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震動があった。
低い、低い。地震にも似ているけど、日本でたまに見かける揺れとは少し違う。何か危険なエネルギーを内部に蓄えた、恐るべき唸り。たとえるなら、刺激一つで爆発的な突沸を起こしかねない不安定な熱湯を鍋のすぐ上から覗き見るような不安感がある。
「また来たか……」
義母さん。
天津ユリナは天井を見上げて気軽に呟いた。これもまた、いつも地震の時に決まってやってしまう、日本っぽい仕草だった。今日び天井から紐でぶら下がった蛍光灯なんて珍しいと思うけど、染みついた癖はなかなか直らないようだ。
こうして見れば、義母さんはやっぱり義母さんだった。
そもそもこんな所にいるのが間違っているんだ。僕も義母さんも。フランス国防省の非公開機密地下フロアなんてどう考えても場違い過ぎる。
天津ユリナはゆっくりと首を振った。上から下へ、つまり天井から再び床で潰れている僕の方に。
笑いながら、ほっそりした手を差し伸べるために。
「とにかく起きなさい、サトリ。こんな所でそういうオモチャ使われたら困るし……どっちみち、多分もうダメだわ、ここ。JBの方が早い」
「っ?」
「さっさと逃げないと死ぬわよ」
強烈な一言だったけど、僕もアナスタシアもまだ天津ユリナの立ち位置が見えていない。本人は危機を止めるためとか言っていたけど、現実にアブソリュートノアの頂点はこうして核管理システムのオールリセットに手が届く場所まで来ているんだ。
疑問を持っているのは僕だけじゃないらしい。義母さんの手を振り払ったのは小さなアナスタシアだった。
「トゥルースに触らないで」
「……またすんごいビジュアルだけど、そのお腹ってもちろんオモチャよね? サトリ」
そう言えばアナスタシアのお腹は(自前のスマホやペットロボットを守るために)大きいままだった。そしてアナスタシアは何を言われても横には逸れない。
「ワタシ達はアンタが敵か味方かも聞いてないわ、ほいほい信じてついていくと思う!? 現実として、天津ユリナには核を撃つ選択肢があるって事でしょ!」
「あのねお嬢ちゃん。貴重なご意見はごもっともなんだけど、それを容疑のかかった私に聞いてどうするの?」
天津ユリナは膝を曲げた。
まんま駄々をこねる小さな子供を相手にする調子で、笑みまで浮かべて彼女は下からアナスタシアの顔を覗き込んだんだ。
「私は何も悪い事はしていません、はい信じます。これが通用するのは背中を預けた相棒くらいのもので、極めて怪しい最有力の容疑者相手にやっても意味はないわ。そして、あなた達がそこまで私を信じてくれているなら、それこそ質問するだけの意味がない。違う?」
「っ」
「だからそういう大変アオハルでお恥ずかしい質問がしたいなら、私を良く知る私以外の誰かにしなさい。それも感情論だけでなく、合理的に疑いを晴らせる人に。サトリも……こういう時はまずお父さんに尋ねてみるべきだったんじゃない?」
ズズン……という低い揺れがもう一度。
義母さんはそっと息を吐いて、
「……限界ね」
「何が始まるって言うんだ、義母さん……?」
「知らなーい。こう見えて今回ばかりはお母さんも怒っているのです、ぷんすか。母はそんなに信用されてませんかそうですか。だけどサトリ、マグマで溢れ返る地下からどうやって無事に逃げ切るつもり? それも幼いアナスタシアちゃんを連れて」
マグ、え?
溢れ返るって、何だって!?
「何で今急に可愛らしくなった!?」
「あ、そこ? でも今は脇道に逸れているとほんとにリカバリーできなくなるわよ。流星雨の衝突で地震が起きた辺りからヤバいとは思っていたのよね。多分これ、どこかの地盤が砕けて新しい断層ができてるわ。そこから逆流してくると、色々まずい。水蒸気爆発とか、あるいはそれ以上にダイレクトにね」
ぞっ、と。
痛みの感覚が遠のくくらい、血の気が引いた。
「まっ、マクスウェル」
『警告、検知可能な揺れがこの一〇分で五〇〇回を超えました。ただの余震にしては分布が集中し過ぎています。おそらくユリナ夫人の予測に間違いはないかと』
くそっ、ここまでか!
多分だけど、マグマは本当に来る。
これ自体はJBが落とした流星雨の余波だから、アブソリュートノアは関与していない。けど義母さんがフランス国防省地下で何をしていたかは結局分からずじまいだ。ここで避難を優先した場合、全てはマグマの中に消える。後は義母さんの言葉を信じる以外に道がなくなってしまう。
良いのか、それで。
なあなあにしてしまって良いものなのか。ここまできて!?
「……義母さん、ここで何してた?」
「だからそれを私に聞いてどうするの。ママのお話信じてくれるうー?」
「なら通路の奥に何があった!?」
ぴくりと天津ユリナの眉が片方だけ動いた。
「このタイミングで自分から出てきたって事は、このタイミングで邪魔をしなくちゃならない切迫した理由がそっちにあったって話だよな? なら自分で調べに行くよ。言葉以外の何かが欲しい!」
「時間がないから無駄な事はさせたくないってだけかもよ?」
まずい事を指摘されたっていうよりは、状況を面白がっている方が近いかもしれない。とにかく義母さんは笑っていた。ちょっとニヤニヤの多い、イタズラを企む小悪魔みたいな感じで。
のろのろと起き上がり、天津ユリナを横に押しのける。
前へ。
与えられるだけじゃない。自分で奥に向かって、進む。
「アナスタシア、アンタは先に出てろ……」
半分は賭けでもあった。
僕だって分かってる、マグマの噴出が本当ならこんな所でモタモタ時間を潰している場合じゃない。何しろ天井は全部塞がれていて、階段や梯子で建物の中を通ってそのまま地上に繋がっている訳じゃないんだ。表へ出るにはあの迷路みたいなカタコンベをもう一度戻らなくちゃならないって事を考えると、楽な道のりとも思えない。行きと帰りで印象が違うかもしれない、目印なんか全部覚えている訳でもない。途中で蒸気やマグマが噴き出して道が途切れた場合、迂回路があるのかどうかも分かっていない。
だから、賭け。
ギャンブル。
テーブルに置くのは僕自身の命で、勝てば天津ユリナを揺さぶって安心が得られる。だけどこんな分の悪い賭けにアナスタシアまで巻き込めない。
スマホを掴む。
「マクスウェル、分析頼む……」
『天津ユリナ夫人が襲撃時、どこから出てきたかですか』
「違う。あの時僕が見ていた方向だ」
自分の事なのに覚えていないのは恥ずかしいけど。でもあの一瞬、義母さんはまずいと思ったから手を出してきた。僕は何かしらの地雷を靴底で薄く撫でたんだ。
『奥に向かって右手側三つ目の扉に注目しています』
「……了解」
そのままドアを開け放った。
予想していたような大規模なサーバールームじゃない。学校の教室よりも小さな部屋の中心に、冷蔵庫くらいのコンピュータがぽつんと一つ置いてあるだけ。だけど象徴的ではあった。他のネットワークから切り離された、禍々しいシステムの匂いがする。
外装表面にはフランス語らしき言葉で何か書いてあったが、僕には読めない。
コンピュータ全体に対してあまりに小さなノートサイズの液晶モニタを埋めているのもやっぱり知らない外国語だ。どうせプログラム言語の読み書き自体は英語で統一されているだろうに、やけにこだわってるな。
となると、
「……これが?」
『機材表面には計算装置01とだけ。まあ、馬鹿正直に核関連の危険な設備ですとラベルを貼るとも思えませんが』
重要なのはこいつの中身じゃない。僕はスマホを近づけて機材の液晶表面を撮影した。
「マクスウェル、指紋をチェック」
『拭き取られています』
「分かってる。拭き取り方のパターンは? ウチの窓やテーブルと照合」
実はこういう事でも個体差は求められる。もちろん法的には認められないから証拠と呼ぶには苦しいけど、僕達は裁判で勝ちたい訳じゃない。
『高数値で一致します、九七・八八%以上』
「つまり義母さんはこいつを拭いた」
『ただし拭き取り方のパターンがいくつか混在しています。天津ユリナ夫人のものは最新です』
「……それ以前にも誰かいた?」
わずかに沈黙。
元々の持ち主であるフランス国防省がこいつをしつこく磨く意義はあまりない。奇麗好きとかの可能性もあるから絶対にないとは言えないけど。
義母さんの部下や仲間の線はもっとない。一通り仲間内で機材を触ったら、その中の誰か一人が最後に痕跡をまとめて消せば済む。わざわざ代わる代わる画面を拭いても仕方がない。
となると。
全くの……第三者?
「JBよ」
びくっと肩を震わせて振り返ると、義母さんが肩をすくめていた。
「核管理システムのオールリセット、おそらくもう実行されてる。複数の安全装置が再起動するまで一〇秒ないでしょうけど、その間にいくつかの弾頭は権限が書き換えられたでしょうね。フランス政府がこの混乱の中で汚染された弾頭の数や場所を正確に把握できるかは未知数。……というか多分無理ね、そもそも役人はここにJBや私達が入った事も、オールリセットが起きた事にも気づいていないし。よしんば今この瞬間から弾頭チェックを始めたとして、割り出しには最低でも一週間かかると思うわ。その間なら自由に撃ち放題よ」
疑わしいのを含めてフランス政府が全弾頭をロックすれば、コマンドを拒否した弾頭の権限が怪しいんじゃあ……ってこれもダメか。核兵器を取り巻く環境はそんなに単純じゃない。冷戦時のアメリカとソ連ほどじゃないにせよ、基本的に核は互いに睨み合うから安全が保たれるんだ。片方の国だけ使えませんなんて話になったら外交や防衛の絵図が全部崩れる。
……つくづく負の遺産だ。今はもう、単純な爆発規模だけなら小さな核と同レベルの爆弾だって他にもあるのに、誰も厄介な仕組みを更新できない。
「マクスウェル」
『実際にオールリセットを行うにはかなりのデータをやり取りする必要があります。最低でも3D系eスポーツ用に専用チューンされた分厚いノートパソコン。スマホ等のモバイル機器では不可能ですね』
天津ユリナは片目を瞑って両手を軽く上げた。好きなだけ調べろってアピールしている。おかげで妙にメリハリのあるボディラインが丸出しだ。そしてあのぴっちりしたブラウスやジーンズの奥に何か大きな道具を隠せるとは思えない。
認めるしかない。
かなり高い確率でここには僕達以外の第三者がいた。
……カタコンベではスーツケースらしき車輪の水跡を追ってここまで来た。おそらくあれが解析コンピュータの容れ物だ。天津ユリナの懐に手を突っ込んでまさぐるまでもなく、そんなのあったら隠しきれないのはすぐ分かる。
つまり。
スーツケースをここに持ち込んで、再び持ち去ったのは別の誰か。
義母さんがそいつの行動を止める側なのか協力する側なのかはまだ見えない。だけどどちらにせよ、義母さんの動きを細かくチェックしておけばいずれ明らかになる。
「マクスウェル、今ここでできる事は?」
『特に何も。流石に国防省の核管理システムはシステムの手に余ります。それと仮にオールリセットが実行されていれば、今から中央ハードウェアを破壊しても各末端にある弾頭の制御は戻りません』
「パリ天文台で採取したJBのウイルスは? 確か遠隔操作系だったろ、この端末からあれを流して弾頭の権限を奪い返せば……」
『作ったJB当人のオモチャとかち合わせてどうするんですか、また奪われてしまうでしょう』
「まあそう簡単にはいかないか、くそ」
なら決まりだ。
ぐらりと不自然に地下全体が揺れる。
「アナスタシア、出るぞ!」
「うええっ? せ、せっかくなかまでもぐったんだからキーロガーかバックドアの一つくらいストレージにおいていっても……」
ドンッ!! と。
次の揺れは、これまでと違った。大きく、鋭く、何より不安を煽る縦揺れ。どれだけ広い空間でもここが分厚いコンクリで頭の上を塞がれた地下なんだって現実が急に押し寄せてくる。
揺れは不安定だけど、大きい。とっさに壁にすがって耐えようとするけど、収まらない。それどころかどんどん強くなっていく……!?
「サトリ、その子支えてて。どうせあなたがここまで引っ張ってきたんでしょう?」
天津ユリナだけが平然と二本の足で立っていた。壁に手をついたりもしない。単純な筋力じゃなくて、揺れに合わせて細かく重心を動かすバランス感覚の賜物だろう。ワイヤー一本の綱渡りくらいスキップしながらこなしそうだ。
ぱらぱらと、頭の上から何か細かいものが降ってきた。天井を見上げるのと太い亀裂が何本も僕達を追い抜いていったのはほぼ同時だった。
「来た!! アナスタシア!?」
もう返事を待っていられなかった。へたり込んでいる一一歳の細い手を掴んでとにかく機材から遠ざける。実際にはほとんど二人して床を転がるようなものだった、まともに立っていられない。
「こっちよ」
義母さんはすらりと背筋を伸ばしたまま、気軽にフロアを横断していく。もうついていくしかなかった。どっちみちこの地下から出ないとまずい。それは急に存在感を増した重苦しい天井を見るまでもなく分かる。
カタコンベに繋がる横穴へ飛び込む。
ガラガラ。
そんな単調な音の正体を最初僕は見失っていた。どこかで石でも転がっているのかなくらいにしか思っていなかった。
直後に猛烈な粉塵の暴風が僕とアナスタシアを後ろから一気に追い抜いていった。
真っ暗。
いよいよスマホのバックライトのレアリティが急上昇するけど、それでも光源にコンビニ袋でも被せたように明かりがぼんやりしている。
「がはっ、うっ!?」
激しく咳き込みながら後ろを振り返ると、ない。僕達がさっきまでいたはずのフランス国防省、その地下空間が岩だかコンクリートだかで丸ごと埋まって、隙間一つなくなっていた。
光は、潰えた。
「下が抜けたって事は、地上の建物も全部崩れたわね」
どこか他人事のように義母さんは呟いていた。お、お役所なら夜は人がいない、と良いけど。それから彼女はへたり込む僕達を見下ろし、腰に手をやって、
「あまり吸い込まない方が良いわよ。日本と基準が違うし、どこにも書類申請しない機密区画だもの。建材に何が使われているか分かったものじゃないわ」
そんなのよりも、まず蒸し暑さが気になった。何だこのじめっとした感じ? さっき通った時、カタコンベは暗く冷たい洞窟って印象だった。三人集まったから体温で空気が温まったって感じでもない。なんか、こう、風呂場やサウナの湯気でも顔一面に浴びているような……。
「注意して」
義母さんが呟いた直後だった。
ゴバッ!! と。
いきなり近くの壁が、割れた。溢れ出すのは大量の白。腕や足、肋骨や頭蓋骨。規則正しく積み上げられた古い人骨を吹き飛ばし、猛烈なスチームが通路へ飛び出してきたんだ。
「アナスタシア!!」
「変だわ、こんなの……」
卵が腐ったような匂いが漂う中、僕が慌てて小さな手を引っ張っても、アナスタシアは呆然としたままだった。
「パリにこんな活火山や温泉地帯があるなんて話は聞いたためしがないわ。何で地下からこんな硫黄泉が噴き出してくるの!?」
「ルールが変わったのよ」
義母さんは身を低くして、腕の振りで僕達に行動を促した。壁から真横へ鋭く噴き出た蒸気の直下を潜り抜けていくつもりらしい。
僕達と違い、天津ユリナは分かりやすい光源なんか掴んでいなかった。なのにお構いなしだ。
「流星雨が集中的に落下した事で、パリ一帯は表面どころか地中深くまでダメージを負ってる。地盤が砕けたって言ったでしょ。こんな水蒸気爆発なんてまだまだ序曲。今に傷から血が出るように、そこかしこからマグマが飛び出してくるわよ。急激にね」
この蒸気は足元を走る地下水脈か何かが沸騰でもしたっていうのか? 水蒸気爆発。言葉だけなら知っていたけど、実際に目の当たりにするとスケールの違いに匙を投げたくなる。
もう、すぐ足元まで迫っている。
灼熱の溶岩が。
「まずは地上だ……」
「それには賛成」
気楽な義母さんに案内されて、僕達は不自然に蠕動する地下墓地を進む。天井が崩れ、床は落ち、真っ直ぐな道を歩くだけで命がけだった。壁に張りついて、餃子やたい焼きの羽みたいに残ったわずかな床を踏んでじりじりと先を急ぐ。まるで秘宝を探して古い遺跡に挑むアクション映画の世界だ。
この壁だって、いつ爆発して水蒸気が飛び出すかはっきりしない。さっき来た道はすでに瓦礫で埋まっている。
「はあ、はあ」
まだ無事な床に足をつけても、アナスタシアの呼吸は激しく乱れている。単なる緊張だけじゃない。じめっとした湿気と卵の匂いに満たされた蒸し暑い空気は吸っても吸っても逆に体力を奪われていくようだ。しかもどんどん圧迫してくるような自己主張が強くなっていく。どれだけ広くてもここは地下だ。確か、硫化水素ってヤバいヤツだよな? 厳密な濃度の話とかは知らないけど、このまま蒸気の流入を放っておいたら、やがては丸ごと死の空間に化けるんじゃないか。
僕とアナスタシアだけだったら、とてもじゃないけどこの地下から抜け出す事はできなかっただろう。迷路のように入り組んだ通路で常に先へ進んでいたのは、やっぱり天津ユリナだった。
どれくらいの時間歩いただろう。
「見えてきたわ」
やがて義母さんが声を出した。
例の小洒落た地下道だ。
「出口よ」
喜ぶべき、はずだ。
確かに問題は山積み。フランス国防省の核管理システムはおそらくオールリセットを喰らっている。最有力の容疑者は、何故かアブソリュートノアじゃなくてJBにすり替わっていた。義母さんの言葉を信じるなら、むしろ天津ユリナはJBに核弾頭の制御を奪われるのを阻止しようとしていたって事になる。
つまり、オールリセットを察知されないように、あるいは天津ユリナを足止めしている間にオールリセットをしたくて、JBは小惑星をたくさん降らせた?
核は、アブソリュートノアが奪った訳じゃない。
そっちも込みで、JBは切り札を二つ持っている事になるのか!?
この核弾頭をどうにかしないといけない。おそらくこの混乱だとフランス政府は気づかない。僕達から伝えようにも、あの地下に入った経緯をどう話す? 普通に考えれば災害下のフェイクニュース扱い、信じてもらえたらそれはそれで国の機密区画に無断で押し入ったテロリスト扱いだ。どっちにしたって話を聞いてもらえる展開になるとは思えない。
フランス軍は今何発核弾頭を持っていて、それは固定の地下サイロから潜水艦まで具体的にどこに配備されていて、中でも危険な乗っ取り兵器はどれとどれか。こいつを調べ上げるのは相当骨だ。しかもこっちが阻止に動いていると分かれば、犯人は使える内にミサイルを使い切ってしまおうとするだろう。
それでも。
それでも、だ。
頭の上に何百トンの岩なり土砂なりある状況で、ガスや水蒸気も怖くて、いつ何が起こっても不思議じゃない危難のロケーションからやっと解放されるんだ。普通はもっとこう遠くにある目標や課題なんか全部投げ出して、ひとまず近場の安堵感に包まれるものなんじゃないのか? なんていうか、全くない。嬉しくない。そもそも安堵感なんかないし、何かが終わった感じもしない。
そう。
先に進みたくないんだ。
これはただの始まり。ここから先、さらにひどいものが待っている。根拠もなくそんな風に考えてしまうだけの何かが漂っている。
義母さんは僕の顔を見たんだろう。小さく手招きしてきた。
僕は義母さんの顔を見れなかった。表情として、何が浮かんでいるか確かめるのが怖かったんだ。
とにかく地下道からさらに自転車用のスロープを上がって、地上に出た。
後悔した。
赤。
灼熱の赤。
ついさっきまで、だ。
夜のパリは汚れた雨や逆流する川なんかで冷たい水の脅威にさらされていたはずだった。
それが見る影もない。
汚れた雨なんかいつの間にか止んでいた。
代わりに、どこもかしこも溶鉱炉みたいな赤やオレンジが溢れ出している。地上の亀裂どころか夜空まで焼け焦げていて、無数の火の粉と蒸気のカーテンで染め上げられた街は炎の脅威に包まれていた。
大地の傷から血が噴き出ていた。
莫大な熱のせいで、また上空の大気が乱れたのか? それで不自然だった雨雲が散らされて……。
ちょっとした建物の屋根を軽々と越えるのは、まるでマグマでできた噴水の壁だ。ていうかマグマを生で初めて見て、いっそちょっとした感動すらあった。多分、正確には麻痺してる。あまりの事態に真っ当に喜怒哀楽なんて感じようものなら心が壊れてしまうんだ。
道路は寸断され、アスファルトは高温でどろどろに溶けて、石やコンクリートの建物は炎に巻かれてオレンジ色に輝いている。高低差が明らかにおかしい所もあった。同じ道なのに、断層を境にして高さ数メートルの崖ができている。
ルールが変わった。
確かに。
「さあ、生き残るわよ」
天津ユリナは挑みかかるように言った。
「こんな所じゃ止まれない。核弾頭なんていうのはただの手段、JBの脱獄、その本命は別にあるんだから」
2
ゴール地点はどこだ?
どこへ行って何をやったら助かった事になるんだ、こんなの。
「……、」
ゴッ!! と信号機よりも高い場所まで溶岩が噴き上がっていた。特別な火山のてっぺんじゃない。つい先ほどまでみんなが行き交っていた広い道路。そこに入った太い亀裂から真上に向けて、立入禁止の壁のように赤い輝きが伸び上がっていく。
場所によっては川みたいになっている場所もある。気をつけるべきはまず第一に、坂だ。低い方にいたら助からない。
「ほらサトリ、頭」
「っ?」
義母さんに気軽に言われて首根っこを掴まれた。トタンかアルミの屋根で覆われたバス停の下に連れ込まれた直後、バチバチビチビチ!! というとんでもない音に鼓膜を叩かれる。
「噴石だわ……」
薄いドレスのお腹からまん丸の樹脂の塊を取り出し、中からスマホとペットロボットを回収しながらアナスタシアが言う。
呆然と、薄っぺらな屋根を見上げて。
「火山灰だけじゃないのよ。小石サイズって言ってもものによっては音速超えるって話だし、あんな雨を被ったらろくでもない目に遭うわよ」
気まぐれな硬い雨に当たれば即死。
それだけでも怖いけど、アナスタシアはしれっと別の懸念も出していた。
火山灰。
「まずいぞ……。今に電気も水道も使えなくなる」
「元々インフラは壊滅していたでしょ、道路だってあんな感じだし。地下の水道とか電線とかも結構やられてんじゃない?」
「……光ファイバーとかはどうなっているんだろう」
義母さんの言葉を耳にしながら、僕は思わずスマホに目をやった。
前にも言ったけど、携帯電話やスマホは無線機みたいに機材同士で繋がるんじゃなくて、必ず地上基地局を経由する。その基地局同士を結ぶのはやっぱり光ファイバーなんだ。つまり蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた有線のケーブルが全部やられると、結局無線のネットも途切れてしまう。
今もう一回マクスウェルが使えなくなるのは、流石に怖過ぎる。
「それより、もっと怖いのは目に見えない硫化水素の塊と」
言って。
義母さんはどこかよそに指先をやった。
「溶岩の熱で生まれた急激な上昇気流が渦を巻いて火種を飲み込むケース」
ゴォ!! と。
離れた場所で、太い音と共に石でできた家屋や店舗がめくれ上がるのを見た。赤いエレベーターを通って暗い夜空へと吸い込まれていく。
何だ、あれ?
炎でできた竜巻!?
「火災旋風よ。直撃したらどうなるか分かるわね? ほら逃げる!!」
遠くから押し寄せ、道順を無視して途中にあるものを片っ端から破壊していく赤い塔から全力で逃げ出す。
断続的に降り注ぐ噴石も怖いけど、あんなのが来るなら屋根の下でじっとなんか無理だ。ビルごとめくり上げられるか、高温の炎で蹂躙されるか。たっぷり酸素を蓄えたあの炎ならきっと鉄でも溶かす。まして地面で灼熱の川を作るドロドロの溶岩まで吸い上げてスプリンクラーみたいに四方八方へばら撒き始めたらいよいよ手に負えない。直撃するまでもなく近づかれただけで黒焦げだ!
「マクスウェル!!」
『悪い報告しか出せません。火災旋風は蛇行しながらこちらを目指しています、最大レベルの警戒を』
もう生き残るだけで精一杯だ。
JBや核弾頭を追うだけの余裕がない。まずは命を守って足場を固めないと!
『警告、北へは行けません』
「何で!?」
「見て、横一直線に遮るように入道雲みたいなのができているわ。おそらく高温の蒸気よ」
幼いアナスタシアの手を引っ張って走る僕に、オレンジ色の照り返しを受けるスクリーンみたいなのを義母さんは指差した。
「セーヌ川に溶岩が流入したんだわ。向こうはマグマ水蒸気爆発の連発で大変な事になっているはず。浴びたら火傷なんて威力じゃない、あの分だと特大のスチームオーブンにやられて橋も船も爆圧で全滅ね。残っていたとしても、むき出しの体じゃ橋の上は通れない。熱や蒸気は上に上がるから、数秒あれば蒸し鶏にされるわ」
だとすると、JBが向こうに逃げた線もなさそうだな。自分で起こした災害に巻き込まれて瞬殺されるほどレベルが低い相手とは思えない。
北へは行けない。
そして火災旋風も待ってくれない。
足を止めたらおしまいだ。
「あわあわわ、トゥルース! これならカタコンベにいた方が良かったんじゃない!?」
「大量の人骨で生き埋めとガスで窒息、どっちが良いんだ!?」
どこから溶岩が噴き出すかは予想のしようがないし、噴石や硫化水素だって同じく。運で人の命が決まる。普通だったらそんな最悪の状況だ。
「サトリ、こっち」
気軽に瓦礫を乗り越えて、義母さんが手を差し伸べてきた。
「アナスタシアちゃんの面倒しっかり見るのよ。私から直接言っても絶対聞かないでしょうし」
くそ。
義母さんの動きはどう考えたって怪しい。何か隠しているとしか思えない。でも一方で、言っている事は間違っていない。
何だろう、このイライラした感じ。
自分できちんと考えている事を改めて外から指摘される。そう、宿題やったのって何度も聞かれるような……。
天津ユリナ。
アークエネミー・リリス。
運任せが運に頼らないで済んでいるのは間違いなくこの人のおかげだ。神話に出てくるガチの魔王だなんて規格外の反則がいなければ、マクスウェルの補助があっても僕なんかとっくに命を落としてる。
でも。
義母さんは義母さんで何かを隠している。手を引っ張られて従っているだけだととりあえず安全だけど、とりあえずから抜け出せない。
答えはきっと安全地帯の外にある。
無傷で脱線するにはどうするか。そこを考えないといけない。……まったくなんていう反抗期だ、ママンからの親離れに核弾頭や流星雨まで絡んできてやがる……。
「走っても振り切れない! 火災旋風は振れ幅が大きいからどっちに逃げたら良いかマクスウェルにも断言できないって……!!」
「こっち!」
義母さんが僕達を引っ張り込んだのは、地下鉄駅のトンネルだった。
飛び込んだ直後、炎が酸素を吸い込む壮絶な音がすぐ頭上の開けた世界を蹂躙していった。
ようやく、立ち止まる。
恐る恐る天井を見上げる。ひとまず崩落はないし、高温の熱風や火山性のガスがトンネルを突き抜ける訳でもない。
もうへたり込んで深呼吸するしかなかった。
「……準備して。タイミング見て外に出るからね」
「上は地獄だよ。このままここで救助を待てば良いじゃないか」
「馬鹿ねサトリ、どこの地面が割れるか誰にもはっきり言えないのに? 海抜ゼロメートル以下に長居は無用。溶岩が流れ込んできたらどこへ逃げるの?」
また低い震動があった。
地震なのか、遠くで溶岩が噴き出したのか。僕達は自然と会話を止めて天井を窺う。
びしばきり、と。
得体の知れない血管が浮かび上がるように、分厚いコンクリートに亀裂が走っていく。
「アナスタシア……こっち」
天井を見上げたまま小さな少女を手招きする。あの亀裂が重たいコンクリを囲ったら、そこから剥がれて落ちてくる。大規模な崩落じゃなくても、例えばサッカーボールくらいの欠片でも頭に当たれば十分危ない。
「どこに行っても休めないわ……」
僕の方にひっつきながらアナスタシアが呟いていた。
「長引くなら水とかご飯とかも考えないと……。今夜どこで寝る、お風呂は? ここまでマグマが自己主張するなら、いっそ温泉くらい湧いてくれないものかしら」
ホテルの方は……まあ望み薄か。仮に建物がまだ無事だったとして、従業員が律儀に残っているとは思えない。電気が通ってなかったらエレベーターはもちろん、部屋の電子ロックすら開かないはず。
避難所?
どこに設置されているか知らないし、そもそも僕達外国人に向けて開いているのか。パリの住人じゃないからって理由で弾かれる可能性は少なくない。
じゅわじゅわと足元から汚れた水が出てきた。
「うわっ、何だこれ、今度は何が起きた……?」
『警告』
「出るわよ」
マクスウェルと義母さんから同時に来た。アナスタシアは困惑したように、
「湧き水? 何でこんな所で……」
『液状化現象だとしたら危険度最大、今すぐ行動してください』
溶岩に触れると水蒸気爆発を起こすから。あるいは、千切れた高圧電線と組み合わさると広範囲に電気が流れるから。
そんな可能性を頭の中で並べたけど、状況はもっとダイレクトだった。天津ユリナはこう言ったんだ。
「地下で不自然に湧き水が出るっていうのはね、これ以上ないくらいのサインなの」
「?」
「地盤にダメージがあって、この空間は間もなく崩落する。大至急ここから離れろってね!」
ちくしょう、ここもか!?
慌てて出口へ走ろうとした瞬間、足を取られて派手に転んだ。っ、砂浜どころじゃない。粘ついた泥水の中だと走りにくい事この上ない!
すぐそこにあるトンネル出口は、まるで竃の中を覗き込むようだった。
外はまだ溶岩や火災旋風で真っ赤に炙られているはずなんだ。
それでも出るしかなかった。
瓦礫だらけの地上へ出た途端、真後ろで爆音がいくつもあった。きっとトンネルの壁や天井が崩れたんだ。いちいち被害を確かめている暇もない。冷や汗と共に、僕はアナスタシアの手を引っ張る。すぐさま瓦礫に押された空気が生み出す暴風と粉塵が突き抜ける。外で燃えていた火の手が大量の酸素を浴びて一気に活性化していく。
まるで爆発だった。
風の流れを逆流するように、一気にトンネルへ向けて竜のブレスみたいな炎の塊が突っ込んでいく。
寸前でアナスタシアを抱いて横に転がっていたけど、棒立ちだったらきっと勢い良く膨らんだ炎に呑み込まれていた。鉄をも溶かす火炎放射器だ。
地上も地上で地獄だった。
直接的な溶岩だけじゃない。もう火が点いていない建物の方が珍しいくらいだ。様々な破壊で道路が寸断されたのか、消防車もやってこない。見よう見まねで消火栓をホースに繋げている人もいたけど、ノズルから水が飛び出した直後に爆発が起きて真後ろに薙ぎ倒されていた。大量の水が石油系の炎に触れて爆発を起こしたんだ。
必死の努力が、逆に被害を広げていく。
あちこちに黄色い塊も見えた。おそらくは冷えて固まった硫黄系の結晶だ。酸性だかアルカリ性だか、いよいよ目には見えない土壌や水質まで変わってきた。だんだん地球の環境から離れていく。
「いつまでもは続かないわよ」
義母さんだけがいつも通りだった。
この程度は見慣れていて、いつもの振れ幅の範囲内だといわんばかりに。
「長い時間をかけてマグマ溜まりが形成されている訳じゃないもの。砕けた地盤はやがて固まる。傷口にカサブタができるように、冷えた溶岩自身の力でね」
「マクスウェル」
『論は間違っていないかと。ただし、今すぐ止まる訳でもありませんが』
いつかは止まるのであって、今ここで収まる訳じゃない。結局は自分の身は僕達で守るしかないのか。
というか、
「……フランスの首都だぞ。JBのヤツら、流星雨だけでここまで広範囲に深いダメージを与えられるならもう核弾頭なんかいらないんじゃないか?」
それとも核保有っていうカードが欲しいんだろうか。
額の汗を拭い、火の粉の動きから風向きを読みながら、義母さんは笑って言った。
「彼らが求めているのは攻撃力じゃないわ」
「?」
大きな亀裂や溢れる溶岩を避けて僕達は歩き出す。単純に建物を上がって屋根伝いに進めば安全って訳でもない。下が崩れれば上も全部倒れていくんだ。
「つまり、核の力は別の目的で使おうとしてる。あくまでも材料集め、手段の獲得なのよ」
「まさか弾頭部分を取り外して燃料棒にでも作り替えるっていうのか? 無意味過ぎる!」
「ま、大抵の人なら原子力なんて兵器か発電くらいしか頭に浮かばないわよね。後は陽子や電子の衝突実験くらい?」
ちょっと離れた場所に石の雨が降り注いでいた。噴石。切り裂くような音が続くのは、音速を超えているからか。建物の壁やガラスが次々と削り取られていくのが、オレンジ色の照り返しで浮かび上がっていた。まるで機銃の掃射だ。
過ぎてしまえばそんなものかって感じだけど、硬い雨を浴びていたらもちろん即死だった。天津ユリナが常に風向きを調べながら歩いていなければそうなっていた。
「ねえサトリ、そもそもJBの目的は何?」
「知らないよ。なんかこの世界から脱獄するとか何とか言ってるけど……」
「ならその脱獄に、どうして小惑星のコントロール技術なんて必要なの?」
思わず状況を忘れて立ち止まるところだった。
その問いかけは、あまりにも根本的過ぎる。
「言うまでもないけどこれには莫大なコストがかかっているわ。だけど、どこかへ逃げる、隠れるだけだったら流星雨も核弾頭もいらない。つまりついでなのよ。元々JBには大きな目的があって、それを兵器として転用した。小惑星のコントロールは、武器として使うためのものじゃないのよ」
「だったら……。だったら一体何をしようとしているんだ、JBは!? 星の軌道まで操る術を手に入れておきながら!!」
「だから、それよ」
あっさりと、だった。
天津ユリナはこう答えた。
「JBはこの星に飽きているの」
「……?」
「そして我慢するくらいなら、自分達で新しい世界を創ろうとしている」
一瞬、何の話がどこに飛んでいったか迷子になった。
けど最初から答えは目の前にあったんだ。
「まさか……いや、うそだろ……。それって!?」
「地球だって最初は宇宙に漂う土くれだったのよ」
義母さんはくすりと笑う。
実際問題、多くの災害には決まった必勝法なんてない。過ぎ去るまでじっと耐える、という身も蓋もない選択肢が最善だったりする。
そんな中、天津ユリナは高い場所を目指しているようだった。ランダムに降り注ぐ噴石も怖いけど、濁流のような溶岩に一面くまなく呑まれるよりはマシってところか。
「たまたま太陽系軌道のどこかで一定以上の質量がまとまる事に成功できただけ。条件さえ揃えば『ここ』でなければいけない理由は何もない。……火星と木星の間だけでも数万もの小惑星、準惑星だの小天体だのが漂っているのよ? 冥王星の外ならもっと多い。これらを一ヶ所に集めて全方位から莫大な力で圧縮するだけで、第二の故郷なんか簡単に作れるわ」
莫大な、力。
そのための……核弾頭?
「……生命の神秘を何だと思っているの?」
アナスタシアが、呆気に取られたように呟いていた。すぐ近くに降り注ぐ大量の火の粉も、オレンジ色の激しい照り返しも気づいていないといった顔で。
「太陽から三番目に遠い星なら無条件で生命が湧き出てくる訳じゃないわ。四六億年もかけてゆっくりと積み重ねていった今ある環境は、ほんの少しの変化であっさり歪みかねない偶然の産物ばかりだった! まして『ワタシ達みたいなの』が定着する確率なんかさらに低いわ!! そんな、足し算で数字を合わせれば同じ星ができますなんて理屈は通らない!!」
「生命の神秘、ね」
鼻で笑うような天津ユリナの声色だった。
今は義母さんというより、魔王リリスが前に出ているのか。
「楕円軌道を描く氷の塊だってメタンやアンモニアを含むわ。これらに多量の太陽宇宙線を浴びせればアミノ酸が合成される。いわずもがな、生命の始点とも言える物質ね」
「……、」
ダメだ……。スケールそのものについていけなくなってる。
「私は望む望まざるに関わらず、新しい星には勝手に生命が根付くと考える。核起爆による土くれ圧縮の時に浴びる膨大なガンマ線がアミノ酸を合成するか、はたまたJBの入植者が目に見えない顔ダニや腸内細菌なんかを持ち込むか、正確な話は知らないけどね。だけど生命が居住可能な環境で実際に生物が活動を始めたら、絶対に周辺一帯は無菌のままではいられない。顕微鏡で覗いてご覧なさい、人間なんて隅から隅まで微生物にうじゃうじゃたかられて足の踏み場もないわよ?」
実際に実現するかどうかじゃないんだ。
そう信じてここまで行動してしまった組織がある。宇宙に浮遊する塵屑や岩塊を動かし、保有国から複数の核弾頭の使用権限を奪って。今はよその星へ行くまでの準備期間だから捨て去る地球なんかいくら壊しても問題ないだろうくらいの雑な考えで、だ。しかも最悪な事に、そいつらは今のところ世界の誰にも捕まえられない。
「アブソリュートノアは、お世辞にも表に出せる慈善団体じゃないわ」
ぽつりと。
天津ユリナはこう言った。
「……だけど私達は私達なりのやり方で、世界の危機を乗り越えるために戦ってきた。今ある世界に用はないから全部捨ててしまえなんて、そんな考えには賛同できないのよ」
考え方次第によっては、だ。
義母さんの言い分が正しいなら、少なくともJBはフランス製の核弾頭を市街地で起爆するつもりはないって話でもある。そう割り切ればいくらか救いになるだろうか。
これだけやられておいて?
どうせ捨ててしまうものだから踏み潰しても構わないって考えの持ち主が、救いをもたらすと?
「……無理だ」
「トゥルース?」
アナスタシアの不安げな声があった。彼女は先ほどから天津ユリナに圧倒され、言葉が少なくなっていた。ここにきて、橋渡し役の僕までおかしな事を言い始めたらどうしよう。そんな風に考えているのかもしれない。
平和主義を望むなら、僕はアナスタシアの期待には応えられそうにない。
どう考えても僕は争いを望む側だ。
「JBは別にパリの街並みやフランスって国が憎い訳じゃない。欲しいものがあるから、邪魔する人間を排除したいから。たったそれだけで、ヤツらは現実に『ここまで』の地獄を作り出した。……放っておいたら世界中がこうなるぞ。コスパが良いとか最短コースとか、そんな向こうが決めた理由一つでニューヨークだろうが上海だろうがみんな吹っ飛ぶ。そこに住んでいる人達なんかお構いなしに、ただ仕掛けを解除して先に進むために星形のドライバーが欲しいとか強敵とかち合う前に回復アイテムを補充しておきたいとか、そんな理由だけで」
「……、」
JB側の『準備』がこれで終わりなのか、まだまだ五個でも一〇個でも手順がいるのかは未知数だ。
プラスの獲得だけじゃない。マイナスを潰す行動もありえる。地球脱出に際し妨害してきそうなレーダー施設や空軍基地なんかを先制攻撃するかもしれない。
重要なのは客観的な合理性じゃない。
……JB側が必要だと『思えば』その時点で決行されるんだ。例えば材料一式全部揃ったとして、でも、念のためにスペアをもうワンセット欲しいと考えたら? その時点でJBは街を一つ吹き飛ばす。一回で済むなんてルールも特にない。不安を拭えるかどうかは、ヤツらの胸三寸でしかない。
僕達は。
ただただ体を丸めてJBという災害が通り過ぎるのを待つばかりだ。少なくとも、このまま黙っていたら。
今は、自分の頭には降り注がなかった。
……それで諸手を挙げて喜ぶのが、本当に正しいのか? こっちは被害を受けるいわれなんて一個もないっていうのに。こんなヤツらを野放しにするのが最大の災いだ。
「今回はたまたまパリだった。だけど何か気紛れ一つあれば、僕やアナスタシアの住んでいる街だってズタボロにされる。……なら放置なんかしておけるか。こっちはJBが勝手に始めたロシアンルーレットに付き合わされる義理なんかないんだ」
ていうか、ダメだ。
その圧倒的なスケール感に誤魔化されるな。そもそもJBが主導権を握っているのがもうおかしいんだ。パリの運命はパリが決めるし、モスクワの運命はモスクワが決めるし、東京の運命は東京が決める。そうであるべきだ、絶対に。
ロシアンルーレットをやりたいなら、まずその銃口は自分の頭に向けろ。僕達はお前のゲームになんか興味はないんだ。
「JBはここで叩く」
はっきりと。
そう言った。
「勝手気ままにやらかしたツケは全部回す。採算度外視でいい、もう二度とこんな事をやりたいとは思えないレベルでだ」
「異論はないけど……」
煮えきれない様子で呟くアナスタシア。
自分の身の安全を守る、助けを求める人を瓦礫の下から引っ張り出す。もっと他にやる事があるのでは。そんな迷いが見え隠れしている声色だ。
「ま、実際そうなるわよね」
一方で義母さんはどこか楽しげだ。ひょっとしたら自分の望む方向に流れができて嬉しいのかもしれない。
崩れて斜めになった石壁を上り切った彼女は眼下に広がる世界を見渡しながら、
「こっちがどれだけ予定を固めて防災計画を練ったって、JBの気まぐれが発動したら丸ごと台無しにされるんだもの。安全を確保するなら、まず元凶たるJBを叩いて潰さない事には始まらない。それも徹底的に、反撃のチャンスなんて残さない形でね?」
「……それは、手を伸ばせば叩ける距離にいるって事か? 地球の裏側からキーボードを叩いてサイバー攻撃しているとかじゃなくて」
「モチ。てか国防省の地下では手こずらされたしね」
アークエネミー・リリスの魔の手をかい潜り、必要な細工を施して、一切の証拠を消してフランス国防省の地下から安全に抜け出した何者かがいる。それだけで相手の技量がケタ外れなのは確定だ。
顔を出すのはかつてのリヴァイアサンのような、同格以上の魔王か。
あるいは、
「こういう時は人間なのよねえ」
天津ユリナは頰に片手を当ててどこかおっとりと言った。
魔術師、占い師、錬金術師、祈祷師、死霊術師、魔女術師、呪術師、陰陽師、召喚師、妖術師、風水師……。
あくまでも人間のままオカルトを扱う者。呼び名は色々あるだろうし、僕が頭に浮かべるその全部が必ずしも適切に当てはまっているかどうかもはっきりしない。映画やRPGから刷り込まれた知識だって山ほどあるだろう。
でも、少なくとも僕は見ている。
ヴァルキリーのカレンを意のままに操っていたブードゥーのボコールに、何かしらの神を宇宙船のクイーンに仕立て上げた最初のJB。
スキュラなんかも参加していたみたいだから、必ずしも人間だけの組織じゃなさそうだけど。マイクロプラスチックの一件ではヘカテっていう魔女の女神が面白半分に人間へ力を貸していたし。
共通しているのは、神のコントロール。
息苦しい世界からの脱獄を願うJBからすれば、ルールの壁を壊して抜け穴を作るための試行錯誤の一部か、変わった形の復讐なのかもしれないけど。
「そして自分の弱さを自覚している術者はその分だけ情報で戦おうとする。ついうっかりで自分の名前を明かす悪魔なんかよりもよっぽどタチが悪いわ。私達が悪の権化なんかを名乗らせてもらっているのが恐縮に思えてくるくらいにね」
「そいつは一体誰なんだ?」
「ピエール=スミス」
語感に馴染みのない名前だった。
アナスタシアよりも、さらに遠い世界の人。けどこれが本名なら、おそらくフランス由来の出自を持っている。
それでもやるか。
脱獄とやらを果たすためなら、この国の首都をここまで。
「死者の書を編纂するミイラとピラミッドの支配者。それでいて俗世を捨て去る事なくこの世界を彷徨う『人間』よ。割とギリギリの縁に立っているけどね」
「……、」
「だから安定した道を蹴って、自分からキツい道を歩いている。……どう考えたってゲテモノだわ。やっぱり人間を動かす一番の原動力は、七種の欲望なのかしら」
【Unknown_Storage】エジプト魔術の基礎理論【file05】
(以下は規則性のある象形文字を現代語に訳したものだが、それにしては炭素同位体の測定によると描かれた年代が妙に新しい。おそらくは物好きな学者の手による走り書きだろうと推測される)
エジプト神話において、神官の務めは大きく分けて二つ。太陽の制御と死者の管理にありました。
起点は二つですが人の体を基準に、外界と内界、と区切ってしまえば世界の全てとも言えます。
そして太陽と死者、そのどちらもが現状ある世界のその現状を守るという考えに根差した管理技術です。この巨大な宗教では実に多種多様な神が登場しますが、他の多神教がそうであるようにエジプト神話の神もまた完全な存在ではありません。太陽を示す神レーですら、年老いるとその力を弱めてしまうのですから。
こうした考え方は人間の王にも当てはまり、古代エジプト社会は王の実力やカリスマ性がいつの日か弱まる事も織り込み済みで構成されています。つまり、偉大な誰かの死を容認した上で先に進める文明を組み上げている。根幹にあるのは輪廻転生の思想であり、これを確実に成功させるためピラミッドやミイラといった技術が複雑かつ大掛かりになっていきました。
これらの魔術は非常に魅力的です。
ただし、もしもあなたがエジプト式の魔術を実行する者を目撃して、なおかつそれが神や王、世界や社会に対する無償の奉仕でないならば、あなたはすぐさま最大限の警戒をするべきです。
世界の安定を無視して自らの欲を満たすために実行される超常。
これは『黒い儀式』と呼ばれ、古代エジプト社会において最も忌み嫌われた力なのですから。
そしてこういった魔術はよほど多くの人を惹きつけたのでしょう。私欲や悪事のために使われる力にも拘わらず、いやだからこそか、その種類は異様なほど多いのです。
どうかあなたの前に白い儀式の使い手が現れますように。
世界の理性は未だ焼き切れてはいないと、力なき一編纂者は願っております。
1
実際のところ、誰にも正確な事は言えないらしい。
『そもそもパリのカタコンベは墓地として開発された地下施設ではなく、最初は採掘場だったようです。その全貌は不明。迷路のように掘り進められて放置されていた廃坑へ、遺骨をかき集めて規則的に埋め直したのが今日のカタコンベとなります』
「観光コースは一本道だけど、他の道に迷い込まないように分かれ道は鉄格子で塞いであるのよね。封鎖の奥についてはナゾだらけ。それこそ何百年モノで放置されてるからデジタル的な検索じゃ何も見えないわ。ついさっきだってかなり浅い層で歴史的発見があったみたいだし」
また厄介な。
……けど厄介って判断が即座に下せるだけでもマシか。やっぱりマクスウェルがいると違う。これまでの三六〇度手探りの真っ暗闇から、地図もあれば磁石もある、そんなプラスの変化を感じる。
がっつり秘境。
今時、月や南極だって検索エンジンの地図と写真で事細かに調べられる世の中なのに、こんなフランス首都のすぐ下にまさかの検索不能エリアとは。けど、だからこそアブソリュートノアっぽくもあるのかな。
ともあれ、
『入るのは結構ですが、無目的な探索は非推奨です。たまたまの偶然で天津ユリナ夫人と遭遇できる可能性は極小です』
「分かってる」
そもそも義母さんや倉庫の番人が今ここにいるかも見えてないんだ。何月何日何時何分にピンポイントでアタッシェケースを持ち寄って集合、だったら今カタコンベをいくら調べても何も出てこない。
ワインやチーズみたいに、地下墓地に人形を寝かせてじっくり呪いのグッズ化していますとか、動かせない事情があれば話は別なんだけどな。それも確証はない。
となると、
「……分かってるのは、義母さんと倉庫の人間がカタコンベ内のどこかで出会うはずって事だけだ。そしてこれは絶対に阻止したい」
「あのう。諦めて帰ったって線は?」
「それなら別に困らない、アブソリュートノアの戦争準備は失敗に終わったって事だから。これだけやったJBが野放しなのは怖いけど、ひとまず正面衝突の全面戦争だけは回避できたって事になるはずだ」
ただし。
多分それはない。
「……JBから先制攻撃を受けて、義母さん達が黙っていられるならな。ただでさえ煮え湯を飲まされての報復戦を、さらに先手必勝で邪魔されたんだぞ。天津ユリナは、一〇〇%切れてる。感じからして、何もしないですごすご日本に帰るとは思えない」
流星雨の直撃で大事なお宝が丸ごと吹っ飛んだって可能性もあるけど、やっぱり楽観的だよな。僕達はそれが物か金か、重金属の武器か電子のウイルスか、人間かアークエネミーかも分かっていないんだから。
だってどうする?
魔王の頂点サタンとか地獄最下層コキュートスの門とか、本当の本当に訳の分からないモノだとしたら。物理的な衝撃なんぞでどうにかなる相手とは限らないんだぞ。
引き出し作業は継続中で。
義母さんと倉庫の番人の接触を止めないと世界は破滅。
それくらいは警戒しておいてもバチは当たらないだろう。
となると、
「今すぐ出会えないなら、今の内に罠を張りたい」
せっかくマクスウェルとのラインは復旧したんだ。検索機能をフル活用させてもらおう。
「巨大ダンジョンのカタコンベを今すぐ網羅できないなら、せめて出入り口だけでも封殺する。フランスだって防犯ブザーくらいあるよな? 通報機能と地図アプリが連動したCCD搭載モデルなら、カメラ、通信、バッテリー、これら全部が詰まった小型デバイスって事でコスパ的に考えてあれ以上のものはないし」
方針をマクスウェルに伝える。
「……どこかで大量に手に入れて、あるだけ全部出入り口に仕掛けよう。義母さんが通りかかったらすぐ分かるように」
『出入り口とは言いますが、カタコンベ自体の全貌が不明である以上は確定的な事は言えないのでは? 全部で何ヶ所あるのです?』
「アナスタシア。カタコンベは膨大だけど、人が迷い込まないよう塞いでいるのはみんな鉄格子なんだよな? 隙間のない鉄扉じゃなくて」
「えと、それが?」
「つまりどれだけ入り組んでいようが、光も音も空気も熱も、全部通る」
夢のような話をしよう。
現実の帳尻はマクスウェルが合わせてくれる。
「出入り口のカメラを向けるのは外側じゃない。カタコンベの中だ。分かっている全ての入り口から光を投げかけて、別の出口から微弱でも必ず漏れてくる光を拾う。これを可能な限り全ての出入り口でやる。ようは複数のカメラの陰りを計測する事で、中で異物が動き回ればその位置が分かるよう逆算プログラムを組めば良い。……感じとしては配管の傷を調べる光探査プログラムの応用かな、光って言っても人の目で分かるような強さじゃないと思うけど」
「あのうー、それは何百人のエンジニアやプログラマが何年の時間をかけて? ここはワークステーションがずらりと並ぶシリコンバレーの大会社じゃないのよ!?」
「マクスウェル」
『シュア。すでにコンパイルとデバッグまで終わりましたが何か?』
小さなアナスタシアが飛びかかってきた。
口の端からよだれが垂れてる。
「売って!! やっぱりその悪魔ワタシに売ってちょうだい、いくらでも出すからッ! 何が量子コンピュータの実用化よ馬鹿馬鹿しい、到底追いつかない本物の悪魔がここにいるじゃない!!」
『はあ。システムはたかだか初期不良で投げ売りされていた携帯ゲーム機の基板を一四〇〇台ほど並列で繋いでコンテナに詰めてもらっただけですが』
「この非常識シミュレータを作ったトゥルースごと全部売れえッッッ!!」
やだなあ金持ち小学生とか。まあ飛び級で大学通って在学中に特許をバンバン取ってるスーパー女子大生(笑)の場合は自分で稼いだお金っていうのが唯一の救いかもしれない。
せっかく苦労して『武器』を取り戻したんだ。
この理不尽災害の真っ只中で、さらにアブソリュートノアやJBはパリや全世界に向けて泣きっ面に蜂まで繰り出そうとしてる。ここで自分の武器を使わない理由なんかあるか。
「しかしまあ、大量の防犯ブザーがいるな。マクスウェル、プログラムを組む上での想定モデルは? 紐を引っ張ったらブザーが鳴るだけじゃダメだ、不審者の顔を撮影して通報地点を地図アプリに点で打つ商品だぞ』
『ブランアンジュ052。二世代遅れで現役ギリギリ、カラーは特にピンクが不評なのかワゴンで投げ売り中です』
「ピンクに罪はないわ。ただフランスは女性らしさって概念を自分じゃなくてよそから勝手に押しつけられるのをメチャクチャ嫌うお国柄なのよ」
『大量購入の際は五〇〇メートル先、プリペイドメインの携帯ショップへどうぞ。二五ユーロもあればダースで買えます』
「……この停電の中で? 夜九時前だけど、外国のお店って結構簡単に店じまいしちゃうらしいじゃないか」
『技術プロモーションを兼ねた無人店舗ですよ。停電時の対応マニュアルに不備があるので、極めて高確率で開きっ放しのまま右往左往です。無人レジは応答しませんが、営業時間内に無人レジが応答しないから商品を購入してはならないという法はフランスの法律書を隅から隅まで検索しても出てきません。手動計算で正しい金額を算出した上でレジ台にお金を置けば盗難には該当しませんよ』
まくすうぇるけっこんして、とアナスタシアが小さな顔の前で両手を組んで謎のプロポーズを始めていた。これで口の端からよだれが垂れてるうっとり一一歳のハニートラップにかかったら逆にこのコンピュータは高度過ぎないか?
しかしケータイショップが無人か。何かと面倒な手続きばかりの日本じゃ考えられないな。
実際にそちらへ向かってみると、確かに。
停電の中でもぽっかりと口を開けたお店があった。他はシャッターを下ろしたり崩れかけたりしている分だけ逆に異様だ。暗闇の奥でごそりと気配が動くのでビクついたが、外からスマホのライトを向けてみれば隅の方で何人かの若い男女がうずくまって固まっている。表の雨はもう止んでいるはずだけど、ここで休憩しているのかもしれない。
「アナスタシアはここに」
「なに、何で?」
「良いから」
……彼らが武器を持っていないとは限らないし、縄張り意識を発揮して掴みかかってくる可能性もある。何人かの男女は、本当に最初から知り合いだったのか? 変な依存心を発揮して、目についた女の子はもう逃がさないマッチョな俺達で取り囲んで守ってやるとか言われても困る。
ルーヴル美術館では、実際に暴徒と警官が撃ち合っていた。そう簡単にタガは外れないと思うけど、よっぽどな条件が重なった場合はその限りじゃなさそうなんだよな。
ルーヴルの時は『金』の一択だった。
でもトリガーはそれだけじゃない。
アナスタシアは可愛くて薄着、雨でびしょびしょ、真っ赤なワンピースの短いスカートをちょっと絞れば水も滴る一一歳、とビジュアルだけでも結構やりたい放題だ。しかも中身は(パリの人から見れば)外国人で飛び級の大学生でお金持ち、トドメに正体は人間じゃなくてアークエネミーときてる。……変態、学歴コンプレックス、金目当て、国籍や人種の差別愛好家。実は色んな角度からリスクを抱えまくってるって訳だ。しかもこれらは、合併症を起こす危険もある。金持ちの外国人は嫌い、アークエネミーのくせに高学歴とか馬鹿にしやがって、などだ。
「マクスウェル」
『シュア、正しい判断と評価します』
人の心は難しく、完璧な行動予測は多分無理。マクスウェルにできるのもパターン網羅であって、確定のハンコを押した唯一の答えじゃない。なので複数の出口を確保できない密閉された闇は、やっぱり怖い。小さな女の子を表に置いて僕だけそっと中にお邪魔する。
「どれだ? 防犯ブザー」
『ひとまずレジの横を照らしてください。安売りのワゴンは奥まった所には置きません、一刻も早く消化したいはずですから』
あった。
ゴルフボールよりは大きめの、卵形のプラスチックがゴロゴロ。うーん、ピンクって色は確かに普段は選ばないけど、そんなに悪いものには見えないな。値段の方は……、
「マクスウェル、一・九九ユーロって何円だ?」
『もう約二ユーロでよろしいですか? リアルタイムの為替レートですとおよそ三〇〇円。この不安定な回線速度でのFXはオススメできませんが』
しないよそんなの。そういうのはアナスタシアみたいな理系人間の独壇場だろ、機械に聞くだけの僕にはハードルが高過ぎる。
しかしまあ、ワンコイン以内か。ほんとに安いな。そりゃあハードディスクの容量と値段を見れば分かる通り、コンピュータまわりは時間の経過と共にガンガン値下がりするものだけど。
カメラの数はあればあるだけ困らないけど、自分で買うっていうのを忘れちゃならない。多分パリは、まだユーロが使える環境だ。ごっそり買っていくとして、そうだな、ひとまず余裕を持って二ダースくらいかな? ヤバい、細かいのがないな。こういう時に限って。じゃあ余裕を持って五〇ユーロ置いていくか、チップも兼ねて。
『警告、日本円で約七五〇〇円ですよ』
「ぐっ、地味に堪える……!?」
停電中でスマホ決済は使えないから、ちょっと濡れたお札をレジ台に置いておく。
でっかい箱を両手で抱えた時だった。
爆発だった。
鼓膜が爆発した。
いきなり意味が分からない。
暴れる心臓をどうにかなだめて凝視してみれば、興奮した金切り声だ。女の一人が叫び声を上げ、周りの男達がのそりと振り返る。
こっちはフランス語なんかできない。
ただヤバいとだけ理解した。急激に心拍数が跳ね上がったまま、下がらない。なんだっ、ルールが見えない。一秒前まで大人しくしてただろ。何でこうなった! 金が見えたから? 日本語で話をしていたから? 何きっかけかも判断できないけど、やっぱりあの連中何か『爆弾』抱えてやがったのか!?
『警告!』
「分かって、っる!!」
両手はでっかい箱で塞がっているし、向こうが刃物とか銃とか持っていたら最悪だ。ひとまず牽制として地震か何かで床に散らばっていたモバイルバッテリーを蹴飛ばしつつ、さっさと店の出口に走る。
商品棚を薙ぎ倒すような、破壊音の洪水が追ってくる。
「なにっ、どうしたのトゥルース!?」
「走れ!!」
風を切る音を右耳が捉えた。
投げたっ、何を、後ろから飛んできたのは、ありゃ日本じゃあんまり見かけない消防の斧か!? 重たい塊が顔のすぐ横を回転しながら追い抜いていったらしい。あと三〇センチずれていたら後頭部をグサリだった、いよいよ命が危ない!!
緊張で心臓が痛い。
頭がくらくらする。
流星雨だの地震だの川の氾濫だの色々あったけど、言われてみれば人の悪意を直でぶつけられるのはこれが初めてだ。ルーヴル美術館の時だってこっちに直接銃を向けられた訳じゃない。
理解不能に会話不能。
さらには過去も未来も予測不能。何故こうなったのかも、これからどうするのかも、ヤツらの行動がまるで読めない。人を支える芯の部分がまるであやふや。
人災。人の災い。なんて無意味で、くだらなくて、しかもおぞましいんだ!? ここには何の運命も感じない。他人の都合や欲望で死ぬなんて絶対に嫌だッ!!
二人して通りを曲がって廃車の裏に隠れ、息を潜める。
しばらく待つ。
足音は?
自分の心臓がうるさくて聞き取りにくい。
斧も怖いけど、最初にあれを投げたって事は銃はない、よな? そもそもフランスってアメリカみたいに普通の人も銃持ってる国なのか? ああもうはっきりしない!! イエスともノーとも言えないから怖いッ!!
「(トゥルース説明してっ)」
「(しっ)」
どうだろう……?
こう、なんか遠くで暴れる音とか怒鳴り声とかは聞こえるんだけど、追っては来ないな? まだ店の中に留まっている? となるとテリトリー侵害とかで爆発したんだろうか。解せない、不可解だ。最初に店へ入った時は大人しかったのに。
その時だった。
『フランス語を分析した限り、災害下の略奪と勘違いされたようですね』
「なに、えっ?」
『無人レジにお金を置けば問題ないはずですが、全てのフランス国民が自国の法律に明るい訳ではありません。いわゆる誤想防衛。ユーザー様も、日本の六法全書を丸ごと暗記してはいないでしょう? ようは、きちんとお金を払ったのに泥棒扱いされただけです。ユーザー様に非はありませんのでご安心を』
しばらく、画面の文字が頭に入ってこなかった。
えと、つまり。
ちょっと待って。まさか。
嘘だよな。
……間違った、正義感……で殺されかけた……?
「何だよ、そりゃあ」
『事実です』
無意味だ。
あまりに愚かで馬鹿馬鹿しい。
もう私利私欲の暴君ですらないじゃんか……。
『脱出時に商品のモバイルバッテリー等を蹴飛ばしていますが、こちらは正当防衛の要件に合致します。無事に過ぎ去ったのでもうぶっちゃけますが、あの状況なら反撃して殺してしまってもこの国の法律的にはカウントされませんよ』
「しないってば、そんなの……」
やっぱり海外は感覚が違うな。過剰防衛って考えがそもそもないのか?
ともあれ、もう脱力して車の陰でへたり込むしかなかった。そんなので僕達は追い回され、寄ってたかって消防の斧だの消火器だのを使った数の暴力で殺されかけたっていうのか? 運命論なんか信じないけど、直撃していたら何のために生まれてきたのか分からないような無駄を極めた末路を迎えるところだったんだぞ。
ただ、迂闊だったな。
正直に言うとすっぽ抜けていたっていうか、その考えはなかった。そうか、悪人だけを注意していれば、正しいルールだけ守っていれば、それで全ての危険を回避できるものでもないのか……。
暴力のカードを持っているのは悪人だけじゃない。
正義側に殺される展開も、ありえる。
とにかく、だ。
「これで機材は揃った」
『シュア』
「それじゃあ改めて、カタコンベにアタックしよう」
2
考えられる限り、全ての出入り口にカメラとライトを設置する。
どれだけ微弱であっても外から中へ投じた光は屈折、反射を繰り返し、人の目には感じ取れないレベルにまで減衰しようが必ず別の出口へ辿り着く。
カメラはその弱い波を捉える。
迷路のようなカタコンベのどこかに人が立ち入れば、どんな形であれ光は遮られる。
二〇なり三〇なりのカメラが各々捉えた『陰り』の信号を統合する事で、逆に人影が迷路のどこにいるかを逆算する。
つまり迷宮全体を光ファイバーにでも見立てて、ねじ曲がったファイバー内を不規則に転がる砂粒を正確にサーチする、って考えれば良い。
カタコンベは結構広い。
地上を歩いてあちこちにカメラを仕掛けていくだけでも、ちょっとしたウォーキングになりそうだ。
それでも大体終わらせた。
出入り口の一つ。ここは雨を気にせず進める地下道か何かの拡張工事でぶつかったのか? とにかく雑な鉄扉の奥を覗き込む。
「こんな感じか?」
『シュア。ただしカタコンベ自体の全貌が見えていないため、結果に誤差が生じる可能性があります。大雑把に距離や方角は検知できますが、合流したと思ったら両者がいるのは地下二階と地下三階だった、直線通路と思ったら鉄格子で塞がれていた、などのアクシデントにも備えてください』
「そもそも動く影はいるのか?」
『います』
あまりにも即答過ぎて、逆に実感が湧かなかった。
アナスタシアが飛び上がって、
「それじゃあアブソリュートノアは在庫引き出しを続行しているって事!? まだ戦争なんて言葉にこだわって!!」
『不明です。そもそも分かるのは人の影であって、それが具体的に誰かという特定はほぼ不可能です』
「……つまり、義母さん以外の線もあると?」
『わざわざこんな日に地下墓地に入りたいと思う人がいるかは不明ですが。一時的な避難か、盗品を隠しているか、あるいは元からここを寝床としている路上生活者でもいるのか。選択肢だけならいくらでも』
……他にも、アナスタシアは酸性雨から地下墓地を守ろうとしてビニールシートを引っ張り出していたっけ? 見渡す限り人骨を敷き詰めた迷路なんて僕からすればおっかないけど、中には心配して被害の有無を確かめに来る人とかもいるかもしれない。
だとするとまずいぞ。
そういった人達がたまたまアブソリュートノアと鉢合わせしたらどうなる? ただでさえ後ろめたくて秘密にしなくちゃいけない何かを抱えていて、しかもすでにJBから受け渡しの妨害を受けているんだ。義母さん側が疑心暗鬼に囚われている場合、安全を確保するためにとりあえず排除、なんて考えにもなりかねない。
そうなる前に。
虎の尾を踏む事がないように、危険を伝えるかカタコンベから追い出さないと。
『当然ながら、天津ユリナ夫人以外の人物であってもリスクは否定できません。そもそもこの状況でカタコンベに人がいるのは不自然ですし、向こうもユーザー様を見つければ不審に思うでしょう』
「分かってる……」
ついさっきも、普通に買い物をしただけで斧を投げつけられたばかりだ。本人が正しいと思ってる事と、それが実際に正しい事なのかはまた違う。正しいと思って間違った判断を下す人物だっている。……善良かどうかは、安全かどうかまでは保証してくれないって訳だ。
まして、他に誰もいない地下深くで、間違いと知ったまま間違いを犯せる人と鉢合わせしたら?
つまり。
本物の、確信犯の悪人に。
それだって、やっぱり確率はゼロじゃない。
「……アナスタシア」
「嫌よ。今度はワタシも行くわ」
いきなり拒絶された。
小さな金髪少女はぷーっと内側からほっぺたを膨らませて、
「ワタシの知らないトコでトゥルースが危険な目に遭うの、さっきが初めてじゃないわ。エッフェル塔の辺りでもトゥルースはやらかしていたわよね。だから行く。もう、自分の選択肢を横から取り上げられるのは真っ平だわ」
『シュア、システムとしても何かと暴走しがちなユーザー様を物理的に止められる人物の同伴を強く推奨します。それから表で待たせておけばアナスタシア嬢が安全などという保証は一ミリもありませんが』
ひどい扱いだ。
ただ、一一歳のアナスタシアを一人にしておいてさっきみたいな『正しい人』が来た時も問題か。災害現場じゃ保護と誘拐は紙一重って聞くし。
「……分かった。離れるなよアナスタシア」
「保護してるのはこっちですう」
何とも頼もしいアナスタシアに小さな手で導かれて、一歩。
カタコンベの中へ。
湿った場所だった。
涼しいというか、寒い。今さらながら雨でずぶ濡れだった事を思い出す。
スマホのライトを向けてみれば、入って五歩で白いゴツゴツが壁を埋めているのが分かった。
人間の頭蓋骨がびっしり。
「……、」
「トゥルース?」
アナスタシアはキョトンとしていた。
骨が怖い、んじゃない。次第に慣れてきている自分に驚いていた。殺人現場で死体と同居しているっていうよりも、生物室の骨格模型くらいの気持ちまで感情が落ちてる。
これで良いのか?
効率は上がるんだろうけど、代わりに、知らない間に見えない心の表面を削られているような。
素材を無視すれば、感じとしては手掘りのトンネルとか映画に出てくる防空壕みたいな見た目だった。両腕を水平に広げれば左右の壁に指先がつく程度の湿った通路で、湿気のせいか天井から水滴が落ちる音が時折響く。
「保護の状態どうなってんのよ。歴史的な遺産なんでしょ……」
アナスタシアは半分呆れたように言っている。
通路は直角に折れ、さらに進むと枝分かれしていた。こちらは白っぽい石でできた、下への階段もある。
「マクスウェル」
『反応は下からです』
……そういえば、下に降りても電波は繋がるよな? 多分ここは観光コースじゃないし、地下深くでいきなり途切れたら死の迷路に閉じ込められるぞ。
「パンくず落とすとか、アリアドネの糸とかって必要?」
「やめてよね、歴史的な遺産って言ってんでしょ」
富士の樹海でも落書きとかが問題になっているんだっけ?
常に電波状況を確認しつつ、階段を降りていく。これ、マジでダンジョンだ。
「ああそれ、語源的にはフランス語なのよね。お城の主塔、ドンジョン。中には不気味な牢獄なんかもあったとか」
アナスタシアからいらぬ本格仕様のお墨付きをもらいつつ。
幸い、電波は大丈夫っぽい。
通路を塞ぐ錆びた鉄格子の扉は太い鎖と南京錠で雑に閉じてあった。ただ、侵入者が通っているとすれば錠前は外してあるか鎖が切れているはず。念のため蝶番とかも見てみるけど、赤い錆が床に落ちている様子はない。誰も動かしていないならひとまず無視、かな?
「立入禁止の鉄格子、どうしても先に行かなくちゃならない事態になったらどうする?」
「錠前については市が後からつけた備品だからぶっ壊しても問題ないわ。ホームセンターで五ユーロくらい?」
「そっちじゃなくて、技術的に」
「多分ソフトボール大の石を叩きつけたら普通に砕けるわよ? カタコンベって別にダイヤや金塊を守るために鍵をつけてる訳じゃないんだし。最低限、観光客が死の遭難コースに迷い込まなければオッケーってだけ」
……僕達にもできるって事は、義母さん達なら造作もないだろう。動向を探る意味でも、鉄格子は見つけるたびに鍵を確認してみるか。
不幸中の幸いなのは、変な虫やネズミなんかがいない事かな。ジメジメした広い地下空間だけど、食べ物がないからかもしれない。
何度も通路を曲がると、もう方向感覚も曖昧になってきた。
案内板のない巨大な地下鉄駅をひたすら歩き回っているって感じだ。
だから正確な事は言えない。
しばらく歩いた時だった。
何かが変わった。
『警告』
「……、」
いったん、だ。
スマホのライトを消す。画面のバックライトもだ。完全な暗闇の中、アナスタシアの小さな手を握った。
息を潜める。
……やっぱり何か違う。圧? それとも温度か空気の流れだろうか。きちんと言えないけど、何かがわずかに遮られている気がする。
距離感は掴めないけど、いる。
誰かいる。
心臓が縮む。人の気配が嬉しくないなんて事態も珍しい。
「(アナスタシア、しばらくスマホは禁止だ)」
「(明かり厳禁なのは分かるけど、じゃあどうするのっ?)」
人工の光を消せば、後は塗り潰したような闇。
少なくとも通路の先から光は漏れてない。暗視ゴーグル装備の人間とか夜目のきくアークエネミーとかだったら打つ手なしだけど、まだ遠いか、あるいはあっちも明かりを消して様子を窺ってるっぽい。スマホのライト自体は消したけど、おそらくあっちの方が先だった。しかもここは一本道だ。鉄砲なんかで大雑把に乱射されただけでも逃げ場がない。火炎放射器とかだったら最悪も最悪だ。
余裕が欲しい。
相手より情報で上回りたい。
……防犯ブザーやライトを出入り口に固定するのに、ビニールテープを使っていたよな。今時のデジカメは人の目より高性能だし、光さえ漏れなければ。いけるか?
「っ、何かでピントを合わせる必要があるか。アナスタシア、お前本職のハッカーなんだから細々とした工具セットくらい持ってきてるよな? スマホの蓋を開けたり基板をいじったりする系の」
「? トゥルース何してるの?」
「とにかく精密作業用のルーペを貸して欲しい。ほら早く」
「わひゃっ? どっどこに手を突っ込んでいるのよトゥルース!?」
「しっ」
なんか暗闇の中でわたわたし始めたアナスタシアを黙らせる。
やってるのは簡単で、横に倒したスマホを両目に押しつけた上で、顔と機材の隙間をビニールテープで塞いで固定しただけだ。ピントを合わせるために、適当なレンズを噛ませているけど。これに簡易VRのアプリと肉眼より精度が高いイマドキのスマホカメラを連動させると、だ。
「マクスウェル」
粗いけど、出た。
補整用のレンズが一つしかないからキープできるのは片目だけ。でも一応はゴツゴツした人骨の壁も、大雑把に通路の奥行きも認識できる。大きく首を振ると若干ブレが出るけど、真っ暗闇よりは断然マシ。
いけるぞ、DIY暗視ゴーグル!!
「トゥルース? 説明して」
「ぶっ!?」
考えなしに視線をやって、危うく大声を出しかけた。ただでさえ薄着でずぶ濡れ、しかも暗視補整が変な風に作用したのかっ、透けてる。アナスタシアのうっすーいドレスがすっけすけになってる!?
何にも気づいてねえ無防備少女は奇跡的に長い髪でガードしたまま怪訝な顔で首を傾げて、
「トゥルース???」
「何でもないっ、とにかく暗闇でも視界は確保できたぞ。手を引くから先に進もう」
正面に立たせるとメチャクチャ心臓に悪いっ。かと言って安全に進むためには暗がりで光は出せない。ここは僕が一歩前に出て先導しよう、そうすればアナスタシアを視界から外しておける。
ちなみに暗視装備を確保しても鉛弾は止められない。向こうが『見えていない』としても、適当な乱射だけで十分危ないんだ。できるだけ通路の壁際に寄りつつ、頭を低くして、ゆっくりと音を立てずに通路を歩いて進む。
次の角までは……一〇〇メートルくらい? 近づくにつれて、緊張が高まる。
曲がり角の向こうに誰かいたとして、どうする。一般人か、アブソリュートノアか。確かめる方法はないし、よしんば一般人として向こうは不審に思わないのか。ただでさえこの人骨だらけのカタコンベの中、明かりも持たず暗闇の中を手作り暗視ゴーグルをつけてひっそり近づいてくる知らない人間なんか。
何か。
判断を誤ったか?
けどここはアークエネミー・リリス、アブソリュートノアを支配する天津ユリナの秘密が眠る場所。すでに敵地だ。呑気に無害アピールして相手がアブソリュートノアの精鋭だったらそれこそ目も当てられないし……。
正しい答えなんかないかもしれない。
とにかく角まで辿り着いた。
ごくりと喉を鳴らして、そっと奥を覗き込む。
「……誰も、いない?」
「トゥルース、手探りじゃなくて、まさか見えてる???」
確かに『何か』あったのにな。ただのプラシーボか? あるいは慎重になりすぎている間に、奥にある別の通路に消えた?
間が抜けた感じで緊張が緩む。
ロシアンルーレットでハズレが確定した時ってこんな気分なのか?
安心はするんだけど、拭えない。ごりっとした不審の塊が胸の中に残っている。
すぐ隣では、まっすぐ見れない感じのアナスタシアが何かごそごそしていた。
「そうか、スマホのカメラと画面使った暗視ゴーグルだったんだわ。そんなアイデアあるなら教えなさいよトゥルース」
「あっ!」
ヤバいっ、あのルーペ予備でもあったのか!? あれさえなければ至近べったりな画面と目のピントを合わせられないから真似される心配もなかったのに!
「どれどれ、こんな感じかなーと。……、……………………………………………………………………………………………………………………………」
ようやっと事態に気づいたらしいアナスタシアが沈黙していた。主に視線を下げ、暗視補整下だと自分のドレスがどれくらいすっけすけになるかを確認して。まあ、うん、ええと、アナスタシア。長い髪のおかげでギリギリ守られているけど、一一歳ならそろそろブラジャーが必要になってくるお年頃なんじゃないカナー?
音もなく、そっと逃げようとしたら物理的に手を噛まれた。
「がるぐるぐる!! トゥルースっ!!」
「痛い痛いぎぃやあ!? 不可抗力っ、僕だって試してみるまでこうなるなんて知らなかった!!」
「でもがっつり見てたわよね? 黙ってずっと見ていたわよね!?」
「頼むアナスタシアできるだけそっち見ないようにしてんだから正面に回り込むなっ! 髪だけじゃ怖いからちゃんと手でガードして!!」
……こ、これだけ叫んでいても反応がないなら、やっぱりもうここには誰もいないのか? アブソリュートノアは一体どこに消えた?
隣からなんかブツブツと呪詛の声が流れてくる。
「トゥルースばっかりずるいトゥルースばっかりずるいトゥルースばっかりずるいこんなの不公平だわ」
「ちょっと静かにしてくれアナスタシア」
「ワタシの納得は!?」
「えー? 俺のなんか見てどうするんだ。しょうがないわがまま娘め。ほら、どれだけ頑張ったってパパお乳なんか出ないけど、寂しくなったらいつでも吸いついても良いんだぞ。……あのう、これが正解?」
「……おかしいわ、同じ事を髪のガードもなくやり返したのにどうしてワタシがダメージを喰らうの? トゥルースってこんなドヘンタイの道を突っ走っていたかしら」
『今さら何言ってるんですか』
でかいっ文字が!? いやまあ目線を隠すよう顔にスマホをベタっとつけてるからだろうけど。
ややあってふきだしが小さくなった。
そして文字列はサイテーだった。
『デコメガネ委員長の水着ダンス見たさに完全VRの災害環境シミュレータを組み上げた人ですよ。歴史に名を残すド級の変態に決まっているじゃないですか』
「マクスウェル、このふきだしを使ってアナスタシアの体を隠せ。早くっ」
アナスタシアはアナスタシアで、なんか涙目でビニールテープと格闘してた。ていうか手が入ってるのは服の中だ。
「……ああもうっ、どうしても透けちゃ困るトコはテープで塞いでおこっと」
……まあ、防御力としては絆創膏とどっこいどっこいかな。言ったらまた噛まれるからそっとしておこう、あっちはできるだけ見ないようにしないと。
女の子の準備ができたら改めて奥へ。
どこを見ても似たような人骨通路と、丁字や十字の交差点に階段。後は錆びた鉄格子。先に進んでいるのか一定エリアをぐるぐる回っているのかもはっきり言えなくなってくる。
奥にはやっぱり人影はない。
ただ気になったのはそこじゃなくて、
「……マクスウェル、これ何だ?」
『注目しているのは床ですか?』
「ああ」
「ねえトゥルース、こっちにもマクスウェルのメッセージを教えてよ。これじゃアンタの画面は見えないわ」
アナスタシアが僕の服を掴んでぐいぐいおねだりしてくるとまたキケンなビジュアルが目の前一杯に飛び込んできそうなので(てかあれで隠したつもりなのかっ?)適宜会話内容を補足しつつ、だ。
『何かを引きずったらしき、水っぽい痕跡が見られますね』
「小さな車輪、だよな。台車とか?」
『二重に引いてあるところからして、おそらくスーツケースでしょう。車輪幅からメーカー名を検索できますが、実行しますか?』
「いやいらない。必要なのは中身だろ」
『ではこちらだけ。おそらく二重車輪が四セットですが、その間隔を見る限りスーツケースの容量は八〇リットルほどですね』
「……札束から小型核まで何でも入りそうだな」
『シュア、手足を曲げれば人間でも収まります。または、人間大のアークエネミーでも』
参ったな。
やっぱり『いる』って事で間違いなさそうだ。ただこいつがアブソリュートノアだとして、ここまできても相変わらず扱う品が見えてこない。毒ガスとか細菌とか、漏れちゃ困るものじゃないと良いんだけど。
……一般人の可能性は低そうだな。
八〇リットル? これだけの大荷物を抱えておいて、普通の人が明かりも点けずに移動できるか? 壁に擦ったような跡もないし。やっぱりこいつ、僕達と同じかそれ以上の暗視装備持ちだ。
いる。
義母さんが統率するアブソリュートノアまでは、近い。
3
しかしあのJBが流星雨だの小惑星だのをバカスカ落としてまで食い止めたかった何かだ。具体的に、義母さんは何を手に入れようとしているんだろう。
近づいているのは分かるけど、僕達で引き出し作業を阻止できるのか?
どうやって。
こっちは誤想防衛だか何だか、勝手に勘違いして金切り声を上げる村人Aからだって反撃の一つもできずに逃げ回る始末なのに。
「……、」
「なに、トゥルース?」
アナスタシアはアークエネミーだけど……あてにはできないな。シルキーは古い屋敷に住むお手伝い妖精で、気に入らない住人や客がテリトリーに居座った場合は容赦なく嫌がらせしたり首を絞めたりするらしい。ただし逆に言えば、それくらいが限界なんだ。吸血鬼やゾンビのような、街だの軍だのを丸ごとぶっ壊すほどの『分かりやすさ』はない。筋力は一一歳女子相当で、人間より多少は耐久性が頑丈な程度。それくらいで考えた方が良い。
いざ取っ組み合いになるなら僕がやるしかない。そうならないのがベストだけど、多分アブソリュートノア相手に言葉の説得は無理だ。
天津ユリナの子供?
それは本当に、組織全体にくまなく通じる特権か。義母さん個人なら通じるかもしれないけど、他のメンバーはあっさり殺しに来る可能性だってある。何しろ僕は滅亡後の世界に残すべき偉大な科学者や芸術家として彼らの作った方舟に乗る訳じゃないし、建造にも貢献していない。関係各位の知り合い、おこぼれの乗船者。他のメンバーから見ればお荷物要員なんて別に死んでしまっても構わないはずなんだし。
それに、嫌だ。
助かる側の特権を振りかざして話を丸く収めていく形になるのは。こればっかりは合理性の話じゃない。
となると、
「……マクスウェル、今の内に攻撃手段の検索。ただし謎の暗殺術とか手持ちでガトリング砲撃ちまくる方法とか、僕のカラダのスペックじゃあ今すぐできないものは除外」
『そもそも戦闘行為自体が最大級に非推奨ではありますが』
そんなの誰でも分かってるよ。
罠の危険もあるけど、ひとまず床の車輪跡を慎重に追っていく。ワイヤーやバネ仕掛け、レーザーやX線、超音波や電磁波。そういう物理的なトラップは特になかった。今さらだけど、そうした判断ができるのもお手製ゴーグルの恩恵だ。
さらに階段を下りた時だった。
「っ」
「鉄格子が……」
危険な通路に迷い込まないよう後から設置された鉄格子の扉。そいつを縛りつけていた太い鎖がだらんと下がっていた。鎖を千切った訳じゃないらしい。鍵の外れた南京錠が床に転がっている。
これまでなかった光景だ。
近い。
だけどアブソリュートノア側も慌てているみたいだ。これまでなかったって事は、今までとは対応を変えるきっかけが必要なんだから。それは何だ? 合流の時間が差し迫っているとか、自分でも道に迷いかけたとか。あるいは、僕達追跡者の存在に気づいたか?
水に濡れた車輪の跡は奥に続いている。扉だけ開けてよその通路に逃げたって線は、確率的には低そうだ。
この先に、いる。
暗闇の中でアナスタシアと頷き合って、僕達はゆっくりと鉄格子の扉を潜った。
闇は深く、まだまだ長い。
奥へ続く通路を、できるだけ音を立てないように気をつけて歩いていく。
直角に折れた通路の端に辿り着く。車輪の跡はやはりここを曲がっている。正解、のはずだ。同時に僕達は自分から危険の中心へ近づいているって事でもある。どうするんだ、向こうの誰かが武器でも持って息を潜めていたら。実は全く移動しておらず、すぐそこの角から僕達を窺っていたら。
曲がり角を覗き込んだ途端、鼻先がぶつかる距離に相手の顔があったら。
「……、」
妄想だ。
そのはず。だよな? いくら何でも吐息や身じろぎは完全には隠せない。相手はこのゴツゴツした床でスーツケースの車輪を転がしているんだ、近くにいれば音で分かる。はず。
奥を。
そっと覗き込んでみると……だ。
「あれ? 何だ、ここ」
変な場所に出た。
これまでの直線通路と直角に折れた曲がり角なり交差点なりとは違う。広い。そして明るい。それもロウソクとか松明とか、時代がかった火の照明じゃない。これは明らかに電気の光だ。
ていうか、
「カタコンベ、じゃない?」
「どこか別の地下と繋がったんだわ……。ワタシ達だってショートカット用の地下道から入ったじゃない!」
こうなるとスマホを使ったDIY暗視ゴーグルは邪魔にしかならない。自動で光量補正がかかるからいきなり目が潰れる事はないけど、単純に動体視力だけなら肉眼の方が優れている。カメラ越しだと大きく首を振った時にブレるんだ。
ベリベリとビニールテープを剥がして横にしたスマホを顔から外す。
「いたた、痛いっ。うー、しっかり貼りすぎたわ……」
「何だ、ゴーグル外すのに苦戦してるのか?」
「そうじゃなくて、服の中に貼ったヤツがっ、いたいー」
げふんっ。
ともあれ、僕達はやけに新しい地下へ踏み込む。
見た感じとしては、
「小洒落たデパートの地下って感じかな……」
しかし、六〇〇万人分の人骨を収めたとかいうあれだけ不気味だったカタコンベが、ただの通り道だったって事なのか?
そもそもここはどこなんだ。独立した電源があるみたいだけど。
「……、」
「アナスタシア?」
同じ疑問を持ったのか、ペットロボットの顔も兼任するスマホに目を落とした金髪少女がそのまま固まっていた。
どうしたんだろうと思っていると、ぽつりときた。
「……地図の上だと、ワタシ達がいるのってサンジェルマン通りとサンドミニク通りの間よ」
「だからどこだよそれ?」
近所の駅前じゃないんだ、道路の名前だけ言われてもピンとこない。
しかしアナスタシアは顔を上げてこう続けたんだ。奇妙に震える笑顔を浮かべ、とびきりの爆弾を投げ込む格好で。
「フランス国防省。ここ、その地下だわ」
カタコンベ?
そんな印象、一瞬で吹っ飛んだよ。
4
義母さん、天津ユリナがJBとの全面戦争を想定してーーーもちろん勝って当然ってレベルでーーー何を引き出そうとしているのかはまだ見えない。けどぼんやりと輪郭くらいは浮かび上がってきたか。
オカルトとかアークエネミーとか、古臭い伝統から遠ざかった気がする。
むしろ方向性は逆。
細菌や毒ガス、コンピュータウイルスやマイクロ波兵器といった方向性だ。
というか、だ。
「……なあ、あんまり聞きたくないんだけど、確かフランスって核保有国だったよな?」
「ハッカーとしてここまで弾頭の発射コードに近づいたのはワタシ達が世界初かもね。先に入ったアブソリュートノアの目的が核管理システムでなければだけど」
まだ、仮定だけど。
でももしもこれで『正解』だとしたら、釣り合うか? JBの連中がバカスカ流星雨だの小惑星だのを落としたのだって。
これがアブソリュートノア、天津ユリナの戦争準備? 勝つために必要な武器の引き出し作業、正面衝突でぶつけるための???
……何やろうとしてるんだよっ、義母さん! アンタはただ自分の持ち物を引き出そうとしてるだけかもしれないし、どうせカラミティで世界が滅ぶなら極めて重度の汚染も気にしないって考えかもしれないけどさ!!
人の気配はなかった。
職員も、警備員も。
先行するアブソリュートノアが直で地上から国防省に入らなかったって事は、この地下フロアはまともな順路からじゃ繋がっていないんだろう。ひょっとしたら上の階で働いているエリート官僚の大多数は、こんなフロアの存在自体知らないのかもしれない。
つまり。
それだけヤバいものが管理されている。
……そう思って改めて観察してみれば、そうだ。このフロア、防犯カメラがない。壁の中に隠されているとかって話でもない限り、身内にも出入りの様子を知られちゃならないって訳だ。
人がいないのは元からだろうか? あるいはアブソリュートノアが排除した……?
「あれ? けどそれって、スーツケースは何なのかしら」
アナスタシアが口では言えない場所から剥がしたビニールテープを小さな手の中でくしゃくしゃ丸めながら、
「ワタシ達、カタコンベでは車輪の水の跡を追っていたじゃない。ただ、ここで核発射コードとかデータを奪っていくつもりなら、大荷物を抱えて入っていくのって違くない?」
「相当特殊な大型工具の詰め合わせとか、侵入用のコンピュータとか……。あるいは空っぽかもしれないぞ。奪った戦利品、例えば分厚い紙の書類やハードウェアを入れるためとかで」
「でっでも、国防省に弾道ミサイルや核兵器が眠っている訳じゃないわよ? 発射コードだって、映画と違ってそれだけじゃあミサイルは撃てないわ! 実際には煩雑な手順が山ほどあって、一つでも手違いがあればコマンドは実行停止になる!!」
「ただし核管理システムにはオールリセットがある」
「……、」
アナスタシアは善意のハッカーだ。
だから脆弱性のウワサについても敏感なはずなんだ。こんなのは釈迦に説法なんだろうけどさ、あったはずだ。特にアメリカ・イギリス規格を嫌って独自路線を突っ走ったフランス製については、最悪の疑惑が。
「バグ持ちや旧式化したセキュリティを総交換したり、新しい大統領が就任するたびに指紋や虹彩なんかの生体認証ロックを登録し直すために、弾頭のシステムのセキュリティをまっさらにする機能だ。こいつを発令したら強固な防御なんて丸ごとなくなる。弾頭側にある一つ一つの項目を細かく再設定し直さない限り、オンラインで外からつついて刺激しただけで誰でも自由に撃てる丸裸の『出荷時設定』にまで戻ってしまう」
「でっでもだって、核発射プロセスにはかならず人の手を挟むせーふてぃがあって……」
「それ、全部オンライン作業で済ませられる疑惑があったよな? 匿名で技術者コミュニティに告発したのはお前だろ、アナスタシア」
ひとまずここが最低で最悪。
義母さんの動きについては推測であって確定じゃない。細菌兵器や化学兵器、通常弾頭や無人攻撃機など、実際に狙っているのはもっと扱いやすいカードかもしれない。ただ読みが外れたとしたって、最悪を想定して動けば同じ手で対処はできるはず。
だとすれば僕達はどこから攻める?
アブソリュートノアの方が手が早い。一手でトドメを刺せるくらいの切り札を使わないと、多分悪い流れを止められない。
僕達の目的は後追いで事実を突き止める事じゃない。先回りして事前に食い止めないと意味がないんだ。
「……マクスウェル、合図をしたらこのスマホからデータ退避。破損ファイルの読み込みでコンテナ本体をやられるなよ」
『やはりその手しかないでしょうか』
「電磁パルスでも高出力のマイクロ波でもアース線の連結でもいい。とにかく国防省地下フロアのコンピュータを残らず焼き切るしかない。今すぐに!! そうしないとオンライン操作一つで何十発の核ミサイルが大空を飛ぶか分かったもんじゃない!」
『当然ながら違法行為ですよ。ユーザー様はフランス国籍を持たないので国家反逆罪には問われませんが、普通に交戦権を持たない外患戦闘員として扱われるかもしれません。つまり見つけたら射殺せよ、です。仮に核脆弱性が真実なら、仏政府は自らの不備を絶対に認めないでしょうからね。ユーザー様の行動の正当性が表に出る機会は永遠にありません』
「……このまま黙っているよりマシだろ」
戦争、と比喩的に繰り返してきた。
だけどここまでとは思っていなかった。保有国からの、核乗っ取り。戦争の中でも最悪の部類じゃないか。
僕は天津ユリナにはパートのレジ打ち主婦であってほしいんだ。そういう自慢をしたい。人類を滅亡に追い込んだ魔王リリスとして歴史の教科書にデカデカと顔写真を載せるなんて真っ平だ。
そう、滅亡。
フランスの核だけでも世界中の人達を殺せる。しかも弾道ミサイル用の早期警戒レーダーが反応したら、よその国の弾道ミサイルも報復で発射される。その全部が見当違いで地球全土に死の灰が降ってくる。一回の決定で大惨事だ。
『電子発破の準備までは手伝いますが、物理的に全館設備を吹き飛ばす前にアブソリュートノアの狙いがオールリセットであると確定を取る事を極めて強く推奨します。読みを外してテロリストでは目も当てられませんしね』
「分かってる。アナスタシア、お前は先に戻ってろ! アンタに付き合う義理はない!!」
「冗談言ってんじゃないわよ。アンタの一存でこのワタシから正義を奪わないでちょうだい」
「アナスタシアっ」
「噛むわよ。アンタがただのテロリストになりたくないように、ワタシもただのハッカーにはなりたくないの。こんな世界の危機を放り出して一人で逃げたら、ワタシの芯がなくなるわ」
睨み合いをしている場合でもないか、くそっ。正直に言うと涙が出るほどありがたいけど、でも絶対アナスタシアには累が及ばないようにしなくちゃな。
別に大気圏外で核ミサイルを吹っ飛ばすだけが対電子攻撃じゃない。人体に極力影響を与えずに広範囲の電子機器だけを破壊する、手品みたいな攻撃は簡単にできる。
「マクスウェル、フランス製のLSIについて教えてくれ。行政用コンピュータにおける普及率は?」
『普通にアルプスの奇麗なお水で作ったモノリシック集積回路を多用しておりますが。ただ部分的にジョセフソン素子なども見受けられます』
なるほど、やっぱりシリコンはシリコンか。
海外だからサファイアとかスピネルとかもっと極端なゲテモノ規格かと思っていたけど、それならあの手が使えるな。
『あくまでフランス国内メーカーのサーバーを覗いた程度です。国外企業から演算機器が輸入されている場合は売り手の国の規格に準拠すると思われますが』
「アナスタシア、どう思う?」
「トゥルースが何しようとしてるのかは知らないけど……ここ国防省よ? どんなスパイウェアを組み込まれるかもはっきりしない外国製なんかあのフランス政府が導入するかしら。よしんばよっぽどの友好国だったとしても、フランスって工業系は電卓から戦闘機まで何でもかんでも自国生産じゃないと許せない国だから、絶対何か小細工するはずだわ。九九%は外国製でも、一番重要な基板だけフランス製と差し替えたりね」
なら決まりだ。
「トゥルース、具体的にどうするの」
「ないものねだりをしてる暇はないし、今あるもので即座に作れるネタでやろう」
頭の中で材料リストと作業コストをざっと並べて、
「つまり、高周波破壊」
……実際のところ、精密機器の電子基板を破壊するのに電磁気は必ずしも必要ない。例えば塩水をかけたり、炭素の粉塵まみれにしたり、何なら機材を外から何度も蹴飛ばすだけでもスパコンはダウンする。
そんな野蛮な手を使おう。
理屈はこうだ。
ガラスは結構簡単に割れる。石を投げたり棒で叩いたりなんて話じゃなくて、例えばオペラ歌手が放つ規格外の歌声でも。
そしてガラスのワイングラスもシリコンの半導体も使っているのは同じケイ素だ。
基本的な性質は同じ。
これは意外と知られていない事なんだけど……つまり精密機器は振動を使って、壊せる。遠く離れた場所からでも、広範囲のデバイスを一気にまとめて。
メインのシリコンと極わずかな不純物。
この基準となる比率さえ分かれば、振動を外から加えるのは容易い。材料だって簡単に手に入る。多分屋内施設ならどこにでも一つくらいあると思う。
天井近くを見上げれば、だ。
「あれだ、館内放送のスピーカーなら十分だよな」
『三倍以上出力を増幅する必要があります。コンデンサを調達するか自作して対応を』
人間にとってはただの耳障りな爆音でも、厳密に言えば空気を伝う振動だ。あらかじめ設定された波長の波をばら撒けば、ケイ素と若干の不純物でできた半導体は耐えられない。顕微鏡で見なくちゃ判別できないような亀裂の断層に巻き込まれ、髪の毛よりも細い無数の配線はいとも容易く破断する。フランス製の家電を内側から軒並みぶっ壊す事も可能になるって事。
……ほんとに簡単なので、詳しい方程式は内緒だ。隣じゃいかにも悪用しそうなアナスタシアが瞳を輝かせて前のめりになってるのでご容赦いただきたい。おいちょっと、口の端からよだれを垂らすな一一歳っ。
さて、と。
「アナスタシア、そのスマホは世界に二つとないカスタムだよな」
「ふふんっ、これでもセキュアレベル3以下の都市インフラなら攻め滅ぼせるサイバー兵器よ? 大学のスパコンと繋げば4までいけるわ。ここまでやったらコンビナートでも発電所でも自由自在、もう戦略兵器の域ね」
「そんなに大事なものならペットロボットごときちんと防音素材でくるんでおけ。多分アメリカ製は規格が違うから大丈夫とは思うけど、高周波で中の半導体が割れるかもだ」
急にアナスタシアがもそもそ動き出した。ちなみに防音っていうのは結構強引な仕組みで、普通のゴムやガラス繊維をひたすら壁の中に埋め込む事で実現する。収録スタジオやライブハウスだと大体厚さ二〇センチから三〇センチくらいかな。なのでちょっとした地球儀くらいの塊で包み込めばスマホは守れるはず。でもってゴム系の接着剤なら世界中どこにでもある。
真空が使えたらもっと薄くもできるんだけど、ダメか。掃除機くらいじゃどうにもならないだろうし。
「ううー。しばしの間待っててね、かわいこちゃん」
「……あの、アナスタシア。えとその」
「何よトゥルース?」
「自慢の愛機を守りたいのは分かったけど、バスケットボール大のカタマリをその薄いドレスのお腹に入れるなっ。愛おしげに小さな掌でさすさすするなよ、ビジュアル!!」
「?」
そんな訳ですっかりお腹の大きくなったとってもマタニティなアナスタシアと一緒に準備を進めていく。ちなみに僕のスマホも保護したいけど、マクスウェルからの具体的な指示がないとアイデアを形にできない。なのでシールドするのはまだ先だ。
やる事は簡単で、工具を使って天井近くのスピーカーを取り外して分解。独立したバッテリーと、電圧を無理矢理底上げするコンデンサに繋ぐ。こっちも適当な機材から数を集めてのお手製になるけど。後はスマホ経由でマクスウェルが調整した音響データを流し込んで、大音量かつ一定法則の爆音でフロア一面のコンピュータを中から破壊する。
アブソリュートノアの方が先に動いたのなら、こっちは音速で追い抜く。JBの本拠地、地球のどこを狙っているかは知らないけど核発射なんかさせてたまるか。そんなのはJBに勝ったなんて言えない。相手のレベルまで自分が落ちていくだけじゃないか、義母さん! アブソリュートノアが核なんかに手を伸ばしたら、流星雨でパリをメチャクチャにしたJBに正しさを明け渡しかねないぞ!?
ユニット全体をまとめれば、バッテリーまで入れてもリュックに収まる程度のサイズだ。これならやれる。
「マクスウェル、これからスマホをシールドするぞ。ゴムだから塞いでもスピーカーに電波送れるよな? ダメなら有線接続用のケーブルだけ外に出す必要があるけど……」
『ノー、アブソリュートノアの目的はフランス軍の核管理システムのオールリセットであるという確証を得てからと進言させていただきました』
「オンラインでミサイルが飛んでからじゃ遅い!」
『絶対にノーです、システムはユーザー様の身命及びあらゆる権利の保護を最優先させていただきます。勘違いでいたずらに行動した場合のリスクが大きすぎます』
ええいっ!
ここで押し問答したって、マクスウェルのサポートがない限り高周波破壊は実行できない。くそっ、先に計算させた音波信号を適当なストレージに保存しておくべきだった。そうすれば手動でも何とかできたのに!
「トゥルース、ここはマクスウェルが圧倒的に正しいわ」
『てかシステムは基本的にいつでも正しいですけどね』
「黙って。状況は切迫しているけど、ワタシ達はまだアブソリュートノアの人間を実際に見た訳じゃないのよ」
「じかに見るような事になれば、もう逃げられない位置関係だと思うけど……」
確かにネットワークを利用できれば心強い。生身の僕一人ではできない事にも手が届く。だけどその強さは絶対的なものじゃない。どこまでいっても僕は僕で、非力な人間でしかないんだ。
この先。
得体の知れない超兵器が顔を出したら?
神話に出てくるようなアークエネミーが出会い頭に襲ってきたら?
……マクスウェルには従うしかない。ただアナスタシアだけでも、すぐ突き飛ばして逃がせる位置をキープしておこう。間違いなく、アブソリュートノアは出会っちゃいけない相手だ。一度も顔を合わせずに核関係の受け渡しを遠隔攻撃で潰した上で、行動不能になった義母さんを引きずって日本に帰るべき。それができないなら、無傷での突破はできないって考えた方が良い。そして傷がつくならアナスタシアじゃなくて僕だ。得体の知れないユニットを背負っているんだから自然と狙われやすくはなるだろうけど、それでも用心は重ねておいて損はない。
だってアナスタシアには、理由がない。
こいつの場合はもう親子ゲンカですらない。ここまで付き合ってくれたのはただの義理とお人好しのおかげだ。だからこそ、恩を仇では返せない。
「……さて」
前にも言ったけど、ここは見た目だけなら小洒落たデパートの地下スペースって感じだ。床はピカピカに磨かれていて、照明は柔らかく、空間は広い。あちこちに両開きの豪華な扉はあるんだけど、分かりやすい案内板はなかった。バッテリーだの導線だの、あれこれ見繕ったのもこういった部屋。普通の会議室っぽい場所もあれば、映画に出てくる軍艦みたいな透明なガラス板にレーダーっぽい光点を並べた薄暗い部屋もあった。中に入ってみても、何のために用意されたものか見当もつかない場所だって多い。
ただ、これまでは比較的近くにある扉を片っ端から開けていくって感じだった。遠くの方とか、広い通路から細く入り組んだ方までは敢えて踏み込んでない。
……目的は、義母さんやアブソリュートノアのメンバーを見つけ出す事じゃない。ついうっかりで鉢合わせして考えなしに真っ向から戦うなんて自殺行為だ。
あくまでも、彼らの目的が核管理システムのオールリセットだって確信さえ持てれば良い。だとすると細々とした部屋を虱潰しにするよりも、サンプルを抜く感じで広いフロアのエリアを覗いていった方が系統の把握はやりやすいはず。いかにもでっかい秘密がありそうな、誰もが最初に触りたくなる重要区画を見つけてから改めて細部を詳しく調べていくのが早い。
となると、
「奥から調べよう……。似たような部屋ばっかり並ぶエリアを全部調べて時間を潰している場合じゃない」
「分かったわ」
まずは地下全体の広さを知っておきたいよな。ここまで秘密主義だと、地上の敷地面積通りとは限らないし。
そう思って。
奥へ一歩踏み出した時だった。
世界が、
回っ……?
何が起きたか把握もできないまま、ただ空白の時間を過ごした。受け身、という言葉が脳裏によぎった時には背中から床に叩きつけられ、肺の中の酸素が全部口から逃げていくのが分かる。せなかっ、きざいはどうなった!? 背骨がみしみし軋むっ。
やられた。
先手を打たれた。
出てきたのは、アブソリュートノアかっ?
「がっ、あア!! げほっ、ぐぼ!?」
直撃と同時に時間と痛みの感覚が戻った。
背負った機材のせいで海老反りみたいに背骨が反り返る。自分の体のくせに全然言う事を聞いてくれない。時間の流れに身を委ねても、何も好転しなかった。ただただ酸欠の頭が回復もしないまま、ぼうっと意識の輪郭を滲ませていく。
ヤバい。
落ちる。
視界が暗い。意識が、保たない。
「、ルース……、トゥルース!!」
その、心細そうな甲高い叫び声で。
ほんのわずかに、だけど、落ちていく意識にブレーキがかかった。
あなすたしあっ、誰が現れたのかもはっきりしないけど、まだ逃げてもいないのか。このままじゃお人好しなあの子までやられるッ!
「あ、ァ、ア!!」
叫び。
倒れたまま、改造したスピーカーを覆い被さる影に突きつける。
この子だけは。
何があっても、アナスタシアだけは逃がさないと……。
「マク、ウェ……二万ヘルツで最大出力……っ!! 今すぐ、に!!」
相手が正確にどこの誰だかなんて知らない、とにかくスイッチ。ただし基板を壊すためじゃなくて、骨振動で頭蓋骨を揺さぶるための周波数だ。
ギィ、ん!! と。
甲高い音を、錯覚する。
とにかく吐き気がひどかった。明らかに僕まで巻き込まれている。それでもっ、正体不明の襲撃者に一矢を報いてアナスタシアを危険から遠ざけられるなら。
アナスタシアは無事、なはず。
見た目は人間そっくりでもやっぱりアークエネミー・シルキー。頭蓋骨の組成や骨の共振の条件は変わるはずなんだし。
そこまで考えて、違和感があった。
続いて背筋に走る悪寒にも似た、恐怖が。
待てよ。
待て。
しまっ、襲撃者もまたアークエネミーだったら体の構造が違うんだ。骨の素材も密度も、最悪、骨なんかない可能性だって。つまり、人間用の高周波は通じない……!? アブソリュートノアだったら十分に考えられる事だったじゃないか!!
そしてもう一発。
カカトで踏みつけたのか、膝でも落としてきたのか。とにかく僕のみぞおちの辺りに体重を乗せた重たい打撃があった。
もう、悲鳴すらない。
口をぱくぱく動かすけど、空気を吸う事も吐く事もできなかった。
「まったく、相変わらずえげつないモノをその場のノリで作るわね。我が子ながら呆れるわ、クラフト適性とか発明家カテゴリとか、何か余計な落書きでも魂の端っこにくっついているのかしら」
暗くてほとんど見えない視界の中で。
どれだけ意識がぐらついても。
それでも、その声に聞き間違えはなかった。
「できれば巻き込みたくはなかったんだけど、こっちも手が詰まっていたところだし、まあ、その力を借りるのもやぶさかじゃないか」
呑気な。
庭の雑草が伸びてきたけどどうしようくらいのノリで放たれる、そのおっとり声。
「……義母、さん?」
リリスは魔王だけど、体の作り自体は人間と変わらなかったはず。じゃあいよいよどうやって音響攻撃を回避したんだ、この人は……???
「おはようサトリ、これってホームシックの逆パターンって考えて良いかしら。わざわざフランスまで追いかけてきちゃって、そんなにお母さんに甘えたかったカナー?」
「核管理システムのオールリセットなら、手は貸さないぞ……。僕達は、それを止めるためにここまで来たんだ」
「残念ながら、今まな板の上にあるのはもっとヤバいモノよ」
あっさりと、だ。
天津ユリナは前提を破壊した。
粉々に。
「そしてもう一つ。私達アブソリュートノアは、そのヤバいモノを止めるために動いている。当たり前よね、方舟は世界の危機を乗り越えるためのものなんだから」
【Unknown_Storage】緊急報告・最重要【file04】
確度・大
脅威度・最大
現場にて天津ユリナを検知。
影武者や誤情報ではなく、本人で確定。
最大級の警戒をもって対応する事。本人が有史以来最大規模のアークエネミーである他、アブソリュートノアのレアリティ自体は依然として世界の上流に残留している。官民を問わずアブソリュートノアはあらゆる組織を味方につけている。横槍に注意。現場において、無関係な一般人などいないと思え。
また、同ポイントにて天津サトリを検知。
こちらについてはシミュレータ・フライシュッツの予測が追いつかない。フローチャートは存在しないので特に注意する事。
天津サトリとて人間だ。
答えが出ないからといって、殺せないとは限らない。諸君の地力が試されていると思え。
なお、両者は相互に干渉している。
片方を排除するためにもう片方を半端に傷つけて足を引っ張らせるような方法は愚策である。外敵の地力を底上げする上に予測不可能な事態に陥りたくなければ絶対に避ける事。
以上。
