吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第四章

 

   1

 震動があった。
 低い、低い。地震にも似ているけど、日本でたまに見かける揺れとは少し違う。何か危険なエネルギーを内部に蓄えた、恐るべき唸り。たとえるなら、刺激一つで爆発的な突沸を起こしかねない不安定な熱湯を鍋のすぐ上から覗き見るような不安感がある。
「また来たか……」
 義母さん。
 天津ユリナは天井を見上げて気軽に呟いた。これもまた、いつも地震の時に決まってやってしまう、日本っぽい仕草だった。今日び天井から紐でぶら下がった蛍光灯なんて珍しいと思うけど、染みついた癖はなかなか直らないようだ。
 こうして見れば、義母さんはやっぱり義母さんだった。
 そもそもこんな所にいるのが間違っているんだ。僕も義母さんも。フランス国防省の非公開機密地下フロアなんてどう考えても場違い過ぎる。
 天津ユリナはゆっくりと首を振った。上から下へ、つまり天井から再び床で潰れている僕の方に。
 笑いながら、ほっそりした手を差し伸べるために。
「とにかく起きなさい、サトリ。こんな所でそういうオモチャ使われたら困るし……どっちみち、多分もうダメだわ、ここ。JBの方が早い」
「っ?」
「さっさと逃げないと死ぬわよ」
 強烈な一言だったけど、僕もアナスタシアもまだ天津ユリナの立ち位置が見えていない。本人は危機を止めるためとか言っていたけど、現実にアブソリュートノアの頂点はこうして核管理システムのオールリセットに手が届く場所まで来ているんだ。
 疑問を持っているのは僕だけじゃないらしい。義母さんの手を振り払ったのは小さなアナスタシアだった。
「トゥルースに触らないで」
「……またすんごいビジュアルだけど、そのお腹ってもちろんオモチャよね? サトリ」
 そう言えばアナスタシアのお腹は(自前のスマホやペットロボットを守るために)大きいままだった。そしてアナスタシアは何を言われても横には逸れない。
「ワタシ達はアンタが敵か味方かも聞いてないわ、ほいほい信じてついていくと思う!? 現実として、天津ユリナには核を撃つ選択肢があるって事でしょ!」
「あのねお嬢ちゃん。貴重なご意見はごもっともなんだけど、それを容疑のかかった私に聞いてどうするの?」
 天津ユリナは膝を曲げた。
 まんま駄々をこねる小さな子供を相手にする調子で、笑みまで浮かべて彼女は下からアナスタシアの顔を覗き込んだんだ。
「私は何も悪い事はしていません、はい信じます。これが通用するのは背中を預けた相棒くらいのもので、極めて怪しい最有力の容疑者相手にやっても意味はないわ。そして、あなた達がそこまで私を信じてくれているなら、それこそ質問するだけの意味がない。違う?」
「っ」
「だからそういう大変アオハルでお恥ずかしい質問がしたいなら、私を良く知る私以外の誰かにしなさい。それも感情論だけでなく、合理的に疑いを晴らせる人に。サトリも……こういう時はまずお父さんに尋ねてみるべきだったんじゃない?」
 ズズン……という低い揺れがもう一度。
 義母さんはそっと息を吐いて、
「……限界ね」
「何が始まるって言うんだ、義母さん……?」
「知らなーい。こう見えて今回ばかりはお母さんも怒っているのです、ぷんすか。母はそんなに信用されてませんかそうですか。だけどサトリ、マグマで溢れ返る地下からどうやって無事に逃げ切るつもり? それも幼いアナスタシアちゃんを連れて」
 マグ、え?
 溢れ返るって、何だって!?
「何で今急に可愛らしくなった!?」
「あ、そこ? でも今は脇道に逸れているとほんとにリカバリーできなくなるわよ。流星雨の衝突で地震が起きた辺りからヤバいとは思っていたのよね。多分これ、どこかの地盤が砕けて新しい断層ができてるわ。そこから逆流してくると、色々まずい。水蒸気爆発とか、あるいはそれ以上にダイレクトにね」
 ぞっ、と。
 痛みの感覚が遠のくくらい、血の気が引いた。
「まっ、マクスウェル」
『警告、検知可能な揺れがこの一〇分で五〇〇回を超えました。ただの余震にしては分布が集中し過ぎています。おそらくユリナ夫人の予測に間違いはないかと』
 くそっ、ここまでか!
 多分だけど、マグマは本当に来る。
 これ自体はJBが落とした流星雨の余波だから、アブソリュートノアは関与していない。けど義母さんがフランス国防省地下で何をしていたかは結局分からずじまいだ。ここで避難を優先した場合、全てはマグマの中に消える。後は義母さんの言葉を信じる以外に道がなくなってしまう。
 良いのか、それで。
 なあなあにしてしまって良いものなのか。ここまできて!?
「……義母さん、ここで何してた?」
「だからそれを私に聞いてどうするの。ママのお話信じてくれるうー?」
「なら通路の奥に何があった!?」
 ぴくりと天津ユリナの眉が片方だけ動いた。
「このタイミングで自分から出てきたって事は、このタイミングで邪魔をしなくちゃならない切迫した理由がそっちにあったって話だよな? なら自分で調べに行くよ。言葉以外の何かが欲しい!」
「時間がないから無駄な事はさせたくないってだけかもよ?」
 まずい事を指摘されたっていうよりは、状況を面白がっている方が近いかもしれない。とにかく義母さんは笑っていた。ちょっとニヤニヤの多い、イタズラを企む小悪魔みたいな感じで。
 のろのろと起き上がり、天津ユリナを横に押しのける。
 前へ。
 与えられるだけじゃない。自分で奥に向かって、進む。
「アナスタシア、アンタは先に出てろ……」
 半分は賭けでもあった。
 僕だって分かってる、マグマの噴出が本当ならこんな所でモタモタ時間を潰している場合じゃない。何しろ天井は全部塞がれていて、階段や梯子で建物の中を通ってそのまま地上に繋がっている訳じゃないんだ。表へ出るにはあの迷路みたいなカタコンベをもう一度戻らなくちゃならないって事を考えると、楽な道のりとも思えない。行きと帰りで印象が違うかもしれない、目印なんか全部覚えている訳でもない。途中で蒸気やマグマが噴き出して道が途切れた場合、迂回路があるのかどうかも分かっていない。
 だから、賭け。
 ギャンブル。
 テーブルに置くのは僕自身の命で、勝てば天津ユリナを揺さぶって安心が得られる。だけどこんな分の悪い賭けにアナスタシアまで巻き込めない。
 スマホを掴む。
「マクスウェル、分析頼む……」
『天津ユリナ夫人が襲撃時、どこから出てきたかですか』
「違う。あの時僕が見ていた方向だ」
 自分の事なのに覚えていないのは恥ずかしいけど。でもあの一瞬、義母さんはまずいと思ったから手を出してきた。僕は何かしらの地雷を靴底で薄く撫でたんだ。
『奥に向かって右手側三つ目の扉に注目しています』
「……了解」
 そのままドアを開け放った。
 予想していたような大規模なサーバールームじゃない。学校の教室よりも小さな部屋の中心に、冷蔵庫くらいのコンピュータがぽつんと一つ置いてあるだけ。だけど象徴的ではあった。他のネットワークから切り離された、禍々しいシステムの匂いがする。
 外装表面にはフランス語らしき言葉で何か書いてあったが、僕には読めない。
 コンピュータ全体に対してあまりに小さなノートサイズの液晶モニタを埋めているのもやっぱり知らない外国語だ。どうせプログラム言語の読み書き自体は英語で統一されているだろうに、やけにこだわってるな。
 となると、
「……これが?」
『機材表面には計算装置01とだけ。まあ、馬鹿正直に核関連の危険な設備ですとラベルを貼るとも思えませんが』
 重要なのはこいつの中身じゃない。僕はスマホを近づけて機材の液晶表面を撮影した。
「マクスウェル、指紋をチェック」
『拭き取られています』
「分かってる。拭き取り方のパターンは? ウチの窓やテーブルと照合」
 実はこういう事でも個体差は求められる。もちろん法的には認められないから証拠と呼ぶには苦しいけど、僕達は裁判で勝ちたい訳じゃない。
『高数値で一致します、九七・八八%以上』
「つまり義母さんはこいつを拭いた」
『ただし拭き取り方のパターンがいくつか混在しています。天津ユリナ夫人のものは最新です』
「……それ以前にも誰かいた?」
 わずかに沈黙。
 元々の持ち主であるフランス国防省がこいつをしつこく磨く意義はあまりない。奇麗好きとかの可能性もあるから絶対にないとは言えないけど。
 義母さんの部下や仲間の線はもっとない。一通り仲間内で機材を触ったら、その中の誰か一人が最後に痕跡をまとめて消せば済む。わざわざ代わる代わる画面を拭いても仕方がない。
 となると。
 全くの……第三者?
「JBよ」
 びくっと肩を震わせて振り返ると、義母さんが肩をすくめていた。
「核管理システムのオールリセット、おそらくもう実行されてる。複数の安全装置が再起動するまで一〇秒ないでしょうけど、その間にいくつかの弾頭は権限が書き換えられたでしょうね。フランス政府がこの混乱の中で汚染された弾頭の数や場所を正確に把握できるかは未知数。……というか多分無理ね、そもそも役人はここにJBや私達が入った事も、オールリセットが起きた事にも気づいていないし。よしんば今この瞬間から弾頭チェックを始めたとして、割り出しには最低でも一週間かかると思うわ。その間なら自由に撃ち放題よ」
 疑わしいのを含めてフランス政府が全弾頭をロックすれば、コマンドを拒否した弾頭の権限が怪しいんじゃあ……ってこれもダメか。核兵器を取り巻く環境はそんなに単純じゃない。冷戦時のアメリカとソ連ほどじゃないにせよ、基本的に核は互いに睨み合うから安全が保たれるんだ。片方の国だけ使えませんなんて話になったら外交や防衛の絵図が全部崩れる。
 ……つくづく負の遺産だ。今はもう、単純な爆発規模だけなら小さな核と同レベルの爆弾だって他にもあるのに、誰も厄介な仕組みを更新できない。
「マクスウェル」
『実際にオールリセットを行うにはかなりのデータをやり取りする必要があります。最低でも3D系eスポーツ用に専用チューンされた分厚いノートパソコン。スマホ等のモバイル機器では不可能ですね』
 天津ユリナは片目を瞑って両手を軽く上げた。好きなだけ調べろってアピールしている。おかげで妙にメリハリのあるボディラインが丸出しだ。そしてあのぴっちりしたブラウスやジーンズの奥に何か大きな道具を隠せるとは思えない。
 認めるしかない。
 かなり高い確率でここには僕達以外の第三者がいた。
 ……カタコンベではスーツケースらしき車輪の水跡を追ってここまで来た。おそらくあれが解析コンピュータの容れ物だ。天津ユリナの懐に手を突っ込んでまさぐるまでもなく、そんなのあったら隠しきれないのはすぐ分かる。
 つまり。
 スーツケースをここに持ち込んで、再び持ち去ったのは別の誰か。
 義母さんがそいつの行動を止める側なのか協力する側なのかはまだ見えない。だけどどちらにせよ、義母さんの動きを細かくチェックしておけばいずれ明らかになる。
「マクスウェル、今ここでできる事は?」
『特に何も。流石に国防省の核管理システムはシステムの手に余ります。それと仮にオールリセットが実行されていれば、今から中央ハードウェアを破壊しても各末端にある弾頭の制御は戻りません』
「パリ天文台で採取したJBのウイルスは? 確か遠隔操作系だったろ、この端末からあれを流して弾頭の権限を奪い返せば……」
『作ったJB当人のオモチャとかち合わせてどうするんですか、また奪われてしまうでしょう』
「まあそう簡単にはいかないか、くそ」
 なら決まりだ。
 ぐらりと不自然に地下全体が揺れる。
「アナスタシア、出るぞ!」
「うええっ? せ、せっかくなかまでもぐったんだからキーロガーかバックドアの一つくらいストレージにおいていっても……」
 ドンッ!! と。
 次の揺れは、これまでと違った。大きく、鋭く、何より不安を煽る縦揺れ。どれだけ広い空間でもここが分厚いコンクリで頭の上を塞がれた地下なんだって現実が急に押し寄せてくる。
 揺れは不安定だけど、大きい。とっさに壁にすがって耐えようとするけど、収まらない。それどころかどんどん強くなっていく……!?
「サトリ、その子支えてて。どうせあなたがここまで引っ張ってきたんでしょう?」
 天津ユリナだけが平然と二本の足で立っていた。壁に手をついたりもしない。単純な筋力じゃなくて、揺れに合わせて細かく重心を動かすバランス感覚の賜物だろう。ワイヤー一本の綱渡りくらいスキップしながらこなしそうだ。
 ぱらぱらと、頭の上から何か細かいものが降ってきた。天井を見上げるのと太い亀裂が何本も僕達を追い抜いていったのはほぼ同時だった。
「来た!! アナスタシア!?」
 もう返事を待っていられなかった。へたり込んでいる一一歳の細い手を掴んでとにかく機材から遠ざける。実際にはほとんど二人して床を転がるようなものだった、まともに立っていられない。
「こっちよ」
 義母さんはすらりと背筋を伸ばしたまま、気軽にフロアを横断していく。もうついていくしかなかった。どっちみちこの地下から出ないとまずい。それは急に存在感を増した重苦しい天井を見るまでもなく分かる。
 カタコンベに繋がる横穴へ飛び込む。
 ガラガラ。
 そんな単調な音の正体を最初僕は見失っていた。どこかで石でも転がっているのかなくらいにしか思っていなかった。
 直後に猛烈な粉塵の暴風が僕とアナスタシアを後ろから一気に追い抜いていった。
 真っ暗。
 いよいよスマホのバックライトのレアリティが急上昇するけど、それでも光源にコンビニ袋でも被せたように明かりがぼんやりしている。
「がはっ、うっ!?」
 激しく咳き込みながら後ろを振り返ると、ない。僕達がさっきまでいたはずのフランス国防省、その地下空間が岩だかコンクリートだかで丸ごと埋まって、隙間一つなくなっていた。
 光は、潰えた。
「下が抜けたって事は、地上の建物も全部崩れたわね」
 どこか他人事のように義母さんは呟いていた。お、お役所なら夜は人がいない、と良いけど。それから彼女はへたり込む僕達を見下ろし、腰に手をやって、
「あまり吸い込まない方が良いわよ。日本と基準が違うし、どこにも書類申請しない機密区画だもの。建材に何が使われているか分かったものじゃないわ」
 そんなのよりも、まず蒸し暑さが気になった。何だこのじめっとした感じ? さっき通った時、カタコンベは暗く冷たい洞窟って印象だった。三人集まったから体温で空気が温まったって感じでもない。なんか、こう、風呂場やサウナの湯気でも顔一面に浴びているような……。
「注意して」
 義母さんが呟いた直後だった。

 ゴバッ!! と。

 いきなり近くの壁が、割れた。溢れ出すのは大量の白。腕や足、肋骨や頭蓋骨。規則正しく積み上げられた古い人骨を吹き飛ばし、猛烈なスチームが通路へ飛び出してきたんだ。
「アナスタシア!!」
「変だわ、こんなの……」
 卵が腐ったような匂いが漂う中、僕が慌てて小さな手を引っ張っても、アナスタシアは呆然としたままだった。
「パリにこんな活火山や温泉地帯があるなんて話は聞いたためしがないわ。何で地下からこんな硫黄泉が噴き出してくるの!?」
「ルールが変わったのよ」
 義母さんは身を低くして、腕の振りで僕達に行動を促した。壁から真横へ鋭く噴き出た蒸気の直下を潜り抜けていくつもりらしい。
 僕達と違い、天津ユリナは分かりやすい光源なんか掴んでいなかった。なのにお構いなしだ。
「流星雨が集中的に落下した事で、パリ一帯は表面どころか地中深くまでダメージを負ってる。地盤が砕けたって言ったでしょ。こんな水蒸気爆発なんてまだまだ序曲。今に傷から血が出るように、そこかしこからマグマが飛び出してくるわよ。急激にね」
 この蒸気は足元を走る地下水脈か何かが沸騰でもしたっていうのか? 水蒸気爆発。言葉だけなら知っていたけど、実際に目の当たりにするとスケールの違いに匙を投げたくなる。
 もう、すぐ足元まで迫っている。
 灼熱の溶岩が。
「まずは地上だ……」
「それには賛成」
 気楽な義母さんに案内されて、僕達は不自然に蠕動する地下墓地を進む。天井が崩れ、床は落ち、真っ直ぐな道を歩くだけで命がけだった。壁に張りついて、餃子やたい焼きの羽みたいに残ったわずかな床を踏んでじりじりと先を急ぐ。まるで秘宝を探して古い遺跡に挑むアクション映画の世界だ。
 この壁だって、いつ爆発して水蒸気が飛び出すかはっきりしない。さっき来た道はすでに瓦礫で埋まっている。
「はあ、はあ」
 まだ無事な床に足をつけても、アナスタシアの呼吸は激しく乱れている。単なる緊張だけじゃない。じめっとした湿気と卵の匂いに満たされた蒸し暑い空気は吸っても吸っても逆に体力を奪われていくようだ。しかもどんどん圧迫してくるような自己主張が強くなっていく。どれだけ広くてもここは地下だ。確か、硫化水素ってヤバいヤツだよな? 厳密な濃度の話とかは知らないけど、このまま蒸気の流入を放っておいたら、やがては丸ごと死の空間に化けるんじゃないか。
 僕とアナスタシアだけだったら、とてもじゃないけどこの地下から抜け出す事はできなかっただろう。迷路のように入り組んだ通路で常に先へ進んでいたのは、やっぱり天津ユリナだった。
 どれくらいの時間歩いただろう。
「見えてきたわ」
 やがて義母さんが声を出した。
 例の小洒落た地下道だ。
「出口よ」
 喜ぶべき、はずだ。
 確かに問題は山積み。フランス国防省の核管理システムはおそらくオールリセットを喰らっている。最有力の容疑者は、何故かアブソリュートノアじゃなくてJBにすり替わっていた。義母さんの言葉を信じるなら、むしろ天津ユリナはJBに核弾頭の制御を奪われるのを阻止しようとしていたって事になる。
 つまり、オールリセットを察知されないように、あるいは天津ユリナを足止めしている間にオールリセットをしたくて、JBは小惑星をたくさん降らせた?
 核は、アブソリュートノアが奪った訳じゃない。
 そっちも込みで、JBは切り札を二つ持っている事になるのか!?
 この核弾頭をどうにかしないといけない。おそらくこの混乱だとフランス政府は気づかない。僕達から伝えようにも、あの地下に入った経緯をどう話す? 普通に考えれば災害下のフェイクニュース扱い、信じてもらえたらそれはそれで国の機密区画に無断で押し入ったテロリスト扱いだ。どっちにしたって話を聞いてもらえる展開になるとは思えない。
 フランス軍は今何発核弾頭を持っていて、それは固定の地下サイロから潜水艦まで具体的にどこに配備されていて、中でも危険な乗っ取り兵器はどれとどれか。こいつを調べ上げるのは相当骨だ。しかもこっちが阻止に動いていると分かれば、犯人は使える内にミサイルを使い切ってしまおうとするだろう。
 それでも。
 それでも、だ。
 頭の上に何百トンの岩なり土砂なりある状況で、ガスや水蒸気も怖くて、いつ何が起こっても不思議じゃない危難のロケーションからやっと解放されるんだ。普通はもっとこう遠くにある目標や課題なんか全部投げ出して、ひとまず近場の安堵感に包まれるものなんじゃないのか? なんていうか、全くない。嬉しくない。そもそも安堵感なんかないし、何かが終わった感じもしない。
 そう。
 先に進みたくないんだ。
 これはただの始まり。ここから先、さらにひどいものが待っている。根拠もなくそんな風に考えてしまうだけの何かが漂っている。
 義母さんは僕の顔を見たんだろう。小さく手招きしてきた。
 僕は義母さんの顔を見れなかった。表情として、何が浮かんでいるか確かめるのが怖かったんだ。
 とにかく地下道からさらに自転車用のスロープを上がって、地上に出た。
 後悔した。

 赤。
 灼熱の赤。

 ついさっきまで、だ。
 夜のパリは汚れた雨や逆流する川なんかで冷たい水の脅威にさらされていたはずだった。
 それが見る影もない。
 汚れた雨なんかいつの間にか止んでいた。
 代わりに、どこもかしこも溶鉱炉みたいな赤やオレンジが溢れ出している。地上の亀裂どころか夜空まで焼け焦げていて、無数の火の粉と蒸気のカーテンで染め上げられた街は炎の脅威に包まれていた。
 大地の傷から血が噴き出ていた。
 莫大な熱のせいで、また上空の大気が乱れたのか? それで不自然だった雨雲が散らされて……。
 ちょっとした建物の屋根を軽々と越えるのは、まるでマグマでできた噴水の壁だ。ていうかマグマを生で初めて見て、いっそちょっとした感動すらあった。多分、正確には麻痺してる。あまりの事態に真っ当に喜怒哀楽なんて感じようものなら心が壊れてしまうんだ。
 道路は寸断され、アスファルトは高温でどろどろに溶けて、石やコンクリートの建物は炎に巻かれてオレンジ色に輝いている。高低差が明らかにおかしい所もあった。同じ道なのに、断層を境にして高さ数メートルの崖ができている。
 ルールが変わった。
 確かに。
「さあ、生き残るわよ」
 天津ユリナは挑みかかるように言った。
 「こんな所じゃ止まれない。核弾頭なんていうのはただの手段、JBの脱獄、その本命は別にあるんだから」

 

   2

 ゴール地点はどこだ?
 どこへ行って何をやったら助かった事になるんだ、こんなの。
「……、」
 ゴッ!! と信号機よりも高い場所まで溶岩が噴き上がっていた。特別な火山のてっぺんじゃない。つい先ほどまでみんなが行き交っていた広い道路。そこに入った太い亀裂から真上に向けて、立入禁止の壁のように赤い輝きが伸び上がっていく。
 場所によっては川みたいになっている場所もある。気をつけるべきはまず第一に、坂だ。低い方にいたら助からない。
「ほらサトリ、頭」
「っ?」
 義母さんに気軽に言われて首根っこを掴まれた。トタンかアルミの屋根で覆われたバス停の下に連れ込まれた直後、バチバチビチビチ!! というとんでもない音に鼓膜を叩かれる。
「噴石だわ……」
 薄いドレスのお腹からまん丸の樹脂の塊を取り出し、中からスマホとペットロボットを回収しながらアナスタシアが言う。
 呆然と、薄っぺらな屋根を見上げて。
「火山灰だけじゃないのよ。小石サイズって言ってもものによっては音速超えるって話だし、あんな雨を被ったらろくでもない目に遭うわよ」
 気まぐれな硬い雨に当たれば即死。
 それだけでも怖いけど、アナスタシアはしれっと別の懸念も出していた。
 火山灰。
「まずいぞ……。今に電気も水道も使えなくなる」
「元々インフラは壊滅していたでしょ、道路だってあんな感じだし。地下の水道とか電線とかも結構やられてんじゃない?」
「……光ファイバーとかはどうなっているんだろう」
 義母さんの言葉を耳にしながら、僕は思わずスマホに目をやった。
 前にも言ったけど、携帯電話やスマホは無線機みたいに機材同士で繋がるんじゃなくて、必ず地上基地局を経由する。その基地局同士を結ぶのはやっぱり光ファイバーなんだ。つまり蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた有線のケーブルが全部やられると、結局無線のネットも途切れてしまう。
 今もう一回マクスウェルが使えなくなるのは、流石に怖過ぎる。
「それより、もっと怖いのは目に見えない硫化水素の塊と」
 言って。
 義母さんはどこかよそに指先をやった。
「溶岩の熱で生まれた急激な上昇気流が渦を巻いて火種を飲み込むケース」
 ゴォ!! と。
 離れた場所で、太い音と共に石でできた家屋や店舗がめくれ上がるのを見た。赤いエレベーターを通って暗い夜空へと吸い込まれていく。
 何だ、あれ?
 炎でできた竜巻!?
「火災旋風よ。直撃したらどうなるか分かるわね? ほら逃げる!!」
 遠くから押し寄せ、道順を無視して途中にあるものを片っ端から破壊していく赤い塔から全力で逃げ出す。
 断続的に降り注ぐ噴石も怖いけど、あんなのが来るなら屋根の下でじっとなんか無理だ。ビルごとめくり上げられるか、高温の炎で蹂躙されるか。たっぷり酸素を蓄えたあの炎ならきっと鉄でも溶かす。まして地面で灼熱の川を作るドロドロの溶岩まで吸い上げてスプリンクラーみたいに四方八方へばら撒き始めたらいよいよ手に負えない。直撃するまでもなく近づかれただけで黒焦げだ!
「マクスウェル!!」
『悪い報告しか出せません。火災旋風は蛇行しながらこちらを目指しています、最大レベルの警戒を』
 もう生き残るだけで精一杯だ。
 JBや核弾頭を追うだけの余裕がない。まずは命を守って足場を固めないと!
『警告、北へは行けません』
「何で!?」
「見て、横一直線に遮るように入道雲みたいなのができているわ。おそらく高温の蒸気よ」
 幼いアナスタシアの手を引っ張って走る僕に、オレンジ色の照り返しを受けるスクリーンみたいなのを義母さんは指差した。
「セーヌ川に溶岩が流入したんだわ。向こうはマグマ水蒸気爆発の連発で大変な事になっているはず。浴びたら火傷なんて威力じゃない、あの分だと特大のスチームオーブンにやられて橋も船も爆圧で全滅ね。残っていたとしても、むき出しの体じゃ橋の上は通れない。熱や蒸気は上に上がるから、数秒あれば蒸し鶏にされるわ」
 だとすると、JBが向こうに逃げた線もなさそうだな。自分で起こした災害に巻き込まれて瞬殺されるほどレベルが低い相手とは思えない。
 北へは行けない。
 そして火災旋風も待ってくれない。
 足を止めたらおしまいだ。
「あわあわわ、トゥルース! これならカタコンベにいた方が良かったんじゃない!?」
「大量の人骨で生き埋めとガスで窒息、どっちが良いんだ!?」
 どこから溶岩が噴き出すかは予想のしようがないし、噴石や硫化水素だって同じく。運で人の命が決まる。普通だったらそんな最悪の状況だ。
「サトリ、こっち」
 気軽に瓦礫を乗り越えて、義母さんが手を差し伸べてきた。
「アナスタシアちゃんの面倒しっかり見るのよ。私から直接言っても絶対聞かないでしょうし」
 くそ。
 義母さんの動きはどう考えたって怪しい。何か隠しているとしか思えない。でも一方で、言っている事は間違っていない。
 何だろう、このイライラした感じ。
 自分できちんと考えている事を改めて外から指摘される。そう、宿題やったのって何度も聞かれるような……。
 天津ユリナ。
 アークエネミー・リリス。
 運任せが運に頼らないで済んでいるのは間違いなくこの人のおかげだ。神話に出てくるガチの魔王だなんて規格外の反則がいなければ、マクスウェルの補助があっても僕なんかとっくに命を落としてる。
 でも。
 義母さんは義母さんで何かを隠している。手を引っ張られて従っているだけだととりあえず安全だけど、とりあえずから抜け出せない。
 答えはきっと安全地帯の外にある。
 無傷で脱線するにはどうするか。そこを考えないといけない。……まったくなんていう反抗期だ、ママンからの親離れに核弾頭や流星雨まで絡んできてやがる……。
「走っても振り切れない! 火災旋風は振れ幅が大きいからどっちに逃げたら良いかマクスウェルにも断言できないって……!!」
「こっち!」
 義母さんが僕達を引っ張り込んだのは、地下鉄駅のトンネルだった。
 飛び込んだ直後、炎が酸素を吸い込む壮絶な音がすぐ頭上の開けた世界を蹂躙していった。
 ようやく、立ち止まる。
 恐る恐る天井を見上げる。ひとまず崩落はないし、高温の熱風や火山性のガスがトンネルを突き抜ける訳でもない。
 もうへたり込んで深呼吸するしかなかった。
「……準備して。タイミング見て外に出るからね」
「上は地獄だよ。このままここで救助を待てば良いじゃないか」
「馬鹿ねサトリ、どこの地面が割れるか誰にもはっきり言えないのに? 海抜ゼロメートル以下に長居は無用。溶岩が流れ込んできたらどこへ逃げるの?」
 また低い震動があった。
 地震なのか、遠くで溶岩が噴き出したのか。僕達は自然と会話を止めて天井を窺う。
 びしばきり、と。
 得体の知れない血管が浮かび上がるように、分厚いコンクリートに亀裂が走っていく。
「アナスタシア……こっち」
 天井を見上げたまま小さな少女を手招きする。あの亀裂が重たいコンクリを囲ったら、そこから剥がれて落ちてくる。大規模な崩落じゃなくても、例えばサッカーボールくらいの欠片でも頭に当たれば十分危ない。
「どこに行っても休めないわ……」
 僕の方にひっつきながらアナスタシアが呟いていた。
「長引くなら水とかご飯とかも考えないと……。今夜どこで寝る、お風呂は? ここまでマグマが自己主張するなら、いっそ温泉くらい湧いてくれないものかしら」
 ホテルの方は……まあ望み薄か。仮に建物がまだ無事だったとして、従業員が律儀に残っているとは思えない。電気が通ってなかったらエレベーターはもちろん、部屋の電子ロックすら開かないはず。
 避難所?
 どこに設置されているか知らないし、そもそも僕達外国人に向けて開いているのか。パリの住人じゃないからって理由で弾かれる可能性は少なくない。
 じゅわじゅわと足元から汚れた水が出てきた。
「うわっ、何だこれ、今度は何が起きた……?」
『警告』
「出るわよ」
 マクスウェルと義母さんから同時に来た。アナスタシアは困惑したように、
「湧き水? 何でこんな所で……」
『液状化現象だとしたら危険度最大、今すぐ行動してください』
 溶岩に触れると水蒸気爆発を起こすから。あるいは、千切れた高圧電線と組み合わさると広範囲に電気が流れるから。
 そんな可能性を頭の中で並べたけど、状況はもっとダイレクトだった。天津ユリナはこう言ったんだ。
「地下で不自然に湧き水が出るっていうのはね、これ以上ないくらいのサインなの」
「?」
「地盤にダメージがあって、この空間は間もなく崩落する。大至急ここから離れろってね!」
 ちくしょう、ここもか!?
 慌てて出口へ走ろうとした瞬間、足を取られて派手に転んだ。っ、砂浜どころじゃない。粘ついた泥水の中だと走りにくい事この上ない!
 すぐそこにあるトンネル出口は、まるで竃の中を覗き込むようだった。
 外はまだ溶岩や火災旋風で真っ赤に炙られているはずなんだ。
 それでも出るしかなかった。
 瓦礫だらけの地上へ出た途端、真後ろで爆音がいくつもあった。きっとトンネルの壁や天井が崩れたんだ。いちいち被害を確かめている暇もない。冷や汗と共に、僕はアナスタシアの手を引っ張る。すぐさま瓦礫に押された空気が生み出す暴風と粉塵が突き抜ける。外で燃えていた火の手が大量の酸素を浴びて一気に活性化していく。
 まるで爆発だった。
 風の流れを逆流するように、一気にトンネルへ向けて竜のブレスみたいな炎の塊が突っ込んでいく。
 寸前でアナスタシアを抱いて横に転がっていたけど、棒立ちだったらきっと勢い良く膨らんだ炎に呑み込まれていた。鉄をも溶かす火炎放射器だ。
 地上も地上で地獄だった。
 直接的な溶岩だけじゃない。もう火が点いていない建物の方が珍しいくらいだ。様々な破壊で道路が寸断されたのか、消防車もやってこない。見よう見まねで消火栓をホースに繋げている人もいたけど、ノズルから水が飛び出した直後に爆発が起きて真後ろに薙ぎ倒されていた。大量の水が石油系の炎に触れて爆発を起こしたんだ。
 必死の努力が、逆に被害を広げていく。
 あちこちに黄色い塊も見えた。おそらくは冷えて固まった硫黄系の結晶だ。酸性だかアルカリ性だか、いよいよ目には見えない土壌や水質まで変わってきた。だんだん地球の環境から離れていく。
「いつまでもは続かないわよ」
 義母さんだけがいつも通りだった。
 この程度は見慣れていて、いつもの振れ幅の範囲内だといわんばかりに。
「長い時間をかけてマグマ溜まりが形成されている訳じゃないもの。砕けた地盤はやがて固まる。傷口にカサブタができるように、冷えた溶岩自身の力でね」
「マクスウェル」
『論は間違っていないかと。ただし、今すぐ止まる訳でもありませんが』
 いつかは止まるのであって、今ここで収まる訳じゃない。結局は自分の身は僕達で守るしかないのか。
 というか、
「……フランスの首都だぞ。JBのヤツら、流星雨だけでここまで広範囲に深いダメージを与えられるならもう核弾頭なんかいらないんじゃないか?」
 それとも核保有っていうカードが欲しいんだろうか。
 額の汗を拭い、火の粉の動きから風向きを読みながら、義母さんは笑って言った。
「彼らが求めているのは攻撃力じゃないわ」
「?」
 大きな亀裂や溢れる溶岩を避けて僕達は歩き出す。単純に建物を上がって屋根伝いに進めば安全って訳でもない。下が崩れれば上も全部倒れていくんだ。
「つまり、核の力は別の目的で使おうとしてる。あくまでも材料集め、手段の獲得なのよ」
「まさか弾頭部分を取り外して燃料棒にでも作り替えるっていうのか? 無意味過ぎる!」
「ま、大抵の人なら原子力なんて兵器か発電くらいしか頭に浮かばないわよね。後は陽子や電子の衝突実験くらい?」
 ちょっと離れた場所に石の雨が降り注いでいた。噴石。切り裂くような音が続くのは、音速を超えているからか。建物の壁やガラスが次々と削り取られていくのが、オレンジ色の照り返しで浮かび上がっていた。まるで機銃の掃射だ。
 過ぎてしまえばそんなものかって感じだけど、硬い雨を浴びていたらもちろん即死だった。天津ユリナが常に風向きを調べながら歩いていなければそうなっていた。
「ねえサトリ、そもそもJBの目的は何?」
「知らないよ。なんかこの世界から脱獄するとか何とか言ってるけど……」
「ならその脱獄に、どうして小惑星のコントロール技術なんて必要なの?」
 思わず状況を忘れて立ち止まるところだった。
 その問いかけは、あまりにも根本的過ぎる。
「言うまでもないけどこれには莫大なコストがかかっているわ。だけど、どこかへ逃げる、隠れるだけだったら流星雨も核弾頭もいらない。つまりついでなのよ。元々JBには大きな目的があって、それを兵器として転用した。小惑星のコントロールは、武器として使うためのものじゃないのよ」
「だったら……。だったら一体何をしようとしているんだ、JBは!? 星の軌道まで操る術を手に入れておきながら!!」
「だから、それよ」
 あっさりと、だった。
 天津ユリナはこう答えた。
「JBはこの星に飽きているの」
「……?」
「そして我慢するくらいなら、自分達で新しい世界を創ろうとしている」
 一瞬、何の話がどこに飛んでいったか迷子になった。
 けど最初から答えは目の前にあったんだ。
「まさか……いや、うそだろ……。それって!?」
「地球だって最初は宇宙に漂う土くれだったのよ」
 義母さんはくすりと笑う。
 実際問題、多くの災害には決まった必勝法なんてない。過ぎ去るまでじっと耐える、という身も蓋もない選択肢が最善だったりする。
 そんな中、天津ユリナは高い場所を目指しているようだった。ランダムに降り注ぐ噴石も怖いけど、濁流のような溶岩に一面くまなく呑まれるよりはマシってところか。
「たまたま太陽系軌道のどこかで一定以上の質量がまとまる事に成功できただけ。条件さえ揃えば『ここ』でなければいけない理由は何もない。……火星と木星の間だけでも数万もの小惑星、準惑星だの小天体だのが漂っているのよ? 冥王星の外ならもっと多い。これらを一ヶ所に集めて全方位から莫大な力で圧縮するだけで、第二の故郷なんか簡単に作れるわ」
 莫大な、力。
 そのための……核弾頭?
「……生命の神秘を何だと思っているの?」
 アナスタシアが、呆気に取られたように呟いていた。すぐ近くに降り注ぐ大量の火の粉も、オレンジ色の激しい照り返しも気づいていないといった顔で。
「太陽から三番目に遠い星なら無条件で生命が湧き出てくる訳じゃないわ。四六億年もかけてゆっくりと積み重ねていった今ある環境は、ほんの少しの変化であっさり歪みかねない偶然の産物ばかりだった! まして『ワタシ達みたいなの』が定着する確率なんかさらに低いわ!! そんな、足し算で数字を合わせれば同じ星ができますなんて理屈は通らない!!」
「生命の神秘、ね」
 鼻で笑うような天津ユリナの声色だった。
 今は義母さんというより、魔王リリスが前に出ているのか。
「楕円軌道を描く氷の塊だってメタンやアンモニアを含むわ。これらに多量の太陽宇宙線を浴びせればアミノ酸が合成される。いわずもがな、生命の始点とも言える物質ね」
「……、」
 ダメだ……。スケールそのものについていけなくなってる。
「私は望む望まざるに関わらず、新しい星には勝手に生命が根付くと考える。核起爆による土くれ圧縮の時に浴びる膨大なガンマ線がアミノ酸を合成するか、はたまたJBの入植者が目に見えない顔ダニや腸内細菌なんかを持ち込むか、正確な話は知らないけどね。だけど生命が居住可能な環境で実際に生物が活動を始めたら、絶対に周辺一帯は無菌のままではいられない。顕微鏡で覗いてご覧なさい、人間なんて隅から隅まで微生物にうじゃうじゃたかられて足の踏み場もないわよ?」
 実際に実現するかどうかじゃないんだ。
 そう信じてここまで行動してしまった組織がある。宇宙に浮遊する塵屑や岩塊を動かし、保有国から複数の核弾頭の使用権限を奪って。今はよその星へ行くまでの準備期間だから捨て去る地球なんかいくら壊しても問題ないだろうくらいの雑な考えで、だ。しかも最悪な事に、そいつらは今のところ世界の誰にも捕まえられない。
「アブソリュートノアは、お世辞にも表に出せる慈善団体じゃないわ」
 ぽつりと。
 天津ユリナはこう言った。
「……だけど私達は私達なりのやり方で、世界の危機を乗り越えるために戦ってきた。今ある世界に用はないから全部捨ててしまえなんて、そんな考えには賛同できないのよ」
 考え方次第によっては、だ。
 義母さんの言い分が正しいなら、少なくともJBはフランス製の核弾頭を市街地で起爆するつもりはないって話でもある。そう割り切ればいくらか救いになるだろうか。

 これだけやられておいて?
 どうせ捨ててしまうものだから踏み潰しても構わないって考えの持ち主が、救いをもたらすと?

「……無理だ」
「トゥルース?」
 アナスタシアの不安げな声があった。彼女は先ほどから天津ユリナに圧倒され、言葉が少なくなっていた。ここにきて、橋渡し役の僕までおかしな事を言い始めたらどうしよう。そんな風に考えているのかもしれない。
 平和主義を望むなら、僕はアナスタシアの期待には応えられそうにない。
 どう考えても僕は争いを望む側だ。
「JBは別にパリの街並みやフランスって国が憎い訳じゃない。欲しいものがあるから、邪魔する人間を排除したいから。たったそれだけで、ヤツらは現実に『ここまで』の地獄を作り出した。……放っておいたら世界中がこうなるぞ。コスパが良いとか最短コースとか、そんな向こうが決めた理由一つでニューヨークだろうが上海だろうがみんな吹っ飛ぶ。そこに住んでいる人達なんかお構いなしに、ただ仕掛けを解除して先に進むために星形のドライバーが欲しいとか強敵とかち合う前に回復アイテムを補充しておきたいとか、そんな理由だけで」
「……、」
 JB側の『準備』がこれで終わりなのか、まだまだ五個でも一〇個でも手順がいるのかは未知数だ。
 プラスの獲得だけじゃない。マイナスを潰す行動もありえる。地球脱出に際し妨害してきそうなレーダー施設や空軍基地なんかを先制攻撃するかもしれない。
 重要なのは客観的な合理性じゃない。
 ……JB側が必要だと『思えば』その時点で決行されるんだ。例えば材料一式全部揃ったとして、でも、念のためにスペアをもうワンセット欲しいと考えたら? その時点でJBは街を一つ吹き飛ばす。一回で済むなんてルールも特にない。不安を拭えるかどうかは、ヤツらの胸三寸でしかない。
 僕達は。
 ただただ体を丸めてJBという災害が通り過ぎるのを待つばかりだ。少なくとも、このまま黙っていたら。
 今は、自分の頭には降り注がなかった。
 ……それで諸手を挙げて喜ぶのが、本当に正しいのか? こっちは被害を受けるいわれなんて一個もないっていうのに。こんなヤツらを野放しにするのが最大の災いだ。
「今回はたまたまパリだった。だけど何か気紛れ一つあれば、僕やアナスタシアの住んでいる街だってズタボロにされる。……なら放置なんかしておけるか。こっちはJBが勝手に始めたロシアンルーレットに付き合わされる義理なんかないんだ」
 ていうか、ダメだ。
 その圧倒的なスケール感に誤魔化されるな。そもそもJBが主導権を握っているのがもうおかしいんだ。パリの運命はパリが決めるし、モスクワの運命はモスクワが決めるし、東京の運命は東京が決める。そうであるべきだ、絶対に。
 ロシアンルーレットをやりたいなら、まずその銃口は自分の頭に向けろ。僕達はお前のゲームになんか興味はないんだ。
「JBはここで叩く」
 はっきりと。
 そう言った。
「勝手気ままにやらかしたツケは全部回す。採算度外視でいい、もう二度とこんな事をやりたいとは思えないレベルでだ」
「異論はないけど……」
 煮えきれない様子で呟くアナスタシア。
 自分の身の安全を守る、助けを求める人を瓦礫の下から引っ張り出す。もっと他にやる事があるのでは。そんな迷いが見え隠れしている声色だ。
「ま、実際そうなるわよね」
 一方で義母さんはどこか楽しげだ。ひょっとしたら自分の望む方向に流れができて嬉しいのかもしれない。
 崩れて斜めになった石壁を上り切った彼女は眼下に広がる世界を見渡しながら、
「こっちがどれだけ予定を固めて防災計画を練ったって、JBの気まぐれが発動したら丸ごと台無しにされるんだもの。安全を確保するなら、まず元凶たるJBを叩いて潰さない事には始まらない。それも徹底的に、反撃のチャンスなんて残さない形でね?」
「……それは、手を伸ばせば叩ける距離にいるって事か? 地球の裏側からキーボードを叩いてサイバー攻撃しているとかじゃなくて」
「モチ。てか国防省の地下では手こずらされたしね」
 アークエネミー・リリスの魔の手をかい潜り、必要な細工を施して、一切の証拠を消してフランス国防省の地下から安全に抜け出した何者かがいる。それだけで相手の技量がケタ外れなのは確定だ。
 顔を出すのはかつてのリヴァイアサンのような、同格以上の魔王か。
 あるいは、
「こういう時は人間なのよねえ」
 天津ユリナは頰に片手を当ててどこかおっとりと言った。
 魔術師、占い師、錬金術師、祈祷師、死霊術師、魔女術師、呪術師、陰陽師、召喚師、妖術師、風水師……。
 あくまでも人間のままオカルトを扱う者。呼び名は色々あるだろうし、僕が頭に浮かべるその全部が必ずしも適切に当てはまっているかどうかもはっきりしない。映画やRPGから刷り込まれた知識だって山ほどあるだろう。
 でも、少なくとも僕は見ている。
 ヴァルキリーのカレンを意のままに操っていたブードゥーのボコールに、何かしらの神を宇宙船のクイーンに仕立て上げた最初のJB。
 スキュラなんかも参加していたみたいだから、必ずしも人間だけの組織じゃなさそうだけど。マイクロプラスチックの一件ではヘカテっていう魔女の女神が面白半分に人間へ力を貸していたし。
 共通しているのは、神のコントロール。
 息苦しい世界からの脱獄を願うJBからすれば、ルールの壁を壊して抜け穴を作るための試行錯誤の一部か、変わった形の復讐なのかもしれないけど。
「そして自分の弱さを自覚している術者はその分だけ情報で戦おうとする。ついうっかりで自分の名前を明かす悪魔なんかよりもよっぽどタチが悪いわ。私達が悪の権化なんかを名乗らせてもらっているのが恐縮に思えてくるくらいにね」
「そいつは一体誰なんだ?」
「ピエール=スミス」
 語感に馴染みのない名前だった。
 アナスタシアよりも、さらに遠い世界の人。けどこれが本名なら、おそらくフランス由来の出自を持っている。
 それでもやるか。
 脱獄とやらを果たすためなら、この国の首都をここまで。
「死者の書を編纂するミイラとピラミッドの支配者。それでいて俗世を捨て去る事なくこの世界を彷徨う『人間』よ。割とギリギリの縁に立っているけどね」
「……、」
「だから安定した道を蹴って、自分からキツい道を歩いている。……どう考えたってゲテモノだわ。やっぱり人間を動かす一番の原動力は、七種の欲望なのかしら」

 

【Unknown_Storage】エジプト魔術の基礎理論【file05】


(以下は規則性のある象形文字を現代語に訳したものだが、それにしては炭素同位体の測定によると描かれた年代が妙に新しい。おそらくは物好きな学者の手による走り書きだろうと推測される)


 エジプト神話において、神官の務めは大きく分けて二つ。太陽の制御と死者の管理にありました。

 起点は二つですが人の体を基準に、外界と内界、と区切ってしまえば世界の全てとも言えます。
 そして太陽と死者、そのどちらもが現状ある世界のその現状を守るという考えに根差した管理技術です。この巨大な宗教では実に多種多様な神が登場しますが、他の多神教がそうであるようにエジプト神話の神もまた完全な存在ではありません。太陽を示す神レーですら、年老いるとその力を弱めてしまうのですから。
 こうした考え方は人間の王にも当てはまり、古代エジプト社会は王の実力やカリスマ性がいつの日か弱まる事も織り込み済みで構成されています。つまり、偉大な誰かの死を容認した上で先に進める文明を組み上げている。根幹にあるのは輪廻転生の思想であり、これを確実に成功させるためピラミッドやミイラといった技術が複雑かつ大掛かりになっていきました。

 これらの魔術は非常に魅力的です。
 ただし、もしもあなたがエジプト式の魔術を実行する者を目撃して、なおかつそれが神や王、世界や社会に対する無償の奉仕でないならば、あなたはすぐさま最大限の警戒をするべきです。

 世界の安定を無視して自らの欲を満たすために実行される超常。
 これは『黒い儀式』と呼ばれ、古代エジプト社会において最も忌み嫌われた力なのですから。
 そしてこういった魔術はよほど多くの人を惹きつけたのでしょう。私欲や悪事のために使われる力にも拘わらず、いやだからこそか、その種類は異様なほど多いのです。

 どうかあなたの前に白い儀式の使い手が現れますように。
 世界の理性は未だ焼き切れてはいないと、力なき一編纂者は願っております。


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第三章

 

   1

 実際のところ、誰にも正確な事は言えないらしい。
『そもそもパリのカタコンベは墓地として開発された地下施設ではなく、最初は採掘場だったようです。その全貌は不明。迷路のように掘り進められて放置されていた廃坑へ、遺骨をかき集めて規則的に埋め直したのが今日のカタコンベとなります』
「観光コースは一本道だけど、他の道に迷い込まないように分かれ道は鉄格子で塞いであるのよね。封鎖の奥についてはナゾだらけ。それこそ何百年モノで放置されてるからデジタル的な検索じゃ何も見えないわ。ついさっきだってかなり浅い層で歴史的発見があったみたいだし」
 また厄介な。
 ……けど厄介って判断が即座に下せるだけでもマシか。やっぱりマクスウェルがいると違う。これまでの三六〇度手探りの真っ暗闇から、地図もあれば磁石もある、そんなプラスの変化を感じる。
 がっつり秘境。
 今時、月や南極だって検索エンジンの地図と写真で事細かに調べられる世の中なのに、こんなフランス首都のすぐ下にまさかの検索不能エリアとは。けど、だからこそアブソリュートノアっぽくもあるのかな。
 ともあれ、
『入るのは結構ですが、無目的な探索は非推奨です。たまたまの偶然で天津ユリナ夫人と遭遇できる可能性は極小です』
「分かってる」
 そもそも義母さんや倉庫の番人が今ここにいるかも見えてないんだ。何月何日何時何分にピンポイントでアタッシェケースを持ち寄って集合、だったら今カタコンベをいくら調べても何も出てこない。
 ワインやチーズみたいに、地下墓地に人形を寝かせてじっくり呪いのグッズ化していますとか、動かせない事情があれば話は別なんだけどな。それも確証はない。
 となると、
「……分かってるのは、義母さんと倉庫の人間がカタコンベ内のどこかで出会うはずって事だけだ。そしてこれは絶対に阻止したい」
「あのう。諦めて帰ったって線は?」
「それなら別に困らない、アブソリュートノアの戦争準備は失敗に終わったって事だから。これだけやったJBが野放しなのは怖いけど、ひとまず正面衝突の全面戦争だけは回避できたって事になるはずだ」
 ただし。
 多分それはない。
「……JBから先制攻撃を受けて、義母さん達が黙っていられるならな。ただでさえ煮え湯を飲まされての報復戦を、さらに先手必勝で邪魔されたんだぞ。天津ユリナは、一〇〇%切れてる。感じからして、何もしないですごすご日本に帰るとは思えない」
 流星雨の直撃で大事なお宝が丸ごと吹っ飛んだって可能性もあるけど、やっぱり楽観的だよな。僕達はそれが物か金か、重金属の武器か電子のウイルスか、人間かアークエネミーかも分かっていないんだから。
 だってどうする?
 魔王の頂点サタンとか地獄最下層コキュートスの門とか、本当の本当に訳の分からないモノだとしたら。物理的な衝撃なんぞでどうにかなる相手とは限らないんだぞ。
 引き出し作業は継続中で。
 義母さんと倉庫の番人の接触を止めないと世界は破滅。
 それくらいは警戒しておいてもバチは当たらないだろう。
 となると、
「今すぐ出会えないなら、今の内に罠を張りたい」
 せっかくマクスウェルとのラインは復旧したんだ。検索機能をフル活用させてもらおう。
「巨大ダンジョンのカタコンベを今すぐ網羅できないなら、せめて出入り口だけでも封殺する。フランスだって防犯ブザーくらいあるよな? 通報機能と地図アプリが連動したCCD搭載モデルなら、カメラ、通信、バッテリー、これら全部が詰まった小型デバイスって事でコスパ的に考えてあれ以上のものはないし」
 方針をマクスウェルに伝える。
「……どこかで大量に手に入れて、あるだけ全部出入り口に仕掛けよう。義母さんが通りかかったらすぐ分かるように」
『出入り口とは言いますが、カタコンベ自体の全貌が不明である以上は確定的な事は言えないのでは? 全部で何ヶ所あるのです?』
「アナスタシア。カタコンベは膨大だけど、人が迷い込まないよう塞いでいるのはみんな鉄格子なんだよな? 隙間のない鉄扉じゃなくて」
「えと、それが?」
「つまりどれだけ入り組んでいようが、光も音も空気も熱も、全部通る」
 夢のような話をしよう。
 現実の帳尻はマクスウェルが合わせてくれる。
「出入り口のカメラを向けるのは外側じゃない。カタコンベの中だ。分かっている全ての入り口から光を投げかけて、別の出口から微弱でも必ず漏れてくる光を拾う。これを可能な限り全ての出入り口でやる。ようは複数のカメラの陰りを計測する事で、中で異物が動き回ればその位置が分かるよう逆算プログラムを組めば良い。……感じとしては配管の傷を調べる光探査プログラムの応用かな、光って言っても人の目で分かるような強さじゃないと思うけど」
「あのうー、それは何百人のエンジニアやプログラマが何年の時間をかけて? ここはワークステーションがずらりと並ぶシリコンバレーの大会社じゃないのよ!?」
「マクスウェル」
『シュア。すでにコンパイルとデバッグまで終わりましたが何か?』
 小さなアナスタシアが飛びかかってきた。
 口の端からよだれが垂れてる。
「売って!! やっぱりその悪魔ワタシに売ってちょうだい、いくらでも出すからッ! 何が量子コンピュータの実用化よ馬鹿馬鹿しい、到底追いつかない本物の悪魔がここにいるじゃない!!」
『はあ。システムはたかだか初期不良で投げ売りされていた携帯ゲーム機の基板を一四〇〇台ほど並列で繋いでコンテナに詰めてもらっただけですが』
「この非常識シミュレータを作ったトゥルースごと全部売れえッッッ!!」
 やだなあ金持ち小学生とか。まあ飛び級で大学通って在学中に特許をバンバン取ってるスーパー女子大生(笑)の場合は自分で稼いだお金っていうのが唯一の救いかもしれない。
 せっかく苦労して『武器』を取り戻したんだ。
 この理不尽災害の真っ只中で、さらにアブソリュートノアやJBはパリや全世界に向けて泣きっ面に蜂まで繰り出そうとしてる。ここで自分の武器を使わない理由なんかあるか。
「しかしまあ、大量の防犯ブザーがいるな。マクスウェル、プログラムを組む上での想定モデルは? 紐を引っ張ったらブザーが鳴るだけじゃダメだ、不審者の顔を撮影して通報地点を地図アプリに点で打つ商品だぞ』
『ブランアンジュ052。二世代遅れで現役ギリギリ、カラーは特にピンクが不評なのかワゴンで投げ売り中です』
「ピンクに罪はないわ。ただフランスは女性らしさって概念を自分じゃなくてよそから勝手に押しつけられるのをメチャクチャ嫌うお国柄なのよ」
『大量購入の際は五〇〇メートル先、プリペイドメインの携帯ショップへどうぞ。二五ユーロもあればダースで買えます』
「……この停電の中で? 夜九時前だけど、外国のお店って結構簡単に店じまいしちゃうらしいじゃないか」
『技術プロモーションを兼ねた無人店舗ですよ。停電時の対応マニュアルに不備があるので、極めて高確率で開きっ放しのまま右往左往です。無人レジは応答しませんが、営業時間内に無人レジが応答しないから商品を購入してはならないという法はフランスの法律書を隅から隅まで検索しても出てきません。手動計算で正しい金額を算出した上でレジ台にお金を置けば盗難には該当しませんよ』
 まくすうぇるけっこんして、とアナスタシアが小さな顔の前で両手を組んで謎のプロポーズを始めていた。これで口の端からよだれが垂れてるうっとり一一歳のハニートラップにかかったら逆にこのコンピュータは高度過ぎないか?
 しかしケータイショップが無人か。何かと面倒な手続きばかりの日本じゃ考えられないな。
 実際にそちらへ向かってみると、確かに。
 停電の中でもぽっかりと口を開けたお店があった。他はシャッターを下ろしたり崩れかけたりしている分だけ逆に異様だ。暗闇の奥でごそりと気配が動くのでビクついたが、外からスマホのライトを向けてみれば隅の方で何人かの若い男女がうずくまって固まっている。表の雨はもう止んでいるはずだけど、ここで休憩しているのかもしれない。
「アナスタシアはここに」
「なに、何で?」
「良いから」
 ……彼らが武器を持っていないとは限らないし、縄張り意識を発揮して掴みかかってくる可能性もある。何人かの男女は、本当に最初から知り合いだったのか? 変な依存心を発揮して、目についた女の子はもう逃がさないマッチョな俺達で取り囲んで守ってやるとか言われても困る。
 ルーヴル美術館では、実際に暴徒と警官が撃ち合っていた。そう簡単にタガは外れないと思うけど、よっぽどな条件が重なった場合はその限りじゃなさそうなんだよな。
 ルーヴルの時は『金』の一択だった。
 でもトリガーはそれだけじゃない。
 アナスタシアは可愛くて薄着、雨でびしょびしょ、真っ赤なワンピースの短いスカートをちょっと絞れば水も滴る一一歳、とビジュアルだけでも結構やりたい放題だ。しかも中身は(パリの人から見れば)外国人で飛び級の大学生でお金持ち、トドメに正体は人間じゃなくてアークエネミーときてる。……変態、学歴コンプレックス、金目当て、国籍や人種の差別愛好家。実は色んな角度からリスクを抱えまくってるって訳だ。しかもこれらは、合併症を起こす危険もある。金持ちの外国人は嫌い、アークエネミーのくせに高学歴とか馬鹿にしやがって、などだ。
「マクスウェル」
『シュア、正しい判断と評価します』
 人の心は難しく、完璧な行動予測は多分無理。マクスウェルにできるのもパターン網羅であって、確定のハンコを押した唯一の答えじゃない。なので複数の出口を確保できない密閉された闇は、やっぱり怖い。小さな女の子を表に置いて僕だけそっと中にお邪魔する。
「どれだ? 防犯ブザー」
『ひとまずレジの横を照らしてください。安売りのワゴンは奥まった所には置きません、一刻も早く消化したいはずですから』
 あった。
 ゴルフボールよりは大きめの、卵形のプラスチックがゴロゴロ。うーん、ピンクって色は確かに普段は選ばないけど、そんなに悪いものには見えないな。値段の方は……、
「マクスウェル、一・九九ユーロって何円だ?」
『もう約二ユーロでよろしいですか? リアルタイムの為替レートですとおよそ三〇〇円。この不安定な回線速度でのFXはオススメできませんが』
 しないよそんなの。そういうのはアナスタシアみたいな理系人間の独壇場だろ、機械に聞くだけの僕にはハードルが高過ぎる。
 しかしまあ、ワンコイン以内か。ほんとに安いな。そりゃあハードディスクの容量と値段を見れば分かる通り、コンピュータまわりは時間の経過と共にガンガン値下がりするものだけど。
 カメラの数はあればあるだけ困らないけど、自分で買うっていうのを忘れちゃならない。多分パリは、まだユーロが使える環境だ。ごっそり買っていくとして、そうだな、ひとまず余裕を持って二ダースくらいかな? ヤバい、細かいのがないな。こういう時に限って。じゃあ余裕を持って五〇ユーロ置いていくか、チップも兼ねて。
『警告、日本円で約七五〇〇円ですよ』
「ぐっ、地味に堪える……!?」
 停電中でスマホ決済は使えないから、ちょっと濡れたお札をレジ台に置いておく。
 でっかい箱を両手で抱えた時だった。

 爆発だった。
 鼓膜が爆発した。

 いきなり意味が分からない。
 暴れる心臓をどうにかなだめて凝視してみれば、興奮した金切り声だ。女の一人が叫び声を上げ、周りの男達がのそりと振り返る。
 こっちはフランス語なんかできない。
 ただヤバいとだけ理解した。急激に心拍数が跳ね上がったまま、下がらない。なんだっ、ルールが見えない。一秒前まで大人しくしてただろ。何でこうなった! 金が見えたから? 日本語で話をしていたから? 何きっかけかも判断できないけど、やっぱりあの連中何か『爆弾』抱えてやがったのか!?
『警告!』
「分かって、っる!!」
 両手はでっかい箱で塞がっているし、向こうが刃物とか銃とか持っていたら最悪だ。ひとまず牽制として地震か何かで床に散らばっていたモバイルバッテリーを蹴飛ばしつつ、さっさと店の出口に走る。
 商品棚を薙ぎ倒すような、破壊音の洪水が追ってくる。
「なにっ、どうしたのトゥルース!?」
「走れ!!」
 風を切る音を右耳が捉えた。
 投げたっ、何を、後ろから飛んできたのは、ありゃ日本じゃあんまり見かけない消防の斧か!? 重たい塊が顔のすぐ横を回転しながら追い抜いていったらしい。あと三〇センチずれていたら後頭部をグサリだった、いよいよ命が危ない!!
 緊張で心臓が痛い。
 頭がくらくらする。
 流星雨だの地震だの川の氾濫だの色々あったけど、言われてみれば人の悪意を直でぶつけられるのはこれが初めてだ。ルーヴル美術館の時だってこっちに直接銃を向けられた訳じゃない。
 理解不能に会話不能。
 さらには過去も未来も予測不能。何故こうなったのかも、これからどうするのかも、ヤツらの行動がまるで読めない。人を支える芯の部分がまるであやふや。
 人災。人の災い。なんて無意味で、くだらなくて、しかもおぞましいんだ!? ここには何の運命も感じない。他人の都合や欲望で死ぬなんて絶対に嫌だッ!!
 二人して通りを曲がって廃車の裏に隠れ、息を潜める。
 しばらく待つ。
 足音は?
 自分の心臓がうるさくて聞き取りにくい。
 斧も怖いけど、最初にあれを投げたって事は銃はない、よな? そもそもフランスってアメリカみたいに普通の人も銃持ってる国なのか? ああもうはっきりしない!! イエスともノーとも言えないから怖いッ!!
「(トゥルース説明してっ)」
「(しっ)」
 どうだろう……?
 こう、なんか遠くで暴れる音とか怒鳴り声とかは聞こえるんだけど、追っては来ないな? まだ店の中に留まっている? となるとテリトリー侵害とかで爆発したんだろうか。解せない、不可解だ。最初に店へ入った時は大人しかったのに。
 その時だった。
『フランス語を分析した限り、災害下の略奪と勘違いされたようですね』
「なに、えっ?」
『無人レジにお金を置けば問題ないはずですが、全てのフランス国民が自国の法律に明るい訳ではありません。いわゆる誤想防衛。ユーザー様も、日本の六法全書を丸ごと暗記してはいないでしょう? ようは、きちんとお金を払ったのに泥棒扱いされただけです。ユーザー様に非はありませんのでご安心を』
 しばらく、画面の文字が頭に入ってこなかった。
 えと、つまり。
 ちょっと待って。まさか。
 嘘だよな。
 ……間違った、正義感……で殺されかけた……?
「何だよ、そりゃあ」
『事実です』
 無意味だ。
 あまりに愚かで馬鹿馬鹿しい。
 もう私利私欲の暴君ですらないじゃんか……。
『脱出時に商品のモバイルバッテリー等を蹴飛ばしていますが、こちらは正当防衛の要件に合致します。無事に過ぎ去ったのでもうぶっちゃけますが、あの状況なら反撃して殺してしまってもこの国の法律的にはカウントされませんよ』
「しないってば、そんなの……」
 やっぱり海外は感覚が違うな。過剰防衛って考えがそもそもないのか?
 ともあれ、もう脱力して車の陰でへたり込むしかなかった。そんなので僕達は追い回され、寄ってたかって消防の斧だの消火器だのを使った数の暴力で殺されかけたっていうのか? 運命論なんか信じないけど、直撃していたら何のために生まれてきたのか分からないような無駄を極めた末路を迎えるところだったんだぞ。
 ただ、迂闊だったな。
 正直に言うとすっぽ抜けていたっていうか、その考えはなかった。そうか、悪人だけを注意していれば、正しいルールだけ守っていれば、それで全ての危険を回避できるものでもないのか……。
 暴力のカードを持っているのは悪人だけじゃない。
 正義側に殺される展開も、ありえる。
 とにかく、だ。
「これで機材は揃った」
『シュア』
「それじゃあ改めて、カタコンベにアタックしよう」

 

   2

 考えられる限り、全ての出入り口にカメラとライトを設置する。

 どれだけ微弱であっても外から中へ投じた光は屈折、反射を繰り返し、人の目には感じ取れないレベルにまで減衰しようが必ず別の出口へ辿り着く。

 カメラはその弱い波を捉える。

 迷路のようなカタコンベのどこかに人が立ち入れば、どんな形であれ光は遮られる。

 二〇なり三〇なりのカメラが各々捉えた『陰り』の信号を統合する事で、逆に人影が迷路のどこにいるかを逆算する。
 つまり迷宮全体を光ファイバーにでも見立てて、ねじ曲がったファイバー内を不規則に転がる砂粒を正確にサーチする、って考えれば良い。

 カタコンベは結構広い。
 地上を歩いてあちこちにカメラを仕掛けていくだけでも、ちょっとしたウォーキングになりそうだ。
 それでも大体終わらせた。
 出入り口の一つ。ここは雨を気にせず進める地下道か何かの拡張工事でぶつかったのか? とにかく雑な鉄扉の奥を覗き込む。
「こんな感じか?」
『シュア。ただしカタコンベ自体の全貌が見えていないため、結果に誤差が生じる可能性があります。大雑把に距離や方角は検知できますが、合流したと思ったら両者がいるのは地下二階と地下三階だった、直線通路と思ったら鉄格子で塞がれていた、などのアクシデントにも備えてください』
「そもそも動く影はいるのか?」
『います』
 あまりにも即答過ぎて、逆に実感が湧かなかった。
 アナスタシアが飛び上がって、
「それじゃあアブソリュートノアは在庫引き出しを続行しているって事!? まだ戦争なんて言葉にこだわって!!」
『不明です。そもそも分かるのは人の影であって、それが具体的に誰かという特定はほぼ不可能です』
「……つまり、義母さん以外の線もあると?」
『わざわざこんな日に地下墓地に入りたいと思う人がいるかは不明ですが。一時的な避難か、盗品を隠しているか、あるいは元からここを寝床としている路上生活者でもいるのか。選択肢だけならいくらでも』
 ……他にも、アナスタシアは酸性雨から地下墓地を守ろうとしてビニールシートを引っ張り出していたっけ? 見渡す限り人骨を敷き詰めた迷路なんて僕からすればおっかないけど、中には心配して被害の有無を確かめに来る人とかもいるかもしれない。
 だとするとまずいぞ。
 そういった人達がたまたまアブソリュートノアと鉢合わせしたらどうなる? ただでさえ後ろめたくて秘密にしなくちゃいけない何かを抱えていて、しかもすでにJBから受け渡しの妨害を受けているんだ。義母さん側が疑心暗鬼に囚われている場合、安全を確保するためにとりあえず排除、なんて考えにもなりかねない。
 そうなる前に。
 虎の尾を踏む事がないように、危険を伝えるかカタコンベから追い出さないと。
『当然ながら、天津ユリナ夫人以外の人物であってもリスクは否定できません。そもそもこの状況でカタコンベに人がいるのは不自然ですし、向こうもユーザー様を見つければ不審に思うでしょう』
「分かってる……」
 ついさっきも、普通に買い物をしただけで斧を投げつけられたばかりだ。本人が正しいと思ってる事と、それが実際に正しい事なのかはまた違う。正しいと思って間違った判断を下す人物だっている。……善良かどうかは、安全かどうかまでは保証してくれないって訳だ。
 まして、他に誰もいない地下深くで、間違いと知ったまま間違いを犯せる人と鉢合わせしたら?
 つまり。
 本物の、確信犯の悪人に。
 それだって、やっぱり確率はゼロじゃない。
「……アナスタシア」
「嫌よ。今度はワタシも行くわ」
 いきなり拒絶された。
 小さな金髪少女はぷーっと内側からほっぺたを膨らませて、
「ワタシの知らないトコでトゥルースが危険な目に遭うの、さっきが初めてじゃないわ。エッフェル塔の辺りでもトゥルースはやらかしていたわよね。だから行く。もう、自分の選択肢を横から取り上げられるのは真っ平だわ」
『シュア、システムとしても何かと暴走しがちなユーザー様を物理的に止められる人物の同伴を強く推奨します。それから表で待たせておけばアナスタシア嬢が安全などという保証は一ミリもありませんが』
 ひどい扱いだ。
 ただ、一一歳のアナスタシアを一人にしておいてさっきみたいな『正しい人』が来た時も問題か。災害現場じゃ保護と誘拐は紙一重って聞くし。
「……分かった。離れるなよアナスタシア」
「保護してるのはこっちですう」
 何とも頼もしいアナスタシアに小さな手で導かれて、一歩。

 カタコンベの中へ。

 湿った場所だった。
 涼しいというか、寒い。今さらながら雨でずぶ濡れだった事を思い出す。
 スマホのライトを向けてみれば、入って五歩で白いゴツゴツが壁を埋めているのが分かった。
 人間の頭蓋骨がびっしり。
「……、」
「トゥルース?」
 アナスタシアはキョトンとしていた。
 骨が怖い、んじゃない。次第に慣れてきている自分に驚いていた。殺人現場で死体と同居しているっていうよりも、生物室の骨格模型くらいの気持ちまで感情が落ちてる。
 これで良いのか?
 効率は上がるんだろうけど、代わりに、知らない間に見えない心の表面を削られているような。
 素材を無視すれば、感じとしては手掘りのトンネルとか映画に出てくる防空壕みたいな見た目だった。両腕を水平に広げれば左右の壁に指先がつく程度の湿った通路で、湿気のせいか天井から水滴が落ちる音が時折響く。
「保護の状態どうなってんのよ。歴史的な遺産なんでしょ……」
 アナスタシアは半分呆れたように言っている。
 通路は直角に折れ、さらに進むと枝分かれしていた。こちらは白っぽい石でできた、下への階段もある。
「マクスウェル」
『反応は下からです』
 ……そういえば、下に降りても電波は繋がるよな? 多分ここは観光コースじゃないし、地下深くでいきなり途切れたら死の迷路に閉じ込められるぞ。
「パンくず落とすとか、アリアドネの糸とかって必要?」
「やめてよね、歴史的な遺産って言ってんでしょ」
 富士の樹海でも落書きとかが問題になっているんだっけ?
 常に電波状況を確認しつつ、階段を降りていく。これ、マジでダンジョンだ。
「ああそれ、語源的にはフランス語なのよね。お城の主塔、ドンジョン。中には不気味な牢獄なんかもあったとか」
 アナスタシアからいらぬ本格仕様のお墨付きをもらいつつ。
 幸い、電波は大丈夫っぽい。
 通路を塞ぐ錆びた鉄格子の扉は太い鎖と南京錠で雑に閉じてあった。ただ、侵入者が通っているとすれば錠前は外してあるか鎖が切れているはず。念のため蝶番とかも見てみるけど、赤い錆が床に落ちている様子はない。誰も動かしていないならひとまず無視、かな?
「立入禁止の鉄格子、どうしても先に行かなくちゃならない事態になったらどうする?」
「錠前については市が後からつけた備品だからぶっ壊しても問題ないわ。ホームセンターで五ユーロくらい?」
「そっちじゃなくて、技術的に」
「多分ソフトボール大の石を叩きつけたら普通に砕けるわよ? カタコンベって別にダイヤや金塊を守るために鍵をつけてる訳じゃないんだし。最低限、観光客が死の遭難コースに迷い込まなければオッケーってだけ」
 ……僕達にもできるって事は、義母さん達なら造作もないだろう。動向を探る意味でも、鉄格子は見つけるたびに鍵を確認してみるか。
 不幸中の幸いなのは、変な虫やネズミなんかがいない事かな。ジメジメした広い地下空間だけど、食べ物がないからかもしれない。
 何度も通路を曲がると、もう方向感覚も曖昧になってきた。
 案内板のない巨大な地下鉄駅をひたすら歩き回っているって感じだ。
 だから正確な事は言えない。
 しばらく歩いた時だった。
 何かが変わった。

『警告』
「……、」

 いったん、だ。
 スマホのライトを消す。画面のバックライトもだ。完全な暗闇の中、アナスタシアの小さな手を握った。
 息を潜める。
 ……やっぱり何か違う。圧? それとも温度か空気の流れだろうか。きちんと言えないけど、何かがわずかに遮られている気がする。
 距離感は掴めないけど、いる。
 誰かいる。
 心臓が縮む。人の気配が嬉しくないなんて事態も珍しい。
「(アナスタシア、しばらくスマホは禁止だ)」
「(明かり厳禁なのは分かるけど、じゃあどうするのっ?)」
 人工の光を消せば、後は塗り潰したような闇。
 少なくとも通路の先から光は漏れてない。暗視ゴーグル装備の人間とか夜目のきくアークエネミーとかだったら打つ手なしだけど、まだ遠いか、あるいはあっちも明かりを消して様子を窺ってるっぽい。スマホのライト自体は消したけど、おそらくあっちの方が先だった。しかもここは一本道だ。鉄砲なんかで大雑把に乱射されただけでも逃げ場がない。火炎放射器とかだったら最悪も最悪だ。
 余裕が欲しい。
 相手より情報で上回りたい。
 ……防犯ブザーやライトを出入り口に固定するのに、ビニールテープを使っていたよな。今時のデジカメは人の目より高性能だし、光さえ漏れなければ。いけるか?
「っ、何かでピントを合わせる必要があるか。アナスタシア、お前本職のハッカーなんだから細々とした工具セットくらい持ってきてるよな? スマホの蓋を開けたり基板をいじったりする系の」
「? トゥルース何してるの?」
「とにかく精密作業用のルーペを貸して欲しい。ほら早く」
「わひゃっ? どっどこに手を突っ込んでいるのよトゥルース!?」
「しっ」
 なんか暗闇の中でわたわたし始めたアナスタシアを黙らせる。
 やってるのは簡単で、横に倒したスマホを両目に押しつけた上で、顔と機材の隙間をビニールテープで塞いで固定しただけだ。ピントを合わせるために、適当なレンズを噛ませているけど。これに簡易VRのアプリと肉眼より精度が高いイマドキのスマホカメラを連動させると、だ。
「マクスウェル」
 粗いけど、出た。
 補整用のレンズが一つしかないからキープできるのは片目だけ。でも一応はゴツゴツした人骨の壁も、大雑把に通路の奥行きも認識できる。大きく首を振ると若干ブレが出るけど、真っ暗闇よりは断然マシ。
 いけるぞ、DIY暗視ゴーグル!!
「トゥルース? 説明して」
「ぶっ!?」
 考えなしに視線をやって、危うく大声を出しかけた。ただでさえ薄着でずぶ濡れ、しかも暗視補整が変な風に作用したのかっ、透けてる。アナスタシアのうっすーいドレスがすっけすけになってる!?
 何にも気づいてねえ無防備少女は奇跡的に長い髪でガードしたまま怪訝な顔で首を傾げて、
「トゥルース???」
「何でもないっ、とにかく暗闇でも視界は確保できたぞ。手を引くから先に進もう」
 正面に立たせるとメチャクチャ心臓に悪いっ。かと言って安全に進むためには暗がりで光は出せない。ここは僕が一歩前に出て先導しよう、そうすればアナスタシアを視界から外しておける。
 ちなみに暗視装備を確保しても鉛弾は止められない。向こうが『見えていない』としても、適当な乱射だけで十分危ないんだ。できるだけ通路の壁際に寄りつつ、頭を低くして、ゆっくりと音を立てずに通路を歩いて進む。
 次の角までは……一〇〇メートルくらい? 近づくにつれて、緊張が高まる。
 曲がり角の向こうに誰かいたとして、どうする。一般人か、アブソリュートノアか。確かめる方法はないし、よしんば一般人として向こうは不審に思わないのか。ただでさえこの人骨だらけのカタコンベの中、明かりも持たず暗闇の中を手作り暗視ゴーグルをつけてひっそり近づいてくる知らない人間なんか。
 何か。
 判断を誤ったか?
 けどここはアークエネミー・リリス、アブソリュートノアを支配する天津ユリナの秘密が眠る場所。すでに敵地だ。呑気に無害アピールして相手がアブソリュートノアの精鋭だったらそれこそ目も当てられないし……。
 正しい答えなんかないかもしれない。
 とにかく角まで辿り着いた。
 ごくりと喉を鳴らして、そっと奥を覗き込む。
「……誰も、いない?」
「トゥルース、手探りじゃなくて、まさか見えてる???」
 確かに『何か』あったのにな。ただのプラシーボか? あるいは慎重になりすぎている間に、奥にある別の通路に消えた?
 間が抜けた感じで緊張が緩む。
 ロシアンルーレットでハズレが確定した時ってこんな気分なのか?
 安心はするんだけど、拭えない。ごりっとした不審の塊が胸の中に残っている。
 すぐ隣では、まっすぐ見れない感じのアナスタシアが何かごそごそしていた。
「そうか、スマホのカメラと画面使った暗視ゴーグルだったんだわ。そんなアイデアあるなら教えなさいよトゥルース」
「あっ!」
 ヤバいっ、あのルーペ予備でもあったのか!? あれさえなければ至近べったりな画面と目のピントを合わせられないから真似される心配もなかったのに!
「どれどれ、こんな感じかなーと。……、……………………………………………………………………………………………………………………………」
 ようやっと事態に気づいたらしいアナスタシアが沈黙していた。主に視線を下げ、暗視補整下だと自分のドレスがどれくらいすっけすけになるかを確認して。まあ、うん、ええと、アナスタシア。長い髪のおかげでギリギリ守られているけど、一一歳ならそろそろブラジャーが必要になってくるお年頃なんじゃないカナー?
 音もなく、そっと逃げようとしたら物理的に手を噛まれた。
「がるぐるぐる!! トゥルースっ!!」
「痛い痛いぎぃやあ!? 不可抗力っ、僕だって試してみるまでこうなるなんて知らなかった!!」
「でもがっつり見てたわよね? 黙ってずっと見ていたわよね!?」
「頼むアナスタシアできるだけそっち見ないようにしてんだから正面に回り込むなっ! 髪だけじゃ怖いからちゃんと手でガードして!!」
 ……こ、これだけ叫んでいても反応がないなら、やっぱりもうここには誰もいないのか? アブソリュートノアは一体どこに消えた?
 隣からなんかブツブツと呪詛の声が流れてくる。
「トゥルースばっかりずるいトゥルースばっかりずるいトゥルースばっかりずるいこんなの不公平だわ」
「ちょっと静かにしてくれアナスタシア」
「ワタシの納得は!?」
「えー? 俺のなんか見てどうするんだ。しょうがないわがまま娘め。ほら、どれだけ頑張ったってパパお乳なんか出ないけど、寂しくなったらいつでも吸いついても良いんだぞ。……あのう、これが正解?」
「……おかしいわ、同じ事を髪のガードもなくやり返したのにどうしてワタシがダメージを喰らうの? トゥルースってこんなドヘンタイの道を突っ走っていたかしら」
『今さら何言ってるんですか』
 でかいっ文字が!? いやまあ目線を隠すよう顔にスマホをベタっとつけてるからだろうけど。
 ややあってふきだしが小さくなった。
 そして文字列はサイテーだった。
『デコメガネ委員長の水着ダンス見たさに完全VRの災害環境シミュレータを組み上げた人ですよ。歴史に名を残すド級の変態に決まっているじゃないですか』
「マクスウェル、このふきだしを使ってアナスタシアの体を隠せ。早くっ」
 アナスタシアはアナスタシアで、なんか涙目でビニールテープと格闘してた。ていうか手が入ってるのは服の中だ。
「……ああもうっ、どうしても透けちゃ困るトコはテープで塞いでおこっと」
 ……まあ、防御力としては絆創膏とどっこいどっこいかな。言ったらまた噛まれるからそっとしておこう、あっちはできるだけ見ないようにしないと。
 女の子の準備ができたら改めて奥へ。
 どこを見ても似たような人骨通路と、丁字や十字の交差点に階段。後は錆びた鉄格子。先に進んでいるのか一定エリアをぐるぐる回っているのかもはっきり言えなくなってくる。
 奥にはやっぱり人影はない。
 ただ気になったのはそこじゃなくて、
「……マクスウェル、これ何だ?」
『注目しているのは床ですか?』
「ああ」
「ねえトゥルース、こっちにもマクスウェルのメッセージを教えてよ。これじゃアンタの画面は見えないわ」
 アナスタシアが僕の服を掴んでぐいぐいおねだりしてくるとまたキケンなビジュアルが目の前一杯に飛び込んできそうなので(てかあれで隠したつもりなのかっ?)適宜会話内容を補足しつつ、だ。
『何かを引きずったらしき、水っぽい痕跡が見られますね』
「小さな車輪、だよな。台車とか?」
『二重に引いてあるところからして、おそらくスーツケースでしょう。車輪幅からメーカー名を検索できますが、実行しますか?』
「いやいらない。必要なのは中身だろ」
『ではこちらだけ。おそらく二重車輪が四セットですが、その間隔を見る限りスーツケースの容量は八〇リットルほどですね』
「……札束から小型核まで何でも入りそうだな」
『シュア、手足を曲げれば人間でも収まります。または、人間大のアークエネミーでも』
 参ったな。
 やっぱり『いる』って事で間違いなさそうだ。ただこいつがアブソリュートノアだとして、ここまできても相変わらず扱う品が見えてこない。毒ガスとか細菌とか、漏れちゃ困るものじゃないと良いんだけど。
 ……一般人の可能性は低そうだな。
 八〇リットル? これだけの大荷物を抱えておいて、普通の人が明かりも点けずに移動できるか? 壁に擦ったような跡もないし。やっぱりこいつ、僕達と同じかそれ以上の暗視装備持ちだ。
 いる。
 義母さんが統率するアブソリュートノアまでは、近い。

 

   3

 しかしあのJBが流星雨だの小惑星だのをバカスカ落としてまで食い止めたかった何かだ。具体的に、義母さんは何を手に入れようとしているんだろう。
 近づいているのは分かるけど、僕達で引き出し作業を阻止できるのか?
 どうやって。
 こっちは誤想防衛だか何だか、勝手に勘違いして金切り声を上げる村人Aからだって反撃の一つもできずに逃げ回る始末なのに。
「……、」
「なに、トゥルース?」
 アナスタシアはアークエネミーだけど……あてにはできないな。シルキーは古い屋敷に住むお手伝い妖精で、気に入らない住人や客がテリトリーに居座った場合は容赦なく嫌がらせしたり首を絞めたりするらしい。ただし逆に言えば、それくらいが限界なんだ。吸血鬼やゾンビのような、街だの軍だのを丸ごとぶっ壊すほどの『分かりやすさ』はない。筋力は一一歳女子相当で、人間より多少は耐久性が頑丈な程度。それくらいで考えた方が良い。
 いざ取っ組み合いになるなら僕がやるしかない。そうならないのがベストだけど、多分アブソリュートノア相手に言葉の説得は無理だ。
 天津ユリナの子供?
 それは本当に、組織全体にくまなく通じる特権か。義母さん個人なら通じるかもしれないけど、他のメンバーはあっさり殺しに来る可能性だってある。何しろ僕は滅亡後の世界に残すべき偉大な科学者や芸術家として彼らの作った方舟に乗る訳じゃないし、建造にも貢献していない。関係各位の知り合い、おこぼれの乗船者。他のメンバーから見ればお荷物要員なんて別に死んでしまっても構わないはずなんだし。
 それに、嫌だ。
 助かる側の特権を振りかざして話を丸く収めていく形になるのは。こればっかりは合理性の話じゃない。
 となると、
「……マクスウェル、今の内に攻撃手段の検索。ただし謎の暗殺術とか手持ちでガトリング砲撃ちまくる方法とか、僕のカラダのスペックじゃあ今すぐできないものは除外」
『そもそも戦闘行為自体が最大級に非推奨ではありますが』
 そんなの誰でも分かってるよ。
 罠の危険もあるけど、ひとまず床の車輪跡を慎重に追っていく。ワイヤーやバネ仕掛け、レーザーやX線、超音波や電磁波。そういう物理的なトラップは特になかった。今さらだけど、そうした判断ができるのもお手製ゴーグルの恩恵だ。
 さらに階段を下りた時だった。
「っ」
「鉄格子が……」
 危険な通路に迷い込まないよう後から設置された鉄格子の扉。そいつを縛りつけていた太い鎖がだらんと下がっていた。鎖を千切った訳じゃないらしい。鍵の外れた南京錠が床に転がっている。
 これまでなかった光景だ。
 近い。
 だけどアブソリュートノア側も慌てているみたいだ。これまでなかったって事は、今までとは対応を変えるきっかけが必要なんだから。それは何だ? 合流の時間が差し迫っているとか、自分でも道に迷いかけたとか。あるいは、僕達追跡者の存在に気づいたか?
 水に濡れた車輪の跡は奥に続いている。扉だけ開けてよその通路に逃げたって線は、確率的には低そうだ。
 この先に、いる。
 暗闇の中でアナスタシアと頷き合って、僕達はゆっくりと鉄格子の扉を潜った。
 闇は深く、まだまだ長い。
 奥へ続く通路を、できるだけ音を立てないように気をつけて歩いていく。
 直角に折れた通路の端に辿り着く。車輪の跡はやはりここを曲がっている。正解、のはずだ。同時に僕達は自分から危険の中心へ近づいているって事でもある。どうするんだ、向こうの誰かが武器でも持って息を潜めていたら。実は全く移動しておらず、すぐそこの角から僕達を窺っていたら。
 曲がり角を覗き込んだ途端、鼻先がぶつかる距離に相手の顔があったら。
「……、」
 妄想だ。
 そのはず。だよな? いくら何でも吐息や身じろぎは完全には隠せない。相手はこのゴツゴツした床でスーツケースの車輪を転がしているんだ、近くにいれば音で分かる。はず。
 奥を。
 そっと覗き込んでみると……だ。
「あれ? 何だ、ここ」
 変な場所に出た。
 これまでの直線通路と直角に折れた曲がり角なり交差点なりとは違う。広い。そして明るい。それもロウソクとか松明とか、時代がかった火の照明じゃない。これは明らかに電気の光だ。
 ていうか、
「カタコンベ、じゃない?」
「どこか別の地下と繋がったんだわ……。ワタシ達だってショートカット用の地下道から入ったじゃない!」    
 こうなるとスマホを使ったDIY暗視ゴーグルは邪魔にしかならない。自動で光量補正がかかるからいきなり目が潰れる事はないけど、単純に動体視力だけなら肉眼の方が優れている。カメラ越しだと大きく首を振った時にブレるんだ。
 ベリベリとビニールテープを剥がして横にしたスマホを顔から外す。
「いたた、痛いっ。うー、しっかり貼りすぎたわ……」
「何だ、ゴーグル外すのに苦戦してるのか?」
「そうじゃなくて、服の中に貼ったヤツがっ、いたいー」
 げふんっ。
 ともあれ、僕達はやけに新しい地下へ踏み込む。
 見た感じとしては、
「小洒落たデパートの地下って感じかな……」
 しかし、六〇〇万人分の人骨を収めたとかいうあれだけ不気味だったカタコンベが、ただの通り道だったって事なのか?
 そもそもここはどこなんだ。独立した電源があるみたいだけど。
「……、」
「アナスタシア?」
 同じ疑問を持ったのか、ペットロボットの顔も兼任するスマホに目を落とした金髪少女がそのまま固まっていた。
 どうしたんだろうと思っていると、ぽつりときた。
「……地図の上だと、ワタシ達がいるのってサンジェルマン通りとサンドミニク通りの間よ」
「だからどこだよそれ?」
 近所の駅前じゃないんだ、道路の名前だけ言われてもピンとこない。
 しかしアナスタシアは顔を上げてこう続けたんだ。奇妙に震える笑顔を浮かべ、とびきりの爆弾を投げ込む格好で。

「フランス国防省。ここ、その地下だわ」

 カタコンベ?
 そんな印象、一瞬で吹っ飛んだよ。

 

   4

 義母さん、天津ユリナがJBとの全面戦争を想定してーーーもちろん勝って当然ってレベルでーーー何を引き出そうとしているのかはまだ見えない。けどぼんやりと輪郭くらいは浮かび上がってきたか。
 オカルトとかアークエネミーとか、古臭い伝統から遠ざかった気がする。
 むしろ方向性は逆。
 細菌や毒ガス、コンピュータウイルスやマイクロ波兵器といった方向性だ。
 というか、だ。
「……なあ、あんまり聞きたくないんだけど、確かフランスって核保有国だったよな?」
「ハッカーとしてここまで弾頭の発射コードに近づいたのはワタシ達が世界初かもね。先に入ったアブソリュートノアの目的が核管理システムでなければだけど」
 まだ、仮定だけど。
 でももしもこれで『正解』だとしたら、釣り合うか? JBの連中がバカスカ流星雨だの小惑星だのを落としたのだって。
 これがアブソリュートノア、天津ユリナの戦争準備? 勝つために必要な武器の引き出し作業、正面衝突でぶつけるための???
 ……何やろうとしてるんだよっ、義母さん! アンタはただ自分の持ち物を引き出そうとしてるだけかもしれないし、どうせカラミティで世界が滅ぶなら極めて重度の汚染も気にしないって考えかもしれないけどさ!!
 人の気配はなかった。
 職員も、警備員も。
 先行するアブソリュートノアが直で地上から国防省に入らなかったって事は、この地下フロアはまともな順路からじゃ繋がっていないんだろう。ひょっとしたら上の階で働いているエリート官僚の大多数は、こんなフロアの存在自体知らないのかもしれない。
 つまり。
 それだけヤバいものが管理されている。
 ……そう思って改めて観察してみれば、そうだ。このフロア、防犯カメラがない。壁の中に隠されているとかって話でもない限り、身内にも出入りの様子を知られちゃならないって訳だ。
 人がいないのは元からだろうか? あるいはアブソリュートノアが排除した……?
「あれ? けどそれって、スーツケースは何なのかしら」
 アナスタシアが口では言えない場所から剥がしたビニールテープを小さな手の中でくしゃくしゃ丸めながら、
「ワタシ達、カタコンベでは車輪の水の跡を追っていたじゃない。ただ、ここで核発射コードとかデータを奪っていくつもりなら、大荷物を抱えて入っていくのって違くない?」
「相当特殊な大型工具の詰め合わせとか、侵入用のコンピュータとか……。あるいは空っぽかもしれないぞ。奪った戦利品、例えば分厚い紙の書類やハードウェアを入れるためとかで」
「でっでも、国防省に弾道ミサイルや核兵器が眠っている訳じゃないわよ? 発射コードだって、映画と違ってそれだけじゃあミサイルは撃てないわ! 実際には煩雑な手順が山ほどあって、一つでも手違いがあればコマンドは実行停止になる!!」
「ただし核管理システムにはオールリセットがある」
「……、」
 アナスタシアは善意のハッカーだ。
 だから脆弱性のウワサについても敏感なはずなんだ。こんなのは釈迦に説法なんだろうけどさ、あったはずだ。特にアメリカ・イギリス規格を嫌って独自路線を突っ走ったフランス製については、最悪の疑惑が。
「バグ持ちや旧式化したセキュリティを総交換したり、新しい大統領が就任するたびに指紋や虹彩なんかの生体認証ロックを登録し直すために、弾頭のシステムのセキュリティをまっさらにする機能だ。こいつを発令したら強固な防御なんて丸ごとなくなる。弾頭側にある一つ一つの項目を細かく再設定し直さない限り、オンラインで外からつついて刺激しただけで誰でも自由に撃てる丸裸の『出荷時設定』にまで戻ってしまう」
「でっでもだって、核発射プロセスにはかならず人の手を挟むせーふてぃがあって……」
「それ、全部オンライン作業で済ませられる疑惑があったよな? 匿名で技術者コミュニティに告発したのはお前だろ、アナスタシア」
 ひとまずここが最低で最悪。
 義母さんの動きについては推測であって確定じゃない。細菌兵器や化学兵器、通常弾頭や無人攻撃機など、実際に狙っているのはもっと扱いやすいカードかもしれない。ただ読みが外れたとしたって、最悪を想定して動けば同じ手で対処はできるはず。
 だとすれば僕達はどこから攻める?
 アブソリュートノアの方が手が早い。一手でトドメを刺せるくらいの切り札を使わないと、多分悪い流れを止められない。
 僕達の目的は後追いで事実を突き止める事じゃない。先回りして事前に食い止めないと意味がないんだ。
「……マクスウェル、合図をしたらこのスマホからデータ退避。破損ファイルの読み込みでコンテナ本体をやられるなよ」
『やはりその手しかないでしょうか』
「電磁パルスでも高出力のマイクロ波でもアース線の連結でもいい。とにかく国防省地下フロアのコンピュータを残らず焼き切るしかない。今すぐに!! そうしないとオンライン操作一つで何十発の核ミサイルが大空を飛ぶか分かったもんじゃない!」
『当然ながら違法行為ですよ。ユーザー様はフランス国籍を持たないので国家反逆罪には問われませんが、普通に交戦権を持たない外患戦闘員として扱われるかもしれません。つまり見つけたら射殺せよ、です。仮に核脆弱性が真実なら、仏政府は自らの不備を絶対に認めないでしょうからね。ユーザー様の行動の正当性が表に出る機会は永遠にありません』
「……このまま黙っているよりマシだろ」
 戦争、と比喩的に繰り返してきた。
 だけどここまでとは思っていなかった。保有国からの、核乗っ取り。戦争の中でも最悪の部類じゃないか。
 僕は天津ユリナにはパートのレジ打ち主婦であってほしいんだ。そういう自慢をしたい。人類を滅亡に追い込んだ魔王リリスとして歴史の教科書にデカデカと顔写真を載せるなんて真っ平だ。
 そう、滅亡。
 フランスの核だけでも世界中の人達を殺せる。しかも弾道ミサイル用の早期警戒レーダーが反応したら、よその国の弾道ミサイルも報復で発射される。その全部が見当違いで地球全土に死の灰が降ってくる。一回の決定で大惨事だ。
『電子発破の準備までは手伝いますが、物理的に全館設備を吹き飛ばす前にアブソリュートノアの狙いがオールリセットであると確定を取る事を極めて強く推奨します。読みを外してテロリストでは目も当てられませんしね』
「分かってる。アナスタシア、お前は先に戻ってろ! アンタに付き合う義理はない!!」
「冗談言ってんじゃないわよ。アンタの一存でこのワタシから正義を奪わないでちょうだい」
「アナスタシアっ」
「噛むわよ。アンタがただのテロリストになりたくないように、ワタシもただのハッカーにはなりたくないの。こんな世界の危機を放り出して一人で逃げたら、ワタシの芯がなくなるわ」
 睨み合いをしている場合でもないか、くそっ。正直に言うと涙が出るほどありがたいけど、でも絶対アナスタシアには累が及ばないようにしなくちゃな。
 別に大気圏外で核ミサイルを吹っ飛ばすだけが対電子攻撃じゃない。人体に極力影響を与えずに広範囲の電子機器だけを破壊する、手品みたいな攻撃は簡単にできる。
「マクスウェル、フランス製のLSIについて教えてくれ。行政用コンピュータにおける普及率は?」
『普通にアルプスの奇麗なお水で作ったモノリシック集積回路を多用しておりますが。ただ部分的にジョセフソン素子なども見受けられます』
 なるほど、やっぱりシリコンはシリコンか。
 海外だからサファイアとかスピネルとかもっと極端なゲテモノ規格かと思っていたけど、それならあの手が使えるな。
『あくまでフランス国内メーカーのサーバーを覗いた程度です。国外企業から演算機器が輸入されている場合は売り手の国の規格に準拠すると思われますが』
「アナスタシア、どう思う?」
「トゥルースが何しようとしてるのかは知らないけど……ここ国防省よ? どんなスパイウェアを組み込まれるかもはっきりしない外国製なんかあのフランス政府が導入するかしら。よしんばよっぽどの友好国だったとしても、フランスって工業系は電卓から戦闘機まで何でもかんでも自国生産じゃないと許せない国だから、絶対何か小細工するはずだわ。九九%は外国製でも、一番重要な基板だけフランス製と差し替えたりね」
 なら決まりだ。
「トゥルース、具体的にどうするの」
「ないものねだりをしてる暇はないし、今あるもので即座に作れるネタでやろう」
 頭の中で材料リストと作業コストをざっと並べて、
「つまり、高周波破壊」
 ……実際のところ、精密機器の電子基板を破壊するのに電磁気は必ずしも必要ない。例えば塩水をかけたり、炭素の粉塵まみれにしたり、何なら機材を外から何度も蹴飛ばすだけでもスパコンはダウンする。
 そんな野蛮な手を使おう。
 理屈はこうだ。
 ガラスは結構簡単に割れる。石を投げたり棒で叩いたりなんて話じゃなくて、例えばオペラ歌手が放つ規格外の歌声でも。
 そしてガラスのワイングラスもシリコンの半導体も使っているのは同じケイ素だ。
 基本的な性質は同じ。
 これは意外と知られていない事なんだけど……つまり精密機器は振動を使って、壊せる。遠く離れた場所からでも、広範囲のデバイスを一気にまとめて。
 メインのシリコンと極わずかな不純物。
 この基準となる比率さえ分かれば、振動を外から加えるのは容易い。材料だって簡単に手に入る。多分屋内施設ならどこにでも一つくらいあると思う。
 天井近くを見上げれば、だ。
「あれだ、館内放送のスピーカーなら十分だよな」
『三倍以上出力を増幅する必要があります。コンデンサを調達するか自作して対応を』
 人間にとってはただの耳障りな爆音でも、厳密に言えば空気を伝う振動だ。あらかじめ設定された波長の波をばら撒けば、ケイ素と若干の不純物でできた半導体は耐えられない。顕微鏡で見なくちゃ判別できないような亀裂の断層に巻き込まれ、髪の毛よりも細い無数の配線はいとも容易く破断する。フランス製の家電を内側から軒並みぶっ壊す事も可能になるって事。
 ……ほんとに簡単なので、詳しい方程式は内緒だ。隣じゃいかにも悪用しそうなアナスタシアが瞳を輝かせて前のめりになってるのでご容赦いただきたい。おいちょっと、口の端からよだれを垂らすな一一歳っ。
 さて、と。
「アナスタシア、そのスマホは世界に二つとないカスタムだよな」
「ふふんっ、これでもセキュアレベル3以下の都市インフラなら攻め滅ぼせるサイバー兵器よ? 大学のスパコンと繋げば4までいけるわ。ここまでやったらコンビナートでも発電所でも自由自在、もう戦略兵器の域ね」
「そんなに大事なものならペットロボットごときちんと防音素材でくるんでおけ。多分アメリカ製は規格が違うから大丈夫とは思うけど、高周波で中の半導体が割れるかもだ」
 急にアナスタシアがもそもそ動き出した。ちなみに防音っていうのは結構強引な仕組みで、普通のゴムやガラス繊維をひたすら壁の中に埋め込む事で実現する。収録スタジオやライブハウスだと大体厚さ二〇センチから三〇センチくらいかな。なのでちょっとした地球儀くらいの塊で包み込めばスマホは守れるはず。でもってゴム系の接着剤なら世界中どこにでもある。
 真空が使えたらもっと薄くもできるんだけど、ダメか。掃除機くらいじゃどうにもならないだろうし。
「ううー。しばしの間待っててね、かわいこちゃん」
「……あの、アナスタシア。えとその」
「何よトゥルース?」
「自慢の愛機を守りたいのは分かったけど、バスケットボール大のカタマリをその薄いドレスのお腹に入れるなっ。愛おしげに小さな掌でさすさすするなよ、ビジュアル!!」
「?」
 そんな訳ですっかりお腹の大きくなったとってもマタニティなアナスタシアと一緒に準備を進めていく。ちなみに僕のスマホも保護したいけど、マクスウェルからの具体的な指示がないとアイデアを形にできない。なのでシールドするのはまだ先だ。
 やる事は簡単で、工具を使って天井近くのスピーカーを取り外して分解。独立したバッテリーと、電圧を無理矢理底上げするコンデンサに繋ぐ。こっちも適当な機材から数を集めてのお手製になるけど。後はスマホ経由でマクスウェルが調整した音響データを流し込んで、大音量かつ一定法則の爆音でフロア一面のコンピュータを中から破壊する。
 アブソリュートノアの方が先に動いたのなら、こっちは音速で追い抜く。JBの本拠地、地球のどこを狙っているかは知らないけど核発射なんかさせてたまるか。そんなのはJBに勝ったなんて言えない。相手のレベルまで自分が落ちていくだけじゃないか、義母さん! アブソリュートノアが核なんかに手を伸ばしたら、流星雨でパリをメチャクチャにしたJBに正しさを明け渡しかねないぞ!?
 ユニット全体をまとめれば、バッテリーまで入れてもリュックに収まる程度のサイズだ。これならやれる。
「マクスウェル、これからスマホをシールドするぞ。ゴムだから塞いでもスピーカーに電波送れるよな? ダメなら有線接続用のケーブルだけ外に出す必要があるけど……」
『ノー、アブソリュートノアの目的はフランス軍の核管理システムのオールリセットであるという確証を得てからと進言させていただきました』
「オンラインでミサイルが飛んでからじゃ遅い!」
『絶対にノーです、システムはユーザー様の身命及びあらゆる権利の保護を最優先させていただきます。勘違いでいたずらに行動した場合のリスクが大きすぎます』
 ええいっ!
 ここで押し問答したって、マクスウェルのサポートがない限り高周波破壊は実行できない。くそっ、先に計算させた音波信号を適当なストレージに保存しておくべきだった。そうすれば手動でも何とかできたのに!
「トゥルース、ここはマクスウェルが圧倒的に正しいわ」
『てかシステムは基本的にいつでも正しいですけどね』
「黙って。状況は切迫しているけど、ワタシ達はまだアブソリュートノアの人間を実際に見た訳じゃないのよ」
「じかに見るような事になれば、もう逃げられない位置関係だと思うけど……」
 確かにネットワークを利用できれば心強い。生身の僕一人ではできない事にも手が届く。だけどその強さは絶対的なものじゃない。どこまでいっても僕は僕で、非力な人間でしかないんだ。
 この先。
 得体の知れない超兵器が顔を出したら?
 神話に出てくるようなアークエネミーが出会い頭に襲ってきたら?
 ……マクスウェルには従うしかない。ただアナスタシアだけでも、すぐ突き飛ばして逃がせる位置をキープしておこう。間違いなく、アブソリュートノアは出会っちゃいけない相手だ。一度も顔を合わせずに核関係の受け渡しを遠隔攻撃で潰した上で、行動不能になった義母さんを引きずって日本に帰るべき。それができないなら、無傷での突破はできないって考えた方が良い。そして傷がつくならアナスタシアじゃなくて僕だ。得体の知れないユニットを背負っているんだから自然と狙われやすくはなるだろうけど、それでも用心は重ねておいて損はない。
 だってアナスタシアには、理由がない。
 こいつの場合はもう親子ゲンカですらない。ここまで付き合ってくれたのはただの義理とお人好しのおかげだ。だからこそ、恩を仇では返せない。
「……さて」
 前にも言ったけど、ここは見た目だけなら小洒落たデパートの地下スペースって感じだ。床はピカピカに磨かれていて、照明は柔らかく、空間は広い。あちこちに両開きの豪華な扉はあるんだけど、分かりやすい案内板はなかった。バッテリーだの導線だの、あれこれ見繕ったのもこういった部屋。普通の会議室っぽい場所もあれば、映画に出てくる軍艦みたいな透明なガラス板にレーダーっぽい光点を並べた薄暗い部屋もあった。中に入ってみても、何のために用意されたものか見当もつかない場所だって多い。
 ただ、これまでは比較的近くにある扉を片っ端から開けていくって感じだった。遠くの方とか、広い通路から細く入り組んだ方までは敢えて踏み込んでない。
 ……目的は、義母さんやアブソリュートノアのメンバーを見つけ出す事じゃない。ついうっかりで鉢合わせして考えなしに真っ向から戦うなんて自殺行為だ。
 あくまでも、彼らの目的が核管理システムのオールリセットだって確信さえ持てれば良い。だとすると細々とした部屋を虱潰しにするよりも、サンプルを抜く感じで広いフロアのエリアを覗いていった方が系統の把握はやりやすいはず。いかにもでっかい秘密がありそうな、誰もが最初に触りたくなる重要区画を見つけてから改めて細部を詳しく調べていくのが早い。
 となると、
「奥から調べよう……。似たような部屋ばっかり並ぶエリアを全部調べて時間を潰している場合じゃない」
「分かったわ」
 まずは地下全体の広さを知っておきたいよな。ここまで秘密主義だと、地上の敷地面積通りとは限らないし。
 そう思って。
 奥へ一歩踏み出した時だった。

 世界が、
 回っ……?

 何が起きたか把握もできないまま、ただ空白の時間を過ごした。受け身、という言葉が脳裏によぎった時には背中から床に叩きつけられ、肺の中の酸素が全部口から逃げていくのが分かる。せなかっ、きざいはどうなった!? 背骨がみしみし軋むっ。
 やられた。
 先手を打たれた。
 出てきたのは、アブソリュートノアかっ?
「がっ、あア!! げほっ、ぐぼ!?」
 直撃と同時に時間と痛みの感覚が戻った。
 背負った機材のせいで海老反りみたいに背骨が反り返る。自分の体のくせに全然言う事を聞いてくれない。時間の流れに身を委ねても、何も好転しなかった。ただただ酸欠の頭が回復もしないまま、ぼうっと意識の輪郭を滲ませていく。
 ヤバい。
 落ちる。
 視界が暗い。意識が、保たない。
「、ルース……、トゥルース!!」
 その、心細そうな甲高い叫び声で。
 ほんのわずかに、だけど、落ちていく意識にブレーキがかかった。
 あなすたしあっ、誰が現れたのかもはっきりしないけど、まだ逃げてもいないのか。このままじゃお人好しなあの子までやられるッ!
「あ、ァ、ア!!」
 叫び。
 倒れたまま、改造したスピーカーを覆い被さる影に突きつける。
 この子だけは。
 何があっても、アナスタシアだけは逃がさないと……。
「マク、ウェ……二万ヘルツで最大出力……っ!! 今すぐ、に!!」
 相手が正確にどこの誰だかなんて知らない、とにかくスイッチ。ただし基板を壊すためじゃなくて、骨振動で頭蓋骨を揺さぶるための周波数だ。
 ギィ、ん!! と。
 甲高い音を、錯覚する。
 とにかく吐き気がひどかった。明らかに僕まで巻き込まれている。それでもっ、正体不明の襲撃者に一矢を報いてアナスタシアを危険から遠ざけられるなら。
 アナスタシアは無事、なはず。
 見た目は人間そっくりでもやっぱりアークエネミー・シルキー。頭蓋骨の組成や骨の共振の条件は変わるはずなんだし。
 そこまで考えて、違和感があった。
 続いて背筋に走る悪寒にも似た、恐怖が。
 待てよ。
 待て。
 しまっ、襲撃者もまたアークエネミーだったら体の構造が違うんだ。骨の素材も密度も、最悪、骨なんかない可能性だって。つまり、人間用の高周波は通じない……!? アブソリュートノアだったら十分に考えられる事だったじゃないか!!
 そしてもう一発。
 カカトで踏みつけたのか、膝でも落としてきたのか。とにかく僕のみぞおちの辺りに体重を乗せた重たい打撃があった。
 もう、悲鳴すらない。
 口をぱくぱく動かすけど、空気を吸う事も吐く事もできなかった。

「まったく、相変わらずえげつないモノをその場のノリで作るわね。我が子ながら呆れるわ、クラフト適性とか発明家カテゴリとか、何か余計な落書きでも魂の端っこにくっついているのかしら」

 暗くてほとんど見えない視界の中で。
 どれだけ意識がぐらついても。
 それでも、その声に聞き間違えはなかった。

「できれば巻き込みたくはなかったんだけど、こっちも手が詰まっていたところだし、まあ、その力を借りるのもやぶさかじゃないか」

 呑気な。
 庭の雑草が伸びてきたけどどうしようくらいのノリで放たれる、そのおっとり声。
「……義母、さん?」
 リリスは魔王だけど、体の作り自体は人間と変わらなかったはず。じゃあいよいよどうやって音響攻撃を回避したんだ、この人は……???
「おはようサトリ、これってホームシックの逆パターンって考えて良いかしら。わざわざフランスまで追いかけてきちゃって、そんなにお母さんに甘えたかったカナー?」
「核管理システムのオールリセットなら、手は貸さないぞ……。僕達は、それを止めるためにここまで来たんだ」
「残念ながら、今まな板の上にあるのはもっとヤバいモノよ」
 あっさりと、だ。
 天津ユリナは前提を破壊した。
 粉々に。
「そしてもう一つ。私達アブソリュートノアは、そのヤバいモノを止めるために動いている。当たり前よね、方舟は世界の危機を乗り越えるためのものなんだから」

 

【Unknown_Storage】緊急報告・最重要【file04】


 確度・大
 脅威度・最大


 現場にて天津ユリナを検知。
 影武者や誤情報ではなく、本人で確定。
 最大級の警戒をもって対応する事。本人が有史以来最大規模のアークエネミーである他、アブソリュートノアのレアリティ自体は依然として世界の上流に残留している。官民を問わずアブソリュートノアはあらゆる組織を味方につけている。横槍に注意。現場において、無関係な一般人などいないと思え。

 また、同ポイントにて天津サトリを検知。
 こちらについてはシミュレータ・フライシュッツの予測が追いつかない。フローチャートは存在しないので特に注意する事。
 天津サトリとて人間だ。
 答えが出ないからといって、殺せないとは限らない。諸君の地力が試されていると思え。

 なお、両者は相互に干渉している。
 片方を排除するためにもう片方を半端に傷つけて足を引っ張らせるような方法は愚策である。外敵の地力を底上げする上に予測不可能な事態に陥りたくなければ絶対に避ける事。

 以上。


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第二章

 

  1

 起き上がれない。
 呼吸がおかしい。
 体が何か……外からのしかかられるっていうより内側でつっかえている。カラクリ仕掛けの人形が外から踏まれて、中にぎっしり詰まった歯車ごとくしゃっと潰されてしまったような。
 僕は。
 僕は一体どうなったんだ……?
「……ーす……」
 どこかから声が聞こえた。
 近いのか遠いのかもはっきりしない。
「痛いけど我慢だわ、トゥルース!!」
 ごぐぎん!! という鈍い感触が体内で響き渡り、そして忘れていた激痛が一気に頭蓋骨の中へと殺到してきた。
 カンフル剤って呼ぶには荒療治過ぎる。
「あっ、が、は、ははァ!!!???」
「生きてる? 外れた肩は今のでハマったみたいだけど」
 倒れたまま呻くだけで、まともに答えられなかった。
 ここは灯台みたいな……いいや思い出してきたぞ……確か、高速道路のジャンクションを支える柱の中だ。数十の流星雨が降ってくるから慌てて逃げ込んだんだけど、ロックを掛けたはずの鉄扉が千切れて飛んできて、まともに直撃したんだっけ。
 まるで交通事故だった。
 骨がどうこうじゃない。生きていただけでもラッキーと思わなくちゃならないくらいのダメージ。
 だけど自分の幸運なんかに喜んでいる場合じゃない。
 外は。
 パリは。
 フランスの首都は、一体どうなった?
「……、」
 確かめるのが怖かった。
 だけどここでじっとしてる訳にもいかない。義母さんだって同じ街にいるはずなんだ。
 息を吸う。
 幼いアナスタシアにすがる。
 何とかして起き上がる。
 まだ右肩の辺りがずきずきするけど、一歩。よろめき、躓いて、床にスマホが落ちているのに気づく。身を屈めて拾い上げて、やっと自分の体が自分の頭で動かせるのを思い出す。
 もう一歩。
 さらに一歩。
 元々灯台の内部みたいな狭い空間だ。大股で四、五歩も歩けば千切れた鉄扉の枠に差し掛かる。
 さっきみたいな不自然な明るさはもうなかった。むしろ暗い。ここは高速道路のジャンクションなんだから、上の道路を照らす街灯の恩恵くらいありそうなものなのに。
 手をついて、首を出す。
 確認する。

 ここは、どこだ?
 僕達は得体の知れない世紀末にでも迷い込んだのか???

「……、」
 しばらく。
 呼吸すら忘れて、灰色の風景を眺めていた。何だか粉っぽい膜で覆われた向こう側に、斜めに傾いたビルの群れが見える。それだけじゃない。一段低い所で山を作っているのは……まさか、耐え切れずに全部崩れたのか?
「……マクスウェル」
 とにかく情報が欲しかった。
 本当に?
 いつものサービスに触れて、ここはイカれた並行世界なんかじゃないって実感が欲しかっただけじゃなくて?
「マクスウェル! 返事をしろ!!」
 繋がっていなかった。
 圏外。
 ケータイ電波を無線LANに切り替えても状況は変わらない。マクスウェルはもちろん、天津ユリナの動向も、デフォルトで入っている地図や天気予報のアプリも、最低限の通話やメールさえ機能してない。
 胃袋が冷える。
 また一つ、孤独の中で当たり前が死に絶えていく。
 そういえばここ最近の心霊現象は手始めにスマホを動作不良にするらしい。怪談を語る側も心得ている訳だ、真っ暗な夜道や廃墟で何が起きたら一番嫌かを。
 パリは……どうなった?
 まさか、本当の本当に、今のでこの街は死んd
「トゥルース!!」
 間近で叫び声があった。
 ミシミシって鈍い音が響いたのもほとんど同時だった。しかも真上から。何か、細かい砂みたいなのが頭の上に降ってくる。
 いいや。
 嘘だろ、
「走って!! 高架が崩れるわ!!」
 上を見上げる余裕すらなかった。見たら絶対に足がすくんでへたり込む、そう分かってしまったから。だから前だけ見て、逆にこっちからアナスタシアの手首を掴んで勢い良く駆け出す。一〇歩はなかった。五歩もあれば良い方だった。
 真後ろで爆発が起きた。
 いいや、何十トンっていうコンクリートの塊が落下してきて、地面とぶつかって大量の砂利や土砂を舞い上げたんだ。下敷きで机の天板を叩いた時に小さな風が生まれる、あの理屈で。暴風に煽られた小石の雨に背中一面を叩かれるようにして、二人一緒に転ぶ。もう移動も何もない。幼いアナスタシアを抱え込んで胎児みたいに体を丸めるくらいしかできる事がなかった。
 音はしばらく連続した。
 幸いだったのが、最初の一発で前のめりに倒れて転がされた事か。あちこちすり傷だらけだったけど、おかげで知らない間に何メートル分か距離を稼げたらしい。ブロック化された高架道路が次々破断して落ちていく危険エリアの、ギリギリ外までは逃げられたんだ。
「無事かっ、アナスタシア?」
「え、ええ。うえっ、げほ!!」
 まるで得体の知れない催涙ガスだ。倒れ込んだまま互いの安否を確認し合う僕達を、体に悪そうな灰色の粉塵が追い抜いていった。
「こ、これでもマシな方だわ……」
 ギザギザの地面に転がり、同じ空気を吸って大空を見上げながら、アナスタシアがスカートや肩紐も気に留めず、信じられない事を言ってきた。
 思わず二度見する僕に、しかし一一歳の少女は首を横に振って、そのまま続ける。
「粉塵は舞い上がっているけどいきなり気温がぐんと下がったりはしない、パリ一帯が地均しされて巨大なクレーターに変わっているって感じでもない。デカいのが一つじゃなくて、小さな塊がたくさん降り注いだんだわ。さっきまであったマクスウェルの話だと、空中で砕けたんじゃなくて最初から複数独立した流星雨のようだけど」
「……、」
「だからパリの全滅だけは避けられた……。街はまだ原形は留めてるわ。ひとまず、地球全体が氷河期って展開にもならないようだわ」
 冷たい人、とは思えなかった。スケールを急に大きくしたのはきっと、目の前の現実から逃げたいからなんだろう。何でも良い、『せめて』良かったが一つくらいないと。耐えられないんだ、この小さな少女の心では。
 僕だってそうだ。この惨状を素直に認めたら、そのタイミングで心が折れてしまいそうだった。
 後ろを確認するのが怖かった。
 直近。
 高速道路は、僕達がいた金属の橋げたはどうなった?
 二人して、完全に音が止まってからゆっくりと身を起こし、恐る恐る振り返ってみる。もうジャンクション特有のぐるりと回る巨大な陸橋は跡形もない。まるで放置された積み木みたいにコンクリートの塊が山積みにされているだけだった。金属の柱? あちこちでぐにゃぐにゃ折れ曲がったり破けて内側からギザギザの破片が飛び出しているアレがそうなんだろうか。
 あと一分、柱の中で呆然としていたら。
 あと五秒、走り出すのが遅れていたら。
 ……僕達は今、どうなっていたんだ?
「これからの事を考えましょう。トゥルース、いくら旅行ビギナーでもパスポートくらい常に持ち歩いているわよね? ワタシは大使館に助けを求めるべきだと思う」
「待ったアナスタシア。上は高速道路だったんだぞ、車だって走ってたはずだ。あの中に生き埋めにされた人だっているかも

 バガッッッ!!!!!!
 いきなりの爆発と突き刺すような熱風に、僕の言葉が断ち切られた。

 まだ完全に立ち上がってもいなかった。
 なのに無理矢理地面を転がされる。何度も何度も。信じられなかった。何だ今の? ガソリン、車の? 答えがほしくても、スマホはうんともすんとも言わない。いつの間にか、僕は自分の目で見たものが何なのか判断がつかなくなるほど退化していたっていうのか!?
 僕の服を小さな手で掴んだまま、アナスタシアは絶句していた。
 パリはまだ残っている。世界全体も氷河期にはならない。
 そんな無理矢理なポジティブ探しじゃ覆い隠せなくなったんだ。助けを求める事もできない人々を前にして、人としての感性がじわりと戻ってきているんだろう。
 それでもアナスタシアは沈痛な様子で首を横に振って、
「……素人判断で救助の真似事なんかやったって、巻き込まれるだけだわ。どこに可燃物があるかなんて誰にも読めないっ、瓦礫の山だって何かの拍子でこっちへ崩れてくるかも」
「でもっ」
「助けないなんて言ってない! トゥルース、背丈の何倍もあるあの火柱をアンタに消せる? 瓦礫の一つ一つが何十トンもあるけどどうやって持ち上げるの? ……無理なものは無理よ。それよりも、本当に一人でも助けたかったら、無謀な挑戦じゃなくてプロの人間と設備をきちんとここまで呼ぶべきだわ。スマホは使えないのよ? 情報が伝わらなければ助けは来ないんだから!」
 正しい。
 アナスタシアは圧倒的に正しい。
 マクスウェルのサポートがない今、僕にあるのは運動のできない高校生程度の筋力。しかもスポーツ成分を犠牲にしてガリ勉になった訳でもない。命にかかわる現場なんかに耐火服や酸素ボンベどころか手袋もしないで首を突っ込んだらどうなるか。そりゃあミイラ取りがミイラになる。分かってる。というかマクスウェルと正常に繋がっていたとしても、多分こう言うはずだ。最善の助言は危ないから今すぐ逃げろだって。分かりきっている。
 でも。
 けどさ。
 それでもだよ!!
「……消してみせるさ」
「トゥルース!!」
「今すぐ全員瓦礫の中から引きずり出すのは無理かもしれない! だけどあの炎くらいは消しておかないと助かるものも助からないだろッ!! せめて、救助を待てる状況くらい作っておかないと!!」
 もう全員は救えない。
 事故車から漏れたガソリンが出火原因だとしたら、火元の潰れた車に閉じ込められていた人は一番最初に焼け死んでる。そもそも火事に関係なく、高架が崩れてコースアウトした段階で車の中で命を落としている人だっているだろう。
 だけど、まだ助かるはずの人だって残ってるかもしれないんだ。乗用車一台で一人から四人くらい? 大型のバスがあったら一台で何十人? 全部で一体何人瓦礫の下に埋まってるかも判断できない中で、その全員をいっしょくたのカゴに入れて一括で諦められるほど僕の心は強くない!!
 探せ。
 考えろ。
 ガソリンの炎は普通の火事とは勝手が違う。闇雲に水をかけると油が飛び散って余計に火の勢いを高めてしまうかもしれない。なら使えるのは何だ? トン単位の化学消火剤? そんなものどこにもない。だけど考え方は間違っていないはずだ。そうだ、大昔にナパーム弾の延焼を食い止めるために使っていたものは、
「……砂だ」
 気がつけば、そう呟いていた。
 賭けるならここだ。
「砂や土を被せるんだ!! 酸素の供給さえ断ち切ってしまえば炎は消える!!」
「どうやって? ここにはスコップ一つないっていうのに!」
「なら他に今あるものを使うしかないだろ!」
 幸か不幸か、だ。
 今のところ火元は一ヶ所。漏れたガソリンの流れ次第じゃ他の車への飛び火もありえるけど、ここさえ消せば誘爆は食い止められる。
 そして高速道路にはいろんな車が走っていたらしい。火元の近くに大型のダンプカーが半分埋まっている。後ろのバケットに山積みされているのは山盛りの黒土だ。
 レバーは運転席で操作する、と思う。
 マクスウェルがいないから勝手が分からない。だけど運転席に乗り込んでレバーにしがみつけば。闇雲にでもレバーを動かして、あのバケットを斜めにせり出して大量の土を被せたら、きっと乗用車一台分くらいの火は消えるはず!
 今ならやれる。
 逆にこれ以上炎が広範囲に広がったら手に負えなくなる。次に餌食になるのは当のダンプだ。ガソリンだか軽油だかは知らないけど、デカい分だけ積んでる燃料だって多いだろう。
 初めて自分から目的を作った。
 だから一歩を踏み出せた。
「くっ……」
 近づくだけでも肌全体に薄く突き刺すような痛みを感じる。煙は口や鼻ってよりも両目に襲いかかってくる感じだ。足場も鋭いガラスや鉄筋が飛び出してるから油断ならない。何より、あちこちにある瓦礫と瓦礫の隙間は巨大な顎みたいだった。ついうっかりで手や足を入れたら、きっと噛み千切られる。だから痛くても、涙が滲んでも、両目は開いているしかない。目を閉じて手探りで進む訳にはいかないんだ。
 タマネギを微塵切りにするのとは似て非なるけど、とにかくボロボロと泣きながらゆっくりダンプに近づいていく。
 運転席は……くそっ、ロックがかかっているのかフレームが歪んでしまったのか、ドアが開かない! 人の気配があるから下手にガラスを割ると至近から破片の雨を浴びせそうだ。いったんダンプの前から助手席側のドアに回り込む。フロントガラスは細かいヒビだらけで、運転席に誰がいるのかは見えなかった。
「……、」
 途中で視線を感じた。
 足元を見てみれば、自分が今踏んづけている灰色の瓦礫にも隙間がある。その奥で、誰かが閉じ込められているようだった。感じからして……小さな子供? ちくしょう、このまま炎が広がれば蒸し焼き確定じゃないか!!
 そして助手席側のドアにも拒絶される。やはり開かない。
 炎の熱も限界だ。
 僕は足元にあったソフトボール大の塊を手に取る。運転席側からよりは遠ざかっているはず。一度だけ手の甲でノックして警告だけしておくと、覚悟を決めて、小ぶりなコンクリ片をガラスに叩き込む。おっかなびっくり内鍵を外すと、今度は開いた。
 乗り込むと、運転席にいるのは金髪のおじさんだった。呻き声が聞こえるけど……うわ、潰れた車体のせいで両足が噛みつかれてる。これこそ、プロのレスキューでもない限り助けられそうにない。
 そして普通の車よりゴチャゴチャしていた。ハンドルの他にいくつかレバーがある。どれだ、どこから始めたら良い? とにかく片っ端から動かすくらいの気持ちでレバーに手を伸ばしたら、運転席のおじさんから手首を掴まれた。
 じっとこっちを凝視してる。
 だけど僕にはフランス語で交渉するだけの能力がない。スマホも圏外だから通訳アプリなんかも使えそうにない。だからもう正面から見返すしかなかった。それから自分で言えるのはこれだけだ。

「ヘルプっ!!」

 裏声で最低にダサかった。
 フランス人は英語で話しかけても答えてくれないって話もテレビで観た事がある。そもそもイントネーションは思い切り日本語で、イギリス人やアメリカ人が聞いたって首を傾げただろう。
 それでも必死さは伝わったのか。
 あるいは単純にポカンとしたのか。
 とにかく手首を掴む力が弱まった途端、僕はいくつかあるレバーを端から順に倒していった。
 火元になった車のドライバーは間違いなく亡くなっている。けどそこに大量の土を被せるのは、褒められる話じゃない。それでも覚悟を決めてやるしかない。
 バックを知らせるのと変わらない警告ブザーが規則的に鳴り響き、重たい振動と共に後部のバケットが持ち上がる。やってみて気づいたけど、傾斜のついたバケット自体が盾になってしまって振り返っても後ろの様子は確認できない。
 いけるか?
 消えるか?
 成功しろよちくしょう!! これでダメなら打つ手なしだぞっ!!
「トゥルース!」
 外からアナスタシアの声が飛んできた。
「火が消えていくわ! 一応は成功みたい!!」
 力が。
 抜ける。
 やった? ほんとに? 重たい瓦礫や潰れた車体に挟まれた人達を本当の意味で助けるには時間がかかりそうだけど、ひとまず炎と煙の脅威は取り除いた。じっと待って救助のプロへチャンスを繋げる事には、成功した?
 そう思った時だった。
 頭がぐらりと揺れた。
 疲労のせいじゃない。ごごんっ! っていう特有の地響きがあった。
「これは……」
 思わずクセで天井を見上げて、ぎくりと体が凍りついた。
 いや。
 まさか。
 待ってくれ!! ここでアレがやってくるか? あっちもこっちも不安定な瓦礫だらけで、いつ何のタイミングで崩れてしまうか全く読めないっていうのに。砕けたコンクリやアスファルトでできた瓦礫の下にはどれだけの人が閉じ込められているのかも数えられないのに!!
 だけどそれは人の都合だ。
 自然は待たなかった。

 地震。
 泣きたくなるくらいの無慈悲が、世界を全部揺さぶった。

 何で?
 何でこうなる。
 もう呆気に取られるしかない僕に、小さなアナスタシアが車の外から叫ぶ。
「流星雨の直撃で地盤のプレートに打撃が加わったからだわ! 普通じゃ地震が起きない場所でも今は違う。不自然過ぎるエネルギーを急激に受け取ったプレートが、バネみたいに反発したのよッ!!」
 そんな事を聞いているんじゃない。
 だってもう喰らっただろうが、大自然の猛威なら。まだ流星雨の混乱すら受け止めてないのに、もうか? もう来るのか次の災害が!! こんな、ここまで無慈悲なのか。一応この世界にはヴァルキリーみたいな神様がいるんじゃないのかよ!?
「くっ……!!」
 とっさに運転席のおじさんに両手を伸ばした。けど、ダメだ。潰れた車体ががっちりと両足の太股を挟み込んでいて、抜けない! ここだって瓦礫の山が崩れたら危ないのに!!
 その時だった。
 予想外の力が加わった。

 とんっ、と。
 むしろおじさんが僕の体を押したんだ。助手席のさらに先、開いたドアの向こうへと。

 笑っていた。
 言葉も通じない、裏声の日本語イントネーションでへるぷとしか言えなかった最低にダサい僕に向けて、そのおじさんは確かに笑っていた。
 直後に灰色の土砂崩れがダンプカーに襲いかかった。運転席は、跡形もなく潰れてしまった。
 絶叫した。
 泣き喚いても揺れは止まらず、そのままたっぷり二分は世界を攪拌していた。
 その二分で。
 どれだけの人がすり潰された?
 火事が終わって、一応は救ったんじゃないのかよ。それじゃあダメだったのよ。なあ、JB!? インテリぶってテクノロジーを振りかざして好き放題流れ星の雨を降らせてさ、これが本当に賢い選択か? この人達が一体アンタらに何をしたって言うんだ!!
 もう倒れたまま動けない。
 気がつけば、僕は横倒しでただただ胎児みたいに丸まっていた。
「……トゥルース」
 アナスタシアが、ようやく揺れの収まった瓦礫を渡ってやってきた。
 けどそれは、慰めのためじゃない。
「手を貸して! 今崩れたので、いくつか隙間が広がっているわ。引っ張り出せる人もいるみたい!!」
「……、」
 じわじわと。脳に染み込むまでに時間のかかる言葉だった。
 助けられる人が、まだいる?
 アナスタシアは両手を細い腰にやり、上から目線で汚れた地面に転がった僕を睨みつけて、
「何のために人様のありがたい助言を蹴ってまで危険を冒したの!? 余震が来たらせっかくのチャンスをまた失うわよ。今度こそ永遠に。トゥルースが自分の命を賭けて繋いだチャンスでしょ、アンタはそれでも良いの!? 一人も助けられないまま諦めても!!」
「ッ!!」
 運転席側から助手席側に回り込む時に見かけた、あの視線の主を思い出す。
 もう無我夢中だった。
 アナスタシアと二人で、鉄錆とガソリン臭い瓦礫の隙間から生存者を引っ張り出す。何をやっても死と隣り合わせの作業だった。割になんか合わなかった。それでも僕達は、一人一人引きずり上げるごとに、擦り傷だらけの見知らぬ誰かと抱き合って一緒に泣いた。その中にはあの小さな子もいた。横穴から引っ張り出せなければどうなっていた事か。
 ああ。
 生きている。
 彼らもそうだけど、僕やアナスタシアも。まだ真っ当に生きていられる。
 再びの余震が襲いかかってきたタイミングで、僕達はいったん瓦礫の山から離れる事にした。今日は一日中細かい地震が続くかもしれない。素人目には、助けを求める声はもうなかったと思う。か細い声に笛の音、何か金属を叩く音。そういったサインは取りこぼしていない、はず。大丈夫だと思うけど、後は専門の機材なり犬なりを連れたレスキュー隊に調べてもらうしかなさそうだ。
「……義母さんはどうしてるかな」
「さあね。何とも言えないわ」
 魔王とまで呼ばれるアークエネミー・リリス。でもやっぱり僕にとっては大切な家族なんだ。どこかでこんな目に遭っていないと良いけど。
 ……捜し出せるか?
 もちろん単純に安否も気になるけど、それとは別に結局戦争準備はどうなった。まさかまだ続行って訳じゃないだろうな。ダメだ、今のままじゃイエスもノーも断言できない。あの義母さんなら、アブソリュートノアなら、何でもありって気もしてきた。
 JBがここまで派手に先手を打ったんだ。むしろ、今のでアブソリュートノア側のタガが外れたら? 義母さん達が組織的な報復なんて考えに取りつかれたら本当にまずい。
 ぽつりと冷たい感触が頭に当たった。
 まるで砂鉄でも混ざっているかのような、汚れてざらついた雨粒だった。
 夜空を見上げた頃には、夕立みたいな勢いで降り注いでくる。
 アナスタシアはうんざりした顔で、
「さっきの流星雨で大量の空気が攪拌されて急激に気圧が変わったせいだわ。舌で舐めたりはしない方が良いわよ、色が濁っているのは舞い上げられた粉塵を吸ったからね」
「……黄砂混じりの雨とか酸性雨とかのもっとひどいヤツって事?」
 まだまだ災害は続く。
 たった一個のドミノを倒した所から、連鎖的に。対して今の僕達は、傘の一本さえ持っていない。そんな日用品も用意できない。
「大使館に行きましょう。ひとまず日本大使館で良いわ、旅慣れてないトゥルースが優先。まあ、あの国の職員ならアメリカ国籍のワタシにも甘い顔してくれそうだし。一一歳っていう武器も最大限に活用させてもらうわ」
「……、」
 通信が回復しない以上、義母さんの足取りは掴めない。
 この混乱下で闇雲に歩いた程度で見つけられるとも思えない。
「パスポートはこういう時のための頼れる道具よ。今度の今度こそ、トゥルースが助けを求める番になっても良い頃だわ」

 

  2

 ジャンクションで助けた人達のその後はバラバラだった。パリからの脱出を目指す人もいれば、中心に向かおうとする人もいる。
 親と合流できた小さな男の子と手を振って別れ、僕達も重たい足を動かす。自転車? どこにあるかなんて知らない。多分原形も留めてない。借り物なんだけど、この状況でも僕達が弁償しないといけないんだろうか。
 ざらついた雨は止まない。
 べちゃべちゃと汚い音を立てて、アナスタシアと二人で壊れた街を歩く。傘の一本も手に入れられずに。
 市街地の方もひどいものだった。
 そもそも道路が瓦礫で埋まっている所もあれば、一面泥だらけになって沈んでいる場所もあった。液状化現象ってヤツか? 電気かガスのトラブルなのか、あちこちで黒煙も出ている。消防車のサイレンも聞こえるけど、この道だ。本当に火災現場まで到着できるかは謎だった。そもそも単純に足りるのか、消防隊員の数が。
「……アナスタシア、日本大使館ってどこ?」
「凱旋門の近くよ」
「だからその凱旋門ってどこだよ?」
 ひょっとしたら通り過ぎているのかもしれない。
 一面ごちゃっとした瓦礫だらけだった。
 ランドマークが見つからない。本当に崩れてしまったのか、あるいは地図アプリに頼れない状況で道なき道を進んでいる間に全く別のエリアに迷い込んだのか。その辺の判断すらつかなかった。
 何しろ、いつもの一キロと瓦礫を踏み越えての一キロは感覚が全然違う。砂浜っていうよりは、山道やゴツゴツした河原の方が近いかな。こんな状況だと、歩幅や体感時間で距離を測るのは多分無理だ。
「……ダメだ」
 僕はそう吐き捨て、雨の中で立ち止まってしまった。
 素直な気持ちはこうだ。
「これじゃ日本大使館になんか辿り着けない! 今どこだ? まずはスマホを何とかして地図が欲しいっ、マクスウェルとコンタクトを取らないと!!」
「どうやって?」
 アナスタシアは疲労と混乱、先の見えない不安、とにかく起伏のないうっすらとした苛立ちの中にわずかな希望を乗せてきた。デジタルまわりを封じられてデータの餓えに苛まれているのは、ハッカーだって一緒なんだ。
「クレバーな方法があるなら教えてほしいわ。ここまで街中がメチャクチャになった中で、どうやったらネット環境なんか復旧できるって言うのよ? それとも誰かが敷いた頑丈な軍のホットラインがまだ生きてるとでも?」
「……、」
 今は大規模な停電で、一般のスマホやパソコンはネットに繋げない。そもそもネット環境が生きていても警察や消防優先で普通の人は通信制限を受ける状況だと思う。
 ただし、
「……消防車は走ってる。じゃあ警察や消防の回線は生きてるのかな」
「だとしても、準備なしでファイアウォールを抜けられるとでも? ここはフランスの首都で、彼らはその首都を守っているのよ」
「準備ならある」
「?」
「JBが流星雨の接近を隠すのに使っていた遠隔操作ウイルスだよ。カタコンベの近くにあるっていうパリ天文台はおそらく感染してる。あそこからウイルスを取り出して、手を加え、僕達の手で警察署なり消防署なりのコンピュータに感染させれば」
「……外から操れる? ちょっと待って、拾ったウイルスのパラメータをいじっておけば、JBじゃなくてワタシ達の手で!?」
「アナスタシア、そのペットロボットはまだ使えるな? ネットに接続しなくてもスマホでスクリプトの書き換え作業くらいできるだろ。本職のハッカーに任せたぞ」
 なら決まりだ。
 マクスウェルを取り戻せるかどうかで自由の幅はかなり変わってくる。
「だとすると目指すべきは」
「一般のネット環境はこの有様だろ。ウイルスについては、パリ天文台まで出向いて直接ハードディスクから採取するしかないな」

 

   3

「報道のヘリとか……意外だな。これだけの大災害なのに、見た感じ特に飛んでなさそう」
「上だって粉塵だらけでしょ、ヘリなんかエンジントラブルを恐れて離陸許可が下りないんじゃない? あるいは経費削減でみんなスマホ用ゲームパッドで動かす無線LANの空撮ドローンに移したけど、回線トラブルのせいでコントロールできないとか」
 カタコンベ近くにあるパリ天文台へ向かうには、とにかく南に行く必要がある。つまり、まず街全体を東西に横切るセーヌ川を渡らないといけない。
「……橋とかどうなってんだ? 渡れる状態なのかよ」
 ついさっきジャンクションが崩れるのに巻き込まれたばかりだ。やはり不安が付き纏う。もはや鉄筋コンクリートの絶対性みたいなものは崩れているんだ。セーヌ川にかかる橋は一つじゃないから、崩れて危ないようならパスしてよそに移るのだって選択肢としてアリだと思う。
「……あんなに目立つ凱旋門が見つからないような状況で、他の建物の見分けがつくかどうかが怖いわ」
「流石にセーヌ川がなくなる訳じゃないだろ。無事に渡ったら、しばらく川沿いに東へ進もう。パリ天文台までの道のりは?」
「セーヌ川から向かう道だと、ラスパイユ通りかサンミシェル通りを南下する順路ね。ルーヴル美術館が目印になると思うわ」
「ルーヴルって、あの?」
「……トゥルース、自転車乗ってた時もすぐ横を通ったはずなんだけど完壁にスルーしていたわよね? 敷地が大きくて広場もあるから、この状況でもすぐ見つけられるはずだわ」
「じゃあそこだ」
 広場があるなら大丈夫。パリの中心部が丸ごとクレーターや湖になってない限り、いくらなんでも大きな地形は変わってないだろう。可能性がないとは言えない辺りがおっかないが。
 ともあれ、まずはセーヌ川だ。
 こいつを安全に渡らない事には始まらない。ルーヴル美術館の方まで行ったけど橋が全部落ちていて右往左往、とはなりたくないし。橋については渡れるタイミングでパパッと渡ってしまった方が良さそうだ。
 停電した街は暗い。
 あちこちでゆらゆらしてる光は懐中電灯か、あるいはスマホのライトだろう。まるで宇宙人が育てた蛍光カラーの麦畑だ。今はバッテリー系の明かりに頼るしかないけど、でもそれもいつまで保つのやら。スマホだとモバイルバッテリーや手回し発電機がなければ数時間でアウトだ。くそ、自転車の前輪と連動するライトはボルトやアンペアを統一するべきなんだ。
 時間的にはまだ八時前。
 この夜は長くなる。
「……今が真冬じゃなくて良かったわ」
 汚れた雨に打たれながら自分の小さな体を抱いて、アナスタシアが呟いた。
「暖を取るために街中で焚き火を始めるようになったらおしまいよ、地下のガス管だって破れているでしょうからね。どこから火事が広がるか分かったものじゃないわ」
 バッテリーが切れてスマホのライトを失った連中なら、手作り松明くらいはやりそうだ。リスクなんかどこだって転がってる。周囲に危険をもたらす原動力は、悪意だけとは限らない。
 ひとまず南に向かう。
 目印は夜空とは違う色彩の、尖った影だった。
 エッフェル塔。
 あれだけは、どこから見ても一目で見つけられる。確か川沿いを自転車で走った時にも見た。ここがどこかもはっきりしないけど、あの鉄塔を目指せば川に出られるはず。
 高さ三二〇メートル以上ある巨大建造物は、この距離から見ても明らかに傾き、折れ曲がっていた。暗闇の中で僕達と同じ方向を見て、瓦礫の前で呆然としている人達の、嘆きともつかないため息を耳にする。胸の前で十字を切っている人も多い。哀しい半分、それでも衝撃に耐えて残った事への喜び半分って感じかな。
 途中、その辺に落ちてる鉄筋なんかで鉄のドアをこじ開けて車に閉じ込められている人を何人か助けながら、さらにしばらく歩いていく。
 ちなみに鉄筋は捨てた。
 武器は持たない。
 何を呑気なと思うかもしれない。けど武器は、不信感を表明するのと一緒だ。僕はあなたを全く信用していませんっていうサイン。むしろ逆に協力の可能性を放り捨て、無駄なトラブルを招く方が怖い。もちろんここにいるのが理性をなくした暴徒の群れとかゾンビパニックとかだったら話は別だけど、パリの人達とはまだ協力できる気がする。
 ……やっぱり甘い、だろうか。
 どんな街にも悪人はいる。山盛りの料理に毒液を一滴垂らせば、それだけで人は死んでしまうんだ。だからわずかでも疑いがあれば武器を取るべきって考える人もいると思う。一〇〇万分の一でも紛れ込んだ悪は許さないという考えで。
 それに……。
 僕はアナスタシアを抱えている。
 ずぶ濡れで肌にぺたりと布を張りつけた、一一歳の女の子を。
 だけど他の人達だってみんな、この地獄で自分じゃ弁償できない何かや誰かを抱えて生き抜こうとしてるんだから。ありふれた人達が悪行を肯定したり、正しい人を見捨てたりする展開は完全とまでは否定できない。
 でも。
 自分から武器なんていうトラブルのタネを持ち歩いた方が、大事なアナスタシアを危険にさらす気がする。少なくとも、今はまだ。
「……橋だわ、トゥルース」
 そんなアナスタシアが前を指差した。
 雨とは別に、ざあざあという水の音が聞こえてくる。
「この辺りには流星雨が落ちなかったのかしら。ちゃんと向こうまで繋がってる!」
 車も通れる大きな橋に近づいて、渡る前にまず足元をスマホのライトで照らした。繋ぎ目の所で変にデコボコはしていない、もちろん亀裂もない。石造りだかコンクリだか、とにかく重たそうな橋げたはどうだ? スマホのライトじゃ弱いけど、いったんフラッシュ付きで撮影してから写真の明度を目一杯上げて確かめる限り、こっちも折れたりはしていないようだ。
 ……いける、か?
 デカいトラックやバスならともかく、人間二人が乗った程度でいきなり崩れるようには見えないけど……。
「今なら行けるわよ」
 濡れ髪のアナスタシアはやる気だった。
 疲労困憊で雨に体温も奪われている。何より文明が恋しい。つまり、早く屋根のある所で休みたいのかもしれない。パリ天文台の状況も分かっていないのに。
「逆に、ここをパスしてもこの先の橋はみんな落ちてるかもしれないわ。散々探し回ってUターンなんかしていられないでしょ」
 一理ある。
 橋はせいぜい一〇〇メートル前後。いつもだったらまあ一五秒もあれば走り抜けられる。そんなに脅える必要はないのかも。
 ただ、その計算で良いのか?
 最悪、真ん中辺りでいきなり橋が折れて川に投げ出された場合、岸まで何十メートルだ? 服を着たまま流れのある川を泳ぎ切れるか? まして、落下した先で水面から飛び出したデカい瓦礫や鉄筋にぶつかって骨でも折ったら? 陸と水では長さの感覚はまるで違う。しくじった場合は、こんな簡単な事で命を落とす。
「トゥルースっ。行くの、やめるの? 早く選んで!」
「あっ、ああ……」
 無理をする必要はない。
 だけどどっちみち、どこかで必ずセーヌ川にはアタックしないといけない。次の橋がここより安全なんて保証はない。この橋だっていつまでこの状態かは未知数、誰にも断言できない。例えば大型のトレーラーや消防車が無理して渡ろうとして、崩してしまう恐れだってあるんだ。
 行けるか?
 怖いけど、ほんとは分かっているはずだ。
 イエスかノーかの天秤は半々じゃない。十中八九大丈夫だけど、残りの少数が怖いだけ。だけど今このパリで一〇〇%の安全だけを選んでいくのは多分無理だ。結局、比較的安全辺りが関の山。生き残れる確率が高い方を選んで進むしかない。
 それなら、
「……分かった。このまま渡ろう」
「よしっ」
 恐る恐るだった。
 足場は硬い。きっといつもと変わらない。だけど何だかぐにゃぐにゃするような、雲の上でも歩いている気分だった。生きた心地がしない。
 ぎし、とベッドが軋むような音に心臓が縮んだ。
 何だ? 金属音???
「……アナスタシア、こっちに」
「何よトゥルース?」
 僕はある一点を見たままアナスタシアを近くに呼び寄せた。慎重に。
 橋は無事だ、きっと崩れない。
 けど本来だったら等間隔で並んでいるはずの街灯が、変に不均一だった。街全体が停電してるから分かりにくいけど、所々で光の消えた柱が倒れている。あんなのでも金属製でバーベルより重たいんだ、不意打ちで下敷きにされたら多分助からない。同じく、車道と歩道を区切る金属製の手すりは街灯に押し潰されてべっこりへこんでいた。
「なあこの橋、通行用だけだよな?」
「人と車以外に何を渡すのよ。電車とか?」
 ……相乗りでガス管とかは渡してないよな、今さらだけど。
 アナスタシアを怖がらせないよう、目や耳の他にこっそり鼻まで動員してみるけど、いまいちはっきりしない。なんかうっすら異臭みたいなのがするけど、どうも泥っぽい匂いだ。これは川の上にいるからかな。セーヌ川の実際の水質は知らないし、今は不自然に汚れた雨が降っているから川の匂いがきつくなっているのかも。あるいは地盤への衝撃で普段は川底に溜まって大人しくしている泥が浮き上がった可能性だってある。つまり仮の話なら何でも言えた。高校生程度の知識じゃ役に立たない。
 変に立ち止まって悩むより、さっさと橋を渡ってしまった方が良いかもしれない。頭で何を考えたところで、橋の上にいる限りずっとリスクは付き纏うんだし。
 そう思って、橋の真ん中辺りまで来た時だった。
 今度こそ、あった。
 異変の正体は音だった。
 ばしゃばしゃという濁った水音が聞こえてきたんだ。やっぱり立ち止まるべきじゃなかったかもしれない。一気に走り抜けて危険から逃げ切る選択肢もあった。もしも一〇〇万ドルの夜景に彩られたピカピカの不夜城ならそうしてた。だけど濃密な暗闇は、僕達の心にがっちりブレーキを掛けてきた。考えなしに全力疾走したら瓦礫やガラスで足を怪我するかもしれないし、最悪、途中から橋がなくなっていて真っ逆さまの可能性だってある。行動に出るのは情報を知ってから。そんな『当たり前』の慎重策が、大胆な行動っていう選択の自由を奪い取る。
「なっ、なに? トゥルースも聞こえるわよね、これ」
「下からだよな……」
 下。
 一瞬、橋に沿ってガス管や水道管が走っている可能性を考えた。どこかに亀裂が入っているんじゃないかって。でも少なくとも、気体が漏れ出るような音じゃない。ガス特有の異臭もない。下水とかも嫌だけど、でもそっちはいきなり大爆発する訳じゃない。多少は変でも、やはりこのまま進むべきだ。
 と。
 橋の欄干にお腹を乗っけて身を乗り出し、足でバランスを取りながら小さな手で真下に向けてスマホのライトを向けていたアナスタシアがぽつりと呟いた。
「……ねえトゥルース」
「何だよ?」
「何か変よ、おかしい」
 見てはいけないものを見つけてしまった。そんな呆然具合だった。僕は眉をひそめてアナスタシアの眺めている先を視線で追いかける。橋じゃない。橋げた? いいや、気になるのは真っ黒な水面だ。橋げたを光で照らしてみると、橋自身が屋根の役割をしていたのか、雨の中でも川の水に濡れている場所とそうでない場所の境が見える。何故か、今ある水面よりも上、一メートル以上高いラインに。
 ……波が大きくぶつかっているから? でも、海と違って穏やかな川なのに。
 と、そこで妙な事に気づいた。
 橋げたに波がぶつかっているけど、方向がおかしい。あれ? あっちは下流に面した側のはずじゃあ……?
 ばしゃばしゃ。
 下流から上流への不自然な波のぶつかり。
 橋を揺さぶるほどの振動。
「……なあアナスタシア、海まで何キロだ?」
「直線で一〇〇キロ以上。なに、大きな波が押し寄せる危険まで考えてるの? いくら流星雨が落ちたって言ってもドーバー海峡の海水がこんな内陸まで……」
「なら、ありゃ何だ?」
 アナスタシアの言葉が止まった。
 視線を下から遠くへ。闇の奥を凝視してみれば、分かるはずだ。ざあざあと音を立てて、川の流れを逆らうように迫り来る、とてつもなく巨大な何かが。
「えっ……」
 目で見ても。
 それでもアナスタシアは信じられないようだった。
「なにあれっ、だって。川の水が、西からこっちにきてる? 待ってよ、あっちは下流だわ。そんな、地球の重力を無視して遡ってるなんて……???」
「逃げるぞアナスタシア、この橋もやられる」
「待ってよ! だってあんなのニュートン力学的に言ってありえないわ!!」
「海じゃない、多分もっと近くだ。どっか下流の方に流れ星が落ちたんだよ! だからポンプで押し出すように大量の川の水が上流へ押し寄せてきた!!  水位が下がったのはサーフィンの大波みたいにロール状に巻かれた水が手繰り寄せられたからだ。アナスタシア早くっ!!」
 小さな手を掴んで走り出す。
 直撃までどれくらいだろう?
 ここは橋の真ん中。全部で一〇〇メートル前後のさらに半分、ダッシュで走れば一〇秒もかからないはず。
 間に合う。
 向こう岸まで走っても大丈夫なはず。
 これ以上のトラブルさえ同時に襲ってこなければ!
「あっ!」
「転ぶなよアナスタシア」
 小さな金髪少女を支えながら言う。あちこち街灯は倒れているし、乗り捨てられた車なんかもある。けど立ち往生ってほど大きな障害物じゃない!
 お互いの体温を確かめ合うように、僕達は手を取り合って二人で橋の上を走る。
「それから照らすなら足元を集中的に頼む。前は僕が見るから!!」
 振動が大きくなってきた。まだ無事に立っている街灯だって危ないかもしれない。
 たったの何秒かが、恐ろしく長い。
 息が切れる。
 怖い、緊張で体が強張る。
 確実にソレは迫る。
 少しずつ音の細部まで分かってくる。単純なざあざあじゃない。バキバキっていう、枝を折るような音が混じってる。ほんとに枝? ていうかアレ、川の話だけじゃない。左右に大きく水が溢れ出して、岸辺にある街路樹とか自転車とかをメチャクチャに薙ぎ払ってる!!
「来るわよっ、トゥルース!?」
「もう渡り切る! とにかく高い所へ!!」
 橋を渡った先は開けた広場だ。いっそ悪意的に思えるくらい平べったくて高台の逃げ場なんかない。そして唯一そびえ立つのは軋んだ音を立てるエッフェル塔。確かにあそこへ逃げれば波はしのげる。と思う。けど出入り口はどこだっ!? 階段、エレベーター? 多分展望台くらいあるだろうけど、もしもゲートが電気でしか動かないなら締め出しを喰らっておしまいだ。
 ダメだ。
 スマホで事前に検索できないと不安で不安で仕方がない。この目で見て確かめられるものしか使えない!
 ざばんっ!! という波を破るような音が響く。いいや、おそらくは莫大な水がコンクリで固めた岸をぶっ壊したんだ。水って語感だけだと柔らかいイメージがあるけど、あんなもん直撃したら耐えようとしても引きずり倒されて水の中に沈められた上、どっちが水面かもはっきりしないまま溺れ死ぬのが関の山。生き残りたいなら、絶対に背後から押し寄せる、夜の色を吸い込んだ黒い水には触れちゃならない。
「こっち!!」
「っ!?」
 何かを見つけたアナスタシアに手を引っ張られた。どこにでもある小さな小屋? いやガラスでできた喫煙所か。高さは二メートルよりちょっとあるくらいだ。ないよりマシっ!! これなら……、
「ひゃっ」
 ひとまずアナスタシアの両脇に手を通して屋根の上に上げる。驚いてばたばたさせた小さな両足で肩や顔を踏まれたけど、ここは我慢っ!
 僕は……いけるか?
「トゥルース、手。手を出してっ!」
「無理だアナスタシアっ」
「やってみなくちゃ分からないわ!!」
 ……高さ的に僕一人じゃ上がれないし、どう考えたって一一歳の女の子の手を借りても僕の体重を支えきれず一緒に転げ落ちるだけだ。せっかく仮初めとはいえチャンスのありそうな安全圏まで押し上げたアナスタシアを再び危険な地べたに引きずり下ろす訳にはいかない。
 それでも無駄な足掻きで自力で両手を屋根の端に引っ掛けるけど……やっぱり苦しいっ! ガラスの壁だと両足の取っ掛かりが何もないから、地味に上がれない。腕の力だけじゃ自分の体を持ち上げられない。ううっ、モヤシな自分が恥ずかしいけど、実際できない高校生なんてこんなものだ。直角九〇度の濡れた出っ張り。これがきちんと握り込める鉄棒ならっ、一回くらいは懸垂できたと思うんだけど……!!
 ざあざあって音が近づいてきた。
 ここまでかっ。
「アナスタシア、お前はここにいろよ」
「トゥルースっ?」
「絶対降りるな! 分かったな!?」
 迷っていられない。
 喫煙所から離れて音源の正反対へ走る。追っ手が迫る。トラックで追い回されるなんて次元じゃない。バキバキって音の正体は、ベンチか街灯か。後ろを振り返ったら恐怖で縛られる。絶対そうなる、分かりきっている。
 怖い。
 目尻に涙が浮かぶ。
 景色が見えない。歯を食いしばっているのにカチカチ奥歯がうるさい。
 そして安全地帯なんかない。
 何か。何か一つでも良いっ、高台の代わりになるものはないのかよ!?
「あああ」
 とにかくエッフェル塔のための広場が均一に平べった過ぎる! 避難できそうな建物なんかどこにもない!!
「ああああああああっ! ああああああああああああああああああああああああああ!?」
 視界の端で黄色い何かがちらついた。
 スマホのライトを向けるとクレープのキッチンカーだった。基本は軽トラだけどお洒落仕様なのか、ボンネットが前に突き出ている。
 腰くらいまでの高さの、低い段差。
 あれを踏めば高い屋根まで普通に上れる!
「っ!」
 ここしかない。
 ボンネットに飛び乗ってフロントガラス側から車の屋根に手を掛けた時だった。

 巨大な波が直撃した。
 一発で視界が横に押し流される。

 喉が干上がった。
 きちんとした台座で大地に根を張ったコンクリートの建物と違って、たった四点で支えるだけの車なんて頑丈そうに見えてもこんなものかっ!
 とにかく震えながら屋根の上まで上がり、金属の高台に両手両足でしがみつくしかない。横滑りはしているけど、まだ大丈夫なはず。結構ギリギリ、二メートルくらいまで夜の色に染まった黒い水が押し寄せてくる。だけど屋根の上まで上がってしまえば体が波に流される事はない。車そのものが横転したりしなければ死ぬ事はないはず。
 そう思っていた。
 何か圧みたいなのを感じて振り返って、頭が空白で埋まった。
 鉄骨の塊。
 それを支える巨大な台座だけで、すでにこのキッチンカーよりはるかに大きい。
 忘れていた。
 ここはエッフェル塔の根元に広がる広場だった!!
「っ!」
 カエルみたいに濡れた屋根にしがみついて直撃に耐えようとした。
 でもそこで気づく。
 車はただでさえガソリンを抱えた可燃物の塊だ。しかもこいつはキッチンカーだから、おそらくプロパンのボンベなんかも積んでいる。
 直撃して、そうなったらどうなる?
 金属フレームが歪んでガラスが砕けて……本当に、そこでおしまいか?
「はあ、はあ!!」
 決断の時だった。
 触れたら死ぬ、夜の色を吸った黒い水。
 そんな定義を覆して、僕は自分から飛び込んだ。
 直後に眩む。
 激しい音と光で、意識が途切れかけた。
 キッチンカーがエッフェル塔の四つある基部の一つ、それを守る金属の柵に激突した途端、破れた金属容器から溢れたガスやガソリンが何かと引火して大爆発を起こしたんだ。

 

   4

 流された。
 水は僕の背丈よりも高い。しかも激しい勢いがあるから真っ直ぐ立っていられない。もがきながら闇雲に両手を振り回して、人差し指に鋭い痛みを感じた。何かしら、ギザギザの金属スクラップの断面にでも触ったのかもしれない。

 多い。
 とにかく災害の数が多過ぎる。

 複数の災害、とはちょっと違うんだろう。原因の全く違う二つ以上の災害がたまたま重なったんじゃなくて、全てはJBの流星雨から数珠繋ぎで続いているんだ。けどこっちには身構えている時間さえない。一つの処理が終わる前に、いくつものハードルがドカドカ積み上げられていく。まるで落ちモノパズルの圧殺だ。
 思考が止まったらおしまいだ。
 投げ出す時は、自分の命も一緒に放り捨てる時。
「はっ、がば!!」
 とにかく手を伸ばして、近くの街路樹の幹に両腕でしがみついた。
 あっさり折れた。
 支えを失ってさらに流された時、ぐいって強い力で引っ張られた。
 バスだ。
 厳密には屋根の上に避難していたマッチョな黒人のおっさんが身を乗り出して僕の服を掴んでくれていた。
 最後はやっぱり筋肉か。
 腕一本でクレーンみたいにバスの屋根まで引き上げてもらったけど、僕にはフランス語でお礼を言うだけの頭がない。いかにも日本人らしく、ぺこぺこ頭を下げるしかなかった。なんかのスポーツチームなのかな、フランスって何が強いんだっけ? とにかくここにはムキムキしかいない。
 きっと。
 溺れる僕がお手製武器を振り回していたら、こうはならなかっただろうな。
 大きなバスも軋んだ音を立ててはいる。でも小振りなキッチンカーと違ってそこまで大きくは横滑りしない。そしてセーヌ川から水は溢れたけど、堤防の決壊とは違う。
 どこか下流に流れ星が落ちて、ポンプみたいに大量の水が逆流してきただけ。つまり、一回のデカい波が川に沿って進んでいるだけで、津波みたいに継続はしない。だから不自然に増えた分を陸側に吐き出してしまえば、水位は元に戻っていく。水は引いて、元の大地が見えてくる。今はより上流に向けて水が逆流していき、両サイドの街並みを破壊していっているようだけど、ここからじゃ危険を伝える方法がなかった。
 とにかく危機は去った。
 だけど。
 降りるのは、怖い。
 とりあえずの安全地帯にはそんな引力がある。
 けど気になったのはアナスタシアだ。彼女の無事が知りたい。そんなモチベーションがなかったら、僕はこのままバスの屋根で夜を明かしていたかもしれない。
 何かの選手達は水の引いた地面を見て一様に嘆いていた。マッチョだらけの中、唯一小さいバスガイドさんは日本語もいけるらしい。話を聞くと、どうやら水が来る前に横に倒したスーツケースを階段みたいに積んで、みんなで屋根まで上がったらしい。それが全部流されたようなのだ。
 ……そんなやり方もあるのか。
 何の変哲もない道具でも、数があれば。僕はガラスの喫煙所の屋根に上がるのも諦めたくらいだったけど、もうちょっと頭を使うべきだったかも。
 べちゃべちゃに濡れた泥臭い地面を歩いて、流されたコースを逆に辿る。いい加減にレインコートと長靴が欲しくなってきた。
 さっきの喫煙所は……無事だ。
 透明な壁は壊れてしまったけど、それが逆に水の力を器用に逃がしたんだろう。金属フレームと屋根は普通に残っている。
 スマホのライトで上を照らしてみれば、アナスタシアの目立つ金髪頭も見える。
 彼女は無言で屋根からもそもそと降りてきた。そのままこっちに近づいてくる。
 一発くらい殴られるかなと思っていた。
 けどアナスタシアは小さな両手で僕にしがみつくと、汚れた上着に顔を突っ込んでわんわん泣き叫んだ。
 かろうじて聞き取れた部分だけ抜粋すると、
「えうあうう! 心配したわっ!! ひっく、ぐえぶえあ!?」
「……悪かったよ、アナスタシア」
 これは、キツい。
 胸に刺さる。しかも釣り針みたいな返しがついてて抜けない感じ。
 いっそ平手打ちの一発でももらった方が気が楽だったんだけどな。こういう時だけ一一歳の女の子を全力で出すのはあんまりだぞ一一歳。ハンカチを貸したいんだけど汚い雨のせいでぐちゃぐちゃだ。仕方がないから、目尻の涙については親指で拭う事にした。
 小さな鼻をぐずぐず鳴らし、されるがままにされながら、膨れっ面でアナスタシアが呟いた。
「……トゥルースの女たらし」
「こんなギークのどこをどう見たらそんな評価が口から飛び出すんだ」
「逆に自分のアドレス開いてみるが良いわ。男女比!」
 ……えーと。数だけ見たら比較的女性が多い気もするけど、それはエリカ姉さんに妹のアユミ、母(実)と母(義理)もごっちゃでカウントしちゃってもフェアなのか?
 とにかくだ。
 言わせたいように言わせておくと一応向こうの溜飲が下がったのか、アナスタシアは僕の正面じゃなくて隣に立った。まだ膨れっ面で涙目だけど、しっかり僕の手を掴んでる。
 何がどうなったところでマクスウェルとのアクセスを復旧しないといけない。そのためにはパリ天文台まで出向いて、JBが仕掛けたウイルスが欲しい。警察や消防なんかのネットワークはまだ生きているから、相乗りさせてもらえば通信は復活する。
 セーヌ川に沿って、二人で東に進む。
 当面はルーヴル美術館が目印らしい。そいつを見つけたら、南に行く大きな通りへ曲がって直進。
「こっち側だと、ルーヴルは川の向かいに見えるはずだわ……」
 たったこれだけなんだけど、目の前に広がるのはまるで得体の知れないダンジョンだった。ただこれはもちろん僕がパリに来るのが初めてでビフォアとアフターの違いにピンとこないからだろう。旅好きならきっとあそこは倒れたあっちは無事だって一喜一憂していたはずだし、まして暮らしている人にとっては崩れていようが瓦礫の山だろうがパリはパリだ。
 ……気をつけないといけない。
 ここは異質なサバイバル空間だと思った時から、モラルと行動の乖離が始まっていく。瓦礫の中でも私有地は私有地だし、商品は商品だ。ダンジョンの宝箱なんかどこにもないし、民家に入ってたんすや棚を漁って良い訳じゃない。
「雨、止んできたな……」
「元々、流星雨の落下で大量の空気が攪拌されて一時的に気圧が乱れただけだからね。そう長くは続かないわ」
 そこでまたぐらっときた。
 余震だ。
 ビルのガラスが怖いから歩道から車道に避難する。流星雨の直撃から始まった連鎖的な影響は、まだまだ続くらしい。ここは景観を大切にするパリ、電柱や電線なんかが頭の上にびっしりとかじゃなくて良かった。電車やトラムまわりは注意した方が良さそうだけど。
 瓦礫には近づかない。斜めに傾いた街灯には近づかない。ひび割れのあるコンクリート壁には近づかない。潰れた車には近づかない。
 まったくその通りなんだけど、それじゃあ一歩も進めない。そしてそもそもじっと救助を待つっていう一番賢明な選択肢を僕達は選べない。

 *パリ天文台に行く。
 *建物の設備からJBのウイルスを採取して手を加え、警察署なり消防署なり緊急通信の権限を持った施設に感染させてサーバーを遠隔操作する。
 *それでマクスウェルとの通信経路を確保する。

 ……これがないとどうにもならない。日本大使館を見つける事も、あるいは義母さんを見つける事も。
「うっ」
 アナスタシアが呻いて立ち止まった。
 何かを見ている。けどかなり遠くだ。広いセーヌ川に架かる橋はいくつか落ちていたけど、さらにその向かい。何やら瓦礫の少ない、ぽっかりと開けたエリアがある。
 広場。
 じゃああれが、ルーヴル美術館?
 ……だった、もの???
 僕には元々の建物の形もあんまりぴんとこないし、中に何万点のコレクションがあるのか数さえ答えられない。だけど、全損じゃないにせよ目に見えて崩れている区画があるのが分かる。知る者が見れば貧血で倒れるくらいの状況なんだろう。
 かと言って、してやれる事は何もない。
 ここから南に行けばパリ天文台のはずだ。アナスタシアの手を無理にでも引っ張って、ルーヴルを視線から外そうとする。
 その時だった。

 パン!! ぱんパパンッ!! と。

 え、なに?
 爆発、じゃない。もっと軽いっ、でも火薬の。火薬って、え? まさか銃声!!!???
「伏せてトゥルース!!」
「えっえっ?」
 音はやっぱり遠かった。川の向こうから? だから耳をつんざくほどじゃない。遠くの雷ってくらいのイメージでポカンとしていた僕を、逆にアナスタシアは小さな両手でぐいぐい押して廃車の陰にねじ込んでいく。
「流れ弾くらいなら川をまたいで普通に飛んでくるわ! 小さな拳銃だって単純な飛距離だけなら一八〇は真っ直ぐ飛ぶのよ。ライフル弾だったら三倍以上! 狙って撃ったものじゃなくたって、当たれば死ぬのは変わらないわよ!!」
「えと、流れ弾って、そもそも何が起きてる!?」
 川の向こうからの銃声。
 って、あっちにあるのはルーヴル美術館だっけ?
「……略奪が始まったんだわ。絵画一枚、宝石一個で一〇〇万ドル以上よ。絶対やらかす馬鹿が出てくると思った!!」
 パンパンっていう派手な音はまだ続いている。でも様子がおかしい。そう、なんか明るいんだよな。街全体が停電してる割には、川の向こうは青っぽい光が忙しく移動している。
 ああそうか。
 日本だと赤一色ってイメージだけど、やっぱりフランスじゃカラーが違うのかな。
「だから警官だってまず最優先で警戒するに決まってる。馬鹿がどれだけ押し寄せたかは知らないけど、川の向こうはパトカー並べて作ったバリケードとショットガンやカービン銃の嵐だわ。川向かいのワタシ達だって危ないわよ!!」
「こっちの警察はそんなのまで持ってるのかよ……」
「むしろ素手とか警棒とかで犯人に立ち向かう警察なんて世界中見たって日本くらいのものだわ。トゥルース、とにかくこっちに。頭を下げて!」
 ……やっぱり先に橋を渡っておいて正解だった。もしも後回しにしていたら銃撃戦に巻き込まれた上に橋は落ちてるなんて最悪の立ち往生を喰らうところだったぞ。
 ぼわっと、川の向こうで何か白い塊が膨らんだ。パトカーのライトが不自然に歪む。もしかして、海外ニュースとかでたまに見かける催涙ガスとかだろうか。
 それから実際に近くのビルのガラスがいきなり割れた。もちろん弾丸を目で追えるほど視力が良い訳じゃないから原因は断言はできないけど、やっぱり怖い。
 これは銀行や宝石店、ブランドの時計だのカバンだのの専門店の辺りもできれば避けて通った方が良いかもしれないな。パリなら何でも高級そうには見えるけど。
 ルーヴル美術館についてはさっきも言った通り、してあげられる事はない。というか略奪なんて話が出てる中、パリ市民じゃない外国人である僕やアナスタシアが不用意に近づいたら戦闘モード一色の警官達に撃たれるかもしれない。そもそも橋も落ちてるんだし、さっさと川を離れて南に向かう広い道路へ逃げ込むべきだ。
「……モラルが崩れてきたわね」
 小さなアナスタシアに誘導されて、瓦礫だらけの道に向かう。
「あれから一時間くらい? そろそろ天災から人災に移っていくかも。まずい事に、流星雨が落ちたのは夕飯前の時間帯だわ」
「火事の話?」
「そっちよりも、単純にお腹がすいたらみんなピリピリするでしょ。衣食住の欠乏は最も強いモラルハザードの引き金だわ」
 やっぱり悪人はいる。
 悪人じゃなくても罪を犯す材料だってある。
 明確な武器を持つのはかえって危ないけど、防弾ベストの真似事くらい用意するべきか? 電話帳なんかがあるだけでもかなり変わるみたいだけど。
 ……電話帳なんてまだあるのかな? フランスの公衆電話って何色だ? 代用するとしたら、安くて大量に手に入る紙束だと……この国、コミックの週刊誌とかってあるんだろうか。
 意味のある思考なのかな、これ?
 なんか自分に言い訳して安心したがってるだけに思えてきた。ちゃんと考えてるんだから大丈夫です、僕は立派に仕事をしていますって。
 びくびくしながら暗がりの中を進むと、
「もう良い頃合いのはずよ。パリ天文台、この辺りのはずなんだけど……」
「何で分かる? 案内板でも見つけたか?」
「そこの道路崩れてるでしょ」
「うん」
「奥に大量の人骨が見えてる」
 うわあッ!? 思わず叫んだけど、アナスタシアは特に気にしていないようだ。
「ここ、カタコンベの真上には立っているはずなのよ。それにしてもこんな浅い所にまで知らない地下通路があったのね。観光コースだと一〇〇段以上は地下に下るはずなのに」
「あっあの、アナスタシア、あれ、ホネ。骨なんですけど、ほらそのヒトの」
「なあに? 何百年も前の白骨よ。事件性のあるものじゃないし」
「そりゃそうなんだろうけど、お化けや怨念に消費期限があるなんて話も聞いた事がないぞ……」
「おーよしよし、怖かったらアナスタシアお姉ちゃんがトゥルースを抱っこしてあげまちゅからねー?」
 どうやらアナスタシアは古戦場とか落ち武者の霊とかにはリアリティを感じない人のようだ。ただウチには吸血鬼とか魔王とかがいるからなあ。あの手の超常存在が時間の流れ程度で力を失うとはとても思えない。ていうか辺りは普通に住宅とかお店とかだ。地下に目一杯人骨敷き詰めたその上に家を建てて普通に暮らしてる。パリって事故物件とか気にしない人ばっかりなのか?
「それより主成分はカルシウムでしょ。酸性雨なんか浴びせたら溶けちゃうわ、歴史的な遺産なんだから大事にしなくちゃ」
 アナスタシアは地下空間へこれ以上雨水が入らないようその辺にある工事用のビニールシートを掛けたいようだったけど、うーんどうだろう。良いのかな、普通に道があると思った人が踏んづけて人骨落とし穴に消えていかないと良いけど。ショックが大きすぎるだろそんなの。せめてカラーコーンでも置いて注意を促しておこう。
 ともあれ、だ。
「あれじゃない? あれよ、パリ天文台!」
 他と比べていくらか原形の残った建物があった。天文台だから元から高価な機材を詰めてる自覚はあるし、観測にあたって細かい揺れも厳禁だ。フランスの耐震基準は知らないけど、少なくとも普通のお店よりは頑丈に作られていたらしい。
 ……周りを囲んでいるのは病院かな。うわあ、結構ぐちゃっと崩れてる。今夜は怪我人も多そうだけど、ちゃんと機能してるんだろうか。
 そしてここからは哀れな旅行者でも善良な被災者でもない。
 僕達の目的はJBが感染させたウイルスだけど、ハードディスクから直接採取するには建物の中まで忍び込むしかない。パリ天文台の建物そのものには興味はないし、備品についてはちり紙一枚動かす気もないけど、それでも傍から見ればただの泥棒だ。
 デジタルまわりを考えると、思考が変わる。
 隣を歩いているのがアナスタシアで良かった。
「……それじゃあ始めるか」
「りょーかい」
 ルーヴル美術館での銃撃戦も頭によぎった。侵入がバレればああなる。けど、こっちは警官がバリケードを張ったりはしていない。やっぱり優先順位があるのかな。カメラとかセンサーとかのセキュリティについては流星雨か地震のタイミングで断線してるっぽかったけど、一応アナスタシアに分析してもらった。白の報告をもらってから、元から割れてる窓に手を入れて内鍵を開ける。ハンカチで包むようにして、だ。
「トゥルース、標的は?」
「一番デカくて目立つコンピュータ」
 入ってみて分かったけど、実際には現役の観測所ってよりもガラスケースの中に古い機材を並べた博物館の方が近かった。あるいはちょっと学校っぽくも見える。そりゃそうか、本気で微弱な星の光を捉えるとしたらアルプス山脈のてっぺんか赤道直下の飛び地の方が適任だ。ウィルスにやられているのはそういうデータを集めているからかな。夜のパリで見られる星には限りがあるだろう。……こんな大規模な停電にでもならない限り。
 天井には太い金属パイプみたいなのが走っていた。後から追加した業務用の電源か。追っていくと地下への階段があり、その先にフロアいっぱい使った電子機材保管室があった。自販機みたいなサイズのコンピュータがずらりと一面に並んでいる。停電下だけどデータや機材を守るためのバッテリーはあるようだ。
 マクスウェルと繋がるまでは、基本的にアナスタシアに頼るしかない。
 彼女はペットロボットの頭になっている自分のスマホと大型コンピュータをケーブルで繋ぎながら、
「検索条件を教えて」
「マクスウェルが言ってたdollgirl.cならルート7bで分かる。自分で自分をコピーするたびに、後ろにランダムな八ケタの英数字をつけて検索除けにしてるけどな。自分の記述に枝葉をつけてセキュリティ側の見本とちょっとズレてるように見せかけるんだ。人の目なら一発でも、対策ソフトだと二つが完全一致しなければ駆除しない。こいつは重要なシステムファイルにわざと作りを寄せてる。誤爆で正常なデータを抹消したらクレームの嵐になるからな、曖昧な判断はできないんだ」
「なるほどね、と。出たわ! JBお手製の遠隔操作ウイルス!!」
「そのまま開くとご自慢のスマホもやられるぞ。中を見るのはわざと破損ファイルを噛ませて『固めて』からだ」
 アナスタシアのスマホを使ってスクリプトをいじってもらう。とは言ってもプログラム全体じゃなくて、いくつかの『行き先』の書き換え程度だけど。遠隔操作のコントローラをJBじゃなくて、僕達が中継に使う使い捨てのサーバーに再設定。これで亜種のウイルスの感染マシンは僕達の手で操れるようになる。
「後はこいつを警察署か消防署にでも感染させれば、緊急回線に相乗りしてマクスウェルと再コンタクトできる」
「長かったわ……」
 とはいえご立派なパリ市警本部になんて殴り込む必要はない。通信制限下であっても、警察関係であれば末端の制服警官一人一人だってスマホやタブレットを普通に使える状態にあるんだ。誰か一人の機材を感染させれば、子から親へ勝手にウイルスを広めてくれる。
 となると目指すべきは、
「確実に警官のいる所」
「どこよそれ? ……ちょっと待って、嘘でしょトゥルース!?」
「ルーヴル美術館。無駄は省こう、騎兵隊はまだバリケードで国の宝を守ってるはずだよな?」

 

   5

 もちろん銃を持った暴徒と警官隊の間に割って入る訳じゃない。
 そもそもこっち側からだと橋が落ちているからセーヌ川を渡れない。
 そしてウイルス感染させるだけなら、わざわざ川を渡る必要もない。対岸から電波を飛ばすだけで良い。
「トゥルースっ、これほんとに届くの!?」
「いけるだろ。向こうが自動設定なら」
 ケータイ電波や無線LANは個別に強固な暗号が施されているけど、中にはユーザー設定不要でザルな電波も飛ばしている。例えばスマホの時計がいつも正確なのは? 常にサーバーとアクセスしているからだ。
 時計設定に相乗りして勝手に電波を拾わせる。市町村などのデータにウィルスをくっつければ無抵抗に引っかかる。
 ……若干ながら工夫も必要だったけど。アナスタシアのスマホをアルミの傘で覆って、拡散するはずだった電波を細く長く飛ばすとか。目には見えないからイメージしにくいかもしれないけど、電波はソーラークッカーみたいに指向性を操れる。
 その証拠に、

『アクセス復旧を確認。お手間をおかけしてしまい申し訳ありませんでした』

 アナスタシアとハイタッチした。
 反撃はここからだ。

 

   6

『まず凱旋門についてですが、衛星写真で追う限りまだ存在します』
「僕達が見た瓦礫の山は?」
『システムのモニタリング対象期間外の行動でしたので確たる根拠は提示できませんが、おそらく別の広場ではないかと。パリ中心部北西を目指したとなると、例えばジャンモネ広場、デメキシコ広場なども、複数の通りが一点に集まる似たような地形のはずです』
 ホッとした。
 特にアナスタシアは、凱旋門が無事だと知って結構本気でへたり込んでいる。もう濡れた地面に小さなお尻を押しつけ、ハの字ぺたり座りだった。
「なら正しい凱旋門に行けば、近くにあるっていう日本大使館も見つかる訳か」
『シュア。ただし非常に不可解ですが、日本大使館の正門前に警備の人間がおりません。おそらく防弾の建物は施錠され、全職員は地下のシェルターなどに避難しています』
 それがどれくらいイレギュラーなのかは、海外慣れしていない僕にはピンとこなかった。隣では、日本人でもないアナスタシアが目を剥いている。
「施錠って……冗談でしょ!? 大使館は自分の仕事を放り出したって事!?」
『不明ですが、事はアブソリュートノアとJBの戦争ですからね』
 そうか。JBは未だに全体の規模が見えないけど、少なくともアブソリュートノアは各界のエリートばかりを集めていたんだ。ひょっとしたら大使館まわりに、その恐ろしさが骨身に沁みている人がいたのかも。
「しかし、地下? そんなので何とかなるのか?」
『まあこれだけ粉塵だらけの夜空にヘリを飛ばすなんてほとんど自殺行為ですし、扱う凶器が流星雨である以上一体どこまで逃げれば安全なのかも断言できない状況ですので下手に動かない方が安全なのでは?』
 そんなものかなって思っていたけど、アナスタシアは信じられないといった顔で首を横に振る。説明されても受け入れ難いようだった。
「……それじゃ日本政府は、今フランスに日本人が何人生存しているかも分かっていないって事? いくらなんでもお粗末過ぎるわ!! 非常時こそ窓口を開けなくちゃならないはずなのに、パスポートを持っていたって誰も旅行者の権利を保障してくれないって事じゃない。大使館は何万人の日本人を締め出す気なのよ!?」
『不明だっつってんだろですが、EU圏内であれば割と自由に国を行き来できます。例えば、隣のイタリアやドイツまで出向いて大使館に駆け込む手もありますよ』
 ……このバスも電車もない瓦礫の中を、どれだけ歩いて? パリを脱出するだけでも至難だし、首都を出たとして外はどうなってる。混乱が伝播しているとしたら、そこから先も歩きになるのか?
 無理だ。
 ていうか、そもそも目的の設定はそれで良いのか? パリの外に出て、安全な避難生活ののち日本に帰る。それだけで。

 義母さんはどうなった?
 その安否はもちろん、アブソリュートノアが戦争の決め手として受け取るはずだった『何か』の行方は?

「……、」
 スマホに目をやる。
 通信は回復したけど、天津ユリナの動向を探るための傍受サービスは死んだままだ。仕掛けのあった高架の柱自体が折れてしまったのだから仕方がないのかもしれないが。
 厳密な追跡は不能。
 ただ……。
 僕達はすでにカタコンベまでは行っている。当初、天津ユリナが観察していたエリアで、高確率で後ろ暗い取引現場。つまり、今なら手が届く。改めて深掘りしてみる必要があるんじゃないか。
 パリの被害は甚大だけど、JBからすればまだ牽制だ。あんな目に遭うくらいなら、三三個の流星雨を落とした方がまだマシ。そんな考えで。JBの価値観はいまいち信用ならないのがネックだけど、アブソリュートノアの流れは放置しない方が良い。
 繰り返す。
 ここまでやって、まだ牽制なんだ。
 本命じゃない。
 アブソリュートノアとJBが万全で正面衝突した場合、きっとこんなものじゃ済まなくなる。そして先にやられた以上、もう魔王リリスも一切遠慮しない。交渉のためじゃない、『使う』前提で何かを手に入れようとする。
 この流星雨に拮抗、あるいは上回るほどの何かを。
「マクスウェル、周辺検索。この状況でまだ生きている防犯カメラがあればだけど」
『明かりが消えているので分かりにくいのですが、設備自体は意外と生きている方ですね。どうやら一般電源の他に、ソーラー発電と蓄電池を併用している街頭モデルがあるようです。具体的に何を?』
「……まずは周辺の病院に義母さんがいないか検索。いなければ、カタコンベを詳しく調べたい。周辺に義母さんかアブソリュートノアの刺客がいないかチェックしてくれ」

 

【Unknown_Storage】避難状況【file03】


 カテゴリA

 一五二名の正規職員の点呼完了。
 一時スタッフには別命を与えて屋内地上部分で待機。
 →重要書類やコンピュータの完全な破棄を確認。大使館地上部分は機能を失ってもよいものとする。

 カテゴリB

 三〇三名の点呼完了。
 当初のリストにあった六五%を回収、大使館地下への誘導は成功とみなす。
 ここでは経済的損失の低減よりも、外交窓口の継続を優先した。
 →経済産業省、金融庁よりクレームあり。対処D、独力での封殺ではなく財務省や外務省など他省庁を必ず巻き込む事。また必要であれば、各職員の醜聞を集めた個人情報ストレージよりレベル2までの交渉材料の使用を許可する。ただしストレージの存在そのものは気取られるな。

 カテゴリC

 他、同国滞在の日本人については連絡せず。国益において損失は許容できるため。我々『隊』の活動を一般に暴露する危険性を許してまで回収するほどの理由は用意できなかった。
 →一部隊員が地下にいても構造的に耐えられないなどの意見により離反。これについてはタブレット、外部パワード関節、ゴーグルなど電子装備のバッテリーを遠隔起爆して全て処分。遺体の確認と回収を望む。時間はないが、現場に隊員の肉体を残すのは致命的だ。我々は、存在してはならない『隊』である。

 間もなくアレが始まる。
 総員、覚悟を決めて備えよ。


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第一章

 

   1

 フランス、パリ郊外、午後四時。

「眠い……」
 初っ端から僕は肩を落としていた。
 パリからほど近い国際空港に着いたのは夕方だった。でも僕の頭の感覚じゃ布団の中だ。完全に時差ボケだった。最後に食べた機内食のランチはもう夜食として認識されている。
「トゥルース!」
 変な名前で呼ばれた。そもそもフランスなのに英語だ。ネット界隈ならともかく、リアルでこんな風に僕を呼ぶ人間はおそらく世界で一人しかいない。吸血鬼の姉さんやゾンビの妹も知らないんじゃないかな。
 ……ああ、天津サトリ、悟りだからイコール真実でトゥルースね。念のため。後で調べたら『全知全能の神』を示す言葉でもあるらしいって知って激しく赤面したのはご愛嬌だ。
「あふぁ、あ……。アナスタシア、顔の見える場所でハンドルネーム使うのって意味なくない? というかむしろ匿名で隠していた身元がバレるだけなような」
「何言ってんの、そこらじゅうに監視カメラとスマホとドローンが氾濫してる世の中にリアルとネットの区別なんかないわよ。どこでだって情報盗難は進んでいるわ」
 防犯じゃなくて監視、収集じゃなくて盗難。この辺りはやっぱり生粋のハッカーか。別に特定の誰かを毛嫌いしている訳じゃない、大きなシステムがあれば何にだって噛みつきたいお年頃なのだ。
 アナスタシアは一一歳の女の子だ。
 長い金髪に透き通るような肌が特徴の飛び級少女で、これでもアメリカの有名大学に属して港の倉庫よりデカいコンピュータを好き放題組み立てている。
 そしてこの子は人間じゃない。
 アークエネミー・シルキー。座敷童みたいに屋敷を守る妖精だけど、気に入らない住人に嫌がらせをしたり悪意を持つ客の首を絞めたりするんだとか。名前の通りシルク好きで、今もアナスタシアは真っ赤に染めた絹のドレスを着ている。
 ……座敷童だと真紅はおっかないんだけど、西洋版にはそういうのないよね?
「いやあベストなタイミングで声を掛けてくれたものだわ。ちょうど研究が行き詰まっていたから気分転換が必要だったのよね」
「それってやっぱり量子コンピュータ絡み?」
「あんなもん研究室レベルならとっくの昔に完成してたわよ。企業サイドは採算が取れるよう躍起になって素材の低コスト化を進めているけど、そもそも量子コンピュータだって普及が進めば価値はなくなるからね。弾丸トランジスタやアミノ酸を使った方式を併用させないと、いずれ量子暗号もザルになるのは目に見えているんだし。不正な第三者が外から観測したら信号自体が壊れるから無敵? んなもん母機にイタズラして完全同期しちゃえば関係ないわよ。観測者は人間じゃなくて機械だっての忘れないでよねって感じ」
 というか勉強に行き詰まったって理由だけで学校休んで海外旅行に出かけても許されるのか。大学って仕組みは謎の塊だ。姉さんの夜間学校も単位さえ取れていればって匂いはしてたけど、こっちの方がさらにフリーダムな気がする。
「それよりトゥルースのスーツケースって何色? 一緒に探すけど」
「基本ピンクで赤のデカいバッテン」
「……また随分とアバンギャルドな配色ね」
「見失ったら困るだろ、海外で係の人に説明できる自信ないし。普段絶対使わない色にして、意地でも目立つようにした」
 ベルトコンベアでお寿司みたいに流れてくる旅行カバンを拾ったら、いよいよ旅が始まる。アナスタシアは何日か前に到着して巣作りしているから手ぶらだ。
「パリまではタクシーで?」
「お金かかるからヤダ。バスだよ」
 外国のお金ってオモチャみたいで実感湧かないから怖いんだよな。そこにスマホをかざすだけのキャッシュレスとか加わったら金銭感覚なんか軽く吹っ飛ぶ。財布からお金を取り出すのは躊躇うけどソシャゲではついつい散財してる人って普通にいるのでは? あの石とかコインとか、一回別の言葉に置き換えるのって怖いよね。
 ……いや海外旅行慣れてないから必要以上に怯えてるだけなのかもだけど。現にアナスタシアはお弁当も入らないような小さなバッグ一つだ。本当に旅慣れてる人はむしろ肩の力を抜くと思う。
 ともあれ。
 横からでっかいバスのお腹にスーツケースを詰め込むと、細長いドアから車内に入って自分の座席を探す。数字の読み方なんて世界中どこでも一緒だろうに、こんな事でもドキドキした。
 でもって当たり前みたいな顔でアナスタシアは隣の席に腰掛けている。座席のサイズは大人基準だから何をやってもぶかぶか感が付き纏っていてカワイイ。何だか小さな女王様みたいだ。
 ていうか、
「あのう」
「何よ?」
「その席どうやって取った? 一応長距離バスだぞ、チケットは?」
「何でもネットで注文してスマホをかざすだけの情報化社会って怖いわよね。ログを書き換えるだけで後出しが許されるんだから。せめて紙に印刷したチケットくらい手元に置いておけば良いものを」
「……、」
「せっ席順をちょっといじっただけだってば! ほら、本来のお客さんはちゃんと後ろの席にいるわ。元々あちこち歯抜けで空席アリだったバスの中身をパズルゲーム感覚で整理しただけ、別に誰かが困ってる訳じゃない!」
 こういう自分正義がハッカーの悪いところだ。そもそも侵入して書き換えを実行する事自体が過ちだって自覚がない。ルールの違う海外まで来てよくやる、としか言いようがなかった。バレたらどうするつもりなんだ。
 パリ中心部までは大体二五キロくらい。手持ち無沙汰なバスの中で、いくつか確認しておく事にした。
 そう。
 そもそも日本の高校生である僕が、どうしてフランスにまでやってきてるのかも含めてだ。

「アブソリュートノアとJBがケンカを始めた」

 普通の人にはサッパリな話だろう。
 だけど実際には、どっちも誰の喉元にだって刃を突きつけている組織だ。
 世界の破滅から身を守りたいアブソリュートノアと、世界の秩序を破壊して脱獄したいJB。未だに謎な部分も多いけど、少なくとも物騒な力を蓄えているのは確定。普通に暮らしている人にとっては脅威にしかならないと思う。
 僕にとって悪い話が二つある。
 一つ目は、義母さんの天津ユリナがアブソリュートノアを率いているらしい事。このせいで、僕は望まずに生存組へ組み込まれてしまっている。方舟に乗り、他のみんなを見殺しにするセレブ様扱いだ。
 二つ目は、どういう訳かJBが集団で僕を敵視しているらしい事。これについては、アブソリュートノアはおそらく関係ない。JB全体の指針が見えてないから何とも言えないけど、僕を怖がってる人と期待してる人がいるみたいだ。ひょっとしたら一枚岩じゃないのかもしれない。
「……どうもJBはアブソリュートノアの壊滅に関わっていたらしくてさ、その報復戦が始まろうとしてる。黙っていたらそうなる」
「うへえ。アブソリュートノアって、あの?」
 隣の座席で一一歳の金髪少女が呻いていた。
 アナスタシアもアナスタシアで、少数のアークエネミーが大多数の人間に迫害されない世の中を作ろうとしていた妖精だ。スパコンのメフィストフェレスを使って金融経済を間接的に牛耳る形で。結局それはラスベガスの街並みごと拠点が吹っ飛んでご破算になったんだけど、あの時エリア51や議会に働きかけ、暗躍したのがアブソリュートノアだった。
「義母さんがフランスに向かったようなんだ」
 僕はそう言った。
 言っちゃなんだが天津ユリナはアブソリュートノアのトップだ。大抵の事はいくらでもいる部下に任せると思う。そのトップ級が直々に国境を越えて何かの調達に動き出したんだから、その何かはいよいよ本物だろう。
 つまりは、
「……この報復戦の準備を固めるために。人か、お金か、あるいはダイレクトに武器か。何を集めるつもりか知らないけど、とにかく今まで預けていた何かを引き出そうとしてるみたいだ。つまり準備が完了次第、始まる。アブソリュートノアとJBの戦争が」
 そんな大袈裟なと思うかもしれない。
 だけど実際にアブソリュートノアは爆撃機を利用してラスベガスを消滅させ、JBは宇宙人のクイーンに見立てた『何か』を使って世界中の都市を攻撃した。現実に、国以外の勢力が軍と呼べる規模の火力を揃えているんだ。この二つが衝突した場合、被害がどう広がるかは完全に未知数。単純な兵力の総数が分かっていないのはもちろん、二つとも地下に潜った組織だからどこに本拠地や支部があるのか全く見えない。つまり、地球のどこでだって衝突が起こり、いきなり大規模な戦争が始まるリスクがある。ここは平和な日本だからとか、最高警備のニューヨークだからとか、国際条約に守られた南極や宇宙で戦争は起こらないとか、そんな定石はもう通用しない。
 ……おそらく普通の国境を基準に守りを固める国の軍隊じゃ、この動きには対処できない。例えばアメリカからロシアに馬鹿デカいミサイルが飛んだとして、やったのはアメリカとは限らないんだ。平べったい地図だけ見て報復したって被害が増えるだけ。これはもっと別のルールで動く、新しい戦争だ。
 まるで星自体が導火線のついたでっかい爆弾にでも作り替えられたようだった。
 火が点いて爆弾へ届く前に、流れを止めなくちゃならない。
 気は焦るけど、そのためには一つ一つだ。分かっているところから始めたい。
 そのためには、
「……もちろんどっちも止めたいけど、JBの動きは全くの不明。だからひとまず義母さんの周辺を洗うぞ、アナスタシア」
「らじゃ。まー皆殺しモードのスイッチ入ったアブソリュートノアはとっくにJBを捕捉してるでしょうしね、それなら答えを知っている人からデータを奪うのが手っ取り早いわ」
 これしかない。
 僕は生粋のハッカーじゃない。まず機械いじりの趣味があって、たまたまそっちの領域にまで知識が広がっていっただけだ。できればきっちり線は引いておきたいけど、今回ばかりは例外になる。
 でないと。
 線を引いて大切にしたいはずの『当たり前』を、ルールを守って全部失う羽目になるから。
「天津ユリナがこのフランスに何を蓄えていて、いつどこで引き出そうとしてるか。この情報を掴んで、物理的に止める。怖いのは二大組織の正面衝突だ、いったん戦争が始まったらもう流れは止められない。だからそうならないように、準備段階で潰すんだ」
「やるけど」
 アナスタシアはそっと息を吐いた。
 この子は僕達の騒動に付き合ってきたおかげで、アブソリュートノアにもJBにも関わった稀有な立場にある。そもそもの性分もあって、大きな謎に挑むのに躊躇はしないんだろう。
 ただ、
「……でも大丈夫? 家族のシステムを暴くって、実際、プロのハッカーでも躊躇う話だったりするものだわ。ある意味で自分自身のエゴサーチよりキツいって。最後までやり切れると良いんだけど」
「やるさ」
 実際。
 ラスベガスの件では一度義母さんと仲違いして家を飛び出した事もある。多分今度の秘密はもっと辛いだろうって思ってる。そもそも義母さんがパートのレジ打ち主婦っていう表のサイクルを崩してまで海外に出かける事自体が初めてなんだ。このパリにはきっと、天津ユリナじゃない魔王リリスとしての顔が眠っている。そんな気がする。
 それでも。
 見なかったふりは、もうできない。
「……僕の家族の問題なんだ。だからやり遂げる、これだけは絶対に僕が止めなくちゃならないんだ」

 

   2

 でっかいバスがパリ市内に入った。
 このバスはホテルまで直行じゃなくて、目立つ駅の近くで客を吐き出す仕組みだ。正直に言うと僕が泊まる予定のホテルはそんなに大きくないから、その分サービスは削られている。
 僕が引きずるスーツケースに、アナスタシアが小さなお尻を乗せて腰掛けてきた。ずんっ、という確かな重さが加わってくる。
「おい妖精っ」
「さーびす☆ こうしておけばひったくりを予防できるわよ?」
 含蓄があるんだかないんだか。とにかくスマホの地図を頼りに歩いてホテルを目指す。あちこちに案内の看板はあるんだけど、正直に言ってフランス語は異次元だ、英語よりもっとふわふわしてる。道路の名前がもう読めない。
 またがるんじゃなくて、一方で両脚を横に揃えるお上品な二人乗りスタイルでアナスタシアは細い脚をパタパタ振っていた。
「パリについてはセーヌ川っていう大きな川が東西に走ってるのと、大体の道が凱旋門に向けて集中してるってだけ覚えておけば問題ないわ。迷ったら目立つ川かでっかい道に沿って歩いてみる事ね」
 すーぱー旅慣れてる金髪少女の言い方はざっくりだ。多分参考にはならないと思う。
 ……僕的にはもっと古い、RPGの城下町みたいな街並みかと想像してたんだけど意外とハイテクな景色で驚く。重たい石の建物の中にピカピカに磨かれたガラスやシリコン製のカーディーラーや携帯ショップが埋め込まれているって感じ。信号は普通にLEDだしあちこちに無線LANのアンテナが立っていた。当たり前だけど、今の時代を生きる人達がこれだけ殺到してるんだ。そういう生活感から目を逸らしてテレビや動画で映したがるトコだけ切り取ると、時代劇のセットみたいになっちゃう訳か。
 しかしまあ、築何百年っていう石のアパートとバーガーショップやガソリンスタンドのプラスチックっぽい極彩色が違和感なく同居してるって画はすごいな。スマホで写真撮っておこう。
「フランスの景色はファンタジー映画時空がずーと続いているとでも思った? ローマ辺りの古代建築から鉄筋コンクリートと強化ガラスまで、それこそいくつも建築方式は移ろっているわ。中には壮大過ぎて完成までに時代をまたいでしまって、複数の方式がごっちゃになっている建物もあるし」
「つまりそこの大理石の柱に広告の液晶パネルが埋まっているのも歴史と伝統って事?」
「そんな感じ。てか建物関係なら日本なんかもっと激流に揉まれているんじゃない? 戦争とか災害とかで何回景色がリセットされてるんだか。あの国、築二〇〇年以上の私邸なんて数えるほどしかないと思うけど。それも大体土地の所有の話であって、建物の方は短いスパンで屋根や壁を張り替えちゃうでしょ? カワラとか、カヤブキとか」
 それ以前に、日本は単純に古い建物にあんまり興味がないだけだと思うけど。ぶっちゃけ、合板や鉄筋コンクリートの利便性を放り出してまでかまどや囲炉裏の家を選びたいか? エアコン、無線ネット、ホームセキュリティ。その辺の機能性を犠牲にしてまで古き良きを追い求めないっていうか。
「……見るのは楽しいけどずっと住むのはって感じかなあ?」
「そいつは大体世界中どこの観光地でも言える話だわ。ヴェネツィアとか、アルプスの山小屋とか」
 途中の道で喫茶店の横を通り抜けた。パッと見た感じだと、コーヒーより紅茶が多そうかな。あれ? カフェラテとかカプチーノってフランスじゃないのか……。クロックムッシュだかマダムだか、一緒についてる目玉焼きの乗っかったパンが妙に凝ってて美味しそうだ。後で食べたい。それからパリの人達はこれみよがしに洋梨のノートパソコンなんか広げて無意味に顎をしゃくれさせたりはしないらしい。……あのナゾの喫茶店文化ってまさか日本だけのオリジナルじゃないだろうな?
 人様のスーツケースに腰掛けて楽をするアナスタシアは口元に手をやってくすくす笑いながら、
「グローバリゼーションアレルギーなのよ」
「?」
「何しろEUってでっかい枠組みの中にいるはずなのに、特に工業関係は車から兵器まで自国生産にこだわりまくってるからね。日本じゃまず見かけないマイナーケータイ使ってる人も多いわよ? 失礼、ご当地ってつけるべきかしら」
 大体一〇分くらいでホテルに着いた。小っちゃい雑居ビルってスケール感で、きっとシングルルーム以外は取り扱ってない。当たり前のように駐車場なんか存在しなかった。
「……一泊二〇ユーロ。良く見つけたわね、ここはフランスの首都パリのど真ん中よ?」
「はっはっは、マクスウェルの検索能力を舐めるでないわ」
「それ、何でここまで不自然に格安なのか事情の方まで調べてもらった? 機械にデリケートな心の機微を理解できるかしら、ベッドに腐乱死体とかバスルームでバラバラとかじゃないと良いけど」
「……、」
 古い屋敷につくメイドな妖精が変に警戒してるトコ見せられるとおっかないな。
 建物に入ると、アナスタシアはぴょんとスーツケースから降りた。元気があると短いスカートが危ない。
 当然ながら僕はフランス語はできないけど、今時は何でもスマホだ。言葉はいらない。受付で機械だけかざしてチェックインを済ませると、古くて小さい鳥かごみたいなエレベーターで八階へ。どこに非常口があるんだか分かんないような狭い通路を歩いて目的の部屋に辿り着く。
 細長い部屋だった。
 ていうかまずシングルベッドがあって、ベッドにぶつからないように細い順路を通してあるって感じ。嫌な予感がしてユニットバスの扉を開けてみると、バスタブは体育座りすれば何とかってサイズ感だった。お風呂に入るっていうより、人間を畳んで箱詰めする方が近い。扱い的にはシャワーのお湯が床に広がらないようにする流し台で良いのかな。
 遠い目をするしかなかった。
「なるほどねー」
「でろでろの死体ってどの辺に転がってたのかしら」
 もうアナスタシアの中では確定情報らしい。短いスカートも気にせずに、猫みたいに這いつくばってベッドの下なんかを覗いている。
 ……ひとまず部屋の扱いとしては、鍵のかかるスーツケース置き場って感じかな?
 ともあれ。
 窓際には勉強机よりも小さなテーブルがあるんだけど、椅子がなかった。……まさかベッドが兼ねてる? アナスタシアがそのシングルベッドに小さな体を元気良く放り出すように座ってしまったので、僕はテーブルの天板に体重を預ける事に。
 金髪少女は無防備に首を傾げていた。
 細い両足をパタパタ、自分のすぐ横を掌で叩いて、
「隣に来れば良いのに」
「とにかく義母さんを見つけて、先回りしないとな」
 この広い街に何百万の人がいるかは知らないが、ノーヒントでたった一人を見つけ出すのは相当骨が折れるだろう。しかも相手は水面下に潜ったアブソリュートノアのトップだ。言ってみればガチで世界的な秘密結社。普通の検索方法じゃまず見つからない。
 ただし、
「アナスタシア、この街の基幹ケーブルってどこ走ってる?」
「西と東。パリにはセーヌ川が走ってるって言ったでしょ」
「じゃあまずそこだな」
 インターネットは蜘蛛の巣みたいに張り巡らされてるってイメージが強いけど、実際はそうじゃない。何百キロ、何千キロって光ファイバーを張るのにもお金はかかるんだから、業者はできるだけ最短コースでまとめたいって考える。海底ケーブルなんかが顕著なんだけど、実際にはいくつかの太い動脈で国や街を結んで、その中でエリアごとに毛細血管を広げていくって考え方の方が近い。
 これはケータイスマホなんかの無線も変わらない。携帯電話は無線機じゃない。地上の基地局で電波を受け取り、光ファイバーで相手近くの基地局にデータを届けている。これは同じ部屋で目の前のアナスタシアに一六文字のメッセージを一つ送る時でも同じ。物理的な距離が近いからって勝手にショートカットはできない。
 義母さんだって隠れてこそこそしてるんだ。
 かくれんぼを制するため、まずパリ中の情報を片っ端から掌握したいはず。特に防犯カメラ、スマホ、ドライブレコーダーなんかのレンズまわりは。全ての光ファイバーが集まる点のスポットには、この街のあらゆるデータが合流する。天津ユリナは、いいや魔王リリスはそこに必ず何かしらの小細工をするはずだ。
 事前に覗き見しておけば、誰も見ていない死角を把握して街を移動できる。
「つまり天津ユリナが街に仕掛けた小細工を見つけて、さらにそこへワタシ達がこっそり相乗りするって事?」
「正解。義母さんの視線を盗めば、注目してる場所、周りの目を逸らしておきたいモノ、全部分かるようになる。天津ユリナがどこに潜伏していて、何を隠したいのかだって」
 具体的にその細工っていうのが、ハード的な機械を取りつけてるのかソフト的なウイルスに感染させてるのかは未知数。となると実際に現地へ足を運んで調べるのが確実だろう。
「今すぐにでも始めよう。時間は無尽蔵にあるって訳じゃないし」
 いざとなれば延長戦で連泊って話になるんだろうけど、国内旅行とは勝手が違うっていうのは何となく分かってる。ビザとかパスポートとか、まあ色々。いざとなれば『ハッカーのアナスタシアが好きそうな展開』に頼る羽目になるかもしれないけど、できれば早い内にケリをつけたい。
 そもそも義母さんが預けていたモノに接触してしまえばそこでおしまいなんだ。アブソリュートノアとJBの正面衝突、予測不能な未知の戦争が始まる。一秒の遅れで致命的な事態を招きかねない。
「良いけど、またバスで行くの?」
「そうだけど。タクシーでどこでも行けるほど金持ちじゃないよ」
「一本道の長距離バスならともかく、街中の入り組んだ路線図なんて読めるの?」
「……、」
「地下鉄も以下略よね。ああいうのってリアルな地図とは合ってないから方角だけ見て大雑把に判断って訳にもいかないわ」
 ならどうすれば。
 根本的なところで躓きそうになった僕に、アナスタシアは片目を瞑ってこう提案してきた。やっぱり旅慣れてる人は違う。
「ならお金がかからなくてトゥルースも乗り慣れてる交通手段を調達すればよろしいのでは?」
「?」
「例えばレンタルサイクル。自転車の乗り方なんて世界中どこでも同じでしょ?」

 

  3

 スマホをかざしてユーロ決済だとお金を払ってるって実感は湧かないんだけど、小銭を入れるくらいの感覚かな。
 歩道の一角を占有している駐輪スペースから、全く同じデザインの自転車を一台引っこ抜く。
 自分の自転車を確保し、レバーをぐりぐり回してサドルを一番下まで下げながらアナスタシアが尋ねてきた。立ったまま腰を折って両手で作業に集中しているとミニスカのお尻が危うい。
「西と東、どっちに行くの?」
「近い方」
「ならセーヌ川に沿って西に五キロくらいだわ」
 ごき……意外とあるな。これで近場。広い大陸で暮らす外国の人ってやっぱり距離の感覚が違うのか?
 アナスタシアと二人で川沿いを進んでいく。
 おおっ。歩きから自転車に変わっただけだけど、ちょっと世界が違って見える。時間的にはもう夕方っていうより夜の方が近いくらいだ。まだ早いけど、LEDのライトを点けておく。
 セーヌ川はかなり幅広な川みたいだ。
 アナスタシアは西に五キロって言っていたけど、実際にはこの川、結構あちこち曲がりくねっている。中洲もいくつか見かけた。でもって架かってる橋は大体人でごった返していた。御台場のアレとか瀬戸内海のコレとかと違って、橋って言ってもなんかあちこちにたくさん架かってるな。全部が全部デートスポットなのかもしれない。
 とにかく川沿いを自転車で走ると、水辺の向かい側にはいかにもランドマークっていう古い建物がいくつも連なっていた。石でできた宮殿って感じで、尖った塔がいくつも大空に伸びている。政治的なのか宗教的なのか。どっちにしたって現役みたいだ。建物は古いけど、窓からは白々しいくらい眩しい光が漏れている。明かりだけ省エネなLEDにでも変えたのかな。
「あっちが美術館で、そっちのモデル顔は議会ね。下院の方だけど」
 隣でペダルを漕いでるアナスタシアがいちいち教えてくれた。ただし主観が強すぎてどれが何だかピンとこない。パリの建物なんか大体みんなモデル顔じゃんか。ツンツンしてて気取ってる。
「うわあー、何あれ。テレビの電波塔? あっはっは、流石に剥き出しの鉄塔だと景色から浮いてるなあ」
「トゥルース……。今アンタが見てるのは歴史あるエッフェル塔だわ、ナマで見ると感じが違うとか?」
「……、」
 海外旅行は人の地金を露わにすると思う。いよいよバカを覆い隠せなくなってきて困る。
 さらにしばらく進むと、大都市らしからぬものが見えてきた。
 深い森だ。
「何あれ? 動物園とか?」
「あれは森そのものを楽しむのよ。ブーローニュの森」
 そりゃまた何とも風流な話だな。流石はエルフが似合うヨーロピアンなお国柄だ。
 そしてここまで来ると中心地からやや外れてきた印象がある。
「見えてきたな」
「パリの高速道路ってここ最近やけにお忙しいのよね。トンネルで地下に埋めたと思ったら高架に上げたり、エコな電気自動車の普及キャンペーンなのかしら?」
 目的地は複数の高速道路が複雑に流れるジャンクションの真下だ。街中の光ファイバーをぎゅっと束ねて外の街と繋ぐ基幹ケーブルはとにかく『最短』を目指す訳だ。
 パリの場合は、西と東で一つずつ。包みでくるんだ一口キャンディみたいなものをイメージすると分かりやすいかもしれない。
 そうなると道路や線路、高圧電線の鉄塔や石油パイプラインなど既存の長距離インフラをそのままなぞるケースが多い。昔の電柱だって電線と電話線をセットで伸ばしていたらしい。考え方はあれと一緒。
 ……特に、高速道路は元から一定間隔で非常電話を置いたり速度違反のカメラをつけたりする必要がある訳で。ここ最近だと自動運転の地上アンテナなんかもそうかな。とにかく光ファイバーの相乗りにはもってこいだ。当然ながら新しく一式用意するより、元からあるものを借りた方が安く仕上がるんだから官民揃って使わない手はない。
 そのまま目的地を通り過ぎて、ちょっと離れてから案内板の近くで自転車を停めた。
 振り返らないで確認を取る。
「誰もいなかったよな?」
「ドローン電波も確認できずだわ」
 アナスタシアはケモノっぽいペットロボットの顔面も兼任してるスマホを軽く振る。
 義母さん、あるいは護衛や交渉役を含めたチームにとってここは目的地じゃなくてただの下拵えだ。パリの監視網が邪魔だからひとまず全カメラにアクセスして死角となる安全圏を見極めたいだけ。だから必要な細工を終えたらさっさと立ち去るはず。
 ……正直に言えばホッとしていた。
 魔王リリスな義母さん本人もそうだし、バンシーだのシルフィードだの、アブソリュートノアのメンバーだってただ者じゃない。この時点でぶつかる確率は低いと思っていたけど、でも何かの気紛れで部下を一人残されていたら、それだけで命の危機だったかもしれない。
「情けない……」
「トゥルース?」
 これからその天津ユリナを力尽くで止めなくちゃならないっていうのに、見張りの一人で脅えて立ちすくんでいるのか、僕は。こんな事で本当にアブソリュートノアとJBの全面戦争なんか止められるのか?
 首を横に振って、気持ちを無理にでも切り替えた。停めていた自転車から降りて、スタンドで固定する。
「とにかく確かめよう。義母さんはパリ中の防犯システムをこっそり乗っ取っているから、僕達はさらにそれを盗み見る。……アブソリュートノア側の細工が分かれば、そこに干渉できる。何千万ってカメラの中から義母さん達が何を見ているかをこっちでもモニタリングできるはずだ」
 潜水艦みたいな鉄の扉に向かった。
 どこにそんなものがあるかって?
 ぐるりと回ったジャンクションを支えている複数の鉄の柱だ。中でも非常口のサインがついたものはこれ自体が灯台みたいな空洞を抱えていて、内部に螺旋階段を備えている。人の他にも、電線や雨水管なんかで電気や汚水も運ぶ。……当然、通信ケーブルも。
 しかしまあ中が空洞って、高架を支える柱だぞ。免震構造とか考えないんだな。地震の少ない国の設計は正直に言って違和感の塊だ。世界全体からすれば日本の基準の方が珍しいのかもしれないけど。
「あった」
 階段を上るまでもなかった。
 カーブを描く壁際にいくつかの鋼管が取りつけてあった。上下に貫く格好の鋼管の内、一つが工具でネジを外して開けてある。中にはガラス繊維のケーブルと信号増幅用のブースター装置が繋がっていた。ブースターにはビニールテープを使って、別の小さな装置を貼りつけてある。
「……非接触式? でもどうやって」
 例えば、配線に電気が走るとその周りに磁界が発生する。電磁気がワンセットである以上、これはどうやったって避けられない。逆に言えばその微弱な磁界を読み取って電気信号に変換する装置があれば、ケーブルを繋ぎ替える事なく非接触で安全に情報を盗める。
 ……ただ、光ファイバーは光信号だから、この方式は使えないはずなんだよな。だとすると、熱か振動? まあ確かに光を一〇〇・〇%完全に反射する素材なんて作れないんだからいくらかは別の形に変換されちゃうんだろうけど、ほんとに微々たるものだぞ。よくこんなのを実用化したな。これならニュートリノを検出する実験装置の方がまだ楽そうだ。
 と、何やら隣で見ていたハッカーがそわそわし始めた。
「あっ、アブソリュートノアのオモチャでしょ? どうにかして持ち帰れないかしらっ、向こうに気づかれないよう取り外して」
「アナスタシア」
「ええい! ならせめて蓋を外して、基板のレイアウトだけでも撮影を!! だって『あの』アブソリュートノアの支給品なのよ!? こんなのほとんどロストテクノロジーとの接触だわ!」
「……アナスタシア」
 放っておくと勝手に手を出しそうだったので、念のためもう一度強めに注意しておいた。そんなロストテクノロジーならどんな罠があるか予測できないだろうが。バレたらおしまいなんだからリスキーな行動は取れない。
 ちなみに装置は充電も非接触のようだった。どうも周囲を飛び交うマイクロ波ーーーようは普通のケータイ電波や無線LANだーーーを拾い集めて電気に還元する仕組みを取り入れているらしい。都市部ではほとんど永久機関だと思う。
「ううー……じゅるじゅるり」
「なあおい。もしや流石にそんな事はって思うけど勢い余って食べるなよ、アナスタシア」
 だけどこの装置がどれほど高性能だろうが、やっているのは光ファイバーを流れる信号をこっそり読み取っているだけ。
 装置そのものに触れられなくても、そこから五センチ上と五センチ下の光ファイバーにそれぞれ手を加えて覗き見すれば、義母さんが覗き見してるのと全く同じものが見られる。アブソリュートノアの装置を僕達の細工二つでサンドイッチして、出入りする信号は全部僕達の関所を通らないといけないようにする訳だ。
 地球の裏側からソフト的なウイルスを流し込むだけがサイバー攻撃じゃない。ハードからだって汚染や傍受は十分可能だ。
「……トゥルース、やっぱり一番怖いのは一人きりでここまでの技術を覚えた独学バカのアンタだわ」
「大袈裟だな、光ファイバー自体はホームセンターでも売ってるだろ。こんなのマクスウェルのコンテナをいじくる時に覚えただけだよ」
「学歴社会の道理が通じないガラパゴス発明家め、ワタシの研究室に来るべきよ。今すぐに、カンフル剤として」
 ともあれこれで第一段階は成功。
 義母さんがパリで何を手に入れて戦争を始めようとしてるからはまだ未知数。だけど彼女が何に注目してるかが分かれば、取引現場なんかははっきりとするはず。妨害する前に情報を知っておきたい。
 試しにスマホの画面を覗いてみる。
 よし。
 いける。
 ……要注意スポットとして、見知らぬ街の見知らぬ一角が出てきた。複数の防犯カメラで様々な角度からパリの一点を凝視していた。やっぱり義母さんもこのパリに潜り込んでいて、リアルタイムで何かを監視している。分かっていたけど、改めて生々しい実感が追いついてきた。
「アナスタシア、ここは?」
「ちょっと待って。……これはナニ通りかしら。辺りは病院だらけで、奥に見えるのはパリ天文台か。明かりが消えてるのって例の遠隔操作ウイルスのせいかしら。となると、うん、オプセルバトワール通りね。そこはおそらく一四区」
 病院だらけ。
 一瞬、細菌兵器や化学兵器なんて言葉が脳裏をよぎる。我ながら、母の顔からここに連想が直結する人間はそういないと思うな。
 ただ、アナスタシアは続けてこう言った。
「つまりカタコンベの真上ね」
「かた?」
「六〇〇万人分の人骨を収めた地下墓地よ。パリの巨大ダンジョン」
 ……違った方向も見えてきた。呪いとかアークエネミーとか、オカルト方面の可能性もアリって訳か。
 ともあれ、
「じゃあ次はこのカタコンベまわりの調査か。もちろん義母さん側に掌握されたカメラで見咎められないよう気をつけながらだけど」
 これで天津ユリナの五感は捉えた。
 だけど義母さんがいつどう動くかは不明のまま。今夜にだって『ここ』で誰かと接触し、戦争に必要な何かを揃えてしまう可能性だってないとは言えない。一秒の遅れで全部失う。時差ボケのせいで体は結構キツいけど、このまま続行した方が良い。目の前で火蓋を切る瞬間を見てから後悔したくなければ。
 灯台みたいな金属製の橋げたから外に出る。
 時刻は夜七時。その割には辺りは明るかった。外国に来たから日没の時間がズレてる? それとも単純に大都会だからかな。そんな風に思っていたところで、同じように鉄扉から表に出たアナスタシアが首を傾げていた。動きに合わせて、細い肩からワンピースの肩紐が片方ずり落ちている。
「変ね」
「何が?」
「明る過ぎるわ。ここはパリの中心地から離れた森のすぐ近くなのよ?」
 ……やっぱり、何かが変だ。
 二人して夜空を見上げていると、ズボンのポケットに突っ込んだスマホがぶーぶー振動した。
 取り出して画面に目をやり、顔をしかめる。そう、今の今までこいつが出てこなかったのには訳がある。こいつには別の仕事を任せていたんだ。それが向こうからコンタクトを取ってきたって事は……、
『警告』
「どうしたマクスウェル」
 スマホの画面に表示されているのはSNSのふきだし。でも相手は人間じゃない。僕が自分で組んだ災害環境シミュレータだ。本体は投げ売りされていた携帯ゲーム機の基板一四〇〇台分で、日本の港にコンテナごと預けてある。
「頼んでいた作業の方は!?」
『ですからそちらの経過報告です』
 僕はアブソリュートノアとJBの正面衝突、戦争の話をずっと恐れていた。義母さん、天津ユリナ率いるアブソリュートノアの動きはご覧の通り。
 ならもう片方、JBは?
 向こうだって神話の神様を操り人形に作り変えるほどの実力者だ。ただ何もしないで待っていると思うか。
『ユーザー様のご懸念された通り、世界各地での天文台や観測所に同時アタックの痕跡あり。これはJBが遠隔操作ウイルス・dollgirl.cを用いてDDoS攻撃用の感染コンピュータを大量確保しようとしているからだ、というのがユーザー様の推論でしたが』
「ああ。で、結果は?」
『ハズレです。こちらをご覧ください』
 画面が切り替わった。
 何かまん丸の球体と、矢印がいくつか。これだけだと何を意味しているのか、ちょっと見えてこない。何かの模式図だろうか。矢印はかなり多いけど、カーブを描きながらほぼ同じコースを描いている。
 ……模式図って、でも何を模して省略した図なんだ?
「マクスウェル、これが何なんだ?」
『シュア、ウイルスを除去した結果今まで非表示扱いにされていたデータを正常に表示した形になります。各種望遠鏡やレーダーは合計三三の光点を捉えていたが、自動警報を切りレポートから除外されていたという事です」
「だからこれは何なんだ!? JBは一体何を隠してきた!!」
『シュア』
 実際には淡々とした一文だったはずだ。
 ブレて途切れたように見えたのは、僕の意識がぐらついたからか。
 小さな画面には、あくまでも無機質なメッセージが表示されていた。

『熱圏で焼かれずにパリ市内へ直撃する、大小三三の流星雨です』

 じっ……。
「JBッッッ!!!???」
 天津ユリナに、アブソリュートノアに何かが渡るのを阻止したかったのは僕達だけじゃない。むしろ直接的に矛先を向けられる以上、JBは何としても受け渡しを妨害したかったはずだ。
 分かる。
 それは分かるけど。
 だからって一回のアクションでここまでするか!? あの馬鹿ども、地球が有限の資源だって事すら気づいてないのかッ!!
『警告、地表への墜落まで一二〇秒ありません。夜空が不自然に明るいのはそれだけ落下物が高空の大気で焼かれているからです。しかし残らず焼き尽くすほどではありません。もう来ます、大至急頑丈な建物か地下に退避してください』
 それ以上は拘泥していられなかった。
「あなすっ、走れ!! 戻るんだッ!!!!!!」
「きゃっ」
 僕はアナスタシアの細い手首を掴むと、慌ててとんぼ返りする。ジャンクションの真下。ぐるりと回る巨大な陸橋を支える金属の橋げた。灯台みたいに内部が空洞になったその中へと二人して転がり込む。
 潜水艦みたいに分厚い鉄扉を閉めて、内側からレバーを掛けた直後だった。

 構造的にこちら側には開かないはずの分厚いドアに叩かれて、僕の体は向かいにある螺旋階段の手すりまで吹っ飛ばされた。
 確実に。
 外で、何かが起きた。

 

【Unknown_Storage】他天体との接触について【file02】


 軌道を外れた他天体、いわゆる彗星や小惑星等との接触被害については、以下の段階に振り分けられます。
 なお、ここでは質量二〇キログラム以上の落下物を想定いたします。

 レベル1
 上層の熱圏を越える事ができずに消滅する場合。厳密には地表には接触しておりませんが、被害ゼロとは限りません。例えば落下物が金属質だった場合、大量の粉塵が飛散する事で磁気圏や電離層に多大な影響を及ぼし、地磁気の大幅な乱れを促すリスクがあります。結果、該当空域直下の地域では都市クラスまたは国家クラスでコンピュータ類を丸ごと破壊され、そこから生活インフラの寸断や社会秩序の崩壊などへの発展が予想されます。電源喪失による被害規模については、人口密度や地域単位のモラルによっても変わるでしょう。

 レベル2
 熱圏含む高層大気を抜けたものの、高度三〇〇〇メートル以下の低層大気において空気の摩擦などにより地表へ接触せずに空中分解する場合。ここでは多大な衝撃波が直下の地上を薙ぎ払っていく事になります。威力は落下物のサイズによって変わりますが、ロシア山林を焼き尽くしたツングースカ大爆発では実に二〇〇〇平方キロメートルにわたって被害が広がりました。
 なお、中層大気で空中分解が起こった場合は衝撃波が地表まで届かないので、細かな落下物以外に大きな懸念点はありません。該当空域に航空機がない限り、せいぜい大粒の雹程度の被害となるでしょう。
 俗に言う、天体リスクのラストチャンスがこの中層です。

 レベル3
 実際に、落下物が地表まで到達した場合。摩擦による熱、大規模な空気の攪拌、地盤への打撃などと共に、落下地点より全方位へ多大な衝撃波と大地がめくれ上がっての飛散物が大量に広がります。被害規模については落下物の質量によって計算できるでしょう。
 なお、質量二〇〇〇トン以上の落下物の場合はレベル3オーバーとなり、こちらの場合は地表への接触と同時に起こる爆発によって大量の粉塵が舞い上がり、高層大気に長く滞留する事で全世界的に太陽光が遮蔽される、いわゆる氷河期が確定となります。
(参考までに。地球への落下物については月の発生原因から恐竜の絶滅理由まで様々な仮説に登場していますが、少なくとも人の手で明確に回収・保存された中での最も重たい単体の落下物は鉄製で質量約六〇トンとなります。
 数字を見るとありえないと判断されるかもしれませんが、例えば火星と木星の間だけでも約四万の小惑星が舵も動力もなく無秩序に漂っている事実をお忘れなく。
 月の成立として有力視される巨大衝撃説では、かつて地球へ火星に匹敵する質量の他天体が衝突した結果地球が砕けて大量の塵を宇宙へ撒き散らし、それが月の材料になったとまで語られるほどです)

 *荒唐無稽な想定と思われるかもしれませんが、当施設ではハイリスクな感染性検体を取り扱っております。こと大深度地下への衝撃と電源喪失、この二点においてはあらゆる事態を熟考してフローチャートを構築すべきと判断いたしました。
 その時が来てから慌ててルールを作ろうとしても、もう遅いのですから。


吸血鬼の姉とゾンビの妹が海外旅行だというのに日本に置き去りだけどどうしましょう……こっちは壊滅してるけど
第〇章

 それは、誰だって怖いと思う。
 できる事なら人生一度だってそんな目には遭いたくないとも。
 だけど一方で、長い長い人生の中でそれは避けられようがない事だってみんな知ってる。地震や噴火、台風や山火事、砂嵐や大寒波。国や地域によって起こり得る危機はそれぞれ違うと思うけど、でも誰だって何かしらの猛威にさらされる瞬間はある。人の方からスケジュールを決めたり、ましてキャンセルを突きつけたりなんかできるものじゃない。
 だからせめて、こう思ってしまうんだ。
 この一回で終わってくれ。
 これ以上はもうたくさんだ、もう手が回らないからここで最後にしてくれって。
 だけどそんな嘆きだって人の都合。自然の側が考慮してくれるなんて話はない。
 そう。

 災害は。
 一度に一つとは限らない。

【Unknown_Storage】世界の裏側【file01】


 アブソリュートノア。
 間もなく訪れるとされる全世界規模の災厄、通称カラミティを回避するために結成された無国籍集団。かつては下部組織として光十字などを揃えていた。方舟と呼ばれる巨大構造物を用いて、組織に選ばれた者だけを物理的に救済する事を目指す。
 実際のところ、現実に世界の終末・カラミティが発生するかどうかは未知数である。しかし必ず起きる前提で非人道的手段を強行してまで備えを進めるところから、カラミティを含めて彼ら独自の教典や予言書のようなものが出来上がっているのでは、という説もある。
 現在、内部抗争により方舟は破壊され、組織全体としての機能も半休止状態にまで追い込まれている。またこの内部抗争については、外から誘導された可能性も大きい。
 救済能力が持続できているかは不明だが、現在も一定以上の発言力を各界に発揮している。
 代表者は天津ユリナ。
 その正体はアークエネミー・リリスであり、学説によっては七つの大罪の一角に数えられる本物の魔王である。


 JB。
 この窮屈な世界からの『脱獄』を求める組織。そのために巨大な軍用シミュレータ・フライシュッツを製造し、長期的な作戦行動の策定を任せている節がある。
 誰から、何から、そしてどこへどうやって逃れようとしているか、具体的な計画は一切不明。
 技術力については他を圧倒しており、シミュレータ製造から災害デザイン、果ては神と呼ばれる超越存在にも干渉しているところが複数回目撃されている。
 彼らの語る自由とは、神を乗っ取る程度では足りないらしい。
 代表者は不明。
 集団の意思決定を直接左右するという意味においては、シミュレータのフライシュッツそのものという説もある。

 なおJBは極めて高確率でアブソリュートノア壊滅の一件に関与しており、アブソリュートノア側もその容疑に気づいている。これにより現在、両組織の武力衝突が懸念される。