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1
震動があった。
低い、低い。地震にも似ているけど、日本でたまに見かける揺れとは少し違う。何か危険なエネルギーを内部に蓄えた、恐るべき唸り。たとえるなら、刺激一つで爆発的な突沸を起こしかねない不安定な熱湯を鍋のすぐ上から覗き見るような不安感がある。
「また来たか……」
義母さん。
天津ユリナは天井を見上げて気軽に呟いた。これもまた、いつも地震の時に決まってやってしまう、日本っぽい仕草だった。今日び天井から紐でぶら下がった蛍光灯なんて珍しいと思うけど、染みついた癖はなかなか直らないようだ。
こうして見れば、義母さんはやっぱり義母さんだった。
そもそもこんな所にいるのが間違っているんだ。僕も義母さんも。フランス国防省の非公開機密地下フロアなんてどう考えても場違い過ぎる。
天津ユリナはゆっくりと首を振った。上から下へ、つまり天井から再び床で潰れている僕の方に。
笑いながら、ほっそりした手を差し伸べるために。
「とにかく起きなさい、サトリ。こんな所でそういうオモチャ使われたら困るし……どっちみち、多分もうダメだわ、ここ。JBの方が早い」
「っ?」
「さっさと逃げないと死ぬわよ」
強烈な一言だったけど、僕もアナスタシアもまだ天津ユリナの立ち位置が見えていない。本人は危機を止めるためとか言っていたけど、現実にアブソリュートノアの頂点はこうして核管理システムのオールリセットに手が届く場所まで来ているんだ。
疑問を持っているのは僕だけじゃないらしい。義母さんの手を振り払ったのは小さなアナスタシアだった。
「トゥルースに触らないで」
「……またすんごいビジュアルだけど、そのお腹ってもちろんオモチャよね? サトリ」
そう言えばアナスタシアのお腹は(自前のスマホやペットロボットを守るために)大きいままだった。そしてアナスタシアは何を言われても横には逸れない。
「ワタシ達はアンタが敵か味方かも聞いてないわ、ほいほい信じてついていくと思う!? 現実として、天津ユリナには核を撃つ選択肢があるって事でしょ!」
「あのねお嬢ちゃん。貴重なご意見はごもっともなんだけど、それを容疑のかかった私に聞いてどうするの?」
天津ユリナは膝を曲げた。
まんま駄々をこねる小さな子供を相手にする調子で、笑みまで浮かべて彼女は下からアナスタシアの顔を覗き込んだんだ。
「私は何も悪い事はしていません、はい信じます。これが通用するのは背中を預けた相棒くらいのもので、極めて怪しい最有力の容疑者相手にやっても意味はないわ。そして、あなた達がそこまで私を信じてくれているなら、それこそ質問するだけの意味がない。違う?」
「っ」
「だからそういう大変アオハルでお恥ずかしい質問がしたいなら、私を良く知る私以外の誰かにしなさい。それも感情論だけでなく、合理的に疑いを晴らせる人に。サトリも……こういう時はまずお父さんに尋ねてみるべきだったんじゃない?」
ズズン……という低い揺れがもう一度。
義母さんはそっと息を吐いて、
「……限界ね」
「何が始まるって言うんだ、義母さん……?」
「知らなーい。こう見えて今回ばかりはお母さんも怒っているのです、ぷんすか。母はそんなに信用されてませんかそうですか。だけどサトリ、マグマで溢れ返る地下からどうやって無事に逃げ切るつもり? それも幼いアナスタシアちゃんを連れて」
マグ、え?
溢れ返るって、何だって!?
「何で今急に可愛らしくなった!?」
「あ、そこ? でも今は脇道に逸れているとほんとにリカバリーできなくなるわよ。流星雨の衝突で地震が起きた辺りからヤバいとは思っていたのよね。多分これ、どこかの地盤が砕けて新しい断層ができてるわ。そこから逆流してくると、色々まずい。水蒸気爆発とか、あるいはそれ以上にダイレクトにね」
ぞっ、と。
痛みの感覚が遠のくくらい、血の気が引いた。
「まっ、マクスウェル」
『警告、検知可能な揺れがこの一〇分で五〇〇回を超えました。ただの余震にしては分布が集中し過ぎています。おそらくユリナ夫人の予測に間違いはないかと』
くそっ、ここまでか!
多分だけど、マグマは本当に来る。
これ自体はJBが落とした流星雨の余波だから、アブソリュートノアは関与していない。けど義母さんがフランス国防省地下で何をしていたかは結局分からずじまいだ。ここで避難を優先した場合、全てはマグマの中に消える。後は義母さんの言葉を信じる以外に道がなくなってしまう。
良いのか、それで。
なあなあにしてしまって良いものなのか。ここまできて!?
「……義母さん、ここで何してた?」
「だからそれを私に聞いてどうするの。ママのお話信じてくれるうー?」
「なら通路の奥に何があった!?」
ぴくりと天津ユリナの眉が片方だけ動いた。
「このタイミングで自分から出てきたって事は、このタイミングで邪魔をしなくちゃならない切迫した理由がそっちにあったって話だよな? なら自分で調べに行くよ。言葉以外の何かが欲しい!」
「時間がないから無駄な事はさせたくないってだけかもよ?」
まずい事を指摘されたっていうよりは、状況を面白がっている方が近いかもしれない。とにかく義母さんは笑っていた。ちょっとニヤニヤの多い、イタズラを企む小悪魔みたいな感じで。
のろのろと起き上がり、天津ユリナを横に押しのける。
前へ。
与えられるだけじゃない。自分で奥に向かって、進む。
「アナスタシア、アンタは先に出てろ……」
半分は賭けでもあった。
僕だって分かってる、マグマの噴出が本当ならこんな所でモタモタ時間を潰している場合じゃない。何しろ天井は全部塞がれていて、階段や梯子で建物の中を通ってそのまま地上に繋がっている訳じゃないんだ。表へ出るにはあの迷路みたいなカタコンベをもう一度戻らなくちゃならないって事を考えると、楽な道のりとも思えない。行きと帰りで印象が違うかもしれない、目印なんか全部覚えている訳でもない。途中で蒸気やマグマが噴き出して道が途切れた場合、迂回路があるのかどうかも分かっていない。
だから、賭け。
ギャンブル。
テーブルに置くのは僕自身の命で、勝てば天津ユリナを揺さぶって安心が得られる。だけどこんな分の悪い賭けにアナスタシアまで巻き込めない。
スマホを掴む。
「マクスウェル、分析頼む……」
『天津ユリナ夫人が襲撃時、どこから出てきたかですか』
「違う。あの時僕が見ていた方向だ」
自分の事なのに覚えていないのは恥ずかしいけど。でもあの一瞬、義母さんはまずいと思ったから手を出してきた。僕は何かしらの地雷を靴底で薄く撫でたんだ。
『奥に向かって右手側三つ目の扉に注目しています』
「……了解」
そのままドアを開け放った。
予想していたような大規模なサーバールームじゃない。学校の教室よりも小さな部屋の中心に、冷蔵庫くらいのコンピュータがぽつんと一つ置いてあるだけ。だけど象徴的ではあった。他のネットワークから切り離された、禍々しいシステムの匂いがする。
外装表面にはフランス語らしき言葉で何か書いてあったが、僕には読めない。
コンピュータ全体に対してあまりに小さなノートサイズの液晶モニタを埋めているのもやっぱり知らない外国語だ。どうせプログラム言語の読み書き自体は英語で統一されているだろうに、やけにこだわってるな。
となると、
「……これが?」
『機材表面には計算装置01とだけ。まあ、馬鹿正直に核関連の危険な設備ですとラベルを貼るとも思えませんが』
重要なのはこいつの中身じゃない。僕はスマホを近づけて機材の液晶表面を撮影した。
「マクスウェル、指紋をチェック」
『拭き取られています』
「分かってる。拭き取り方のパターンは? ウチの窓やテーブルと照合」
実はこういう事でも個体差は求められる。もちろん法的には認められないから証拠と呼ぶには苦しいけど、僕達は裁判で勝ちたい訳じゃない。
『高数値で一致します、九七・八八%以上』
「つまり義母さんはこいつを拭いた」
『ただし拭き取り方のパターンがいくつか混在しています。天津ユリナ夫人のものは最新です』
「……それ以前にも誰かいた?」
わずかに沈黙。
元々の持ち主であるフランス国防省がこいつをしつこく磨く意義はあまりない。奇麗好きとかの可能性もあるから絶対にないとは言えないけど。
義母さんの部下や仲間の線はもっとない。一通り仲間内で機材を触ったら、その中の誰か一人が最後に痕跡をまとめて消せば済む。わざわざ代わる代わる画面を拭いても仕方がない。
となると。
全くの……第三者?
「JBよ」
びくっと肩を震わせて振り返ると、義母さんが肩をすくめていた。
「核管理システムのオールリセット、おそらくもう実行されてる。複数の安全装置が再起動するまで一〇秒ないでしょうけど、その間にいくつかの弾頭は権限が書き換えられたでしょうね。フランス政府がこの混乱の中で汚染された弾頭の数や場所を正確に把握できるかは未知数。……というか多分無理ね、そもそも役人はここにJBや私達が入った事も、オールリセットが起きた事にも気づいていないし。よしんば今この瞬間から弾頭チェックを始めたとして、割り出しには最低でも一週間かかると思うわ。その間なら自由に撃ち放題よ」
疑わしいのを含めてフランス政府が全弾頭をロックすれば、コマンドを拒否した弾頭の権限が怪しいんじゃあ……ってこれもダメか。核兵器を取り巻く環境はそんなに単純じゃない。冷戦時のアメリカとソ連ほどじゃないにせよ、基本的に核は互いに睨み合うから安全が保たれるんだ。片方の国だけ使えませんなんて話になったら外交や防衛の絵図が全部崩れる。
……つくづく負の遺産だ。今はもう、単純な爆発規模だけなら小さな核と同レベルの爆弾だって他にもあるのに、誰も厄介な仕組みを更新できない。
「マクスウェル」
『実際にオールリセットを行うにはかなりのデータをやり取りする必要があります。最低でも3D系eスポーツ用に専用チューンされた分厚いノートパソコン。スマホ等のモバイル機器では不可能ですね』
天津ユリナは片目を瞑って両手を軽く上げた。好きなだけ調べろってアピールしている。おかげで妙にメリハリのあるボディラインが丸出しだ。そしてあのぴっちりしたブラウスやジーンズの奥に何か大きな道具を隠せるとは思えない。
認めるしかない。
かなり高い確率でここには僕達以外の第三者がいた。
……カタコンベではスーツケースらしき車輪の水跡を追ってここまで来た。おそらくあれが解析コンピュータの容れ物だ。天津ユリナの懐に手を突っ込んでまさぐるまでもなく、そんなのあったら隠しきれないのはすぐ分かる。
つまり。
スーツケースをここに持ち込んで、再び持ち去ったのは別の誰か。
義母さんがそいつの行動を止める側なのか協力する側なのかはまだ見えない。だけどどちらにせよ、義母さんの動きを細かくチェックしておけばいずれ明らかになる。
「マクスウェル、今ここでできる事は?」
『特に何も。流石に国防省の核管理システムはシステムの手に余ります。それと仮にオールリセットが実行されていれば、今から中央ハードウェアを破壊しても各末端にある弾頭の制御は戻りません』
「パリ天文台で採取したJBのウイルスは? 確か遠隔操作系だったろ、この端末からあれを流して弾頭の権限を奪い返せば……」
『作ったJB当人のオモチャとかち合わせてどうするんですか、また奪われてしまうでしょう』
「まあそう簡単にはいかないか、くそ」
なら決まりだ。
ぐらりと不自然に地下全体が揺れる。
「アナスタシア、出るぞ!」
「うええっ? せ、せっかくなかまでもぐったんだからキーロガーかバックドアの一つくらいストレージにおいていっても……」
ドンッ!! と。
次の揺れは、これまでと違った。大きく、鋭く、何より不安を煽る縦揺れ。どれだけ広い空間でもここが分厚いコンクリで頭の上を塞がれた地下なんだって現実が急に押し寄せてくる。
揺れは不安定だけど、大きい。とっさに壁にすがって耐えようとするけど、収まらない。それどころかどんどん強くなっていく……!?
「サトリ、その子支えてて。どうせあなたがここまで引っ張ってきたんでしょう?」
天津ユリナだけが平然と二本の足で立っていた。壁に手をついたりもしない。単純な筋力じゃなくて、揺れに合わせて細かく重心を動かすバランス感覚の賜物だろう。ワイヤー一本の綱渡りくらいスキップしながらこなしそうだ。
ぱらぱらと、頭の上から何か細かいものが降ってきた。天井を見上げるのと太い亀裂が何本も僕達を追い抜いていったのはほぼ同時だった。
「来た!! アナスタシア!?」
もう返事を待っていられなかった。へたり込んでいる一一歳の細い手を掴んでとにかく機材から遠ざける。実際にはほとんど二人して床を転がるようなものだった、まともに立っていられない。
「こっちよ」
義母さんはすらりと背筋を伸ばしたまま、気軽にフロアを横断していく。もうついていくしかなかった。どっちみちこの地下から出ないとまずい。それは急に存在感を増した重苦しい天井を見るまでもなく分かる。
カタコンベに繋がる横穴へ飛び込む。
ガラガラ。
そんな単調な音の正体を最初僕は見失っていた。どこかで石でも転がっているのかなくらいにしか思っていなかった。
直後に猛烈な粉塵の暴風が僕とアナスタシアを後ろから一気に追い抜いていった。
真っ暗。
いよいよスマホのバックライトのレアリティが急上昇するけど、それでも光源にコンビニ袋でも被せたように明かりがぼんやりしている。
「がはっ、うっ!?」
激しく咳き込みながら後ろを振り返ると、ない。僕達がさっきまでいたはずのフランス国防省、その地下空間が岩だかコンクリートだかで丸ごと埋まって、隙間一つなくなっていた。
光は、潰えた。
「下が抜けたって事は、地上の建物も全部崩れたわね」
どこか他人事のように義母さんは呟いていた。お、お役所なら夜は人がいない、と良いけど。それから彼女はへたり込む僕達を見下ろし、腰に手をやって、
「あまり吸い込まない方が良いわよ。日本と基準が違うし、どこにも書類申請しない機密区画だもの。建材に何が使われているか分かったものじゃないわ」
そんなのよりも、まず蒸し暑さが気になった。何だこのじめっとした感じ? さっき通った時、カタコンベは暗く冷たい洞窟って印象だった。三人集まったから体温で空気が温まったって感じでもない。なんか、こう、風呂場やサウナの湯気でも顔一面に浴びているような……。
「注意して」
義母さんが呟いた直後だった。
ゴバッ!! と。
いきなり近くの壁が、割れた。溢れ出すのは大量の白。腕や足、肋骨や頭蓋骨。規則正しく積み上げられた古い人骨を吹き飛ばし、猛烈なスチームが通路へ飛び出してきたんだ。
「アナスタシア!!」
「変だわ、こんなの……」
卵が腐ったような匂いが漂う中、僕が慌てて小さな手を引っ張っても、アナスタシアは呆然としたままだった。
「パリにこんな活火山や温泉地帯があるなんて話は聞いたためしがないわ。何で地下からこんな硫黄泉が噴き出してくるの!?」
「ルールが変わったのよ」
義母さんは身を低くして、腕の振りで僕達に行動を促した。壁から真横へ鋭く噴き出た蒸気の直下を潜り抜けていくつもりらしい。
僕達と違い、天津ユリナは分かりやすい光源なんか掴んでいなかった。なのにお構いなしだ。
「流星雨が集中的に落下した事で、パリ一帯は表面どころか地中深くまでダメージを負ってる。地盤が砕けたって言ったでしょ。こんな水蒸気爆発なんてまだまだ序曲。今に傷から血が出るように、そこかしこからマグマが飛び出してくるわよ。急激にね」
この蒸気は足元を走る地下水脈か何かが沸騰でもしたっていうのか? 水蒸気爆発。言葉だけなら知っていたけど、実際に目の当たりにするとスケールの違いに匙を投げたくなる。
もう、すぐ足元まで迫っている。
灼熱の溶岩が。
「まずは地上だ……」
「それには賛成」
気楽な義母さんに案内されて、僕達は不自然に蠕動する地下墓地を進む。天井が崩れ、床は落ち、真っ直ぐな道を歩くだけで命がけだった。壁に張りついて、餃子やたい焼きの羽みたいに残ったわずかな床を踏んでじりじりと先を急ぐ。まるで秘宝を探して古い遺跡に挑むアクション映画の世界だ。
この壁だって、いつ爆発して水蒸気が飛び出すかはっきりしない。さっき来た道はすでに瓦礫で埋まっている。
「はあ、はあ」
まだ無事な床に足をつけても、アナスタシアの呼吸は激しく乱れている。単なる緊張だけじゃない。じめっとした湿気と卵の匂いに満たされた蒸し暑い空気は吸っても吸っても逆に体力を奪われていくようだ。しかもどんどん圧迫してくるような自己主張が強くなっていく。どれだけ広くてもここは地下だ。確か、硫化水素ってヤバいヤツだよな? 厳密な濃度の話とかは知らないけど、このまま蒸気の流入を放っておいたら、やがては丸ごと死の空間に化けるんじゃないか。
僕とアナスタシアだけだったら、とてもじゃないけどこの地下から抜け出す事はできなかっただろう。迷路のように入り組んだ通路で常に先へ進んでいたのは、やっぱり天津ユリナだった。
どれくらいの時間歩いただろう。
「見えてきたわ」
やがて義母さんが声を出した。
例の小洒落た地下道だ。
「出口よ」
喜ぶべき、はずだ。
確かに問題は山積み。フランス国防省の核管理システムはおそらくオールリセットを喰らっている。最有力の容疑者は、何故かアブソリュートノアじゃなくてJBにすり替わっていた。義母さんの言葉を信じるなら、むしろ天津ユリナはJBに核弾頭の制御を奪われるのを阻止しようとしていたって事になる。
つまり、オールリセットを察知されないように、あるいは天津ユリナを足止めしている間にオールリセットをしたくて、JBは小惑星をたくさん降らせた?
核は、アブソリュートノアが奪った訳じゃない。
そっちも込みで、JBは切り札を二つ持っている事になるのか!?
この核弾頭をどうにかしないといけない。おそらくこの混乱だとフランス政府は気づかない。僕達から伝えようにも、あの地下に入った経緯をどう話す? 普通に考えれば災害下のフェイクニュース扱い、信じてもらえたらそれはそれで国の機密区画に無断で押し入ったテロリスト扱いだ。どっちにしたって話を聞いてもらえる展開になるとは思えない。
フランス軍は今何発核弾頭を持っていて、それは固定の地下サイロから潜水艦まで具体的にどこに配備されていて、中でも危険な乗っ取り兵器はどれとどれか。こいつを調べ上げるのは相当骨だ。しかもこっちが阻止に動いていると分かれば、犯人は使える内にミサイルを使い切ってしまおうとするだろう。
それでも。
それでも、だ。
頭の上に何百トンの岩なり土砂なりある状況で、ガスや水蒸気も怖くて、いつ何が起こっても不思議じゃない危難のロケーションからやっと解放されるんだ。普通はもっとこう遠くにある目標や課題なんか全部投げ出して、ひとまず近場の安堵感に包まれるものなんじゃないのか? なんていうか、全くない。嬉しくない。そもそも安堵感なんかないし、何かが終わった感じもしない。
そう。
先に進みたくないんだ。
これはただの始まり。ここから先、さらにひどいものが待っている。根拠もなくそんな風に考えてしまうだけの何かが漂っている。
義母さんは僕の顔を見たんだろう。小さく手招きしてきた。
僕は義母さんの顔を見れなかった。表情として、何が浮かんでいるか確かめるのが怖かったんだ。
とにかく地下道からさらに自転車用のスロープを上がって、地上に出た。
後悔した。
赤。
灼熱の赤。
ついさっきまで、だ。
夜のパリは汚れた雨や逆流する川なんかで冷たい水の脅威にさらされていたはずだった。
それが見る影もない。
汚れた雨なんかいつの間にか止んでいた。
代わりに、どこもかしこも溶鉱炉みたいな赤やオレンジが溢れ出している。地上の亀裂どころか夜空まで焼け焦げていて、無数の火の粉と蒸気のカーテンで染め上げられた街は炎の脅威に包まれていた。
大地の傷から血が噴き出ていた。
莫大な熱のせいで、また上空の大気が乱れたのか? それで不自然だった雨雲が散らされて……。
ちょっとした建物の屋根を軽々と越えるのは、まるでマグマでできた噴水の壁だ。ていうかマグマを生で初めて見て、いっそちょっとした感動すらあった。多分、正確には麻痺してる。あまりの事態に真っ当に喜怒哀楽なんて感じようものなら心が壊れてしまうんだ。
道路は寸断され、アスファルトは高温でどろどろに溶けて、石やコンクリートの建物は炎に巻かれてオレンジ色に輝いている。高低差が明らかにおかしい所もあった。同じ道なのに、断層を境にして高さ数メートルの崖ができている。
ルールが変わった。
確かに。
「さあ、生き残るわよ」
天津ユリナは挑みかかるように言った。
「こんな所じゃ止まれない。核弾頭なんていうのはただの手段、JBの脱獄、その本命は別にあるんだから」