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正直、だ。
このまま日本に帰れないんじゃないか。そんな展開も真面目に考えていた。
「……恐るべしだな、アブソリュートノア」
「何を言っているのサトリ、ただの輸送機でしょ」
だから普通の人はモスグリーンに塗られた大型機なんて乗れないんだってば。
世界は平和だった。
あれだけの事が起きても、まだ。EU内はもちろん様々な国から支援の申し出があって、パリの再建に動いているらしい。
でも、何だか腑に落ちない。
まるで何かの号令があって、一斉に世界中のパニックが収まってしまったような、そんな不可解なもやもやがいつまでも残る。
だって経済は? 食糧やエネルギー、軍事や外交のバランスは? 流星雨が止まったって地球の裏側ではフェイクニュースが拡散するかもしれない、次は自分達の街がやられるって。買い溜めや暴動なんかが起きても不思議じゃない。
なのに奇麗さっぱり何もない。
朝の八時に起きて一〇時から会社で仕事を始める、いつものサイクルを七〇億人が保っている。
不気味だろう? そんなの。
世界が平和なのは良い事のはずなのに。それでもどうしても違和感を拭えない。
例えば、人類全体にモラルハザードが拡散する終末の人災・カラミティ。それだって、本物の神様ならスイッチ一つでオンオフできてしまうんじゃないか。
オンオフ。つまりそう、オフだけじゃない。オン側にだって。
……そしてこれまで一度もそうしなかったなんて誰に言える? 僕だって気づかなければ平和な世界で笑っている側だった。
「……、」
小さな画面越しに、濡れ髪の女の子が声を掛けてくる。
『こっちはもう東海岸のホテルでシャワーを浴びてディナー食べて、ベッドに飛び込んだところよ。トゥルースは地球の裏側だから大変そうね』
「よく我慢できたな、機内食」
『じょーだん、助かって最初に食べるものくらいこだわりたくない? キンキンに冷えた炭酸禁止なんてまっぴら。ラップで包んだ作り置きをレンジで温めるだけの保存食じゃ感動がないわ』
「なに食べた?」
『モンスターバーガー、トリプルミート。これ一個で七〇ドルもするバカみたいにでっかいハンバーガーだわ』
「うわあ、生きてるねえアナスタシア……」
『ええまったく。完食するのに二時間かかったわ。ホテルのウェイターはびっくりしてたわね、SNSの写真狙いじゃなかったのかって』
こっちはぺらぺらのプラスチックみたいな焼きジャケ定食だ。アナスタシアの言う通り、感動も何もない。
ただ、家には帰れるようだ。
……実は一つ恐れていた可能性があった。いきなり黒服に左右を固められて、方舟まで強制連行されるパターンだ。神様とかいう、訳の分からない管理者が邪魔な星を一つ消した。JBの話が真実だったのかはっきりしないまま。次、狙われるとしたら邪魔者は誰だ? 家族を守るために方舟を作った義母さんからすれば、守りの切り札を使わない方がおかしいくらいだった。
しかし、そうなっていない。
スマホのマクスウェルをスタンバイさせていた僕からすれば、不思議で仕方がなかった。
理由についてはシンプル過ぎた。
「間に合わない……」
ぽつりと、天津ユリナはそう呟いたんだ。
「仮にあの連中が本格的に介入してきたなら、地上の都合で勝手に作った方舟の存在なんて許さないはず。神は、自分で選んだ命だけを生かす。人の側の余計な足掻きは許さない。だから必ず一撃が来る」
皮肉、ではあった。
今まで世界中の命を選別していたのは天津ユリナだったはずなのに。その彼女が奪われる側に転落している。
いや、違うのか。
元から奪われる側だった。だから必死になって足掻いていたのかもしれない。
「迎撃しようにも戦力が足りないわ。アブソリュートノア再建のため、力を結集する意味でもJBの撃破っていう事実が欲しかった。今のままでは、足りないわ。人を集めるためのカリスマ性が。方舟は機能しない」
珍しい、と思った。
それにしてもあの天津ユリナが、こんな風に自分の弱いところをこぼすだなんて。
前の時は、JBと戦争するって息巻いていた。そこにはある程度の勝算があって、少なくとも最善のパターンに漕ぎつければ計画のロードマップの先の先に勝利の形が見えていたんだろう。
ただし。
今度は違う。
どんな形であれ人類をカラミティから救う、一定数は残して種を残せるよう尽力してきた魔王リリスが、見失っている。
地図か。
あるいは磁石か。
「……神様」
ぽつりと僕は呟く。
世界は彼らが回す。彼らが首を横に振れば、太陽の周りを回る星すら一瞬でなくなってしまう。テーブルについた汚れでもざっくり拭き取るように。
「マクスウェル」
『シュア』
「次は、来ると思うか?」
『シミュレーション不能なリクエストです。それこそ神のみぞ知る、としか』
「……、」
『ただし決め打ちで一つの詳細な予測ができないなら、考えられる可能性を全て列挙した上で最悪を想定すべきかと。同じ現場にいた以上、ユーザー様は神様サイドからその存在を認識され、近い内に干渉を受けるリスクがあります。具体的な数値はさておき、少なくともゼロではないはずです』
天災を生む者。人間には把握もできない膨大な歯車の動きに基づいて正確に星を傷つけていくてっぺんの存在。
荒唐無稽なファンタジーじゃない。実際に、これまでだってチラチラ見え隠れしていたはずだった。光十字って名前が一ミリも神様を意識していないだなんてありえないし、『コロシアム』を管理したヴァルキリーのカレンもそう、我が子を次々と殺されたエキドナが恨んでいた相手だって神様、吸血鬼はタブーを冒した人間が神に呪われて生まれるって話も聞いたし、JBだって神の力を部分的に掠め取ってあれだけの被害を撒き散らしてきた。そのJBですら管理しきれなかったヘカテの自由気ままぶりは、神様のスタンスを端的に示しているとも言える。僕達の戦いには、常にその存在が寄り添っていた。
最初から見えているはずの相手。
今さらになって太陽の存在に気づくような、あまりに間抜けな発見だった。
それでも、どうする?
分かったから何ができる。神様が直接迫り来るとして、対策なんてどうやったら良い?
倒す? 逃げ切る? 譲歩を引き出す? そもそも勝ちの形が、もう見えない。
人間も、アークエネミーも。大荒れの世界を認めた上で方舟に閉じ籠ろうとしたアブソリュートノアも、認められずにこんな世界からの脱獄を願ったJBも。
神様なんて、こんな連中だけは手の打ちようがない。
「義母さん、連中の動きは? 次はどう出る?」
「……もう始まっているわ」
魔王リリス。
特大の存在だけど、それでも天の神様には勝てなかった……悪の側に突き落とされた誰かがそう呟いた。
自嘲気味に。
天災を前に立ち尽くす、誰とも変わらない顔で確かに言ったんだ。
「常に、私達はヤツらの掌の上なのよ。だから始まりも終わりもない。ただただ永遠に、決まったレールを走らされて苦しめられるだけ」
JBは最低だった。
キャストのヤツらがパリでやらかした事なんて、一つも擁護はできない。
だけど、僕達は奪った。
余計な事をした。そのせいであの連中の介入が間に合ってしまった可能性だってある。神様以外の全ての命に残されていたはずの、最後のチャンスを僕は自分から棒に振ったのかもしれない。
だから。
「マクスウェル」
『シュア』
世界は平和になった。
みんな笑っていた、疑問を持たなかった。
だけど……きっと、そこに違和感を覚えた僕はもうレールから外れている。神様の庇護下にない以上、次は僕がああなるって可能性を考えた方が良い。
これまで必死に積み上げてきた全てを圧倒的な力で薙ぎ倒され、周りの誰もがそれで良かったと笑って拍手する世界。舞台さえ整えれば人間の感性なんか呆気なくすり替わるんだ。スポーツ、武道、犯人逮捕の瞬間、またはその先にある処刑。誰かが誰かを攻撃する行為は痛ましいだけじゃなくて、時に正反対の感動すら呼び起こす。
きっとそうなる。
向こうのスケジュールでお涙頂戴の燃料扱いされる方はたまったものじゃない。
これは、人間とかアークエネミーとか、でっかい何かを守るための戦いじゃない。
ここからは僕が僕を守り、それ以上に大切な人を助けるための戦いだ。
JBのキャスト、ヘルについては身柄を拘束してアブソリュートノアに預けたけど、それだけじゃ足りない。
次は、本物の神様との戦いになる。
この平和で安定した世界にわずかでも疑問を抱く事。僕はきっと、ヤツらのタブーを踏んづけた。
もっと世界の核心に迫る力がいる。
天災。
そんな言葉で身近な誰かが泣く瞬間なんて想像もしたくない。エリカ姉さんや妹のアユミ、後輩の井東さんに、何より委員長。誰一人、こんな理不尽に巻き込ませたりなんかさせない。天災は神が起こす。ヘルの言葉が正しければ、災害環境シミュレータはまさに神々の決定に抗うために人が創造した装置だったって訳だ。でも僕やマクスウェルだけじゃ、足りない。相手は条件次第では、手品のように惑星一つを丸ごと虫食い状態にして消滅させるほどの力を躊躇なく使ってくるんだから。
だとすると。
だとすると、だ。
「検索しろ。……JBの遺産と、後は可能なら軍用シミュレータ・フライシュッツとのコンタクト方法」
『すでに、先方よりリクエストは来ています。十中八九罠でしょうけど』