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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第五章

   1

 夜になった。
 とんとんと階段の方からやんわりした足音が聞こえてくる。吸血鬼のエリカ姉さんが下に降りてきたんだろう。
 が、リビングに入るなり薄いピンクのすけすけネグリジェ一枚しかない(!?)グラマラス姉さんは首を傾げていた。
「あら?」
 どうやら自分が何かする前から、料理を作る匂いが漂っているのが不思議でならないらしい。
 電気がないので明かりはない。
 かと言ってスマホを常に光らせておくんじゃもったいない。なのでひっくり返した透明なボウルの上に逆さにした懐中電灯を置いて簡易照明を作っていた。夜の工事現場なんかにある、雛祭りのぼんぼりみたいな形のアレをヒントにしてみた訳だ。
 肝心のご飯についてはガス台代わりのカセットコンロをテーブルに置いて、水道もストップしているからペットボトルの水を注ぎ、姉さんが昨日作り置きしておいたカレーで味付けしたら、後は常温でも保存しておけるジャガイモやトウモロコシなどの野菜をしこたまぶち込んでボリュームを水増し。
 電気や水道なしでお米からご飯を炊くのは流石に難易度が高すぎるので、主食はシメのうどんで代用しておく。
 これぞ必殺カレー鍋なんだけど、作ったのは僕じゃない。
「まあエリカちゃん、おうちの中とはいえ、相変わらずそんな格好しているの?」
 でっかい土鍋の面倒を見ているメガネの女性がおっとりとだけどたしなめるような声を出していた。
 言わずもがな、お隣の奥様ショウミさんだ。
「おばさまがこれを?」
「勝手にキッチンまわりに触ってしまってごめんなさい。ただ、早い内に処理しておかないとダメなものもありそうだったから」
「いえ、私も母のキッチンを借りているだけですし。うちの母もあなたなら安心して自分のテリトリーを預けられると思います。それにしても、へえ。敢えてジャガイモは皮つきで入れていますね、これ」
 見た目は和やか。
 水洗いしすぎない方が良いもの、熱を通すとビタミンが壊れてしまうもの。僕やアユミだとちんぷんかんぷんになってしまうような、そんな栄養素の話をやり取りしている。
 ……ただ、実を言うと色々と間一髪だった。もちろん井東さんの力で海風スピーチアを物理的に封殺できた事、事前にスキュラの口から雪の解決手段を聞き出していたのも勝算ではあった。
 でも、結局は人の感情だ。
 どれだけ合理的にメリットを説明したって、ショウミさんが納得してくれなかった可能性だってもちろんあった。『とりあえず』殺して完全に災いの芽を毟り取るって。
 極度の興奮で一時的にリミッターが切れていただけなら、いったん意識が途切れればニュートラルに戻る。
 それだって希望的な仮説に過ぎない。本当の本当に『いつもの』お隣さんに戻ってくれるかどうかはギャンブルだったんだ。
 けど、諦めなかった。
 この人は許しを与えられる人だ。
 そう信じて。
 この時間まで待っていたのは、もちろん吸血鬼の姉さんを自前の戦力に組み込みたかったから。それから、マクスウェルに情報収集と分析を任せる期間も与えたかった。
 工場なんかの業務用電源以外、一般家庭電源は完全に落ちているため、表の街灯すらなかった。リビングのテレビだって死んでいる。
 おそらく義母さん辺りが通販番組に手を出して物置に突っ込んでいたのを掘り返したんだろう。アユミが手にしている小型の防災テレビ(手回し発電機つき)に、両サイドから委員長や井東さんが肩を寄せ合って覗き込んでいた。キサマら揃ってカワイイの塊か。
『沖合いで火災を起こしている貨物船ノーブルインゴット号ですが、依然として火の手が収まる気配はありません。海上保安庁の消火艇からの消火作業が続けられておりますが、専門筋の話ではこれが単なる燃料火災ではなく可燃性のプラスチック原料を含むとなると、今後も自然鎮火までは時間がかかるという意見も……』
 女性アナウンサーの声がここまで聞こえてくる。
 今日もまた、同じ内容を繰り返すように。
 昨日も一昨日もそうだった。日付の違う原稿を渡したとしても、何の違和感も覚えずに読み上げていたんじゃないだろうか。
 そう、
「……そういえば妙だったよな」
 消防のプロが頑張っても、泡の消火剤じゃ船の火事は消せない。床を消火剤で埋め尽くしても、マイクロプラスチックの濃度によっては炎は空気を伝うからだ。
 けど、
「普通の水を使って放水を続ければ……。現場を漂う雪を絡めて落とせるはずなんだよな」
 火を消したければ、彼らに正しい情報を伝える必要がある。
 もっともらしい口振りだけど、世界の何にだってあてはめられる後出しの魔法だった。もしも最初から気づいていたら、もっと早く具体的なアクションに移っていたはずだ。
 だけど、ここからでも巻き返せる。
「マクスウェル、情報のまとめについてそろそろ話を聞きたい。それとももっと時間は必要か?」
『マシンに対して煽り演出を挟んだってパフォーマンスは向上しませんよ(´Д` )プンスカ』
 ……明らかに変化がありそうだと思うのは、無知な僕がキサマを擬人化しているせいなのか?
「沖で燃えてる貨物船は最初からJBが用意したオモチャだった。今も火の手が上がっているのは、意図的に孤立させた市内で動くスキュラに怪物を与えて支援するため。なら、一つ一つ確認していこう。……海上保安庁は? 海風の話だと、何も知らずに空回りしているような口振りだったけど」
『シュア。彼らは主に隣街の港からやってきている消火部門ですね。コンビナート火災などで地元の港湾設備が使えない場合、相互に協力するという取り決めがあるようです』
「隣街……」
 例の化学消火剤だって無限にある訳じゃない。港で積み替えをしているんだったら、そこまで行って話をするって選択肢もあったかもしれなかったんだけど。
「だとすると、直接向かうのは無理か」
『シュア』
「なら通信関係は? 僕とマクスウェルだってこうして繋がってるだろ」
『消火艇はかなり特殊な帯域の船舶無線を使っており、一般の携帯電話やインターネット経由で情報のやり取りを行う事はかなり難しいです。近頃は流出動画も珍しくありませんからね、プライベートな携帯電話やスマホは仕事前に集めて金庫で保管する決まりがあるようです』
「船なのにGPSも使っていないって言うのか?」
『失礼、連携のための業務用端末については警察消防まわりの特殊な鍵データが必要です。今から割り込むのは現実的ではありませんね』
 ……となると、だ。
「マクスウェル、ドローンを使いたい。沖の消火艇まで直接スピーカーで声を届ける。消火剤じゃなくて、海水を使うようにって」
『正体不明の助言を素直に聞きますかね? 彼らはマニュアルに従って上から順に指差し確認で行動しています。アドリブの挟まる余地はありませんが』
「今は何でも試したいだろ。放水で効果があるって分かれば、経験から彼らも学んでくれるさ」
 ドローンにも色々あるけど……この雪の中だとヘリや飛行機は飛べないって話は聞いている。
 僕が使うドローンはカトンボみたいな形のマルチローター型じゃなくて、スプレー缶の上にゴムの風船をくっつけたようなバルーン型だ。
 けど、やっぱり方向転換なんかには小さなプロペラを使う。モーターやギアに入り込んだマイクロプラスチックは悪さをするだろう。
 あまり長い距離は飛ばしたくない。
「……できるだけ海に近づこう。そこから最短でドローンを飛ばして、どうにかして海上保安庁に普通の放水へ切り替えるよう情報を伝える」
『妥当ですが、リスクがない訳ではありませんよ』
「例のJB、海風以外にもいると思うか?」
 僕達は揃って性悪金髪少女の方へ視線を投げたけど、床に直接座り込んだスキュラは首を横に振っていた。
「同じJBと言ってもそこまで強い繋がりはありませんわ。カリュブディス、別口で用意された貨物船やその防衛体制についての詳細は知りません」
「……、」
「待ってこのおばさん怖い遠ざけてっ!! ほ、本当です何も知らないのです!!」
 なんというか、扱いが分かってきたな。
 困ったらより強力なアークエネミーの井東さんか委員長母のショウミさんに任せよう。同じ悪党でも、ヴァルキリー未亡人(!?)のカレンよりは大分可愛げがある。
 こっちはそもそもJB自体が何なのか、定義もはっきり分かっていない。複数の犯罪者がネットワーク越しに協力し合っている、つまりシミュレータのフライシュッツを経由して繋がっているってニュアンスだけだ。今は切迫しているけど、雪の問題が何とかなったらこの辺もきちんと聞いておかないとな。
『JBがいないにしても、脅威はそれだけではありません。限界まで追い詰められた供饗市全域は深刻なモラルハザードに陥るリスクが高まっています。深夜の港ですよ? 何でもありではないですか』
 善良な市民なんて幻想か。
 誰に刺されたって死ぬ事に変わりはないんだ。気をつけないとな。
「ふぐ。でもさ、海上保安庁はプロなんでしょ? 消火方法を切り替えるだけで勝手に火が消えるなら自分達で気づかないのかな」
『一刻も早く火を消さないとならないという先入観と職業意識がどれだけ強固だと思ってんだバカの代表めですこの野郎そもそも頭の鍛錬をおろそかにしているキンニク系物理バカは具体的手段の他に法的なカベが何重にも折り重なり日本の公的機関は何かと自由な活動が制限されがちだという基本的な事実すら思い至らないのですかすっとこどっこいやる事ないならフローリングの木目でも数えてろです』
 唇を噛んだアユミが小刻みに震えていたので、そっと抱き締めておいた。ここはきちんとお兄ちゃんしないとダメな場面である。
 ともあれ、だ。
「……貨物船ノーブルインゴット号。こいつが鎮火すれば、全部終わる」
 海面すれすれを飛ぶ対艦ミサイルでもあれば一発で貨物船ごと沈めてしまえそうだけど、世の中はそんなに都合良くない。
 それに、
「貨物船の情報も集めないとな。もしも誰かが船の中に残っていたら。海上保安庁の人達にはむしろそっちで頑張ってもらわないと」
 海風は長い金髪の束を左右に揺らしてあちこちへ目をやり、周囲いっぱいを警戒するような感じで、
「相手はJB所属のキャストなのに、ですの?」
「それでもだ。スタンスは理解してくれ、口先だけじゃないのは黒幕一味のアンタと今こうして折り合いつけてるので証明したつもりだけど?」
 しかし、キャストか。
 スタッフ、エージェント、兵隊、社員、チームメイト、同胞、同志、駒、メンバー、盟友、呼び名は色々ありそうなものだけど……。
 ヤツらの間では、フライシュッツはどう呼ばれているんだろう。魔弾の射手。それもオペラのお題目ではあるけれど。
「とにかく夜の港か」
 ドローンは何機あったかな。
 JBの伏兵、限界に達した街の人達、マイクロプラスチックの雪。……はっきり言って妨害要因が多過ぎる。一回で成功するなんて考えない方が良さそうだ。
「……あの雪には、泡を使う化学消火剤より普通の放水の方が効く。沖の消火部門と話をつけて、貨物船火災を本当の意味で止めてもらわないと」

   2

 様子が変わってきた。
 ざあざあという音が屋根を叩いてきたんだ。
「雨だ……」
 リビングにいるアユミは窓の方に目をやって、
「これで貨物船の火事も消えたら良いのに」
「そんな都合良くはいかないさ」
 空気を漂うマイクロプラスチックを絡め取る、ってだけならある程度は効果があるかもしれない。でも、雨が降っているから大丈夫って理屈で消防隊が燃え盛る家から撤収するなんて話は聞かない。やっぱり消火艇の協力は必要だ。
 雨で水分を吸ったら街中でマイクロプラスチックが燃え広がるリスクは大幅に減る。これ自体は恵みの雨として歓迎するべきなんだろうけど。
「それよりアユミ、準備の方は済んだのか?」
「ふぐ」
 イエスかノーかいまいちはっきりしない返事なので(夏休みの宿題は最後にやる系の)妹の肩紐が一つしかないリュックを漁って荷物チェックを手伝ってみると……こいつこの野郎、やっぱり終わってなかった。
 針や糸、消毒薬に防腐剤と、こう見えてゾンビは色々ケアが大変なアークエネミーだ。特に今は、マイクロプラスチックが絡みついた雨が降っている訳だし。本来だったら外出させるべきじゃないかもしれないくらいだ。
「お前バカの称号を返上したかったら自分のバッグの面倒くらい自分でだな……」
「勝手にべたべたレッテル貼ってきてんのはお兄ちゃん達でしょお!?」
 涙目の妹の荷物整理を手伝ってやりつつ、やるべき事を見据える。
 貨物船ノーブルインゴット号の火を消す。
 そのためには、正しい事をしているつもりで空回りをしてしまっている消火艇の人達に、火を消すならむしろ普通の放水だって情報を伝えないといけない。
 この雪の中だと、ドローンも飛ばしにくいかもしれない。墜落のリスクを少しでも減らすなら港に向かい、最短距離を飛ばすべき。
 それで供饗市を覆い尽くすマイクロプラスチックの雪の問題にケリをつける。
 実際に足を運ぶのは、僕、アユミ、エリカ姉さん、井東ヘレンに海風スピーチアだ。
「それじゃバカの準備も終わったし、行きますか」
 限られた水で効率的に食器洗いをしていたショウミさんがリビングへ顔を出してきた。
「本当に大丈夫……? やっぱり警察を頼るべきじゃあ」
「そいつらの機能も一緒に取り戻してきます。そうしたらバトンタッチしますから、だから心配しないで」
「……、」
 引き止めようとするこの人も、本当は警察が使い物にならないと知っているはずだ。……だから自分の手を汚してでも娘の安全を守ろうとしたんだから。
 一方。
 メンバーに選ばれなかった委員長は複雑な目でこっちを見ていたけど、ここだけは譲れない。というか、今委員長を危険な外に連れていくなんて話になったら芋づる式にショウミさんがピリつく。リミッターの話はあくまでも一時的なもの、あの怪力をいつでも自由に頼れるなんて考えちゃいけない。
 それからもう一点、
「ほら行くよ海風」
「うう、やっぱり私にJBを裏切れと迫りますのね……」
 そりゃ警視庁の留置場であっさり射殺されたご同輩を考えればおっかないだろうさ。
 でも、それなら、
「(ここにショウミさんと一緒に残るのとどっちが良い?)」
 金色の髪に彩られた耳元で魔法の言葉を囁くと、それこそスキュラはズビシと直立不動になった。
 ……海風が信用ならないのは僕だって同じだけど、だからこそ委員長一家には置いておけない。万に一つでもリベンジが起きたら怖いし、それ以上にショウミさんの疑念が再発したら海風はその場で八つ裂きにされかねない。今はにこにこしているけど、それは知り合いの僕達が安全を担保しているからでしかないんだし。
 あの人は、娘のためなら何でもやる。
 そういう『普通』の人なんだ。
 エリカ姉さんが玄関から声を掛けてきた。
「傘の用意ができましたよ。ちゃんと人数分以上はあるようです」
「……何でウチは五人家族なのにこんなに傘が増殖するんだ?」
 雨が降り始めたのは予想外だったけど、かと言って予定は変えられない。
 供饗市はもう限界だ。
 今日はまだJBの海風が扇動していたけど、明日はどうなるか誰にも分からない。黒幕の野望もフライシュッツの計算も関係なしに、火種なんてあちこちにあるだろう。本当に怖いのは何の陰謀も黒幕もなく、ただ自然発生的に大規模な暴動が街を埋め尽くす展開だ。原因がなければ火消しの方法も見つからないんだから。
 だから、そうなる前に。
 供饗市の閉鎖を解いて、自由を取り戻す。
「それじゃあ委員長、ショウミさん、行ってきます」
「本当に、気をつけてね……」
 何だか不安げな委員長に見送られて、色とりどりの傘を差した僕達は夜の街に繰り出す。
 ぼたぼたと。
 傘に当たる雨粒の音がやたらと重たいのは、やっぱり空中を漂うマイクロプラスチックをたっぷり巻き込んでいるからか。見れば、傘の表面は黒に近い灰色に汚れているのが分かる。
 ドローン、大丈夫かな。
 雨粒に撃ち落とされるとは思わないけど、予想外の誤作動の一因くらいにはなるかもしれない。
「足元の感じが変わってきましたね、先輩」
 背丈に合わない大きな傘を差して雪をざくざく踏みながら、井東さんが首を傾げていた。
 空気を溜め込む事で可燃性を持つのも問題だけど、水を吸ってぺしゃんこになると性質が変わる。
 全体的に重く、硬い。
 たっぷり水を吸った羽毛布団と同じ理屈だろうか。めきめきめき、という鈍い音が響いていた。見れば、近くの家の庭にある太い木が雪の重みで半ばから折れていくところだった。
「……家の屋根も、負担にならないと良いですが」
 コウモリ傘のエリカ姉さんには悪いけど、確実にダメージは入ると思う。
 足元も沈まずに、滑る。まるで一面に濡れた落ち葉を敷き詰めたように不安定だった。車やバイクがスリップしないと良いけど……。
 やっぱり供饗市は、長期戦になんか耐えられそうにない。
 マイクロプラスチックの雪に蹂躙されるがままじゃ、やがては街の形もなくなってしまう。
 目的地は海沿いだけど、海水浴場がある繁華街の方じゃなくてコンクリートで固められた工業地帯の方だ。マクスウェルの本体が置いてあるコンテナヤードの方でもある。
 道すがら、海風から話を聞き出してみると、
「じゃあヒュージカメラの辺りであった、浄水器のデマも?」
「本格的に私が集団を率いるためのデモンストレーションと、それから外部に敵を作るのが目的でした。身近に不安がなければ学校で固まって武装しようなんて思わないでしょう?」
 ……なんて事だ。
 僕達は街を守るために体を張ったつもりで、実際にはJBとかいう連中に人心掌握のデータ収集に協力していたって訳か。
 黒いコウモリ傘をくるくる回すエリカ姉さんは慎重な口振りで、
「……だとすると、あなた以外にも供饗市の中にはJBが紛れているのですか?」
「さあ? フライシュッツ経由のネットワークでは通じていましたが、実際の顔触れまでは存じません。分かっていたら、最初からそちらを頼っていましたわ」
 これについては嘘じゃないと思う。
 後輩の井東さんから猛毒を喰らった時もそうだけど、それ以前に、学校占拠の時から海風は一人で暗躍していた。互いに通じ合っている仲間達がいたら、もっと身元がバレない方法で学校を支配していたと思う。共犯者がいればアリバイなんか作り放題なんだし。
 JB。
 デカい組織の割に実態が見えないというか、仲間同士の繋がりが分かりにくいんだよな。アブソリュートノアの時は『世界滅亡を乗り越える』っていう極めて分かりやすい餌があったけど、こいつらはどういう利害や信念で結びついているのやら。
「……ジェイルブレイクですわ」
「脱獄?」
 そのままの意味で受け取らなかったのは、僕が機械にうるさいギークだからか。
 元々はスマホ絡みで自分から企業が設定した保護の外へ出て、自分のモバイルを自由にカスタマイズする行為だ。やる事全部サポート外の自分の責任、便利なフリーソフトと思ったら丸ごとウィルスだったなんてのは当たり前の世界だけど。
 ぽつりぽつりと、海風はこう洩らしたんだ。
「……ええ、退屈な世界からの脱獄。天津君、あなたは世界が一〇進法で回っている事に疑問を持った事はございませんか?」
「何で?」
「一日は二四時間、一時間は六〇分、一分は六〇秒で回っているのに? 一週間、一ヶ月、一年でも良い、どこに一〇でワンセットなんて単位があるのです?」
 悪い金髪少女はくすりと笑って、
「一キログラムが一キログラムであるのはどうして? 一メートルが長さの基準となっているのは? 当然、一つ一つにはもっともらしい理由や逸話がついていますけれど、実際には建前でしょう? ドルが全世界の為替の基準になっているのは、そうした方が得する者がいるから。英語が世界共通言語になっているのだってそう。日本人が英文でプログラムを打っているのに疑問は持ちませんか? 中国人やインド人だって英文のプログラム言語を使っています、右向け右でね。メートルやグラムも同じ事。誰かが搾取しやすいように、この世界は『設定』されている」
 人間がアークエネミーを管理する方が便利だから。
 そうやって歪んでいった旧光十字みたいな話が、もっと広い範囲で?
「故に、私達JBは世界の見方、当たり前に信じられてきたモノの定義に疑いという一石を投じます。あらゆる先入観を廃して全てを一新して、どこかの誰かの既得権益に縛られない自由な世界を構築する。それがジェイルブレイク。誰もが疑問も持たずに受け入れている、見えざる支配の外にある『脱獄』ですわ」
「下から見上げるピラミッド?」
「そういう意味では、世界中から特権階級をかき集めて災厄を乗り越えようとしたアブソリュートノアとは真逆ですわね。私達JBは、そういう上から目線の手前勝手なルールの押し付けを最も嫌う」
 ……もちろん敵対するJBの言葉だ、どこまで信じて良いのかは未知数。客観的な証拠が出てくるまでは鵜呑みにしない方が良い。
 最悪。
 シミュレータ・フライシュッツが効率良く人間を誘うために構築したテキストって線も捨てきれないんだし。
 ただ、こいつらの言う支配は、どこの誰がやっていると想定しているんだろう。
 人間か、アークエネミーか。
 あるいはヴァルキリー・カレンのような、未だに謎の多い神様連中か。
「中心にいるのがアンタ達がフライシュッツかは知らない。だけど現実として、JBがやっているのはこの騒ぎだ」
「……、」
「スマホの脱獄は何も知らない一般ユーザーにウィルス感染やアカウント乗っ取りのリスクを押し付ける。安全に囲っていたネットワークにわざわざ風穴を空けて、悪意あるプログラムを呼び込む形でな。……アンタ達だって同じじゃないのか。顔も知らない人間の自由のために他のみんなの安全が脅かされるなんて話を聞いたら、普通は無抵抗に受け入れたりなんかしないよ。得体の知れない既得権益はあるのかもしれない。けど、アンタ達が押し付けたのだって重荷は重荷なんだ」
 答えなんか出ないのかもしれない。
 とにかく僕達は濁った雨の降りしきる街を歩いて、海に向かう。
 傘の下でごくりと喉を鳴らす井東さんは、
「……いよいよですね、先輩」
「ああ。もう九時だよ。僕は井東さん家の門限が具体的に何時か知らないけど、どうか本気のカミナリが落ちる前には帰してやりたい……」
「急に現実の問題を持ち込むのやめませんか!? あっ、ああ! これほんとにどうやって説明したら良いのやら!!」
 ……むしろ大事な娘さんをこんな事に巻き込んだんだ、井東家の大黒柱にぶん殴られるのは僕の方だと思うんだけど。まあ、これについては言及すまい。
 後でこっそり謝りに行って、そしてカワイイ後輩ちゃんの知らない所で気持ち良く殴られよう。
 と、
「おおお、よるのみなとだ」
 小さめのビニール傘を軽く振りながら、アユミが何やら軽く興奮していた。まさかストレートに工場見学動画にどハマりしているとは思えない。となるとこいつ、最近刑事ドラマかギャング映画でも観たのかな。
 港自体は稼働していない。
 湾全体が消火活動で封鎖されているから、船の出入りはできないんだ。
 でも、コンテナや倉庫には価値ある品もある。
 一般電源が切れて街灯も点かないとはいえ、いやだからこそ、流石に夜間警備くらいはいるだろう。でないとここに置きっ放しだったマクスウェルのコンテナも雪の重みで潰されていたはずだ。状況的には厄介だけど、でも感謝の念を忘れちゃならない。
 狙い目は……あった。
 外周を囲む高いフェンスの裂け目。確か、フォークリフトが突っ込んでそのまんまになっているって話だったけど。
「こっちだ」
「うげえっ、傘畳まないと通れないじゃん。ドロドロの雨が降ってんのに」
 マクスウェルの本体を置いているから、勝手知ったる場所でもある。こんな時でなければゲートのおじさんに一言挨拶していきたいくらいだった。
 フェンスの抜け穴を潜ると大きな倉庫や山のように積まれたコンテナの隙間を縫い、水で潰れて重たくなった雪を踏みつけて、埠頭に向かう。
 とにかく最短距離。
 そう考えるとマクスウェルの置いてある辺りからは少し外れる。車に乗ったまま乗り降りするため広いスペースを確保してある、フェリー乗り場の方だ。
 雪が積もり、雨でどろどろになった一面には車がたくさん並んでいた。
 船も係留されているけど、人がいるようには見えない。
「ふぐ、車の会社が新車を持ってきたまま放置、って訳じゃなさそうだけど」
「逆かもしれないな。フェリーで街の外に出ようとしたけど船が動かなくて立ち往生って線もありえるし」
 街灯が死んでいるので基本的には真っ暗だけど、海の方だけ不自然に明るかった。夕焼けみたいなオレンジの光が揺れている。思ったよりも近い。水平線より手前側だから……三キロもなさそうだ。都会ならちょっと一駅って感じの距離感だった。
 貨物船ノーブルインゴット号。
 JBのスキュラを活躍させるために用意された災害ガジェット、カリュブディス。
 今も燃え盛る、全ての元凶だ。
「……それじゃ、派手におっ始めるか」

   3

 炎上中の貨物船ノーブルインゴット号だけど、実際にはマイクロプラスチックの雪と化学消火剤は相性が悪く、海上保安庁の努力は空回りしている。船を泡だらけにしても、濃度によっては炎が空気中を伝うから封殺しきれないんだ。これについては、下手に特殊装備なんか使わずに海水を使って放水すれば火は消える。空気を漂う雪は、水で絡めて落とせるんだから。
 ただ、雨だけじゃ足りない。
 やっぱりプロの手が必要みたいだ。
 ここからドローンを飛ばして、それを沖の消火艇に知らせないと……。
「具体的にどうすんの?」
 アユミの今さらな質問だった。
 逆に何も知らずにここまで来たって事はそれだけ信用してくれてるって裏返しなのか?
「……いや違うな、こいつはバカが一周回って深い事言ってるように聞こえる理論だ。きっと意味なんか何もないぞ」
「質問に答えろよう!!」
 涙目のアユミの前で、僕は自分の荷物を広げていく。
「サトリ君、傘」
「ん」
 姉さんのコウモリ傘に入れてもらいつつ、作業続行。とは言ってもヘアスプレーくらいの金属缶のスイッチを押して風船を膨らませていくくらいだけど。
 やっているのは学校で騙し討ちに使ったのと原理は一緒だ。
 一メートルくらいのラグビーボール型。
 バルーンを使う場合は省エネできるんだけど速度を稼げない。だけど、あまり長い間浮かばせていると誤作動リスクも上がってしまう。苦肉の策だった。今回はカスタムして飛行船型にしておいた。
 スマホで操るから、専用のコントローラもいらない。
 小さなモーター二つとガスの出し入れで前後左右に操る訳だ。
 試しに手を離して浮かばせてみると、
「おおっ、なんかすごいです先輩」
 もったいない。スマホコントローラで両手が塞がっていなければ、身を乗り出して目をキラキラさせている井東さんの頭を思う存分撫で回す事もできたのに。
 さておき。
 最初だからちょっとじっくりやってみたかったけど、マイクロプラスチックの雪や重たい雨粒はモーターを誤作動させるリスクがある。このまま本番、とした方が良さそうだ。
 トラックの屋根を飛び越すくらいの高さをキープしつつ、飛行船に似たドローンが暗い海を進んでいく。カメラはついているけど、僕は何故か機材の後ろを見送っていた。
 ……海上保安庁の消火部門がどれくらい僕達の言う事に耳を傾けてくれるかは未知数だけど。でも、何もしないよりはずっとマシなはず。
 届け。
 無事に届け。
 そう思っていた。
 直後、ザリザリ!! というノイズがスマホから響く。
「ふぐっ? 落ちるよお兄ちゃん!!」
 アユミが慌てて叫ぶけど、失敗自体は珍しいものじゃない。大事なのはどうして失敗したかだ。これを突き止めないと、予備のドローンも全部無駄に潰してしまう。カメラの映像を可能な限り精査していく。
 すると、
「……撃ち落とされた? みんな注意!! 車の陰に隠れて体を小さく

「へえ。貨物船にちょっかいを出すのは予想外だったな」

 突然の声。
 ゴンッ!! という金属のひしゃげる音が横手から響き渡った。しかも一つじゃない。サッカーグラウンドみたいに広い駐車場にお行儀良く並べてあった車の群れが、屋根を撃ち抜かれていく。車列がまとめて潰され、蜂の巣状の大穴が直線的に這い寄って、こっちに迫る!?
「サトリ君っ!!」
 姉さんに腕を引っ張られ、二人して汚れた地面を転がった。
 宙を舞ったコウモリ傘が、地面に落ちる事なくズタズタに裂けていく。
 音がひずむ。潰れてひっくり返るスクラップが、派手に爆発していく。雨が降ってマイクロプラスチックが潰れていなかったら、どこまで火災が広がっていたか分かったものじゃない。
 車を盾に、なんて言っていられるレベルじゃなかった。自動車が鉄の壁じゃなくて爆発物にしか見えない。あれじゃ一緒に叩き潰されるのがオチだ。
 それにしても。
 そもそも一体何が起きた? ガトリング砲を抱えたステルス機でも横切ったのか!?
「JBとしても興味深いけど……ああ、そういう事か」
「うう……」
 少し離れた場所で地面に手をついて這いずっている、いいやどさくさに紛れて逃げようとしたのか、海風スピーチアがびくりとお尻を震わせていた。
 声の主が言う。
「身内が情報を洩らしていた、と。道理で駒がありえない動きをする訳だ」
 というか、だ。
 係留されたまま放置されているフェリーのサイドデッキ。
 そこからこちらを見下ろす影に、見覚えがあった。
 赤毛をポニーテールにした、小麦色に日焼けした少女。服装はぶかぶかのタンクトップにハーフパンツと、バスケの選手みたいだ。
「……ヒュージカメラの?」
 暴徒達を扇動するため、刺激物をばら撒こうとしていた少女。
 確かに、JB側の人間ではあるけれど。
「とはいえ、裏切り者を捕まえて裏切りまで導いたところも含めて、フライシュッツの予測を超えたとも言えるのかな。やっぱり天津サトリ。我々JBにとって、あなたが最後の関門だ」
 他の人達はどうした。
 アユミは、井東さんは?
 探っている事を気取られたらまずい。だけどどうやっても裏目に出るような気がする。
「何にせよ、ここまで来て良かった」
 ぎゅっと。
 赤毛のバスケ少女は何もない虚空を掴むような仕草をした。
 いいや違う、
「わたくしは、あなたを殺すためにここまでやった。ならば成果をいただかないとな」
 マイクロプラスチックの雪は、条件次第では激しく燃える。ギロチンの刃のように固まる事もある。そいつは重々承知していたつもりだった。
 けど。
 まさか形を整えて、ロケット花火みたいに真っ直ぐ飛ばしてくるなんて……!?
「お、同じJBでしょう!? 私まで巻き込むつもりですか、蛍沢ケズリ!!」
「残念だけど、あなたの優先順位はかなり低いよ。わたくし自身、JB全体からどう評価されているかは知らないがね」

 キュガッッッ!!!!!! と。
 砲弾みたいな勢いで、何かが飛んだ。

   4

 正直に言って。
 転がるだけの僕には何もできなかった。
 相手は戦車砲みたいな勢いの砲弾をマシンガンのように連射できるんだ。マイクロプラスチックがある限りは素材にも困らない。
「っ」
 吸血鬼の姉さんが、僕を抱き締めたまま真横へ転がっていく。ついさっきまでいた場所が積もった雪どころかコンクリートまで大きくめくれ上がる。辺りにある車なんかでっかい爆弾にしか見えない。
 爆発と煙がひどい。
 どろどろの雨なんか忘れてしまいそうだ。
「(サトリ君、最優先はキルケの魔女です)」
「井東さん?」
「(スキュラより格上だったあの子が睨みを利かせていたから、海風スピーチアは大人しくしていたんです。ただでさえ蛍沢とかいうのだけでも厄介なのに、さらに海風が戦線復帰したら面倒極まりない事態になるでしょう)」
 そうだ、そうだよ。
 海風は決して侮れるアークエネミーじゃないし、別に改心して仲間になった訳でもない。機会があればJBに帰るはず。蛍沢ケズリとかいうのからは見捨てられたような言われ方をしていたけど、だからって海風がどう受け取るかは分からない。
 JBに敵意を向けて僕達につくか。
 JBにすがって僕達を攻撃するか。
 どっちも怖くて海にでも逃げ出すか。
 思い出したように委員長宅に戻ってリベンジでも始めるか。
「……読めない。あいつあの野郎、このまま野放しになんかできない!」
「おや天津サトリ君、わたくしを放置とは余裕だな」
 ありえない方向から声があった。
 頭上。
 蛍沢っ。フェリーのサイドデッキから、飛んだ!? マイクロプラスチックの爆発力でも利用したって言うのか!!
 しかもその手には、ギラリと光る刃があった。包丁や果物ナイフなんてサイズじゃない。彼女自身の身長よりも大きな、両刃の剣だ。
「サトリ、君!!」
 姉さんが倒れたまま僕を突き飛ばした。エリカ姉さん自身は逆の方向へ転がっていく。
 二人の間に。
 流星が落ちる。
「かっ……!?」
 直撃は避けたはずなのに、呼吸が詰まる。衝撃で水に濡れたどろどろの雪が弾け飛び、散弾みたいな勢いで全身を叩かれたのか!?
「ふむ。便利だが、やはり強度に問題があるか」
 バキバキに砕けた大剣のグリップを、蛍沢はバトンでも取り扱うようにくるくると回す。あんなものでも、割れたビール瓶よりは危ないはず。
 赤毛のバスケ少女はこちらに向き直りながら、
「とはいえ、使えるものなら何でも良い。ボールペン一本でもあなたを殺せれば、わたくし達JBの勝利だ。天津サトリ君?」
「ああああアッ!!」
 後ろからだった。
 人間の二〇倍の筋力を持つエリカ姉さんが、蛍沢ケズリの腰の後ろ目掛けて勢い良く体当たりを叩き込んでいく。
 直撃すればバイクに撥ね飛ばされる以上の破壊力。
 だけど、バスケ少女は振り返りもしなかった。
 グリップだけになった残骸を後ろに回して吸血鬼の肩に突き刺すと、それこそ取っ手か何かのように振り回す。グリップごとぶん投げる。
 轟音があった。
 そのまま近くのトラックの側面に叩き込んだんだ。衝撃でステンレスの箱型荷台がべっこりとへこみ、タイヤが横滑りするのが分かる。
 けど。
 なんだっ、今の!?
 駅前の繁華街じゃあっさり人の波に押し潰されてたのに。まさか、十分に手足を振り回すスペースさえあればここまでやるっていうのか!?
「姉さんッ!?」
「わたくしはあなた以外に興味がない」
 ずいっと。
 無造作にバスケ少女が踏み込んでくる。
 ちょっと顔が動いたら唇と唇が触れてしまいそうな至近まで。
「だからあなたから伝えておくれ。余計な事は、するなと。さもないと犠牲は増える一方だぞ」
「……っ!!」
 縛られるな。
 選択肢を狭めるな。
 罪悪感や悪い予感を誘発させて、こっちの手をガチガチに固めるのは手品師にありがちなやり方だ。五枚のカードがあって自由に選べるはずなのに、気がついたら相手の望む通りに手を動かしている。そんな風になったら勝てるものも勝てなくなる。
 軍用規格のシミュレータ・フライシュッツ。
 ……明日の天気や敵味方の動き、兵器の設計や戦争する事での経済影響、果ては映画やドラマによる大衆扇動効果まで。軍用って言っても色々あるから全貌は見えないけど、でも、蛍沢の言葉には『何か』があると考えるべきだ。
 おかしいんだ。
 具体的に何がって言われたら困るけど、こいつがヒュージカメラの近くで暴徒達を煽っていたとしたら、やっぱり何かおかしいはずなんだ。だから思考を切るな、諦めるな!!
「天津サトリ君」
 近い。
 近過ぎて、かえって蛍沢が何を仕掛けてくるか、見えない……!?
「諦めても良いし、抗っても構わない。どっちみち、最後には同じ末路に辿り着くだろうからな」
 ばぢっ、という誘蛾灯みたいな音があった。
 スパーク。
 そうか、電気を溜め込むコンデンサにもプラスチックは使われている……!!
「賢明な判断を求めるよ」

 ドンッッッ!!!!!! と。

 それこそゼロ距離の落雷。
 鼓膜っていうより、背骨全体を掴んで揺さぶるような爆音だった。
 呼吸が詰まる。
 ちくしょっ、火に矢に剣に雷に、こいつのマイクロプラスチックはRPGの魔法かよ!?
 けど。
 ……生きて、る?
「先輩!!」
 横からひっついて僕の体を吹っ飛ばしたのは、高圧電流じゃなくてカワイイ後輩井東ヘレンだったんだ。そのせいで間一髪、避けられた。稲光は何もない空間を突っ切って車のボディに突き刺さり、電気分解なのか高温なのか、表面塗装を丸ごと変色させている。
 ただし。
 蛍沢ケズリの方に、焦る様子はない。
「なるほど。そいつが追加の犠牲か」
「っ!?」
「先輩ダメです、呑まれないで!!」
 呼吸が荒い。頭の後ろが痺れるようだ。くそつ、プレッシャーで過呼吸にでもなりかけているのか。
「……アンタ、アンタ一体何者なんだ? そりゃJBにはスキュラなんていうアークエネミーも交じっているようだけど」
「種族の話をしているのかい?」
 くすりと笑って。
 蛍沢ケズリは、肩にかけたドラムバッグに手を突っ込む。
 出てきたのは、ソフトボール大の塊。
 あれが空気を溜め込んだマイクロプラスチックなら、やっぱり爆発する……っ!?

「ただの人間だよ」

 投げ込まれたのは、手榴弾よりとんでもない爆弾だった。

   5

 爆発と衝撃波が立て続けに炸裂した。
「だいじょうぶっ」
 黒煙にドロドロした雨。
 井東さんは転がって横倒しになったワンボックスの陰に僕を引っ張ると、そう話しかけてくれた。
「見境なしの攻撃ならさほど怖くありません。先輩のお姉さんも無事に行方を晦ませたっぽいですし、人質にされる心配はありません!」
「アユミはっ?」
「外から警備の人達がやってきていますから、そちらの対処に。ええと、かなり荒っぽい手段みたいですけど」
 首の後ろにチョップでもしてんのか。まあ民間の警備員だと警官と違って鉄砲なんか持ってない。この状況で普通の人達が現場にやってきても蛍沢の言う通りだ、いらない犠牲を増やしてしまう。
 ともあれ。
 そうなると怖いのがアークエネミー・スキュラ。海風スピーチアか。井東さんが僕にかかりきりだと、あいつが野放しになってしまう。
 フライシュッツはどこまで読んでいるんだろう。蛍沢は僕達がここに来た事自体には驚いていたようだけど。
「おかしかったんだ……」
「先輩?」
「僕はあいつを見た事がある。繁華街で暴徒達を煽るために顔を出してた。けど蛍沢にあんな力があるなら、僕は絶対返り討ちに遭っていた。というか、そもそも暴徒達なんか利用する必要もない、力業で街を壊していけば良いじゃないか」
「その、アークエネミーとしての力を隠したいから、とかでは? 例えばキルケの魔女の力を使ってこっそり金庫を開けたら、私がやりましたって教えるようなものですし」
 ……ヤツは自分は人間だって言っていたけど、井東さんはひとまず保留のスタンスを取るようだ。確かに敵の言葉を鵜呑みにするのも馬鹿馬鹿しい。
 ただ、
「それって、予想外のトラブルが起きても? 溺れる者は藁をも掴むじゃないけどさ、気絶の寸前までいったら思わず出ちゃうんじゃないかな。正体が」
 バン! どどんっ!! という鈍い爆音が連発していた。
 蛍沢が適当に障害物を吹き飛ばして回っているのか、アユミや姉さんが飛びかかっているのか。
「……確かに蛍沢の力は怖い。でもあれは、きっと条件を選ぶ代物なんじゃないかな」
「えと」
「準備に手間がかかるとか、特定の時間や場所でしか使えないとか。少なくとも、夜の繁華街じゃダメだった。それならこのフェリー乗り場にあるぞ、ヤツが命を預けている条件っていうのが!」
 思い出せ。
 JBの蛍沢ケズリ。あいつが最初に攻撃したのはいつどこで何を、だった?
「あのフェリーそのものが蛍沢の秘密基地なんでしょうか?」
「悪くないけど、きっとフェリー自体は普通に海が封鎖されて捨てられただけだ。大仰な計画に組み込むには弱い」
 けど多分、方向性は合ってる。
 横倒しになったワンボックスの端から奥の様子を窺う。爆音や地響きはひどいけど、蛍沢がどこにいるかは分からないな。つまり向こうからも見えていない、と思う。
「マクスウェル」
『シュア』
「海まで行きたい。スクラップ、炎、煙に雨。何でも良いから爆発の音源からは見えないコースを検索してくれ。画面に重ねてもらえると助かる」
「海って、先輩?」
「多分答えがある」
 派手な爆発があったタイミングでワンボックスの陰からそっと出た。身を低くしたまま別の車の裏に飛び込む。
 後はこの繰り返し。
 フェリーのすぐ近く、暗い暗い海の向こうにはオレンジ色の光がある。沖で燃えている貨物船だ。
「……最初に攻撃されたのは僕が飛ばしたドローンだった」
「それが? JBとしても放水の件をクリアされて火を消されたら困るんじゃあ」
「蛍沢の言い分を全部信じるのも癪だけど、貨物船火災やマイクロプラスチックの雪は手段だろ。目的は僕を確実に殺す事だった。……なら、奇襲の一番手に僕が狙われなくちゃおかしい。実際、あの時点なら背中を丸めてスマホとにらめっこしていた僕なんて簡単に撃ち抜かれて即死だっただろうし」
「……あれ?」
「だとすると、蛍沢はたくさんある標的からドローンを選んだんじゃない。ドローンしか見えなかったんだ」
 このドロドロの雨の中、蛍沢がいつ来るか分からない襲撃者のためにずっと外にいるのもおかしな話だ。
 おそらく何かに引っかかり、慌てて表に出てきた。
 だから、本当に最初にドローンを見つけたのは、サイドデッキの蛍沢じゃない。別の何かがドローンを見つけてフェリー船内の蛍沢に知らせたんだ。
 だとすると。
『そいつ』は一体どこにいるのか。
「辺りは停電していて明かりなんかない。沖で燃えてる貨物船の方が目立つんだから、波止場にいた僕達はほとんど闇に沈んでいたはずだ。だから、ヤツからは見えなかった」
 言いながら、僕は予備のドローンを取り出した。ただしスプレーでラグビーボールみたいな風船を膨らませる必要はない。むしろ通信装置とカメラだけ毟り取る。
「つまりだ」
 蛍沢ケズリが本当に人間なら、ヤツに超常の力を貸し与えている存在が別にいる。アークエネミー、いいや、それとは別枠の神様かも。確かブードゥーのボコールは神を操って力を吸い出していたし、宇宙船のクイーンは神が丸ごと組み替えられていた。今回がどんな方式かは知らないが、必ずいるんだ。
 源が。
 当然、JBの蛍沢としては絶対に知られちゃならないはず。

「ヤツは海の上にいた。明かりを消した小型のモーターボートか何かに乗せておけば、この暗がりなら見つからない。よっぽど近くまで接近されない限りはな!!」

 だから、だ。
 だから蛍沢ケズリは繁華街で超常現象を使えなかった。海辺でないとダメだった。
 貨物船と消火艇のせいで沖には出られないけど、湾の中だけなら船は使えるんだ。意味がないから誰もやらないだけで。闇に紛れておけるのは夜だけだから、昼の間はどこかに係留して大人しく振る舞っているのかもしれない。
 切り札なんかなくても大丈夫だろとタカをくくって、街中で手痛い失敗を経て、あいつはホームの海辺に陣取るようになったのか。
 ともあれ。
 丸めたカメラと通信装置を、暗い海に向かって野球ボールの遠投みたいにぶん投げた。
 途端に、
「そこか天津サトリ君」
「逃げろ井東さんっ!!」
 一体何が爆発したのか、近くの車がひっくり返り、巨大なフェリーを繋いでいた太いロープが引き千切られていく。
 カワイイ後輩ちゃんの手が、滑る。
「先輩っ!」
 井東さんは一息に三階近いフェリーのサイドデッキまで飛び上がったけど、僕はついていけなかった。そして彼女が無事ならそれで良い。僕は僕で、燃え盛るスクラップの裏に転がり込む。
 スマホに目をやって、
「マクスウェル、映像分析。海の上で何か見つかったか!?」
『というか、投げたカメラを掴まれていますけど』
 っ?
 狙ってできる事じゃないけど、単なる偶然とも思えない。……向こうがボートでも動かして合わせてきた? 怪訝な顔して画面に目をやると、こちらを覗き込んでいる女性の顔が大写しになっていた。
 ただ、何だこれ?
 ゆったりとした布の衣装を体に巻いた細身の女性だけど、一人じゃない……? いいや、背中合わせに三人の女性が寄り添っているように見えるけど、実際にはそうじゃない。これで一人なんだ。阿修羅像の女性版、みたいなイメージだろうか。
 息を小さく吸う。
 何かしらの言葉が来る。
 そう思っていた。

 ギィイィィイィンッッッ!!!!! と。
 直後に頭が割れるような激痛が走ったと思ったら、盾にしていたスクラップがガリガリと音を立てて……横滑りした?

「あっ、か、かはぁ、あア……!?」
『警告、音声はカットしました。ご無事ですか、ユーザー様!!』
 マクスウェルは、画面越しに何かされたと考えたようだ。
 でも多分、違う。
 理屈じゃない。だけど何となく、感覚で分かるんだ。今のスクラップ……僕が動かしたのか。超能力とかサイキックとか、そういうので……!?
『どこのどなたか存じませんが、聞こえておりますか? はろー』
「まぎゅずヴぇる……ッ!?」
『あら、まあ、すみません。どうやら殿方だったようですね。もしもあなたが女性なら、今ので魔術への参入を果たしていましたのに』
 まじゅつ? さんにゅう???
 何を、音声はカットしているはず、ていうかこれ、スマホからの声じゃない……ッ!?
『私はヘカテ、ギリシアに伝わるあらゆる魔女の力の源泉です。訳あって蛍沢ケズリに協力しておりましたが、アキレス腱たる私の位置が露見したとなると……残念。JBの大言壮語とやらもその程度、ですか』
「たにょむ何か別の方法で話しかけてきゅれっ……!!」
 頭痛が飛んだ。
 軍用規格のシミュレータ・フライシュッツがあるのに、蛍沢はここに来た僕達を見て予想外と言っていた。車の陰に隠れた程度であいつは僕達を見失っている。
 このせいか。
 とんでもない化け物がいるせいで、色々と歪んでいるのか、ここは!?
 スマホを見れば、ヘカテとやらはカメラに向かって何か差し出していた。ドロドロに濡れているけど、スケッチブックか? 日本語らしき文字はこう並んでいた。
『必要なのは声ではなく意思の伝達です。どちらにせよ頭痛は消えませんよ』
「……こいつぶっ殺ひぇてにゃろうか……!?」
 眩んで、転がる。
 スクラップの裏じゃダメだ。JBの蛍沢ケズリも黙っているはずない。起き上がる事もできないまま、どうにかしてまだ無事な四駆の下に潜り込む。
 頭痛が。
 頭が内側から砕けそうだっ!!
「アンタ、一体……。かはっ、何で、蛍沢なんかに……?」
『私はあらゆる魔女に力を与える存在。ですが、誰彼構わずコンタクトと同時に覚醒を促してしまう以上、人間社会を自由に見て回る事すら難しい状況にあります』
「……、」
『私が縛られるのは何故? それは周りが弱いから。JBの脱獄とやらで世界のルールが変わるのであれば、私の目的も果たせると思ったのですが』
 何だこれ。
 最強過ぎるだろ……。
 力に溺れて暴れ回った巨大ザメのリヴァイアサンどころじゃない。自分が強いのは、世界が間違っているから。自由を得るため、自分から力を削ぐにはどうしたら良いか。そんな次元で戦っているのか、ヘカテは。
 コントロールなんかできるか、こんなもの。
 蛍沢ケズリ。
 JBでも無理だ、この怪物は……。
『潮時、かもしれませんね』
「うっぷ、ならさっさと立ち去ってくれ。こっちは家族と後輩の命がかかっているんだ」
『未練というのはなかなか切れないものでして。あと少しもう少し、ダメだと分かっていてもずるずる続けてしまうものなのです。そうですね、ヘカテに選ばれなかった人の命、その一つよ。もしも迅速な退去を求めるなら、この私の未練を切るためのイベントを献上なさい』
 ……何を?
 怪訝な顔をする僕に、スマホ越しのメッセージが突きつけられた。

『海風スピーチア、でしたか。あのスキュラと引き合わせなさい。それで此度のたわむれに幕を下ろします』

 そこまでだった。
 カメラの映像が途切れ、あれだけ意識を埋め尽くしていた頭痛が奇麗さっぱり消えてなくなる。
「マクスウェル、どう思う!?」
『悪魔討伐アクションの攻略サイト程度の知識ですが、スキュラの出自にはいくつかの仮説があるようです。特に力を持たない娘がキルケの魔女の薬で変貌したパターンの他、最初から怪物同士の子として生まれてきたパターンです』
「……、」
『一つはテュフォンとエキドナの子、もう一つはフォルキュスとヘカテの子です。クラタイイスの血を引く説もありますね。もちろん、あのヘカテとこのスキュラが直接の血縁にあるとも思えませんが、興味を引くには十分な条件かと』
 ……スキュラ。
 ここにきて海風。
 あいつ一体どこへ行ったんだ!? 重要そうなら気絶してその辺で転がってくれれば良いものを……!!
『ちなみに海風スピーチアが見つからなかった場合、井東ヘレン嬢でも交渉はできるかもしれません。ヘカテの姉妹または娘がキルケであるとする伝説もありますので』
「それ絶対誰にも知らせるなよ。ヘカテが可愛い後輩ちゃんを大層気に入って異次元にでも連れ去ったらどうすんだっ」
 ゴッ!! と。
 僕が隠れていた巨大な四駆が、めくり上げるように吹き飛ばされた。
 まるで石の裏にいる虫でも見つけるような動きだった。
「ここにいたのか、天津サトリ君」
 蛍沢ケズリ。
 マイクロプラスチックの爆発を一方向にでも揃えたのか。それだけなら対戦車ロケットとかの理屈。でもあれは、きっとマクスウェルに演算させても正確な仕組みは分からないんだろう。
 覚醒。
 ヘカテの傘に入った魔女。
 炎に雷に、ご自慢のマイクロプラスチックを利用してるって言ったって便利過ぎるとは思ってたけど……!!
「女神に触れたな」
「……多分アンタが聞いた声とは大分違うと思うよ」
 後ろへゆっくりと下がる。
 迂闊に咳き込むと血の塊でも吐き出しそうだった。
 向こうはアキレス腱を撫でられたんだ。絶対に僕を帰すつもりはないだろう。
 音もなく。
 拳銃よりもおっかない掌を、ただ僕の胸の真ん中に向けてくる。
「そして悪いけど、アンタは脇役だ。海風はどこ行った? 僕はあいつに用がある」
 ぎっ、という鈍い音があった。
「舐めるなよ。供饗市をゆっくりと締め上げたのは、そうする事であなたを精神的に追い詰め、殺さずに支配する方法を試すためだった。最初から全力で取り掛かれば秒も待たずに殺せたんだ、いつでもな!!」
「その一秒は、もう過ぎたぞ」
 それ以上はなかった。
 ぶぢっ、と唇を噛む音と共に、蛍沢ケズリは差し向けた掌に意識を集中したようだった。飛び出すのはマイクロプラスチックの爆風か、砲弾か。下手すると、僕は自分が死んだ原因も分からないまま一瞬で即死かもしれない。
 ただし、
「ふーぐー……」
 ぎぎっと。
 さっきから軋んだ音を立てているのは、ヤツの奥歯じゃない。
「うーっ!!」

 ごっ、と。
 真横に停めてあった乗用車が、エンジンもかけていないのにいきなり動き出したんだ。

 人間の一〇倍の筋力。
 一〇人くらい数を揃えれば、そこらの車くらい力業で動かせる。もちろん挑戦するならハンドブレーキくらいは外すべきだろうけど。砂より細かいマイクロプラスチックもタイヤを滑らせる一助になる。
「なっ」
 死角からの、まさかの一撃。
 鈍い音と共に、赤毛をポニーテールにした少女が腰の辺りを打撃され、そのままボンネットの上に押し上げられる。
 しかもその一回だけじゃない。
「よいしょ」
 気軽な声があった。
 おっとり姉さんのもの、だけど。
 ゾンビが人間の一〇倍なら、吸血鬼は二〇倍の筋力。人間が二〇人もいれば、4ドアのステーションワゴンくらいならお神輿みたいに持ち上げられてしまう。
 両手で。
 デカいベニヤ板でも振り上げるようだった。

 ずんっ!! と。
 二台の車で、凶悪なサンドイッチが完成する。

「ね、姉さん。アユミも……」
「殺してはいませんよ。ボンネットの中は猫ちゃんが潜り込むくらい隙間がたくさんありますからね。金属が押し潰されてできたスペースにでも閉じ込められているはずです」
「ふぐ。でもこれ、その場しのぎだよ。雪を使ってあれだけの事をやった蛍沢なら、時間をかければきっと中からこじ開けられると思う」
 蛍沢ケズリの力の源。
 ヘカテを納得させ、退去させるには。
「……心当たりがある。みんなついてこい、今度こそ終わらせよう」

   6

 フェリー乗り場から離れる。
 この雨の中でも、やっぱり一面がマイクロプラスチックの雪に覆われていたのは助かった。うっすらとだけど残っているんだ、足跡が。
「ふぐ、堤防に上がったみたいだね」
 ずぶ濡れのアユミがそんな風に言っていた。そこそこ高いから僕が持ち上げてやろうとしたけど、なんか女性陣がもじもじしている。
「え、えと先輩、すみません。私その、スカートですので……」
「あ、ああ、そういう事」
「お兄ちゃんはデリカシーがなさすぎ」
「そしてバカはどうして短パンなのにパンチラを気にするのか」
「うるせえなイロイロあるんだよ! そのっ、太股の辺りからトンネルするとか、ごにょごにょ……。とにかくお兄ちゃんが先、早く行け!!」
 何とも理不尽な世の中になったものだ。ともあれ言われた通りに堤防へ上がる。
 その先はコンクリのブロックと暗い海だ。
「……スキュラって海のアークエネミーでしたよね? に、人魚さんみたいに海に飛び込んじゃったら……」
「多分ない。まだ足跡が続いている」
 追う。
 追いかける。
 やがて、ガチャガチャという音が聞こえてきた。ここはもう工業区画というより海水浴場の方が近い。いくつか水上オートバイが海に浮かべて係留してあった。おそらく高いハーバーの利用料を嫌ってこっそり停めていたんだろう。
 そこに。
 適当に拾った大きめの石を振り下ろしている影が、一つ。
「コードを繋いだくらいじゃモーターは動かないよ、海風スピーチア」
「っ!?」
「もう終わりだ。蛍沢ケズリはダウンした。沖の貨物船もじきに火が消える。マイクロプラスチックの雪も。アンタを特別にしていた力は、どこにもない」
「……ここに来るまで、ずっと考えていました」
 ぼそりと、だ。
 汚れた雨に濡らした長い金髪を垂らして、海風が囁く。
「キルケの魔女を連れてくるあなた達にせよ、ヘカテの力を借りたJBの蛍沢にせよ、ここに来る人は必ず私の害になる。けど、来る事さえ分かっていれば何かできるんじゃないかって」
 何か、嫌な匂いが鼻についた。
 いや、まさか、こいつ……!?
「ところでモーターは動かないと仰いましたね。そうなのです、これはエンジンではない。それならば、いくつか並べてありますし……大きなバッテリーを失敬させてもらっても構わないのではなくて?」
「っ!! みんな海に飛び込めぇ!!」
 川や海、流れのある水に弱い吸血鬼のエリカ姉さんを突き飛ばすので精一杯だった。

 ボッッッバッッッ!! と。

 横合いから。
 激しい爆発と閃光。
 視界がぐるりと回った途端、よりにもよって波を打ち消すために山積みされたコンクリのブロックへ背中から落ちた。
 どこかの隙間にでもっ、仕掛けてあったのか!
「あっ、が……!?」
 バッテリーは扱い方次第で爆発する。スマホやノートパソコンで問題になっていたけど、本当に危ないのは乗り物なんだ。何しろ容量が全く違う。
「天津君」
 海風が、こっちに来る。
 いくつかの節を作った一本の髪束を左右に揺らし、金の輝きの端から汚れた水滴を散らしながら。
 鍵を壊すのに使っていた、手頃な大きさの石を掴んだまま。
 アユミや井東さんは、海側に落ちたか。おそらく海に弱い姉さんを支えるのに必死なはずだ。今すぐこっちまで手が回らないと思う。
 結局、ここでおしまいなのか。
 抵抗しようにも、激痛の源と化した背骨のせいで手足の先まで動かない。まるで体の中の歯車が外れてしまったようだ。
「あなたが馬鹿で助かりました」
「……っ!?」
 笑いながら、海風はソフトボールより大きな石を振り上げる。ヘカテでも魔女でもない。最後はこんなもので……っ!!
 直後だった。

 鈍い音が炸裂した。

 目は、瞑らなかった。
 だから分かった。
 今のは、石の音じゃない。海風はそのままだった。くらりと横に体が揺れたと思ったら、力なく崩れ落ちていく。
 その後ろにいたのは。
 海風の後頭部を引っ叩いたのは、
「……い、いいんちょう?」
「マクスウェルから教えてもらっていたのよ、GPS信号」
 一体どこから拾ってきたのか。ロープを張るためだろう、頭が輪になった鉄の杭だった。
 側面を肩に乗せ、メガネにおでこの委員長は鼻から息を吐く。
 そのまま彼女は言った。
「サトリ君、そのまま行かせるの心配だったんだもん。こういうトコは昔と変わらないわね」

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