吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第三章

   第三章

 ちきゅうがいみかくにんちてきせいめいたい。
 宇宙、人……?
「えっ、あ」
 望んでいた答えのはずだった。水槽の中の熱帯魚がエアポンプの空気を求めてパクパク口やエラを動かし続けるような、そんな渇望からようやく抜け出せたはずだった。
 なのに、いきなり喉に握り拳大の硬い石でも詰め込まれたような気分になった。
 飲み込めない。
 とてもじゃないけど、これは無理だ。
 料理の美味い不味いじゃない、そんなそこまで予想外をぶち込まれたら、こっちはもうひたすら目を白黒させるしかない。
「何だ、そりゃあ……? そういう風に見えるアークエネミー、じゃなくて???」
『ノー』
「だって流石についていけない! 戦乙女とか魔王とかが出てくる世の中になったけど、それとこれとは違うだろう!?」
『緊急無線を傍受した一部の物好き達が、掲示板や動画サイトにその内容や録音データを上げています。少なくとも警官や医療関係者の間では宇宙人やエイリアンの呼称が浸透しているようです』
 ……どうな、っているん、だ?
 これまでだって大変な事はたくさんあった。極限モラルハザードのカラミティに、そこから逃げ出すためのアブソリュートノア。だけど、なんだっ? イカれたなりに世界の裏側で噛み合っていた歯車がいきなり音を立てて全部落っこちていくような、このどうしようもない非現実感は……?
「ふぐ」
 と、直接襲われた当人のアユミがしれっと割り切ってきた。
「理解が追い着かないトコで押し問答を繰り返しても仕方ないよ。とりあえず宇宙人の通称でやり取りされる誰かがいる、で保留にしとこう。単なるコードネーム、実際にどこからやってきたかは後回し」
 アユミの思考は単純だけど、こういう時は強い。分からないものを分からないままにしておけるっていうか。
「分かったよ……。じゃあ次だ。隔離してるのは警察や自衛隊だって話だったよな。その、宇宙人側じゃなくて」
 どうしても自分の口から出る宇宙人に違和感を拭えない僕に、マクスウェルは即答で返してくる。
『シュア。件の地球外知的生命体は体表に優れた感覚欺瞞効果を有しているとの見方が強まっています。平たく言えば主観上の透明生物ですね。一度自由を与えてしまっては収拾がつかなくなるものの、カメラ、センサー、レーダー、軍用犬など有効な捕捉方法を割り出し切れていないため個体個体の拘束にも限度があるようです』
「変な模様を見せて認識を狂わせる、だっけか? 機械的なカメラでもダメなのか?」
『シュア。目撃当初は有効な報告もありましたが、あの模様は当人の意思で自在に変えられるようです。つまり学習し、常に新しいパターンを編み出す。人の目はもちろん、機械的な分析も突破するレベルに達していると判断すべきかと』
 ……ビッグデータ嫌いを狙った顔認識拒絶用のマスクやサングラスくらいなら簡単に手に入る時代にはなったけど、それより凶悪だな。
 カメラにも得意とする波長や速度はある。例えばマイクロ波や超音波の反射を映像化する場合はあらゆる暗闇を無視できる代わりに色を捉えられないし、同じく高感度仕様でシャッターを開いている状態では高速移動している物体は捉えられない。
 あのブーメラン。
 カエルみたいな肌の表面にミステリーサークルを走らせ、個々の機材の弱点を突いて画角の中から『消えてしまう』って訳か。
「だから一つ一つ捕まえるのは諦めて、ひとまず宇宙人とやらが確実にいるエリアを丸ごと隔離したのか。ここまでやれば安心だって面積まで広げていって」
 論が通っているようで、通っていない。誰にも見つけられない異物が全員そのエリア内に留まっているって根拠は何なんだ。
『立入禁止の隔離エリアは時間経過と共に広がりつつある傾向があります』
「……つまり誰も自信を持って計算している訳じゃないのか。どっちかって言うとパニック防止のために、皆さんは安全なエリアにいますって宣伝する目的の方が大きいんだろ」
 まいったな。
 あの枯草色のカエルみたいな質感でその辺這い回るブーメラン、全部でどれだけいるんだ。一五〇センチって言ったら、そろそろ大型犬でも限界があるんじゃないか。そんなのもはや立派な『獣』だ。いっぱいいても嫌だし、たった一体だけで二三区が完全停止ってのも『世に混乱をもたらす力』を目一杯誇示されているようで気味が悪い。暗がりに身を潜め、会話の余地もなくいきなり飛びかかってきたところを見るに、ゾンビのアユミや吸血鬼の姉さんとも全然違うように思える。もちろん、人間には感知できない紫外線だの超音波だので必死に警告してきてたっていうなら誤解なんだけど、正直、その線は薄そうだよな。
 ギッ!! と。
 事務所の天井が、いいや電波塔全体が軋んだ音を立てたのはその時だった。
「っ、マクスウェル確認したい。宇宙人は都内に出没して人に危害を加えている、人間側は警察とか自衛隊とか使って封じ込めにかかっている。なら電波塔は? こいつについては誰かの意図も計画もなく普通に嵐の影響で大ピンチか!?」
『情報が錯綜しており細かい経緯までは掴みかねますが、複数のライブ配信系ネットニュースによれば東京スカイツールは最大で三度ほど北東側へ傾斜しています。非常電源込みで各種災害緩和設備が止まった結果、ケタ外れの爆弾低気圧がもたらす暴風に対処しきれなくなったのではないかと』
「いまいちソースが信用しがたいけど!?」
『大手の民間衛星画像サービスや報道各社はストップがかかっていて使い物になりません。流石はゴールデンの時間帯ですね。これだけの騒ぎの中、小ワザでここまで変わる焼き肉のタレ特集とか流していますよ。東京のスタジオや放送局は使い物にならないはずですが、どうも地方支局を経由して収録分を消化しているようですね。スカイツール頼みで放送していたものはアウトみたいですが』
「それがエレベーターに閉じ込められて何も食べてない人に語る言葉かマクスウェル。ああお腹減ってきた……」
 しかしまあ、傾斜三度……か。四五度の三角定規や一八〇度の分度器を思い浮かべれば微々たる数字のように思えるかもしれないけど、そもそもスカイツールは六五〇メートルもある事を忘れちゃならない。バランスを崩す時は一瞬、十分に待ったなしの状況だ。
『本当に封じ込めが成功しているのか情報不足で皆が疑心暗鬼に陥っている中で、三流スポーツ紙がまんま政府行政からの報道自粛要請メールを公開して軽めのお祭りになっていますが』
 これじゃ混乱を抑えるための沈黙か炎上させるための沈黙か分からなくなってきたな。何の関係もないアークエネミー達にまで変な矛先が向かないと良いけど。
「謎の黒幕も壮大な野望もないただの災害なら、それこそカウントダウン状態だ。止めようがない。何であれこの電波塔から抜け出さないと」
『シュア』
「姉さん、アユミ。二人もそれで良いね」
「ふぐ」
「ですけど、あのエレベーターは怖いですよね。ワイヤー千切れるわカゴはそのまま落ちるわですし。それ以外だと階段になるんでしょうか」
 そもそもあのエレベーター、結局何が起きていたんだろう?
 電波塔の上の方がねじれがひどくて滑車にダメージが入ったのか、あるいは謎の生物が迂闊に手を出して挟まったりしてたのか。
 ともあれ、原因が何であれ危険なのは同じか。対策の取りようがない。
 階段があるならそちらを使った方が確実だ。
「……マクスウェル、段の数とかって計算できるか」
『もちろん可能ですが非推奨です、有意義なタスクとは思えません。高確率でユーザー様のモチベは下がりますが続行しますか?』
 ……三〇〇メートルちょいの東京アワーの方は階段全部上り下りすると記念品がもらえるんだっけ? 六〇〇メートル半ばのスカイツールでも受け継がれてるんだろうか。
 なんかこう、学校の廊下とかにある合成繊維のチューブに入ってするするするするー! って降りてく避難器具とかないのかな。あれ高さ制限みたいなものがあるのかしら。片道を下りるだけで何時間だなんて、もう実際に火事が起きて逃げ回る時の事とか想定してんのか?
『大丈夫です。ユーザー様が今いる一般展望台はてっぺんではなく、たかだか地上四五〇メートル付近です。なんと全体の三分の一近くも楽できる計算になります。やったね』
「……キサマほどの演算力をもってしてもその程度しか出てこないって事は、いよいよこの道は地獄に繋がってるな?」
 僕まだ一〇代だけど先に宣言しとく、今日ここでヒザやっちゃうかも。ただ、ぐだぐだ引き伸ばしても仕方がない。踏破に何時間もかかるとしたら、なおさらすぐに行動しないと地上へ辿り着く前にぼっきり、もありえる。エレベーターは落ち、展望台の強化ガラスは砕け、電波塔全体も具体的に傾いている事が分かってきた。もう何でもアリだ。
 僕はそっと息を吐いて、
「ハイキングでもトレッキングでも良い、足に負担のかかりにくい歩き方や道具の検索。後はこの事務所映すぞ、さっきのデロデロ宇宙人に対抗するための武器になりそうなものを画面の中で光らせろ」
『相手の生態、本能、目的、知性などは一切不明ですが、武器を持てば害意が伝わる恐れがあります。無用に警戒させますよ』
……問答無用でアークエネミー達の頭を抑え込もうとした、光十字寄りの考え方に陥ってるかな。だけど流石にこの暗闇の中、鼻先まで近づかれても察知できない一五〇センチ大のデロデロ相手に丸腰で歩き回って陽気に話しかける度胸もなかった。不意打ちとはいえ人間の一〇倍の筋力を持つゾンビが一発で押し倒されたんだ。最悪、僕なんて車のバンパーで撥ね飛ばされるような目に遭うかもしれない。
 結果。
 僕はひとまず事務所の壁から合成繊維でできた薄っぺらなスタッフジャンパーを拝借し、左右の袖を縛ってグリップに、裾側を縛って大きな袋状にしておく。後は冷蔵庫で冷やしてあった缶コーヒーを三本ほど放り込めばひとまず完成。ほんとは四角い紅茶の缶なんかの方がエグいんだけど、まあ、こんなのでも袖の部分を掴んで振り回せば簡易モーニングスターになる。それに使う機会がなかったらみんなで分け合って普通に喉を潤せば良いし。何しろ非常階段は長いんだ、絶対水分は恋しくなる。
「えと、それじゃアユミと姉さんはどうする。こういうの、武器の好みとかある?」
 まったく我ながら家族にも女の子にもそぐわないサイテーな質問であった。何だ僕は異世界に旅立って鋼鉄の剣でも売ってんのか、死んで旅立つにはまだ早いぞ。
「ふぐう、お手製武器だと脆すぎて使い物にならないかも。あたし達の腕で全力出したら一発でバラバラになりそう」
「それに、夜目が利くとは言ってもこの暗闇の中で作為的に認識をズラす相手と取っ組み合いになる訳ですしね。下手に鋭い刃物やリーチの長い飛び道具だと、同士討ちとか転んだ拍子に自分のお腹 をざっくり、なんて話にもなりかねません」
「……今あたしをそこらじゅうで勝手に転ぶ子扱いした?」
「まさかそんなとんでもない、おっとりお姉ちゃんのセルフケアですよ?」
 人間の一〇倍二〇倍ってのも良し悪しか。そんな調子じゃ拳銃のグリップを本気で掴んだだけで握り潰して暴発させてしまいそうだ。僕としてはせめて拳を保護する何かを持たせてやりたかったけど、彼女達は彼女達で一番アークエネミーとしてのカラダを動かしやすい方法を知っていての発言だろう。無理に押し付けて足を引っ張ったら元も子もない。
 ぎぎぎギギギギぎぎ……という空間全体が軋むような音が暗闇に響く。
「マクスウェル、これから事務所を離れるけどこのスマホへのアクセスは継続できるか?」
『シュア。ネット環境自体は途絶している訳ではなく、警察消防など緊急通信扱い以外は弾かれているだけですので。システムはすでにこのパソコンにある鍵データを取得しています。スマホ単体でもネット利用はできますので、バッテリーの充電以外にケーブル接続の意義はありません』
 今の残量は六八%。短い間だったけど、結構溜まるもんだ。電池も劣化していないから、表示については信じて良い。しばらく保つだろう。
「よし、なら第二ラウンドだ」
『了解しました』
 認識を狂わせて視界から消える宇宙人と電波塔を薙ぎ倒す勢いの爆弾低気圧。さあ怖いのはどっちだ?

 改めて、そっとだ。
 事務所の扉のノブに触れ、そっと回す。
 少なくとも、ドアや壁が歪んで開かない、なんて最悪の状況には陥っていなかった。だけどホッとなんてしてられない。僕達の予測が正しければ、あいつはこのドアを潜って事務所の外へ逃げたんだ。仮初めの安全地帯はなくなった。いつまたどこからカエルみたいな肌のデロデロが飛びかかってくるか分からない。スマホのライトをあちこちに向けた程度じゃ違いなんて出てこない。しかも慎重に慎重に時間を浪費していったら、今度はスカイツール全体の倒壊に巻き込まれるかもしれない。
 慎重に時短する。
 バランス感覚を見失ったらおしまいだ。
「ガラス、また別の所が割れたみたいですね……」
 吸血鬼の姉さんがそっと耳元へ置くように声を放ってきた。言われてみれば前とは風の流れが違うし、吹き込んでくる雨粒の勢いも増えている気がする。
 足元でジャリジャリしているのは細かいガラスの破片か。床は水浸しだし、足を滑らせただけで血まみれになりそうだ。
「アユミ、窓側には近づくなよ」
「……お兄ちゃんまでどうしてあたしを転ぶ子扱いするのか」
 あちこち吹き荒れる暴風は単純に外から中へ入ってくるだけじゃなくて、時折掃除機で吸い出すように中から外への流れも生まれる。大体、くの字のブーメランみたいな形の宇宙人とやらがどこにいるか分からないんだ。いきなり背中を突き飛ばされたらリカバリーなんかできないぞ……って話なんだけど。
『バカはドヤ顔ばかりで人の話を聞かないから何もない所であっさり転ぶんですよ』
「ふぐっ!? マクスウェルあんた!!」
『のーのー。システムの言語アシスト機能はユーザー様との反復学習によりラーニングしたものですが、何か齟齬がありましたでしょうか? (・ω・)』
「つまり今のは全部お兄ちゃんの間接攻撃か……!」
「命を持たないAIに行動の責任は取れないから何をやっても所有者に全部丸投げみたいなウルトラヘヴィーな未来系社会問題のお話は今やめませんか冤罪ですよう!!」
 今のっすげー軽めだったけど自覚アリで押し付けてきたとしたらちょいとしたAIの反乱が始まってないか!? 勝手気ままなサイバー攻撃でダムだのコンビナートだのが吹っ飛んだ挙げ句、誰のせいで戦争が始まったか、なんてのをこんなスライド責任処理されたら世界中を巻き込むハルマゲドンが始まるぞ!
『ともあれ脱出です、ごーごー♪(≧∇≦)☆』
「妹に髪の毛掴まれてぐいぐいやられてる兄の尊厳ゼロな僕にもうちょいかける言葉はないのかっ!?」
 まったくオトコノコの毛根を何だと思ってやがる。優しい姉さんが割って入ってくれなかったら、ハリウッド系のハゲなのにイケてるオヤジを目指さなくちゃならなかっただろうが。あんなもん頭蓋骨全体をイタリア人にでも整形しないと無理だ!
「アユミちゃん、ほら、じゃがるこのバーベキュー味がありますから」
「がるがるがるる……」
「困りましたね、封は開けちゃいましたし。いらないならこのまま捨てちゃいますけど」
「やめてじゃがるこもったいない!」
 エレベーターに閉じ込められてからまともな飲み食いをしてこなかったとはいえ、受け取ってしまった時点でアユミの負けだが、はて。マカロンとかエクレアなんかとは違って、確かにあの手の駄菓子は姉さんの趣味っぽくないな。……まさか対アユミ用の緊急手段として持ち歩いているのか?
 ともあれ、アユミが冷静さを取り戻したら、今度こそ注意しながら非常階段を目指すべきだ。
「んめーなじゃがるこ」
「そっすか」
「ほらお兄ちゃんも、仲直りの証に」
 仲直りも何も全部マクスウェルの陰謀とバカの勘違いなんだけど、まあ良いか。下手に蒸し返すより受け取っておいた方がクレバーな選択のはずだ。あとバーベキュー味っていつ出たのじゃがるこは新作ばっかりだから追い切れないよじゅるり。
「……バーベキューってか焼き肉のタレっぽくないかこれ? ニバラの」
「こんなもんじゃない? サラダせんべいが野菜っぽくないのと比べればこんなの微々たる差だよ」
 また一つバカを露呈したなアユミ。あれはサラダ味じゃなくてサラダ油を使って揚げただけだ。普通に塩味で大正解だよ。
 真っ暗で暴風が吹き荒れ足元は細かいガラスと水浸し、まったく最悪な環境をスマホのライト一つでどうにかこうにか歩き、エレベーターホールとはまた違った鉄扉の前まで辿り着く。
 スマホのライトを扉の上に向けると、明かりは死んでいるものの、非常口を示すランプが見て取れた。
「ここ……っぽいな。非常階段」
 僕の両手はスマホと例の重たいスタッフジャンパーで塞がっている。なので何故だかスパイっぽくドア横の壁に張り付いてるアユミにノブを任せた。本人超やる気だし、バスの停車ボタン押したがってる子供レベルで。
 実際にアユミに開けてもらって肩越しにスマホのライトを向けてみると、ステンレスに錆止めの塗装を施した、下りの階段が伸びているだけだった。エレベーターと同じく、上の特別展望台への階段は別枠で用意されているらしい。
 凝視しても仕方がないのかもしれないけど、ついつい下層の踊り場へライトを向けて固まってしまう。
 ぎぎギギギ、という不気味な軋みが聞こえるだけだった。さっきの枯草色の表面にミステリーサークルを浮かばせたデロデロは、やっぱり『見えない』。
「行きます、か……」
「ふぐ」
 安全なのか危険なのか、いまいち分からないままそろりそろりと僕達は下り階段へ向かった。どうしてもスマホのライトは奥というより足元に落としがちになる。一五〇センチもあるブーメラン状のデロデロも怖いけど、こんな所で足を踏み外して捻挫したり骨を折ったりしたら最悪だ。誰も助けに来てはくれないんだから。
 いち、にい、さん……じゅう、じゅういち、と。
「一一段か……。踊り場で折り返してもう一一段で大体一階分だから、ええと全部合わせて、あと……」
『警告、うんざりするだけなので計算は中断する事を推奨します』
 地上と一般展望台を結ぶだけのはずなんだけど、所々にぽつぽつと鉄扉があった。こっちについては鍵がかかっているのか、開く様子はない。
「作業員のためのメンテナンスドア、とかかな?」
 通常エレベーターのシャフトの中にはこんなのなかった。でも毎日毎日階段を上り下りするとも思えない。業務用のエレベーターは途中下車できるんだろうか。
 と。
 ぎぎぎギギギギぎぎ……と軋んだ音が鳴り響いてきた。何度聞いても落ち着かない。そんな風に思っていたんだけど、
「……おかしいですね。鳴り止む気配がありませんけど」
「わわわ。なんかヤバいんじゃないのそれふぐう早くこの電波塔から抜け出さないと……!」
 前にも増して猪突猛進に下へ突っ走ろうとするアユミの腕を慌てて掴んだ。
 直後。
 亀裂が走るような音、だったと思う。
 ばづんっ! という太い破断音が、下の方から響いてきた。そして振動。これまでの電波塔全体が暴風に煽られるのとは違う。もっと近くで、もっと生々しい、破壊が連鎖してくる震えだ。
 スマホのライトを階下に向けた。
 そこには暗闇があるだけだった。
「かい、だんだ」
 ようやく思い知る。
「ステンレスの階段が、落ちてる!? 巻き込まれたら僕達も真っ逆さまだぞ!」
 ボルトなのか鉄の杭なのか。どうやって固定していたかは知らないけど、とにかくその留め具が電波塔全体のねじれみたいなのに引っ張られて外れたんだ。途中階のどこかで階段が外れて、後は上の階にある階段が次々と外れていった。僕達のすぐ足元にまで。
 下はもう虚空だ。
 こうなると上へ戻るしかない。
 アユミと姉さん、二人の姉妹と一緒に回れ右して階段を駆け上がると、沈むような感触があった。ばぢん、ばづん、という太い音が僕達を取り囲む。踊り場まで辿り着くと、床全体が斜めに傾いた。ぎょっとして後ろを振り返ると、さっきまであったはずの階段が消えている。踊り場と一一段でワンセットだったのか。タラップ車みたいな塊単位で落下しながら壁に擦っているんだろう、後には金属の悲鳴とオレンジ色の火花が飛び散っていくだけだ。
「サトリ君、立ち止まらないでください! 早く!!」
「っ、分かった!」
 ……分かっている、けど!?
 やっぱり何階分下りたか計算しておくべきだった。ペースの配分なんか考えていられない。こうなると終わりの見えない上り階段を、短距離走の全速力で駆け上がるしかなかった。あっという間に両足の太腿はパンパンになっていく。あとどれくらいだ? 次の折り返しか、まさかまだ一〇階分以上あるとか言わないよな!?
「ふぐ」
「アユミ駄目だ、途中の鉄扉は無視!」
「でもここが開いたらさ……」
「どこに繋がってるか誰にも分からないんだぞ! 小さな用具入れしかなくて、振り返ったら踊り場も階段も奈落に落ちていました。これじゃ打つ手がなくなるだろ!」
 叫ぶ僕だってほうほうの体だ。格好なんかつけてられない。肘まで袖のある上着が濡れて重たくて仕方ない。先に脱いでおけば良かったか。何度も何度も踊り場を折れ曲がり、永遠に続くような階段を駆け上がって、ようやっと終点を見つける。
 中途半端に開かれた鉄扉。
 一般展望台の出入り口だ。
「ぶはっ!」
 途中で白いショートパンツのアユミにも追い抜かれ、ビリの僕は半ば倒れ込むように濡れた床の上へ到着する。姉さんが袖の破けた右手を伸ばしてきて、さらにそのまま引っ張られた。
 ゴッ! と。
 すぐ真後ろで、あれだけ頑丈に思えた踊り場が虚空へ消えていくのが分かる。スマホのライトを向けてみれば、もう何もなかった。非常階段は使えない。
 ギギギぎぎぎギギギギ、という不気味な軋みだけが続く。
 助かった。けど、それだけだった。スカイツールの歪みは深刻だ。次はいきなり床が抜けるかもしれないし、レストランからガスでも漏れて火事が起きるかもしれないし、天井のパネルが崩れて頭の上に落ちてくるかもしれない。最悪、電波塔そのものが空中分解して薙ぎ倒される可能性だって……。きちんと計算された高層建築だから大丈夫、なんていう理屈はもう通じないんだ。この先、何が起こるか予測がつかない。ほんの数秒後の未来であってもだ。
「どうし……よう?」
 濡れた床にへたり込んだまま、ぽつりと呟いていた。
 この一般展望台に残って嵐が過ぎるのを待つ、っていう選択肢は大分前に消えている。こんな調子だと、おそらくスカイツールが倒れる方が早い。かと言って、打つ手はあるか? エレベーターやシャフトは危ない、非常階段も虚空へ消えた。でも、他にこの四五〇メートルの高さにある一般展望台から地上を目指す方法なんて……。
 ぎぎギギぎ、という歪みの広がる音が僕達の心臓を締め上げてくる。
「……決断の時、かもしれませんね」
「姉さん、何か心当たりでもあるの?」
「ふぐう。そのでっかいスカート広げてムササビごっことかじゃないよね」
 バカの意見はどこまで本気か見えにくいのが難点だ。ひとまず放っておくとして。
「一つ、まだ方法が残されているかもしれません。ただ、この嵐の中ですと、アークエネミーとしての強靭な筋力が必須となるでしょうけど」
「何それ?」
 僕が尋ねると、何故だか姉さんは破けた袖から伸びるほっそりとした手を使って割れた窓の外を指差していた。
 まさかマジでムササビごっこじゃあるまいな!?
 そんな風に戦慄する僕に、エリカ姉さんはある意味もっと命知らずな提案を投げてきたんだ。
「例えば……外側に張り出している、清掃用のゴンドラとかはどうでしょう?」

 がんっ、がん、ゴンッ! と。
 ……なんかこう、風の強い日とかにさ、学校の校庭で旗を揚げる金属ポールにワイヤーがぶつかって音を鳴らすのとか、あるじゃん? あれを二、三〇倍くらい極悪にしたのが真下の方から響き渡ってきてますよ?
「ありました、ありましたよサトリ君。ほらあれですあれあれ」
 強化ガラスの砕けた展望台で、金属の縁を掴んでずぶ濡れのまま身を乗り出し、子供みたいに嬉しそうな声を上げる姉さんだけど……、
「いやあれですってほんとにあんなのにしがみついて下まで向かう気なの姉さん!? ブランコどころの騒ぎじゃなくなってるけども!」
「吸血鬼は人間の二〇倍、ゾンビでも一〇倍ですよ? サトリ君はほら、私達がしっかり抱き締めて支える格好で、きゃっ……☆」
「そ、そもそも清掃用のゴンドラだって電気の力で動かしてるんじゃあ?」
『色々タイプはあるようですが、ズームで観察する限り、ワイヤーリールは屋上ではなくゴンドラ側にあるようですね。あの方式の場合、宙吊りにされた際に手動レバーでワイヤーを解放し、自ら地上へ下りる安全装置があったはずです。製造企業のサイトを検索中……』
 ばかっマクスウェルお前はここで姉さんのアイデアを折る係だろ。背中押してどうすんだ……ッ!?
『風向きを考えると、暴風が電波塔壁面にゴンドラを押し付ける形になっています。音こそ派手ですが、これでも揺れ自体は一番穏やかと言えるでしょう』
「おまちょ念じゃ通じないかバカAIうわああーっ!?」
『正しい答えを導き出したのにバカとは心外です(・Д・)プンスカ』
「電波塔の中はどこもかしこも危険だし、いっそ思い切って外へ出た方が力技で安全なルートを確保できるとは思いません? そんな訳でお姉ちゃんあのゴンドラ説を推したいなあ」
「あたしもそれで良いけど」
『口先だけのバカは放っておいて話を先に進めましょう』
 ヤバいーこのままだとほんとに荒れ狂う暴風の中雨でつるつるに滑る壁面を降りてぐらぐら揺れる清掃用ゴンドラに向かう羽目になりそうっ。こういう非常時の多数決もおっかないけど、人間より賢い機械サマがそう言ってんだから、もおんなじくらい怖い選択だと思うぞ。だって無理だよ三〇メートルくらいあるよ? ちゃんとみんな頭を使って! 考えてえっ!!
「お兄ちゃんぐだぐだ言ってるけど、何か具体的な対案とかあるの?」
「……、」
「あっ、無理にひねり出さなくても大丈夫ですよ? みーんなお姉ちゃん達に任せてもらって。そんな訳でマクスウェル、風向き的に飛び出すタイミングだけ教えていただけますと非常に助かるのですが」
『ていうか今ですなう』
 アユミと姉さんに右と左の肩をそれぞれ掴まれた。
「いやあ待ってダメこれ絶対にダメなヤツだってええええッッッ!?」
 人間の一〇倍と二〇倍だって。
 踏ん張ってどうにかなるはずないじゃんうわあああああああああああ!!

 正直に言うと実感なんかなかった。
 例の暴風雨のせいだ。
 まるで半透明の分厚いビニールシートを顔いっぱいに押し付けられたようだった。まともに目なんか開けてられないし、呼吸だってままならない。こうなってしまうと前後左右も上下もあったもんじゃない。
 ただ、マクスウェルのシミュレーションが功を奏したのか、暴風はちょうど外から内に、飛び出した僕達の体を電波塔側へ押し戻す格好で吹くタイミングだった。さらに姉さんが僕の拾ったスタッフジャンパーを手に巻いてから垂直に流れるゴンドラのワイヤーを掴んでいたのも大きい。
 ギャリギャリギャリギャリ!! と、布地が擦れるような音とビニールやプラスチックが溶けるような嫌な臭いがあった。
 そして気がつけば、だ。
「お、おい、冗談だろ」
「はい到着、と。うわあ、外はすっごい雨ですねえ」
「ほんとにすっぽり収まっちゃったよゴンドラに。あっああ!? これじゃもう上には戻れない!!」
 ぐらぐら揺れる清掃用ゴンドラから未練がましく頭上を見上げてみたら、暴風の塊にやられたのかまたもやガラスの壁が粉々に砕け散った。思わず腰が引けて頭を庇ってしまうけど……予想に反してガラスの雨はやってこない。どうやら強い風に煽られて真横へ飛んでいったらしい。
「うぶえっ、立ってるだけで溺れそう……。お姉ちゃんこれ? 手動のレバーとかいうの」
「力込め過ぎて折ったら流石にお姉ちゃん怒りますからね?」
 アユミの雑な動きと共に、うわっ! ほんとにロックが外れたよ、ゆっくりとだけど下りてるっ、このゴンドラまじかもう!!
「ほらサトリ君、不意打ちで横揺れするかもしれませんからもっとお姉ちゃんの方へ。外へぶん投げられてから後悔しても遅いですよ?」
「うっうわあ!?」
「ふふふよしよーし♪ いつもこれくらい素直に甘えてくれると嬉しいんだけどなあ」
 ヤバいこのままじゃいざって時に何もできないシスコン野郎の烙印をぐりぐりやられかねないけど、地上四〇〇メートルで暴風に流されるゴンドラの上でやれる事って何だ? 条件が厳し過ぎるよう!!
 その時だった。
「おつきさまだー」
 アユミが素っ頓狂な声を上げていた。いつものタンクトップと違って大きな名札がない分なだらかな胸元が危なっかしい。ずぶ濡れ姉さんの胸元にすがりついたミスターチキン野郎こと僕も震えながらそっちを見ると……確かに。今は天気雨みたいな状況なんだろうか。これだけの暴風雨の中、しっかりとまん丸のお月様が見えている。
 と。
 その月に照らされたからか。
 いいや、僕のスマホのライトとお月様、複数の光源を同時に浴びせたからか。
 ぬるり、と。
 枯草色のカエルみたいな質感。その上で躍るミステリーサークルが、またもや視界に入った。くの字のブーメランに似た形の、一五〇センチもある塊。マクスウェルの言が正しければ……地球外知的生命体。意外と近い。光沢は右に左に揺さぶられながらもゆっくり下る清掃用ゴンドラのすぐ隣、スカイツールの外壁にへばりついていたんだ。
 ただし驚いたのはそこじゃなかった。

 びっちりと、だ。
 それこそ隙間もない勢いで、膨大な数のデロデロが壁面を埋め尽くしていたんだ。

 ひっ、と息を呑む前に、姉さんのの胸元に抱き寄せられて口を覆われた。
「(……静かに)」
 パニック寸前の僕の耳に、吸血鬼の甘い囁きが注ぎ込まれてくる。
「(……向こうはまだ、見られている事に気づいていないようです。今まで襲いかかってくる素振りがなかった以上、こちらが知らないふりをしていればそのままやり過ごせるはず。逆に大騒ぎすると一斉に飛びかかってくるのでは?)」
 確かに。
 言われてみれば、最初にレストランの事務所でアユミが押し倒された時は、ホワイトボードに張り付いていたブーメラン状のデロデロへアユミが鼻先を近づけてでも正体を確かめようとしたからだ。あの時も、僕達が気づかなければあのままホワイトボードにくっついたままだったかもしれない。
 僕はスマホのライトを電波塔側から虚空へ振ってから、ゆっくりと消す。姉さんと一緒に、ひしめくデロデロから敢えて背を向ける。ゴンドラだって人数制限くらいある。あれがまとめて飛びついてきたらワイヤーが千切れかねない。
「(あれ、あいつら……今までもいたのかな? 僕達が展望台から外を見ていた時も、ガラスの裏側にびっちり……)」
「(どうでしょうね。あの模様で認識を阻害しているだけですから、光をそのまま透過しているとも思えません)」
「(つまり?)」
「(こちらの面、片側に集中しているのでは? まあ意図してバランスを崩しているとしたら、それはそれで問題ありですが)」
「(?)」
 スマホやプログラムの補助なんかなくても、姉さんは僕より先へ進んでいるようだった。
 ともあれ、だ。
「(気づいている事に気づかせないのが第一です。アユミちゃんには下手に教えない方が良いでしょう。そちらの方が『自然』に見えるでしょうしね)」
 これは『ベッドの下の斧男』などの猟奇殺人鬼を相手取った都市伝説と一緒。
 気づいた事に気づかれたらおしまいだ。
 黒いガラス板となったスマホの画面を鏡のように使って自分の肩越しに背後を確認すると、光源が月明かり一つになった事で、電波塔の壁一面で蠢く彼らを包む枯草色やミステリーサークルみたいな模様が闇の中へと消えていくところだった。
 そのまま深呼吸した。
 ……大停電で災害対策設備が動かない、そこにケタ外れの爆弾低気圧。確かに驚異的だったけど、それだけじゃなかったか。一体地上からてっぺんまで、どれくらいの数の宇宙人とやらがへばりついているのやら。チリも積もれば何とやらだ、その重さだって馬鹿にはできない。
 間近にいても、相手からの息遣いや匂い、体温なんかは全く感じられなかった。体を持たない幽霊とでも向き合っているかのようだ。
 ごん、がん、ガンッ! と。
 こうしている今だって僕達の乗ってる清掃ゴンドラが、つまり重さ一〇〇キロは超えるステンレスの塊ががつがつ電波塔の壁に当たっているんだ。なのにこいつら、身じろぎの一つもしない。何なんだ? そりゃアユミはいきなり押し倒されたけど、正直、これまでトラやライオンと比べたら危機感は薄かったと思う。そこにきてこの数、この脅威。食欲でも生存本能でもない。こいつら、自分が傷つく事を恐れていない。一秒後にどう動くかサッパリ読めない群衆の得体の知れなさは、じっとりとした寒気を背筋に浸透させるには十分だった。意味不明なカルトの祭壇に寝かされて両手両足を縛られたまま、ナゾの祈祷文をずーっと耳にしているような気分。これが生贄の支度なのか解放の手順を踏んでいるだけなのかも全く見えない。
 そもそも、だ。
 何でこいつらは無謀な脱出を目指す僕達をそのまま放っておいているんだ? こんな逃げ場もない狭い足場なら、ゾンビも吸血鬼も本領発揮できないままやられる一方のはずなのに。
 あるいは、目的は僕達じゃないのか?
 まさか……この東京スカイツールそのもの?
 と、画面を消したスマホ越しに背後をチラチラ確認している僕の足を、姉さんがそっと踏んづけてきた。
「(……サトリ君)」
 分かる。そうだよな、この動きは、自然なようで自然じゃない。特にずぶ濡れになって壊れたモバイルと格闘してる訳でもないのに、画面を消したスマホをいつまでもいじってるのは明らかにおかしい。言いたい事はすごく分かるけど、でも気にするなと言われて素直に気にしなくできる人間ならそのまんまハリウッドで主演を飾れる。ダメだダメだと強く思うほど、かえって人間の意識はそっちに引っ張られるんだ。
 管理したい。
 この恐怖を抑え込みたい。
 街中にカメラを置き、地下には膨大なトンネル網を敷いて、アークエネミー達が起こす『であろう』事件に先んじて備えようとした光十字の戦闘員や研究員もこんな気分だったんだろうか。あれと同レベルの行動だなんて考えるだけで反吐が出るけど、でもどうしても勝手に湧き出る恐怖と焦燥へ完全な歯止めをかけられない。
 自分の心の話なのに。
 だから繰り返す。自転車をお店の前へ停めた時に、何度も鍵の確認をするように。
 唯一助かったのは、間近で蠢くあいつらのおかげで大嵐の夜に頼りない清掃用ゴンドラで宙吊りにされる恐怖が薄らいだ事くらいか。本当に普通で何も知らなかったら、身も世もなく姉さんやアユミにしがみついて絶叫していたと思う。
 この辺は流石宇宙人……なのか? 地球の人間の生態にあまり詳しい訳じゃないのかもしれない。
 いいや、逆に。
 こいつらもこいつらで、気づいている事を気づかせないつもりでいるのか。もちろん確かめようなんてない。もう、どこからどこまでが騙し合いの範疇か分からなくなってきた。
「下の方、まだまだ全然見えないね」
 真っ暗闇の暴風雨の中、危なっかしい事に手すりから半ば身を乗り出すようにしてアユミが呟く。これもバカっぽい演技なのか、あるいは『忘れる才能』でもあるのか。何にせよ、腕力だけじゃあの光十字の地下を生き延びられたはずもないか。バカだけど、生きる事には手を抜かない妹だ。
 だけど、あれ?
 ちょっと待った。
「……下の様子が、見えない?」
「うん。夜目って言ってもピンキリだしね。お姉ちゃんの方はどう?」
「生憎と。光量ならともかく、大嵐で水のカーテンみたいになっていますからね」
 ……。
 そうだ、そうだよ。
 警察なり自衛隊なりは、変な模様を見せびらかす事でこちらの認識をすり抜けるブーメラン状のデロデロを封じ込めるために首都東京から人を締め出して暗闇で覆い隠した。
 なら、東京スカイツールを出て終わる問題なのか?
 というか。

 地上、は?
 ……電波塔一つでこれだけ宇宙人とやらが密集してるなら、暗黒世界と化した地上は今どうなっているんだ……?

 せり上がる。
 恐怖が。
 闇に沈んでいく体に抗う格好で胃袋だけが、下から持ち上がるようだった。喉から逆流しようとする絶叫を、渾身の力で生温かい腹腔の中へと押し戻していく。
 今さらイヤイヤ首を振っても事態は変わらない。清掃用ゴンドラには電気的な命令は通じない。非常用の手動レバーを引いてリールからゆっくりワイヤーを解放し、後は重力の流れに従って下へ降りていくのだから。
 いったん始めてしまった以上、後になってから上へ戻る選択肢はないんだ。
 ゴッ!! と。
 辺りを渦巻く暴風の様子も変わってきた。いよいよ辺りのビルの森へと僕達のゴンドラが沈んでいく。スカイツールの周りは意外と下町って感じで、あまり背の高い建物はない。つまり、それだけ深く下りていったって事。あれだけ焦がれた地上なのに、今じゃもうコンクリで手足を固めたまま夜の暗い海にでも沈められていくようだ。
「……見えてきた。ふぐう、濡れた地面が見えるよ」
 アユミはそんな風に言うけど、実際どうなんだ。理屈は分からないが、ヤツらは基本的に目で見ても追い切れないんだ。平和に見えるのはガワだけで、実は底なし沼のヘドロみたいに一面、一五〇センチ……獣大のデロデロで埋め尽くされているかもしれないんだぞ。
 自分のこめかみに銃口を押し付けて、引き金を引いた。今になってはるか昔のロシアンルーレットの成否が突きつけられる。目を見開いてもきつく閉じても、もう結果は変えられない。
 沈む。
 沈んで、とにかく沈む。
 そしてやたらと重たい金属音が一つ。
「……辿り着いて、しまいました、ね?」
 拍子抜けのような姉さんの言葉が、状況の全てを物語っていた。
 ここは普通のアスファルトの道路じゃない。スカイツールは地上から五階分くらいは巨大なショッピングモールや水族館なんかがくっついた巨大複合施設となる。僕達のいる、スカイツールの出入り口まわりはその五階建ての屋根の部分を利用した広大な屋上庭園って感じだった。人工の陸地の上に芝生とタイルを敷いて、公園っぽい造りに整えてある。
その硬いタイルの地面だった。
 呆気なく清掃用ゴンドラは到着し、動きを止めている。カエルみたいな肌のデロデロが下敷きにされて得体の知れない粘液を撒き散らしたり、四方八方から殺到してきたりする様子も……特に、ない?
 本当に地上はフリーだった? あるいは、わざと泳がせて僕達がブーメラン状の連中に気づいているか否かをテストしている? 状況が把握できないと素直に喜ぶ事もできない。
 が、そんな暇もなかった。
 きっかけはあの音だった。
 ぎぎぎギギギギぎぎギギギぎギギギギギぎぎギぎぎぎぎぎぎギギギぎぎぎぎぎギギぎぎぎギギギギぎギギぎぎぎぎぎギぎギギギ、と。
 これまでと同じく、それでいてはるかに重たく大きなスカイツールの悲鳴。思わず頭上へ視線を投げた時だった。
 頬に何か鋭い痛みがあった。
 手の甲で拭ってみると、この土砂降りの中でもべっとりと赤い液体がこびりついている。
「サトリ君っ!?」
「何か、ふぐ、何か降ってきてる!」
 ?
 姉も妹も大騒ぎだったけど、かえって当人の僕の方が自分の状態を把握できていなかった。
 ぐんっ、と両足首を横に引っ張られる。
 いいや、清掃用ゴンドラ自体が真横に引っ張られたのか。振り落とされるように濡れたタイルの上を転がされた僕の視界いっぱいに、ブランコやお寺の鐘付きみたいにいったん振られたゴンドラの側面部分が広がっていく。
「おにい……っ!?」
 アユミの叫びを最後まで聞いている余裕もない。妹に肩を引っこ抜かれるような勢いで腕を引かれ、間一髪でステンレスの塊から逃れる。
 今のは暴風のせい、じゃない。
 塔自体が歪んで、ゴンドラを振り回した……? ぎぎぎという不気味な音に際限がなくなっていく。破断したネジやボルトが降ってくるのか、タイルの上でオレンジ色の火花がいくつも飛び散る。真上だけを気にすれば良い訳じゃない。現に横殴りの雨なんだ。いったん大きく膨らむように撒き散らされた電波塔の破片が、ブーメランみたいに戻ってきて真正面から突き刺さる可能性もゼロじゃない。
 そう。
 東京スカイツールがコワれていく事での、破片。
「……れ、るぞ」
 つまり。
 つまり、だ。
「スカイツールが、折れる!! ちくしょ、マクスウェル、大至急シミュレーションのタスクを新規作成! どっちに向かって倒れるんだっ!?」

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