吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第四章

【crawler search】海上火災【you need word!】

 船舶、海底油田のリグ、メガフロートなど、海上で起こる火災の事。一般に地盤と直結する島や埋立地で起きた場合は海に囲まれていても通常火災とみなされるが厳密な定義は曖昧で、鉄橋、人工島、海底トンネルなども含むと主張する専門家もいる。

 陸の市街地に延焼するリスクが低いため一般には山火事やコンビナート火災と比べて軽視されがちだが、現場に派遣された消火要員の二次被害においてはトップクラスを誇るハイリスク災害でもある。

 特に貨物船や豪華客船など(日本では珍しいが潜水艦も含む)大型船の火災は煙が充満する中で迷路のように入り組んだ船内での生存者捜索すら難しく、火を消すにしても、元の燃料や積み荷の特殊な可燃性、エリアごとの浸水、電気系統のショートや感電、船体全体の傾斜や沈没まで含めて多種多様なリスクにさらされる。実際、数ある火災現場でも消火難度はトップクラスと言えるだろう。

 偶発的な事故ですらここまで危険な海上火災だが、さらに原因が人為的な事件だった場合はリスクが倍増する。二国間を行き来する大型船の場合は国内と武器分布状況が変わる事もあり、銃器や爆発物が顔を出す頻度については一般の国内事件を参考にできない。

 そのため通常の消防隊ではなく、ダイバーとしてのスキルを持ち、突発的な海上戦闘にも対応できる海上保安庁に担当が移る事も多い。言葉にすれば簡単に聞こえるかもしれないが、消防庁は総務省、海上保安庁は国土交通省の管轄なので『テレビカメラで注目されがちな』重大案件の解決に対する実際の縄張り争いは激しい。誰だってヒーローになりたい……のではなく、目に見える『実績』はそのまま次の予算を多く獲得するための宣伝材料になるのだから。財源が税金なので分かりにくいが公務もまた『お仕事』であり、そうなると常に採算性、つまりコスパを意識するものだ。
 ただしこれについては逆に考え、海上火災についてはそんな垣根を気にしていられないくらいの激務と化している、とみなして良いだろう。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第四章

   1

 わあっ!! というホームランみたいな大歓声があった。
「最後の罪人はどこだーあッ!!」
「有罪、有罪、有罪、有罪!!」
 調理実習室。
 ガラスの割れた窓の外、マイクロプラスチックの雪で真っ白になった校庭は完全に沸騰していた。
「……せ、せんぱい」
 きゅっと僕の制服を小さく握り込むようにして、後輩の井東ヘレンがこちらに身を寄せてきた。アークエネミー・キルケの魔女。だけど弱々しさの方が際立つのは、やっぱり禍々しい群衆の雄叫びが過去の『コロシアム』を連想させるからか。
 僕は。
 差し出された包丁のグリップを、しばし眺めていた。
「どうした、早く」
 特に急かすでも焦るでもなく、差し出す男子はそう言った。
 廊下の方でドライアドの沖合ユウコをねじ上げている別の生徒も。
 ……疑いがない。
 いっそ目がキラキラしてやがる……。
 だからいつもの調子で、それが怖い。おそらくこいつらはなだめてもすかしてもトーンが変わらない。クールダウンさせても挑発しても、犯人を殺すべしって思考が止まらないんだ。交渉の窓口がない。押しても引いても爆発するなら、せめて刺激しないくらいしか打つ手が見当たらない……ッ!?
 秩序を乱す。
『犯人』側って思われたら、致命的だ。
 だから、ここで包丁を掴まないって選択肢はない。躊躇って、万に一つでも疑いを持たれたらもう終わりだ。でも、掴んだら掴んだでどうなる? 何か取り返しのつかないレールに載せられつつないか、僕達。
 包丁男子は言う。
 爽やかに。
「声が聞こえるだろ、みんな待ってる。さっさとこいつら引っ立てて、罪人を横一列に並べよう。バラバラにやるより効果的だ」
「こ、効果?」
「そうだよ。平和を守るため。ルールを破ったらこうなるって、一度できちんとみんなに教えないと。何度も何度も同じ事をしたら、無駄な命を散らす羽目になる。不発で終わっちゃ可哀想だろ、罪人も」
 ……今さらだけど、地に足はついているのか?
 平和を守るとか、無駄な命とか。丸っきり、言葉の中に形として残るリアル感ってものがない。ネットゲームでクエストを進めているんじゃないんだぞ。
 何で平和を守らなくちゃいけないんだ?
 無駄な命を散らすって、そいつは手を汚してまで絶対やらなきゃいけない事なのか?
 災害が終わったら普通に警察もマスコミもやってくるんだぞ。カメラの前で同じ事が言えるのか。マジメに自分ルールを語ったって笑い者になるだけだって、もうそんなレベルの想像もできなくなってるのかよ……。
 流れに乗ったら行き着く先は人殺し。
 だけど脱線したら、寄ってたかっての殺される側に転落だ。
「(ど、どうするんですか先輩?)」
 こちらにひっついたまま、青い顔した後輩ちゃんが耳打ちしてきた。作戦会議のためのモーションだった、とまで余裕はないか。今だって、制服越しに細かい震えは感じられる。
 だけど、瞳がキラキラした正義の使いの真ん前でいちいち声に出して言葉のやり取りを繰り返すのもおっかない。スマホの画面だけチラ見せしておく。
 メッセージのログはこうだ。
『マクスウェル、登録情報をチェック。連中の中に特別なアークエネミーはいるか?』
『ノー。とはいえ先ほどもドライアドとシービショップの取り違えを検知できなかったので、システム自身の信頼性は低下しておりますが』
『機械のくせに卑下するなよ。生身の人間で数は三、武器あり。飛び道具なし。とはいえ刃物もあるし、井東さん頼みにはしたくない』
『なら沖合ユウコと神野セリナを味方につければ四対三で、しかもこちらはほぼアークエネミーのみです』
『そんな簡単に進むのかな。さっきまで殴り合ってたのに』
『立場とは流動的なものですよ。掌返しは暴徒達が証明しています。自分の命という共通の利害がある間なら、向こうも手を貸さざるを得ないはず』
 井東さんの表情が動いてしまわないかちょっと怖かったけど、方針くらいは打ち合わせておかないとまずい。何しろ自分以外の命までかかってる。
 沖合ユウコに神野セリナ。
 二人ともダウンしているけど、どこか折れている訳でもなければ首やお腹を殴られて奇麗に気絶している話でもない。
 そもそも力が抜けているのは何故か。
 二人はどうして調理実習室へやってきた?
 ガタイの良い男子生徒がさらに促してくる。
「早く行くぞ。みんな待ってる」
「ああ」
 言って。
 ゆっくりと息を吐いて、僕は差し出された包丁のグリップを握り込んで。
 足元にあった大きな袋を、力任せに蹴飛ばした。

「ほらよ! お待ちかねの塩だ!!」

 何はともあれ、まずは廊下。
 神野セリナはガス爆発で全身を叩かれたけど、ドライアドの沖合ユウコは真水のせいで力が抜けていただけだ。水浸しの廊下に塩を放り込むだけで本来の実力を取り戻す。
 ゴッガッッッ!! という爆発じみた轟音が炸裂した。
 倒れていた少女の全身からチョコレート色の竜巻みたいに噴き出したのは枝か、根か。
「なっ……!?」
 目の前の体育会系が叫ぶけど、ヤツが差し出していた包丁は僕が受け取って……つまり遠ざけている。
 ガタイは良くても、もはや丸腰。
 叫ぶだけで良かった。
「井東さん、任せた!!」
 試験管の液体を喉に通す小さな音と同時だった。
 びゅるん!! という水っぽい唸りと共に透明な鞭が何本も空気を引き裂いた。その表面にびっしりと毒針を植え付けた、クラゲの触腕。ビンタの一発でももらえばひとたまりもないだろう。床に転がった男子は背中を弓なりに逸らした不自然な姿勢のまま小刻みに震えていた。
 万力みたいな音がした。
 ドア枠を五指が掴み、あれだけ気弱だった沖合ユウコが鬼のような形相で調理実習室を覗き込んでくる。
「セリナちゃん……ッ!!」
「分かった、手放す! 人質に取るつもりはないから穏便に頼む。井東さんも手を出すなよ!!」
 ……しかしあれだけ踏みつけにされてもまだこうか。永遠の友情って言えば聞こえは良いけど、どこか歪みのようなものを感じなくもない。
 そして今はそれよりも、だ。
 キラキラ目のさわやか処刑役を倒したんだ。あんなのでも、ここでは正義。この状況で『流れ』に逆らったって事は、
「……これで『学校』を敵に回したぞ、今度の今度こそ」
 まずは前提の確認だ。
 イライラしても仕方がない。
「校庭に人が集められてる。生徒会の地味会計に、視聴覚室でダウンしたアークエネミーが三人。横一列に並べての公開処刑なんかさせる訳にはいかない、あいつらを何とかして逃がさないと……」
 対して、沖合ユウコは即答だった。
 彼女はぐったりした神野セリナを両手で抱き起こしながら、
「あたしはセリナちゃんと一緒に逃げる」
「ああそうかよ、なら塩の袋は多めに持っていけ」
「……、」
 かえって、探るような沈黙があった。
 まさか引き止めてほしかった訳じゃあるまいに。
「……敵か味方か分からないヤツらになんかいつまでも背中を預けられるか。だったらいない方がマシだ、さっさと行方を晦ませば良い。ただし、勝手に逃げて勝手に捕まった場合はもう助けないぞ。僕達だって全身タイツのヒーローじゃないんだ、いつでも間に合う訳じゃない」
「先輩っ」
 井東さんが呼びかけてきた。
 単に僕を沖合や神野から引き離したいって訳でもないようだ。小さな後輩はガラスの割れた窓の方に寄っている。
「あれ、あの人。先輩の知り合いじゃないですか!?」
「っ?」
 今目を逸らすのは怖いけど、でもどうしても気になる一言だ。改めて窓から外を見てみれば、校庭には優に一〇〇人以上集まっている。あれだけいれば群衆の中にクラスメイトがいてもおかしくないけど……。
「違います、真ん中。中央に立っているの……あのメガネの人って」
「委員長……っ!?」
 横一列に並べて正座させられている『罪人』とは別に、だ。
 振り下ろせば頭の一つでも割れそうな雪かき用のスコップを渡されたまま、目を白黒させているデコメガネの幼馴染みがいた。望まず壇上に立たされ、降りる方法を失って右往左往するように。
 その目尻には涙のようなものが見て取れた。
 このままじゃ。
 このままじゃ委員長が処刑人として手を汚す羽目になるっていうのか、ちくしょう!! しかも拒んだら拒んだで四方八方から怒りの手が伸びてくる格好だ、今のままじゃ逃げ場がない!!
 ……携帯電話の着信音が響いたのはその時だった。
 僕のスマホじゃない。
 井東さんも首を横に振っている。
 そして気を失った親友を抱き寄せたドライアドが、鞭みたいにしなる木の根を使って何かをこっちに弾いてきた。
 片手で受け取ると、倒れた男子生徒の懐にあった高性能のガラケーみたいだ。
 通話だけど、画面に表示された登録名を見るだけで軽く呻いた。
 ヒントはあったはずだ。

 ……生徒会会計の校内放送しか知らないはずの群衆は、どうやってその奥にいたアークエネミー五人の情報を掴んだのか。

 ……先に逃がしたはずの委員長がどうして矢面に立たされているのか。もっと言えば、彼女は誰と一緒に逃げた?

 出るか、無視するか。
 悩んだけど、これが定時連絡ならどっちみち異変そのものは知られてしまう。それなら少しでも情報が欲しい。
 ゆっくりと深呼吸してから、通話のボタンを押した。

「……海風スピーチア」
『あら勇ましい、持ち主の声真似とかで誤魔化そうとは思わなかったんですのね』

 そう。
 彼女ならできる。
 消火ホースを抱えて生徒会会計から話を聞いていた時、海風は経過の報告を耳にしていた。地味会計の裏にクラスの人気者軍団がいる事も掴んでいたはず。
 それに委員長と一緒に立ち去ったのも見逃せない。裏を返せば、不意打ちして人質にだって取れてしまう。
 理由?
 知るかよ、とにかく物理的にできるのはこいつ一人しかいない。敢えて無理矢理ひねり出すなら、残りは透明人間か盗聴器で盗み聞きされてた可能性かな。どっちに賭ける?
「……それにしたって、よくもまあ女王の座に収まったもんだ。華があるって言っても、ほとんどよそ者の転入生だろ」
『インサイダーと同じですわよ。あらかじめ先の展開が分かっていれば、自分の利になる振る舞いもできます。これはコントロールされた混乱で、放送の裏に別の黒幕がいると大衆に訴えるとかね。当初は白い目で見られましたが、実際その通りだったと分かればご覧の通り。信頼という名の儲けがゴロゴロ転がり込んできてくれましたわ』
 災害下では個人個人の警戒心は自然と高まるものだ。でも同時に集団でまとまって安心したいって心も強くなる。
 一回、何かのきっかけで心の殻を破ってしまえば。
 警戒心の奥にある、依存の心まで一気に貫いてしまう。
 転入生。
 ある日突然現れた、ミステリアスで清廉潔白な群衆のリーダー。
「……今やアンタはジャンヌダルクか?」
『分からなかったでしょう?』
 言葉が、飛んだ。
 どうやっても主導権をキープしたいからか。
 本来なら出さなくても良いはずのカードを表にさらしてまで、海風スピーチアは自分の饒舌さをキープする。
『アークエネミー・スキュラ。ギリシャ神話で勇者達の船を襲って実に六人を殺した不死者。ですけれど、怪力や歌声など、具体的に何をもってそれほどの犠牲を生み出したのか。分からなかったはずですわ。だって、スキュラには何もなかったんですもの』
「……、」
『カリュブディス。同じ海にはもう一つ、別の不死者がいたのです。大量の海水を飲んでは吐き出し、一日に三回海を荒らして船を翻弄する巨躯の怪物。スキュラはその隙に乗じて、嵐の船へ乗り込んだに過ぎません』
 巨大な怪物。
 その混乱を利用するアークエネミー。
「……アンタは、今にも沈みそうな船の上で死の恐怖に怯える人達が生み出す、パニックそのものを味方につける不死者だったっていうのか?」
『じぇい、びい』
 ゆっくりと、区切るような言葉に心臓が跳ねる。頬を寄せるようにして音漏れを拾っている井東さんはかえってキョトンとしたかもしれない。
 だけど、その響きには覚えがある。
 マクスウェルだって最初から警告していた。マイクロプラスチックの雪は高確率で人為的な攻撃で、転入生の言動には不審な点が見受けられるって。
 JB。
 分かっているのは、少なくとも個人じゃない。『前のJB』は警視庁の留置場で不自然に殺された上、その一部始終を動画サイトに上げられていた。
 生粋の軍用シミュレータ・フライシュッツ。
 ブードゥーのボコール達が材料を用意した、ガラクタの寄せ集めとは違う。今度の今度こそ本気の演算機器。連中にとっては、末端の人間よりも中心の機材の方が大切みたいだけど。
 その名を出すか。
 マクスウェルの『最悪の可能性』じゃない。アンタ自身の口から……!!
『JBの海風スピーチアですわ。私はあなたに用がある、そのためのお膳立ても済ませました。……それはそれは大事な方なのでしょう? あなたが処刑を行わないなら、彼女に任せます。なあなあで時間の経過に任せれば、まず怒り狂った全校生徒の皆さんがカワイイ委員長の手足を掴んで八つ裂きにするでしょう。いちいち私が個別に命令を飛ばすまでもありません、自然とそうなりますわ。すでに、そういう風にこの小さな世界は書き換えましたから』
 ……こいつ。
 こいつ!!
『たった一人で雄叫びを上げて勇ましく助けに来るなら、それでも構いませんわよ。「勇者」は私の大好物ですし。ただし開けた校庭に死角なし、流石にあなたも倫理が壊れて血に飢えた男女一〇〇人以上を同時に相手取るのは難しいのではなくて? アークエネミーですら、人間の数の暴力には脅えるものですしね』
「……さてどうかな」
『あらあら可愛らしい、必死のブラフは不発に終わりましたわね。お得意のスマホで何がどこまでできますか? 開けた校庭に原始的な暴力の塊。アナログを極めれば、デジタルの付け入る隙はなくなる。そういうものでしょう?』
 そこまでだった。
 一方的に通話は切られた。
「JB……」
『シュア。始めから警告してきました』
「けど、海風のSNSは? 全部が全部偽装だったら前の学校の友達はどうなるんだ」
『前の学校でもその前の学校でもボロを出さなかったか、あるいは登録者全員がJBの後方支援という可能性は? 見かけの登録は必ずしも信憑性を担保してくれるとは限りませんよ』
「……、」
 海風からは、具体的なリミットの指示すらない。今すぐ行動しなければ罪人より先に、処刑を拒む委員長が裏切り者としてまな板に載せられる。実際に、そうする。海風の口振りには余裕すら見て取れた。
「あの野郎、自分の軽口を後悔させてやる……!!」
「ダメです先輩、闇雲に突っ込んでも解決しません!!」
 そんな事を言っている訳じゃない。
 今は警察も動かない。ここで破れかぶれになったらその時こそ、誰一人委員長を助ける人がいなくなる。それくらい分かっているさ、ちくしょう!
「マクスウェル、工作系のサイトから情報を拾ってくれ」
『ノー、お手製武器なら拒否します。現実的ではありません』
 どうやったらそんな馬鹿げた懸念が出てくるんだ。どいつもこいつも無双に憧れてんのか!?
 確かに校庭で群がってる生徒達……パニックから生み出された巨大な怪物『カリュブディス』を取り除かないといけないのは事実だ。それも今すぐに。だけどその方法は、殴り合い以外であっても構わないはず。
「欲しいのは気球か飛行船の作り方だ。時間がないから楽な方で頼む。たっぷり空気を溜め込んだマイクロプラスチックの雪に引火性があるのを考えると、できるだけ火を使わない方式が望ましい」
『大空に逃げるつもりですか? 人を乗せるとなるとかなり大掛かりになりますよ』
「だから逃げてどうすんだ、目的は委員長を助ける事! 本体が浮かべばそれで良いんだ」
『積載重量や航続時間にもよりますが、単純なバルーンで良ければゴミ袋とダクトテープ、後は不燃性ガスを使ったスプレー缶があれば何とかなりそうですね』
「ひとまず簡単に落ちなければ何でも良い。ヤツらの欲を刺激しよう」
 逃げると言った沖合ユウコとは目が合ったけど、放っておく。どっちみち、変なカリスマさえなければこいつらに大それた事はできない。失墜してしまえばそれまでなんだから。
 怪物。
 災害環境を丸呑みするカリュブディスは、今やスキュラの手の中だ。
「……時間がない。手伝ってくれ、井東さん」
「はっ、はい!」

   2

 ゴミ袋にダクトテープ。
 あたりをつけるための油性ペン。
 カッターナイフよりはハサミが良いかな。後は職員室の方から色々借りてきたけど、
「マクスウェル、燃えないガスってどれだ?」
『成分についてはスプレー缶の後ろを撮影してください』
「……メーカーの言う事なんかそこまで素直に信じる? 回転寿司のお魚だって結構深海魚だったりするみたいだけど」
『廃棄の際の注意書きは、可燃性か否かで文章が違います。念のため、こちらで商品名を参考にネットでも検索してダブルチェックしますが』
 隣を歩いている井東さんが、僕のスマホが気になるようだけど勝手に覗くのは、って感じでそわそわしてた。可愛い。別に見られて困る訳でもないので後輩ちゃんにも読めるように画面を傾けた。
 つまり何がしたいかっていうと。
『気球は空気を温めて浮かばせるイメージが強いですが、飛行船の場合は空気より軽い気体を詰めて浮力を確保する方が主流です』
 僕に対してというより、井東さんに向けての説明って感じだった。何でもユーザー権限の持ち主にこだわるマクスウェルにしては珍しい。
『つまり、空気より軽いガスを逃がさず溜め込む袋さえあれば問題なし。飛行機やヘリコプターと比べれば、原理だけならシンプルなものです』
「だけならな。燃えるガスでやると静電気で爆発するかもしれないから要注意だけど」
 道具についてはさっきも言った通り、職員室まで行けば簡単に揃えられた。制汗スプレーを使うのは女子高生だけじゃない。
「よし。いったん屋上に向かおう」
「あの、先輩? 飛行船を作るのは分かりましたけど、それでどうやって委員長さんを助けるんですか」
「確かに今のスキュラは最強だ。学校っていう泥舟の上で、一個の巨大な怪物を飼い慣らしている間なら」
 ゾンビのアユミは人間の一〇倍、吸血鬼のエリカ姉さんは二〇倍の筋力を持つらしい。でも逆に言えば、一〇〇人以上が一度に押し寄せてきたら単体での力業が通じなくなるって意味でもある。何より、高い伝染力を持つアークエネミーだからって無闇に噛みついて仲間を増やしたい訳じゃない。そういう意味では恐怖やパニックで多くの人を暴れさせながら膨らんでいくカリュブディスは、最もかち合いたくない敵のはずだ。
 だけど、
「海風が作った怪物は虚構に支えられているんだ」
「?」
「泥舟にしがみついて自分の居場所を確保しないと溺れるっていう幻想さ。そいつが恐怖の源になってる。だったら夢から覚ましてやれば良い、船から降りても大丈夫なんだってね」
 飛行船は結構な大きさにしないと効果が出ない。わざわざ膨らませてから窓やドアからぎゅうぎゅう押し出すのも効率が悪い。なので屋上で作業する事にした。
 ドアが内側に開くのは幸いだった。屋上は平たいから雪も積もりやすい。数センチ程度でも、外に開く扉だったら押し留めてしまうはずだ。
「とっとと始めよう。油性ペンで袋に線を引くから、井東さん、その通りに切ってもらえる? そうしたら丸なら丸、三角なら三角で、記号同士を繋げてダクトテープで留めてもらえると助かる」
『できるだけ隙間のないようにお願いします』
 こうしている今も委員長は大勢の前に立たされて神経をすり減らしている。心の傷がいつまで残るかは未知数だ、一秒でも早く解放してあげたい。
 一つ五〇リットルの大きなビニール袋をハサミで切り裂いて、展開図みたいな一枚の面にする。それを作例通りに複数繋げてダクトテープで固定していき、全体で一つの大きな袋を作っていく訳だ。
 実際には、ワゴン車がすっぽり収まるくらいの、ラグビーボールみたいな塊になった。
 口の部分をすぼめてスプレー缶を突っ込み、指で押す。
 大きな音と共に、少しずつだけど膨らんでいった。パンパンになると、
「わあ、何もしてないのに屋上を離れていますよ先輩。もう浮いてますけど!」
 とはいえこの飛行船、別に何を積み込むでもない。人を乗せるにしてはバランスが悪いし、爆撃用にレンガや小石をしこたま積んだって狙った場所へ正確に落とす技術がない。ただ浮かばせるのと、前後左右上下に操縦するのじゃ難易度が違いすぎる。
 そしてそれでも構わなかった。
 何も積んでいない飛行船を飛ばし、風に流してしまうだけでも。
 ひとまず浮力を得たビニール袋からスプレー缶を引っこ抜いて、袋の口を縛る。一つきりじゃ心許ないから、追加で二つ三つ用意しておいた。その間、先に完成しちゃった飛行船はダクトテープで屋上に固定しておいた。犬のリードや風船の紐みたいな感じでだ。縁の手すりにしちゃうと準備段階で地上から見えそうなので注意だ。
「よいしょ。こんな感じですか、先輩?」
「上出来」
 井東さんはどこか嬉しそうだった。助手としてパーフェクトすぎる。
 やり方さえ分かれば二回目からは早くなる。人生の役に立つかは知らないけど、何かに没頭できるっていうのはやっぱり楽しいものなんだ。
「マクスウェル、まだネットは繋がっているはずだよな。匿名のアカウントをいくつか作って学校系のSNSにアタック。波状攻撃で次の文章をバズらせろ」
『具体的なメッセージをどうぞ』
 もちろん決まっている。
 アークエネミー・スキュラ。JB所属の海風スピーチア。アンタが情報を武器にして巨大な怪物・カリュブディスを作ったんなら、同じ情報攻撃で脇腹を刺されても卑怯だなんて言わせないぞ。

「安全な外に逃げる方法が分かった。電車や道路がダメでも、空中コースなら街の外まで出られるはずだ」

 メッセージ送信と同時に、飛行船を固定していたダクトテープをハサミで切り、ビニールの塊を大空に飛ばす。
 実際に、風で流しただけでの飛行船で何ができるでもない。というかこんなものに人間なんか乗せられない。
 だけど『実際』なんか誰も見ていないんだ。
『注目度増大中。飛行船を撮影した写真画像も次々アップされています』
「先に乗った人っぽい喜びの声を追加で投稿。後はもちろん、数に限りがあるから早い者勝ちっていうのもだ」
『シュア。深夜の通販番組方式ですね』
 屋上からスマホのレンズだけ出して、こちらを見上げる連中の顔も撮影しておいた。単純過ぎるけど、空撮っぽいアングルから自分達の顔を撮られてアップされたら、こう思うはずだ。
 上と下。
 地べたにいる自分達は、可哀想な負け組枠として見下ろされる存在なんだって。
 結果。

 地響きみたいな音があった。
 それは白い校庭から校舎に向けて駆け出す、無数の足音の集合体だ。

「先輩、あのこれ……っ!?」
「学校って泥舟にしがみつかないと生き残れない。そこに大空から救助のヘリコプターが降りてきたら? 支配者だった船長が何を喚き散らしたって乗客乗員はもう命令なんか聞かない。我先にヘリポートへ殺到するに決まってるだろ」
 今も海風はみんなを引き止めようとしているかもしれない。リアルの肉声で、あるいはネットのメッセージで。だけどもう遅い。統率を失った時点で、アンタのお気に入り、カリュブディスは瓦解した。
 ストックしていた飛行船を全部放すと僕は手早く道具をまとめて、
「いつまでも屋上にいたら群衆の手で揉みくちゃにされる。井東さん、僕達も下に下りよう。連中とかち合わない形がベストだ」
「はっ、はい!」
 幸い、校舎の階段は一つじゃない。頭に血が上っているって言っても生徒達はバーゲンセールみたいに最短コースを選ぶはず。敢えて遠回りになる階段を選んで地上を目指せば暴徒とはぶつからない。
 どんどんどんどたどた!! という音と振動の塊みたいなものが校舎の反対側から響いていた。
 小柄な井東さんがびくりと震える。
 あっちの階段に巻き込まれたら、土砂崩れどころの騒ぎじゃなかったと思う。
 でもこれで、
「……校庭にいる委員長や罪人達は野放しだぞ。怒り狂った人の山で作ったお堀も城壁もないんだ、もうスキュラの良いようにはさせない」
 ひとまず一階まで下りて、昇降口で革靴だけ拾っておく。けどこれ、ひょっとしたら上履きのまま外を歩き回った方が楽かもな。
 海風は開けた校庭にいるので、真正面の昇降口から出ていくのは危険過ぎる。向こうも牙城を壊されて焦っているはず。スネに傷を持つヤツは大抵最後には似たような行動に出るもんだ。
 つまり、
「せ、先輩。あれまずくないですか?」
「……、」
「海風さん、残った人を盾にしていますよ! あれじゃ人質です!!」
 分かってる。
 委員長に雪かきスコップを渡して罪人を殺せと迫っていたんだ。無理矢理命じていたクソ野郎が無手なんて展開はほぼない。それじゃ自分が鈍器で殴られるリスクがあるし。
 群衆を失ったスキュラにできるのは正直に言ってそれくらいだと思う。でもってこっちも悠長に付き合っていられない。どうせ海風のわがままに合わせたって委員長は絶対返してくれないし、屋上に殺到していった生徒達はじきに担がれたって気づくはず。あいつらが下りてくる前にケリをつけなくちゃならないんだ。
 いつまでも昇降口にいるのはまずい。
 見つかったらより一層面倒になる。
 いったん廊下に戻り、近くにあった保健室へこっそり入って、腰を低くしたまま改めて窓際へ寄っていく。
 潜望鏡みたいなイメージで外を覗いていくとだ。
「……罪人の連中は後ろ手で縛られているみたいだけど、委員長は腕を掴まれているだけだな。海風の武器は果物ナイフ。アークエネミーとしての腕力がどれくらいかは未知数だけど、少なくともマシンガンを持っている訳じゃない」
 そんな馬鹿げた可能性まで並べる必要はあるのか。
 と思うかもしれないけど、相手がJBなら話は別だ。何しろ東京を水没させた時は大空を埋め尽くすような巨大飛行物体を用意した連中なんだし。
「けっ、けど……」
 僕と一緒にうずくまる井東さんはおどおどした感じで、
「海風さんをやっつけるだけなら、私でも何とかなると思います。そもそもスキュラってアークエネミーを作ったのはキルケの薬みたいですから。……でも、委員長さんを確実に助けられるかは、話が全く違います。向こうが全力で警戒している以上、かえってこっそり近づくのは難しくなったんじゃあ?」
「とも言い切れない」
 即答に、後輩ちゃんは目を白黒させていた。
「マクスウェル、海風が持っているのは果物ナイフだ。セントエルモの火でいけると思うか?」
『シュア。風速二メートル、視程五キロ。この密度なら問題なく。確実性や即死性には欠けますが、少なくとも今から技術室に向かって釘打ち機を改造した狙撃ユニットを組み始めるよりは現実的なのではと判断します』
「金属製品はあれだけじゃない。例えば委員長のメガネのフレームとか、スカートのファスナーとか。そっちに飛び火する可能性は?」
『ゼロとは言えませんが極めて低。というよりセントエルモの火は必ずしも金属製品である事を条件とはしません。元来、木と布で作った帆船のマストで確認された現象です』
「委員長はスコップ持たされてるけど」
『それ以上拘泥するなら計算式全部出力しても構いませんが』
 危険なのは分かってる、下手すると昨日と同じく火事になるかもしれない。
 と、ますます困った顔になった井東さんが質問してきた。
「あの、先輩? せんとえるもって? 難しそうなお名前ですけど、他に誰かアークエネミーのお知り合いでもいらっしゃるんですか」
「あれはそういうものじゃないよ」
 言いながらも、頭の中で必要な条件をまとめていく。
 やっぱりインフラが整っているっていうのは素晴らしいけど、家庭用レベルそのままっていうんじゃ心細い。強力に増幅するとなると、電気ストーブなんかが良いかもしれない。派手さは抑えたいからコロナではなくグローで、ゆっくり流し込んでいくためにはアースっぽいイメージが手っ取り早いかな……。
「マイクロプラスチックの雪は、言ってみれば下敷きみたいなものなんだ。激しく擦ると静電気を溜め込む。昨日はそれで火事になったしね」
「はあ」
 季節に関係なく表に出しているのか、日焼けで変色した電気ストーブのケーブルをいじくっている僕に、後輩ちゃんは不思議そうな顔で小首を傾げていた。
「でも逆に言えば、こいつは条件さえ整えればこちらから流した電気もストックしてくれる。コンデンサや、雷雲みたいにね」
 地べたは流石に難しい。
 大地は電気を吸収してしまうからな。
 でもやんわりとした風に舞って、空気中にだって目に見えないくらい細かいマイクロプラスチックが踊っている。
 僕としては、窓を開ける必要すらなかった。外に面したアルミのサッシにケーブルの端をくっつけて電気を流す。
 時間の計算はできない。
 でも、さほどかからないと踏んでいた。
「セントエルモの火っていうのは、鬼火や人魂のお仲間だよ。大昔はオカルトだって信じられてきたけど、実際には単なる科学現象だったんだ」
「かがく……」
「そしてスキュラ、海風スピーチアは先の尖った果物ナイフを握っている。こうしている今も」
 やっぱり可愛い後輩がいると舌が回る。
 社会性や対人関係がズタボロの変人博士でも子犬系の助手を持ちたがるのは、ひょっとしたらこういう所にあるのかもしれない。
「その正体は、先端放電」
 船のマストの先が避雷針みたいな役割をした結果、霧や空気の中で帯電していた電気が集まって光を放っていただけだったんだ。
 つまり。
「誘電にも使われているロジックさ」

 ずばぢぃ!! という爆音が炸裂する。
 周囲の空間から飛び出した雷光が、分かりやすい果物ナイフの切っ先へ飛びついたんだ。

 表面張力ギリギリまで水を注いだコップへ、さらに一滴の水を垂らしたようなもの。
 空気。
 マイクロプラスチックの雪。
 それらが天然(?)のコンデンサとしてエネルギーを溜め込んでおける間はしれっとしていたけど、限界の一線を超えた途端に電気は一気に牙を剥き、そして身近で一番誘導されやすい場所へと自然と集まっていった。
「ぢぃい!!」
 避雷針。
 スキュラの持つ果物ナイフの切っ先に。
 金髪の少女は金属の刃物を手放さなかった。いいや、感電していて指を動かせなかったのかも。
 わずかでも仰け反ってくれれば構わない。
 今すぐ近くにいる委員長が刺される。そんな事態にさえならなければ。
「マクスウェル!!」
『警告、電気ストーブの回路を使って増幅したとしても八〇〇ボルト程度ですよ。即死状況ではありません、抵抗に注意を』
 一〇〇万ボルトとか書かれたスタンガンがネット通販で普通に買える時代じゃしょぼく見える数字かもしれないけど、それでも水中で人を殺すデンキウナギよりは高出力だ。こんな事を言ったら姉さんやアユミはむくれそうだけど、相手が頑丈なアークエネミーじゃなければ怖くてできなかった。
 保健室の窓を開けて校庭へ転がり出る。
 委員長やスキュラまでの距離は数十メートル。外に出た途端、頬にピリッとした痛みが走ったけど、これは流石に錯覚だろう。感電していたら僕はぶっ倒れて手足をケイレンさせていたはずだ。
 元々インドア系で運動は得意じゃない。それにこの、マイクロプラスチックの雪。砂浜を走るのと同じように、余計に足を引っ張ってくれる。
 海風は必ず持ち直す。
 それまでに駆けつけて、果物ナイフを取り上げられるか。
 事は委員長の命に関わる。
 ここにきてギャンブルなんかに任せられない。
 だから、
「伏せろ委員長ッ!!」
 そう叫んだのは、その場で突っ立ったままのスキュラの腕の振りから委員長を逃がすための忠告でもあったけど、それ以上にヤツの注意をこっちに引き込むためだった。
 そして僕の言葉通りにマイクロプラスチックの雪が舞い上がった。
 一秒以内。
 腕の一振りで掴んで人質を盾にする位置取りでないなら。
 何をするか分からない、それこそ飛び道具を持っているかもしれない僕を真っ先に殺さないと安全を確保できない、と。
 手の中でくるりと果物ナイフを回した海風は、
「シッ!!」
 鋭い吐息と共に、そいつをボウガンみたいな勢いでこっちへ投げ放ってきた。
 正直。
 街はまともに病院が動いているかも分からない状態だったけど。それでもここで、顔の前で交差した腕に刃物がざっくり刺さったって構わないと思った。
 僕を信じて指示通りに倒れてくれた委員長の肌から、確実に刃物を遠ざけられるなら。
「先輩」
 実際にはそうはならなかった。
 横から透明な鞭みたいなものが伸びて、危なげなく果物ナイフを掴み取ったからだ。
 クラゲの触腕。
 直線軌道どころか、本来なら変幻自在に海を泳ぐ魚さえ捕らえる得物。
 隣を走る後輩ちゃんは頬を膨らませてこう言った。
「格好良すぎです。そろそろ本気で怒りますよ?」

 ドンッッッ!!!!!! と。

 白い爆発が足元で巻き起こり、僕はその余波だけでひっくり返ったと思う。
 井東ヘレンが地面を蹴って雪の上を駆け抜け、海風の懐へ突っ込んだ。
「あなた……ッ!?」
「初めまして同族。同じアークエネミーだからこそ、私はあなたになんか手は抜きません。数の弱者、マイノリティの特権なんかクソ喰らえです」
 たったそれだけの話だったけど、状況を把握するまで結構かかったと思う。
 あれで。
 今ので、余波なのかよ……?
「非力な人間相手なら、素手でも圧倒できると思いましたか? だから果物ナイフは牽制で投げてしまっても構わないと」
 さらに爆音がいくつか。
 華奢な金髪少女同士の殴り合いが始まった。
 アークエネミー・スキュラ。
 腰から六つの巨大な犬の頭を生やした海の捕食者。その威力は人間の勇者を一度に六人確実に殺すほど。
 一体どんな怪物かと思ったら、いきなり下半身が爆ぜた。ブレザーやブラウスのお腹をめくり上げて現れたのは本人の頭よりずっと大きな獣の頭が六つ。それぞれの顎から下へ、長い髭のように細長い獣の脚が伸びていく。総数一〇本以上。ガツガツと足元の雪を蹴る動きは明らかに生きているものの仕草だけど、人間のそれとは大きく違う。
 変化はそこに留まらない。
 さらにスカートの下にあった両足は、いつの間にか奇麗に一つの尾びれに変わっている。海自体は人魚の尾びれで自在に泳ぎ、船に上がった後は無数の脚で迅速に船内を移動して、巨大な顎で獲物を捕食する。なんて事はない、海に犬なんておかしいと思っていたけど水陸両用の力を得るためだったんだ。
 しかし……。
 まず、最初の一撃がどこからどう来るか予測がつかない。
 人間相手だったらとりあえず両手か相手の目線にでも注目すれば良いんだろうけど、スキュラだとどこから始めて身構えるべきかで迷子になってしまう。
 あの馬より強靭そうな無数の脚で隙間なく全身を蹴りつけられるのか、あるいは巨大な尾びれで顔を叩かれて首ごと持っていかれるのか。もちろん一番怖いのは一度に勇者様御一行をまとめて噛み千切る犬の大顎だ。だけどいきなり大技が来るのか、細かい連携で獲物の動きを確実に止めてから捕食に入るのか、それさえはっきりしないんだ。
 なのに、
「……、」
 井東ヘレン、止まらずの一歩。
 彼女が走る勢いそのまま、躊躇なくスキュラの懐へ切り込んだ事で、いきなり場が荒れた。
「こいつッ!!」
 当然、威嚇を無視されたスキュラは即座に動く。
 無数に飛び出た脚はあくまでも地上を移動するためのものみたいだ。人魚のような尾びれで足元の雪を蹴って目潰しを放ちつつ、井東さんが怯むのを待たず巨大な獣の顎をけしかける。
 が、
「そんなものですか、スキュラ」
 井東さんは気にしない。
 まず小さな体を振って避けるだけ避ける。
 それでも獣の大顎や魚の尾びれに間に合わない時はクラゲの触腕やサソリの尾、蛇の牙なんかで防ぐ。
 だけどその都度苦悶の吐息を漏らすのは、むしろ苛烈な攻撃を繰り返しているはずの海風だ。
 だって井東さんが防御に使っているのは全部毒針なんだから。
「それなら、もっと大きな力で封殺されても文句はありませんよね。格闘技を習った人の拳は凶器として扱われる。アークエネミーの身体能力だって似たようなものですから」
 数を頼みにする人間の群れを前にした、おどおど小動物系とは大違い。
 どれだけ相手が強大でも、個人であれば立ち向かえる。そう言わんばかりに。
 理屈は通っているようだけど、なんかおかしい。
 ライオンは単体だから生身で立ち向かっても大丈夫、って言ってるようなものじゃないか。
「……何だよあの後輩、ラーテルじゃねえんだぞ」
 けど、そうか。
 悪意の塊みたいな群衆・カリュブディスはいない。人質の心配もしなくて良い。
 一対一。
 こうなるとキルケの魔女の独壇場だ。
 スキュラは凶暴なアークエネミーだけど、そもそもキルケの魔女が調合した薬でそんな姿にされたって説がある。のちにその力で復讐されたなんて話も聞かない。つまり、軽くあしらえる程度の力関係なんじゃないのか?
 ……あのイカれたバニーガールが進行を務めた『コロシアム』じゃあ、並み居るアークエネミー達を薙ぎ倒し、最後には妹のアユミとエリカ姉さんを一対二で相手取って、それでも新しいクイーンの座に就いていたっけ。
「がららくっ、ば!」
 スキュラが何を叫んでいるのかは聞き取れなかった。もはや海風はろれつが回っていない。向こうにとっては、飛び道具がなかったのも致命的だ。自分が攻撃するたび逆に数種類の毒針に刺され続け、体内で動物毒や植物毒が回り始めているんだろう。
 一瞬。
 単純に殴られたのとはまた違う、奇妙に腫れたまぶたを動かして、スキュラはこっちに視線を振ったけど……。
「よそ見」
 ビィウン!! と。
 人の腕より太いクラゲの触腕がまともにその顔面を捉えた。横殴り。白い雪を舞い上げる格好で、海風は後ろへ派手に転がっていく。
 が、そこで怪訝な顔をしたのは井東さんの方だった。
「しまった、今のはわざと後ろに跳んだみたいです……」
 言葉一つ取っても、現実のケンカって感じがしなかった。
 改めて見てみれば、海風は学校の敷地を囲む金属フェンスを突き破っていた。ふらつきながらも、雪に覆われた路上で起き上がったスキュラはそれ以上拘泥せずに逃げ出していく。
 見た目以上に凶悪な切り札を腰や背中に引っ込めながら、井東ヘレンはどこかドライな感じで呟いていた。
「とはいえ打撃はおまけです。接触自体はしましたから、今のでさらに二〇〇本以上の毒針が刺さったはず。先輩、もう大丈夫ですよ。後は時間が経てば勝手に倒れるでしょう」
「……、」
「あの、先輩?」
 黙っていると、急に井東ヘレンからおどおどな部分が出てきた。
 今のでやり過ぎて怖がられるとでも思ったのかな。
 だけど僕の印象は逆だった。
 アークエネミー・キルケの魔女。あれだけ色々応用できる割には、やっている事はまだまだ可愛げがあり過ぎる。やっぱり非道にはなりきれなかったか。
「確認するけど。井東さんが使っていたのは即効性の毒じゃないんだな? いつまで保つかは分からないけど、海風はまだ少しだけ動けると」
「は、はい。アークエネミーとしての系統が似ているからか毒が効きにくいのもありましたし、何より神経に作用する麻痺毒と言っても量が多過ぎると死なせてしまうリスクもありましたから。ただ、早い遅いの違いであって、いずれどこかで限界はきます。もう『倒した』のは確定なんです」
 やっぱり、それだとダメだ。
 まだ足りない。
 ここは四角いフィールドで囲まれた『コロシアム』じゃないんだから。相手に時間なんて便利なものを与えちゃならないんだ。
「……井東さん、ケータイは使える? さっきの殴り合いで壊れていない?」
「えと、はい。それが何か?」
「ご両親や兄弟、とにかく家族は今何している? 家にいるのか、街のどこかで働いているのか、あるいは供饗市の外にいて安全なのか。とにかく全員の安否を確認! 今すぐだ!!」
 委員長にも大きく手を振って指示出しする。
 僕の場合は両親は街の外で、海風側に『電話で指示出しするだけで人を襲わせられる部下』でもいない限りは安全と見て良い。残るはアユミと姉さんだ。ゾンビと吸血鬼。何気にガードの硬いお嬢様学校通いのアユミよりも、特に危ないのは昼の時間帯って事で自宅の棺桶に閉じこもっている姉さんかな。
 一方、目を白黒させる後輩ちゃんは事態についていけないようで、
「あの、ええと、一体何が? これ以上まだ何かあるんですか……?」
「海風スピーチアは追い詰められている。学校っていう城を失って、自力で扇動して膨らませたカリュブディスも瓦解した。単純な殴り合いじゃ井東さんに勝てない。しかも放っておいても全身に毒が回るタイムリミットつき。向こうからすれば絶体絶命で余裕がないんだ。なりふりなんか構わない、気を失う前に逆転しておきたいはず」
「ですから、弱ったスキュラが何をしたって私がゼッタイ先輩を守ってみせますっ」
 ささやかな胸の前で両手を小さく握って鼻から息を吐く井東ヘレンは最高に頼もしいけど、今はそういう話をしているんじゃない。
 そう。
 こっちに来るなら、誰も困らないんだ。
「あいつは一時的でも学校の女王だったんだ。校舎のどんな部屋でも自由に出入りして、あらゆる機材と接触できた」
「それが何か……」
「なら例えば、職員室のコンピュータ、全校生徒の名簿、もっと言えば僕達の住所は?」
「……、」
「校長室でも理事長室でも構わないけど」
 ようやく何を言いたいのか分かってきたんだろう。対アークエネミーの勇ましさじゃない。もっとドロドロした、正しい事を言っても嫌われて強い力を持っても毟り取られる……そんな、どうしようもなく理不尽な人間の悪意を前にした時の、青ざめた顔が待っていた。
 ……井東さんのお兄さんは、確か旧『光十字』関係者だったかな。だけどいつでもフル装備とは限らないし、人間は人間でしかない。ましてご両親は? もしもただの一般人でまだこの街にいるなら、危険度はかなり跳ね上がる。
 そう。
 最後の瞬間、海風は目の前の強敵よりもへたり込んだ僕に視線を投げていた。
 あいつには、そういう素質みたいなものがある。何か困った事が起きたらとりあえずそっちに流れてしまう、クソ野郎の素質が。
「弱った海風が何を使って逆転を狙おうとするかは明白だ。……人質だよ。おそらく僕か井東さんのどっちか、それも学校の友達が使えないならって理由で手っ取り早く家族を狙ってくるはず。だからそうなる前に仕留めないととんでもない事になるぞ!」

   3

 生活サイクルがまた壊れた。
 午後にはなっているけど、まだ放課後じゃない。なのに僕達は学校の敷地を飛び出して街に繰り出していた。
「……、」
 委員長はまだショックでふらふらみたいだったけど、でも、だからこそこんな無抵抗な状態であの学校には置いておきたくなかった。ああそうさ。半分はモラルハザードが怖くて、もう半分は単なる僕のわがままだ。手を繋いで引っ張ってでも行動を共にする。
 普通だったら、物理的にできるできない以前にやってみようとも思わない事なのに。
「マクスウェル」
『シュア。コンタクト継続中』
 とはいえ昼間寝ている姉さんとは繋がりようがない。とにかくスマホでアユミと連絡を取りつつ、一応その辺を捜索してみたけど、やっぱり海風の姿はどこにもなかった。
『マイクロプラスチックの雪は常に降り続けているので足跡も消えてしまいますが、それだけではありませんね。海風スピーチアはスキュラとして追加の脚や尾びれを使っていたはず。重量を分散させて足跡が残らないようにしたり、川やマンホールの中も泳げるかもしれません。平面的な地図アプリを基にまともな逃走経路を想定するだけでは、実際の足取りを追うのは難しいでしょう』
 すでに無音のミサイルは放たれている。
 着弾前に先回りして撃ち落とせるか。そういう話になってきた。
 問題なのは、海風が具体的にどこの誰を狙うかはっきりしないって事だ。
「ど、どうしよう、ああ、どうしたら……」
 学校の敷地を出た井東ヘレンは、さっきまでの勇ましさはどこへやらだった。放っておいたら親指の爪でも噛みそうだ。
 ……けど、こうなると仕方ない。
「井東さん、いったん二手に分かれよう」
「えっ?」
「着弾の候補がいくつもあるなら、一つに固まって確かめているだけじゃ間に合わない。井東さんは確実を取って自分の家族の安全を確保するんだ」
 一見突き放しているようだけど、実はこれで正解。井東さんは単独なら無傷でスキュラに勝てる。僕や委員長はお荷物にしかなっていないし、ましてそこに、彼女にとっては赤の他人の家族や姉妹までのしかかってきたら潰れてしまう。
「ただし海風の方が早くて、すでに家族を人質に取られている場合は必ず連絡を入れる事。裏から助けに行く。あいつになんて脅されても、絶対にケータイは捨てるなよ」
「でっでもそしたら、先輩達の方に海風さんが来たらどうするんですか!? 人間の先輩だけじゃ守りきれないでしょう!」
「ひとまずアユミとは連絡を取ってる。あいつもアークエネミーだ、妹と合流できれば多少は変わるさ。逆にこの配分じゃないとバランスが崩れる」
「……、」
「バラけておけば一度に全滅は避けられるっていうのもあるんだ。こっちに海風が来た時はスマホで知らせるよ、助けてもらえるとありがたい」
「……深追いはダメですよ」
 井東さんは困った顔をしていた。
 だけど彼女だって、自分の家族が心配じゃないなんて事はありえない。
「本当にダメですからね、先輩」
 おそらく彼女の方からは離れない。
 だから僕の方から片手を上げて、そして分かれ道を進んだ。
 委員長はお隣さんだ。
 自然と同じ道を行く事になる中、確かに幼馴染みはこう囁いてきた。
「……ねえサトリ君。きっと気づいているわよ、あの子」
「分かってる」
 海風スピーチアは悪人だ。
 でもチキンで卑怯者だからこそ、実力のランキングには誰よりも敏感なはず。勝てない相手と無理に戦う選択肢なんて絶対に選ばない。
 人間とアークエネミーなら、自分でも勝てる人間側を集中的に狙ってくる。
 しかもウチの家族構成を知っているなら、昼の間は棺桶の中から出られない吸血鬼のエリカ姉さんなんて、これ以上の『素材』は他にない。
 でも、
「正直に言って、巻き込み過ぎた。委員長を助ける前にも何度か戦ってるんだよ、井東さん。崩れた天井の下敷きになってる」
 確実な勝算なんかどこにもなかった。
 むしろ井東さんに助けてもらってばかり。元からコースアウトしているのに、これ以上は寄りかかれない。アークエネミーだから、ってだけで頼りすぎて、もしも致命的な事になったら責任の取りようがないんだ。
「でも、それであの後輩がありがたがるとは限らないんじゃない?」
「……、」
「まあ、そこできちんと悩むサトリ君だから、アークエネミー達も心を開いてくれるかもしれないけどね」
 いつもと同じ帰り道なのに、足取りは重い。一歩ずつ進んでいくごとに、胃袋で錘が増えていくようだった。
 そして。
「ふぐ?」
 家の前までやってくると、聞き慣れた声があった。
 黒髪ツインテールの先を丸めたアユミのヤツが、新聞受けの横にある小さな門の前の道路でぴょこぴょこ跳ねている。
「何よー、急いで帰ってこいなんて言うからダッシュしてきたのに人を待たせるとか……」
 ……?
 アユミの様子からすると、何かトラブルを見つけたって感じじゃなさそうだな。
「海風は? 結局何もなかったって事か???」
「あたしに聞かれても」
 海風スピーチアはアークエネミーだ。
 スキュラは海の怪物で、僕達人間とは行動範囲が違う。まさか確実に取れる人質なんて目もくれず、この交通封鎖の中で街の外を目指したり、海を泳いで供饗市を離れようなんて考えているのか?
「向こうはどうなっているのかしら。ええと」
「井東さんだよ」
 念のため可愛い後輩ちゃんとも連絡を取ってみるけど、
『いえ特に、こちらもトラブルはありません。強いて言うならこんな早くに学校切り上げて帰ってきたから、お母さんがカンカンですけど……』
 まあ、普通のサイクルで考えればそうか。
 僕達の高校じゃ半分命の取り合いになっていたけど、あんなの学校の外にいる人にはきちんと説明したって実感湧かないし。今やSNSはデマだらけで誰もまともに見てないだろうしな。
 と、
『ええと先輩、これからどうしましょう?』
「うん?」
 海風は来なかった。
 でもそれは、今は、という限定条件だ。足取りが掴めない以上はこの先も警戒するしかない。劣勢の海風にとっては人質作戦が一番安易で効果的なんだ。今は平和でも、一分後にどうなっているかは分からない。
 となると、
「とりあえず学校の名簿から検索できる自宅や職場は完全にアウト。海風スピーチアの件が片付くまで、家族共々よそに移るしかないんじゃないかな」
『……えと、どうやってです?』
「部屋を探すしかないけど、ウィークリーマンションかビジネスホテルか。どこも満室なら……治安を考えると車中泊は怖いかな、最悪、漫画喫茶とかスパなんかでも」
『いえそのっ、そうではなくて』
 何とも歯切れの悪い後輩ちゃんだけど、僕も気づいた。
 どこに、じゃない。
 どうやって、と聞いてきた。
『海風さんは上辺は先輩のクラスメイトで、まだ具体的にどこかの家に押し入ったって訳でもありません』
「まぢか……」
 委員長と二人で顔を見合わせてしまう。
 急に現実ってヤツが襲いかかってきた。
 事件が起きるまでは動けない。
 何だかサラリー第一な警官みたいな感じになってきたぞ。
『……こ、これでどうやって親を説得するんです? これだけマイクロプラスチックの雪が降っている中、いきなり家を出て外で泊まろうなんて無謀な事。下手すると話も聞いてもらえずにカミナリが落ちそうなんですけど』

   4

 もしもこれが映画やドラマだったら。
 大きな敵や災害が自宅に迫っていると分かったら、何も知らない家族に着替えの詰まったバッグだけ放り投げて、こう叫べば良い。
 早く車に乗れ、ナウ!
 ……でも『現実』だったらどうすんだ、これ?
「ふぐうー」
 ちなみにその点では、ウチはまだ恵まれていた方だったと思う。
 まず目上の父さん母さんは街の外に締め出されているからほぼ安全で、説得の必要もない。残るは吸血鬼のエリカ姉さんとゾンビの妹アユミで、どっちも普通じゃないんだ。奇妙なくらい場慣れしている。なので、とりあえずナウ! が結構簡単に通じてしまう。
 その点厄介なのが……、
「……ヤバいよー。イインチョの家、何だか揉めてない? 玄関から入ったっきり、もう三〇分くらい連絡ないけど」
 基本的に堪え性のない妹がそわそわしている。
「ほらアユミ、頭」
「ふぐ。マイクロプラスチックでしょ、手でぱんぱんしても取れなくない?」
 ……すぐ出てくるものだと思っていたから、僕もアユミも頭のてっぺんにうっすら雪が積もってきた。こんな事なら傘でも持ってくれば良かったな。
 海風スピーチアの問題は解決していない。
 井東さんはたらふく毒を注入したから『倒した』のは確定で、後は意識を失うまで早いか遅いかでしかないとは言っていた。でも同時に、キルケの魔女とスキュラは関係が近いアークエネミーだから、毒の効きが弱いとも。
 つまり確実性はない。
 虫の息だろうが何だろうが、海風が完全にギブアップする前に近づいてきて身近な誰かの寝首を掻いたらそれまでだ。一〇〇%の安全を確認するまで、狙われやすい所に家族は置いておけない。
 表はマイクロプラスチックの雪。
 可燃性については昨日経験済みだ。悪意を持った人間が火種を一つ放り投げるだけで山火事みたいな大惨事になりかねない以上、ここは譲れない。
「……どうする? イインチョから泣きつかれたら」
「どうするってお前、そりゃ僕達からあの人に説明するしかないだろ」
「だからどうやって???」
 アユミはさっきからこんな感じだ。
 特に苦手意識がある訳じゃないんだろうけど……この感じはあれかな。幽霊を全く信じない人にさっきそこで見ちゃったモノをどう説明したら頭の病院に連れていかれずに済むか悩んでいる、といったような。
 ちなみに。
 委員長のお母さんは普通の人だ。
 対アークエネミー特化の肉体改造を施した実母の禍津タオリとか、まんま太古の魔王・リリスな義母の天津ユリナとか、あの辺のスペシャルレアとは人種が違う。
 歳の割には奇麗な人、くらいのほんのりした光を放っているオトナの女性で、ウチと違って完全な専業主婦。パートや内職なんかもやってない。メガネでも委員長と違ってややおっとりな感じだけど、子供の横暴を許すほど気弱でもない。ワイドショーや週刊誌の言ってる事を鵜呑みにしない程度の良識はあるものの、お昼の通販番組に心をやられて健康食品やダイエット器具にたびたび手を出してしまうくらいには自分の欲にも流されがち。確か時短や効率って宣伝文句に弱かったかな。
 そう。
 良くも悪くも普通の人なんだ。
 アユミ達がウチに来る前、最初の両親が離婚まで秒読みで戦争みたいに荒れ狂っていた我が家の窓から眺めると、それがとてつもない輝きに見えていたものだけど……。
「ふぐ、あの人ならお兄ちゃんの方が取っ掛かりあると思う」
「まさか。僕の言う事なら何でも聞いてくれるほど甘い人でもないよ」
 さっきも言った『戦争』の頃にはしょっちゅうお隣さんに保護してもらっていた関係で、あの人には食べ物の好き嫌いとか枕や歯ブラシの硬さとか、僕の好みについては大体全部知られている。つまり『お隣さん』ってだけで何の義理もないのに無償でお世話されっ放しだった僕としては、とにかくあの人にだけは頭が上がらない。……そういう意味だとあの人、禍津タオリでも天津ユリナでもない、第三のお母さんの香りもするんだよな。ええい、これ以上ここ深掘りすると色々ややこしくなりそうだ。ていうか僕の人物相関図は一体どうなってる、ぐっちゃぐちゃじゃねえか。
「マクスウェル、対話のフローチャートだけ作っておいて」
『振り込め詐欺のマニュアルみたいな感じでよろしいですか? ただし何をどうしようが実際の効果は望み薄ですが』
 後はそろそろ委員長に助け舟を出さないとな。
 僕も面と向かって目を合わせながら無茶なお願いを話すと心が折れちゃいそうだから、そうだ、電話越しにしよう。なんか始める前から日和っているけど、マクスウェルが振り込め詐欺とか言うからだ。なんかオトナ相手でも成功しそうな香りがするじゃないか。
 そんな訳でスマホ経由で委員長と連絡。
 今回の場合はメールやメッセージじゃなくて、通話を選んだ。
 が、
「……出ないね。ひょっとして、イインチョ正座でもさせられてる?」
「マジか、そこまでこじれてる?」
 頭ごなしにガミガミ怒る印象はなかったんだけどな。叱る時は小さな子供相手でも容赦なく超正論を連発して逃げ場を全部封じてくるから、あれはあれで穏やかな口振りがおっかないんだけど。
 何回かコール音が続くけど、ぶつっ、という音と共に切れてしまった。
 ……?
「どしたのお兄ちゃん?」
「いや……」
 通話アプリが消えてホーム画面に戻ったスマホに目をやりながら首をひねる。
 ……委員長のケータイって、しばらく待っていると留守電サービスに繋がらなかったっけ? 何でこのタイミングで設定いじってオフにしたんだ???
 母親に叱られ中でスマホに触れない。あるいはお説教が終わるまで電源を切れと命令された。
 じゃ、ないって言うのか?
「……アユミ、念のため確認したい。先に来てたけど、特に異変はなかったんだな?」
「ふぐ。家の中は全部調べたけど、別に何も。誰か潜んでいる様子はなかったし、棺桶代わりの引き出しから寝息は聞こえたよ。昼の間だから開けたりはしなかったけど。そもそもお兄ちゃん以外にあのクイーンサイズのベッドの鍵持ってないでしょ、お姉ちゃん本人はベッド下の引き出しの中から内鍵開けるだけだし」
「なら、お隣は?」
 アユミから返事はなかった。
 その顔色がどんどん悪くなっていく。
 そう。
『いつものサイクル』が継続中なら、自宅はともかくまさか人様の家にドカドカ入って勝手に家探しする訳にもいかない。つまりアユミは外から見て、委員長宅の窓やドアの鍵が壊れていないか確かめた程度だったんだ。
 海風は必ずアクションを起こす。
 だけど僕の家でも井東さんの家でもなかった。
 そもそも僕が自分で言ったじゃないか。卑怯者はだからこそ実力のランキングに敏感で、狙うならアークエネミーじゃなくて人間に集中するって。あいつは、弱い順に狙っていくんだよ。
 そうなると。
 今のは家に入った委員長からのSOS。メールやメッセージを送る余裕はない。だけど例えば後ろ手で、どんな些細な違和感でも良いから、外に伝えようとしてのアクションだとしたら。
 アークエネミー・スキュラ。
 あいつは自分からは襲わない。海峡に通りかかる船を待つ不死者だ。

「くそっ、ヤツは委員長の家だ! 網を張ってやがったのか!?」

   5

 海風スピーチアは待っている。
 静まり返ったお隣さんから、委員長の手でSOSも出た。
 ……その上で大切なのは、暗がりで網を張るスキュラから見て、僕達が気づいた事に気づかせないって話だ。日本語がややこしい? ようは人質を取った相手を刺激するなって事。ただでさえ僕達は後手に回っている。ここから向こうが警戒してしまったらますます手出しが難しくなってしまう。
「(アユミっ)」
 ひとまず最初にスマホのSNSで繋がり、ルールを確認させておく。
 ほんとの指示出しは画面を通して行う。ここから先、声を大にしての会話は全部フェイクだ。
「アユミ、やっぱり傘持ってきて」
「ふぐ。ついでにブラシもいるかなー?」
 ひとまずゾンビの妹については家の方に引っ込めておく。人間とアークエネミーで離れ離れになるのはおっかないけど、でもここはこうするしかない。
 ……おそらくあいつは見てる。
 息を潜めて、カーテンの隙間から。表に立つ僕達の動きをつぶさに観察しているんだ。
 だったら、状況を利用するしかない。
 ヤツの視線を固定する。
 妹のアユミは引っ込んだけど、まだ僕が表の道に残っている。海風スピーチアからすれば不安で仕方ないだろう。特に、手元のスマホは。後輩の井東ヘレンでも呼ばれたら一大事だ。
「……、」
 どっちみち、アユミとコンタクトを取るにもスマホは必要で、どうやったってもぞもぞしてしまう。なら逆に、このスマホで海風を脅えさせておこう。僕自身が無力で何もできなくても、スキュラの不安を煽れれば釘付けにできる。まるでエゴサーチの結果に脅えるように。
 他人の家に押し入り、内外の出入りを封じて家人を人質に取って、疑心暗鬼に駆られながらカーテンの隙間を頼りに外をぎょろぎょろ警戒するに決まってる。
 ……もう完璧に犯罪者じゃないか、スキュラ。
 末路にしてもみすぼらしすぎる。
 謎めいた転入生で、物腰は丁寧だけど心理的には上に立ちたくて、美人で誰にも真似のできないアークエネミーって才能があって……そんな海風はどこへ行ったんだ。
 スマホにはSNSでこんなメッセージがあった。ただしマクスウェルじゃない。
『家に入ったけどどうすんのお兄ちゃん』
『お前はフリーだ。スキュラの視線は表にいる僕で固定してる。ただし傘を取ってくる程度の時間だ。長くても三分、それ以上は怪しまれる』
『だから何をすれば?』
『二階のベランダあるよな。お隣さんの窓に飛び込むか、この雪で全部閉まっているようなら屋根にでも飛び移れ』
 この二階ジャンプ、おっかないけど人間の僕でもたびたびやってる程度の事だ。人間の一〇倍の筋力を持つゾンビのアユミならそう難しい話じゃないはず。
 海風は先手先手で僕や井東ヘレンを出し抜いたと思っているかもしれないけど、アンタが潜ったのは勝手知ったる幼馴染み宅だぞ。
 一〇年来の厚みを舐めるな。
『アユミ嬢が屋根から屋根に飛び移ったようです』
『見れば分かるよ』
『システム達はこのまま地上待機で囮を継続ですか?』
『まさか。バカのアユミがヘマした時のために備えておこう』
『ふぐう! グループ単位だから全部筒抜けなんだよお兄ちゃん!!』
 アユミはスマホのカメラを使った動画チャットを開いてくれた。画面でSNSのやり取りをしつつ、裏側のレンズでアユミと同じものを見られる訳だ。……ようは歩きスマホなんだから、妹の視界と片手が塞がるのはやや心配ではあるけど。
 なのでやり取り自体は相変わらずの文字ベースだった。上端にメッセージがポップアップする形だ。向こうが親指で打ち込むたびに画面がくらぐら揺れてちょっと気持ち悪い。
『人質は最低二人。まずはその位置確認からだ』
『分かってる』
 アユミは委員長宅の屋根からベランダへ。
 いくつかある部屋の窓を確かめていく。
『二階じゃなさそう。クローゼットやベッドの下までは分からないけど』
『角度的に表の僕が見えないだろうから、少なくともスキュラが潜んでる線はない。それより窓は開くか? 割る必要があるならマクスウェルにやり方を検索させるよ』
『いや、開いたっ。ここから行ける』
 窓の一つを開け、アユミは土足のまま中に踏み込んでいく。
『夫婦の寝室って感じだね』
『あんまり覗いてやるなよ。時間もないぞ』
 しかし……。
 カーテンで遮られていて薄暗いとはいえ、これが安住の地だった委員長宅か?
 部屋が荒らされたり、鉄錆臭い液体が床や壁に飛び散っている訳じゃない。それでも得体の知れない禍々しさが充満しているのが、カメラ越しでも分かる。
 まるで廃墟の探検だ。
 生々しい生活の痕跡があるのが、可愛らしいぬいぐるみやマスコットの笑顔が、逆に取り残されているようで不気味に見えてくる。
『必ずしも海風スピーチアが直接委員長達に刃物を突きつけているとは限らないぞ。例えば両手でカセットボンベを握り込ませた上でダクトテープを使ってぐるぐる巻きにしているとか、遠隔でも人質は取れる』
 アユミは最低限、人の隠れられそうなベッドや化粧台の下、クローゼットの中だけ調べると、音もなく部屋を横断して廊下側に顔を出したようだ。顔の目と手で持ったスマホのカメラで視線の位置が違うため、僕からだと廊下の様子は分からない。
『お兄ちゃん。それって最悪、人質二人に犯人まで入れて三点を同時に押さえないといけないって事?』
『手が足りないなら呼んでくれ。外からアシストする』
『だとすると優先はスキュラか』
 ……妹の言い分はドライなようだけど、これで正解。
 確かに委員長やあの人を真っ先に助けてやりたいのが人情だ。でもアユミが一度に確保できるのはおそらく一人だけ。そうなると人質のどちらか、なんて半端な所でカードを切るよりも、その一枚で単独犯の犯人を捕まえてしまった方が安全にケリをつけられる。スキュラが余計な事をしなければ誰も傷つかないんだ。
『二階は異常なし。一階に行くよ』
『待てアユミ。階段は一つだ、しかも学校と違って音は下まで響く。バレたら元も子もないぞ』
 ……リスクは承知だ、おっかないけどやるしかない。
 僕は努めて平気なふりをして委員長宅の前にふらりと。それだけでみっちりと空気が分厚い壁みたいになる。やっぱり見ているな、スキュラ。僕はいきなり敷地には入らず、ポストの横にあったインターフォンのボタンに人差し指を押し付けていた。
「いいんちょーう、まだー? デコメガネやーい」
 ちょっと連打しておこう。
 海風の注意を引くと同時に、階段を降りるアユミの足音にも被せておきたい。
 ……罠にかけたいスキュラとしては、僕を見ている事に気づかれたくないはずだ。やっぱり日本語がややこしい? ようは、できるだけ自然な委員長宅を保とうとするはず。この沈黙、インターフォンの連打に対して居留守を使うかどうかで悩んでいるのかもしれない。でも委員長が家に入ったの自体は知られている訳だし、ここで居留守の選択はありえない。
 さてどうする。
 インターフォン越しに委員長の声真似でもするか、あるいは彼女のスマホでも取り上げて今着替えているから手が離せないとでもメッセージを送ってくるか。
 こっちとしてはどうでも良い。
 重要なのはスマホで共有しているアユミの視界だ。一段一段、音を立てずにゆっくりと階段を下りていくのがじれったい。
 委員長宅のインターフォンのモニタ自体は、確かダイニングの壁にあったはず。スキュラがそっちに張り付いて親指の爪でも噛んでいる場合は階段を降りた玄関先で妹とかち合う展開はない。
 ……よな?
 いきなり玄関のドアにべたった張り付いて、アナログな魚眼レンズなんか覗いていたりしないと良いけど。階段は玄関側の廊下と繋がってるんだ。
 妹の足が、最後の段を越えて一階の床を踏んだ。
『着いた』
『一番危険なのはダイニングだ。踏み込む前に周りをチェック。委員長達がいないかどうかは確かめてくれ』
「いいんちょー?」
 適当に大声で言いながら、僕は玄関前から車庫スペースの方へ回り込んでいく。庭より先にぶつかるのはお風呂場の窓だ。
 曇りガラスの窓は閉まっていたけど、構わずスマホを向けた。
「マクスウェル、偏光パターンを解析して再構成」
『人の姿はありません』
 曇りガラスなんてデジタルな乱数モザイク処理に比べたら歪みはずっと少ない。スマホからレーザーを通してどう光が散らばるのか、反射光からパターンさえ分析すれば、『元の画像』くらい簡単に画面表示できる。
 ……非常時だからね。悪用は厳禁だぞ諸君。
 続けて庭に回り込む。今度は曇りガラスじゃなくて普通のガラス。ただし内側に白いレースのカーテンが引いてある。位置的にはリビングだったかな。まあシンプルな布のカーテンなら数字の分析で中の様子を確かめる事はできないけど、
「マクスウェル、カメラのオプションで夜間撮影サポートをオンに。赤外線で撮影」
『シュアシュア。まったくスケベなユーザー様からのリクエストはこんなのばかりで反応に困ります……( ̄ー ̄)』
 ……白い水着は赤外線撮影で透ける、っていうのは有名なお話。儚い感じのワンピースや窓辺のカーテンだって似たようなものだ。
『反応なし』
「逆に言えば一階で人間二人詰め込める場所はもう限られてるだろ。トイレ、脱衣所、それから一番危険なダイニングだ」
 海風のヤツ、自分の足元に人質を転がしているのか? たとえ後ろ手に縛っていたって抵抗される可能性はゼロじゃない。自分がアークエネミーだからって良くやる。
 あるいは濁っているのか。
 井東ヘレンから受けた毒のせいで、頭が。
 それはそれで安心できない。破れかぶれとは似て非なるけど、相手の動きが読めないっていうのはやっぱり怖い。
『アユミ注意だ、スキュラと委員長達は同じダイニングに集まっているかもしれない』
『そのダイニングにいるんだけど』
「ッ!?」
 上端のポップアップに心臓が跳ねた。
 小さな画面を埋めていた動画撮影アプリを慌ててどける。
 しかし。
 それにしてはアユミのヤツ、この状況でSNSに打ち込みするほど余裕があるのか? 目の前に人質を盾にした海風スピーチアが立っているかもしれないのに。
 改めてスマホで妹の視界を共有してみると、だ。
「……、」
 ウチの台所よりもガス台やシンクの高さは低めに抑えてあると思う。委員長のお母さん、あの人の背丈に合った形でデザインされている。キッチンまわりは正直に言うとパソコンやスマホほどお値段の相場はピンとこないんだけど、見た目の印象としては、お手頃でも一つ一つ自分に合ったものを選んで取り揃えたって感じだった。こだわりは伝わってくる。
 壁際の冷蔵庫に、足元のオーブンレンジや物入れ。それから調味料のボトルや非常用のカップ麺の入った床下収納まで。
 アユミは少しでも人が隠れられそうな扉をパカパカ開けていくけど……。
『誰もいないよ』
『ほかにどこか』
『トイレも脱衣所も調べた、斜めドラムの洗濯機の中も。家にはいない』
「そんな訳ないだろうっ、くそ!!」
 もはや演技をする意味もない。
 大声で叫んで僕も庭からリビングへ踏み込んでいく。しん、と静まり返った部屋は、土足で踏んでいる事も交えて気まずさみたいな空気で満たされていた。留守中の家へ勝手に入ってしまったような気まずさだ。
 ダイニングの方からアユミが顔を出してきた。
 一周、してしまったようだ。
 ツインバターロールの妹は首を横に振っている。
「マクスウェル、地下シェルターの大扉は?」
『ノー。開放したのはユーザー様の高校のみです。あそこを使って海風スピーチアが出入りするのはおそらく不可能です』
「まだ施設が動いていた頃、あの地下にいた可能性が高いって言うのに?」
『それを言ったらアユミ嬢も条件は同じですよ』
 念のため、廊下から地下へ続く階段も覗いてみたけど、実際に降りる前からスマホライトの光を投げるだけで分かってしまう。ここじゃない。銀行みたいな大扉の前でへたり込んでいる人影なんて見当たらない。
 玄関先。
 廊下で立ち尽くしてしまう。
 いない。
 誰もいない。
 まるで広い海をさまよう幽霊船のように。委員長どころか、そのお母さんや、海風まで。
 一体、どこへ消えた?
 スキュラは一体何をやった。委員長達は無事なのか!?

   6

「……、」
 落ち着け、冷静になるんだ。
 憶測はいったん捨てて、起きた事を考えてみよう。

 まず確定しているのは、委員長が一人でこの家に入った事。
 通話に対するスマホの設定がおかしくなって。
 そして、忽然とこの家から委員長が消えてしまった事だ。

 これ以外は全部憶測だ。
 確かに委員長は消えたけど、留守番設定がおかしくなっていたのはSOSじゃなかったかもしれない。海風スピーチアなんて最初からどこにもいなかった、って線もありえる。
 だとしたら?
 僕達が表の道で待っている間、委員長が自発的に庭側から逃げていった。あるいは(実はこれも、家にいたのかどうかははっきりしていないが)母親のあの人が委員長を脅して連れていった可能性まで……?
「ダメだ、迷走してる」
「ふぐ」
 先入観を捨てろっていう考えが強迫観念になってて、これはこれで正常な判断ができなくなっている。ストレートから逃げてる。
 素直に積み上げろ。
 裏の裏なんて無理に考えて深読みするのはやめて、ヒントを一つずつ重ねていくんだ。その先に何が見えてくる……。
「海風にとって、委員長宅が一番狙いやすい標的だった」
 害意はあった、と思う。
 ただその割に家の中は荒らされていないし、窓ガラスや扉の鍵が派手に壊れている感じでもない。
 本当にたまたま全く無関係な強盗や暴漢と鉢合わせになった可能性もゼロじゃないけど、どうも噛み合わない。
 やっぱり素直に考えたら、一番高いのは海風の線だと思う。
 庭側、リビングの窓は鍵がかかっていなかった。
 委員長のお母さんだってそんな所から人が訪ねてきたら驚くだろうけど、学校の制服を見せて、委員長のクラスメイトですと名乗ればどうだろう。そして自分の口に指を当てて黙るよう伝えてきた少女が、毒を浴びてすっかり顔色が悪くなっていたら。
 家の外は危険、というのはあの人も分かっていたはずだ。
 でも。
 だからこそ、『委員長の友達』という肩書きを持った年端もいかない少女が憔悴しきっていたら、とりあえず中に招いてしまうんじゃないだろうか。赤の他人じゃない。事情も聞かずに危険な外には放り出せないって。
 一方で、海風としては必ずしもあの人を騙し切らなくてはならない必要なんかどこにもない。
 仮にダメだった場合は容赦なくガラスを割って委員長の母親を盾に取れば良い。罠の構造は壊れてしまうけど、どっちみち僕に対して有利な状況を作れるはずだ。
 ただ、
「仮に人質を連れて姿を消したからって、海風にはどんな選択肢が残っている?」
 ヤツに自覚があるのか分からないけど、黙っていたって勝手に毒が回って倒れるんだ。
 すると、
「ふぐ。冷静に考えると、人質を取って固定の場所で立てこもり、は勝ち目がないような気がしてきた。だって、ここで長期戦になってもスキュラ側にメリットなくない?」
「ああ。でもそれは、人質を連れて逃げ回るのもおんなじだ。時間はこっちに味方してる。無駄な抵抗はやめて出てきなさーい、って遠巻きに声をかけて時間を潰すだけで良い。僕達は犯人を見つけて捕まえる必要すらないんだ」
 ……だからてっきり、短期の罠。委員長の異変に気づいた僕が不用意にお隣さんへ踏み込んだタイミングで即座に牙を剥いてくると思っていたんだけど。
 消えた。
 逃げた。
 ここにきて、自分からわざわざ引き延ばした……?
『ノー、それもおかしいと思います』
「マクスウェル?」
『アークエネミー・スキュラ。海風スピーチアがここから逃げ出したと仮定した場合、人質二人が消えている状況の説明がつかないのです』
「だってあいつは、そもそも僕達の追い討ちが怖くて、盾に使える人質が欲しかったんだろ?」
『ユーザー様を食い止めるだけなら一人いれば十分です。スキュラの筋力が人間の何倍かは知りませんが、毒にやられて朦朧としている敵側がわざわざかさばる人間を二人も抱えて逃げるのは非合理的です』
「……ふぐう。あんまし聞きたくないけど、どこへ逃げるかヒントをしゃべられたくないから二人とも連れ去ったって線は?」
『ノー、だったら母娘の片方は殺してここに捨てていけば良いでしょう。追い詰められたスキュラ側に遠慮する理由があるとでも?』
 心臓が。
 見えない糸で締め上げられるようだった。
『スキュラの落とし所も見えません。ユーザー様、もしも自分の体に得体の知れない毒が回っていると分かったら、まず何をしたいと思いますか?』
「……解毒剤が欲しい、かな」
『シュア。敵を倒す倒さない、自分の立場を守る守らない、その前にまず毒の除去を願うでしょう。なのに海風スピーチアは専門の医者も頼らず、真っ先にここへ来た。何故?』
「ふぐ? でもお兄ちゃんの話が正しければ、アークエネミーの毒なんでしょ。不死者の毒なんて普通の病院じゃ対処できないよ」
 井東さんの場合はキルケの魔女……つまり動物変身の薬を使う。
 元となったオリジナルの動物に対応した血清や解毒剤があれば助かるかもしれないけど、あの透明な触腕だ。どっちみちレア。オーストラリアの猛毒クラゲなんて日本の病院じゃ治療のしようがないだろう。
 となると、
「……海風からすれば、途中どこへ寄るとしても最終的には井東さんにすがるしかないと思う。自分の毒に対応した解毒剤を出せって」
 つまり、自分よりも強い井東さんを従わせるための人質が欲しい。だから井東さんと近しい誰かを捕まえておきたい。
 の、はずなんだけど、
『ノー』
 一撃だった。
 マクスウェルはこう表示してきたんだ。
『井東ヘレンにとってデコメガネ委員長の母親は友達の友達のようなもので、直接の知り合いではありません。道義的には見捨てられないでしょうが、そこまで胸を引き裂かれるような想いはしないのでは?』
「……、」
『海風スピーチアは、井東ヘレンには勝てません。キルケの魔女、「コロシアム」のクイーンにしてスキュラよりも格上の不死者。パワーバランスは確定している以上、万に一つも反抗は許されないのです。解毒剤だと言われて渡されたのがさらなる猛毒では元も子もない。だとすると、ここへ来るのは遠回り過ぎます』
「ふぐ。だからまず委員長やおばさんでお兄ちゃんを従わせて、今度はお兄ちゃんを使ってキルケ? とかいうのを従わせてって感じじゃないの?」
『ノー。先ほども言った通り遠回りすぎるのです。スキュラ自身は、自分の意識がいつまで保つか計算できない状況にあります。一刻も早く、と考えるのが妥当でしょう』
 ストレートに解毒剤狙いなら、多大なリスクはあっても井東さんの家族を直接襲って人質にし、彼女に交渉を迫るはず。毒のせいで後先がないなら、現実的なリスクについては目を瞑ってギャンブルに走るのがセオリーだって言いたいのか。
 けどそうなっていない。
 ……じゃあ海風がここへ来たのは、何か別の目的があったって話になるのか? それが分からない限り、消えたスキュラの行き先を割り出す事も叶わない。
 妹のアユミは何か言いづらそうな感じで、
「そ、そこまで深く考えてないのかも? 破れかぶれになって道連れを欲しがっているだけなんじゃあ……」
『ノー。非合理的な感情面の行動理由を完全に否定する材料はありませんが、誰でも良いならピンポイントでここまで来ないはずです。例えば自分の城である学校まわりでマイクロプラスチックの雪に火を放ち、全校生徒を巻き添えにするという案もあったのでは?』
 想像するだに恐ろしい光景だけど、でもそうだ。海風には何か目的があって、そのために行動している。人を連れ去るっていうのは、僕がパッと思い浮かべるよりずっと大変なはずだ。猫をケージに入れて獣医さんの所まで運んでいくのとは訳が違うんだ。
 海風はここに来た。
 何故?
 ここで殺さずに委員長達を二人とも連れ去った。
 何故?
「海風は僕の家と委員長の家、二つ並んだ家で敢えて委員長側を狙った」
「だから、非力な人間を集中的に狙い撃ちしたんでしょ?」
「吸血鬼の姉さんは昼の間なら寝てるのに? それこそ無抵抗も無抵抗だぞ」
「だったら」
「毒が回ってふらふらの状態で人質として連れ去るには、棺桶が重過ぎたんだ。だって、クイーンサイズのベッドの真下にある引き出しだぞ。でも無理に取り出したら姉さんは太陽の下で灰になってしまう。死んだら人質にならない。自分の足で歩ける相手じゃないと連れ去れない」
『井東ヘレン嬢に解毒剤の交渉を迫るには遠回り過ぎる件については?』
「誰でも良かったんだ」
 逆に考えてみよう。
 現実に人は消えている。
 なら海風にはそれで良いと思う理由があるはずだ。
「あいつは学校の名簿から個人情報を盗んでる。井東さんの家族構成もな。少なくとも、井東ヘレン以外にアークエネミーはいない。彼女の前に人質を見せびらかした場合、井東さんはどうする?」
「……、」
 例えばアユミはゾンビだ。
 とてつもない怪力と、噛み付いただけで次々に仲間を増やす強大な伝染力を持つ。
 でも、力があるからって無闇にそれを使うとは限らない。そういう心の面で信頼されているから、アークエネミーでも普通に学校生活を送れるんだ。
「バケモノとしての力があるから怖いんじゃない。力があるのに人の心をなくした時、本当にバケモノとして扱われる。だから、そんな風に思われるのが何より怖い。……井東さんは、家族の前なら出し惜しみできないさ。赤の他人だからって、解毒剤は渡さないなんて選択肢は」
 元来、井東さんはおどおど小動物系だ。
 全国放映された『コロシアム』の件が尾を引いている部分もあるかもしれないけど、性格的に注目を浴びるのに慣れていない。
 期待を裏切る展開になるのが怖いんだ。
 スポットライトでいっぱいの大舞台が、怖い。自分の家族や僕達から解毒剤を渡してくれって迫られたら、スキュラを倒せる状況でも躊躇ってしまうはず。たとえスキュラに勝っても、それで家族や学校の関係がズタズタになるのは怖いんだ。卑怯者って、モンスターって、同じ家族から怯えた目で言われたくないはずなんだよ。
 失敗したら全てを失う。
 選択次第では聖女になれる道を残す事で、それ以外の方法全部を蛮行に見せかける。
 スキュラ。
 ロケーションやシチュエーションで集団を切り取り、パニックに陥れて意のままに操るアークエネミー。
『確実性には欠けますね』
「それは海風に言ってくれ。向こうも毒が回ってふらふらってのもあるんだろうけど。でも、あいつは二択に振ってる。その辺の通行人じゃなくて、井東さんの知り合いである僕達を狙ってるだろ」
 赤の他人だからこそ、家族の前で見捨てる選択肢を選べなくするのが一つ。
 仮にそれでも井東ヘレンが強行に振り切った場合にも備えて、できれば僕や委員長を確保しておきたい。
『しかし人質を二人とも連れていく理由にはなりません。その案だと委員長一人で機能するはずです』
 そう……なんだよな。
 犠牲は一人も許せないっていうのは僕達の事情だ。海風には関係ない。
「……、」
 でも。
 考えても分からないなら、そもそもの構造が違う、のか?
「マクスウェル」
『シュア』
「海風がこの家に来た時、どれくらい余力があったと思う?」
『井東ヘレン嬢のスペックについては「コロシアム」で情報支援するためにも、かなり詳細なデータがあります。率直に言って、海風スピーチアがまだ動ける方が不思議な状況です。これについてはキルケの魔女とスキュラというアークエネミーとしての共通項のおかげでしょうが』
「……だとすると」
「何か分かったの、お兄ちゃん?」
 特別な力を持ったアークエネミーだけが状況を動かしている訳じゃない。
 マクスウェルの補助がなくたって、人間には今の自分にできる事を見つける力がある。
 まさか、
「海風はふらふらだったんだ。まともに立っている事も難しいくらい……」
「ふぐ。それが?」
「でも悪意自体が消える訳じゃない。むしろギリギリに近いからこそ、演技だって破綻していたんじゃないかな。……でもって、委員長の母さんだって人間だぞ。まだ小さかったって言ったって、赤の他人の僕を理由もなく匿ってくれたくらいの正義感はあるんだ。他人でもそうなんだぞ。まして、急にやってきた不審者が家でじっと息を潜めて自分の娘に危害を加えようとしているって分かったら?」
「あっ!?」
「ただそのままにしておくと思うか? 相手はアークエネミーとはいえふらふら、しかも今は警察が機能する状況じゃない。自分で何とかしないとって追い詰められても不思議じゃない」
 つまり、だ。
 この家にいた全員は消えた。
 だけど暴力を振るったのはスキュラじゃなくて……。
「おっ、おばさんがやったっていうの!?」
「証拠はないけど、そっちの方がしっくり来る。アユミ、ここに来るまでで派手な血の跡は見たか?」
「そんなのっ!」
「僕もだ。……となると刃物じゃない、不意打ちにしてもドライヤーか何かで頭をどついたか。電気が通っていたら感電もあったかもしれないけど」
「ふぐ? インターフォン動いてなかった?」
「ありゃ電池だよ。天井の火災報知器と一緒」
 それはさておいて。
「あの人が不意打ちでスキュラを殴り倒したにしても、おそらくまだ殺していないと思う。それなら家の中に死体が転がっているはずだ」
 いったんホッとしかけて、アユミは気づいたようだ。
「……まだ?」
「何で全員ここから消えてると思うんだ。家の中で殺したら容疑者が固まっちゃうからだろ」
 今は警察が機能していないんだ。
 見た目はどうあれ、水面下の治安がどうなっているか未知数。マイクロプラスチックの雪が絶えず降り注いでいるから証拠や痕跡も埋もれやすい。
「でっ、でも! おばさんがそんな暴挙に出るなんて信じられないよ。散歩してる犬が吠えただけで道の反対側まで距離を取っちゃうような人なのに!!」
 アユミの言葉を聞きながら、僕は改めて家の中を歩く。視線は足元に。どこもかしこもピカピカだけど、何か妙だった。奇麗過ぎる。どう頑張ったってドアを開閉したタイミングでマイクロプラスチックが入り込み、床はジャリジャリしてしまうものなのに。土足で入った僕達以外の痕跡がない、全く。
 直近、誰かが磨いている?
 ダイニングの床で屈み込んでみる。
「……アルコールじゃないな。うっすらとだけど塩素系の匂いがする」
『物置などの確認を。業務用パーフェクトウォッシュはありませんか?』
「ふぐ?」
「元々はワイシャツの首回りについたしつこい汚れを落とすための漂白剤だったんだ。ただし原液のまま使うとDNA反応、つまり衣服に染み付いた血や唾液まで完全に分解するって言われてる。ネットスラングなんかでたびたび出てくるくらいには有名だ」
 アユミは絶句していた。
 ……けど、主婦の豆知識って感じじゃない。冷蔵庫に貼り付けてあったレシピ検索用のタブレット端末を手に取る。人差し指の指紋認証なんてあってないようなものだ、画面の保護シートにそのままべたべた残っているんだから。
 ロック画面を越えてさらにいくつか操作すると、だ。

『血痕_除去する方法』

「……手元のデバイスで検索履歴を消したって、地上基地局とか企業のサーバー側とかには残るんだよ。こっちはかなり特殊なソフトがないと抹消できないんだ」
 ゆっくりと、息を吐いた。
 青い顔をするアユミの方へ振り返る。
「自分の娘を『使える』ってだけで雑に狙われたんだ。あの人、相当沸騰してるぞ。気絶したスキュラを川にでも放り投げるか、マイクロプラスチックを使って丸ごと燃やすつもりかは知らないけど」
「そこまで……そこまでする? ふぐ、だっておばさんはイインチョを助けたいだけだったんでしょ! 殴って気絶させればそれで良いじゃん!!」
「アユミ、今は警察は動かないんだぞ」
「だからおばさんは自分でイインチョを守った!!」
「……じゃあ、気絶させたスキュラはどうするんだ? 警察には預けられない。無罪放免で放り出してしまえばすぐにでも復讐にやってくる。この家に置いておくのも以下略、いつ寝首を掻かれるか分からない。縄で手足を縛ったってアークエネミーなら鋭い爪で切ったり関節がぐにゃぐにゃ曲がって抜け出すかもしれない。だったら、『完全』に娘を守る方法は?」
 欲のためじゃない、特別憎い訳でもない。
 でも。
 自分の娘を守るためなら、いくらでも道を踏み外せる。
「……やっぱりあの人のロジックだ。戦争みたいになってた家からいつでも幼い僕を匿ってくれた人だぞ。隣の家の子ってだけで赤の他人だったはずなのに、デカいトラブルを抱え込むと分かっていても迷わずにだ」
「……、」
「だったら実の娘のためならどこまでやる? これは人間だからとかアークエネミーだからとか、プロだからとか素人だからとか、そんな次元の話じゃない。海風は侮ったようだけど、この供饗市にいるのは誰もが自分で選択肢を選べるプレイヤーなんだ。だから、やると決めたらあの人はやる。絶対に」

 娘を守る。
 それでいて、人殺しの娘とも言わせない。
 毒を食らわば皿まで。
 優しい人ほど守るためならめり込んでいく。

 そのためには、だ。
 自宅の中で頭をかち割って大量の痕跡をそこらじゅうにばら撒いたり、日に日に腐って自己主張を増していく死体と同居する訳にはいかない。
 殺すなら外。
 死体も溜め込むのではなく、捨てる。
 それも誰にも追及されない形で。きっと自分の保身のためじゃない、守るべき娘の未来に暗い影を落とさないように。……だったら、徹底的に突き進むんじゃないか?
 今は警察が動かなくて治安が崩れているんだ、海風については外で殺して表に放り出すだけで容疑者なんて星の数ほど膨れ上がる。水に浸けて腐らせたり、炭化するまで燃やしたり。検視が始まるまでに長い時間がかかるなら遺体から得られる情報にもブレや幅が広がり、後からやってきた警察の捜査活動はそれだけ迷走していく。
 ……正直に言えば、現実の法医学や科学捜査を考えるとかなり甘い目測なんだけど、重要なのはそこじゃない。委員長のお母さんが信じてしまっているか否か、だ。そして追い詰められている人間は、往々にして周りの全てに対して極端に脅えるか、自分にとって都合の良い展開しか見えなくなるものらしい。
「ほぼ確定だ。ふらふらだった海風をあの人が不意打ちで殴り倒して、床の血を拭き取ってから担いで家の外へ連れ出した。表の道にいる僕達に見つからないよう、庭からだ」
「それならイインチョは!?」
「親が人を殺そうとしてるんだぞ、それも娘の自分を守るために。止めようとするに決まってんだろ」
 ……委員長が大声で叫んで表の僕達に異変を知らせなかったのは、下手に刺激すると鈍器を手にした母親がその場で即座にスキュラを殴り殺すと考えたからか。あるいは、助けを求める事で母親を社会的に殺してしまうと考えたのか。
 いじめや虐待など、現実の事件では往々にして警察に通報できない事態に巻き込まれている、またはそう思い込んで口を噤んでしまう人も多い。加害者ではなく、被害者を傷つけてしまうと。
 似た者同士の親子だったんだ。
 自分なら解決できる、自分がやらなくちゃならない。そうしないと大切な人を助けるつもりで窮地に立たせてしまうから。
 そんな想いだって、空回りしてしまう事はある。
「……マクスウェル、検索してくれ」
『シュア。具体的に何を?』
「あの人はスキュラを処分するつもりだ。けど昼間とはいえ住宅街で火を使うのは目立ち過ぎる。おそらく水。近くの川、用水路、側溝……。車を使っていないからそう離れていない、一〇〇から二〇〇メートル以内! とにかく人間一人を沈めて腐らせる事のできる汚れた水辺だ!」
 目を白黒させるアユミ。
 やるべき事なんか最初から決まっていた。
 僕としては、こう告げるしかない。
「あのSOSだよ」
「ふぐ?」
「誰にも相談できないって一人で唇を噛んだ委員長は、それでもスマホの留守番設定を変えてヒントを残していった。どんなに小さくても、爪痕を。何も言わず孤独に戦うのが一番って考えて、必死に信じ込もうとしたって、どうしても指が動いてしまったんだ。あの人だって、委員長だって、隠し事はあっても根っこの所が悪人だった訳じゃない。警察に頼れない中で、ただ自宅に押し入ってきた暴漢から大切な家族やいつもの生活を守りたいだけだった。……一体どこに落ち度がある? 今すぐ助けるしかないだろ、そんなの!!」

   7

 アユミが先に家の前で張っていたのは、ギリギリだけど正解だった。
 音を嫌ったのか、あの人は倒れたスキュラを連れ出す時に車を使わなかった。逆にもしもアユミの到着が遅れて、悠々と表の車庫から車を出していたら、行動半径は一〇〇倍以上膨らんでいたと思う。
『一番近いのは委員長宅から北へ五〇メートルの所にあるせせらぎ川。川とはついていますが用水路とどっこいどっこいです』
「候補は三つ、いや五つまで出してくれ。そんな遠くまで運べないが、殺すなら家の近くではしたくないって心理も働くはずだ」
 あの人にとってはどこまでいってもイレギュラー。事を起こしてから慌ててその対処法のネット検索をしているくらいなんだから、計画性なんか何もない。暗中模索、迷い箸に近い。どこでどうレールが切り替わるか予想がつかない。
「ひとまずっ、そのせせらぎ川とかいうトコだ!」
 地元も地元なんだけど、普段自分が見ている川に名前がついている事も知らなかった。行ってみれば、ああここかと分かるかもしれないけど。
 この不自然な雪の中だと、自転車はかえって使い物にならない。柔らかい砂浜の上でタイヤを走らせる感じが近いかな。一番近くだと五〇メートル。自分の足で走った方が早い。
「アユミ、ダッシュできるなら先行ってくれ。頼む!」
「まだっ、まだ希望はあるよっ!!」
 人間の一〇倍。
 縫い痕だらけの肌をさらすアユミは足元の雪を爆発させるように駆け出しながらも、そんな風に叫んでいた。
 ……分かってるさ。
 人を害するのにだってエネルギーはいる。それもかなり。例えばバラバラ殺人は、たくさん刃物を並べて作業を始めてみたは良いもののあまりに煩雑で手間がかかり、途中で投げてしまう場合がほとんどだという説もある。
 あの人はあくまでもただの人間だ。
 ぐったりしたスキュラを担ぎ上げただけでも十分、おそらく極度の興奮で頭のリミッターが外れているんだろう。
 そんな状態がずっと続くはずない。
 後は。
 あの人が心のガス欠に陥るまでに、長い距離を歩いて川まで到着し、『実行』に移されるか否かだ。
 無抵抗のスキュラは鈍器で頭をかち割られるのはもちろん、川に投げ込まれたってそれまでだ。水関係の不死者らしいけど実際に水中呼吸できるかは未知数だし、意識のない状態でそいつを使えるかも分かっていない。
 問題の川は、住宅街を貫いていた。
 幅についてはその辺の道路よりも細いし、適当にコンクリートで固めた小さな橋がかかっているだけだった。遊び場でも釣り場でもない、ただ雨水を誘導するために用意された安全弁みたいな人工の水路。そんなイメージだ。
 例の雪で底が嵩上げされているせいか、雨で増水している訳でもないのに水面はギリギリいっぱいって感じだった。道路の高さまで数十センチしかない。
 そして先に到着していたアユミは、小さな橋の欄干から身を乗り出していた。川の水を凝視しているけど、こっちに気づくと大きく首を横に振る。
「ちがうっ、こっちじゃないみたい! 辺りに雪を踏み荒らした感じもないよ!!」
「時間がない……」
 あの人は五〇キロ近い大荷物を担いだまま、その状態で目の前の川を素通りして他所に行った。ここで水に落とせば『とりあえず』終わっていたかもしれなかったのに。
 誘惑を振り切ってる。ハーフマラソンで妥協するか折り返してフルマラソンするかで、迷わず後者を選んでいる。
 これは、覚めない。
 一時の興奮じゃない、きっと針は一番上で振り切れたままだ。だとすると途中で止まったりしない、目的地に着いたら最後までやり切ってしまう。
「アユミ、二手に分かれよう。マクスウェルと地図を共有して、遠い方の川を狙ってくれ。僕は近場を回る。お前の方が断然足は速い、頼んだぞ!」
「けっ、けどさ、そしたらお兄ちゃんは……」
「状況が変わったんだ。相手は全力全開のスキュラじゃない。必ずしもアークエネミーとしての剛腕に守ってもらわなくちゃならない訳でもないんだ。だから行け、早く!」
 アユミはなおも逡巡したけど、『その時』に一秒でも遅れたら永遠に取り返しがつかなくなるって分かったんだろう。やがて何かを振り切るようにして、スマホのガイドを頼りに小さな橋の向こう岸へと走り出す。
「マクスウェル、こっちは!?」
『その地点から西へ八〇メートル。三日月川の露出部分とぶつかるはずです』
「露出?」
 ひとまず立ち止まるのはナシだ。
 何かと言うと足を取りにくる雪と戦いながらも、全力で突っ走る。
『大部分は暗渠、つまり足元の地面に覆われているのです。水質や悪臭については一部苦情あり、日光や酸素の供給を絶たれると多くのプランクトンが死んで腐敗菌の繁殖のみに偏り、ヘドロ化が進むためですね』
 ……死体の発見が遅れて腐敗が進めばそれだけ有利になる側としてはおあつらえ向きだ。
 しかし自分の住んでる住宅街でも、あんまり馴染みのないエリアもあるものだ。角度が変われば見え方も違ってくるのか、規則正しいはずの区画整理がこっちを迷わせるための仕掛けみたいに思えてくる。
 と。
 なんか、何か、卵の腐ったような匂いが鼻についた。
 ……ヘドロの匂い。
 川は公共物で、原因が分かっていても勝手に掃除をしたり上から蓋をする事もできない。確かに四六時中これなら市役所に苦情の一つも入れたくなる。
 でもって。
 何かを捨てたい、原形がなくなるまで腐らせたいと考える人なら、確かにこっちか。
「っ!?」
 どろりと粘つくような川に差し掛かった辺りで慌てて足を止め、曲がり角の塀に身を隠す。
 人影があった。
 しかも一つじゃない。
 やっぱりぶらぶら揺れてる一本の金髪は目立つ。スマホだけ角から出してカメラで確認すると、
『検索対象を発見。デコメガネ委員長とその母親、そして肩に担がれているのは海風スピーチアです』
「アユミに連絡、すぐ呼び戻せっ」
 こっちは橋? っていうよりは、道路に近い。一段低い場所に濁った水が流れる川があるんだけど、行く先はそのまま地面の下に潜っているんだ。奥がどうなっているかは見えないか。これだと用水路ってイメージが近いかもしれない。
 そして交差部分。
 一段高い道路側、ガードレールの辺りで何か動きがあった。
 スキュラを肩で担ぐ大人の女性と、そんな彼女にすがりついてでも止めようとしているメガネの女の子。
 やっと見つけた。
 委員長!!
「委員長がこれまでの道で自分の母親を転ばせなかったのは?」
『海風スピーチアは受け身が取れる状況ではありません。無防備に投げ出された場合、変則的なバックドロップのような状態に陥りかねない事を踏まえると、あまり大きくは出られないのでは?』
 空いた手で掴んでいるのは金槌……に似ているけどどこか違う。肉叩き、かな。台所にあるものを適当に掴んで持ってきたのかもしれない。
「お母さんっ!!」
 ことここにきて、委員長から悲痛な叫びがあった。
 けど、届かない。
 無造作に。本当にセメントの袋を置くような格好で、あの人は海風を地べたに投げ落とす。いくつか節を作って一本にまとめた金髪が、雪の上をのたくっていく。
 マイクロプラスチックの雪は、どれくらいダメージを吸収してくれただろう。
 続けて容赦なく肉叩きを振り上げた母親に、ついに委員長が真っ向から飛びかかった。海風っていう『人質』はもう地面だ。彼女を気遣って、遠巻きに制止するだけの段階は越えていた。
 しかし。
 でも。
 忘れているのか委員長、アンタのお母さんは人を殺すつもりで鈍器を振り上げているんだぞ。正面から腰にしがみついたって、無防備な背中や頭を滅多打ちにされるだけだ。
 そしてアンタも母親なら、せめてその手で守りたかった子供の顔くらいは正しく認識していてくれよっ、
「マクスウェル、支援頼んだ!」
『メチャクチャ非推奨ですがっ』
「僕だって自信なんかないよでもこのままじゃ委員長が!!」
 もうこうなると、何とかして委員長と連絡取ってあの人の気を引いてもらってその間にこっそり裏に回って武器取り上げて、なんてクレバーに立ち回っている暇はない。
 作戦なんて何もなかった。
 とにかくだ。
 手の届く範囲にいる委員長より厄介なターゲットが出てくれば、あの人の敵意はよそに向けられるはず。
 当然、こっちはアークエネミーじゃない。ただの人間だ。銃やナイフを持っている訳でもない。
 でも、とにかくあの人の『危機感』を煽るならこれしかない。
 元からマイクロプラスチック対策でマスクはしている。さらに大きめのハンカチで無理に頭全体をバンダナみたいに覆って人相を隠しておいた。
 今は『天津サトリ』じゃダメなんだ。
 得体の知れない少年Aを作って、とにかく塀の角から飛び出す。
 スマホを向けて。
 これみよがしなフラッシュと作り物のシャッター音を連発させながら。
 ちょっと裏声っぽい調子で、頭のてっぺんから声を通す感じで叫んでみた。
「あはーはあ!! すげっ、すげえよ。やっぱマジ供饗市って世紀末じゃねうははこんなの上げたら大注目間違いなしだよアフィっちゃうよおっ!!」
 そう。
 わざわざ家の外に引きずり出したのは、自宅を殺害現場にしないため。川に捨てたいのは、ここで殺した死体を腐敗させれば検視や科学捜査を撹乱できると思っているから。
 でも。
 そもそも犯行の瞬間をカメラで撮られてしまえばご破算だ。銃やナイフよりも、アークエネミーの剛腕よりも、しがみついてくる自分の娘よりも。あの人はまず第一に、絶対スマホのレンズを恐れるはず。
「……、」
 あの人は機械みたいにゆっくり首を振って僕を目線で追いかけていた。
 距離は軽く見積もって一〇メートル以上あったはずだ。

 なのに。
 ゴッッッ!!!!!! と。

 かざ、切りおと、が?
 すぐ横、突き抜けて???
『警告、だから非推奨ってゆったでしょうが!!』
 あの人は野球のピッチャーみたいな振り抜き方をしていた。
 投げた。
 ようやっと、僕は自分の顔のすぐ横を突き抜けたモノの正体が金槌に似た肉叩きだと気づかされた。
 てか、コンクリの塀に突き刺さってないか、あれ!?
『続けて非推奨、大警告ッ!! この危機的状況で相手から目を逸らさないでください!!』
 きゃっ、という短い悲鳴があった。
 慌てて再度目線を元に戻してみれば、精一杯の力を込めて体当たりしていたはずの委員長が、片手一本で横合いに放り投げられたところだった。
 あの人は、こっちを見ている。
 奇妙なほどに無感動で、いっそ機械のような瞳で。
 アークエネミー・スキュラ。
 海風スピーチアに向けられたものと同じだ。
 委員長はこの人から遺伝したんだろう。メガネの奥から錆びた釘みたいな眼差しがあった。
 ロックオンされた。

「……チッ。避けやがった」

 だんっ!! と。
 勢い良く雪に覆われた地面を蹴って、あの人が真っ直ぐこっちに走り込んでくる。
 ゾンビのアユミじゃない、吸血鬼の姉さんでもない。
 人間。
 ただの人間。
 でも。
 生物的なスペックなんて次元じゃない。実際に激突する以前の話。そのしわだらけの魔女のような低い声を耳にしただけで、完全に両足から力が抜けていた。幼い頃から赤の他人の僕を守ってくれたお隣さん。あるいは実の母より角の丸い女の人。そんな『完璧な安全圏』から情け容赦なく本物の殺意をぶつけられて、何か足元がガラガラと崩れていくような錯覚に襲われたんだ。
 ああ。
 学校でも、家の中でさえ。
 本当の本当に無条件で安全な場所なんて、この星のどこにもないんだなって。
『警告!!』
「がッ……!?」
 腕一本、だった。
 首を丸ごと掌一つで掴まれたと思ったら、そのまんま両足が地面から浮いた。勢いを殺さず、真後ろにあったコンクリートの塀に背中から叩きつけられる。
 こ、きゅうがっ?
 っ、無茶苦茶だ、このひと。
 この人はエクササイズ感覚のキックボクシングすら触れた事はないはず。それが、がむしゃらに手足を振り回すだけでここまで……っ。これがメガネの似合うおっとり美人のやる事か!?
 完全に頭が沸騰してる。でもメリットばかりじゃない、その怪力は絶対にこの人自身の体を中から傷つけてしまうはずだ。
「お母さんやめてっ、ダメだってばもうやめてえ!!」
 少し離れた場所で、マイクロプラスチックの雪にまみれて転がったまま委員長が叫んでいた。
 それで、飛びかけた意識が少しだけ戻る。
 向こうもさらに凶暴さを増す。
 委員長のためなら。
 お互いの頭にあった目的は同じはず。ただし行き着く先は大分違うようだけど。
 工夫も何もなく、このまま掌一つで太い骨ごと首を握り潰されるんじゃないか。そんな事さえ思う。
 けどさ……。
 アンタが娘のためなら地獄に落ちても構わないと思っているように、僕だって委員長には泣いてほしくないんだ。そのためにはアンタが守ろうとした家にはアンタがいなくちゃならないんだ! 人殺しや陰謀なんかとは無縁な、近くで子供の泣き声が聞こえたら思わず飛び出していってしまうようなアンタがさ!!
 家族っていうのは、無条件で永遠に固まっていられるものじゃないんだ。それは常に意識してまとまらないと空中分解してしまうんだよ。僕はそれが良く分かっている、今でもたまに夢に見るくらいに。
 だから。
 平穏無事に当たり前って顔をしていつも委員長の家を守ってきた『あなた』の事は、本当に尊敬してきた。隣から聞こえてくる、ただいまって声におかえりって返ってくるのがどれだけの奇跡か知っているから。ああ、ドラマや映画の世界みたいな人は本当にいるんだって。ウチは結局無理だったけど、それでも家族の絆なんて奇麗ごとの嘘っぱちじゃないんだって、教えてもらったんだ。僕が世界に絶望しなかった理由の半分は、間違いなくあなたが与えてくれたものだった!
 それを。
 簡単に……っ。
 何か事情があるなら仕方がないって顔して、呆気なく手放そうだなんて思ってんじゃあねえ!!
「哀しいんだよ、そういうのを見ているとッッッ!!」
「っ?」
 単純に間近の叫びに圧倒されたのか。あるいは今さらながら、聞き覚えのある声だって気づいたのか。
 わずかに首にかかる力が弱まったのと同じタイミングで、僕は空いた手を後ろに回した。
 コンクリート塀。
 より正確にはそこに突き刺さったままの、金槌に似た肉叩きを手探りで探して、掴み取る。
「まさか、サトリ、くん!?」
「はろーショウミさん。かはっ、でもっていい加減に目ぇ覚ませ!!」
 思い切り殴りつける。
 ただし目の前にある顔を、じゃない。
 背後の壁。
 どしんと鈍器で殴りつけると手首に鈍い痛みが返って顔をしかめてしまうけど、それだけじゃない。マイクロプラスチックの雪は何にでもこびりつくんだ。コンクリ塀を走り抜けた衝撃で浮かび上がるように、微細な粒子が引き剥がされて宙を舞う。
 この人はメガネを掛けている。
 頭のリミッターが切れているとは言っても普段から運動に慣れている訳じゃない。激しい息切れに体温の上昇。はい、メガネと付き合いの長い人なら何が起きているかもう分かったかな。
 曇っているんだ、レンズが。
 最初に肉叩きを投げても僕の頭に当たらなかったのもこのため。五〇キロ近い錘を抱えてここまで歩き通したんだし、呼吸が乱れて体温が上がっていない方がおかしい。そしてレンズ表面がほんのり湿っている中、マイクロプラスチックの雪が殺到したら?
 今度の今度こそ。
 完全に視界はゼロになる。
「きゃっ!?」
 視力は単純にものを見る力を担う他に、バランス感覚の大部分も司る。これについては、目を瞑って片足立ちに挑戦しても思い通りにいかない事からも分かる通り。急に目の前が真っ白になってふらつくショウミさんに合わせて、僕は首を吊り上げられたまま体を横へ振り回した。両手でこの人の手首を掴んで、ねじる感じで。二人して一気にマイクロプラスチックの雪の上へと倒れ込む。
 そのまま地面を転がっていく。
 上の取り合い、そして手にした肉叩きの奪い合いになる。
「あいつを生かしておけば必ずまたやってくるわ。何度でもリベンジに! 捕まえて縛り上げてもダメ、逃げられる!! だったら!!」
「だったら何だ、殺すのか!? この肉叩きを人の頭に振り下ろして!!」
「ええそうよ!! すでに家の住所も知られた、それに娘は毎日私の手の届かない学校へ行かなきゃならない! 隙が多過ぎるわ。あの子はたった一回お腹を刺されたらそれでおしまいなのよッ!!」
「その決断がっ、その優しさが……。委員長を泣かしている事も見えなくなってんのか、アンタは!?」
「っ!?」
 力はっ、ダメか。
 やっぱり頭が焼き切れかけているショウミさんの方が、破滅的だけどパワーは上だ! マウントを取られる!?
「ここでじっとしてなさい、サトリくん。その肉叩きを返して、さあ!!」
「ふざけんな……」
「お願い、娘のために協力して。この手から力を抜くだけで良い。おばさんはあなたまで殴りつけたくないのよ!!」
「その一言一言がっ、委員長を助けるつもりで彼女の人生を全部粉々にしようとしているんだよ!!」
 もう、構うもんか。
 のしかかられて形勢が不利だから何だ。言いたい事は全部言ってやる!!
「ふざけるんじゃない。親っていうのはな、他はどうあれ子供の前でだけは絶対間違っちゃあいけないんだッ!! 子供の頭からは消えないんだよ、そういうの! だからアンタは、それがきちんと分かっていたからっ、見るに見かねてあの戦争みたいだった家から、赤の他人だった僕を連れ出してくれたんじゃあなかったのかよ!!」
 あの時の僕は瞳の奥まで濁っていて、きっと、この人が温かい毛布とホットミルクをくれなかったら本当にあそこで腐り果てていた。
 それなら、今度はこっちの番だ。
 僕の胸の真ん中で煮えている感情は、間違いなくあなたが守ってくれたものだった。世の中なんてこの程度、奇跡なんか願うのは間違ってる。そうやって訳知り顔で腐らずに、世界の善意をもう少しだけ信じてみようと思える、そんな何かを残してくれたから。
 だから。
 だから。
 だから。
 ここで、僕は諦めない。
 もしも今あなたの胸の中がすっからかんで、本当の意味で委員長を正しく助けるための貯金がないのなら。僕が今まで預かっていた分で埋め合わせてみせる!!
 元々これはあなたが繋いだチャンスだ。
 胸を張って、遠慮なく救われるが良いさ!!
「マクスウェル!!」
『爆音に注意』
 ゴッッッ!! と、それこそスマホの内蔵スピーカーをぶっ壊すんじゃないかって勢いで大音響が炸裂した。
 これ自体にダメージがある訳じゃない。
 いくら何でもスマホはそこまで便利じゃない。
 だけど。
 元々メガネのレンズにマイクロプラスチックが吸い付いて、視界はゼロになっていたショウミさん。そこに耳をつんざくような轟音を当てて三半規管までおかしくしたらどうなるか。
「っ?」
 くらり、と上にまたがっていた彼女の体が左に揺れる。いいや、本人には傾いている自覚なんてないかもしれない。
 その流れに乗じた。
「ああアッ!!」
 腰の辺りで身をひねり、ショウミさんの体を真横へ振り落とす。攻守交代。今度はこっちからのしかかり、体重を使って彼女の体を無理矢理押さえ込みにかかる。
 やや自嘲気味に、だった。
 押し倒されたこの人は、仰向けのままうっすらと笑っていた。
「……それで、ここからどう止めるの?」
「……、」
「今のあなたは三〇分前の私と同じよ、サトリくん。この瞬間だけならあなたが有利でも、両手の押さえが解けたら私はすぐにでもあの女を殺しに行くわ。ロープで縛っても手錠を掛けても必ず抜け出す、抜け出して殺す。ならどうする!? 揉み手で説得、麻酔薬で眠らせる、秘密の地下室にでも閉じ込める? どれもこれも現実的じゃない! たった一つの『完全に』が何なのか、こうしてみてあなたもはっきりしたんじゃない!? 話が通じない凶悪犯は殺さない限り止まらないって!!」
 かもしれない。
 そうかもしれないけど!
「マクスウェル……っ」
「ダメよ、私はあなたに聞いているの。無責任にこの私を止めて、今も娘の命を危険にさらしているサトリくんに。機械に回答を丸投げすれば自分は逃げられるなんて思わないで」
「っ」
 のしかかって肉叩きを取り上げているのは僕の方なのにっ、このままだと心を呑まれる!?
 叱る時は、子供相手でも超正論を連発してあらゆる道を封殺する。
 この人はやっぱりショウミさんだ。
 どこまで転がり落ちようとも……っ!!
「娘が哀しむからというのもナシ、そんな次元の低い話なんか誰もしていないもの。ではその娘を前にしてあなたはどうしたいか。答えなさい! できなければどけぇ!!」
 真下から、跳ね上がる。
 マウントを崩されるっ!?
「……っ!!」
 歯を食いしばり、肉叩きを振り上げた。
 逆の手でスマホをショウミさんの顔にかざした時点で彼女の拘束はほとんど解けてる。
 まるでゴルフ練習用のアプリだった。
 理想の角度、力加減、速さ、そういったスイングのラインが矢印で風景に重ねてある。
 ……ただし、その風景っていうのは組み敷いたメガネの女性の頭蓋骨だけど。

 すこんっ! と。

 肉叩きを使って、右のこめかみにあるスイッチを軽く叩くような力加減だった。だるま落としなら失敗して総崩れになっていた程度の軽さだったと思う。
 だけどガイドに従っただけで正確に衝撃が伝播し、頭蓋骨を適度に揺さぶられたショウミさんの焦点がぼやけた。ショックで舌を噛みそうになっていたので慌てて親指を突っ込んだけど、口の中に異物が入っても反応らしい反応は何もない。
 そのまま気絶したんだ。
「はあ、はあ……!!」
『念のため汚れたメガネを外し、スマホのライトで瞳孔が反応するか確認を』
 マクスウェルからの助言を聞いているだけの心の余裕はなかった。
 ざくざくと雪を踏み、震える足でこっちに近づいてくる影があった。のしかかったまま、僕はのろのろと顔を上げていた。
「サトリ、君? 大丈夫だった……?」
「すまない委員長。僕は、僕は何も答えてやれなかったっ」
「意味ないよ、あんな問いかけ。お母さんだって正しい答えなんか持ってなかった」
 そうだけど。
 誰にも分からない事なんだけど。
 でもギリギリ追い詰められたところでやってきたイレギュラーな僕にのしかかられて、ショウミさんは苛立ちながらもどこか期待していた。だから言葉を引き出そうとしてくれた。あの時、僕がきちんと答えを返していれば。海風は殺さなくても大丈夫だって、誰も手を汚さずにいつもの日々は守れるって、そんな風にこの人の不安を取り除く事ができたなら、そこで話は終わっていたかもしれなかったのに!!
 ひとまず。
 とりあえず。
 そんな妥協で人を殺そうとしたショウミさんをどうしても止めたかっただけなのに、結局は僕だってそんな言葉と共に安易な暴力に頼ってしまった。当然、残るのは苦い後味だけた。
「……マクスウェル、何か縛るようなものは?」
『ズボンのベルトか結束バンド辺りが妥当では? ビニールロープだと肌に食い込みやすいので、きつく縛ると血行を阻害します』
 ポケットを漁るとケーブルを縛る結束バンドがいくつか出てきた。何故かは聞くな、工作少年のサガみたいなものだ。犬好きの子は服のどこにだって犬の毛をつけていると考えれば良い。ひとまずこれを使って気絶したショウミさんの両手を後ろに回して縛り上げておく。
 そして。
 まだ、終わっていない。
「海風スピーチアは……?」
 委員長は全部放り出してこっちに来てしまった。
 だとすると。
「……、」
 ちょっと離れた場所で、ガードレールに手をついて、重たい体を引きずりながらのろのろと歩く影があった。
 こっちに向かって、じゃない。
 そんな闘志はない。
 みすぼらしい背中を見せて、こそこそ逃げるために。長い金髪を、古い柱時計のように左右へ揺らしながら。
 ……そりゃそうだよな。
 ただでさえ全身に毒が回って、人間だからと侮っていたショウミさんから不意打ちを食らって、今まさに殺されるところだったんだ。謎の組織JBとかアークエネミーとしての矜持なんかない。唇を噛んで羞恥に震えながらでも、今はとにかく逃げるよな。
 警視庁の留置場で射殺されたJB、線の細い青年を思い出す。動画の中では死に際の顔は見えなかった。だけどあいつもこんな感じだったんだろうか。
 でも。
 こっちはそんな身勝手さに散々振り回されて、いい加減にうんざりしてる。そもそも海風が余計な真似さえしなければ、委員長もショウミさんもここまで苦しめられなかったんだ。
 放っておけば、すぐにでもリベンジを始める。
 あの人から投げられた質問に対し、未だにアンサーは出ていない。それどころか、僕は不安に振り回される恩人を鈍器で殴りつけた。
「サトリ、くん……?」
 だけどそんな僕にも分かっている事がある。
 それは、あいつをあのまま行かせる訳にはいかないって事だ。
 人間とか、アークエネミーとかじゃない。
 金槌から変形したような肉叩きを掴んだまま、ショウミさんの上からどく。
 ゆっくりと立ち上がる。
 あいつは。
 あいつだけは。

「サトリ君!?」

   8

 逃げる。
 小さな影が、ふらふらと。
 自分の体を庇うように背中を丸め、時折こちらを無様に振り返りながら。
 ……逃げるって事は心当たりがあるって事だろう。分かった上でやらかして、思った通りにいかなかったから全部放り出して身勝手に逃げ出した。
 見逃すはずない。
 こっちはその目立つ金髪を頼りにするだけで良い。
「へ……」
 自然と。
 そうとは思っていないのに、何故か腹の奥から笑みに似た空気が飛び出してきた。
 めぎりりっ!! と。
 手の中で何か鈍い音が響く。
 だらりと下がった手の中で握り込んでいた、金槌に似た肉叩きのグリップからだった。
 ああ。
 アークエネミーでもプロの殺し屋でもないショウミさんが片手一本で僕の首を吊り上げたのは、こういう感覚だったのか。
 引き止めても。
 先の未来を失うと脅しのような言葉を投げかけても、聞く訳ない。五秒先を追いかけるのだっていっぱいいっぱいなんだから。
 スマホの方じゃなくて良かったと、それだけぼんやり考えた。
「逃げてんじゃ……」
 やっぱり、あの人が肉叩きを初手で投げつけた理由が分かってきた。
 計画性なんか五秒先が限界。逃げる獲物を誘導して行き止まりに追い詰めて殴りかかるまで、いちいち待っていられない。
 心が。
 もっと先まで進んでるんだ。
 だから体がつんのめるようになって、言う事を聞いてくれない。止まってくれないんだ、教科書通りの大正解じゃあ!
「ねェええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
 がづっ! と右腕の動きに引っかかりがあった。
 卑怯者の背中に鈍器を投げつけようとしたところで、慌てて委員長が全力で僕の腕にしがみついてきたんだ。手の中からすっぽ抜けた肉叩きは回転しながらあらぬ方向へ飛んでいく。
 別に良い。
 肉叩きである必要はない。
「だめっ、サトリ君……」
 鈍器なんて石ころで良い、そこらの雪を掘ればいくらでも出てくるだろ。むしろ委員長やあの人に余計な疑いがかかるくらいなら、自力で現地調達した方がクレバーなはず。
 何となく。
 こんな事していたら腕の筋肉なんか千切れてしまいそうだし、そうなったらもう二度と上がらないかもしれないけど。
 いいよ。
 うるせえよ、僕のまともな部分。
「お願い!! あなたまで暴力に走らないで! 私を一人にしないでよおッ!!」
 両足を宙に浮かばせ、振り子みたいに揺れながら、委員長が何か叫んでいた。
 鼻先を良い匂いがくすぐる。
 無防備に両腕を使ってしがみついてくるものだから、柔らかかったり温かかったりでいっぱいだ。格好だけ見れば、まるで肩を寄せ合う恋人みたいだと思う。
 でも、
(逃げる……)
 だけど、
(委員長、あの野郎、リベンジ、ここで逃がしたら、ショウミさんはっ、全部スキュラのせいで、アークエネミー、良い所を探せっ、転校生、友達だった、思わず躊躇うような何か、JB、あいつは僕を狙っていた、僕のせいで、僕がのんびり状況を見送っていたから……っ!!)
 天秤が、揺らぐ。
 秤のお皿に乗っていたコップから、表面張力の限界を超えて何かが溢れる。
 留まるか、突き進むか。生かすか、殺すか。
 諦めるか、振り解くか。
 奥歯が砕けそうなくらい強く歯を食いしばって。
 最後の最後で。
 頭に浮かんだものを、そのまま叫んだ。

「委員長っ!!」

 最高にダサかった。
 喉の裏に張り付いていたものを引き剥がすような、奇妙にひずんだ不気味な声だったと思う。
 だけど直後に、腕じゃなくて首の方に両腕を回された。そのまま二人して雪の上を転がる。
「ああ」
 甘酸っぱい感じじゃなかった。
 倒れた僕の胸にすがりつく委員長は、身も世もなく顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。まるでロシアンルーレットで死なずに自分の順番をやり切ったように。
 それくらい、だったのか?
 ここで、僕が人を殺してしまう確率って。
「ああああっ!! うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 ぼてっ、という間抜けな音があった。
 足がもつれたのか。
 元からガードレールに手をついてふらふら逃げていた海風スピーチアが、力なくマイクロプラスチックの雪へ倒れ込んだ音だった。長い金髪が尾を引くようだった。井東さんの毒。何もしなくてももう限界だったんだろう、いったん前のめりに倒れたスキュラは起き上がる気配も見せない。
 さらに。
「ふぐ」
 だむっ!! と。
 鈍い音と共に、落雷みたいな勢いで妹のアユミが倒れた海風の上へ垂直に落ちてきた。
 実際には屋根から屋根に跳んで、だったんだろう。
 うつ伏せで潰れるスキュラの上で足を揃えてしゃがみ込んだ妹がこっちを見た。
「なにお兄ちゃん! 大至急って言うから急いで来たのに、シビアな現実そっちのけでイインチョと抱き合ってさ。肝心のおばさんはどうなったの!?」
「……お前のそれで決着だよ。殺すまでもないって結論で慰めようと思ったのにさ」

   9

 ひとまずケリがついたように見えるけど、実は何にも終わってない。
 アークエネミー・スキュラ。
 結束バンドを使って海風スピーチアを後ろ手で縛り上げると、どうにかして肩で担ごうとする。
 が、
「ぐぐっ……」
「そりゃ訓練を積んだ消防隊員じゃないんだから無理だよお兄ちゃん。ほれあたしに貸して」
「ショウミさんはこれでひょいひょい雪の上を歩いていたはずなんだけどな……。それからお前はそっちだ」
「ふぐ、おばさん?」
「はっきり言うけど目を覚ましたら僕なんかじゃ手に負えない。暴れ始めたらゾンビの力業で押さえ込んでくれ、任せた」
 そう。
 ひとまず気絶はさせているけど、スキュラは毒が抜けたらすぐにでもリベンジを考える。ショウミさんだってそれを防ぐために全力で海風スピーチアを殺しに行く。娘のクラスメイトだろうが何だろうが、全くお構いなしに。
 これは一時停止。
 根本的な解決になんかなっていない。
「……仕方がない、家まで引きずっていくか」
「ふぐ、イインチョがいかにも手を貸したいって目でこっち見てるけど」
「やだよ、委員長にはいつまでも奇麗であってほしいんだ。こんなのに巻き込めるか」
「ねえちょっとそれ、あたしは?」
 スマホに指先一つでいつでも自由に呼び出せるお手頃少女アユミのジト目はさておいて、だ。
 行き先はひとまず僕の家。
 ショウミさんは委員長に預けて家に帰すべきかもしれないけど、はっきり言って委員長一人じゃ手に負えないはずだ。目を覚まして、まだあの怪力が残っていたら結束バンドや粘着テープくらい簡単に引き千切るはず。
 せいぜい二〇〇メートルもなかったはずだけど、両足を掴んで海風スピーチアを家まで運び込んだ時にはもう両手がパンパンだった。スキュラも制服だったからパンツなんか全部見えてる。ここまでくると、流石に嬉しくも思えなくなってきたけど。
 でも、これで終わりじゃない。
 念のために、もう一仕事。
 息を整えると、僕は玄関にあったスコップやホウキを掴んで、
「……引きずった跡を消してくる。アユミ、ここは任せたぞ」
 黙っていてもはらはらと降り注ぐ雪が覆ってしまうんだろうけど、地べたのマイクロプラスチックに手を加えておいてもバチは当たらない。何も知らない人からすれば、僕達は道端で気絶していた年頃の女の子を自宅に引きずり込んだクソ野郎なんだし。
 毒にやられた海風は、仲間の隠れ家なんかに頼る気配は見せなかった。
 直接の仲間や部下がたくさんいるとは思えないけど、でも、変な正義を出した筋肉青年とかが張り切ったら面倒だ。災害で閉じ込められてフラストレーションが溜まっている時なら、正義とストレスのはけ口を混同しても不思議じゃない。ここまできてさらに引っ掻き回されるのは流石に勘弁してほしい。
 それから、そうだな。
「……スキュラを捕まえたって聞きましたけど、先輩」
「うん」
 ひとまず後輩ちゃんと連絡を取って合流してみた。ひとしきり作業を終えて自宅に戻ると、
「ひっ!?」
 やはり毒の効きが弱いのか、リビングですでに目を覚ましていた海風が井東さんの顔を見るなり尻餅ついたまま床を後ずさった。両手は後ろで縛られているので、短いスカートが結構危うい事になっている。いやまあ気絶したこいつを引きずっている間に全部見ちゃったんだけどさ。
 そう。
 スキュラについては、より格上のキルケの魔女を連れてくれば物理的に封殺できる。そのためだけに四六時中井東さんをひっつけておく訳にはいかないから、これもその場しのぎの一時停止なんだけど。
 後輩ちゃんは華奢な腰に片手を当てる。
 ぞるぞると、腰の後ろからクリアパーツな感じのクラゲ触腕が這い出てくる。
「……もう起きているみたいですけど、もうちょい強い毒でも刺しますか? ああでも、変に抗体ができていると二回目からはアナフィラキシーが起きるのかな……」
「いや、これで良いんだ。いつまでも目を覚まさないようなら解毒剤を作ってほしかったっていうのが本音だし」
「えと?」
 可愛らしく小首を傾げる井東さんは、クラゲ触腕を曲げてでっかいハテナマークを作っていた。
 毒の痛みは散々思い知らされたんだろう。後ろ手に縛られたまま壁に背中を預け、正座を崩したような格好でガタガタ震える海風に、僕は身を屈めてこう質問した。
「JB」
「っ」
「自信満々に言っていたな。アンタは最初から僕を狙ってプレッシャーを与えるために、こんな事をしでかした。さて、僕が何を言っているかは分かるな? 『こんな事』は、何も学校占拠の話だけじゃないぞ」
「……、」
「そもそもの始まりの話をしよう」
 マクスウェルも言っていた。
 マイクロプラスチックの雪。これは単なる人災ではなく、十中八九人為的な攻撃だと。
「JBはどこまで関わっている? アンタは向こうのシミュレータ・フライシュッツを組んだ人間か、それとも顎で使われる人間か。そして、お前達を叩けば何がどこまで回復するんだ」
 ……一見威圧的だけど、実はこれを聞いている時点で後手に回っている事を告白しているようなもんだ。海風のスマホは没収したけど、マクスウェルの力でも侵入はできなかった。どれくらいシミュレータに依存していたかは分からない。
 ただし。
 手元の機材を没収してしまえば、海風も恩恵を受けられなくなる。モバイルがなければ僕はただの高校生。それと一緒だ。
 気づくなよ。
 このまま呑まれてろ、頼む。
「そ、それを話して……」
 びゅる、と後輩ちゃんのクラゲ触腕が蠢くのを青い顔でチラ見しながらも、海風はこう返した。
「私に何の得があると言うのです?」
「あの人を説得できる」
 井東ヘレンじゃない。
 僕が親指で示した方を海風が見ると、そこでガタガタッ!! と勢い良くひっくり返った。今度こそ、盛大に下着が丸見えになってしまう。
 そう。
 ショウミさんがソファの上で寝かされていたんだ。
「僕だってあの人を人殺しにしたくない。だからお互いにとっての落とし所を見つけよう。……アンタがいないと、マイクロプラスチックの雪は解決しない。アンタが手を貸すから、娘の委員長は助かる。そういう図式があればあの人を押し留められる。だから、話せ。あの人が目を覚ますよりも早く」
「……、」
「できなければ、多分、もう流血は避けられない。そうなったら結束バンドは刃物で切るから、とにかく全力で逃げろ。僕達はアンタの仲間じゃないけど、さっきも言った通りあの人の手を汚させる訳にはいかないんだ」
 変な脅しじゃない。
 誇張もしてない。
 ただの事実だ。それが一番怖い時だってある。嘘やパニックで閉鎖環境にいる群衆をコントロールするスキュラだって、だからこそ、真実の価値については人一倍理解しているだろう。
 あの人は、止められない。
 世界の全部を天秤にかけても替えの効かない大切なものを守るためなら、どんな事だってする。
 本当に本気になった人の親がどれほど恐ろしく豹変するか。
 それくらいは。
 いい加減に、分からなくちゃダメだ。
 海風はごくりと喉を鳴らして、頭の中でどう考えても状況を打開できないと悟ったのか。やがて唇を開いて、乾いた喉を動かして、震える声でこう切り出したんだ。
「……か、カリュブディスの話をしていましたわよね?」
「スキュラとペアの怪物だろ。パニックで攻撃的なカタマリとなった学校の連中が『巨大な怪物』だった」
 スキュラ自体は強大な力を持つアークエネミーじゃない。別の怪物、カリュブディスが大暴れしている間にこっそり脇を刺して漁夫の利を狙うのがスキュラなんだ。
 が、
「厳密には、正しくありませんわ」
 海風は確かに言った。
「確かに怪物はいます。私は漁夫の利を狙う専門家でもあります。ですけど、それはパニックで暴れる群衆ではありません」
「……?」
「だって、船の上で翻弄されているのは勇者達……つまり私が食べる『餌』ですのよ。コントロールはできますが、対等のパートナーにはなりません」
 なら、一体何が。
 あるいは『人を呑み込む巨大な怪物』っていうのはシミュレータのフライシュッツか、いや違う。
 考えて……そして、思い至った。
「マイクロプラスチックの雪は、大きな船を揺らしてそこに乗る勇者達をパニックに襲わせるための大嵐……つまり、人為的に作られた災害でした」
「そうなると、まさか嵐を生み出す巨大な海の怪物っていうのは……」
「今も沖で燃えていて、絶えず雪を撒き散らしている貨物船ノーブルインゴット号。それがJBの用意した私のパートナー、カリュブディスです。……ただし、それだけとも限りませんけれど」
「?」
 予想外の上、脇道にまで逸れ始めた。
 少しでもイニシアチブを取れて緊張の糸が緩んだのか、海風はくすりと笑って、
「おかしいと思いませんでしたか? 貨物船火災。出火してから数日経っても鎮火の気配を見せない有り様ではありますが、周りを囲んでいる消火艇だってプロの道具ですわよ。本当に何の理由もなく『火が消えない』なんて話がありまして?」
「……消えない炎? けど、そんな大それたものをJB用意できるのか。マイクロプラスチック絡みなら、僕だって普通の消火ホースでヒュージカメラ近くの小火を消してるぞ」
「地面に積もっている雪であれば」
 金髪少女、だとここに何人かいるか。
 性悪金髪はこう言った。
「ですけれど、貨物船はマイクロプラスチックが噴き出す源泉でしてよ。空気中に飛散している量が違うのです。海保の方々は石油製品対策として泡の化学消火剤を使っているようですが、船の甲板や床にべったり押し付けるだけでは足りません。現場は、濃度によっては空気中でも燃え広がる。平たく言えば、重たい化学消火剤ではすり抜けてしまうのです。引火の危険がある領域、空中をね」
 ……カリュブディスはその巨体で大渦を作り、勇者達の乗る船の身動きを封じる怪物。
「なんて事だ……。消防隊? 海上保安庁? とにかく救助のプロがどれだけ頑張っても、すり抜けて空回りに終わるだなんて」
「ですけれど、その間違いさえ正す事ができれば貨物船ノーブルインゴット号は火の勢いを保てませんわ。後はそれを、この停電の中でどうやって伝えるかではありますけれど」
 ようやくだ。
 僕達のゴールが見えてきたってところか。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第三章

【crawler search】私刑【you need word!】

 現状存在している法律が機能しない環境にいる、または刑罰が不足していると『当事者の主観で』感じられた場合に、刑務の執行機関以外の個人や集団の手で行われる私的な暴力。無人島に流れ着いた一集団が秩序を保つため、法の裁きが軽すぎるとして行われる追加の制裁、などが該当する。
 例えばあなたが犯罪組織の中での仲違いや私的な賭博の配当金の不払いなどのトラブルに見舞われた場合、警察や裁判所に相談する事はできないと容易に想像がつくだろう。すると、自然とこうした独自ルールに基づく制裁、私刑の出番が多くなる訳だ。

 ただし、根本的には秩序を保つための過剰な暴力であり、金が欲しい、あいつが気に食わない、などの理由で振るわれる一対多数の暴力は私刑とは呼ばない。今ではリンチという言葉だけが一人歩きしているが、例えばあなたが仲間と共に強盗や暴行などの目的で標的を取り囲み、一方的に殴る蹴るだけでは私刑の要件は満たさない。
 善なるルールを補強するための暴力。
 これが本来の私刑の定義と言えるが、そもそもあなた一人の判断が通常法規に勝ると考えて実際に他者を害してしまう事そのものが犯罪的な行為であるという単純な事実を、あなたは忘れてはならない。

 弱者を殴ったら問答無用で死刑というルールを周囲に強要する事で、あるいは無抵抗に従って手を汚す事で閉鎖環境の秩序を保ったとして、外からやってきた人達があなたを許す展開はまずない。その場合、災害や紛争の現場であろうが警察は普通に科学捜査で実行犯であるあなたを正確に割り出し、裁判長は粛々と通常法規に基づく判決を言い渡すだけだ。
 こちらもやはりエンタメ作品から普及したためか、正当防衛やカルネアデスの板という言葉だけが広く一般に伝わってはいるが、実際に裁きの場で適用される事はほぼないとあなたは考えるべきである。
 極限の環境では奇麗ごとが通じなくても、ウチには赤ちゃんがいようとも。それら例外項目は全て明文化された通常法規を根拠とせず、あなたが自分一人で決めた何となくの定義に過ぎないのだから。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第三章

   1

 音を立てないようにドライバーを動かしている内に、とんとんと軽い足音が階段の方から響いてきた。
「……あえ? お兄ちゃん何してんの、おあよー」
「嘘だろオイ……」
 吸血鬼の姉じゃなくてゾンビの妹のターンがやってきた。だとすると……。
 呻いて窓の方へ目をやると、くそ、カーテンの隙間から朝日がチラ見せしてやがる。
 脱衣所のドアの上。ブレーカーのカバーを外して格闘していたのに、もうこんな時間だ。両目を擦りながら近くのドアノブを掴もうとするぶかぶかTシャツ一枚のアユミに、念のため警告しておいた。
「トイレ動かないぞ」
「はいい!?」
「流すなら風呂場の溜め置きバケツに汲んで持っていくしかないな。……ちくしょう、やっぱり家の問題じゃないぞ、もっとデカいレベルの停電だ」
『だから言ったじゃないですか』
 うるさいな、このスマホの充電も何とかしないといけないんだぞ。
 マクスウェルの本体は港のコンテナヤードに置いてある。一般家庭とは別口の変電・送電経路を辿る業務用の電源は生きているんだから、電気メーターなり配電盤なり、てっきりこの家のどこかで導線が切れたんだと思ったんだけど……。
『発送電の分離、水道の自由化、ガスについては言うに及ばず。生活インフラも民営化の波で様々な形式に分かれましたからね、ものによっては一般送電網に相乗りした中規模施設もあるのです』
「非効率の塊だ……」
『せっかく民営化したのに、これまでと同じラインを使うだけでは個性を出せません。料金が一律であれば一日の長、大口に客を取られてジリ貧に陥ります。ソーラー電力を買い取ってエコ減税を獲得するとか、ガス管で送ってもらった都市ガスを燃やして現場で電気を作るとか、それはそれは不思議な値下げ策を並べようとするでしょう』
 だとすると大元の発電所じゃなくて、途中で枝分かれする送電線か変電所だな……。
 一般家庭は軒並み停電だけど、別口の業務用電源に支えられた工場や浄水場は生きている。だけど新興勢力の中には家庭用電源を使ったインフラ施設もあるから、そっちが先にダウンした、か。
「義母さんめ……。ケータイ会社から変なパンフもらっていると思ったら」
 状況を受け入れられないのか、ドアの前で石化している裸足にTシャツの妹は放っておいで、だ。
『街が丸ごと停電したというよりは、総電力の四割の消失を周りが補おうとした結果、全体の電力供給が不安定化しているのが近いです。いわゆる完全なブラックアウトではないのでご安心を。冷蔵庫の中身については扉の無駄な開け閉めさえしなければしばらく保つでしょう』
「一秒後に停電するかもしれない状況でデスクトップの電源ボタン押せるか? 変わんないよ、リスクは」
 ……手回し発電機のついた防災ラジオだかテレビだか、義母さんが何かの気紛れで買っていたような。けどあれ具体的にどこ行った?
「見つからなかったら自転車のライトのダイナモでも改造するか……。このスマホ五ボルトの何ミリアンペアだっけ?」
『空回りが過ぎますよ。やはりホットミルクでも飲んでベッドに飛び込むべきだったのです』
「……人間はそんな単純にできてないよ」
 大盛りのカップ麺をかっこんだ直後だってここまで寝にくい事はないだろう。なんていうか、胃袋が重たい。
 とにかく多過ぎだ、怪我人……。夜の間ずっと傷口を押さえたり手を洗ったりを繰り返していた気がする。
 駅前の繁華街に集まっていた連中はほとんど感電ばっかりだったけど、それでも二、三〇人は直撃だった。ビル壁に張り付いてそのまま固まっていた、マイクロプラスチックの塊でできた『ギロチン』に。
 あのビジュアルは思い出したくもない……。
 薄々騙されているのは分かっていて、『それでも誰かが言っていたんだから』を言い訳にして暴れようとしていた連中だ。むしろ、暴動が止まらなかったらヒュージカメラの店員さん達はどうなっていた事か。だから自業自得だって? 悪いけど、割り切れない。同じ街の人達なんだ。真っ赤になった肩や足を押さえて子供みたいに泣く人達を見てまだ冷笑を続けられるとしたらよっぽどの野郎だ。
 救急車を呼んでも確実に来るかは分からない状況だった。
 変な被害者意識で暴徒達が一致団結してくれて助かった。列車が止まっていたせいもあるんだろうけど、車で来た人が結構いたんだ。僕達は怪我人の傷口を洗ってボロ布で縛り、比較的大きなバンやSUVに詰め込むくらいしかできなかった。無事に病院に着いていると良いんだけど……というか、病院が正常に機能している事を祈るしかない……。
 正直に言うと、学校なんか行きたくなかった。
 気力がない。
「……電気はもちろん、ガスも水道もダメ。だとするとパンも焼けないぞ。冷蔵庫の中身も何とかしないと」
 それでも朝のサイクルを回そうとしているのは、委員長の件があるからだった。SNSで確認くらいじゃ足りない、きちんと顔色を見て、昨日の件をどれくらい引きずっているかを知っておきたい。必要ならケアについても。
 心の傷は、引きずる。
 僕はそれを知っている。最初の両親が離婚した前後には、散々委員長に救ってもらったんだ。だから絶対に、対応を誤る訳にはいかない。

   2

 また、季節外れの雪が積もっていた。
 沖で燃えている貨物船から舞い上げられた大量のマイクロプラスチック。羽毛や毛糸みたいに空気を溜め込むと、ちょっとした火種でも簡単に燃え上がる恐れがある。
 しかしご家庭の水道は不安定で、蛇口をひねっても水が出るとは限らない。ホースで定期的に水を撒いて予防……なんて保険もかけていられない。
「学校はまだ水が使えるのね……」
 デコメガネ委員長が校庭の水飲み場の方へ目をやりながらそんな風に呟いていた。ちょっと疲れたような、それでいてホッとするような。飲み水、シャワー、トイレ。彼女も朝の内に何かしらの洗礼を受けたんだろう。
「公園や学校はいざという時の広域避難所だからな。貯水タンクに貯めている分か、特殊な送水管で繋がっているのかは知らないけど」
「そう」
 委員長はそれだけ答えた。
 昨日の事もあって気がかりだったけど、意外と受け答えははっきりしていた。断水に停電。間近に迫った目に見える問題に追われて、ショックを受けている場合じゃないのかもしれない。卒業式の後すぐに一人暮らしの準備を始める感覚に近いのかな。
 昇降口には濡れたマットが置いてあった。ぐしぐし踏んで靴底のマイクロプラスチックを落としてから脱いで下駄箱に突っ込む。どっちみち上履きには履き替えるんだけどね。
 教室に入ると、長い金髪にいくつかの節をつけて一本にまとめた女の子、海鳥さんが声を掛けてきた。
「おはようございます、天津君」
「うん」
「何でも車のバッテリーがあちこちで盗まれているみたいですわね。あと、畑を潰して並べたソーラーパネルとか」
 ……気持ちは分かるけど、一体どこに設置するつもりなんだ。盗んだパネルだって陽当たりの良い、つまり誰の目にも留まる開けた場所に置かなきゃ発電できないっていうのに。
 教室の隅の方でわいわい人が集まっていた。そうか、学校は電気も通っているんだな。
 業務用の電源なのか、広域避難所の発電機なのかは知らないけど。
「天津君はスマホ大丈夫なんですか? べったりみたいですけれど」
 どうやら視聴覚室から長い電源タップを持ってきたヤツがいるらしい。タコ脚配線で、ケータイスマホかモバイルバッテリー辺りの充電コーナーと化しているようだ。
「……しっかし、ここに来るとドッと疲れるな」
「分かる」
 委員長に同意されてしまった。
 電気も水道もあるんだから逆だろう、と思う人もいるかもしれない。でもそうじゃないんだ。
「まともな生活できるのって、もうここだけ? 一歩外に出たら、電子レンジも使えずに給水車を待つレベルにまた逆戻りなのね……」
 ダイエットしている最中に、コンビニのチョコレートコーナーが目に入ってしまった感覚に近いだろうか。あるいは夏休み明けの憂鬱? 便利で快適な状態は、必ずしも安寧をもたらしてくれる訳じゃない。あらかじめ取り上げられると分かっていれば、宝石の輝きだって苦痛でしかないんだ。
 というか、給水車なんかほんとに走っているのか?
 家の中でじっとしているだけで、やっていけるのか?
 ため息をつく僕達を、海風スピーチアさんはじっと観察していた。
「……、」

   3

『学校を避難所にするべきだと思うのです』

 二時間目くらいだったかな。
 もう休んじゃえば良いのに律儀に仕事へやってきた数学教師が黒板に向かって板書している隙を突いて、そんなメッセージがスマホに飛んできた。
 ここで隣の席に視線を投げるようでは早弁が見つかって叱られるお間抜けさんと変わらない。事実、海風さんもしれっとした顔で黒板の内容をノートに書き写しているはずだ。
 ちなみに海風さんのSNS上の『繋がり』も分かってきたんだけど……。僕には転校の経験はないが、こうして見る限り海風さんは前の学校の友達とも普通に繋がっているみたいだ。直接の知り合い以外だと、スポーツはテニスまわり、それから意外と激しめのロックバンドを好んで追いかけているらしい。
『ぶっちゃけ、電気ガス水道が止まった家に帰っても途方に暮れるだけでしょう? どういう仕組みか分かりませんけれど、学校はまだ文明が残っているみたいです。今日は帰りたくないってみんな考えているんじゃありませんか』
 ……かもしれない。
 姉さんやアユミの事があるから手放しで家を空けられないけど、特に大きいのがエアコンだ。味わってしまうと止まらない。正直に言うとテレビやネットはスマホで事足りるし、学食や購買に期待はしないとして、備え付けの電気ポットや電子レンジが動くだけでも大分安心感が違うだろう。
 何より、水が使えるのが心強い。
 単純な飲み水や生活用水もそうだけど、水さえ事前に撒いておけば一面のマイクロプラスチックの雪が燃え上がる大火に襲われても、かろうじて学校の周囲だけは守れるかもしれないんだ。寝泊まりする場所を要塞化できるのは非常に強い。
 けどな……。
 僕は数学教師には見つからないよう机の下でスマホをいじくって、
『仕組みが分からない。学校って泊まって良いの?』
『文化祭の準備とかで普通に寝泊まりしません? 逆に書類で届け出が必要なんて話、聞いた事がありませんけれど』
 それはそうなんだけどさ。
 隣の金髪少女ではなく、マクスウェルの方に話を振ってみる。
『ノー。そもそも文化祭ルールは何となく続いている慣例でしかなく、明文化されてはおりません。根拠とするには弱いですね。居住か宿泊かで線引きは変わりますが、前者なら建築基準法の居住要件、後者なら旅館業法や民泊ルールとバッティングします』
『そんなものなのか?』
『屋根があればどこでも暮らせる訳ではないですよ。公民館や電話ボックスに居着くのはルール違反です』
 らしいよ、とコピペして送りつけてみても、金髪のスキュラさんはまだ納得できないようで、なんかぷりぷりしてる。
『学校は困った時の広域ナントカなのでしょう? 今こそ開放すべきではなくて』
『全くその通りなんだけどルールが分かんないんだってば。なに、開放って言ったって学校の持ち主は僕達生徒じゃないし、一体誰に泣きつけば良いの? 校長先生、それとも市長さん?』
『シュア。広域避難所の使用権限を持つのは地方自治体の長ですから、県知事のサインが必要ですね。しかしそもそも災害に指定された状況ではないので、ルールブックのフローチャートだけ指でなぞってお役所判断された場合、敢えなく却下の見込みが高いです』
『なんか抜け穴は?』
『今回のマイクロプラスチックの雪は分類上、海上火災から派生した煙害または化学被害とは思うのですが、「思う」では足りないのでしょう。法治国家とは、法律で明文化された内容の範囲内でしか対処のできないシステム構成をしています。よって、感情や常識でこうだろは通じません。例えばぺろんぺろんもこもこ災害が目の前で起きたとしても、すぐさま自衛隊を投入する事はできないのです。まず、ぺろんぺろんもこもこ災害とは何かが厳密に定義されない限りは。従って、関係各省庁の役人達が膨大な書類と睨み合い、不足分を追加の条項で埋めるまでは外からの支援は望み薄と見るべきではないでしょうか』
 うわふきだし連投!?
 内容がネガティブって分かってると読むのが辛いヤツだ。
『それ、フローチャートにないとダメなのか。なんか例外扱いとか……』
『ノー。広域避難所の備品を使ってバーベキューパーティをするのはNGなのと同じく、用途外の使用は禁止されておりますので。書いていない事はできない、がお役所の基本ですから地震カミナリ火事オヤジという昔ながらのカテゴリに収まらない、マイクロプラスチックの雪なんて新参者には書類の方が対応していないのでは』
『だってさ』
『これ誰の意見なの? 現実に困っているのに街の外にいる人がボツにするなんて納得いきません!』
「海風、海風スピーチア。ちょっと答えてみろ」
「っ」
 びくっと海風さんが肩を縮めた。
 ヒートアップするあまり数学教師から目をつけられてしまったようだ。ただでさえ金髪の転入生なんて目立つのに……。
 ああもう、
『マクスウェル』
『シュア。楽の勝です(`・ω・´)』
 仕方がないのでスキュラさんのスマホに黒板の問題の答えを送っておいた。こんな混乱下でモバイルなんか没収されたら、無事に返ってくる保証はどこにもないしね。

   4

 最初はそんな風に、水面下のさざ波みたいなやり取りだったはずだ。
 やっぱり一気に表面化して爆発したのはお昼休みだった。
 多くの生徒達が交流する時間っていうのもそうだし、甘い見積もりで学食や購買に向かった連中が何も買えずにフラストレーションを溜めまくったのも手伝ったんだと思う。
 まさしく火に油。
 あちこちで怒鳴り声にも似た不満の声が上がり始めた。
「生徒会は何やってんだよ!?」
「先生達は職員室で呑気に弁当食べてるのにさ、何で俺達だけ……」
「なあ、タンガンショってこれで良いのか? ネットに書き方のフォーマットってのあるんだけど!!」
 ……わあわあ騒ぎたいだけの人もかなりいそうだけど、はけ口にはされたくないな。
 デコメガネの委員長が近くに寄ってきて言った。
「サトリ君、外出る?」
 何で、と聞くほど野暮じゃない。お腹がすいてイライラしているなんて次元ですらなかった。きちんと自炊でお弁当作ってきた先生まで槍玉に上げられているんだ。購買に行けば無限に惣菜パンが出てくるなんて考えていた、先を読む力のない残念な食いっぱぐれ連中から変な逆恨みはされたくない。
「……海風さんの言っていた学校避難所説だけどさ」
「うん」
「言うほどパラダイスじゃないかもな。このピリピリした中で壁も仕切りもない雑魚寝だろ、ちょっと居眠りした途端に何盗まれるか分かったもんじゃないぞ」
 気の合う仲間だけなら楽しそうなんだけどね。生憎、全校生徒レベルだとそれだけで済むとは限らない。
 特になんて事のない、階段の踊り場でご飯を食べた。今日は電気も水道も使えなかったからか、委員長は買い置きらしき菓子パンを端から小さく噛んでいる。
 やがて、幼馴染みはおずおずと言ってきた。
「……けどさ、サトリ君」
「うん」
「給水車って来ると思う? 屋根の雪かきで道路に落としたマイクロプラスチックの回収も止まっちゃったのに」
『ノー。水の需要にもよりますが、馬鹿正直に巡回したら車が襲われそうですね』
 スマホの画面は見せられなかった。
 状況が四の五の言っていられなくなってきた。でもそこで妥協したら、ずるずる下降していく。ここで天秤を意識してしまうのは間違いなんだ。
 冷静に。
 いつもの自分を保て。
 ……それでいて大事なのは、周りも同じ速度で歩いているとは限らないって事。僕達よりも早く限界が来て、妙な奇行に走る連中は現れるかもしれない。成人式の馬鹿騒ぎを見れば分かる通り、人は、理由さえ与えられたと『思い込めば』平気でレールから外れる。実際には成人式なら暴れても良いなんて保証は誰もしていないのに、だ。学校なんて大多数は他人の集まり。そっと警戒しておくくらいあってもバチは当たらないはずだ。
「ここ学校よね」
「うん」
「……何だか火薬庫みたい。本物なんて見た事ないけどさ」

   5

 だから、だ。
 それを突然と言ってしまうのは、やや語弊があったのかもしれない。

 ががっキィィンッッッ!! と。

 午後イチの授業中だった。突然教室のスピーカーから炸裂したノイズに、思わずみんなで顔をしかめたんだ。
「何よっ、いきなり……」
 一番に不快感を露わにしたのは自分の発音を遮られた英語の女教師だった。彼女が細い顎を上げて見上げたのはやっぱり音源の方だった。
 ただの故障って感じじゃなくて、みんなで何かを待つような空気になったのは、スピーカーの方からガサゴソと布を擦るような音があったからだろうか。
 この現象には意図がある。
 誰かいて、何かしようとしている。
 僕だけが机の下でスマホを操っていた。
『マクスウェル』
『外からオンラインで放送機材を操作している形跡なし。極めて高確率で直接放送室の中からスイッチを入れています』
 ……だとすると、始まったか。
 ややあって、震えるようなか細い少年の声があった。機材設定を間違っているのか、耳をつんざくようなボリュームで。
『せっ、せいと、ぼく、あ、生徒会会計の山垣(やまがき)って言います! よろしくお願いしますっ!!』
「っ」
 内容どうこうよりも、まずその大音量に耳を塞いでしまう。
 つっかえつっかえの言葉は緊張でガチガチといった感じだった。
『おかしいとっ、思うんです! 学校は避難所で、決まってて、決まっているのに!! こんな緊急事態でも使わせてくれっ、ないだなんて! 困った時の、じゃないですか。ぼく、あの、やるべきだと思うんです。あの!』
 落雷みたいな金属音があった。ドアが勢い良く開け放たれたのか。男性教師らしき要領を得ない怒鳴り声と、揉み合うような音が続く。
『せんきょっ』
 だけど途切れない。
 おそらくは取り押さえられながら、言ってはいけない一言が出てしまう。
『みんなで決めましょう! ぼく達の学校だ、ぼくらで決める!! 避難所としてここを使うかどうか、みんなで……うあっ……!?』
 スイッチというよりケーブルを引っこ抜くような乱暴さで、放送は唐突に途切れた。
 しばし、誰も何も言えなかった。
 無言の時間があった。
 机の下、手の中でスマホだけが小刻みに振動していた。
『警告』
『分かってるっ』
『経緯に不明な点が多く、自発的行動とは思えません。自分の主張を通したいけど後ろ盾が何もないクラスのお調子者達におだてられた、などの思惑を感じます』
『重要なのはそこじゃない。もう始まってしまったんだよマクスウェル!』
 手の届く範囲だと隣の席の海風スピーチアさん。それに少し離れた場所にいる委員長は絶対外せない。抱え込むにしてもこの二人が限界かっ。
「……な、なによ」
 やや上ずった声を出し、自分で仕切り直すように女の英語教師が取り繕った笑みを浮かべた。
「非常時だからって常軌を逸した行動が許される訳ではないわよ、みんな。アメリカでは災害時、建物に閉じ込められた場合は斧で扉や壁を壊すんだけど、実はあらかじめ施工上安くて脆い場所を決めておくの。緊急時でもどこまでやって良いかを前もって決めておくのね。まったく、これだから有事は起こらない前提の日本人は……。ほらほら、授業に戻るわよ」
 でも。
 だけど、だ。

 無言が終わらない。
 英語教師の言葉は、真っ暗な洞窟の奥へ吸い込まれるように消えていく。

 凝視。
 そして少しずつだが確実に膨れ上がっていく、怒りの空気。
 午後イチなんだ。
 午前中とは事情が違う。もう何時間もしたら放課後になって、全校生徒が例外なく学校から締め出される。電気も水道も使えない、砂粒みたいなマイクロプラスチックだらけの街へ突き返されるんだ。そういう実感がじわじわ追い着いてくる頃合い。ゴールデンウィークや夏休みだって、同じ休みでも最初の一日と最後の一日は感じ方が違うはず。
「な、なに……?」
 三〇人なり四〇人なり詰め込まれた空間とは思えない、自由のない無。
 気圧されたのか、それを子供達に悟られたくないのか、やや強めに女教師は声を張り上げている。
「ほら授業! みんなテキストを開いて。出席番号で、ええと、とにかく読み上げてもらうわよ!!」
 でも、ダメなんだ。
 正しいか正しくないかじゃない。ちくしょうっ、さっきの放送。今こんな場面で、不満の塊になっている大多数の前で選挙とか多数決なんて相性最悪の言葉を持ち出しやがって……!!
 極め付けに、放送のラストは男の先生との揉み合いで遮られていた。まるでありもしない圧政の記号化だ。誰さんだったか早くも忘れそうになってるけどあのボソボソ声、場に火を放つやられ役としては一〇〇点満点過ぎるッ!
 スマホが震える。
 だけどこれは、マクスウェルからじゃない。
『つっても、あいつは昼メシも食ったんだろ。自分だけ……』
『先生は車じゃん。バッテリーあるから電気使えるし、エアコンだって』
『いつまでじっと言う事聞かないといけないの、あたし達。お行儀良く列を作ったまま飢えて死ねって?』
 早い。
 スクロールが追いつかない。
 そして水面下、クラスの連中のSNSから始まった不平不満は、あっという間に現実世界に顔を出してきた。
 枯れ草の上に投げた煙草の吸い殻。そこからわずかに時間を空けて炎の壁が立ち上るように。
「……けんな、おォ……」
 何部だったか忘れたが、口火を切ったのは体育会系のガタイの良い男子だった。
「こっちは何にもねえんだよ。昼も食ってねえし、それ言ったら朝も抜いてっし、夜だって何にもねえんだ! センセー一人だけ肌も髪もツヤツヤでどうなってんだオォ上から目線か!?」
 こいつの食糧事情なんて知った事じゃないし、マイクロプラスチックの雪を降らしたのは先生じゃない。だけど因果が繋がっているかどうかはもはやどうでも良くなってきている。
「落ち着きなさい、落ち着いて……」
「その余裕があるのは先生が食べてるからじゃん」
 多数決が、崩れる。
 逆転する。
 いきり立った一人を何とかすれば丸く収まると考えていたんだろう。英語教師の肩がびくりと震えた。状況が予測できる恐怖のレベルを超えたんだ。
 そう。
 自分のルールで異常な状況に立ち向かえる間は、怒りや恐怖はあってもパニックなんて起こらないんだ。常識を持っている側が大多数から孤立するほど恐ろしい光景はない。
 あの委員長や海風さんが呑まれているとは思わない。だけど彼女達だって迂闊に止められないって考えてしまうくらい、場がピリついてるのが分かる。
「俺は悪くないよ。先生が何とかしてくれないなら、俺だって何もしねえし」
「つか馬鹿にしてんでしょ」
「不安なんだよ! 気持ちが収まらねえんだ、これじゃ何も頭に入らねえっ!! なあ、なあなあなあ! 何かケアとかしてくんねえの!?」
 天井から、ドッ!! ズズン!! という激しい振動があった。頭の上まで持ち上げた机を思い切り床に叩きつけたってあんな揺れになるだろうか。
 もうここだけじゃない。
 学校全体がおかしくなってきた。
「先生」
 ほとんど泣きそうになっている英語教師が、僕からの呼びかけに希望の光でも見た顔になった。今となっては少なくなった、常識を知る者同士。連帯感。だけど期待には添えない。こっちが抱えられるのは委員長と、後は最短、せいぜい隣の席にいるスキュラの海風さんくらいが限界だ。
 だからもう。
 叫ぶしかなかった。

「逃げろ!!」

 僕?
 全員の視線がそっちに集中したタイミングで、隣の席にいた金髪少女の手を取った。それもかなり強く。
「きゃっ」
「委員長!」
 もうなりふり構わなかった。
 安全な場所なんてどこにもない。波に呑まれないよう、位置取りだけ気を配った。見知った幼馴染みへ走って近づくと、そのまま勢いを殺さずに体当たりする。
 何故?
 どこまで?

 答えは窓。
 そこが最短最速の脱出コースだ。

 ガラスを割って、三人まとめて宙に投げ出された。ここは三階。下がアスファルトなら相当危ない高さだけど、もちろんマクスウェルにシミュレーションもさせずに蛮行へ走るほど愚かじゃない。
 下は花壇。
 しかも建物の壁際は雪下ろしや道路整備で寄せたマイクロプラスチックが山のように積んである。それこそメートル超え、高跳び用の分厚いマットよりも分厚いはず。
「ぷはっ」
「さっ、サトリ君。やりたい事は大体分かるけど、次からは前もって教えてもらえる!?」
「心臓バクバクで声ひっくり返ってるトコ申し訳ないけど、そんな余裕があったらもっと良い手が浮かんでる!」
 甲高い破壊音が頭上から響いて、思わず首を縮めた。かなり近い場所にバラバラと透明で鋭い雨が降ってくる。
 放心したまま目をやった海風さんが、正体を知ってギョッとしている。
「ガラス、ですわよ!?」
「あれで終わるとは限らない。窓なんか椅子を一つ投げただけで簡単に割れるよ。離れて、壁際から離れるんだ!! 早く!!」
『魔女の薬』で様々な動植物の性質を体に取り込むアークエネミーとはいえ、井東さんとかもかなり心配だ。ひとまず安否を知りたくてスマホからメッセージを投げるけど、今からしてやれる事が見つからない。学年が違うっていうのはやっぱり大きい。
 振り返り、改めて見上げた校舎はもはや死の迷宮だった。
 罵詈雑言に破壊音。誰かがボタンを押したのか、火災報知器のベルのけたたましい大音響まで混ぜ合わされている。起立、礼、着席の秩序なんてものは見当たらない。……『壊滅』したんだ、学校は。
「……これから、どうする、の?」
 へたり込んで僕のブレザーをちょこんと掴んだまま、不安そうに委員長が呟いた。どうする。選択肢を欲しているという事は、ひとまず荒れ狂った教室に戻ろうなどとは考えていないみたいで何よりだ。
 そして。
 なら、具体的にどうするか。
 学校にいても授業にならないどころか、身の安全まで脅かされる。電気や水道が使えると言っても、まさかあんな中で無防備に雑魚寝で眠りこけたいなんて思わない。……率直に言ってもはやメリットなし。誰にも気づかれない間にさっさと下駄箱から靴だけ取って、帰ってしまった方が良さそうだけど。
 ただし、
「派手に騒いでいますわね……」
 実際に昇降口までそろりと忍び寄った辺りで、海風さんが眉をひそめた。本人は真面目なんだろうけど、あの金髪を後ろから見ているとどうしたって目立つだろと言いたくなる。
 しかしあの騒ぎは、何をやっているんだろう? ガラスでも引き戸でもない。そこかしこから、まるで鉄筋コンクリートの壁でも壊しているんじゃないかってくらい大きな音が響いてくる。
「ひい、ひい」
 情けない悲鳴を上げて男性教師が外へ逃げ出していく。手を引っ張っているのは……ああ、さっきの英語の女教師だ。ひとまず無事なのは良かったけど、あの二人、実はできていたのかな。
 ともあれ直接追い回されている訳ではなさそうだし、こっちもこれ以上余計なものは抱えていられない。下駄箱の陰に入ってやり過ごす事に。
 学校避難所説を早い内から唱えていたスキュラの海風さんだけど、まさかこんな世紀末になるとは思ってもいなかったんだろう。その顔は少し青い。
 僕も呟いていた。
「放っておいたらまずいかも……」
「また火事が起きるって? サトリ君、全部が全部相手にしていたら追い着かないよ」
「そうじゃないんだ。下手すると昨日の夜よりもっとまずい」
 僕は下駄箱の陰から廊下の方へ目をやる。
 僕だって自分からトラブルの種を見つけたい訳じゃないけど、くそっ。
「委員長、海風さん。アンタ達はとにかく敷地の外へ」
「あっ、天津君は行かないんですか?」
「無理だ」
 僕は首を横に振った。
 委員長も不安そうな目をこっちに向けているけど、ここは曲げられない。
 これは放置しても後で付けが回ってくる災いの芽だ。
「なあ委員長、この学校、避難所になるとして誰がまとめると思う?」
「え?」
「少なくとも大人の先生はない。先生と距離が近い生徒会っていうのも現実的じゃない。優等生が理詰めでまとめようとしたって周りの生徒達から感情で反発される」
「ですけど、放送で最初に呼びかけたのは、ええと、生徒会の方ではありませんでしたか? えと……」
 一本にまとめた金髪を揺らして、海風さんが困ったように首を傾げた。分かる。あいつ引き金引いた張本人のくせに、もう名前が思い出せないんだよな。
「生徒会の総意だったら会長クラスが出てくると思うよ。多分あれ、反乱だ」
 それに、
「……そもそもあいつ、本当に自分の意思でマイクを握ったのかな。顔も見た事ないから何とも言えないけど、声の感じとか、どうもインドアな僕と似た匂いがする。自分からド派手な壇上に立ちたがるとは思えないんだよね」
「じゃあ誰が?」
「主張はしたいけど箔が足りない、だから生徒会って言葉が欲しい誰かさん」
 となるとやっぱり大人の先生はない。彼らは先生ってだけで頭ごなしに僕達生徒へ自分の考えを押し付けられる立場だ。
 同じ生徒の中で、内気で目立たない生徒会の人間の背中を押してくすくす笑いながらマイクを握らせた誰か。しかも豚をおだてて木の上まで登らせたのは一人であるとは限らない。
「……ほら見ろ、薄っぺらなクラスのお調子者の顔が目に浮かぶようだろ。この学校がどうなるにせよ、きっとこの先実権を握るのはうぇいうぇい言ってるそいつらだ」
「それが、まああんまり学校に残りたいとは思わないけど、それがどうまずいの?」
 飽きるまで好きにやらせておけば良いじゃない、といった感じの委員長だった。
 でも、
「忘れたのか委員長。ここを避難所にしたって食べ物が虚空から現れる訳じゃないんだぞ」
「あ」
 そう。
 子供達だけで作る、最初から破綻している非公式の避難所。彼らの好きにやらせちゃ困るんだ。あいつらが身勝手に決めた自分ルールを、学校の外にまで持ち出さないなんて誰が決めた?
「腕っ節の恐怖政治とクラスの人気者を履き違えた馬鹿どもがまず求めるのはそこだろ。食べ物が通貨になる。とはいえ今から畑を耕す訳じゃあるまいし、絶対に近くの家やコンビニを集団で襲う。生き残るためには仕方がない、これはみんなで決めた多数決の結果なんだ。そんな風に言い始めたら人間は怖いぞ。ハロウィンの馬鹿騒ぎどころじゃなくなる」
 いったん徒党を組まれてパワーバランスが固まってしまったらそこでおしまいだ。警察がまともに動くか分からない状況で、数百人って単位は馬鹿にできない。
 この街に、捕食者が生まれる。
 無法地帯を楽しむような連中が膨れ上がったら供饗市は本当におしまいだ。
 それに食べ物がお金代わりになるなら、自分で見つけても『税金』として取り上げられる可能性もある。
「僕には自分の家がある。そこでは姉さんやアユミも暮らしている。なのにドアも窓も自由に破られてその日の気分次第で持ち物を勝手に運び出されるような時代がやってきてほしいと思うか? いいや食べ物だけじゃない、連中の欲望の種類が一つだけとは限らないんだぞ」
 マイクロプラスチックの雪に立ち向かう。そのための努力をする。これ自体は悪い事じゃない。だけど、そこに権力や武力なんて付加価値をつけちゃダメなんだ。災害現場じゃ、ボランティアで被災地入りしたはずの若者が暴君と化す事態もままあるらしい。助ける側と助けられる側。ここで線引きしてしまうと、自分が特別な人間になったと思い込んでしまうんだ。
「……この『学校』を解体する」
 僕はそう呟いた。
 これは善とか悪とかじゃない。というか悪者側のロジックだ。だけどこっちにはこっちの守るものがある。膨らむだけ膨れ上がった悪意の塊が姉や妹の暮らす住宅街まで押し寄せるのが目に見えていて、黙ってその時を待つなんてありえない。
 汚い人間と罵ってくれて構わない。
 だけど家族に危害が及ぶなら、その可能性が決して低くないのなら、僕は人様の希望をへし折る。
「雪に立ち向かうにせよ、何百人もの意思を血気盛んな誰かのオモチャにされるようなやり方じゃダメだ。捕食者なんか作らせないぞ。ある程度はバラけさせないと……」
「ですけど……」
 スキュラの海風さんは僕と校舎の奥を交互に見つつ、
「それってもう、学校とか避難所とか関係なくなっていません? だって、そこらの公園に改造バイクを持ち寄って集まったって似たような現象になるんじゃあ……」
「かもね。だけどそんなので街の覇権を取れると信じていたら、お調子者連中は『部外者』の生徒会なんかに声をかけたかな? いいや、そもそも交通が麻痺して表を歩くのも大変な中、お行儀良く時間通りに学校なんて来ると思う?」
 結局、悪党としても中途半端なんだ。生徒会の内気な誰かの背中を押して騒ぎを起こしている連中は。ルールは守りたくないけど、ルールには守ってもらいたい。クラスの中で埋もれたくないけど、バイク集団やギャングを気取るほど逸脱したくもない。だから救いがあると言えるし、危険でもある。自分の熱気に興奮して暴れ出す連中にブレーキなんて期待できない。
「小粒な連中が小粒なままなら、きっと騒ぎにはならない。不満は不満のままで、留まる。ヤツらに数っていう武器を持たせるな。こいつは風邪で休んで看病してもらった後に、しばらくわがままな心を引きずるのと一緒さ。意外に無茶を言っても何とかなるって味を覚えさせたら、そこから止まらなくなる」
 予測は予測。
 まだ具体的な被害が出る前からネガティブな推論に基づいて、みんなで分け合えるはずの水や電気を奪っていくなんて外道の行いだろう。
 でも忘れるな。
 これは偶発的に起きたアクシデントじゃない。誰かが生徒会のメンバーを焚きつけて放送で呼びかけたところから始まった、人為的な扇動だ。大多数はただ助かりたいだけだとしても、その流れを悪い方に導く者が交じっていたら性質が変わってしまう。
 まだ、じゃない。
 もう、始まっているんだ。
 対応が遅れれば、この街に取り返しのつかない捕食者が生まれる。膨れ上がった悪意に蹂躙されるのを誰にも止められなくなる。
 転がり始めた雪球を抑え込めるのは、今ここだけだ。巨大に変貌してから頭を抱えても遅過ぎる。
「とにかく二人は外へ。学校の連中、いったん沸騰したら敷地の中に留まるとは限らないぞ。逃げられる時に逃げておくんだ。できるだけ遠くまで!」
 言うだけ言うと、僕は一人で校舎の中へと向かった。
 廊下の方へ入ると、まあ、ひどい。机も椅子も投げ放題か。そこらじゅうでガラスが割れていて、マイクロプラスチックの細かい雪がじゃりじゃりと靴底を刺激する。興奮するのは分かるけど、自分から避難所としての条件を崩してどうすんだ、こいつら。これじゃ外で雑魚寝とあまり変わらないぞ。下手すると肺をやられる。
 特にわあわあ言っているのは……やっぱり学食や購買の辺りか。飢えているな。だけど騒いだって空っぽの商品棚が食べ物で満たされる訳じゃない。
「マクスウェル」
『騒ぎを止めると言っても狙いはつけているのですか? ユーザー様は個人です、学校全体を相手取るのは得策とは思えません』
 分かってるよ。
 この災害が終わった後も学校生活は続くんだ。全校生徒を敵に回して孤立するなんて展開はできれば避けたい。
 だからピンポイントで行こう。
「あいつ、えと、いい加減に名前を思い出したい。生徒会の、会計の……何君だっけ?」
『シュア、山垣と名乗っていましたね。下の名前は不明。校内ローカルサーバーを検索、生徒会会計という事は極めて高確率で二年一組、山垣オイカゼではないかと』
「……偉いなマクスウェル、きちんと覚えているなんて高性能か」
『ユーザー様が冷酷過ぎるのです』
「ともかくあのじめっとした声の持ち主を見つけて話を聞こう。具体的に、一体どこの誰に焚きつけられてあんな馬鹿げた放送を流したのか」
『黒幕と言えば黒幕ですか。見つけたら?』
「王様気取りのクソ野郎どもは全員鼻っ柱をへし折る。捕食者になる前に。無様極まりない姿をみんなの前でさらして、こいつらについていってもろくな事にならないと全校生徒に教える。マクスウェル、僕は個人だって言ったな? 向こうもそうだよ。今はまだな」
 ひとまず三階まで上がって放送室に向かってみる。放送中止から間を置かず『沸騰』は起きた。今ならそう離れてはいないはず。
 と、
「(……サトリ君っ)」
 わっ、と思わず声を出さなかっただけでも僕は度胸があると思う。
 いつの間にか真後ろにぴったりくっついていたのは、
「委員長、それに海風さんもっ」
「どうしてとか聞くのは野暮ですわ。そもそも私の家は学校からそう離れていません。ここから爆発が起こったら真っ先に呑み込まれます」
「サトリ君、これからどうするの?」
 階段側で僕は額に手をやりながら、空いた手の親指で廊下の方を指し示した。
 そっちは放送室のある方なんだけど、

「避難所の設営ってどこから始めるんですか!?」
「食べ物はっ」
「あなたが始めた事でしょう? きちんとみんなをまとめなさいよ!!」

 わあっ!! とサッカーの試合観戦みたいな怒鳴り声の洪水になっている。集まっているのは何十人規模で、廊下の一角が埋まっていた。放送室のドアなんか見えない。
 集団が怖いのか。
 正義感がおぞましいのか。
 当然、囲まれているのは生徒会の、ええと、何とか君だ。あいつに話があるんだけど、そのためにはあのバーゲンセールよりも殺気立った分厚い人混みを乗り越えなくちゃならない。例の生徒会会計、放っておいたらぐいぐい押されたまま廊下の窓から放り捨てられそうだ。
 率直なアドバイスはこうだ。
「……今からでも遅くない。揉みくちゃにされる前に学校を離れた方が良い」
「それでサトリ君はどうするつもりなの?」
「聞く耳すら持ってねえな委員長。……穏便にできないなら派手にやるしかない。邪魔者は全員蹴散らして、お騒がせ生徒会の馬鹿野郎をかっさらう」
「あっ、あれだけの人数ですの? カンフー映画の主役でも難しいんじゃなくて?」
 もちろん真正面から拳を握って突撃するつもりはない。頭に血が上った暴徒だって人間なんだ、考える。あの集団、そろそろカッターや消火器なんかで武装するヤツだって何人か紛れている頃だろうし。
 そんなつもりじゃなかったで殺されるほど無意味な事はない。
 だから僕の方から近づかずに集団を一網打尽にする、飛び道具があると望ましい。
「そんなの一体どこに……」
「おや委員長、どこにだってあるものだよ。暴徒鎮圧においては歴史的な方法でもある。特に機動隊なんかは縁が深いだろうね」
「?」
「てか委員長は昨日も見てるはずだぞ」
 どうしたって目立つのが玉に瑕だ。さっきも言った通り、災害が終わった後も学校は続く。できれば全校生徒を敵に回して孤立する展開は避けたいので、先に顔を隠すものを探す事にした。
「委員長、いつもは生脚だけど念のためでいつでもパンスト常備してたよね? 冷房対策とかで」
「はいはい」
「……そ、それで通じるんですの? 幼馴染み恐るべしですわ」
 そんな訳で借り物(新品)を頭からずぼり。一応スマホのレンズを自分にかざして、顔認識でエラーが出るのを確認したら準備完了だ。
 何の?
 決まっている。

 壁の消火栓からホース引っ張り出しての高圧放水だ。

 ズヴォアッッッ!! と。
 とんでもない勢いでビーム砲みたいに発射された白い奔流が、事態に気づけない外周の一団をまともに薙ぎ払った。
「ぎゃっ!!」
「誰だちくしょう!?」
「息がッ、視界が、ぐええ……!!」
 元々長い直線の廊下にみっちり、だ。ぎゅうぎゅう詰めになっている生徒達には避けようがない。外周の男女がバタバタ廊下に倒れると、壁を失った内部の連中まで餌食になっていく。
 カッターも消火器も関係ない。
 この水圧なら小石くらい投げられても普通に撃ち落とせる。
 今さら逃げ出そうにも自前の人口密度のせいで身動きも取れない。
「あ、ああ……」
 なんか奥の方で縮まっている小さな影があった。自分に詰め寄る殺気立った連中がバタバタ倒れたのをチャンスと見たのか。慌てて立ち去ろうとしたようだけど、
「ぎゃんっ!?」
 その背中に容赦なく最高威力の放水を叩き込む。なんかくの字に背中の曲がった生徒会の誰かさんが思ったよりも奥へ飛んでいった。
 どうでも良いか。
 重たい消火ホースを引きずったまま、念のため倒れた連中に足首掴まれないよう気をつけつつ、床で口をパクパク開閉している内気な少年の元に向かう。
 もちろん金属製のノズルを鼻先に突きつけて。
「なっ、なぶ、なん……?」
「質問に答えてほしい。できれば素直に」
「誰なんだっ、あんた! そんなの被って、何で生徒会のぼくがそんな怪しいヤツの言う事……っ」
「そうか? たらふく水を飲んだ後でも同じように言えると良いな。ひとまず一〇リットル」
「……、」
「全部胃に入る前に歯が折れるかもな。言っておくけど、これはハッタリじゃない。むしろ加減する理由を探す方が難しい。アンタだって、そうされるくらいの心当たりはあるだろ。何が避難所だ、実現できるかどうか大した検証もしないアイデア勝負で人様の学校生活を無茶苦茶にしやがって。アンタどうやら本物の馬鹿だろうからはっきり言おう。恨まれてんだよ、アンタが自分で思ってるより多くの人からな」

   6

 とはいえ流石にいきなり一〇リットルも入れちゃうと腹筋や横隔膜が破裂するようなので、二リットルくらいに留めておいた。マクスウェルは賢い。それにミネラルウォーターのデカいペットボトル程度だ、いけるいける。
「あぉえっ、うぶぐえ……。ひて、ころひてくらひゃい……」
「名前」
「……、」
「あと一リットル? そんなに細かく調整できると良いけど。勢いで折れた前歯まで胃袋へ押し込む羽目になったら済まない」
「いいまっふ! 言わへてください!!」
 一瞬だけど言葉を呑んだのは友達想いと褒めてやるべきか。……ただ、向こうもそう思ってくれていると救いがあるんだけどな。どうにもそんな匂いがしない。
「……鍋掴(なべつかみ)キョウジ、魚川(さかなかわ)テッペイ、沖合(おきあい)ユウコ、峠道(とうげみち)キュウス、そ、それから神野(じんの)セリナ」
「ふうん」
「待っへ! ほんと、ほんろうなんですっ!!」
 答えが何だろうがいったん疑う素振りを見せるとあらかじめ決めていた。素人判断じゃあてにならないだろうけど、少なくとも不細工な笑みを浮かべてすぐさま前言撤回って感じじゃなさそうだ。
 ある程度は信憑性あり、かな。
 僕は消火ホースを適当に放り捨てて、
「……後は好きにしろ。ただ少なくとも学校にいる事はオススメしない」
「なんで、何でアンタにそんな事……っ!」
 おっと、ホースを手放したらもうこれか。
 だけどこっちだって何も考えていない訳じゃない。
「簡単にベラベラしゃべりやがって、今の全部録音してるからな。下手にお仲間へ泣きついて反撃しようなんて考えたら、例の五人にデータを送りつけるよ。アンタ袋叩きは避けられないぞ」
「ひっ!」
「分かったら早く出ていけ裏切り者。早く、早く!」
 両手を叩いてけしかけると、面白いくらい生徒会の誰かさんは廊下から階段を駆け下りていった。いや、ほとんど転がり落ちるが近いかな。
『デジタル録音に証拠能力はありません。まして先ほどのは強要された自白です』
「あれはああ言っておけば良いんだ。やましい事抱えてるヤツを固めるだけなら十分」
 こっちも頭に被っていたパンスト(新品)を取り去ると、びょんびょん跳ねてる髪を片手で軽くリカバリー。廊下の角からおっかなびっくりって感じで委員長達が顔を覗かせてきた。
「さ、サトリくーん……?」
「例の彼、取り逃がしたという訳ではありませんよね。解放したのなら、何か成果が?」
「マクスウェル」
『校内ローカルサーバーとSNSのアカウントの両面から検索。確かに鍋掴、魚川、沖合、峠道、神野の五人は在校しています。ただし……』
「何だ、もったいぶって。続きを読むでも押して欲しいのか?」
『共通項があるようなのです。それもこの共通項は、露見すると面倒事が増えるタイプの代物です』
 マクスウェルはいくつかのふきだしに分けて情報を表示させてくる。
『例の五人はいずれもアークエネミーとして登録されています』
「……何だって?」
『鍋掴キョウジならスプリガン、魚川テッペイならオーガ。間違いありません、市役所の登録情報ともひもづけられています』
「……、」
 だとすると、まずいぞ。
 思わずチラリと海風さんの方に視線を投げてしまう。
 アークエネミー・スキュラ。
「……おいおい、僕はこいつら五人を締め上げて、本名も個人情報も全部ばら撒いて、連中についていってもろくな事にならないから解散しろって迫りたかったんだぞ。全校生徒に」
『その方法だと厳しいでしょう。学校に大きな混乱をもたらした五人が五人ともアークエネミーだと分かったら、大多数を占める人間の生徒達の怒りが別の方向に向いてしまいます。井東ヘレン嬢のような、全く無関係のアークエネミーまで憎悪の対象になりかねません』
 少数派のアークエネミー。
 だから先に主導権を握って安心でもしたかったのか? 中心に立てば排斥されずに済むって。
 ……でもこの五人の鼻っ柱をへし折るだけじゃ、学校占拠から始まった非公式の避難所騒動は終息しないって訳か。やっぱり人間関係っていうのは難しい。こいつが災害に対する難易度を跳ね上げてくれる。これだと、下手すると人間とアークエネミーで真っ二つに分かれての冷戦状態に入ってしまうんだ。学校だけでも井東さんみたいな無害なアークエネミーだっているんだ。いっしょくたにはできない。
 この学校を、逃げ場のない街を闊歩する、異常極まる魔女狩り集団に変貌させる訳にはいかない。
 どうする。
 どうすれば騒ぎを収められる?
「……このまま野放しって線はないぞ。鍋掴だか魚川だか、あの連中の王国なんか作らせない」
『シュア。ただし方法を考えねばなりません』

   7

 そうなると、だ。
 結局僕にできる選択肢は少ない。
 そもそも僕自身、学校で目立つタイプの人間じゃない。壇上に立って全校生徒の前で演説したり、SNSの王様を気取れる訳じゃあないんだ。言葉だけで沸騰したみんなをクールダウンさせるのは難しい。
「……例の五人は締め上げるとして、それ以外にもトドメの一撃がいるな」
『シュア』
「それも安い陰謀なんかとは関係ない。ここに居座ろうとする生徒達が諦めて、自発的に校舎から出ていく格好でだ。じゃまいと飢えるか肺をやられるかだし」
 となると、やっぱりアレしかないか。
 大活躍じゃないか。
 ……一応今や貴重品なんだから無駄にはしたくないんだけど、けどまあ多くの人を助けるためなら仕方がないのかな。元々そういうためのものなんだし。
「委員長ー、海風さんも」
「うっ、な、なに? サトリ君がまた悪だくみの顔してるけど……」
「放っておきなさいよ。男の子はいったん動き始めたら最後までやらないと気が済まないのではなくて?」
 散々な言い草だ。
 まあ理由はどうあれみんなの居場所を奪うんだから、正義のヒーローは気取らないけど。
 とにかくやるべき事を言っておいた。
「今すぐ昇降口に行って」
「? 行ってどうするの?」
「テキトーに傘拾っておいて。さもないとひどい目に遭うよ」
 なに? 武器??? などなど首をひねってる委員長達をひとまず見送る。怒りの矛先は、今のところ先生に集中している。変に庇わない限り彼女達はトラブルに巻き込まれないと思う。
 ……とはいえ可能性はゼロじゃないから、手早く風向きを変えないとな。
 さて。
 それじゃあ後は、と。
「マクスウェル、システム検索。使える脆弱性をピックアップ」
『シュア。校内イントラネットは基本的にウィナーズの業務用モデルで統一して互換性を高めているようですね』
「ネタの宝庫だな」
『利用人口が多ければ相対的に悪さをする人も増えるというだけで、ウィナーズそのものに非はありませんが。ともあれ、データの交通整理を行う統合ホストではSP2295811が未実装、脆弱性wn022-91を検出です』
「今月の更新のリストに入っていた? 黙っていても勝手にアップデートされてしまうはずだ」
『ノー。重要な更新ではあるものの、おそらく近接無線接続……ワイヤレスのキーボードやイヤホンに対する不具合を避けるため、今月のアップデート分から手動でチェックを外したものと思われます』
「……あれ誤報だろ。というか自称エンジニアブログから撒かれたフェイクニュースだ」
『何もネット経由でプログラムコードをいじるだけがサイバー攻撃ではないという良い見本ですね。これならBD-aqua.C系統がそのまま走るはずです』
「防災まわりも?」
『シュア。コピー機から中央サーバーまで、一部職員が私用で持ち込んでいるノート以外はほぼ全てです。ラプラスのようなゲテモノは撤去されていますしね』
 ……よし。
 こんなやり取りしている間にも三分くらい経ってる。委員長達も真面目に言う事聞いてくれれば昇降口で人の傘を拝借している頃だ。僕以外の誰かの前で濡れ透けになる心配もないな。
「それじゃあマクスウェル、バックドアつけたら火災報知器から連動して全校のスプリンクラーを作動。どこもかしこもずぶ濡れにしてやれ」

 ザァ!! と。

 それこそ土砂降りのようだった。
 そこかしこの教室や廊下から悲鳴が出る。まだパニックの段階で、怒りにまでは発展していないようだ。
 とはいえ、こっちは冷や水を浴びせたかった訳じゃない。
 自分が濡れるのも構わず身を屈め、床に手をやって、
「……よし、例のマイクロプラスチックと混ざり合っているな」
『適当に乾拭きで除去するのは難しいでしょう。今すぐスプリンクラーを止めても、居住環境の復旧には二、三日かかるはすです』
 そう。
 ここの生徒が学校を占拠したいのは、楽して安全を手に入れるためだ。中がドロドロに汚れて力仕事が必要になれば、魅力は死んでしまう。
 とはいえ、これだけで万事解決なんて風には考えない。
 わざわざ委員長達を手元から離したのは、当然こっちの方が危ないからだ。
「マクスウェル、場所を変えよう。例の五人、名前が分かっているんだから顔も割り出せるよな」
『学校はプライバシー意識の塊ですよ。外周フェンス沿いか職員玄関のドアホンくらいしかカメラはありません』
「じゃあ連中のケータイ」
『どこでも潜れる訳ではありません』
「タダ乗りできる無線LANのルータは学校設備のものなのに? マクスウェル、さっき言ったろ大概は脆弱性つきのウィナーズで統一されてるって。ケータイ自体のセキュリティなんてどうでも良いからほら学校をアタック、ヤツらのケータイの繋がった接続ポイントから場所の割り出しだ」
 デカいアンテナ塔一個で山間部を全部カバーとかじゃなくて、弁当箱みたいな機材をあちこちに置いて小刻みにカバーしている都市部ならこれだけでも十分足取りを追える。デフォルトの設定画面でGPS切ってるくらいじゃトイレの個室にこもってる時間まで丸見えだ。
『接続ポイント2F-w-new-mobile。新校舎二階西側、つまり視聴覚室の辺りに該当五名が集中しています』
 ……名前がデフォルト過ぎて泣けてくる。まさかパスナンバーも工場初期値のゾロ目のままか?
『あくまでケータイ電波の話ですよ。本人がいるとは限りません』
「そんな高度な罠(笑)を仕掛ける頭があるなら、そもそも自動接続の公衆LANなんか使うかよ。危なっかしい」
 いかにも無害そうな接続ポイントを装って個人情報を丸ごと抜き取るアントライオンや、近づく者へアップデート通知を装って手当たり次第年中無休でウィルスを撒いてるビーハイブなんかも珍しくない。こんな状況で近い方から順番に接続を試すような設定にしたまま街を歩けばどうなるか。まだまだ安全神話を信じたい人はいったん確率で考えてみよう、地雷原を端から端まで歩いて白地図を埋めていく陣取りゲームをしても大丈夫かを。言うまでもないけど、踏んづけてから異変に気づいてももう遅い。
「それにしても視聴覚室、か」
『まさかと思いますが、一対五で大立ち回りをする訳ではないですよね?』
「シミュレータのくせに考えが雑だな。その全員アークエネミーなんだろ、一対一でも絶対無理だ」
 こっちはバカのアユミと兄妹ゲンカしたら正論もクソもなく腕力で一〇〇パー負けるっていう、割とお兄ちゃん道を進む者として致命的な状況を受け入れた時点でそういうマッチョな夢は捨ててる。人間と不死者の間にある壁は絶対だ。こればっかりは努力や根性でカバーできる域を超えている。
 そして人間がそのアークエネミーからも恐れられている理由は、腕力や顎の噛む力が強靭だからじゃない。
「鍋掴、魚川、沖合、峠道、神野。スプリガンにオーガに、あと何だっけ?」
『ドライアド、ワーキャット、シービショップですね』
 ……電気に関わるアークエネミーは特になし、か。
 ゴムの靴底が濡れた床と擦れて変な音を出す。そのまま廊下を歩くと、目的の視聴覚室のドアが見えてきた。
 生徒会の地味会計の背中を蹴って扇動放送を流し、全校生徒を暴れさせた張本人。今だって先生達は敷地の外まで追い出されている。子供達だけの非公式の避難所なんてリスクの塊。食料調達だの何だのでお手製武器を抱えた集団の行動範囲が学校に留まらなくなったら、アユミや姉さんの暮らす街の方まで被害が出かねない。
 そうなる前にケリをつける。
 しかも、人間とアークエネミーの間で無意味な対立を作ってもいけない。
 だから、一発で。
「じゃあ電源まわりに設定以外の方法で電流を加えて全員ダウンしろ。視聴覚室なんだからテレビや音響機材がずらりと並んでるだろうし、ここと同じで床一面水浸しなんだろ」

 ズバヂィッッッ!! と。

 外で待機しているだけで空気を破るような凶暴な音が鼓膜を叩いてきた。
「これ触って大丈夫? このドア」
『シュア、問題ありません』
 無理して勇ましく踏み込む必要はない。
 僕は視聴覚室のドアに手をかけると、
「うわあっ! なん、変な音っ、あれえ!? 大丈夫かアンタら!?」
 白々しい声を上げ、慌てて駆け寄ってみた。
 ビニールが焼けるような匂いに、普通の教室とは違うモニタを埋め込まれたビジネスデスクがずらり。ただし連中がコケた拍子に倒したのか、あちこちで配置が崩れている。
 ひとまず床の水たまりで溺死しないよう彼らを抱き上げて介抱しつつ、だ。
「……数が足りないぞ。ここにいるのは三人だけだ。残りはどこ行ったんだ、ちくしょう」
『分かっている生徒の顔を写真に撮ってください、こちらで照合します』
 これくらいなら一分も必要ない。
『ドライアドの沖合、それからシービショップの神野が見当たりません。要周辺警戒』
 冗談じゃない。
 今のを普通に力業で凌いだっていうのか!?
「う……あんた、一体……」
「マクスウェルもう一発だ」
 派手な音と共にどれが誰かさんか知らない人を気絶させ、後ろ手に電源ケーブルで縛り上げておく。もちろんこれで終わりじゃない。逃げた残りも何とかする必要がある。リアルにせよネットにせよ変に発言力が高くて群衆を味方につけるようなヤツなら厄介だ。できればそうなる前にケリをつけたい。
「それでマクスウェル、取り逃がした二人について知っておきたい。ドライアドにシービショップだっけか。随分マイナーそうだけどどんなアークエネミーだ?」
『沖合ユウコと神野セリナですよ。無線LAN電波を屋内アンテナごとに蒐集中……』
 ……五人の内、奇麗に女子だけ? 電気に対する抵抗力って男女で何か変化あったっけ、などと考えているとマクスウェルからこんな答えが飛んできた。
『ドライアドは樫の木に宿るニンフ、つまりギリシャ神話で語られる精霊の一種です。自らの宿る木や森の管理を行っていたため、木こりに対する攻撃や呪いの伝説で知られています。特に空腹の呪いが有名で、当たれば自分の体を食い千切って命を落とすほどと言われています』
「ひとまず全部聞こう。続きは?」
『シュア。シービショップはレアもレアですが、おそらくスイスで編纂された動物誌で言及されている種族ですね。人間と魚のハーフのような姿ですが、人魚のように下半身が一本の尾びれになっている訳ではなく、半魚人ほど分かりやすいモンスターでもありません。その名の通り海の僧侶で、攻撃性は不明』
「それだけ? 全部聞くって言ったろ!?」
 あとイマドキのマナーだと姉さんやアユミに向けてモンスター発言はNGだ、差別扱いになる。
『しかし実際に人を害したという報告がないのです。ツチノコや人面犬のように、発見そのものがエピソードとして語り継がれるタイプの不死者なのでしょう。ただし特筆すべき点として、シービショップは海の世界において上流階級に属していると考えられているところが挙げられます』
「吸血鬼の姉さんみたいに?」
『ある意味では。竜宮城のように海全体でピラミッド構造の社会性があると仮定した場合、ビショップ、つまり中世ヨーロッパにおける中級聖職者に相当するそうです。平たく言えば国王の下、貴族と同程度。本人そのものよりも、周りに働きかけて兵隊を募る事に長けているアークエネミーかもしれません』
 ……だとするとまずいな。
 海の王っていうと真っ先に七つの大罪に収まる巨大ザメを思い出す。アークエネミー・リヴァイアサン。確かあいつも独自のコミュニティを築いていて、レモラやセイレーンなんかを従えていたっけ。
 シービショップは管理職でも専務とか常務とか、かなり上の方って感じか。
 元々、海の怪物がやる事は大雑把に分けて二つ。僕の知り合いで当てはめると、直接怪力や巨体で船を襲うレモラやリヴァイアサンか、歌声や美貌で誘惑して海に引き込むマーメイドやセイレーンだ。
 シービショップは目撃情報が少ないから何とも言えないけど、感じからしておそらく後者。つまり、洗脳や精神の破壊なんかが怖い。人魚の歌声みたいなのに要注意だけど、媒体が音とは限らない。
「……少なくとも、ゾンビや吸血鬼みたいな増え方をしないだけマシって考えるしかないか……。ちなみにドライアドについては?」
『伝染性は極低度。種子を落として木を増やすか人との間に子を設ける以外に増殖方法は見当たらないので、最低でも一〇年スパンの長期戦でもない限り使い物になるとは思えません』
 ひとまず感電攻撃についての仮説をまとめておこう。おそらく水に強いシービショップが何かやって逸らした。もちろん電気ではなく水を、だ。ドライアドが無事だったのは、やっぱり植物系だから水を自在に扱うシービショップから操られやすいとか、駒として温存されたとか、そんな感じだろうか。
 ……人体の六〇%だか七〇%だかは水分だから、なんてざっくりした理由でこっちまで操られずに済んだのは幸いだった。もちろんそこまで都合が良ければ、最初からシービショップの神野セリナは裏方になんか回らなかっただろうけど。変に徒党を組んだり生徒会のメンバーを抱き込む必要もなく、単独で学校を支配する女王になっていたはずだ。
 今のところ、逆パターンでドライアドがシービショップの手綱を握る線は見当たらない……気がする。シービショップの暮らす海、膨大な水分をドライアドが植物ボディの中に丸ごと吸水しているとかいうトンデモが待っていない限りは。
 アークエネミーはこの辺りの常識が通じない。何にしても油断は禁物か。
 ただその割には……、
「連中はすぐ逃げた」
『シュア、賢明な判断だと思います』
「本当に? 感電攻撃は遠隔でもできるけど、全滅したかどうかは実際に踏み込んで調べなくちゃ分からないんだぞ。例えば、沖合なり神野なりが死んだふりして倒れていたらどうなってた? 相手はアークエネミーなんだ、不意打ち一発で僕の首はその辺に転がってたかもしれない」
 そもそもドライアドなんか、自分の担当する木を傷つけられたら即座に形のない呪いを返すなんていうカウンター攻撃の権化だ。死んだふり作戦にこれほどぴったりな種族はいないのに。
『向こうもこれが事故か攻撃か、人間か不死者か、個人か集団かは読みきれないはずです。ひとまず逃げて様子を見るのはさほど異質な考えとは思えません。まして、やましい事をしている自覚があるのなら必要以上に臆病になるのでは?』
「……ならスマホなり防犯ブザーなり、カメラ付きの置き土産の一つくらいあっても良いはずだ。臆病なりの神経質なやり口でな。情報を求めず闇雲に逃げ回るんじゃただのふりだし、似たような奇襲を延々受けるだけだぞ。それじゃ『不安』が解消しないだろ」
 ドライアドの沖合ユウコ、シービショップの神野セリナ。
 こいつらには同じ部屋で倒れた友達を見捨ててでも今すぐ逃げなきゃならない切迫した事情があったんだ。小細工も返り討ちも考えず、見た瞬間にきびすを返すような何かが。
 だとすれば、何だ?
 そもそもが不死者、一体何に怯える?
「……見た感じ、主導権を握ってるのはシービショップの神野セリナっぽいんだよな」
『それが?』
「ヤツは電気を避けた。おそらく媒体となった水に働きかけて……」
 オカルトな僧侶キャラらしく、変幻自在の水魔法でも使って?
 でも本当にそうなら、むしろスプリンクラーで水浸しな視聴覚室は神野セリナにとって好都合な気がする。何しろ、水で満たされた空間は巨大な顎になるんだから。となるとさっきの死んだふり作戦に舵を切り、待ちに徹して反撃するって選択肢もあったはずだ。なのに実際にはシービショップは迷わず逃げている。つまりこの視聴覚室は、ある程度は水を操るはずの神野セリナにとって万全の環境とは呼べなかった。
 大体、だ。
「シービショップ。ウォータービショップじゃなくて、あくまでもシー。けど一方で雨水で育つ樫の木、植物精霊のドライアドの手綱を握る事にもおそらく成功している……」
 いや。
 そうじゃない、か?
 ……何かねじれを感じる。固定観念はいったん捨てよう。ひょっとしたら、ここでややこしくなっているのかもしれない。
 あらゆる可能性をテーブルに広げろ。
 例えば、だ。もしも特殊なアークエネミーが、シービショップじゃなくてドライアドの方だとしたら。樫の木に宿る精霊とは聞いているけど、樫って言っても色々ありそうだ。
「マクスウェル。検索頼む」
 何科の何でどんな植物に当てはまる言葉なのかはきちんと確かめた方が良い。誤報もありえる。何しろドライアドについて記録に書かれたのは何千年も前のギリシャ神話の時代だ。酸とは直接関係なかった酸素や実はヤドカリだったタラバガニみたいに分類を勘違いしていた、なんて話がないとも限らない。
『樫とはブナ科の植物全般で、どんぐりを作る木として有名です。白樫や姥芽樫などいくつかの種類があります』
「じゃあ次はこの条件で絞ってくれ……」
 そして。
 シービショップは樫の木に宿る植物精霊ドライアドの体や細胞を水分操作で操れるとしたら、それを僕達人間に使えないのはどうして?
 だとすると、こんな可能性もあるにはあるか。
 僕はスマホの検索結果に目をやって、
「……見えてきたかもしれない。シービショップとドライアド。ヤツらが何で繋がっていて、どうして逃げたのか」

   8

 自分で考えて目星をつければ、途方に暮れるほどだだっ広いオープンワールドにたった一つの目的を設定できる。
 そしてマクスウェルには沖合ユウコと神野セリナのスマホが常に投げている無線LAN電波を、屋内基地局単位で追いかけてもらっている。
 こうなると、点と点を結んで星座を描くようなものだ。僕はただ、出てきた結果の通りに廊下を歩けば良い。それで形が見えてくる。
 何百人収容できる学校だろうが、あの二人を見つけるのはさほど難しい話じゃない。
 そもそもドライアドもシービショップも、おそらく学校の敷地から出られない。アークエネミーとしての頑丈な肉体一つでマイクロプラスチックの雪もへっちゃらなんて話なら、わざわざ生徒会に取り入って放送で全校生徒を焚きつけて……なんてややこしい事考えなかったはずだ。
 僕はずぶ濡れの前髪を片手で軽く上げて、視聴覚室から廊下に出る。
 目的地は見えていた。
「……マクスウェル、校内イントラネットから攻撃手段を確保。今度は水に頼らない方法だ」
『探りはしますが、電子的なアプローチだけでは限度もあります』
「分かってる」
 あっちもこっちも水浸しだ。途中の教室では床の惨状を見て途方に暮れている男女も多い。気の毒だけど、こうするしかなかった。外から何の支援もない状況で人だけ集めて非公式の避難所を作っても、待っているのは食糧不足からの不満と集団心理の暴走だけだ。
「先輩っ」
 ピリピリしてるトコにそんな可憐な声があった。振り返ってみれば、頭にタオルを乗っけたびしょびしょの後輩ちゃん、井東ヘレンが廊下に顔を出したところだった。
「何をしているんですか? えと、騒ぎに呑まれている感じでもなさそうですけど」
「全部説明するよ。ちなみに井東さん、大人から何の支援もなく僕達子供だけで学校を避難所として乗っ取る考えには賛成?」
「……冗談ですよね? それって裏を返せば俺様ルールで満たされた学校に閉じ込められて、おうちに帰れなくなるって事でしょう? それも学食も購買も空っぽで、明日のご飯も怪しい状態なのに」
「だよ。そして良かった、僕達は友達のままでいられそうだ」
 料理は時間がくれば勝手にやってくると本気で信じているお馬鹿さんと違って、自分でご飯を作れる子はこの辺りの現実がきちんと見えているとは思ってたけど、でもやっぱり助かった。
 井東さんも小さな胸を撫で下ろしているようだ。教室から出てきたのも、考えなしの賛成派ばかりで息が詰まる想いだったのかもしれない。
 ただ……、
「? どうしました?」
「いや別に」
 プラスに働いているから見過ごしがちだけど、前提がちょっとだけおかしい。
 一見無害なおどおど小動物系。でもやっぱり、井東さんは今が授業中か休み時間かを気にしている様子はない。普通なら、知り合いの顔を見かけたって廊下になんか出られないんだ。……僕が言うのもなんだけど、みんな少しずつ毒され始めている。こういうのは、良識のあるなしじゃない。相対的な、平均点のライン自体が上下に揺さぶられる感じが近いのかもしれない。
 ちなみに井東さん、なんか肌に張り付いてあちこち透けているけど、これについては言及しない方が良いかもな。
 金髪ショートの後輩ちゃんは濡れた子犬みたいに小さな頭を振って、
「じゃあ、あの騒ぎって自然に不満が爆発したんじゃなくて、誰かが裏で糸を引いていたって話だったんですか?」
「ドライアドの沖合ユウコにシービショップの神野セリナ。どっちもアークエネミーっていうのが輪をかけて面倒なんだ」
「……、」
「大体デリケートさは分かってもらえた? 飛び火すると人間対不死者の図式に広がりかねないから、できるだけこっそり片をつけたい」
 不安そうな井東さんだけど、実はアークエネミーの彼女がこっち側についたっていうのは結構大きい。人間対不死者。この単純な図式を崩せるんだから。良いアークエネミーと悪いアークエネミーを分けてしまえば、後は容赦ナシだ。
『接続ポイント1F-e-new-mobileで無線LAN自動切り替え接続を確認。沖合、神野両名はおそらく新校舎一階東側にある調理実習室に入りました』
「……ま、妥当な線かな。食糧不足でパニクった生徒達に砂糖とか小麦粉の袋を狙われていない限りは」
「えと、何でそんな所に……? 包丁や肉叩きで武装したかったから、とかですか???」
「もっと確実な武器で、同時に彼女達にとっては生命線でもある物があるんだ。それよりマクスウェル、攻撃手段の確保は?」
『シュア、内部設備はスマートハウス水準ですので、あれもこれも。ガスの元栓いじって良いですか』
「却下で。校舎のすぐ外はたっぷり空気を溜め込んだマイクロプラスチックが敷き詰められているんだぞ。できれば火は避けたい」
『では電磁調理器にアクセスしましょう。鍋を置かず、空焚き状態で作動させれば高出力のマイクロ波が飛び散りますよ。神野が仮に水を操るとしても、こちらも細かい振動でコントロールを奪えるかもしれません。電子レンジ的に』
 アークエネミーだからって、井東さんに頼りきりって訳にもいかない。可愛い後輩ちゃんなんだ、ついうっかりでキズモノにしてたまるか。
 調理実習室はすぐそこだ。
 前後で二つ出入り口はあるけど、僕は前の方に張り付いた。
「(まず僕とマクスウェルで中を引っ掻き回すから、井東さんは合図を待って……)」
「……、」
 囁いたけど、小柄な後輩から返事はなかった。というより、どうも別の事が気になっているらしい。彼女は僕の顔でも調理実習室の引き戸でもなく、黙って天井を見上げていた。
「先輩」
 注意を促すような、そんな声色だった。
 つられて僕も目線を上に上げた途端。

 バガンッ!! と。
 いきなり頭上の天井を突き破って、何か大きな塊が降り注いできたんだ。

「ぐっ!?」
 天井って言っても分厚い鉄筋コンクリートじゃない。この分だと薄いボード一枚挟んで電気やスプリンクラーの管を通す天井裏スペースがあるようだ。それに場所は火を使う調理実習室。普通の教室と違って、窓や換気扇の他にもいざという時のために煙を逃がす排煙ダクトも用意されていそうなものだった。
 とにかく、だ。
 それが何なのか確かめている暇なんかなかった。両手でコンクリートブロック掴んで頭を殴られるような衝撃が全身を貫いて、視界が眩む。手足の先から力が抜ける。濡れて汚れた床にべしゃりと倒れ込む。
 ちくしょ……。
 腐ってもアークエネミー、人間と同じように床を歩いて引き戸を開けるだなんて、自分から想像力を縮めるべきじゃなかった。
 井東さんは。
 あの子は大丈夫なのか、くそっ!!
「だれ?」
 見知らぬ女の声が、意外なほど近くから響いた時だった。
 ガヅッ!! と。
 何かに頭の横を掴まれたと思ったら、濡れた床に強く押し付けられた。痛いっていうか、苦しい……っ! 頭蓋骨がプラスチックのバケツに力を加えたようにたわんでいるんじゃあるまいかってくらい……!?
「さっきから流れが変だった。あたし達の後ろから誰かがついて回るような……。あなたがジンクスの正体? これを摘み取れば、流れは元に戻ってくれる???」
 ポエマーめ。言葉が断片過ぎて何言ってんのかさっぱり分からん!! 一応は人気者の集まりって読んでいたんだけど、こんなのがクラスの中心に立ったら丸一年災難だろ。敷かれたレールから脱線しないように同調するだけで一苦労じゃないか。
 というか、こいつが天井突き破って頭の上に降ってきたモノか? ちくしょう、首は回らないし近すぎて逆に見えないっ。何となく制服着た女っていうのが分かるくらいだ。
 そして人様の頭を押さえつけたくらいで満足しているなら甘い。そのまま脇腹でも刺されてしまえば良い。アンタはモヤシな僕なんかより、まず床のスマホを粉砕するべきだったんだ。
 今時の電子機器は、指で操作する必要すらない。
 倒れて頭を掴まれたまま、こう叫べば良い。
「マクスウェル! とにかく攻撃手段並べて頭の上のこいつをぶっ飛ばせ!!」
『シュア。それでは誘蛾灯を一つお借りします』
 普通の教室や廊下では見ない名前だ。やっぱり調理実習まわりって生ゴミの関係で虫が集まりやすいのか。
 ズバンッ!! と。
 火薬とはまた違う、電気特有の破裂音と共にオレンジ色の激しい火花が外に面した窓からこっちの廊下に噴き出してきた。
 手持ちの花火よりはハードかな。
「ぎゃあアッ!?」
 頭からもろに被った誰かが悲鳴を上げた。こういう時は詩的にならないらしい。そして見た目はド派手だからびっくりするけど、ちょっと熱いくらいで実質ダメージはないはずだ。電気製品から出た火花を浴びたからって、それで感電するとは限らない。
 マウントポジションは上から下へ、垂直に体重を掛けているから押さえとして成立するんだ。ヤツの軸がブレた瞬間を狙って下から揺さぶり、振り落とす。そのまま逆サイドに転がって床のスマホを掴んだ。
「(他に武器はっ?)」
『このスマホ本体を破裂させるくらいでしょうか』
 最悪だ。
 とりあえず近くで倒れていた消火器を掴んで投げるけど、びゅんっ、とおかしな音が響いた。右から左へ。何かが横薙ぎに通過した途端、分厚い消火器が空中で真っ二つに切り裂かれて破裂する。
「くそっ!!」
 起き上がり、距離を取って、目を細めて粉塵の向こうを見る。
 誰だ。
 何だ。
 ひたりひたりという水を吸った足音があった。喉を鳴らして緊張しながら待つけど、でもちょっと待て。
 初っ端から天井ぶち破って奇襲してくるような破天荒なヤツが、本当の本当に粉末のカーテンの向こうから真っ直ぐ歩いてくるか? 姿が消えたって事は、向こうにとっても読み合いの真っ最中だろうに、いきなり思考を丸投げにして?
 割れた窓から『雪』混じりの風が吹き込んできた。
 それで消火器の粉にむらができて、分かる。足音なんてどこにもなかった。天井からケーブルみたいに垂れ下がった、木の根? 植物の蔓? とにかく太いロープみたいなものが何本か一塊になって、上下に小さく揺れて、床の水たまりをぴちゃぴちゃ鳴らしていただけだったんだ。
 となるとヤツの本体は!?
『警告』
 全力で後ろに向かって倒れるしかなかった。
 再び真上の薄い天井板が破れ、ついさっきまでいた場所に滝のような勢いで瓦礫が降り注ぐ。というか、さっきはあんな建材だの蛍光灯だのをまとめて無防備に被っていたのか? それも人の体重込みで!? 人間なんか植木鉢一つ振り下ろした程度で頭が割れるっていうのに、よく最初の一発で命を取られなかったものだ。
 何とかしてクリーンヒットは避ける。
 起き上がりながら、ようやく見据えた。
 敵を。
「……、」
 黒い髪をショートにした女の子だった。全体的に陰気で、じめっとした視線を感じる。水に濡れて派手めなボディラインをくっきり浮かばせているのはウチの制服、青系のブレザーだけど、その印象は薄い。頭の横が一番大きいけど、他にも手足や腰の後ろなど色んな場所からトナカイみたいなツノ、いいや、鋭い木の枝が生えているからだ。
 本気出すと枝の他にも葉まで生い茂るのか、首を傾げるだけでがさがさと紙を擦るような音が響く。
 細い足は床についていない。
 まるで操り人形みたいだった。制服の首まわり、背中、スカートから飛び出した木の根が割れた天井の奥まで伸びて、出来損ないの平泳ぎや大の字みたいな格好をしたまま中途半端な位置でぶら下がっているんだ。
 根。
 植物。
 だとすると、
「ドライアド……沖合ユウコか!?」
「あなただぁれ?」
 いくつもの木の根が軋んだ音を立てたと思ったら、瞬く間に黒髪ショートが天井に引っ込む。まるで釣り上げられる小魚みたいな勢いだ。相手は不死者、こっちも下手に掴みかかって止める訳にもいかない。アークエネミー・ドライアド。個体の情報が少ないから何とも言えないけど、もしも握力はゴリラ並み、締め付けはアナコンダどころじゃ済みませんなんて話なら接触一回でおしまいだ。
天井に向かって叫ぶ。
「生徒会のナニ君だったかな? あのお騒がせ馬鹿、とっくに心が折れてるぞ。もう避難所名目を振りかざしての学校乗っ取りなんかできない!」
 返事はなかった。
 そう簡単に誘いには乗ってこないか。主導権は向こうに握られたままだ。
 上下の意味合いがぐるりと変わる。
 天井一面が、大型のワニが身を隠して獲物を待つ危険な水面みたいに見えてきた。さっきは誘蛾灯の破裂で驚かせて事なきを得たけど、あんなチャンスは何度もない。刺激は慣れるものだ。次、掴みかかられたらおしまいってくらいに考えておいた方が良い。
「マクスウェル、ヤツは調理実習室まわりの排煙ダクトに潜っているんだよな。場所を変えたら逃げ切れそうか?」
『ノー、あの勢いならステンレスのダクトを破るのは難しくありません。天井裏のスペース全体が汚染されたと見るべきでしょう』
 だと思った。
 瓦礫や消火器の粉のせいかどこにいるんだかはっきりしない井東さんも放り出せないし、それにこっちも調理実習室には用がある。早く『アレ』を回収しておかないと、一度は友達を置き去りにしてでも視聴覚室から逃げた沖合や神野が勢いを取り戻してしまいかねない。
『サメの潜む天井』のままにはしておけない。
 ヤツを物言わぬ天井から引きずり出す必要がある。考えろ、そのために必要なものは何だ。
「……天井はメチャクチャになっているんだよな。ドライアドのヤツが荒らしまくっているから」
『シュア。向こうの移動にほぼ制限はないかと』
 違う。
 僕が確認したかったのはそこじゃない。
 ドライアド、ギリシャ神話で語られる樫の木の精霊。だけどあいつは何をやっても揺るぎない絶対の存在じゃない。もしもそうなら大人達から学校を取り上げて自分達の城に改造しようなんて考えなかった。馬鹿な事をしでかした以上はそうしなくちゃならないあいつなりの事情ってのがあったはずなんだ。
 答えなんて分かりきっている。
 ヤツらそもそも『何から』避難したがっていたんだ?
「マクスウェル、排煙用の緊急スイッチを探すぞ」
『はい?』
「マイクロプラスチックの雪だ! あれを装置にしこたま吸わせれば天井は地獄に変わる。ドライアドだっていつまでも潜ってはいられ……」
 言いかけた時、いきなり空気が固まった。
 握り拳大の石でも口に詰め込まれたような圧迫感が襲ってくる。
 いいや違う。
 誰かがっ、人が天井を見上げている隙をついて真正面からお腹の辺りに体当たりを……!?
 両足なんか浮いていた。
 ヤバい、受け身なんかやり方分かんないぞ……!!
「かはァ!!」
 とにかく頭の後ろに手をやってガードしたけど、結局背中から思い切り床に叩きつけられた。息が詰まる。冗談抜きに目の前がチカチカ明滅する。
 さっきまでのドライアド、沖合ユウコじゃない。
 もう一人。
 だとするとこっちが本命、シービショップの神野セリナか!?
「いや……」
 めきめき、という鈍い音があった。
 のしかかってくる女の子からじゃない。押し潰されつつあるっ、僕の体から……ッ!?
「……ぐぶえっぶ!! ま、マクスウェ、これほんとにシービショップか!? なにかっ、がう、何か変だ!!」
 逃げ、られない!?
 言っても相手は平均的な背丈の女子だ。いくらこっちがインドア派だからって、体格だけなら僕の方が大きい。なのに抜け出せない。単純に柔道とかやってて体重の掛け方を知ってるって感じじゃない。もっとシンプルに、ぐえ、なんていうか、重いッ!? 倒れてきた大木にでも押し潰されるように……!!
 大木?
 木。
 ……まさか、考え違いをしていた……? そういえば最初に天井から落ちてきた方は自己紹介なんかしていない。何やら木の根みたいなものでぶら下げられていたけど、
「あっちが、シービショップの神野!?」
「よく、しらべたね」
 水の使い手が植物を支配していたんだと思っていた。
 でも、実は逆だった?
「だけど、じゃまさせない。セリナちゃんとふたりでいきのこるんだ……!!」
 一定以上の豊富な水がないと十分な力を発揮できないのは神野も同じ。大量の水を蓄える事のできる植物系の沖合は、神野にとっても生命線だったっていうのか!?
 けど。
 こいつらがどうして調理実習室へ逃げ込んできたのか。元からスプリンクラーで水浸し、自分達にとっては都合の良い視聴覚室を出て、他の悪友を見捨ててでもそうしなくちゃならなかった理由を考えれば。
「……ドライアド、樫の木の精霊」
「それがなに?」
「海にいるシービショップと仲良くやってるのがどうにも引っかかっていたんだ。真水と海水じゃ性質が違い過ぎる。でも、ウバメガシだったんだな。海辺に植えて防砂林なんかにするアレだ。つまり、アンタにとってはただの水よりある程度塩分があった方が都合が良かったんだ」
 シービショップが逃げ出したのは、淡水に慣れていないからだろう。ウバメガシのドライアドも以下略。そうなると、こいつらは調理実習室まで足を運んで何をしたかったか。
 塩が欲しかったんだ。
 だったら……!!
「マクスウェル、一番近い消火栓のポンプを起動。栓は閉じた状態で圧力を上げて構わない、そのまま吹っ飛ばせ!!」
『シュア』
 バンッ!! と。
 白い爆発みたいな勢いで近くの壁から大量の水が噴き出す。
 頭からまともに被った沖合ユウコが絶叫しながら僕の上から転がり落ちて、廊下でのたうち回った。
 ……塩気の強い海外でもたくましく伸びるウバメガシ。だけどこいつは適応し過ぎて、今度はまともな淡水を受け入れられなくなったのか。
「どう、して」
 一気に大量の真水に触れたからか。
 ドライアドの沖合ユウコはずぶ濡れのまま起き上がる事もできず、手足の先をぴくぴくと震わせていた。
「……セリ、ちゃん……」
 生徒会を盾にして。
 大人の先生を攻撃して。
 学校全体を混乱で包んで。
 そうやって全てを私物化しようとした集団だった。でも根底にあったのはこれだけだったのか。
 親友と二人で生き残る。
「……マクスウェル、もういい」
 僕が言った時だった。
『警告』

 硬いものが砕ける激しい音が、真上からあった。

 とっさに後ろへ倒れ込む事ができたのは、きっと前にも同じ奇襲を受けていたからだろう。
 大量の建材と、身を潜めていた少女自身の体重。
 滝のように雪崩れ込んできたそれらは、濡れた廊下で痙攣していたドライアド・沖合ユウコを踏みつけていた。
「……まだ終わっていないわよ」
「おまえっ!?」
 足蹴に。
 こいつ、ドライアドが自分と同じく真水を苦手としている事を知っていて、それでも足で踏んで……ッ!?
 木の根みたいなもので吊り下げられていた。
 主導権を握っていたのはドライアドだった。
 けど。
 言われてみればシービショップとしての『力』は、まだ見ていなかったか。
 踏みつけにされた少女の声があった。
「セリ、な、ちゃ」
「何としても生き残る、何としても! 足りないわ、だとするとこんなものじゃ全然。生徒会もダメだった、アークエネミーもダメだった、じゃあ後は誰を焚きつけたら良いの!? 私の盾は誰なのよお!!」
「……、」
 アークエネミー・シービショップ。
 神野セリナ。
 こっちもポエマーっぽいけど、だから沖合と気が合ったのか。その口振りは真意を掴みにくい。単なる自分本位なのか、もっとねじれた意味での天然なのかは分からないけど……。
「……マクスウェル」
『ノー。感情的になっても身体スペックが上昇する訳ではありません、真正面からアークエネミーとかち合う展開は非推奨です』
「誰もそんな話はしていない。協力する気がないなら黙ってろ」
 ぎょろりと、神野の目が動いた。
 僕、じゃない。
 このスマホか。

「それ、なら。私を助けてくれる?」

 だんっ!! と太い音が炸裂した。
 吸血鬼やゾンビほどメジャーじゃなくても、シービショップだって不死者だ。正面衝突になったらこっちが吹き飛ばされるのは確実。
 よって、真横。
 調理実習室の扉を薙ぎ倒す勢いで中へと転がり込む。
 神野セリナもついてきた。こっちと並行に、距離を保ったまま走り込む形で。するとどうなるか。轟音があった。廊下と部屋を遮る壁を、紙でできた障子や襖みたいにぶち抜いたんだ。
 外壁ほど分厚くなくても、壁は壁だ。
 やっぱりアークエネミー、今のだけで車の事故くらいの衝撃はありそうだっ!
「チッ!」
 調理実習室に入ったのはもちろん固定の調理台がたくさんあって武器になりそうなものにも困らないと思ったからだけど、さてどうだ。この分だとステンレスシンクなんかアルミ缶より簡単に押し潰しそうだし、武器? 包丁なんか掴む勇気はあるか、本当に!?
「ちょうだい、私を守る盾。薔薇色の人生まであとちょっと。ほしい、足を置いても壊れない踏み台! 安定こそ幸せに形を与える支え!!」
 ほんとにこのぶつ切りポエム口調で今までクラスの中心に立ってたのか? 読み解けなかったら嫌われて爪弾きだなんて、クラスメイト達にとっては災難すぎるぞ!
 急角度で切り返してこっちに突っ込んでくる神野に、この期に及んで僕が掴んだのは包丁や果物ナイフじゃなくて、デカめのジョッキにも似た形のジューサーだった。
 日和ってる、って自分でも分かる。
 思い切り振り上げて底の部分でぶん殴ろうとしたけど、相手はお構いなしだった。
 お腹の真ん中に鈍い衝撃。
 たいあた、り!?
「ぶがあっ!!」
 そのまま教卓と一体化した先生用のシンクを飛び越えて、背中から壁の黒板に叩きつけられる。冗談抜きに、一秒くらいは壁に張り付いていたんじゃないか、僕?
 バスケットボールがゴールに収まったように、すとんと真下の床に落ちる。手足がっ。起き上がろうとしても小刻みに震えるだけで言う事を効かない。呼吸が詰まるのより、自分の体が自分のものじゃなくなるような感覚の方が怖かった。
 コウモリに化けるとか。
 歌声で人を惑わすとか。
 ……そんなの以前の問題として、人間とアークエネミーじゃ膂力、筋肉の作りそのものが違い過ぎる……っ。
 ぎちゅっ、という水っぽい足音があった。ただの上履きじゃない。ゴムの底と床の間で液体を噛んでいる、特有のものだ。
 回り込んでくる?
 それとも先生用の調理台を乗り越える?
 くそっ、このシンクのせいで神野がどう動くか見えない……っ!?
「たのしかった、練っている間が。一番、話をしている時が楽しかったの」
「っ!!」
 とにかく最悪の可能性に従った。
 動かない手足じゃダメだ。腰の辺りに力を込めて身をひねり、真横に転がる。
 直後に爆音があった。
 ステンレスの調理台を丸々タックルでぶち壊した神野セリナが、そのままの勢いで黒板に半分体をめり込ませたんだ……っ!?
「実際どう?」
 変わらない。
 声も表情もそのままキープ。こいつ、今ので僕が避けてなかったら人殺しになっていたかもしれない事を、何とも思っていないのか!
「叶えてみれば何か変わった? 何だか心の毒みたい。結局、夢物語だったのね。私達の国なんて、計画を立てている間が一番楽しかった」
 シュウシュウとガス漏れの音が響く中でも、シービショップは顔色を変えず、冷静に体を壁から引っこ抜く。こういう時、黒板っていうのは割れないんだな。そりゃ磁石が吸い付くんだから、基本的には鉄板って事か。何だかどうでも良いところで感心してしまう。
 思考が逃げている。
 ピントを合わせなくちゃ生き残れないっていうのに!!
「……後悔でもしているっていうのか、今さらになって」
「退屈な作業が積み上げられているのよね」
 ざらざらざら、と。
 壊れた調理台の下、収納スペースから何か白い粉が床の水たまりにこぼれていた。塩か、砂糖かは見た目じゃ分からない。けどドライアドと違ってこいつは水にさらされても普通に動き回っている。きっと不足していた塩分の補給に成功したんだ。
「でもやる。退屈だけど。いったん手に入れてしまったんだもの、手放すのも惜しくて。山のような作業があるの。退屈よね。きっと雁字搦めで自由なんかないんだわ」
「……っ!」
 結局、学校の支配者になりたがる心はなくならないか。塩の袋でも抱えてとっとと外へ逃げ出してくれれば、これ以上の諍いなんか何もないのに。
 ここをパニックの爆心地にする訳にはいかない。
 騒ぎが学校に留まるとは限らない。子供達だけの避難所なんて最初から破綻してる。『統率された暴徒』の群れが街のコンビニや一軒家を寄ってたかって襲撃するようになったら、供饗市の危険度が一気に跳ね上がる。ダイアディックグループの実験。個人では我慢できても、集団になると箍が外れるのは心理学で証明されているんだ。アユミや姉さん、委員長に井東さん。侵攻に任せたら誰が犠牲になるか分かったものじゃない。
 ……やらせるか。
「マクスウェル……」
「悪よ。学校を避難所にしたい、これだけなら誰でも願っている事。無理して場を荒らすあなたは悪。放送で名前を明かしたら楽しい楽しい公開処刑が始まるわね」
「……、」
「警察はやってこない。私達がルールになる、あなたはその第一号。分かりやすい例。だからあなたは悪になるの。みんなの手で穴を埋めれば、誰もがルールを信じてくれる。生き埋めって怖いものね」
 誰もそんな話はしていない。
 というか、途中から話がズレているとも思う。
 確かにこの学校を無秩序な城にしてしまうのは危ない。誰にも管理されない非公式。留まっている生徒達は解散させないと暴徒の巣になってしまう。でも、それは避難所を奪う事とイコールにはならない。
 忘れたのか。
 ここは全国的に見ても災害が多い事を逆手に取った防災研究の街で、その地下には『光十字』が根を張っていたんだ。
 あの組織は僕がぶっ潰したけど、その遺跡が全部撤去された訳じゃない。
 そう。
 例えば、

「マクスウェル、地下シェルターへの大扉にアクセス。ロックを解除しろ!」

 こういう手も使える。
 元々は各家庭の地下からアークエネミーをさらうための誘拐用のトンネルだったようだけど。
「ガラスが割れて床は水浸し、マイクロプラスチックの雪の侵入まで許した即席避難所の校舎と、街の隅々まで張り巡らせた本格仕様の地下シェルターなら、どっちが人気を掴み取るかな?」
「……、」
「アンタの特権はこれで終わりだ。みんなが逃げ込む先は学校の一択しかない訳じゃない、自分で見比べて選べる環境さえ与えれば誰もこんな場所には残らない!!」
 ただし。
 実際にはこれ、何の意味もない。
 地下にあるのはトンネルだけで、水や食料の備蓄はないからだ。それに今は清潔でも、何度も大扉を開け閉めすれば結局は『雪』が入り込んでしまう。
 だけど、だ。
 ……人はどれだけ興奮していても、移動の間は無言になるものだ。つまり、思考に空白期間を設けてクールダウンを促せる。学校でも地下シェルターでも条件は同じ。備蓄のない大きなハコモノにいても助けにならないと分かれば、『どちらにも残らない、自宅に帰った方がマシ』という答えが分かるはず。
「こっちは暴徒化さえ抑え込めれば何でも良い。別に学校の連中が憎い訳じゃないんだ」
 根本的な解決にはなっていない。
 水や食料の話は死活問題だ。
 だけどマイクロプラスチックの『雪』は永遠に続く訳じゃない。沖合いの貨物船の火災事故。あれが何とかなれば収まるし、街の外の人達だって何も考えていない訳じゃない。
 騒ぎは伝わっているんだ。
 今の状況は、言ってしまえばエレベーターで宙吊りにされているのと同じ。
 この場合は、じっと耐えてプロのレスキューを待つのが正解。外に出られない、ものが足りないからってプレッシャーに潰されて自暴自棄な行動に出る方が一〇〇倍危ないんだ。
 神野セリナは首を傾げていた。
 そのまま平坦な声で言う。
「……手放すのは惜しいって言ったわよね」
「ああ。だったら全校生徒を無理矢理ここに押し留めて、閉じ込めてみたらどうだ? ただしその場合は、今度はアンタが悪ってみなされるだろうけどな」
 善だの悪だのなんて、こんなものだろ。
 絶対のモノサシじゃない。
 大勢が目指すゴールをどこに置くか。それだけでみんなあっさり掌を返す。少なくとも、そいつを操って手元に置きたがったアンタ自身が正義のあやふやさを嘆くのは筋違いだ。
「閉めるわ。シェルターを閉じればやり直せる」
「無理だ」
「そいつをこちらに渡しなさい、その鍵っ、スマートフォン!!」
「マクスウェルを奪っても、こいつはアンタの命令なんか聞かない!」
 ぎっ、と。
 筋肉の軋む音がここまで響いた。
 こいつ、ほんとに僕をトラック事故みたいな格好で叩き殺す気か。『雪』が解決して街の封鎖が解けた時にどう見られるか、そんな事にも頭が回らずに……!!
 体当たりがくる。
 ちくしょう、手足はまだ動かない。
 次は体を転がしても避けられそうにないっ!!
 直後だった。

 ボッッッバッッッ!! と。

 弾けた。
 炸裂した。
 息が詰まる。衝撃波で校庭側に面した窓が一斉に砕けていく。
 けど。
 それは神野セリナの体当たり、じゃない。
「ぎっ」
 顔を押さえて。
 床に倒れて、そのままのたうち回っていた。
「ああああ! ああああああああああ!!」
 海老みたいに体を丸めてバタバタと手足を振り回している神野は、何だが出来損ないのネズミ花火みたいだった。
 ガス、爆発?
 確かに調理台を壊した時にガス管も破れていたようだけど、ただの偶然でそんな都合良くいくとは思えない。
「はあ、はあ……」
 引き戸のない出入り口の方で、手をついて寄りかかる影があった。
 最初の奇襲で姿を消した人。
「井東、さん?」
「……大丈夫でしたか、先輩」
 空いた手は、何かを振り抜いたようだった。あるいは投げたのか。黒板は鉄。ものによっては火花も散りそうだけど……。
 小さな後輩の井東ヘレンは、床から起き上がれない僕の手を取り、肩を貸してくれた。こっちは水や瓦礫の細かい破片で制服がぐちゃぐちゃなのに、彼女は嫌な顔一つしない。
 けど。
 どうして良いのか。
 素直にありがとうって言えば正解か。僕は詰めを誤ったかもしれない。もっとしっかりしていれば、井東さんが暴力に頼る必要はなかったはずだ。
 のたうち回る神野セリナに向けた僕の視線に気づいたんだろう。後輩ちゃんは自嘲気味に小さく笑ってから、
「……あれくらいじゃ死んだりしませんよ。私達はアークエネミーですから」
『同族』だからか、かえってドライな調子で彼女は言った。
 けどこれで、ひとまず学校が暴徒の巣に変貌する展開だけは阻止できた、か。地下シェルターに向かった生徒達は隅々まで歩き回って絶望するだろうけど、それで冷静さを取り戻すはずだ。
 学校も地下トンネルも同じ。
 物資のない、大きいだけのハコモノに留まっても好転しない。
 余計なしがらみがないだけ、実は自宅の方が快適だって。
「……不毛だ」
 事態を解決したってご褒美をもらえる訳じゃない。水や食料は減る一方で、マイクロプラスチックの大火災はいつどこで発生するかも分からないまま。
 そしてまた一つ、いつものサイクルが壊れた。
 僕達生徒が勝手に納得して矛を収めたって、命を狙われた先生達は再び集まるのか。明日から学校の授業はどうなるんだろう。
 ……とにかくこのまま学校に残っていても、良い事はなさそうだ。
 今が何時間目かなんて考える必要はないだろう。クールダウンした生徒達が離れていくのを確認したら、僕も家に帰るか。
「……?」
 わあっ、という声が遠くから聞こえてきたのはその時だった。
 スタジアムの歓声にも似た……。
 けど何だ? 僕が解放した地下シェルターの大扉の方じゃないみたいだぞ。
「先輩……」
 さっきとは打って変わって、だった。
 僕に肩を貸してくれる井東さんから、小さな震えを感じた。歓声にネガティブな印象を覚えるのは、かつて巻き込まれた『コロシアム』の記憶が呼び起こされるからか。
「マクスウェル、防犯カメラにアクセスできるか? 例の歓声は校舎の外みたいだ。校門とか駐車場とかのカメラなら何か見えるかもしれな……」
『警告』
 嫌なふきだしがあった。
 さらに続けて、
『システムは当初から同じ警告を続けてきました。マイクロプラスチックの「雪」は人為的な攻撃の可能性が極めて高い事。それからアークエネミー・スキュラ、海風スピーチアの言動には不自然な点が見られる事です』
「……何だ? 何で今その二つが」
『推奨行動を説明します。体育館に繋がる連絡通路から外に出てフェンスを乗り越えるのが、最もリスクを抑えてここを脱出する方法となります』
 要領を得ない。
 スマホの画面に防犯カメラの映像も映してくれないようだ。余計な注意を引きたくないのかもしれないけど、こっちはこれを確認しないと落ち着かないんだ。
 井東さんと顔を見合わせ、それからゆっくりと歓声の元へ目をやった。とはいえ、特別な行動はしていない。ガラスの割れた窓に近づいて、雪で覆われた校庭を見渡したんだ。
 音の塊が爆発した。
 何か大勢の人が集まっていた。

「こいつだ!! 放送で俺達を煽ってやがった生徒会の山垣とかいうヤツ!」

「馬鹿にしてんじゃないの? 学校のコントロールなんかできると思ってたワケ!?」

「やっちまえよ。『雪』ならいくらでもあるんだ、埋めちまえ。ぶっち殺せェェェーえっ!!」

 どァあ!! と。
 耳っていうより、全身の肌を直接ビリビリ震わせるほどの、狂乱の叫びだった。
 ……くそ。
 あのノロマ。人がせっかく見逃したっていうのに、勝手にヘマして捕まったのか!?
「ど、どういう事なんでしょう。先輩、学校の乗っ取りしようとしていた人達はそこに伸びているんですよね。まだ誰か、みんなを焚きつける人がいるんでしょうか」
「いいや……」
 怒っているのは生徒達。
 校内放送から始まって、今の今まで良いようにコントロールされていた側だ。そして誰だって簡単に騙されるけど、誰だって騙されたと分かれば怒る。
「正義なんてこんなもんだ。その時その時で、自分にとって一番都合が良いものに乗り換えていく。宗教家や修行僧じゃないんだ、死ぬまで一つの考えなんか貫くもんか」
「じゃあ……」
「矛先が変わったんだ。僕達からあいつらに」
 支持を失えばこんなもの。
 失墜した裸の王様がどうなるかは言うに及ばず。
 だけど。
 今ここには大人の先生も警察もいないんだ。自業自得でハイおしまいなんて流せる状況か? 必要な事だった。でも、生徒達の目を覚まさせたのは地下シェルターの大扉を開けた僕なんだぞ。
 ばた、ばた、ばた、ばた!! と。
 天井から、踏み荒らすような足音があった。それから何かが暴れる音と悲鳴。
 始まっている。
 何か得体の知れない、歯止めの効かない事態が。
「いたぞ。ここにもいやがった!」
 突然の罵声にびくりと震える。
 だけどズタボロの調理実習室に踏み込んできたガタイの良い男子達が注目しているのは僕達じゃない。
 シービショップの神野セリナ。
 それから廊下で腕をねじ上げられて呻き声を出しているのは、ドライアドの沖合ユウコ……。
 捕まっているのは生徒会の会計だけじゃない。視聴覚室で倒れていた連中も?
 僕はシェルターの扉を開けただけ。
 校内放送をやらかした地味会計はともかく、こいつら、何でここまで正確に黒幕連中を割り出せるんだ。あの五人の面は割れていないはずなのに。
 ……。
「いや、まさか」
「先輩?」
 下手に注目を集めるのはまずい。
 逆らったら殺される。
 そう分かっていても、思わず掠れた声が出ていた。
「なにを……何をするつもりなんだ?」
「分かってるってこの惨状だ、あんたらだって相当ひどい目に遭ってきたんだろ」
 答えたのは僕より頭一個分は背の高い、体育会系って感じの男子だった。
 焼き切れたような怒りじゃない。
 にやにや笑い、でもない。
 正義。
 喜怒哀楽の四つよりもパッキリと分かれた、だからこそ胡散臭い勇ましさで男子生徒の一人が言ったんだ。
 光十字、コロシアム、アブソリュートノア、色々な正義の形は見てきたけど……。
 頭からストッキングを被った強盗だって、もう少しは人間みたいな顔を保つんじゃないか?
 彼は壊れた調理台の残骸と一緒に転がっていた、ステンレスの包丁を拾い上げる。緊張感が跳ね上がる。だけどそいつは刃の方を摘んで、グリップをこっちに差し出してきた。
「あんたに譲るよ」
「……、」
「こんな横暴を野放しにしちゃダメだ、それはあちこち傷だらけなあんたの方が良く分かるだろ。だから譲る。あんたの手で処刑しろ、平和を取り戻すんだ」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ッ!?」

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第二章

【crawler search】避難生活【you need word!】

 大規模な災害や事件などで自宅での一般生活の継続が困難と判断された場合に取る非常措置の一つ。単純に現場から離れた親戚宅やウィークリーマンションなどを頼るケースと、行政の手によって設営された避難所または仮設住宅に身を寄せるケースが挙げられる。
 後者の場合、設営のゴーサインを出す条件は様々で、電気ガス水道など公共インフラの長期中断による生活基盤の破壊や、水害や火山活動などで被害住居が同じ条件から抜け出せない限り何度でも繰り返し被害に見舞われるリスクを拭えない場合などが挙げられる。
 非常時には迅速な設営が求められる避難所だが(だからこそ、と言うべきか)その決まり事は厳密に定められており、開けた場所ならどこでも避難所にできる訳ではない。また、収容人口や経済への影響も考慮してそのサイズは計算されるため、被災地に居合わせれば誰でも無尽蔵に利用できる訳でもない。
 例えば一つの県や市で災害が発生した場合、優先は住民票に登録された地域生活者となり、エリアの外からの通勤通学や旅行者の順位は下がる、とされている。
 また、医者や消防士など資格や特殊技術の持ち主が優先されるのも有名という説もある。

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