいたら流石に騒ぎ出すと思うけど。
 駅は電気が来ていないのか、漏電からの電気火災を恐れてわざと非常電源をカットしているのか、とにかく防犯カメラも動いていない。やはり、しらみ潰しに調べていくしかなさそうだ。雑にやれば見過ごしが生まれる他、物陰から不意打ちを喰らうかもしれない。でも実は、義母さん側がこの駅に留まり続けないといけない理由もおそらくない。もたもたしているとアナスタシアを抱えたまま場所を移されるリスクもある。そうなったらヒントが途絶える。
「……ひとまず公式に載ってる案内図を参考にして、踏み込んだ場所を塗り潰してくれ」
『向こうも動き回っている場合はあまり意味はありませんけどね』
 分かってるよ、気休めって事くらい。でも何か手近な所に小さな目標を立てていかないと途方もなさ過ぎて折れてしまいそうなんだ。
 広い駅と言っても売店やレストランなんかは結構細かくスペースを区切っていて、金属のシャッターで遮断されている事も多い。
 今からアナログな鍵を一つ一つ探していくとなったら相当骨が折れるけど、実際にはほとんどの錠前は壊されていた。水や食料を求めてっていうのが一つ、あとやっぱり寝床が欲しくて潜り込んでいる人が多い。大広間で雑魚寝じゃなくて、周りを壁で囲まれた個室を欲しがっているって訳だ。
 血の匂いと呻き声で満たされた野戦病院じゃ気が休まらないのかもしれない。
 ただ、それにしても、
「冗談だろ、地震だって起きてるのに……。レストランの厨房なんかいつ何時爆発するかもしれないっていうのに」
『トイレの床に寝転がっていないだけまだ理性的と評価すべきでは?』
 時間も時間だ。
 暗闇を引き裂くようにスマホのライトを向けると、いくつか不機嫌そうな呻きを耳にした。だけどやっぱり義母さんやアナスタシアは見つからない。
「駅員さんもいないみたいだな……」
『今日中に列車が復旧する見込みがないと分かった時点で、職務を放棄して自宅に帰ったのかもしれません。勤勉で定刻通りに働く駅員や運転士なんて日本にしかいないようですし』
 ……それもそれで偏見だと思うけど、でも本職の人間だけいなくなっているのは気になる。何だかファストフードの店員がハンバーガーを食べるのを頑なに断り続けているのを目撃したというか。
 可燃ガスに高圧電線、大型変圧器や貨物列車があれば化学薬品も怖い。確かに駅は危ない場所でもあるんだけど。
「変だぞ、絶対変だ……」
『ノー、分析してほしい事があるのであれば具体性のあるコマンドをいただきたいです』
 金属シャッターだらけのレストランや売店の並ぶエリアを抜けると、下りのエスカレーターが見えた。当然、電気がなければただの狭い階段だ。
「……こっちは地下鉄の乗り換えとか?」
『商用施設の新規区画のようですが、まだ稼働前のようです。近くを走る地下鉄とは業務用の出入り口で連結している可能性もありますが、開発中なので資料が少ないですね』
 まだ見ていないエリアから優先して、全部回る。それが基本方針だ。多分まだ地上も抜け落ちはあるだろうけど、目についた所から調べたい。駅員さんしか入れない小部屋一つ踏み込むのに一時間かけるくらいなら、まず誰でも行ける場所を回って地図の大部分を埋めてしまいたいんだ。一般の図面に書いていない裏方の部屋や通路だって、周りを埋めていく事で浮き彫りになるかもしれないし。
「……エスカレーターから地下に向かう。電波状況に注意、あとかなり入り組んでいるからマッピングでヘマするなよ」
『ユーザー様こそ。その地理的構造から考えてどうやっても地下はリスク上昇を避けられません。ガス、酸欠、火災、崩落、あらゆる危難に備えてください。言うまでもなく死角からの奇襲も込みです』
 画面端にあるバッテリーの残量を確かめてから、LEDライトを頼りに下りのエスカレーターへ踏み出す。
 ガムテやルーペでもあれば暗視モードを使った手作りゴーグルも作れるんだけど……やっぱり怖いか。そういう特殊装備は何も知らない周りの人を警戒させる。地下フロアにいるのが義母さんだけとは限らないんだし。
 ぱら、と。
 頭の上に、細かい砂粒みたいなのが降ってくる感触があった。
『警告』
「マジかこのタイミングで地震なんてっ!?」
 思わずゴム系の手すりにしがみついたけど、ダメだった。ずっ、といきなり足場が『ズレて』バランスを崩したんだ。
 ちくしょう。
 きちんとした階段じゃない。ギアやストッパーが外れたっていうか、止まっているだけのエスカレーターっていうのが裏目に出たっ!?
「わああッ!!」
 視界がぐるりと一周回ったと思ったら、もう止まらなかった。
 正直に言うと、痛みはなかった。
 結構な高さだったし、実際に派手な音もした。エスカレーターだから一段一段のへりも刃物みたいにエッジが立っているはず。なのにパニクって頭の回線がきちんと繋がっていないのか変な脳内物質がバンバン出ているのか、体のどこからも痛みの信号がやってこない。
「……、」
 ぱしぱし、と。
 倒れたまま片手であちこちを軽く叩いた。すぐにスマホの手触りがあった。……不思議なものだけど、痛覚が全部カットされている訳でもないらしい。
「明日が怖いな、こりゃ……」
 とりあえずむくりと体を起こして、自分の体を掌で探ってみた。どこか折れている様子はないし、べったりと血がこびりつく事もない。無事、って判断で大丈夫だろうか?
「ラッキー、なのか? なんか借金を後に回してるだけな気がするけど。マクスウェル、この先の通路はどうなってる?」
『警告』
 やなメッセージが飛び込んできた。
 バゴッ!! という鈍い衝撃音が上の方から響いた。何かが転がり落ちてくるっていうより、まずエスカレーター自体が踏んづけられた蛇みたいに暴れ回る。自転車のチェーンか、あるいはベルトコンベアか。とにかく一つの塊として連結されていた階段状のエスカレーターが、何か強い刺激を受けて持ち上がったんだ。シーソーの片方に全体重を掛けたように。
「わっ」
 噛まれる、と思って足を引っ込めた。具体的な重さなんか知らないけど、踏み板と床の間に足を挟まれたら大変な事になりそうだ。
 判断自体は間違っていなかったと思う。
 ただ何故こうなったのかっていう原因の方にも目を向けるべきだった。つまり上方、巨大なシーソーの反対側に落ちたのは何だったのかっていう話。
 バギバギめきめき、っていうガラスが砕ける音が連続した。
 驚いてスマホのLEDライトを上の方に向けてみればエスカレーターの両サイド、透明な壁(?)みたいなものが破壊されていくのが分かる。何で? 決まっている。
 何か巨大な塊が、エスカレーターの幅すら無視して転がり落ちてきたからだ。
『素材は耐火性樹脂と鉄筋コンクリート構造物、推定重量四・二トン。さらに
 いちいち読んでいる暇はなかった。ろくに立ち上がる事もできず、とにかく倒れたまま横に転がってでもその場を離れる。向こうは坂道を下っているんだから、単に距離を取ってもボールみたいに転がってくる。だからエスカレーターに対して右手側に進んで避けるしかない。
 甘かった。
 向こうはまん丸のボールじゃない。エスカレーターっていうレールを失って自由を得た瞬間、軽自動車くらいの塊が不規則に跳ねたんだ。そう、ラグビーボールみたいに。
「うわあ!?」
 おまんじゅうみたいにその場でうずくまった途端、すぐそこを巨大な塊が回転しながら突き抜けていった。危うく突き出た鉄筋に耳を持っていかれそうになる。それこそ交通事故みたいな激突音と共に、薄い内壁をぶち抜いて隣の部屋まで突っ込んでいった。
「……、」
 騒ぎが収まっても、しばらく動けなかった。
『天井の一部が崩落したようです。度重なる流星雨の衝突、地震、噴火活動などにより建物の構造そのものが深刻なダメージを受けていると思われます』
 心臓が痛い。寿命なんかこの数時間で相当すり減ったんじゃないかって思う。
 うずくまったまま上の階を見てみれば、いくつか並んだエスカレーターはメチャクチャになっていた。踏み板はばらばら、大小のガラス片がスマホのライトの照り返しを受けて乱反射を促していた。この斜面を足だけで登るのは苦しいし、軍手くらいじゃ普通に鋭いガラス片が貫通しそうだ。
 ここはもう使えない。
 上に出るなら、別の出口を探さないと。
「マクスウェル、念のために出口検索。複雑に入り組んだ大きな駅なら他にもいくらでもあるだろ」
『シュア。ただしそちらでも同様のトラブルが起きていない保証はありません。通常の防犯カメラは使えないため、システム側でサーチするのは不可能ですので』
「分かってる」
 こっちもアナスタシアを捜さなくちゃならない。改めて身を起こし、深呼吸して、僕は壊れたエスカレーターから地下フロアの奥へLEDライトを向ける。
 その時だった。
 異変があった。
 とは言っても、大きな光や音が襲いかかってきた訳じゃない。むしろ逆だ。
 そう。

 いきなりスマホが死んだ。
 バックライトもLEDライトも消えて、全方位が分厚い闇に包まれる。

 

   7

 呼吸が詰まった。
 意味が分からない。もう頭が回らない。
 確かに、だ。
 雨の中を歩いたり、粉塵や煙にさらしたり、今だってエスカレーターから落ちたり。過酷な使い方をしてきたのは認める。認めるけどさ。
 ここでか?
 今このタイミングで壊れるかよ! スマホがっ!?
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 一発だ。
 自分が長い道のりのどこかでミスしたのは分かる、そしてコンティニューも難易度変更もなかった。この一回でいきなり緊張が限界を超えた。
 思わず絶叫したけど、それでスマホが直る訳じゃない。パニックに支配された頭を必死に使って、震える指先でボタンの感触だけ確かめる。ややこしい手動リセットを試すけど……ダメだ。うんともすんとも言わない。たった数秒足らずの待ち時間に心臓が破れそうになる。
 何だ。
 どうする?
 これじゃ鼻先も見えない。相談相手もいない。足元のどこに亀裂が走っているか、いつ頭の上からトン単位の瓦礫が降ってくるか、一個も判断できない。
 遭難。
 吹雪の雪山や湿った樹海に一人ぼっちで放り出されたような孤独感だった。これじゃ義母さんと戦ってアナスタシアを助けるどころじゃない。迂闊に足を進めたら鋭いガラスや突き出た鉄筋でも踏み抜くかもしれない。
 ぱらり、と頭の上に砂粒みたいな何かが落ちてきた。
 そう、駅舎の崩壊だって止まっていない。ここでじっとしていれば安全なんて話ですらない。
 動けば死ぬ。
 動かないと死ぬ。
 板挟みかよっ、ちくしょう!!
「冷静だ、冷静になって一個一個考えるんだ……。一度に全部とか、三段飛ばしなんて考えるな」
 ほとんど生き埋めみたいな真っ暗闇の災害下の地下空間で、無理にでも自分に言い聞かせる。
 まず、スマホが何故故障したのか、すぐに直せるものなのかは判断がつかない。この濃密な暗闇の中、特殊工具がないと開かないスマホの基板と睨めっこなんかできっこない。
 かといって、真っ暗な中を勘を頼りに進むのも自殺行為。
 となると……明かりか。
 火でも電気でもいい。とにかくスマホの代わりとなる照明器具を確保しないと。ガスの匂いはしない、よな?
 光。
 それならプラスチック、ポリエステル、ビニール、何でも良い。とにかく合成樹脂があれば……。
「はあ、はあ」
 とにかく財布を取り出して、指先の感覚を頼りにカードを引き抜く。それでごしごしと頭のてっぺんを素早く擦った。誰でも小学生の時に似たような事をしなかっただろうか。
 下敷きと髪を使って静電気で遊ぶ、アレだ。
 ぱちぱちっ、という小さな青白い光は、弱いフラッシュって感じだった。懐中電灯と比べると心細いにも程があるけど、それでも一瞬の光が網膜に残像を残す。
 等間隔に並ぶ柱、壁、鉄扉、いくつか並ぶゴミ箱。それからティッシュの箱より大きな瓦礫がいくつか。
 その残像を頼りに、恐る恐る進む。素手だとやっぱり怖い。付け焼き刃でも、上着を脱いで片腕に巻きつけておいた。防護した掌を使って探り探り歩を進めていく。暗闇の中でとにかく怖いのは鋭い突起の踏み抜き。下手に足は上げずに、ずりずりと摺り足の真似事をしながら爪先の感覚だけで床のガラス片をゆっくりとどけていく。
 ひとまず壁際へ。
 さらに手探りでも分かる壁に沿って、ゆっくりと奥へ進む。やがて、冷たい金属製のボックスに行き当たった。
「っ」
 べたべた触って小さな扉を開け、分厚い合成繊維でできたバッグを引っ張り出す。固定具の明かりが点いていない時点で予測はできていたけど、ブザーは特に鳴らなかった。あまり馴染みはないけど、公共施設なら大体どこにでも設置されている電子製品だ。
 AEDだった。
 何も見えない中、手探りで大きなスイッチを入れると、オレンジ色のランプが光った。AEDは命を救う道具だけど、同時に高圧電流を使う以上『誤爆』のリスクもある。だからチャージ時には必ず注意を促すためのサインを発するはずなんだ。
 頼りないけど、ないよりマシ。
 部屋の蛍光灯とセットになった、小さな電球くらいの光源。それを頼りに改めてスマホを見る。画面にヒビが入っていたり、本体がくの字に曲がっていたり……なんて事はなさそうだ。ただそうなると、不調の原因はパッと見ても判断できない。今この場に特殊工具やテスターがある訳じゃないし、そう簡単に拾える品とも思えない。スマホについてはひとまず保留とみなすしかないか。
「……アナスタシアがそういうのポケットに入れてそうなんだよな、くそ」
 ぐらっ、と足元がもう一度揺れた。コンクリートで固められた地下とは思えない、吊り橋とか小舟の上で立っているような不安定感。けどこれって地震か? あるいは地上じゃまた流星雨でも落ちたのか、駅のどこかでガス爆発でも起きたのか。確かにおかしな現象は起きている。なのにスマホってツールがないと、今自分の身に何が起きているかも分からない。僕は騒ぎの真ん中にいて、自分の命を危険にさらしているはずなのに。
 とにかく奥に進むしかない。
 でもこの暗闇だと考えなしに探索しても距離も方向も惑わされそうだ、ただでさえ複雑に入り組んだ地下フロアだし。となるとなけなしの明かりの次に欲しいのは……、
「……見取り図、だな」
 思わず呟いていた。
 半ば封印された地下に人の影はない。警戒して身を潜めていたとしても、一定以上の人数がいたら音や気配は伝わると思う。それがない。まるで深夜の学校だ。
 無理もない、か。
 僕だってどこでも好きな場所で寝て良いって言われたら、まず地上フロアで頑丈な所を探す。流星雨災害なんて無茶苦茶な中だ。地下フロアは一見造りが堅くて安全に見えるけど、もう建物の硬さ厚さで凌げるレベルを超えているのはその辺の子供でも分かる。いったん生き埋めになったらレスキュー隊に気づいてもらう事すら難しくなってしまう。
「これかな……」
 いくつもガラスの扉が並ぶ辺りに、見取り図が掲げてある。開発中の新規商用施設だったか。でも、うわ、大雑把だな。縮尺とかはあまり気にしていないようだし、当然、立入禁止の職員施設は記載がない。スマホのカメラが使えない事もあって、いまいち頭に叩き込もうって気がしない。
 もう少し、こう、分かりやすい。
 それでいて持ち運びできるくらいのサイズ感だと……。
「パンフとか?」
 けどなあ。
 それ自体が観光地になっている東京駅とかならともかく、普通、駅そのものを紹介する冊子なんてあるのかな? 階段や廊下と一緒で、駅は基本的に通り道。目的地として紹介される事は稀だ。
 火災時の避難経路とか、そういうのもありそうなんだけど……。駅員さんの事務室とか、もっと裏方も調べないとダメだろうか。
 どうしたものかな。
 そんな風に思っていた時だった。

 もしゃいそ、

「っ?」
 びくっと震えて思わず振り返った。
 そこには何もない。けど、AEDのパイロットランプ、豆電球一個分ってくらいの淡い光じゃ闇を拭いきれない。はっきりした事は言えなかった。
 何だ、今の?
 耳元で小さな虫の羽音が響くような不快感。でも単なる音って感じでもない。一音だって聞き取れないのに、どこか粘ついた意志や感情の色がついていたのが分かる。
 ていう事は、今の。
 鳴き声?
 声?

 えべへん、ぶりはに、えるくいそ

 勢い良く飛び下がった。
 だけど耳元の声は離れない。正面には誰もいない。後ろに下がっても誰ともぶつからない。
 何だ?
 何なんだ!?
 老若男女の区別はつかない。低い風の唸りと言われても納得してしまうし、正直そっちの方がありがたい。でも、この押し潰されるような濃密な暗闇に空気の流れなんて感じられない。
 声。
 ……なのか? やっぱり。
 暗闇が生んだただの幻覚か、あるいは骨伝導で共鳴するような超音波を使った音響兵器でも浴びている? 一発目に出てくるのが、もう荒唐無稽だった。これじゃ大真面目な顔して幽霊騒ぎの正体は錯視やプラズマだったと語るのと変わらない。
 怖いのは、声そのものじゃない。
 距離感。圧倒的な至近距離。これが本当に人の声で、耳元で囁かれているとしたら、もっと危険な事だってできる。もう僕の喉元は得体の知れない指先で撫でられているんだ。だから、怖い。パーソナルスペースに土足で踏み込まれた上、相手が何を隠し持っているかも不明で未知数。だから理性じゃなくて本能の部分が叫んでいる。ここまでされても何一つ抵抗できない自分がとことん無力なんだって嫌でも思い知らされる。
 そもそもだ。
 意味が分からない。
 どこの誰だか知らないけど、こんな事ができるならそれこそ刃物でざっくりくらいは訳がないはずだ。じゃあ危害を加えるつもりはない? それもなんか違う。脅して威嚇するにしたって、僕には逃げ道もないんだ。元来たエスカレーターは壊れているんだから。
 それとも、合理性なんかないのか?
 ただ怖がらせたい、ただ楽しみたい。そんな考えだけでちょっかいを出してきているとでも言うのか。
 JB。
 キャスト。
 いいや、安易に結びつけて良いのか? あるいは全く関係のない化け物の可能性は? パリ全域にはどれくらい深い闇がわだかまっているんだ!?
「はあ、はあ……!!」
 明かりが弱い。
 所詮はAEDについている小さなパイロットランプ、どっちを向いても闇は拭えない。必ずどこかに残る暗がり全部に誰かがうずくまっているように思えてくる。
 向こうの独壇場だ。
 また耳元にきた。

 ぢついねいうぇふれぬぼいにサトリえけ

「っ!?」
 明確に、音で聞こえる名前が混じってきた!?
 ……いい、や?
 単なる雑音がそう聞き取れただけか? 何だ、どっちだ!? 今のに意味はあったのか、それとも何もないのか!!
 疑問があった。
 答えが欲しくて内側から破裂しそうだった。乱れ切った呼吸を意図して整えないと、息苦しさに背中を押されて両手で抱えたAEDを闇雲に床へ叩きつけそうになる。これが僕の心を混乱させる狙いだとしたら、この時点ですでに一二〇点だ。

 さトリ、

「っ!?」
 思わず近くの柱に背中を押しつけて辺りを見回すけど、ダメだ。やっぱり音源は距離も方向も掴めない。光が弱過ぎて闇が拭えないっていうのもあるし、最悪、僕の頭の中から響いている可能性だってある。

 サトリ

 それでも。
 何かに捕捉された、って感じがした。漠然と騒音を撒き散らしているんじゃない。何かは僕を見据えて声を発している。
 なんていうか。
 古いラジオのダイヤルを回すっていうか、展望台にあるつまみのついた双眼鏡でピントを合わせるっていうか。何発か試し撃ちして、正しい間合いでも測っているようだった。
 つまり、本番はここから。

 どうしてきた、サトリ

「質問……?」
 外から誰かが首を傾げているのか、内からの不安が形を持ち始めているのか。そんなのは知った事じゃない。

 サトリ死ぬ。このまま行けば、分かっていたはずだ

「……、」
 ぶつ切りだけど的確。まるで得体の知れない予言書のよう。まともな人間なら分かっていても口を噤んでしまうような内容でもズバズバ切り込んでくる。
 何を。
 こいつは何を期待している?
 全くの通り魔じゃない。ストーカーみたいに、僕を選んで接触してきている。
 やっぱりJB?
 あるいはそれ以外の誰か???
 ヤツは僕から何かしら答えを引き出したいのか、あるいは声をインプットした時点でもう目的は達成されているのか。
「っ、それを僕に聞いてどうする? なんて答えてほしい!? 何だったら台本でも渡してくれ、その通りに口を動かすかr

 サトリ、今すぐころせる

 ……ッッッ!?

 答えろ、サトリ。今すぐ。いやなら下がれ、しにたくないだろう、ばじゅる

 心臓が、キリキリと痛むようだった。
 前後左右上下、どこかに警戒していれば安心なんて話じゃない。僕は未だにこの声がどうやって届いているかも特定できてないんだ。最悪、頭の中身が内側から膨らんで弾け飛ぶ、なんて可能性だってないとは言えない。
 普通に考えれば、逆らうのは得策じゃない。相手が誰であれ、僕は後頭部に見えない銃口を押しつけられている状態なんだから。
 でも。
 だけど。
「……僕はこの先に行く」

 なぜ

「まだ調べていない場所がある。今ならまだアナスタシアを見つけられるかもしれない、義母さんにだって追いつけるかもしれない!! すぐそこの部屋にいるかもしれないんだ、ドア一枚隔てて。だったらここで引き返せるか!!」

 不測のじたい起きている。サトリそれ分かるはず

 ああ。
 アナスタシアからの連絡は途切れた。義母さんは限りなく怪しい。というかビッザのスマホに名前があった以上、間違いなくJBに一枚噛んでる。最後に話題に出たモンパルナス駅に来てもやっぱり出迎えはない。地下から安全に地上へ上がる方法はなくて、スマホは故障、辺りは停電、おまけに全部織り込み済みって態度で暗闇からコンタクトが来た。
 今、僕は限りなく死に近づいている。
 それが分かる。
 素人でも、ひしひしと感じてしまうくらいに。
 言ってしまえば目隠ししたまま裸足で地雷原を歩かされているようなもの。全てを知る人間が見たら呆れるか卒倒するかの二択ってくらい崖っぷちにいるんだろう。むしろ、まだ死んでいないのがおかしいってくらいに。

 サトリにきく

「っ、なにを」

 アナスタシアとユリナここいると思うか?

「……、」
 もちろん選択肢は色々ある。客観的に取捨選択して全部の流れの証明してみせるほどの情報は集まっていない。
 それでも答えなくてはならない。ある程度は直感になる。しくじったら何が待っているかは想像もできないけど、少なくとも好転はしないだろう。
 ここはそんな場面だ。
 だから、
「いると思う」

 何故?

 現にこうして妨害が入っているから、っていうのは一番分かりやすいけど、実は何の証明にもなっていない。JBは組織犯で、しかもコンピュータウイルスなんかの高度な情報技術も持っている。ようは、最初から満遍なく街中に子飼いのキャストを放っていたり、僕とアナスタシアの通話を盗み聞きして後から兵隊を派遣してきた可能性だってあるんだ。
 JBの子飼いや兵隊。
 キャストの強さはバラバラだけど、蛍沢ケズリやビッザ=バルディアレベルがバカスカ投入されていたら最悪だ。そしてJBの最悪は、常にこっちの想像の五倍増しくらいで襲いかかってくる。
「アナスタシアの通話が途切れたタイミングが変だった。合流を妨害するなら、モンパルナス駅の名前が出る前に仕掛けるはずだ」
 だとすると、こう。
 モンパルナス駅って名前は、いきなり出てきた訳じゃない。
 僕が今どこにいるか、ランドマークは何か。会話の流れがあったはずだ。聞かせたくないなら、もっと手前で断ち切れた。
 つまり、
「妨害者は最初から聞かせるつもりだった。モンパルナス駅の名前を。しかもアナスタシアが穏便に通話を切る前に襲っている。切った後に襲えば、僕は何の警戒もしないでのこのこ駅に顔を出していたはずなのに」

 あなすたしあ仲間か?

「ああ」
 何故、といちいち聞かれなかった。
 理由について話すのもセットの質問だったらしい。
 今、僕はアナスタシアは襲われたと言った。これはアナスタシア自身がこっちを騙している、という可能性を排除している訳だ。
 その理由は、
「アナスタシアが騙して僕を襲う気なら、もっと人気のない場所を選んでいる」
 そう。
 言ってはなんだがモンパルナス駅には人が多い。公共交通機関の大きな建物だから、家を失ったり不安がってるパリの人達が集まっているんだ。正直に言って、人を襲うには不向き。パリについて右も左も分からない僕は基本的にアナスタシアのオススメ通りに動くんだから、悪意があるなら人目につかない場所に誘い込むとかもっとやりようはあったと思う。

 天津ユリナはしんようできる?

「……、」
 したい、とは思う。
 でも希望を第一に持ってきている時点で、感情優先になって論理が破綻しているのも自分で分かっている。
 はっきり言えば、義母さんはグレーだ。
 JBのキャスト、ビッザ=バルディアのスマホに天津ユリナの名前があったのは否定できない。これが嘘だった場合、解析を頼んだマクスウェルに悪意があるか、あるいは乗っ取られている事になる。
 JBの技術なら不可能じゃない……かもしれない。
 けどやっぱり、アナスタシアの時と同じく、マクスウェル側に害意があればもっとスマートに立ち回れたはずだ。言ってはなんだけど、困った時の僕のマクスウェルへの依存度は半端じゃない。この瓦礫だらけのパリなら、間違った食料調達方法を画面に表示するだけで間接的に命すら奪えるかもしれない。
 そうなると、
「今ある状況だけだと、一番怪しいのは義母さんだ。少なくとも天津ユリナなら、アナスタシアの通話を隣で耳にしながら自分が望んだタイミングで襲えたはず。それとなく後ろに回って、死角からすんなりと」

 ではあまつゆりな敵対者か? サトリやアナスタシアいのちを奪いにくる敵なのか?

 ……ここが、分かれ道だ。
 これまであった事を全部思い出せ。希望、憶測、偏見、先入観、そういうのは全部ナシだ。
 JBのスマホに名前があった。ここは曲げられない。
 通話中のアナスタシアを襲って、僕をモンパルナス駅まで誘導した。これもほぼ確定。
 天津ユリナには、僕の知らない顔がある。アブソリュートノア以外にも。
 そこはもう否定できない。
 ならその上で、だ。
 前提を認めた上で。
 ……結局、天津ユリナとは何者なんだ? JBに属していて、僕やアナスタシアを騙して行動を共にし、手綱を握れればそれでよし、正体が露見するなど必要な機会があれば危害を加える。そういう結論になるのか。
「……、」
 しかし一方で、義母さんがいなければ僕達はもっと早い段階でリタイアしていたはず。フランス国防省地下から無事に出られたかどうかすら怪しい。国防省は地下フロアを全て調べた訳じゃない。不測の事態で僕達と鉢合わせしそうになったからって、義母さんはどこかの一室で身を潜めていれば普通にやり過ごせたと思う。なのにわざわざ声を掛けてきた理由は? 義母さんは、僕達を助けるために顔を出している。そいつはその後の行動からも明らかだ。ではそれは、具体的に何故?
 ……僕やアナスタシアに何かさせたい事があって、達成するまでは泳がせる必要があった。
 悪意的に見るならこれが一番だ。僕達は情報分野で専門的な技術を持っている。けど義母さんはフランス国防省地下のサーバーに一人で触っていた。僕達にできる程度の事なら彼女にも可能だ。だとすると、この線はない。
 他には。
 考えられる可能性は。
 これしかないか……。
「天津ユリナは敵だ。少なくとも、僕とアナスタシアを合流させる気はない」

 ……。

「そして同時に、家族の僕を守ろうとしている。天津ユリナがJB側について何をしようとしているか、今の段階じゃ情報が少なすぎて断言できない。けど、それに僕を巻き込ませる気はなさそうだ」
 沈黙があった。
 痛いくらいに。
 声がある方が不自然な状態のはずなのに、僕はいつの間にか謎の声の存在を受け入れていたらしい。当たり前の環境、無音の状態に漠然とした脅えすら感じている。満員の映画館でみんな一緒に感動して涙を流していたはずなのに大勢の人達が実は一人もいなかった。そんな孤独極まりない怪奇現象にでも巻き込まれたように。
 こういう認識で合っているのか。
 正解だったら何だと言うのか。あるいはこいつを油断させるためにわざと見当違いな事を話した方が良かったんじゃないか。
 沈黙は続いた。
 あるいはもう立ち去ったのか。そう思わせておいて襲撃の機会を窺っているのか。
 そんな風にぐるぐる考えていた時だった。

「ちえっ、全部正解か」

 ッ!?
 今のはこれまであった幻聴かどうかもはっきりしない、正体不明の声じゃない。明らかに距離も方向も分かる、しっとりとしたぬくもりで空間内を満たしていく肉声だった。女性の声。AEDのセットを突きつけてみれば、意外なほど近くの柱の陰から音もなく人影が出てくる。
 それ自体も心臓が止まるほど驚かされたけど、
「義母さん……?」
 出てきた人影を見て、僕は目を白黒させた。
「なんだっ、じゃあ今のは全部義母さんだったのか!?」
「ま、いくつか足りないピースもあったけど、そこはサトリの知り得ない情報だから仕方なし。むしろ断言できない所は素直に保留にしたのもプラスに評価しましょう」
「さっきの、頭に響く声は……?」
「メガホン」
 ただの、じゃないだろう。
 くそ、この分野でも勝てないのか? 義母さんのハンドメイドは、僕なんかはるかに超えてる。
「お手製だけどね。知ってるサトリ、空気の振動は音色だけじゃなくて圧も加えられるからパーソナルスペースを侵害してプレッシャーをかけられるって話。幻覚・幻聴の作り方に興味があるなら後で検索でもしてみなさい」
「……、」
「それにしても、あそこでテキトーな陰謀論を並べて空白を埋め立てたり、感情論丸出しで家族を信じるとか言い出していたらさっさと落第だったんだけどなあ」
 どうやら、だ。
 僕は何かを試されていたらしい。しかも知らない間に合格扱いだ。……これがJB側の入団テスト、とかでない事を祈るばかりだった。未だに真意が読めないので、緊張なんか解けるはずもない。
 何しろ天津ユリナは敵で、アナスタシアと合流させるつもりはないって断言したのは僕自身なんだぞ。
 僕はごくりと喉を鳴らして、
「……アナスタシアは、どうした?」
「そこの柱の裏でうずくまってるけど」
 思わず心臓が跳ね上がる。なんだっ、結局無事? 今のは義母さん達のイタズラだったって話なのか???
 頭の中が混乱でいっぱいになっているこっちの気なんか知らないで、天津ユリナは気軽な感じでこう付け足した。
「結構本気で悶絶しているみたいよ? ほらサトリはアナスタシアちゃんについては一ミリも疑わないで守る助けるの一辺倒だったから」
 丸い柱の裏に回ってみると、屈み込んだアナスタシアがわたわたと小さな両手を振って自分の顔を庇っていた。
「いやちょっ、見るな見るな見ないでトゥルース今ちょっとこの顔は!?」
「にゃはー☆ ナイト様に見つめられて一一歳が照れてる」
 天津ユリナが茶化したように笑っていた。ただ僕としてはそれどころじゃない。
「けっ、結局何がしたかったんだ!? 義母さんがJB側についていた理由は!?」
「モチ、JB側の内側に潜って情報収集して、連中の動きを止めるために」
 ぶいっ、と天津ユリナは右手でサインを送りつつ、
「実際、大きな戦争の前には太く線引きされる前にフェンスの向こう側へ行きたいって考えるVIPは少なくないのよ。どっちが楽勝ムードかを判断して浮かび上がれば良いけど、戦争がキツくなってくると切り捨てられるのよね。手の届く範囲にいるにっくき敵って事で、民衆の不満の矛先逸らしとして」
「……、」
 確かに、だ。
 JBが宇宙を漂う塵屑や岩塊を利用して新しい惑星を作ろうとしているって話は、義母さんが出処になっていた部分が大きかった。なら義母さんはどこから情報を仕入れたんだって話になるんだけど。
 アブソリュートノアは確かに強大だ。
 だけど布を被せて三、二、一で何でも取り出せる訳じゃない。情報を手に入れるには、そのためのアクションが必要になってくる。
 だから?
「ま、そもそも最初の流星雨が降り注ぐ前にはボロは出ていたのよね。どうも潜り込んだ先のJB側も一枚岩じゃないみたいで、騙し切れなかった派閥から私に対する殺害命令も出ているようだし。お母さんも裏から色々試してみたんだけど、結局何も変えられなかったものね……」
 当然だけど、僕達がパリに入った瞬間が全てのスタート地点になる訳じゃない。
 天津ユリナを追っていた僕達は、最初から周回遅れだって自覚くらいはあったはずだ。
 だから、もっと前に暗闘はあった。
 流星雨を未然に止めるか否か、という一個前のハードルを懸けた戦いが。
 でも正義が必ず勝つとは限らない。
 一人で勝手に決断しないで僕達にも相談していれば……なんていうのは虫のいい話か。現実に、この災害下でこれだけおんぶに抱っこなら僕やアナスタシアなんてプロ同士がぶつかる戦闘では足手まといにしかならないのは火を見るよりも明らか。アブソリュートノアとJBの戦いは、文字通り次元が違う。こっちは義母さんに加勢しているつもりでも、JBからすれば狙いやすい弱点、出来すぎた人質がウロウロしているようにしか見えなかったはずだ。
「JB、放っておけばどうなるかは分かっているわよね?」
「それは……」
「パリを壊したのはそもそもの目的じゃない。彼らはサトリ達が事態を嗅ぎつけるのを恐れただけで、ここまでの寄り道をした。アブソリュートノアの重鎮である天津ユリナじゃなくて、民間の高校生一人の目をかい潜り、時間を稼ぐためだけにね」
「じゃあ、僕達のせいで……パリはこんな……?」
「どうかしらね」
 義母さんは肩をすくめて、
「最初はアメリカ、ロシア、中国、インド、フランス、イギリスの各地で『陽動』するつもりだったみたいよ。共通点は何か、知らないはずはないわよね?」
「……、」
「誰の目を誤魔化すべきか、敵がはっきりしていたから連中も的を絞る事ができた。ま、もちろんこんなのはパリで暮らす人からすれば何の救いにもならないでしょうけどね。……こういう損得の勘定は、人間がやるものじゃないわ。悪魔の王がすべき事よ」
 天津ユリナは自分の胸の真ん中に掌を押し当てて、
「そうなると、こっちも手段なんか選んでいられないわ。JBの尻尾は何としても掴む。私がヤツらのお仲間として見聞きしてきた情報を照らし合わせればそれができる」
「……通話中にアナスタシアを襲って不自然に途切れさせたのは?」
「これでも、ここがパリで一番マシな避難所候補だったからよ。モンパルナス駅は広いわ。サトリがいもしないアナスタシアちゃんを捜して延々と空回りしてくれれば、結果としてサトリは頑丈な屋内に留まる形になる。物資は不足しがちでピリピリはしているけど、少なくともここなら誰にも気づいてもらえずに干からびる展開はないし」
 そっと。
 僕は息を止めて、考えた。
 ……だとするとアナスタシアは自覚して芝居に付き合っていたのか。あるいはマクスウェルも? 地下に入ったタイミングでいきなりスマホが死んだのは不自然に思っていた。
「JBは必ず止めなくちゃならないわ……」
 うずくまったまま、顔を赤くしたアナスタシアがそう呟いた。
「けど同時に、この上なく危険を伴うのも事実なのよ。どんな『攻撃』がくるにせよ、基本的に一発当たったら即死の人間にはキツすぎるわ。……ここから先は、頑丈なアークエネミーがケリをつけるべきだと思う」
「サトリが懸念通りに弱かったら、ね?」
 義母さんは肩をすくめて、
「だから色々質問してテストしたのに、サトリったらことごとく正解を引き当てるんだもの。さっきも言ったけど、あそこで変な感情に引きずられて私を容疑から外したり、疑心暗鬼に陥ってアナスタシアちゃんの罠じゃないかなんて勘繰っていれば穏便に立ち去る事であなたをリタイアさせていたはずだったのよ? ……なのに、変に『強い』ところを見せてくれるから疼いてしまう。危険だと分かっていても、サトリの手を借りたいってね」
 呆れた、のか?
 いやなんか子供っぽくすねたっていう方が近いのかも。
「ただ、ここから先は命の保証はできないっていうのは単純な事実よ」
「そんなの、今までだって……」
「何だかんだで今回も助かるって思っていなかった? マクスウェルか、あるいはお母さんの助けがあれば」
 っ。
「ここから先は、そういう『何となく』が本当に効かなくなると言っているの。だから私が取るべき次善の手は、ここで有無を言わさずサトリを締め落として意識を奪い、モンパルナス駅で寝かせておく事なのよ。こればかりは間違いなく」
「それは……っ」
「いいの、実際? 結構単純な反抗心から自分の命の行方を決めているように見えるけど」
 っ、かもしれないけど。
 こっちが本気で心配していたのに、義母さんやアナスタシアに騙されていたのは確かに何にも感じていない訳じゃない。パリ全域がこんなになったのに自分だけ確率的に一番安全な選択肢ばかりなんか独占していられないって想いがあるのも正しい。
 でもっ。
「それに正直、私達としても楽は楽だわ。サトリがいなければ自分の戦いに集中できるしね」
 くそ、畳みかけるように!
 アナスタシアも目を逸らしている。そう、たった一一歳の女の子が言っていた。人間は弱い、この先には耐えられない。だからアークエネミーだけで決着をつけるべきだって。
 ハッキングやサイバー攻撃の技術なら、アナスタシアや義母さんも持っている。何だったらマクスウェルが彼女達のスマホと繋がってアシストすれば良い。
 僕が。
 天津サトリ個人がそれでも立ち向かわなきゃいけない理由は、確かに一個もないんだ……。
「私達はサトリに甘えたい。だけどそれは、サトリにサバイバルの免許を渡す事にはならないのよ。だから良く考えなさい、考えて答えるの。あなたはこれからどうしたい? 逃げて生き延びたいと思う事は、決して悪い事じゃないわ。それを悪だと断ずる時、時代は壊れていくのよ」
 ぐっ、と唇を噛む。
 戦いたい。
 と願う事は普通の毎日の中ならむしろ異質で、暴力を望む方へ思考が偏っている時点で僕は何かしら影響を受けているんだろう。あてられている。パリの惨状もそうだし、顔色一つ変えずにここまでやるJBもそうだし、何一つ食い止められなかった自分への怒りもある。
 義母さんの本心は見えない。
 何しろ自分の大切な家族を方舟に乗せられるなら、他の七〇億人を見捨てられる人だ。パリだって、いつか必ず滅ぶ街の一つ、と考えていればそれが早いか遅いかくらいにしか感じていない可能性だってある。
 でも。
 もしそうなら、僕はともかくアナスタシアまで助けた理由は? 魔王リリス、いいや天津ユリナにはおそらく自分でも気づいていない、優しくて人間臭い側面があると思う。
 そう信じたい。
 なら、僕だって。
「……、」
 けど。偏ってバランスを崩したまま下した決定は必ず僕自身にとって不利な結果をもたらす。それがどんな形になるかはさておいて、バットを使ってぐるぐる回ってから一〇〇メートル走った方がいつもより良いタイムが出るなんて話は絶対ない。
 これが、赤子の手をひねるような話なら多少の誤差があっても結果はブレない。
 しかし、JBは違う。
 ただでさえ後手。さらに余計なオモリを乗せられたら、死の可能性から逃げられなくなる。
「……分かってるよ」
 そうやって。
 絞り出すように洩らしたのは、ほとんど泣き言みたいな言葉だった。
「そもそも僕がフランスまでやってきたのは、JBと戦うためじゃない。とにかく怖いのは二大組織の全面戦争で、だからアブソリュートノアの武器を引き出そうとしてるって話が持ち上がっていた義母さんを止めるのが最優先だった。つまり話の通じる相手を言葉で止めるのでも命懸けだったんだ。それが最初から会話の通じない、殺す気全開のJBを相手にするなんて完全に想定外だ。最初の流星雨だって完全に不意打ちだった。そんなの目的からズレてる。小さなアジを釣りに出かけたら沖の方でマグロを見つけたからあっちにしようぜって言ってるのと同じで、そもそも糸も仕掛けも違うんだから無理に挑んだって竿ごとへし折られるだけだ。だからまともに考えたら、JBとなんか戦うべきじゃないんだって」
 だから、理解はできてる。
 世界は僕の登場なんか待っていない。僕がいなくたって勝つ時は勝つし、僕なんかいたって負ける時は負けて人類全部滅亡する。途方もない核戦争や氷河期なんかやってきたら、僕が個人の力でどれだけ暴れたって結末なんか変わらない。本当に世界を動かせる人間なんて一握りで、それは当然ながら僕じゃない。
 想像くらいはできているんだよ、それくらい。
 けどさ。
 だけどだよ!!
「それじゃ結局何も変わらないだろ!! 散々あちこち回って死に損なって、ここまで来て何だ。最後は本気出した義母さんとJBが正面衝突すればめでたしめでたしか? こっちはその馬鹿みたいなスケールの最終戦争を止めるためにわざわざ日本からここまでやってきたんだ!! ああそうだ、思春期反抗期の高校生なら一発で自殺できるような事を言ってやる。義母さん、僕はアンタをそういう全部のしがらみから引き剥がして助けるためにこんな所までやってきたって言ってんだ! 魔王リリスでもアブソリュートノアの指導者でもない、天津ユリナを!! それをッ! 手前勝手な親の理屈をこねて!! 最後の最後まで来てあっさり手の中から取り上げようとしてんじゃあねえ!!!!!!」
 ここからは危ないから先に帰る、じゃない。
 危険なら危険なほど誰も置いていけない。それでも誰かがやらなきゃならないなら、僕がすべきは母親の服を掴んで人の後ろに隠れる事じゃない。
 前に出ろ。
 この背で庇え。
 何のためにここまで来た。
 安全な場所で結果だけ聞きたいならそもそも日本を離れる必要なんかなかった。この手で掴みたい手があったからここまでやってきたんだろう。だったら手を伸ばせ。家族が、奈落の底へ落ちる前に。
 戦争を止める。
 もう先制攻撃は始まっていて、取り返しのつかない事になっているかもしれない。誰がどう見たって最初に一つでも流れ星が落ちた時点で、僕達が失敗していたのは間違いない。
「指図なんか受けない」
 それでも最初に決めただろう。
 家族を守ると。
「僕は自分のやりたいように生きる。これだけのものを見ておいて、平気な顔してもう巻き返せないからスコアに響くので帰りますなんて言い出すような人間にはなりたくないんだ! これ以上ひどくしたくないんだよ!! そんなアリジゴクみたいな展開に残したくないんだよ、誰も……。だから、僕に! アンタを守らせろ、義母さん!!」
 反射で天津ユリナのローキックが飛んできた。
 直前までどう踏ん張ってようが痛いものは痛い。痛覚は誤魔化せない。
「いって!? なに?」
 それから何故か抱き締められた。
「ああッもう!! 二重底まで仕掛けたのに一〇〇点満点か!? いとしのわがむすこよー!!」
「ぶっ! もがむがふがー!?」
 ちょっ。
 思春期反抗期として自殺できるアクションをしてるって警告したのに!! 普通に困るし、アナスタシアもすっごく見てるじゃんこれ!?
 もがきにもがいて、ちょっとした泥沼みたいなおっぱいから顔を引っこ抜く。呼吸を確保する。
 義母さんは全く懲りていなかった。
「……しかしそうなると人間のサトリも連れていく事になるから作戦変更か。アークエネミーの頑丈さに頼って、真正面から強引に弾幕を突破するって選択肢はなさそうだし」
「アンタ、吸血鬼だのゾンビだのと違ってボディの耐久力だけで言えば人間とほとんど変わらないんじゃなかったっけ……?」
「お母さんは良いのよ、よけるから」
 さらりとであった。
 そう、動きが普通じゃないのだこの人は。
 こっちはそもそも向かい風で水平に飛んでくる『弾幕』っていうのが具体的に何なのかも見えていないのに。
 アナスタシアがこっちに寄ってきながら義母さんの方に言った。
「トゥルースを連れていくなら、当然あっちの問題も考慮しないといけないわよ」
「分かってるわ」
 ? と僕の方が首を傾げてしまった。話題の中心に自分がいるのについていけない。
 アナスタシアはその理解の遅さ自体に危機感でも抱いているようだった。ついには迷子にならないよう気をつける的な仕草で手まで繋いでくる。
 一一歳のアナスタシアが親で、高校生の僕が子の立ち位置なんだけど。
 片目を瞑り、ややむくれたような調子で彼女は忘れていた前提を繰り返した。
「これだけの規模を持ったJBが、どういう訳かトゥルース個人にひどくご執心なところよ。それも仕事にプライベートをガンガン持ち込む天津ユリナとは違った理由でね」

 

   8

 そうだ。
 ずっと前から気になっていた問題だった。天津ユリナがJBに潜っていたのなら、どうして連中が僕にこだわるのか、その辺の事情も掴んでいるかもしれない。
「きちんとした答えってレベルじゃない、とか言っていられる空気じゃないわね」
 義母さんは肩をすくめて、
「とはいえ、私も完全に全て把握した訳じゃないわよ。結構強引な手を使ってJBに取り入ったけど、何分時間がなかったから、私が潜ってるのってまだ目玉焼きで言うなら外側の白身の部分なのよね。明らかな異物なんだけどあるに越した事はない、ベーコンみたいな感じ? 率直に言えば中心の黄身には指先が届いていないの」
「……そもそもJBの中心ってどこにあるんだ? 人間? アークエネミー? それともシミュレータのフライシュッツ???」
「その辺からして謎。お母さんは目玉焼きって言ったけど、ほんとは黄身も白身もないスクランブルエッグなのかもしれないわ」
 絶対王政か、何人かの幹部を集めた合議制か、はたまた草の根運動か。そこを教えてもらえるほど深くは立ち入っていない訳か。
 どこに中心があるのかはJBと一体化すれば感覚的に分かる、それが理解できないのはお前が組織に嘘をついているからだ。そんな風に難癖つけられても困る訳だし。囮捜査の基本は自分からはあれこれ質問しないで情報が滲み出てくるのを待つ、って話を聞いた事がある。何でも食いついて根掘り葉掘り追及する新人は怪しまれるって事。
 ただ……。
 JBのキャストって名乗る連中はこれまで何人も出会ってきたけど、価値観が特殊っていうか、仲間意識がほとんどなかった。少なくとも、ヘマした仲間を助けに行く素振りは見せない。今回、水神セベクを操ったビッザ=バルディアはヘリで回収されそうになっていたけど、あれだって許容の範囲だからじゃないのか。本当にリカバリ不可の脱線を起こした場合は、容赦なく切り捨てられていたと思う。
 ……囮とはいえ、本当に潜って大丈夫だったのか、義母さん? ヘマしただけで許さないなら、明確な裏切り行為に対してJBはどう動く。使い捨てリストに登録されただけのような気もするけど。
「その上で」
 指を一本立てて、義母さんが何か区切るように言った。
 ここからが本題だ。
「JBはとにかく予定調和を嫌う組織みたいなの。これは、アブソリュートノアみたいに『このまま進めばひどい終末が待っている』感じじゃないわね。世界全体が最高速度で分厚い壁に向かっているから慌ててブレーキかけなきゃっていうんじゃなくて、停滞した今の世の中がすでにもう地獄の中にいるって考えている」
「停滞……?」
 JBって言葉自体が『脱獄』を指しているようだけど。
 義母さんは頷いて、
「平和な世の中が、与えられるだけで満足してしまう今の世の中が許せない」
「……、」
「だから、そういったものを破壊する。JBにとってはね、強い弱いはあまり関係ないの。むしろ善玉の最強格って誰かの思惑に従って予定調和で力を授けられている事が多いから。救国の英傑とか、神の血を引く戦士とか、そういう操り人形の最強はお呼びじゃないのよ」
「じゃあ、僕が付け狙われているのは……」
「強さ弱さじゃなくて、レアリティ。珍しい結果をもたらすエラー因子ってところかしら」
「JBは善玉が嫌い。しかも優先は固定の最強じゃなくて、流動的に応用できる抜け穴、脆弱性だって?」
「まるでハッカー組織だわ」
 アナスタシアがぽつりと呟いた。
 確かに。
 軍用シミュレータとか神を改ざんするとか、ちょっと前からそういうイメージは付き纏っていたんだけど……。
 完璧でない世界が受け入れられない。だからみんなにも知ってほしい、知って一人一人に世界の行く末を決断してもらいたい。
 分かる。
 すごく呑み込みやすいお題目だ。
 ……ただ、その結果がパリのこの惨状なのか? こんなのは絶対必要な計画じゃない、追っ手を撒いて本命を妨害されないように放たれた、保険でしかないんだ。
 花壇を守るつもりで何を踏んづけた、JB?
 そもそもJB自身、壊した壁の向こうにどんな世界が広がっているかきちんと理解しているのか。そこが今よりひどい場所って線は? 脱獄のチャンスを与え、可能性を示す。でもJB自身が新しい世界で何をやりたいか表明はしていないんだ。
 自分ではイエスともノーとも言わず、それでいて大衆を過激な方向に誘い込む。いざ何かが起きても対岸の火事でいられる距離感を保ちながら。
 まるでモルモットを使った実験じゃないか。
 何も知らない希望者には危険性を伝えずただおだてて冷凍睡眠の装置に放り込み、健康面で問題がなければ改めて自分達もそちらに向かう。ヤツらはヒロイックにしんがりを務めているつもりかもしれないけど、JBがやっているのは弱い者の背中を槍でつついて今にも切れそうな吊り橋を渡らせているようなものだ。
「つまり」
 ゆっくりと深呼吸してから、僕は改めて口を開いた。
「核弾頭を使って無数の小惑星を圧搾するとか、新しい惑星を作るとか。JBの訳が分からない計画の不確定因子になっているっていうのか、僕は」
「これまで、JBの態度はその時その時でまちまちだったと思うわ。きっと彼らの間でも揺れているのよ。トゥルースが使えるイレギュラーなのか、危険なイレギュラーなのか」
 アナスタシアがそんな風に言った。実際に命を狙われる側からすればたまったものじゃない。けど、ちょっと待て。
 ……そういえば義母さんも口に出していたけど、JBのキャスト達は一枚岩じゃないのか?
 だとすれば……正攻法以外もいける? 例えば僕一人の処遇を巡って、複数の派閥で対立を促し、内乱を起こすとか。影も形もない水面下のJBだけど、やり方次第では僕の立ち回りで内部崩壊だって……。
「いや、ダメか……」
「?」
 アナスタシアがキョトンとした目を向けてきた。
 JB自体の規模が未知数な以上、迂闊につついたら制御不能に陥るリスクが高い。内乱、というのが組織の中だけで区切られるとは限らない。代理戦争の形を取れば、知らない国と国が戦わされる羽目になる。当人達は背中を押されている事に気づきもしないで、自分の国や家族を守っていると最後まで信じながら命を落としていく。
 ありえない、と笑う事なんかできない。
 JBは、実際にパリでこれだけの事をした。自儘に災害を起こし、小惑星を人工的に落とした。すでに単純な戦争の域すら越えている。
 災害だって戦争の引き金となりえる。理不尽に対する怒りをどこかにぶつけないと耐えられない、なんて話もありえる。衣食住を奪われ復興支援が滞れば恨みが生まれる。進退窮まれば国境線を強引に越えようとする個人や勢力だって現れるだろう。
 僕は天津ユリナに向かって、
「義母さん、JBには囮で潜っているって言ったよな」
「ええ」
「それは今後も継続?」
 天津ユリナは肩をすくめた。
「できると思う? こういうのは半々の天秤で揺れている訳じゃない、一〇〇%の信頼がなければ成立しないわ。九九でも九八でも、値が減ったら念のためで殺される世界よ」
 ……ならひとまず方向性は固まったか。いくつかの選択肢はまとめて除外で構わない。
 その上で、念のため確認を取っておこう。
「だったらこれからどうするんだ。JB側が怪しんで扉を閉めてしまったら、もう義母さんだってJBの中心には近づけないだろ」
「そうね」
 率直に天津ユリナはそう認めた。
 特に堪えた様子もなく。
「けどこれまであった事を考えてみて。JBという組織は、身内の失敗や裏切りに対してどういう行動を取ってきたかしら?」
「……、」
 やっぱり、そうなるか。
「JBは何としても裏切り者を処分したい。大雑把に災害に巻き込むなんて方法じゃ安心できない。核弾頭も以下略。むしろ死体はきちんと確認できる形が望ましい。この私、天津ユリナがアブソリュートノアの中枢にいる事は向こうも知っているもの。私が古巣に活きたデータを持ち帰る事を、JBは何としても食い止めたいはず。キャストの連中にとってもこのパリが最後のチャンスなのよ。ここで私を逃がして世界の奥に雲隠れされたら、流石にパパッと見つけるのは難しくなるでしょうからね。だから、やってくるのは現地調達の使い捨てじゃない。絶対にJBお抱えの精鋭を送り込んでくるはずよ」
 秘密を守りたい側が秘密を握る者を最前線に送りつけるなんて本末転倒な気もするけど、ステルス機や主力戦車みたいなものか。ハイテクの塊である最新機は敵地で絶対撃破されるな、なんて無茶苦茶な命令をされるみたいだし。
 そして、行動不能になった場合はテクノロジーを解析されないよう、味方の手で確実に破壊しろと。
 狩人を捕まえれば重要な情報が手に入る。
 ただし、
「……アンタが雲隠れした場合、JBからの炙り出し目的でトゥルースや他のアークエネミー姉妹が狙われる可能性は?」
「もちろんあるわよ。だから安全に消える時は一家全員になるでしょうね」
 つまり供饗市を捨てるって訳だ、躊躇なく。これまでの暮らしとかご近所付き合いとかは一切お構いなし、この辺りはいかにもアブソリュートノアを率いる義母さんらしい。家族さえ守れれば七〇億人を方舟の外に蹴り出せるアークエネミーは、こっちの都合なんか何も考えていないんだ。
 後輩の井東ヘレンも。
 お隣の委員長も。
 この世界との繋がりは、一瞬の決断で全部切り捨てられてしまう。それができてしまう。義母さんは、別に近所とギスギスしてる訳じゃない。お隣の委員長母とか、パートの仕事場とかにもコミュニティはある。だけど、できる。一番大切なもののためなら、笑顔で切り捨てられてしまう。だから、この人は神話の中では魔王なんて呼ばれているんだと思う。
 アークエネミー・リリス。
 説によっては七つの大罪の一角を占める何か。
「……、」
 ゆっくりと深呼吸する。
 ……敵と味方どころか、同じ味方でも立ち位置は違う。この辺はきちんと頭に入れておかないと、勝って大切なものを失うなんて展開にもなりかねない。
 このまま放っておけば、全部失って負けるか義母さんの思い描く勝ち方の二択しかない。最悪だけど、自分で結末に介入するためには、いったん流れに乗っかるしかなさそうだ。
 勝つだけじゃダメだ。
 自分の思い描く勝ち方を意識しろ。
「……プランを教えてくれ、義母さん。ただ刺客に襲われるのを待つって訳じゃないんだろ」

 

【Unknown_Storage】伝達事項、最優先【file07】


(作戦行動中の全班各キャストへ通達)


 天津ユリナを始末する。

 理由を問う事は不可とする。
 命令は承認された。具体的成功のために必要な人員・資材を即時投入する事。

 なお、付近に天津サトリを確認。軍用シミュレータ・フライシュッツでも次の行動は予測不可。最大限に警戒せよ。


(以降はA班未満は閲覧不可)


 回収班を装ってヘリで現場入りする事。
 第一波として投入される人員・資材はいずれも稀少価値が高く見積もられているが、最優先はあくまでも天津ユリナの完全な撃破となる。
 戦況の悪化により現地入りしたキャストの回収が困難と判断した場合は、回収を切り上げてでも空爆を敢行し、標的の始末と確認を優先せよ。この際、同じJB側への誤爆被害は一切不問と約束する。
 見捨てられた各班のキャストは手持ちの資材で諸君を道連れにしようとするリスクもあるが、それさえも逆手に取れ。例えば呪いを送り返す儀式や身代わりの道具などを使い、呪いの行き先をねじ曲げれば、身内の怨念すらも天津ユリナへの攻撃に使える。
 全てを味方につけて事に臨め。


(以降はS班未満は閲覧不可)


 A班以下は全て陽動であり、あらかじめ算出された損失可能人材に過ぎない。彼らの結果を待つ事なく即時最適と思われる行動を取れ。結果、JB側への誤爆は一切不問とする。君以外のあらゆるキャストは、全て消耗前提の弾薬や防弾ジャケットに過ぎない。目的達成のため、消費を躊躇う事なく使い切れ。
 もっとも、正規軍では使えない君なら指示の内容に関わらず躊躇はしないと思うが。
 目的は一つ、くどいようだが何があってもここで天津ユリナを殺せ。組織内の損害は無視してもらって構わない。
 核弾頭は三発、小惑星は一〇個、天津ユリナ攻撃のためこれらをひとまず君個人に貸与する。追加については事後報告で良い、好きなように使え。

 君が最後の希望だ。必ず成し遂げろ。
 以上だ。


(以降はSSS班未満は閲覧不可)


 いつも通り、SSS班の存在もろとも、あなた様の事は誰にも知られておりません。
 もちろんあなた様を縛るルールなど一つもありません。現場入りした後は、思う存分暴れてください。

 エリュズニルの元首様へ。


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第五章

 

   1

 溶岩の活動は弱まってきた……気がする。
 素人判断だからあてにはならないだろうけど、高い所から見下ろす限り、オレンジ色に輝く場所が少なくなってきた。冷えて黒く固まっているんだ。不規則な夕立みたいだった噴石ももう飛んでこない。
 チャンス、か?
「マクスウェル」
『パリ市内の監視システムは交通、気象、防犯、各カテゴリで大幅に低下中。システムの検索能力をあてにするのは得策とは思えません』
「どうせ大掛かりな官製サーバーに外から潜る糸口なんかないだろ。このスマホのレンズで調べられる範囲から始めよう」
『具体的な指示を』
「足跡検索。カタコンベではスーツケースの車輪が作った水の跡があっただろ。過去の映像を精査して付近から床の足跡や壁の手形なんかを痕跡を抽出、この焼け野原の中に同じものがある場合は全部風景に重ねて表示」
『シュア』
「言っておくけど、僕達の足跡は除外しろよ」
『システムをぽんこつ擬人化するのはやめていただきたいものです。期待に応えられそうにありませんので』
 ヴン! と。
 小さな画面の中に、いくつか四角い光の表示が増殖した。瓦礫を積んだ高所から、横に倒したスマホを両手で掴んだままゆっくりと一周回って撮影していくと……ある程度四角がまとまった場所があるのが分かる。
 もちろんいきなりパリ市内を全部スキャンできる訳じゃない。
 だけど取っ掛かりは手に入れた。
 ピエール=スミス。
 JBの一員。
 そういえば、連中は身内の事をキャスト、なんて言っていたかな。役者、俳優。脱獄したい、って考えているなら裏を返せば今はまだ敷かれたレールの上にいる自覚はある訳だ。
 アナスタシアも僕の隣でそっと息を吐いて、
「……JBの連中。ジェイルブレイクなんだからベースは英語圏なんでしょうけど、わざわざ自分達を呼ぶのにキャストなんてつけているのは、嫌いな名前を拝借する事で敵を食らって取り込む意味でもあるのかしら」
「?」
「キャストって、罪人を投獄するって意味もあるのよ。脱獄したがる人間が好んで使うと思う?」
 皮肉を込めて、か。
 ……なんか、それこそアナスタシアみたいなハッカー臭いセンスだな。まあ脱獄なんて言葉を使っている時点で明白ではあったけど。
 とにかくピエールはこのパリに存在する。どれだけ超人的なクソ野郎かは知らないけど、壁をすり抜けたり雲の上からパリを見下ろしている訳じゃないらしい。地に足をつけて現実世界に痕跡が残るような誰かであれば追いかけられる。
「まずはあそこか」
 手形や足跡の密集地帯をスマホの地図にピンを立ててマーク。後はあそこまで行って、またぐるりと一周撮影すればJBを追うための次のスポットが見えてくるはず。
 地図アプリはあくまで平時のパリ市街を紹介しているだけで、瓦礫、亀裂、固まり始めた溶岩までは網羅していない。進むのは大変そうだけど、それはJBサイドだって同じはずだ。
 実際にガラスだらけの道路を踏み抜かないよう気をつけて歩き、斜めになった街灯の傾いていない方をおっかなびっくり迂回して広場まで向かうと、だ。
「トゥルース、足跡が消えてるわ!」
「車を使ったんだ。マクスウェル、次はこのタイヤ跡を追跡」
 あまり焦りはなかった。地面に引いてある光のラインに従って歩を進めると、二〇〇メートルもしない内に無骨なワンボックスが乗り捨ててあるのを見つける。中を覗くまでもなく盗難車だろう。かなり雑に運転席のドアガラスが割られているのが分かる。
 これだけの瓦礫と冷えた溶岩の山だ。戦車でも持ってこない限り乗り物なんか役に立つはずがない。それに立ち往生した車をそのまま路上に捨ててしまえば、それ自体が渋滞の素になりかねないんだ。車は便利で頑丈な簡易シェルターだけど、災害のレベルが一定を超えると逆に閉じ込めや転落なんかの危険が増してしまう。
 ピエール側が乗り捨てるまで気づかなかったって事は、これは計画的な行動じゃないな。顔も知らない誰かの舌打ちが聞こえてくるようだ。
 そもそも国防省地下で義母さんとかち合って、自分で破壊したパリ市街を逃げ回る羽目になった事自体、JBからすれば計画外のアドリブなのか? 元々の脱出手段は使えなくなったとか……。
「マクスウェル、足跡は?」
『いくつかありますが、分布が妙です。地面ではなく、不安定な瓦礫を伝って建物の屋上を目指しているようですね』
 足取りを消そうっていう努力をしているなら、足跡はどうやっても完全には消えない事も自覚しているはず。
 となると、
「マクスウェル、危険物サーチを併用」
『この甚大な災害下なら何から何まで全部真っ赤なアイコンで埋め尽くされますけど』
「ひとまず爆発か毒物を最優先。追跡者が自分の足跡を正確に辿ってくるって分かっていたら、それはそれで簡単なんだ。一本道の途中に罠を張るだけで簡単に引っ掛けられるんだし」
 罠にかかって追っ手の数を減らせるならよし、相手が慎重になればその分距離を離して逃げられる。ローラー作戦みたいに全方位から物凄い人数で捜索されている場合はただ自分の居場所を教えるだけになるけど、僕達みたいに人数が限定されていて一方向からしか追えないと結構厄介になってくる。
『瓦礫の踏み台の下に三〇リットル容器あり。正確に成分分析した訳ではないので概算ですが、液体に対する光の透過を見る限りは水のようです』
「水?」
『水蒸気爆発狙いなのかもしれません』
「たった三〇リットルで? 確実性に欠けるな……。家庭用品だって爆発しそうなものって結構あるのに。ガスボンベとか、アルミホイルを加工するとか」
『そういう分かりやすいのは、逆に溶岩の熱で無意味に誤爆するからでは?』
 まあ警戒を促せれば追っ手の足を止められるのか。念のため踏んづけないよう迂回しながらも、基本は足跡を追ってずらりと並んだ建物の屋根を目指す順路を進む。
「ちなみに義母さん」
「何かしら」
「エジプト神話の神官? ピエールとかいう野郎は具体的に何をする人間なんだ。実際に取っ組み合いになったんなら色々分かったはずだろ」
 確かミイラのアークエネミーもいたはずだけど……。まあゾンビのアユミとブードゥーのボコールみたいなものか。必ずしも直接作る関係とは限らないかも。
「逆に聞くけど、正真正銘のアークエネミー……つまり魔王に力業で勝てる方法っていくつくらいあると思う? この世界に」
「……、」
 ダメだ。
 対アークエネミー用に特化する形で自らの肉体を隅から隅まで人体改造した禍津タオリ……つまり実の母さん以外に何も浮かばない。
「その一つを保有しているって事よ、最低でもね。ヤツはリリスやリヴァイアサンと真っ向から戦って勝つ力を持っている。そしてピエール=スミスの切り札が一枚きりだなんて誰も言っていないわ。私がその全てを引き出したともね。サトリ、自分の考えで前提条件を設定するのはやめておきなさい。敵はあなたの都合やレベルに合わせて強さを決めてはくれないんだし」
 やっぱりこの辺はJB。
 本物の神様連中さえ手玉に取るヤツらの技術レベルなら何でもあり、か。
 この意味不明なトラップはこっちの油断を誘うためのものかもしれないし、あるいはエジプト神話的に意味のある仕掛けだって線もある。
「……核兵器以下なら何が出てきても驚けないな、こりゃ」
「何でそれ以下って分かるの、トゥルース?」
「純粋な火力で核兵器以上だとしたら、フランスの隠し球を拾い集める必要はないからさ。自前のオカルト大爆発で無数の小惑星を圧縮して新たな惑星を作れば良い」
 とはいえ、だから安心とはならないんだけど。
 形のない呪いで距離に関係なく効果は百発百中とかだったらそれはそれで最悪、見方次第では大雑把な核兵器より怖い。しかも、まあ、フィクションやエンタメの刷り込みもかなりあるんだろうけど……おあつらえ向きなんだよな。
 エジプト神話に呪いって。
 こう、ミイラとかピラミッドとか、その手の話で呪いとトラップが出てこない方が珍しいっていうか。
「マクスウェル、エジプト神話の基礎知識とかって検索できるか? できるだけ初心者向けで」
『はるか昔の古代宗教なのに資料が豊富ではありますが、それでもやはりローマ帝国や十字架の影響で伝聞が歪められていますね。まあ、近代までは文字を読み書きできる人間が限られていたので編纂者の勝手気ままな憶測や先入観が混ざるのは仕方がない話ではあるのですが』
 個人的には、エジプト神話は北欧神話と同じくらい資料が豊富で、より優遇されている気がする。世界的な観光資源になっているからかもしれないけど。
「つまり結局何なんだ」
『ピエール=スミスの取り扱う技術が源流なのか亜流なのかで危険度が大幅に変わります。「本当の本当に」原液のままのエジプト魔術を扱う場合は手に負えません。おそらく現存するあらゆるアーカイブを検索しても答えは出てこないでしょう』
 歴史の闇に埋もれた、誰も知らない断絶した秘奥まで顔を出すっていうのか。こっちは日本人だからって陰陽道だの忍術だのの奥義を好き放題に繰り出せるって訳でもないのに。
 ……いやまあ、でも反則度合いで言ったら似たり寄ったりか。アナスタシアは弱点不明の妖精にしてメイドで、天津ユリナにいたっては七つの大罪クラスの力を持ったパートのレジ打ち魔王なんだし。
 マグマの勢いが弱まったって言っても一度崩れた街並みがすぐさま元に戻る訳じゃない。
 そもそもピエールを追って屋根を目指していたはずなのに、気づけば再び瓦礫の山を下っている。ヤツもヤツで焦りや迷走を感じさせる足取りだった。
 崩れかけた壁を避けて大きな通りの真ん中を歩き、潰れた車の前ではガソリンの匂いがしないか確かめてからその横を通り抜けていく。
「……いよいよ何区の何通りか目印がなくなってきたわ」
 アナスタシアがスマホと一体化したペットロボットを抱き締めながらおっかなびっくりって感じであちこち見回していた。実際にはそれほど歩いてもいない。瓦礫の山をよじ登ったり下を潜り抜けたり……なんて運動量の問題よりも、彼女の知るパリとはあまりにかけ離れてしまったからだろう。
 初めての僕だって、ぞっとする。
 マクスウェルが表示してくれる地図アプリだと、あくまで整然とした街並みなんだ。目の前の光景と全然違う。建物っていうか、そもそも道順が成立してない。真っ直ぐな一本道の大きな通りが、もう見つからない。まるで江戸時代の古地図を手にして今の街を歩いているような、時代の隔たりすら感じられた。
 時刻は……夜の一〇時前。
 まだ一〇時。
 感覚的には三日四日は歩き通している気分なんだけど、考えてみれば食事をしていない。脱水症状や栄養失調でぶっ倒れたりはしていないって事は、その程度の時間の中で収められるのか。
『サンプルと一致する足跡を発見、路地の奥です。壁に同様の手形を確認』
「路地って……ここか?」
『シュア。これまでの傾向から考えると、絶対通らなくてはならない一本道にはトラップの可能性が大です』
 言われなければ素通りしていたはずだ。
 なんていうか、隙間がない。
 元々はビルとビルの間にある細長い空間だったんだろうけど、全部埋まってしまっていた。石とかコンクリートとかでみっちり。かろうじて犬小屋の出入り口程度の穴が地面すれすれに空いているけど……。
「トゥルース、ワタシの出番?」
「よせアナスタシア。こんな所に潜っていって途中でつかえても助けてやれないぞ」
 アナスタシアには小さなペットロボットがあるけど、これも以下略。試しに手で掴んで穴の中に突っ込んでみたら、すでに表示は圏外になっていた。無理して奥まで進めたら立ち往生して回収できなくなる。
 けど、そうだな。
「アナスタシア、そのペットロボット借りても良いか?」
「何するの」
「マクスウェル、ケモノの顔になってるスマホと情報共有設定オン」
『激しく非推奨ッ!! ガチハッカーのスマホなんて汚染の巣窟に決まっていますが!!!!!!』
「いいから」
 マクスウェルの本体はこのスマホじゃない。最悪、手の中のこいつが壊れても日本に置いてあるハードウェアにダメージは加わらないんだ。ソフトウェア方面だって、何だかんだでこれまでアナスタシアの侵入を許した事はないしな。
「仕方がないだろ……。とにかくケータイスマホが二台いるんだ、片方はお前じゃなきゃいけない」
『ノー、しかしそれならアナスタシア嬢以外にも』
「じゃあ義母さんのケータイにするか? アブソリュートノアのボスキャラ級」
『……、』
 おや珍しい、あのマクスウェルがシュアともノーとも言えなくなるなんて。
「ちょっとトゥルース、こっちはお願いされている立場なんだけどその渋々感は何なのかしら?」
「つかお母さんのケータイと繋がりたくないってどういう事? 家庭不和がここに極まっているんだけど」
 ともあれ、だ。
『そのもの』でなくとも構わない。ひとまず形さえ整えば。木の棒とナイロン糸くらいどこにでも転がっているだろう。
 アナスタシアが怪訝な顔で、
「釣り竿?」
「この状況でわざわざ不安定なドローンを飛ばす必要ないだろ。火山灰とか上昇気流とかで何気に上は大変そうだし」
 手製の竿と糸。先につけるのはもちろんアナスタシアから借りたスマホ付きのペットロボットだ。
 瓦礫で塞がった細い路地を調べたいけど、流石にあそこへよじ登ったり下を潜ったりなんていうのは危険過ぎる。
 だからこその釣り竿。
 糸に縛りつけたペットロボットをぶら下げれば、瓦礫の上から安全に状況を確認できる。
 すぐに、いくつかの四角い表示が増殖した。
 ヤツの手形や足跡がある。
「見つけた」
『奥に向かっていますが、無意味な順路です。ここを無理に抜けるくらいなら多少回り道になってでも広い道を迂回した方が早くて安全なはずなのですが』
 わざと危険な道を進む理由としてすぐに浮かぶのは尾行を撒くため。事実としてJBは義母さんと激突して撤退している。核発射コードの書き換えって目的は果たしたにせよ、追っ手を警戒していないはずがない。
 災害よりも人間が怖いか、JB。
 まだ顔も知らないけど、少しずつお前の輪郭が見えてきたぞ。
「路地の先」
『デザンヴァリッド通りとなります。地図の通りならですが』
 相変わらずフランスの地名はピンとこない。名前だけ言われても自分がパリ市街のどの辺に立っているのかイメージするのが難しい。
 明らかにトラップ臭い瓦礫だらけの路地を通る訳にはいかないので、いったん大きな通りから崩れかけた建物を迂回する形で路地の反対側を目指す。
 すると、気づいた。
 いきなり人工物が消えた。迷路みたいだった目の前の景色が開けたんだ。
 緑の芝生に、黒々とした木々も見える。電気がないから分かりにくいけど、遠くの方に建物の影もあった。ダメージを受けてあちこち崩れつつあるけど、宮殿とか大聖堂とか、そんな感じのシルエット。
「なんだっ、自然公園? それとも何かの庭園かっ?」
『オテルデザンヴァリッドはナポレオン関係の記念施設ですね。彼の墓や軍関係の博物館などを収めています。こちらは周辺の広場でしょう』
 足元にあちこち亀裂が走っているのはどこも同じだけど、それでも硬い石やコンクリートばかりの街並みよりも土や緑で覆われた平地の方がダメージが少ないように見える。水気が多く、青々とした芝生や木々の葉が火の粉を弾いているからかもしれない。
 大規模な植物エリアを横目に見ながらデコボコしたアスファルトの通りを進むと、スマホに反応があった。
「手形と足跡!」
『路地の出口から広い道を渡り、そのままオテルデザンヴァリッドの敷地内に踏み込んだようですね。ただ方向からして、建物本体ではなさそうです。敷地内屋外、広場側に向かっています』
 ?
 樹木があるって言ったって彩り程度のもので、鬱蒼と茂る深い森なんて話じゃないだろう。じゃあJBの誰かさんはわざわざ開けた芝生の大地に向かって走っているのか? いくら停電下の真っ暗闇でも、逃げる人間が身を隠すにしてはリスクが高すぎる気がするけど。あるいは、ここはあくまで中継地点で、さっさと広場を横断して別の場所に向かっているとか……?
「……おかしいわ、トゥルース」
 アナスタシアがペットロボットを抱き締めながら呟いた。
「オテルデザンヴァリッドは倒壊の危険があるかもしれないけど、それにしたってその広場は緑の芝生と雑木林で飾られたかなり開けた土地よ。これだけ立て続けに災害がきたら安全も何もあったものじゃないけど、でも崩れかけたコンクリの中に留まるより公園や広場なんかに集まりたがるのが人間の心理ってヤツじゃない? それなのに……」
「人の気配が、ない?」
 アナスタシアと二人で、オテルデザンヴァリッドの広い敷地のあちこちにスマホを向ける。
 義母さんは自分の細い顎に手をやって、
「なるほど。どうやってズタボロのパリから脱出すると思ったら……。そういう方法なら、確かに開けた場所が必要ね」
「何かゆっくりと点滅してる」
 人の目には映らない。
 だけど機械を通して分析してみれば、スマホのレンズは確かに捉えていた。
「かなり強い光だ、紫外線だから僕達には分からないだけで!」
 隣から小さな画面を覗き見て、義母さんが息を呑んだ。予測が確定に変わったって顔だ。
「航空標識か、目には見えない紫外線でやる人間なんか滅多にいないけど。JBのヤツ、ヘリでも呼ぶ気みたいね!」
 道理で開けた場所から人を追い払った訳だ。いきなりヘリがやってきたらそれこそ助けを求める人達が四方八方から殺到してくる。
 しかし小康状態に入ったとはいえ、火山灰、水蒸気爆発、火災旋風とやりたい放題の噴火活動中に良くやる。並の技量じゃ助けに来たヘリまで墜落しかねないはずだ。
 急がないと取り逃がす。
 JBの目的は無差別な核攻撃じゃない。だけど放っておけば、念のために、追跡防止のために、そんな考えだけでこの先どれだけの街や国が吹き飛ばされるか分かったものじゃない。実際に、フランスの首都はその程度の理由で流星雨を浴びる羽目になったんだから。
 ここまで見てきたんだから分かる。
 JBはやる。
 空港があるとかミサイル基地があるとかたまたま近くの海を空母や潜水艦が往来していたとか、そんな理由が一個あれば世界中の街をお構いなしに消し飛ばす。
 だから見逃す選択はありえない。
 災いの芽はすでに出た。そいつは阻止できなかった。せめてこんな災厄がタンポポの種みたいに全世界へばら撒かれる前に、ここでJBを止める。ピエールから絞り出せば、世界のどこかに隠れたJBの全体像が見える。分かれば、そこから反撃できる。

 

   2

 オテルデザンヴァリッド。
 ナポレオンの墓だか軍関係の博物館だか知らないけど、ここから見た感じは都会にぽっかりと開いた芝生の整えられた巨大な自然公園って感じだった。街灯は死んでいるけどパリのあちこちで火事が起きているせいか、こちらの方にまでオレンジ色の照り返しがやってきている。
 ただ、闇を拭い去れるほどじゃない。
 全体からすれば彩り程度って話だけど、でも当事者からすれば視界を遮る木々は怖い。そりゃまあ、一辺何百メートルもあるお弁当箱なら、片隅にあるパセリだって僕達を飲み込むほど大きくもなるか。
 黒々とした木々はその存在感を増し、頭の上から降り注ぐ火の粉は得体の知れない光る虫のようだった。なんかここだけ現実の街中って感じがしない。こんなの暗闇のせいで距離感が掴めなくなっているだけで、実際にはちょっと進めば芝生の地面に出るんだろうけど、その辺の茂みをかき分けたら天然のエルフでも出てきそうだ。
 漆黒の圧迫に惑わされるな。
 僕達の狙いは最初から一つだった。
「あった。手形と足跡」
 あるいは木々の幹にべったり、あるいは地面の土や木の根に刻みつけるように。スマホをかざすといくつかの四角い表示が浮かび上がり、一本の線で結ぶとJBのキャスト、ピエールの行き先が見えてくる。
 ヤツは広大な敷地から人を追っ払って夜空に紫外線の点滅で合図を送っている。おそらく開けた場所で、ヘリか何かを呼んで最短で脱出するために。そうなったらおしまいだ。フランス国防省地下で権限を書き換えた核弾頭が広い世界のどこにいくつあるのか、情報が途絶えてしまう。
 JBの動きを止められなければ、世界中がこうなるのを黙って見ているしかなくなる。ヤツらの計算と気分にぶつらないのを脂汗にまみれて祈りながら。そんな未来はごめんだ。
「あと五〇メートルくらいだわ」
 夜空にスマホをかざし、目に見えない紫外線を可視化しながらアナスタシアが呟いていた。
「バックライトで気取られるかもしれないし、そろそろスマホに頼るの控えた方が良いのかし

 がさり、と。

 そんな懸念すら断ち切る音が、唐突に真横から響き渡った。黒い木々の合間だ。
「来た!!」
 天津ユリナがとっさにアナスタシアの手を引っ張りながら叫ぶ。
 予言通りになった。
 爆音。
 そして胸より下くらいの高さで揃えて、全ての木々が横一直線に切断されていく。
 僕が助かったのは、勇気ある決断をしたからじゃない。単にいきなりの物音と切迫した義母さんの声に驚いて、近くの木の根に足を引っ掛けたからだ。
 しかし、切った?
 刃物……じゃない。明らかに違う。辺りの木々は細いものでも僕の太股、太いものなら胴体より大きいんだ。鋭く研いだ金属の刃物くらいじゃ歯が立たないし、黒い木々をまとめて切断するようなサイズなら逆に強度を保てず刃の方が折れてしまう。
 ぱらぱらと、頰や鼻先に冷たい感触があった。さっきから流星雨だの小惑星だのの余波で大気はひどい状態だけど、今は雨は降っていない。
「水……?」
 唖然としたまま、呟いた。
「水で、斬った。のか???」
 がさがさりと、茂みをかき分けるようにして『それ』は現れた。
 全体としては、古い石と純金? の集合体か。しかし一方で恐ろしく滑らかな曲線だけで作られたそのフォルムは、生きて呼吸をしている僕なんかよりもよっぽど生物的だ。
 ワニ、だった。
 大顎の先から尻尾の末端まで含めれば、おそらくは一五メートル以上。
 実物のワニなんて見た事ないけど、イメージ的には頭を低くして匍匐前進でもするような格好だった。
 その状態で、もう僕と同じ目の高さにある。
 もうデカい観光バスやトラックのヘッドライトに睨まれているようだ。武器の有無とか盾を構えればとかじゃない。そもそも根本的に生身の人間が真正面から立ち向かっちゃいけないレベルの大質量。それが本能の部分だけでも十分過ぎるほど理解できてしまう。
 許容を超えた、値。
 人間は二リットルも血を流してはいけない。
 人間は青酸カリを呑んではいけない。
 人間はロケットエンジンに体を入れてはいけない。
 それと同じ。
 人間は、あの巨体とぶつかってはならない。
 両目を見開いたまま、天津ユリナが口の中で何か呟いていた。
「セベク……? でも何か、私があの地下で見たものとは……」
「義母さん、何か知ってるなら分かっているところから順番に話してくれ! お得意の謎めいた空気にはもううんざりだ!!」
「っ、エジプトの水神セベク。地域によっては最大の悪神セトの代わりを務める大物よ。単純な戦闘力の他に占いもいけるから、攻撃も正確。理詰めで走り回るだけじゃおそらくヤツの攻撃は振り切れないわ」
 まだ幼いアナスタシアを庇いながらじりじりと後退しつつ、魔王リリスはゆっくりと語る。
 神話仲間だからか、この辺りはマクスウェルより舌が滑らかだ。
「ピエール=スミスは偶像を積極的に取り入れている術者ではあった。元々エジプト神話では猫や牛なんかの動物を神聖視したり、神を模した像を盛んに作っていた訳だしね。……あそこに『神の力』が何割くらい詰め込まれているかは私も知らない。でもたとえ一割であったとしても、並の災害くらい軽く凌駕するわ!!」
 これが、今度の敵?
 フランス国防省の地下で天津ユリナがJBのピエール=スミスとやらを取り逃がした原因?
 むしろこんな化け物と真正面から取っ組み合いして良く生き残ったな、義母さん!? 一五メートルとかっ、もう明らかに自然のワニより強靭でおぞましい何かじゃないかっ。勝算とか作戦以前に、こっちは何をどう詰めたらあんな巨体が入り組んだカタコンベを通り抜けられるかも想像できないっていうのに!
「そもそもピエールとかいうご本人様はどこにいるんだ? 自分で作った古代兵器のコックピット!?」
「まさか! 雨宿り程度ならともかくとして、あんな高濃度の『力』と同じ座標に長時間同居したら生物的に身が保たないわ。あれは、わざと自分と戦力を切り離している。それが一番安全だって、おそらくピエール自身も気づいているんだわ!」
 ではあった。
 おそらく。
 ……義母さんはフランス国防省の地下でピエールやセベクとやり合っているはずなんだけど、その割に予測の部分が多いな。けど今は身内同士で揚げ足を取っている場合じゃないか。
 基本はリモートのドローン兵器みたいなものなんだろう。機械仕掛けの神と生身で無理に削り合いをやったって意味はない。その間にピエールが夜空からやってきたヘリに乗り込んだらそれまでだし、そもそもヤツが自由に使える神様の像がセベク一体だけとも限らない。
 迂回できるものならとっとと迂回したい。
 ただ大型バスに匹敵するサイズの人工ワニの筋力(?)が生み出す瞬発力がどれほどのものか……。少なくとも、生身の人間の足で振り切れるとは思えない。
 向こうは安易にタックルなんかしてこなかった。
 人工物の塊のくせに苛立たしげに太い尾を左右に振ると、がぱりとその大顎を開いたんだ。
 先ほどと同じ。
 超高水圧の一撃が、
「来るッッッ!!!!!!」

 

   3

 実際のところ。
 それが水神セベク側にとって最も効率的な作戦だったんだろう。
 無理して一撃で決める必要はない。確実に敵の行動の自由を奪ってダメージを蓄積する方法を、自分自身が壊れるまで続ければ良い。無人兵器の極みだ。ピエール側の目的は僕達の全滅じゃなくて、ヘリに乗り込むところを邪魔させないってだけなんだし。
 いいや。
 それどころか。
 事実として、僕はセベクのウォータージェットからは逃れられない。最初の一撃を避けられたのは偶然転んだからだ。二度目はない。
「マクスウェ……!!」
『有効回避コースを風景に重ねて表示。大至急行動してください』
 画面を見て喉が干上がった。こいつ、普通の高校生は切断されて根本だけ残った木の幹を蹴って宙返りなんかできないって基本の条件設定もできていないのか!?
 こうまでしなくちゃ回避できないっていうのなら、正直に言って打つ手がない。全く無意味と分かっていても、へたり込んだまま思わず両腕を交差して自分の頭を守ろうとした時だった。
 それは起きた。

 爆発したんだ。
 石と純金でできた巨大なワニの頭が、内側から。

 最初、何がどうなったのか理解できなかった。
 爆発の正体が炎ではなく水の飛沫だと分かって、セベク自身の暴発なのかっていう予測が頭に浮かんできた。
 そこからさらに。
 前の攻撃で切断された木の幹を抱えた天津ユリナが真正面から突っ込んだのだとようやく気づいた。大きく開いたワニの顎の中に思い切り突っ込んだんだ。
 確かに。
 超高水圧だと条件が特殊過ぎて実感が湧かないかもしれないけど、あらゆる流体は一番弱い方へと自然と流れていく。例えば風船なら、開いた口から空気が漏れていくように。ガスの元栓や水道の蛇口なんかはこれを積極的に利用している訳だ。
 ウォータージェットの噴射口に太い木を縦に突っ込めば、水は行き場を失う。設計以上に内圧を高められタンクの中で暴れ回る水はとにかく出口を求める。
 もしも、だ。縦にして突っ込んだ樹木よりも設計的に弱い箇所があれば、そこを突き破って超高水圧の液体が飛び出す事にはなるんだろうけど。
 あの一瞬で?
 しくじれば胴体を真っ二つにされるような特大の砲口を突きつけられている状態で考えて、選択し、行動にまで移した?
「義母さん!?」
「この程度じゃセベクにトドメは刺せないわ。とにかく走って!!」
 身振りでこっちを誘導するずぶ濡れの天津ユリナ自身、慌てて身を低くした。頭部がひしゃげて噛み合わせの悪くなったセベクだけど、その太い尾だけで軽自動車くらいならスクラップにできそうだ。
「アナスタシアっ、来い!」
「ほんとにあの横通り抜けるの!?」
「いつまでも真正面に留まっていたってバスみたいな巨体に突っ込まれるだけだ!」
 無人兵器のセベクは怪我なんか気にしない。完全に動きを止めるまで油断はできないんだ。
 それに奥には……航空標識? 肉眼では見えない紫外線の点滅で夜空に居場所を伝えているピエールがいる。ヤツを逃がしたら元も子もない。
 JBだかキャストだか知らないけど、お前達のせいでパリはこんなになった。
 自分だけ勝ち逃げなんて許さない。落とし前はつけさせてもらう。お前を始点にして、JBを潰す。
 とりあえずひしゃげた巨大ワニの頭部を見て、目が潰れているっぽい左目側から突っ込む。そこかしこに切り取られた丸太みたいな木々が転がっているけど僕達には武器として振り回せそうにない。足を取られないように気をつけながら横を通り抜けようとしたら、いきなり前脚が唸った。
 失念していた。
 タイヤくらいのものだと思っていた。
 けどワニの脚だって強靭そうだ。ましてそれが重たい石でできていて、鋭く尖らせた黄金の爪をはめているとしたら。
「やば……」
「サトリ!!」
 なんか逆サイドから叫び声があったと思ったら、鈍い音と共にセベクの巨体がいきなり横に少しズレた。崩れたバランスを取り戻すため、巨大ワニは振り上げようとした前脚を戻して地面を踏み締めている。
 その間にアナスタシアの手を引いて横を通り抜ける。
 そして義母さんは途中から折れた木の幹を適当に放り捨てたところだった。
「アンタ一体何をした!?」
「後ろ脚にこいつ噛ませて脚を滑らせただけ。丸太は地面に敷けば転がせるの、ピラミッドの重たい石材を運ぶのにも使われていたのよ? とにかくこっち、セベクは真っ向からの殴り合いで勝てるような相手じゃないわ!」
 ばさり!! と。
 がむしゃらに走るつもりだったのに、あっさりと木々を抜けてしまった。
 やっぱり林や森と呼べるほど広くない。待っているのは停電下で真っ暗になった、サッカーグラウンドみたいな芝生の大地だ。
 心臓が縮む。
 鬱蒼とした木々よりも、むしろこっちの方が怖い。何しろセベクは一撃必殺の飛び道具を使ってくるんだから、開けた場所なんて相性最悪だ。
「っ!」
 スマホをかざして目的地を確認する。灯台みたいにド派手な紫外線の点滅で合図を送っているのは五〇メートルくらい先だ。学校の校庭なら一〇秒かからずに走り抜けられる距離。
 もう身を屈めた相手が見えてもおかしくないはずだけど……あちこち変に傾いて光を失った外灯の裏にでも引っ込んでいるのか?
 そして後ろからバキバキという破砕音が連続した。走りながら振り返ってみると、バスサイズのセベクが転進してこちらに頭を向けたところだった。……実際のワニと戦った事はないけど、生き物の俊敏さは欠けているような気がする。その分一発一発が重たいんだろうけど。
 木々を薙ぎ倒し、芝生を抉るようにして開けた大地に顔を出す。
 すでに壊れている大顎を無理矢理に開き、あらぬ方向へ放水を撒き散らしながら、水神セベクはこちらを追ってくる。
 こんなのダンプと鬼ごっこをするようなものだ。普通に考えたら人の足じゃ逃げ切れないけど、セベクは自分の巨体と鋭い爪のせいで芝生の大地を抉ってしまう。つまり、滑る。その重さと速さが生み出す力によって、かえって自分の体を振り回しているように見えた。
 そうでなければ一瞬で轢き殺されている。
「運用方法としてはあれで合っているんだわ」
 アナスタシアが手を引かれたまま、青い顔で呟いた。
「完全に、使い捨ての方の無人機の取り回しよ、あれ。命がないからケアする必要がない、心がないから恐怖も感じない。一番危険な弾幕へ真正面から突っ込ませて無理矢理活路を開く。テクノロジーの出し惜しみで敵地で最新機を落とせない米軍よりも二世代は先に進んでる……」
 とにかく追いつかれたらおしまいだ。
 そしてあの巨体をぶつけられない限りは先に進める。機械仕掛けの神に命令を出しているJBのピエール=スミス。こいつを取り押さえれば状況は変わるはず。無人機だか偶像だか知らないけど、ピエール側だって自分で解き放ったセベクの巨体に押し潰されて死にたいとは思わないだろ。
 ばた、ばた、ばた、ばた! という空気を叩く音が頭上を追い抜いたのはその時だった。
 メインローター?
 この暗がりとはいえ、一瞬前まで接近に気づけなかった。相当特殊な機体だな。東京の災害で自衛隊が使っていたUFOモドキの攻撃ドローンを思い出す。
 そんな風に思っていた時だった。真横から義母さんが叫んだ。
「伏せて!!」

 ドガドガドガッ!! と。
 真っ黒なスクリーンみたいな天空から、何かが一斉に降り注いだ。

 軍用機。
 そんな印象を抱いた時点で気づくべきだった。JBの救援ヘリが武装している可能性に。
 あれもキャストか!
「トゥルース!?」
 手を引いて一緒に走っていたはずのアナスタシアの声がひどく遠い。自分がどうなったのか把握もできない。とりあえず、無事に走り続けている訳ではなさそうだ。視界がおかしい。土の味がする。横倒しになっているって事は、芝生の上に倒れているのか?
「はあ、はあ……」
 倒れたまま自分の体を両手でまさぐる。ひとまず手足は全部ついているようだ。指の数も両方とも減ってはいない。耳や鼻が取れたりもしていない。右の太股に痛みを感じたけど、これは灼熱の鉛弾が貫通した訳じゃない。きっと間近で弾け飛んだ小石なり黒土なりの破片がぶつかったんだ。
 しかし一体何がどうなって機械的なロックオンから逃れられたのやら。火災旋風すら巻き起こる上空の大気はそれだけ大荒れなのか、地震や噴火で熱源や地磁気でも乱れているのか。詳しい仕組みまでは知らないけど、理解できていない以上はこっちから狙って何度も頼れない。
 次やられたらおしまいだ。
 こんな平べったい広場じゃ身を隠す場所がない。そもそも上から覗き込むような視点で、各種センサーにサポートされた軍用機からどうやって隠れろっていうんだ!?
 ばたばたた!! という頭上のローター音がひずんで聞こえる。おそらく向こうもパワーバランスは理解している。空中で大きく旋回して機首の向きを合わせ、もう一度通り過ぎざまに機銃掃射を加えようとしているんだ。
 高さと速さ、二つの壁は絶対だ。
 誘導機能を持った高威力の飛び道具でもない限り、地べたの僕達など脅威にならない。悠々とお腹を見せて頭上を通り過ぎ、自分の都合だけで微調整に専念している。
 頭から土を被ったまま、呻くように僕は呟いた。
「はし、るんだ……」
「トゥルース!」
「後ろから追ってきてるセベクと同じ。ヘリは重武装で細かい狙いが利かない、地べたで救援を待ってるピエールを人質に取れば攻撃を止められる。だから早く!!」
 あいつはどこだ。
 同じ広場にいるはずだけど、人影はまだ見当たらない。光をなくした外灯の裏で息でも潜めているのか、あるいは特殊な防水シートでも被って地面に寝そべっている? 軍用っていうのが実際どこまでやるのかなんてイメージできないっ。ものによってはスマホの暗視補正なんかも潜り抜けるかもしれないぞ。
 とりあえず、こっちも呑気に寝転がっている場合じゃない。貧乏暇なしなんて言うけど、でも劣勢に立った側は手早く動いて少しでも巻き返しを図るしかないんだ。
 どこから紫外線の点滅が広がっているかは分かっている。震える手足を動かして起き上がり、歯を食いしばって、無理矢理にでも前に走り出す。
 それでアナスタシアも義母さんも動いてくれた。
 正直に言ってオーバーキルだ。後ろから迫る水神セベクも頭上を飛び回る攻撃ヘリも、僕達が努力して倒せるような火力じゃない。これが単なる無差別攻撃だったら本当に詰んでいた。
 JB側にとっては救出作戦なんだ。
 つまりある程度はセーブしないといけない。
 同じフィールドにピエール=スミスっていう価値ある標的が無造作に転がっている。こいつを手に入れられるかどうかで状況はかなり変わってくる。そこに賭けるしかない。
『紫外線式の航空標識まで二〇メートル』
「分かって、る!」
 まだ見えない。
 ヤツはどこだっ? 馬鹿正直に照射元でじっと待っているとは限らないけど、でもヘリが降りてきたらすぐ乗り込みたいだろう。必ず近くに身を潜めているはずなのに……。
『セベクに攻撃ヘリとJB側は何でもアリです。当然ながらピエール本人も銃器またはオカルトで武装している可能性を考慮してください』
「っ、くそ!!」
 何回失念すれば良いんだ、僕は!?
 とっさに隣を走っていたアナスタシアを突き飛ばすようにして、完全に倒れていた外灯の柱の陰に飛び込んで寝そべる。途端に激しい爆発音が連発した。これまでより近いっ。
 銃声? それとも魔法とか?
 どっちにしたってピエール本人からまともに一発もらったらただでは済まない。ただしヤツに足止めされてしまえば、セベクか機銃掃射で僕達は確実に命を落とす。
 それに。
「トゥルース……?」
 抱き寄せられたまま僕の顔を見上げるアナスタシアは、どこか不安げな声を出していた。
 笑っているのに気づかれたかもしれない。
 なあピエール、アンタは僕達を高火力で脅してご満悦なのかもしれないけどさ。アンタは反撃した事で自分から示してしまったんだぞ。
 ゴールはそこで。
 しかも、一度設定してしまったら着陸地点は途中変更できないって!
「発光点まで二〇メートル。ヤツは必ず近くにいる。アレを中心とした大きな円を意識しろ。このままぐるっと回って調べるぞ、アナスタシア……」
「でもトゥルースっ。何が飛んできているのかもはっきりしていないのに」
「義母さんはもう逆サイドから行動を始めてる。とにかくここに留まっていたって事態は悪化するだけだ。行くぞ」
 ドラマや映画みたいにあらぬ方向へ空き缶や小石なんか投げたりしない。半端な事をやってもピエール側に余計なヒントを渡すだけだ。人間、何が怖いって無音の暗闇が一番怖いに決まっている。まして害意のある人間が複数同時に息を殺して迫ってきていると分かったら普通にホラーだ。
「……、」
 外灯は斜めに傾いたものもあれば、完全に倒れているものもある。
 この平べったい広場の中、少しでも身を隠せそうな場所を意識する。
 概算で二〇メートルほど。この距離だともうスマホは使えない。ピエールは飛び道具を持っているんだ。何かするたびにいちいちバックライトで自分の顔を下から照らしていたら、どうぞここを狙ってくださいって言っているようなものだし。
「……それにしても、何でオテル何とか? でエジプト神話なんだよ。ナポレオンのお墓があるって話だったろ、偉い人のミイラでも飛び出してくるんじゃないだろうな」
「知らないのトゥルース。ナポレオンのエジプト遠征がなかったら有名なロゼッタストーンは見つからなかったし、そうなったら古代文字の完全解読だってなかったわ」
 そりゃ何とも含蓄のあるお話で。こっちは土地に染みついたそのエピソードのせいでピエール側に変なブーストがかかっていない事を祈るばかりだ。
 いくつか遮蔽物を渡り歩いて回り込む。
 芝生の抉れた一角があった。いくつか園芸道具や光のない野外大型照明が転がっている。おそらく昼間は枯れて変色した芝生を取り替える作業でもしていたんじゃないだろうか。ロープで四角く囲まれたあの一角だけ、山積みにされた肥料の袋や台車など、とにかくものが多い。
 身を隠すにはうってつけだ。
「いる。いるわトゥルースっ、肥料袋の山、裏でなんかもぞもぞ動いてる」
「しっ」
 少し離れた光のない外灯下、消火設備の金属ボックスに身を寄せながら、僕はそっと制止を促した。
 開けた立地。
 JBの着陸地点。
 人影は一つ。離れた場所にいるから背格好や性別は読めない。そして利き手で何を握り込んでいるのかも。そいつの足元には消火器サイズの円筒容器を転がしている。今はスマホで確認できないけど、おそらくあれが連絡用の航空標識だ。目には見えない灯台ってだけで、今も紫外線が等間隔で爆発したように輝いているはず。
「……、」
 僕は無言で身を屈め、金属ボックスから消火ホースを引っ張り出す。厳密には、僕の腕より大きな金属製のノズル。何もないよりはマシ程度か。
 この辺りが限界だ。元々チャンスを待っている時間なんかない。今すぐ動いてJBのキャストを人質にしないと地上の水神セベクか空中の攻撃ヘリ、どちらかにやられる。
 義母さんが暗闇のどこに潜んでいるのか、僕達の目では確かめようがなかった。どっちみち、僕達が飛び出せば合わせてくれると信じよう。
「アナスタシアはここで待機だ」
「トゥルースっ」
「それからマクスウェル、バックライトは光らせるな。そのまま聞け」
 ポケットからスマホを取り出す。どっちみち僕が頼れるものは少ない。単に持ち物がないんじゃない。ここで本物の銃や刀を渡されたって手に余る。
 一番最後に頼るのは、やっぱり普段から使い慣れた道具だけなんだ。
 だから言った。

「合図と共にカメラのフラッシュを連発! 間隔は〇・五秒スパンだ!!」

 利き手でバットより重たい金属ノズルを掴んだまま、左手でスマホを構えて飛び出す。
 赤と青の点滅が有名だけど、人間の瞳孔は急激に拡大縮小を繰り返すと頭痛や目眩、意識障害なんかの引き金になりかねない。そして人間の瞳孔は本来光の強弱に合わせて自動的にその大きさを切り替える器官だ。本人の意思なんかお構いなしに。
 スマホの猛烈な光の連射。だけど油断はできない、何しろ向こうは飛び道具を使う。僕は真っ直ぐっていうより斜めにずれていく感覚で山積みされた肥料袋の裏に隠れていた人影に迫る。
 自分から光を撒き散らした以上、攻撃ヘリからも当然丸見えだ。だけどピエールとの距離は二〇メートル以内。正直、特に台座で固定されている訳でもない不安定な空中からの雑な機銃掃射じゃもう誤差範囲内の危険域のはず。だと思う。根拠となるデータなんか何もないけど!
 ここから先は、頼むから一対一であってくれ!!
「っ!?」
 人影が片手で目元を覆い、もう片方の掌をこちらに突きつけてきた。五指は開いていて、何かを握り込んでいる感じはしない。
 銃器じゃ……ない!?
 ボッ!! と。
 何もない掌からソフトボールより巨大な火球が生み出され、そして一直線に飛んできた。
 目潰し自体は効いているんだろう。
 それでも飛び道具相手。こっちがただ真っ直ぐ突っ込んでいただけだったら、今の一発で蒸発していた。
 顔のすぐ横を突き抜けた火球が、真後ろの芝生や黒土を派手に吹き飛ばして舞い上げる音だけが聞こえる。いちいち背後を振り返って確かめる余裕もない。僕も僕でジグザグに切り返し、一気に人影に迫る。
 猛烈な点滅にさらされたまま、金の腕輪らしきものをはめた手、その掌が、再び狙いを定めてくる。
 狙いをつけて、鈍器を振り上げ、全体重を掛けて振り下ろす。こっちはたったそれだけのアクションをしているだけの暇すらない。
「おおアッ!!」
 だからそのまま突っ込んだ。
 こっちの武器は消火ホースのノズル、つまり僕の腕より太い金属の棒だ。先は平らだから突き刺さる事はないけど、とにかく抱えて体当たりしていく。向こうからも僕がのっぺりとした黒い人影としか見えていなかったんだろう、こっちに突き出された突起との距離感を測り損ねたらしい。腹の真ん中を押さえつけられた人影の両足が地面から浮かび、背中から光の消えた大型野外照明に叩きつけられた。
 呼吸くらいは、流石に詰まっただろう。
 まず見当違いな斜め上に火球が解き放たれた。その一発に終わらず、人影はぎりぎりと火砲のような掌を僕の顔に向け直してくる。
 打ち上げ花火か照明弾のように、夜空で弾けた火球が地面を照らした。
 手首にはめているのは、ゴツい腕輪。カナブンに似ているけど、きっと違う。純金と宝石でできたエジプト神話特有の虫だ。
『スカラベ。いわゆるフンコロガシをモチーフにしたアクセサリですが、エジプト神話内においては生成や復活の象徴とされ、また太陽神ケペラの記号であると
「長文ご苦労。読んでる暇ないからスピーカー最大音量で爆音鳴らせ!!」
『ノー、スマホのスピーカーでは限度が
「音源の数が足りないなら野外照明のガラスとか肥料袋のビニールとかと共鳴させろよっ、周波数はそっちに任せた。とにかくやれえ!!」
 ががっきィいんッッッ!! と。
 四方八方からの爆音に世界が包まれる。
 間近での炸裂音は、ただでさえ視覚を潰されて頭がふらついていた人影にとっては効果的だっただろう。意識が視覚から聴覚に切り替えようとしたところで、第二の感覚器官を潰しにかかった訳だから。
 三半規管までやられたのか、人影の軸がぐらつく。
 至近一メートル以内の標的を捉える事もできずに、掌の火球はよその地面を焼き焦がす。こんなのでもアナスタシアに当たったらオオゴトだ。あえぎ、震えて、JBのキャストはでっかいぼんぼりみたいな大型の照明器具にのろのろとすがりつく。
「……じぇい、びいは」
 最初、何を言っているのか頭に入ってこなかった。
 わざわざ日本語で話しかけてきてくれていると気づくまでですでに数秒が必要だった。
「この理不尽な世界から、皆を平等に解放する。それは天津サトリ、君もおなじだ」
「マクスウェル、そこの大型野外照明の送電状況をチェック。工事用ならおそらくガソリンの発電機かバッテリーを抱えてる。つまり、停電下でも使えるはずだ。でもって今は何でもオンラインだろ」
「今のままでは誰も救われないぞ。場当たり的にカラミティを乗り越えたところで、根本的な世界のルールは変わらない。そう、神の支配を断ち切るには抜本的な『脱獄』が……!」
「通電開始」
 ズバヂィ!! と。
 人影自身が必死ですがりついた照明器具から無理に電気を引っ張り出した途端、誰かさんが小刻みに振動した。
 流石にもう掌で狙いをつけるのも難しかったのだろう。そのまま意識を落とす。
 ……JB関係だと、アブソリュートノアの方舟を内側から台なしにしたスキュラのヤツも似たような事を言っていたか。選ばれたてっぺんだけが救われるんじゃない、JBは下から見上げて世界を変える組織だって。
 今は金属塊はかえって怖い。用済みのノズルを手放すと、僕はスマホの画面をあちこちに振り回して、
「はぁ、ハァ。セベクは?」
『大地を抉る音が止まりました。活動停止したのでは?』
「攻撃ヘリ」
『頭上をご覧ください、最大限の警戒と共に』
 ばた、ばた、ばた、ばた!! と。
 激しいローター音が響いているという事は、近い。ほとんど頭の上を押さえられていると言っても過言じゃあないんだろう。
 どうする?
 どう出る?
 あのヘリは間違いなくピエール=スミスを回収するためにやってきたキャストだ。機銃掃射で僕達を攻撃してきたのは、その邪魔になるからに過ぎない。
 でも一方で、相手は『あの』JBだ。救出の見込みがない、捕まったら何を話されるか心配だ。……そんな状況になったら、冷酷に仲間を切り捨てる展開もありえる。僕といっしょくたに機関銃でバラバラにして、だ。
 ……。
 ………………。
 ……。
 ………………。
 待った。一秒一秒が永遠に引き延ばされていくような理不尽な緊張の中で、僕はただ気絶したピエール=スミスの腹を踏みつけてその時を待つ。
 結局、最後までJB側の意図は読めなかった。
 ゴッガッッッ!!!!!! と。
 再び夜空が瞬き、流星の雨がパリ市内に容赦なく降り注いできたからだ。容赦のない破壊は、むしろ瓦礫の街にしつこく残っていた火事の炎を上から叩き潰していくようだった。
 今のは予期せぬ事故だったのか、人為的な攻撃だったのか。
 とにかく状況に見切りをつけた頭上のヘリが勢い良く旋回する。僕達の手の届かない場所へと飛び去っていく。
「サトリ!」
「義母さん、そこのロープ取って。立入禁止のエリアを区切っているヤツ、そいつでこの馬鹿縛り上げる」
 どこからどう渡ってきたのか。光のない外灯の裏から出てきた天津ユリナに、僕は足元に転がした人影……JBのピエール=スミスを爪先で軽く小突きながら言った。
「こいつが全部知ってる。世界のどこかに潜んでいるJBの正体も、フランスから権限を奪った核弾頭がどこに何発あるのかも」

 

【Unknown_Storage】天体の形成【file06】


 鶏が先か卵が先か。
 このたとえ話は、天体の形成にも当てはまる。土くれの地球型、ガスの木星型と区別されるがどちらも根っこは同じで、ようは多大な重力の集まる場所に多数のチリやホコリが集まってこの宇宙に巨大な球体が出来上がるという寸法だ。
 ただし重力というのはただ漠然とは生まれない。まず大きな質量があって、そこに重力という力が生まれる。
 最初の問題がここに浮かび上がるぞ。
 重力がなければチリやホコリは集まらず、チリやホコリが集まって多大な質量を作らなければ十分な重力は生まれない。鶏が先か卵が先か、だな。自然環境の中で星がどのようにして成り立っていくのかは不明。我々は我々が立っている故郷の話すら、実は本当のところ理解できてはいないのだ。
 ただし。
 他の多くの学問がそうであるように、根本の原理を理解できていなくても応用に進めてしまうのが難儀な話でもある。

 実際のところ、星は創れる。
 今の人の技術でもって、宇宙に漂う不純物を一点に凝縮すれば。