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1
フランス、パリ郊外、午後四時。
「眠い……」
初っ端から僕は肩を落としていた。
パリからほど近い国際空港に着いたのは夕方だった。でも僕の頭の感覚じゃ布団の中だ。完全に時差ボケだった。最後に食べた機内食のランチはもう夜食として認識されている。
「トゥルース!」
変な名前で呼ばれた。そもそもフランスなのに英語だ。ネット界隈ならともかく、リアルでこんな風に僕を呼ぶ人間はおそらく世界で一人しかいない。吸血鬼の姉さんやゾンビの妹も知らないんじゃないかな。
……ああ、天津サトリ、悟りだからイコール真実でトゥルースね。念のため。後で調べたら『全知全能の神』を示す言葉でもあるらしいって知って激しく赤面したのはご愛嬌だ。
「あふぁ、あ……。アナスタシア、顔の見える場所でハンドルネーム使うのって意味なくない? というかむしろ匿名で隠していた身元がバレるだけなような」
「何言ってんの、そこらじゅうに監視カメラとスマホとドローンが氾濫してる世の中にリアルとネットの区別なんかないわよ。どこでだって情報盗難は進んでいるわ」
防犯じゃなくて監視、収集じゃなくて盗難。この辺りはやっぱり生粋のハッカーか。別に特定の誰かを毛嫌いしている訳じゃない、大きなシステムがあれば何にだって噛みつきたいお年頃なのだ。
アナスタシアは一一歳の女の子だ。
長い金髪に透き通るような肌が特徴の飛び級少女で、これでもアメリカの有名大学に属して港の倉庫よりデカいコンピュータを好き放題組み立てている。
そしてこの子は人間じゃない。
アークエネミー・シルキー。座敷童みたいに屋敷を守る妖精だけど、気に入らない住人に嫌がらせをしたり悪意を持つ客の首を絞めたりするんだとか。名前の通りシルク好きで、今もアナスタシアは真っ赤に染めた絹のドレスを着ている。
……座敷童だと真紅はおっかないんだけど、西洋版にはそういうのないよね?
「いやあベストなタイミングで声を掛けてくれたものだわ。ちょうど研究が行き詰まっていたから気分転換が必要だったのよね」
「それってやっぱり量子コンピュータ絡み?」
「あんなもん研究室レベルならとっくの昔に完成してたわよ。企業サイドは採算が取れるよう躍起になって素材の低コスト化を進めているけど、そもそも量子コンピュータだって普及が進めば価値はなくなるからね。弾丸トランジスタやアミノ酸を使った方式を併用させないと、いずれ量子暗号もザルになるのは目に見えているんだし。不正な第三者が外から観測したら信号自体が壊れるから無敵? んなもん母機にイタズラして完全同期しちゃえば関係ないわよ。観測者は人間じゃなくて機械だっての忘れないでよねって感じ」
というか勉強に行き詰まったって理由だけで学校休んで海外旅行に出かけても許されるのか。大学って仕組みは謎の塊だ。姉さんの夜間学校も単位さえ取れていればって匂いはしてたけど、こっちの方がさらにフリーダムな気がする。
「それよりトゥルースのスーツケースって何色? 一緒に探すけど」
「基本ピンクで赤のデカいバッテン」
「……また随分とアバンギャルドな配色ね」
「見失ったら困るだろ、海外で係の人に説明できる自信ないし。普段絶対使わない色にして、意地でも目立つようにした」
ベルトコンベアでお寿司みたいに流れてくる旅行カバンを拾ったら、いよいよ旅が始まる。アナスタシアは何日か前に到着して巣作りしているから手ぶらだ。
「パリまではタクシーで?」
「お金かかるからヤダ。バスだよ」
外国のお金ってオモチャみたいで実感湧かないから怖いんだよな。そこにスマホをかざすだけのキャッシュレスとか加わったら金銭感覚なんか軽く吹っ飛ぶ。財布からお金を取り出すのは躊躇うけどソシャゲではついつい散財してる人って普通にいるのでは? あの石とかコインとか、一回別の言葉に置き換えるのって怖いよね。
……いや海外旅行慣れてないから必要以上に怯えてるだけなのかもだけど。現にアナスタシアはお弁当も入らないような小さなバッグ一つだ。本当に旅慣れてる人はむしろ肩の力を抜くと思う。
ともあれ。
横からでっかいバスのお腹にスーツケースを詰め込むと、細長いドアから車内に入って自分の座席を探す。数字の読み方なんて世界中どこでも一緒だろうに、こんな事でもドキドキした。
でもって当たり前みたいな顔でアナスタシアは隣の席に腰掛けている。座席のサイズは大人基準だから何をやってもぶかぶか感が付き纏っていてカワイイ。何だか小さな女王様みたいだ。
ていうか、
「あのう」
「何よ?」
「その席どうやって取った? 一応長距離バスだぞ、チケットは?」
「何でもネットで注文してスマホをかざすだけの情報化社会って怖いわよね。ログを書き換えるだけで後出しが許されるんだから。せめて紙に印刷したチケットくらい手元に置いておけば良いものを」
「……、」
「せっ席順をちょっといじっただけだってば! ほら、本来のお客さんはちゃんと後ろの席にいるわ。元々あちこち歯抜けで空席アリだったバスの中身をパズルゲーム感覚で整理しただけ、別に誰かが困ってる訳じゃない!」
こういう自分正義がハッカーの悪いところだ。そもそも侵入して書き換えを実行する事自体が過ちだって自覚がない。ルールの違う海外まで来てよくやる、としか言いようがなかった。バレたらどうするつもりなんだ。
パリ中心部までは大体二五キロくらい。手持ち無沙汰なバスの中で、いくつか確認しておく事にした。
そう。
そもそも日本の高校生である僕が、どうしてフランスにまでやってきてるのかも含めてだ。
「アブソリュートノアとJBがケンカを始めた」
普通の人にはサッパリな話だろう。
だけど実際には、どっちも誰の喉元にだって刃を突きつけている組織だ。
世界の破滅から身を守りたいアブソリュートノアと、世界の秩序を破壊して脱獄したいJB。未だに謎な部分も多いけど、少なくとも物騒な力を蓄えているのは確定。普通に暮らしている人にとっては脅威にしかならないと思う。
僕にとって悪い話が二つある。
一つ目は、義母さんの天津ユリナがアブソリュートノアを率いているらしい事。このせいで、僕は望まずに生存組へ組み込まれてしまっている。方舟に乗り、他のみんなを見殺しにするセレブ様扱いだ。
二つ目は、どういう訳かJBが集団で僕を敵視しているらしい事。これについては、アブソリュートノアはおそらく関係ない。JB全体の指針が見えてないから何とも言えないけど、僕を怖がってる人と期待してる人がいるみたいだ。ひょっとしたら一枚岩じゃないのかもしれない。
「……どうもJBはアブソリュートノアの壊滅に関わっていたらしくてさ、その報復戦が始まろうとしてる。黙っていたらそうなる」
「うへえ。アブソリュートノアって、あの?」
隣の座席で一一歳の金髪少女が呻いていた。
アナスタシアもアナスタシアで、少数のアークエネミーが大多数の人間に迫害されない世の中を作ろうとしていた妖精だ。スパコンのメフィストフェレスを使って金融経済を間接的に牛耳る形で。結局それはラスベガスの街並みごと拠点が吹っ飛んでご破算になったんだけど、あの時エリア51や議会に働きかけ、暗躍したのがアブソリュートノアだった。
「義母さんがフランスに向かったようなんだ」
僕はそう言った。
言っちゃなんだが天津ユリナはアブソリュートノアのトップだ。大抵の事はいくらでもいる部下に任せると思う。そのトップ級が直々に国境を越えて何かの調達に動き出したんだから、その何かはいよいよ本物だろう。
つまりは、
「……この報復戦の準備を固めるために。人か、お金か、あるいはダイレクトに武器か。何を集めるつもりか知らないけど、とにかく今まで預けていた何かを引き出そうとしてるみたいだ。つまり準備が完了次第、始まる。アブソリュートノアとJBの戦争が」
そんな大袈裟なと思うかもしれない。
だけど実際にアブソリュートノアは爆撃機を利用してラスベガスを消滅させ、JBは宇宙人のクイーンに見立てた『何か』を使って世界中の都市を攻撃した。現実に、国以外の勢力が軍と呼べる規模の火力を揃えているんだ。この二つが衝突した場合、被害がどう広がるかは完全に未知数。単純な兵力の総数が分かっていないのはもちろん、二つとも地下に潜った組織だからどこに本拠地や支部があるのか全く見えない。つまり、地球のどこでだって衝突が起こり、いきなり大規模な戦争が始まるリスクがある。ここは平和な日本だからとか、最高警備のニューヨークだからとか、国際条約に守られた南極や宇宙で戦争は起こらないとか、そんな定石はもう通用しない。
……おそらく普通の国境を基準に守りを固める国の軍隊じゃ、この動きには対処できない。例えばアメリカからロシアに馬鹿デカいミサイルが飛んだとして、やったのはアメリカとは限らないんだ。平べったい地図だけ見て報復したって被害が増えるだけ。これはもっと別のルールで動く、新しい戦争だ。
まるで星自体が導火線のついたでっかい爆弾にでも作り替えられたようだった。
火が点いて爆弾へ届く前に、流れを止めなくちゃならない。
気は焦るけど、そのためには一つ一つだ。分かっているところから始めたい。
そのためには、
「……もちろんどっちも止めたいけど、JBの動きは全くの不明。だからひとまず義母さんの周辺を洗うぞ、アナスタシア」
「らじゃ。まー皆殺しモードのスイッチ入ったアブソリュートノアはとっくにJBを捕捉してるでしょうしね、それなら答えを知っている人からデータを奪うのが手っ取り早いわ」
これしかない。
僕は生粋のハッカーじゃない。まず機械いじりの趣味があって、たまたまそっちの領域にまで知識が広がっていっただけだ。できればきっちり線は引いておきたいけど、今回ばかりは例外になる。
でないと。
線を引いて大切にしたいはずの『当たり前』を、ルールを守って全部失う羽目になるから。
「天津ユリナがこのフランスに何を蓄えていて、いつどこで引き出そうとしてるか。この情報を掴んで、物理的に止める。怖いのは二大組織の正面衝突だ、いったん戦争が始まったらもう流れは止められない。だからそうならないように、準備段階で潰すんだ」
「やるけど」
アナスタシアはそっと息を吐いた。
この子は僕達の騒動に付き合ってきたおかげで、アブソリュートノアにもJBにも関わった稀有な立場にある。そもそもの性分もあって、大きな謎に挑むのに躊躇はしないんだろう。
ただ、
「……でも大丈夫? 家族のシステムを暴くって、実際、プロのハッカーでも躊躇う話だったりするものだわ。ある意味で自分自身のエゴサーチよりキツいって。最後までやり切れると良いんだけど」
「やるさ」
実際。
ラスベガスの件では一度義母さんと仲違いして家を飛び出した事もある。多分今度の秘密はもっと辛いだろうって思ってる。そもそも義母さんがパートのレジ打ち主婦っていう表のサイクルを崩してまで海外に出かける事自体が初めてなんだ。このパリにはきっと、天津ユリナじゃない魔王リリスとしての顔が眠っている。そんな気がする。
それでも。
見なかったふりは、もうできない。
「……僕の家族の問題なんだ。だからやり遂げる、これだけは絶対に僕が止めなくちゃならないんだ」